2013年12月31日火曜日

今年最大の「偽装」はぼく自身でした

各位

「関口康が選ぶ THE BOOK OF THE YEAR(今年最高の本)2013」は、

やろうかなと思っただけで、できませんでした。申し訳ございません。

そういうことを考えている心理的余裕がない、険しいつらい一年でした。

「偽装」という言葉をよく見かけた一年でもありましたが、

ぼくにとって今年最大の「偽装」は、ぼく自身だったなと思っています。

ブログやfacebookやツイッターの明るい書き込みも、

人前に見せる顔も、

すべて「偽装」。

そういうのはね、だいたいすぐにバレるものですけどね。

今年最後の一句。

「偽装して いると思っているのは 自分だけ」(字余り)

皆さまどうか良いお年をお迎えくださいませ。それではまた来年。

2013年 大晦日

関口 康

2013年12月30日月曜日

日記「ぼくのカンコレです」


ぼくのカントコレクションです。(カンコレ)

カントの本はあともうちょっとだけ持っていますが、とりあえず主要なものだけ公開。

ぼくが岩波文庫の『純粋理性批判』を最初に買ったのは、東京神学大学に入学した年だと思うので、18歳です。今からちょうど30年前です。

高校の倫理・社会で名前だけ覚えて、興味は持っていました。

しかし、岩波文庫を読んでも分からず、天野貞祐訳の講談社学術文庫版を読んでも分からず、でした。

とにかく30年、カント、カントと思いながら来ました。

2008年1月に始めたこのブログ「関口康日記」も、いちばん最初の話題はカントでした。

ぼくの記憶が正しければ、dogmaticという言葉を見れば独断論的と訳す、というルールをぼくが最初に教えられたのは岡山朝日高校の倫理・社会の授業だったはずです。

そして、今のぼくの最も主要な神学的関心事は、くだんのDogmaticsです。

果たしてぼくが取り組んでいるのは「独断論」なのでしょうか、それともーつの正規に自立した一学問分野としての「教義学」なのでしょうか。

ぼくは30年以上、この問いに悩まされ続けてきたと言っても決して過言ではありません。

それはカントの問題提起です。

現代の教義学はカントの問題提起に誠実に応えることなしに前進することは不可能だと思っています。

東大の熊野純彦先生訳の「純粋理性批判」欲しい!

だけど8000円以上する!

我慢だ我慢!

英語版でしのげ!

2013年12月28日土曜日

ファン・ルーラーについての拙論の掲載誌が10冊目になりました


『途上』第28号の発行により、ファン・ルーラーについての拙論(翻訳含む)が掲載された雑誌・紀要は、ちょうど10冊目になりました。

最初の掲載誌は、『形成』第327号(2002年1月号)でした。当時のぼくは山梨県民でした。

拙論掲載の『途上』第28号が発売されました


『途上』第28号が発売されました。

常葉謙二先生による「編集後記」から引用させていただきます。

「遅ればせながら、『途上』第28号の刊行に至りました。本号の特質は、常連の水垣氏・小泉氏の論考に加えて、野島邦夫・関口康・田上雅徳・吉馴明子の4氏が新たに寄稿されたことでしょう。4氏とも『途上』にとっては新顔ですが、それぞれの分野・専門では既に活躍中の研究者であり、今回の論考もおのおの鋭い問題提起を携えた濃い内容の力作であります。」

目次

水垣 渉「思考者パウロとその高揚した語り―ローマ書8:38-39を中心にして―故泉治典氏の記念に」

野島邦夫「パウロにおけるεις δοξαν θεου定式について」

小泉一太郎「19世紀オックスフォド大学史 7」

関口 康「A. A. ファン・ルーラーの神学思想の特質」

田上雅徳「逢坂元吉郎、未完の政治神学」

吉馴明子「日韓のキリスト教と田中剛二の『政教分離』」

編集後記

発行日   2013年12月25日
編集・発行 思想とキリスト教研究会(大村晴雄)
発行所   キリスト新聞社出版事業課
価格    本体1,700円 送料240円
ISSN 0388-2179
ISBN 978-4-87395-647-3 C0016(日キ販)

ぜひお買い求めください。よろしくお願いします。

2013年12月24日火曜日

クリスマスイヴも「らせん階段」で目を回している牧師のぼくです


こういうのを「らせん階段」ていうんですかね。

何年か前から牧師仲間の一人から、

ぼくがこれまでいろんな雑誌や紀要に書き散らしてきた

ファン・ルーラーについての論文や文章を

一冊の本にしろ、と言われているのですが、

しそびれています。

同じ雑誌や紀要に連載したようなものなら、まとめやすいのですが、

かれこれ5つほどの雑誌・紀要に書いてきました。

それぞれの読者層が異なるので、

雑誌・紀要ごとに、いちいち事のイロハから書き起こす必要があり、

全部を一つにまとめると、かなりの重複箇所があるのです。

それを自分で編集しなくてはならないのですが、

それが面倒くさいんです。

書き散らしたものを今さら読み返してまとめる、という作業をするのが、

後ろ向きな姿勢のように思えてしまって、

ぼくの脳が拒絶反応を起こすんです。

しかし、

ぼくの恩師から言われた言葉ですから、自慢げに書かせていただきますが、

「関口くん、どんなにいいこと言っても、

 単行本にしなきゃ誰も関心持ってくれないよ」

と昨年3月に言われました。赤木善光先生です。

とかなんとか、モタモタしているうちに、どんどん新しい研究者が参入してきて、

ぼくの出番は無くなるのでしょう。

いっそ、そうなってほしいのですが!

ファン・ルーラー、面白いですよ!

みんなでオランダ語を読みましょう!

(あとは、大きい声では言えませんけど、

単著の出版には、やっぱりある程度「立場」が必要ですよね。

経歴とか肩書きとかいう意味じゃないですよ。

なんていうか、

その本をその人が書くことの必然性(necessity / nootzakelijkheid)を

客観的に保証してくれるような「何か」。

大学にも神学校にもアクセスしたことない人間(ぼくのことですよ)は無理ですね。

市井の一マニアの本で悪いわけではないですが、

そんなのは開学400年の伝統を誇る超名門・ユトレヒト大学神学部の

有名教授ファン・ルーラー大先生の業績を扱うのにふさわしい態度ではありませぬ。

なんたって、2007年から刊行が始まった新版の『ファン・ルーラー著作集』の出版祝賀会で

「これは国民的事件(nationale belang)だ!」と騒ぎになったほどですからね。

日本のファン・ルーラー研究も「立場」ある人にやってもらいたいです。

いつまでもネタみたいな扱いのままだと、相手に失礼です。

ぼそぼそ)

2013年12月23日月曜日

わたしが命のパンである

ヨハネによる福音書6・34~40

「そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその日を終わりの日に復活させることだからである。』」

今日皆さんに覚えていただきたい聖書の御言葉は、たった一言です。

それは「わたしが命のパンである」というイエス・キリストの御言葉です。

この御言葉が出てくるのは、新約聖書のヨハネによる福音書の6章35節です。その前後の文脈が分かるように、いま少し長めに朗読しました。

イエスさまが「わたしが命のパンである」とおっしゃった文脈は、イエスさまとイエスさまのもとに集まって来た群衆との対話です。

その「群衆」の中にいたのはイエスさまの弟子たちだけではありません。イエスさまの弟子とはイエスさまを信じている人のことです。しかし、そこにはまだイエスさまを信じていない人々もいました。その人たちの前で、イエスさまは「わたしが命のパンである」とおっしゃったのです。

そのときの状況について聖書に記されているのは次のようなことです。イエスさまのお話を聞くためにたくさんの人が集まって来ました。なんと5千人もの大集会が行われたというのです。

すると、そのときイエスさまが、一つのことを気にかけられたというのです。なんとイエスさまは、ご自分の話を聴くために集まって来てくれた5千人の人々の食事の心配をしてくださったというのです。みんなお腹がすいただろうと心配してくださったというのです。しかし、イエスさまの弟子たちは、5千人の食事の準備などは考えてもいませんでした。

そこでイエスさまは一つの奇跡を行われたというのです。一人の少年が持っていた大麦のパン5つと魚2匹を手に取られ、それを5千人の人たちにお分けになりました。

どういう方法でかは分かりません。とにかく5千人で分けた。すると、みんながそれで満足し、満腹したというのです。驚くべき奇跡です。

それでどうなったか。イエスさまを信じる人たちが増えたというのです。驚くべき奇跡的な出来事を目の当たりにして、それをきっかけにして、イエスさまを信じるようになった人たちがいたというのです。わたしたちも信仰の道に入るときには、いろいろなきっかけがあります。

ところが、イエスさまは、その人々に対して、ものすごく厳しいことをおっしゃいました。それは震えあがるほど厳しい言葉です。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(6・26)。

イエスさまがおっしゃっていることの意味は、あなたがたは、私を信じているのではなくて、ごはんが食べたいだけなのだ、ということです。

ごはんを食べさせてくれるから、わたしのもとに集まっているのだろう。ごはんを食べさせてもらえなくなったら、わたしのもとから去るだろう、ということです。これは厳しい言葉です。

しかし、その人たちにも言い分がありました。彼らはイエスさまに言いました。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」(30節)。

あなたを信じることは、やぶさかではない。信じろというなら、信じてもいい。だけど、そこまで言うなら、あなたを信じるに価するだけの根拠を見せてくれ、それを見せてくれるなら信じてあげてもいい、というわけです。彼らの言い分も、よく分かります。

その人々に対してイエスさまがおっしゃったのが「わたしが命のパンである」という御言葉でした。その意味は、「わたしがパンだ。わたしを食べなさい」ということです。

これはとてもひどい話だ、人の体を食べるという話なのか、気持ち悪い、というような意味のこととして聴いた人たちもいたようです。しかし、イエスさまがおっしゃっていることは、もちろんそのような意味ではありません。

しかし、それでは、イエスさまがおっしゃりたいことは、何でしょうか。考えられるのは、次のことです。「イエスさまを食べる」とは、イエスさまの存在を丸ごと受け容れることです。イエスさまを丸飲みすることです。それはイエスさまを心から愛し、共に生きることです。

気持ち悪いでしょうか。そういう面もあるかもしれません。しかし、たとえば結婚の直前や直後のカップルは、相手を食べてしまいたい(?)と思うくらいの気持ちを持っているのではないでしょうか。

もちろんお互いは独立した人格同士ですから、食べてしまってはいけません。しかし、「愛する」というのは、相手と自分を明確に区別することができないほどに、いつも一緒にいたい、一緒でありたいと願うことです。

イエスさまを愛すること、イエスさまの御言葉に従い、イエスさまの行いを模範にして生きること。それが「イエスさまを食べること」です。そのことをイエスさまは、ご自分の弟子たちに対してだけではなく、まだイエスさまを信じていない多くの人たちにお勧めになったのです。

それは、わたしたちにとって毎日の食事に匹敵するほど大切なことです。いま私は「匹敵するほど」と言いました。どちらが大事なのか、というような比較はできません。両方、大切です。

両方が大切であるということは、イエスさま御自身のお考えでもあります。イエスさまがそういうお考えでなければ、5千人の人々の食事の心配などなさったはずがないのです。

「食事のことなどどうでもいい。そんなことは個人の自己責任だ。わたしには関係ないことだ。食べずに我慢しろ。そんなことよりも、わたしの話を聴くことのほうが大事だ」とは、イエスさまはおっしゃいませんでした。

ですから、私も牧師として、そのようなことを言ったことは一度もありません。毎日の食事のことなどどうでもいい。それよりも信仰のほうが大切だ。そのようなことを考えたこともありません。

日々の食事の問題は、わたしたちの人生の大問題です。それはイエスさまを信じることに匹敵するほど重要です。

しかし、そのことを十分に確認したうえで、もう一言付け加えさせていただきたいことがあります。

毎日の食事のためだけに働くことには、どこかしら空しさが伴います。その人生にプラスアルファが欲しくなります。汗水たらして働いて、その全精力を自分と家族の生活だけに費やしてしまうということには、空しさが伴います。

生活の余裕など1ミリもないかもしれません。それもよく分かります。しかし、だからと言って、世のためにも、人のためにも、そして神や教会や宗教のために、1ミリの関心も持たないというような人生になってしまってよいでしょうか。そこには空しさが伴います。

人生のプラスアルファとしてでもいいです。イエス・キリストを信じてみませんか。「命のパン」を食べてみませんか。イエスさまが願われたことは、そのことです。

(2013年12月23日、松戸小金原教会クリスマスキャンドル礼拝)

2013年12月22日日曜日

愛用マシン大公開

私がメインで使っているマシンは自作です。外箱は10年以上前のものです。

CPUはセレロン E3300(2.50GHz)です。デュアルコアです。

ハードディスクは、壊れたノートパソコンから引き抜いた3.5インチのものです。

フロッピードライブ、CD-ROMドライブ、DVDドライブ、いずれも作動しません。

不要なので電源を引き抜いているからでもあるのですが、電源をつないでも動きません。

ちなみに、奥のコンセントに差し込まれている握りこぶし大くらいのプラグは

「電力線通信」(PLC)の親機です。

電力線を利用して、

無線LANが届かない二階の事務室のパソコンをネット回線につないでいます。

クリスマスプレゼントをいただきました

教会から牧師へのクリスマスプレゼントです。ありがとうございます。


2013年12月21日土曜日

50年くらい前の日本のほうが今より良かったのかもしれませんね


これで今日の最後にします。

「屋根裏から出てきました」と貴重なものを見せていただきました。

ぼくは東京オリンピック(1964年)の翌年に生まれました。

50年前くらいの日本のほうが今より良かったのかもしれませんね。

んなこと言っても意味ないことですが。

2013年12月20日金曜日

アマゾン速いなあ(感動)


今日もなんだか調子に乗って更新頻度が高くなってしまいましたので、そろそろやめますが、

昨日アマゾンでポチッと注文した本(左)が、もう今日届きました。

ロラン・バルト『エクリチュールの零度』(ちくま学術文庫、1999年)

アマゾンに拍手!

キリスト新聞最新号の1面に「ファン・ルーラー研究会」発起人が登場!


キリスト新聞最新号(2013年12月25日号)1面にクリスマス説教と共に紹介されている清弘剛生先生は、

ぼくが今日メーリングリストの廃止という悲報をお知らせした「ファン・ルーラー研究会」をぼくと一緒に立ちあげてくださった共同発起人です。

マジレスしますが、清弘先生のおかげで今のぼくがあります。大の恩人です。

さっき開いた紙面にドーンと清弘先生が登場して、腰が抜けました。

清弘先生、これからもよろしくお願いいたします。

「ファン・ルーラー研究会」メーリングリスト終了のお知らせ

たった今、以下のメールを「ファン・ルーラー研究会」のメーリングリストに送信しました。

寂しいかぎりです。

-----------------------------------------------

ファン・ルーラー研究会の皆さま、こんにちは。関口です。

という書き出しのメールを送ることができなくなって、どれくらい経つでしょうか。

本当に申し訳なく思っています。心からお詫びいたします。

このたび、yahooグループから「サービス終了のお知らせ」が届きました。

来年(2014年)5月28日(水)午後3時(予定)をもって、

yahooグループ(メーリングリスト)の全サービスが終了するとのことです。

それに伴い、ファン・ルーラー研究会の過去ログも、名簿も、すべて消去されます。

1999年2月20日の結成以来、15周年を迎えようとしているこのメーリングリストですが、

これも一つの定めのような気がします。

ファン・ルーラーの神学の研究と翻訳は、

私自身は、細々とではありますが、継続しています。

また、オランダのアペルドールン神学大学に5年間留学しておられた石原知弘先生は

無事帰国されました。

石原先生が同神学大学に提出された

ファン・ルーラーとノールトマンスを比較する修士論文は

「最優秀賞」(cum laude)を受賞されました。日本の神学史に覚えられるべき快挙です。

日本キリスト教会の栗田英昭先生は、同教会神学校の紀要『教会の神学』誌に

ファン・ルーラーについての研究論文をずっと書き続けておられます。

ファン・ルーラー研究会メーリングリストの15年は、

無駄でも無意味でもなく、多くの豊かな実を結んでいると、私は信じています。

日本語版『ファン・ルーラー著作集』はいまだに実現しませんが(申し訳ございません)、

主の御心ならば、我々の願いは叶えられるでしょう。

皆さまのこと、決して忘れません。みなさま、これまで本当にありがとうございました。

2013年12月20日

関口 康

2013年12月19日木曜日

日記「これが『零度のエクリチュール』ですか、ロラン・バルト先生?」

「アドベントなのに何やってんの?!」

と叱られそうですが、

30年前ほど前に買ったロラン・バルトの『零度のエクリチュール』(みすず書房、1971年)を引っ張り出して読みなおしています。

フランス語をちゃんと習ったことがないので、著者の思想を一度もまともに理解できたためしはないのですが、

なんと言ったらよいのか、

そう、たとえば、facebookだとかツイッターだとかブログみたいなところ、

原稿用紙ではないところにかなりの面で衝動的に書きなぐる言葉(これがパロールですかね)というのは、

ロラン・バルトのいう「零度のエクリチュール」のようなものかな、違うかな、など考えてみています。

30年前にはfacebookもツイッターも無かったので、そういう読み方をすること自体がありえないことでした。

ネット時代にロラン・バルトを再読する。

アドベントなのに、道草くってます。どうもすいません。

この本を買ったのは1985年前後だと思います。浅田彰さんのブームがあって、こういう本が書店にあふれていました。流行に遅れまいとカッコつけて買ったものです。

ゼンゼン理解できませんでしたけどね。

あ、でも赤鉛筆の線が見つかったりするので一応読んだんだなと。

2013年12月17日火曜日

「黙想」ってね、目つぶってうーんて唸ってるだけじゃ意味ナイですよ

リアルのぼくをご存じの方は、

「○○依存者」というようなものとぼくはかけ離れているということを、

どなたもご存じです。

ぼくは「依存」しないし、してないです。

ネットを多用していることは認めますが、

どのみちパソコンで作成している文書を、オフラインで書いて、

そのままオンラインでネット上に公開しているだけです。

しかも、ぼくがネットに公開していることといえば、

説教原稿、外国神学書の私訳・超訳、自作料理の写真、時事の話題、

くらいです。

つまり、ですね、

ぼくがネットに書いていることは、

戦後の教会で流行してきた「説教黙想(メディテーション)」と、

本質的に同じだと思っているのです。

伝統的な神学用語で言えば「信仰の適用」(application of fath)です。

戦後の「黙想運動」の方々がいま生きておられたら、

ぼくが考えていることに、きっと同意してくださると思います。

ファン・ルーラーも「黙想集(メディテーション)」を多く出版しました。

「黙想」ってね、目つぶってうーんて唸ってるだけじゃ意味ナイですよ。

むしろ目を開けて、世界の現実を凝視しなくちゃ。

教会員一人一人の顔と願いを思い浮かべる「だけ」でも意味ナイです。

それだけだと、「伝道する気ない牧師だ」と責められても仕方ない。

だって「伝道」とは教会の外にいる人たちを教会の内へと招待すること。

そうだとしたら、「黙想」にとって不可欠なことは、

(今はまだ)教会の外にいる人たちの関心を徹底的に知り、

その「関心」と、聖書のみことばとの関係を徹底的に考え抜くことです。

その「黙想」のプロセスをすっ飛ばしてしまったら、

伝道の熱心は「空を打つような拳闘」(Ⅰコリ9:26)に浪費するばかりです。

平たく言えば、教会の声は世間に届かない。

「届ける気がないんでしょ」と、すぐに見抜かれてしまいます。

おっと、

(Ⅰコリ9:26)というのも暗号っぽかったですね。すみません。

新約聖書のコリントの信徒への手紙一9章26節のことです。

2013年12月15日日曜日

家畜小屋の中で救い主がお生まれになりました

ルカによる福音書2・1~14

「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」

いまお読みしました聖書の個所は、毎年クリスマスが近づくたびに、またはクリスマス礼拝当日に読んできた個所です。ここに記されていることの中で最も大切なことは、わたしたちの救い主イエス・キリストがお生まれになった場所はどこなのか、ということです。それを示す言葉がキーワードです。

そのキーワードは「飼い葉桶」です。飼い葉桶があるのは家畜小屋です。つまりイエスさまは家畜小屋の中でお生まれになりました。

言うまでもないことですが、家畜小屋は人間の住む場所ではありません。まさか当時、人間の住む場所はどこにもなかったという話ではありません。「宿屋には彼らの泊まる場所が無かったからである」(7節)と記されています。宿屋はあったのです。しかし、彼らの泊まる場所がなかったのです。

ローマ皇帝アウグストゥスの命令で当時ローマ帝国の支配下にあったユダヤ王国の人々がそれぞれ自分の町へ帰って住民登録をしなければならなくなりました。ユダヤ人たちは遠い町への移動を強いられ、国じゅうは蜂の巣をつついたような状態になり、宿屋はどこも満室でした。だからイエスさまは家畜小屋でお生まれになりました。人間の住む場所ではないところでお生まれになったのです。

この個所を改めて読みながら考えさせられたことがあります。それは、ローマ皇帝アウグストゥスにとっては、自分の下した命令によって動かす人々がどんな目にあおうと、どんな苦しみを味わおうと、そんなことはどうでもよかったに違いないということです。

ヨセフとマリアにとって、初めての子どもをそのような場所で産まなければならなかったことは、悲劇という以外に表現しようがないことだったに違いありません。しかし、そのようなことは現実に起きます。

一国の権力者の目から見れば、国民一人一人はまるで飛行機の上から地上を見るとそこに見えるごま粒のように小さい人間の姿かもしれません。しかし、その人々も確かに人間です。ごまではありませんし、家畜でもありません。

国民一人一人の姿がちゃんと人間として見えているならば、一つの命令を下す場合でも、その結果、国民の一人一人がどのような目にあうのかということを丁寧に考えるでしょう。だれ一人不幸にならず、少なくとも人間として尊重されるように配慮がなされる政治を行うでしょう。

しかし、そのようなことに全く関心を持たない、国民の一人一人がどうなろうと関係ないと思っているような政治家は、ただのファシストです。

先週は、ユダヤの国のヘロデ王の悪党ぶりをお話ししました。これで分かることは、イエスさまがお生まれになったときのユダヤの王も、そして今日の個所に登場するローマ皇帝アウグストゥスも、ファシストだったということです。

悪党が政権を握ると国民は不幸になります。イエスさまがお生まれになったのは、まさにそのような時代でした。ほんの一握りのファシストのとりまきたちが政治的・軍事的に大多数の国民を支配し、国民の富を独占する。それによって国の中に経済格差が起こる。貧しい人々は苦しみを味わうばかりです。そういうことが現実に起こるのです。

そのようにして生み出される貧しい人々の代表的な存在が、今日の個所に登場する「ベツレヘムの羊飼い」です。

羊飼いたちは「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をして」(8節)いました。彼らは「野宿」をしていました。野外生活者です。「夜通し」働いていました。夜に寝ないでする仕事です。そして、年がら年中付き合っているのは「羊の群れ」でした。人間相手の仕事ではありません。彼らが過酷極まりない労働に従事していたことは間違いありません。

しかし、その仕事は誰かがしなければならないことです。羊の肉は人の食用にされますし、毛皮は人のために用いられます。羊飼いの仕事をする人がいなければ、多くの人は困ります。しかし、過酷な仕事ですので、だれもが嫌がります。人気がある仕事ではありえない。楽な就職先はあっという間に無くなる。競争に強い人が勝ち取る。最後に、いちばんつらい仕事として羊飼いの仕事が残る。

しかも、ベツレヘムの羊飼いたちはユダヤ人であると考えられます。しかし、ユダヤ人であれば、アウグストゥスからの命令で、自分の町に帰り、住民登録をしなければならなかったはずなのですが、羊飼いたちはそのようなことをしていなかったと思われる。なぜそうなのか。彼らは住民登録の対象外であるとみなされていたからです。それは国民の数に入っていないことを意味します。政府からも行政からも、事実上、人間扱いされていないということです。いつどこで死のうが殺されようが関係ない。生活保護の対象外です。

その彼らに主の天使が現れました。そして「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10~12節)と教えてくれました。

何が「あなたがたへのしるし」でしょうか。それは、もちろん「飼い葉桶」です。それが置かれている、人間の住む場所ではない家畜小屋の中で、「あなたがたのために」、つまり、「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしている」あなたがた羊飼いたちのために、今日救い主がお生まれになった、と主の天使が教えてくれたのです。

「今日」というのですから、主の天使がこの羊飼いたちに救い主の誕生を教えてくれたのは、新聞の号外のようなものです。ニュース速報です。誰よりも先にあなたがたに伝える。あなたがたのような「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしている」人々にこそ、真っ先に伝える。あなたがたが日々生活しているのと同じ場所で、あなたがたと同じ姿で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。その救い主は、あなたがたの側についてくださる。味方になってくださる。あなたがたの苦しみを共に担ってくださり、共に苦しんでくださる。それが救い主イエス・キリストである。そのことを主の天使が教えてくれたのです。

そして、その天使に天の大軍が加わり、神への賛美が始まりました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)。そして、羊飼いたちは、イエスさまがおられる場所、飼い葉桶のある家畜小屋にたどり着きました。そして、彼らは、「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)と書かれています。

この羊飼いたちはイエスさまに初めてお会いして何をしたのでしょうか。イエスさまに対する礼拝であり、賛美です。先週と先々週学びましたマタイによる福音書には東の国の占星術の学者たちが、イエスさまのもとにやってきたことが記されていました。彼らはひれ伏してイエスさまを拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。占星術の学者たちはイエスさまにお会いして何をしたのでしょうか。それもまたイエスさまに対する礼拝であり、賛美です。

羊飼いたちと学者たちよりも前にイエスさまにお会いした人たちのことは、聖書には記されていません。おそらく彼らがいちばん最初です。もちろんヨセフとマリアのほうが彼らよりも前だと言えば、そのとおりです。あとは、家畜小屋にいたかもしれない動物たちのほうが前だと言えば、そうなるかもしれません。

しかし、動物たちのこととイエスさまの両親のことはともかく、イエスさまのもとに集まり、世界の歴史の中で初めてイエスさまを礼拝し、賛美した人として聖書に記されているのは、ユダヤ人の中で人間扱いされていなかったベツレヘムの羊飼いたちと、ユダヤ人たちからは異邦人であるという理由で軽蔑されていた東の国の占星術の学者たちでした。彼らに共通しているのはユダヤの社会の中で差別されていた人たちだ、という点です。

繰り返します。世界の歴史の中でイエス・キリストを最初に礼拝したのは、ユダヤ人たちから差別されていた人たちでした。ユダヤ人とは聖書の御言葉をよく学び、よく知っている人たちのことだということは、繰り返し申し上げてきました。しかし、そのような人たちは、生まれたばかりのイエスさまを礼拝しませんでした。それどころか、ユダヤ人であったヘロデに至っては、律法学者や祭司長の聖書知識を悪用して、イエスさまを見つけ出して殺すことを図ったということまで記されています。あるいは、ユダヤ人たちの多くは、その後、イエスさまが十字架の死に至るまで、イエスさまを憎みました。

いま私が申し上げているのは、ユダヤ人という民族の人のすべてが悪いという話ではありません。ユダヤ人差別をしているのではありません。あるいは、聖書の知識を持っている人のすべてが悪いという話ではありません。そのようなことを私が言うはずがありません。聖書を学ぶことは大切です。それは世界の知識の中の最高かつ最良の知識です。

しかし、ヨーロッパに古いことわざがあります。「最良のものが堕落すると、最悪のものになる」。最高に価値ある存在が堕落すると最悪の結果を生み出すのです。たとえば、聖書の知識を悪用すれば最悪の結果を生み出すのです。イエスさまを十字架につけて殺した人々は、世界中で誰よりも聖書の御言葉をよく知っていた人たちなのです。

わたしたちはどうでしょうか。イエスさまのもとで最初に行われた礼拝に集まった人たちのような人を、わたしたちの礼拝に積極的に招かなければなりません。今のわたしたちの教会に、そのような人がどれくらいいるでしょうか。夜通し働いている人、社会から差別されている人、聖書の御言葉を知らない人。その人々のために、救い主イエス・キリストはお生まれになったのです!

(2013年12月15日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年12月13日金曜日

牧師動静 2013年12月12日(木)

はー、やっと終わったー。計画どおりには進まないです、人生は。

牧師動静 2013年12月12日(木)

午前6時

起床

午前7時

外出(行き先は特定秘密)

午前8時

朝食(パン、コーヒー)

午前8時30分

外出(行き先は特定秘密)

午前9時

メールチェック

午前10時

教会の印刷機が古くなってエラーが多発するようになりましたので、このたび新しい印刷機に交換しました。フルカラー印刷もできる機種です。LANやUSBでつなげばパソコンのプリンターとしても使えます。事務機器取り扱い業者の方と、プリンターのメーカーの方と、運送業者の方々といろいろ打ち合わせ。納品後、ぼくひとりでパソコンとの接続方法など学習。

正午

昼食(昨日の残りもの)

午後1時

教会員のご家庭での「サロン」に出席。平均年齢80歳くらいの全員女性の集会。今日は出席者少なく、ぼくを含めて5人。今日はキリスト者率高く、ぼくを含めて3人が松戸小金原教会の教会員。話題はいつもながら、社会、政治、教育、宗教、世相など多岐にわたるもので、美味しいお菓子と紅茶をいただきながら、非常に盛り上がりました。とにかく全員が完全に一致したのは「どんなことがあっても戦争だけはしてはならない」ということでした。「戦争でわたしたちがどんなに苦労したかを、多くの人に知ってもらいたい」とおっしゃっていました。

午後4時

Facebookに「今日の活動記録」(旧版)を書きました。

午後5時

外出(行き先は特定秘密)

午後5時30分

教会の新しい印刷機を教会のパソコンにつなぐためのLANケーブルとスイッチングハブを購入(PCデポ松戸店)

午後6時

帰宅。アマゾンの運送業者が来る。サンタさんのプレゼント(掃除機)を受けとる。

午後6時30分

LANケーブルとスイッチングハブの取り付け作業

午後7時

スーパーでお買い物

午後7時30分

夕食づくり

午後8時

夕食(キーマカレー)

午後9時

子どもたちと一緒にフジテレビ「とんねるずのみなさんのおかげでした」を観る。新・食わず嫌い王決定戦が「ももクロVSマーくん(楽天の田中将大投手)」。結果は引き分け。

午後10時

サンタさんのプレゼントで掃除
風呂掃除
皿洗い
洗濯

午前0時30分

「つかれたー」とか言ってる(いま)

午前1時

就寝予定(おやすみなさい)

2013年12月11日水曜日

カルヴァンの「来たるべき永遠の生への瞑想」と「殉教」との関係を考えています(その2)

いま、小宮山裕一先生がチャットで話しかけてくださったので、応答していました。

小宮山先生によると、

「来たるべき永遠の生への瞑想」の議論をカルヴァン自身の病弱や死期の悟りのようなものと結び付けるカルヴァン研究者がおられますよ、とのことでしたので、次のようにお応えしました。

以下、コピペ。

ぼくもそのことを全く考えなかったわけではありませんが、もしそれが事実であれば、カルヴァンという人は、自分の病気や死という彼の個人的なことを普遍的な神学命題にまで引き上げた人だという感じになってしまうと思うのですが、それでいいのでしょうかねと疑問が残ります。

「殉教」は個人の問題ではなく教会の問題であり、共同体の問題です、よね。だけど、「病気」は、個人の問題だと思うのです。

「来たるべき永遠の生への瞑想」についてのカルヴァンの綱要のテキストを何度も繰り返し読んでみていただくと、教会員への、あるいはすべてのキリスト者への呼びかけのような言葉であることが分かると思います。

自分が病気だから、自分がもうすぐ死ぬかもしれないから、教会員に対して「地上の生を軽んじろ」と勧める牧師って、なんだか変だと思いませんか。他人を巻き添えにしないで、じぶんひとりで死んでくださいと、ぼくなら言いたくなりますよ。

だけど「殉教」という理由なら、話は噛み合うような気がするんです。肉体を滅ぼすことができても魂を滅ぼすことができない者たちを恐れるな、という線で理解できるのではないかと。

カルヴァンの「来たるべき永遠の生への瞑想」と「殉教」との関係を考えています

ツィンツェンドルフの本を読むか、

それとも、

1933年から1941年までのオランダとドイツのプロテスタント諸教会の本を読むかで迷い、

結局、カルヴァンの『キリスト教綱要』を読んでいるという

迷走っぷりです。


以下、引用。

「だからこそ信仰者は、この死すべき生を評価する際に、それ自体としては悲惨以外の何ものでもないことを弁え、いよいよ快活に一層よく用意のできた者として、来たるべき永遠の生への瞑想に自己の一切を委ねるという目標を持たなければならない。」

「比較して見ると、現世の生は無視して差し支えないのみならず、来たるべき生と対照的に、徹底的に軽んじまた忌避しなければならないものである。」

「天上の生と比べるならば、地上の生は疑いなく容易に軽んじられ踏み躙らるべきものである。」

「いずれにせよ、我々はこの世を飽き飽きするもの、あるいは憎いものとして関わり、それが終わることを願うのであるが、主の御旨であればここに留まる覚悟を決め、倦怠を覚えることがあっても一切の呟きや短気を断ち切っていなければならない。」

「したがって、生きるのも死ぬのも主のため、ということが我々に似合っているとすれば、己れの生と死の境目を主の意志決定に委ねなければならない。」

「死を求める熱心に燃えて絶えずそれを瞑想し、来たるべき不死の生の故にこの世の生を軽んじ、これが我々を罪の隷属の下に置いていることを思い、主が良しと見たもう時にはいつでも放棄できるように願うべきである。」

以上は、渡辺信夫先生によるカルヴァン著『改訳版 キリスト教綱要』(新教出版社)の第3篇第9章4節から抜粋させていただいたものです。

いわゆる「来たるべき永遠の生への瞑想」(meditatio futurae vitae)についてカルヴァンが論じている部分です。

ぼく流の超訳でまとめれば、

「ぼくたちは生きているのが嫌で嫌でたまらない。一刻も早く死にたいんだけどと願いながら、まだ死なせてもらえないのは主の御心のようなので、それならばと仕方なく生きてはいるが、死ぬと決まったら早く早くと願うべきである。そのようにしてぼくたちは人生と世界を徹底的に無価値なものとみなし、天上の生だけをひたすら夢見るべきである。」

というような話だと思います。(違うって言えますか?)

このカルヴァンの思想が、ぼくにとっては堪えがたいものでした。

つい先週くらいまで。

はっきり言えば、この部分に限ってカルヴァンは、まるでグノーシス主義者然としているとさえ感じていました。

ファン・ルーラーもこのカルヴァンの「地上の生を軽んじろ」という教えをひどく嫌っていました。

ですが、ふと気づかされるものがありました。

カルヴァンが「早く死にたい」理由というか、動機というか。

彼が「この世の生を軽んじろ」と主張する理由というか、動機というか。

今さら何を、と言われそうですが、

カルヴァンのそれは「殉教」の覚悟というか、決意そのものですよね。

カルヴァンのことを良く思わない人たちは、カルヴァンと言えばセルヴェ処刑に加担した、良心の迫害者のように扱いたいのでしょうけれど、

カルヴァンも十分な意味で迫害を受けた人だし、いつでも殉教の可能性はあった人です。またカルヴァンの教え子たちは、非常に過酷な迫害を受けました。

まだ学術的な根拠などはありませんが、

カルヴァンの「来たるべき永遠の生への瞑想」(meditatio futurae vitae)を「殉教」との関係で読み直してみると、ぼくの中の抵抗感が少しは緩和されるものがあるかもしれないなと思い直しているところです。

でも、ぼくは「早く死にたい」とは思わないです。

迫害者側に寝返るくらいなら死んだ方がましだとは思いますが...。

あ、これか!

やるべきことはまだたくさんある

毎週水曜日は、教会の祈祷会です。

今はハイデルベルク信仰問答を学んでいます。

今日のテーマは「善きわざについて」(問62~64、91)でした。

聖書個所は新約聖書・ヤコブの手紙2章14節以下、とくに24節の

「これであなたがたも分かるように、

人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」

でした。良い学びができたと思います。

午後は祈祷会出席者有志で会堂清掃をしました。

そうしているうちに、先週アマゾンで注文したばかりの本(右)を

配送業者が届けてくださいました。


伊藤利男著
『ツィンツェンドルフ
 ヘルンフート同胞教団を創った夫妻の物語』
(鳥影社、2005年、1800円+税)

先週のカール・バルト研究会のとき、藤崎裕之先生からお薦めいただいたので

読んでみたいと思いました。藤崎先生、ありがとうございます。

ただ、今日の午後読もうとしていたのは、別の本でした。

それは写真左側にある本でした。

G. ファン・ローン著
『1933年から1941年までの
 オランダとドイツのプロテスタント諸教会』
(ヘット・スペクトラム出版社、1973年)

「1933年から1941年まで」、

つまりナチス台頭から第二次世界大戦開戦までのオランダとドイツのプロテスタント諸教会が、

どのように神学的・政治的に戦ったのか、あるいは、戦わなかったのかについて書かれた本です。

どちらを読もうかなと迷っています。

うーん。

不愉快な「伝道」の制度、はじまりはじまり、だそうで

ぼくにはもう関係ない話なのですが、

「人を見くだすことにおいて人後に落ちない」と言っているかのような

不愉快な制度がスタートしたらしいと、風の便りで知りました。

「著名人(かどうかは微妙)を講師として派遣します。費用は出します」

というのが「伝道」だそうで。

そんな方法で、仮にそのとき一度きり人が集まったからといって

(そのとき人が集まるかどうかすら相当微妙)

それでどうにかなるものであるわけないことくらい

分かり切っているでしょうに。

「著名人(かどうかは激しく微妙)を手本にしてこれから伝道がんばれ」

とでも言いたいのか。バカにしてると思う。

総理にバカにされ、教会でもバカにされると、行き場無くなりますね。

あ、ぼくにはもう関係ない話なのですけどね。

2013年12月10日火曜日

1945年に結党されたドイツのキリスト教民主同盟(CDU)は今では与党です

「日本キリスト党 武藤富男」
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Vega/6529/tomio.html

ぼくも最近まで詳しくは知りませんでしたので、

おそらく若い世代の方々は全く知らないと思う。

こういう「党」と、こういう「人」が、日本に実在しました。

1977年のことなので、激しい過去でもありません。

当時の雰囲気はぼくには分かりませんが(1977年にぼくは12才でした)

世間にも教会にも嘲笑され無視された存在だったに違いありません。

泡沫党の泡沫候補(最近ではインディーズと言うらしい)のまま、

一瞬で消えたようです。

1945年に結党されたドイツのキリスト教民主同盟(CDU)は、

今では首相(アンゲラ・メルケルさん)を党首とする与党です。

違いがあるのは当たり前です。日本の教会が弱すぎるからです。

だから、こういうことを書くと、

「あんたが立候補すれば~?」とか「政治家になりたいの~?」とか

しょうもないことを言われるお約束になっているのがイヤなのですが、

ぼくが言いたいことは、

教会の伝道の使命は、それが着実に遂行されていくときには、

その国の現実政治において、必ず影響を及ぼすようになる、

ということです。

言わずもがなのことだと思うのですけどね。

「世」と「教会」がうまく連結していないと、

こんな当たり前の話でさえ理解してもらえないときがあります。

2013年12月9日月曜日

「歴史は繰り返さない」の続きです

以下、前稿「歴史は繰り返さない」の続きです。

---------------------------------------

そして、もし許されるなら言わせていただきたいことは、88年前の日本と今の日本の決定的な違いは、「日本の教会」のかつてと今の違いです。

キリシタンは一度日本で(地下に潜った方々以外は)消し去られました。そのトラウマが日本でキリスト教信仰を持とうとする者の心に、いまだに刻みつけられています。

しかし、それでも、150年前にまがりなりにも日本の教会史が「再開」されました。しかし、88年前(治安維持法制定時)は、(再開後の)日本宣教(わずか)60年。今は150年。かつてと今の「教会」は同じでしょうか。

日本の「異物」である教会の信仰は「人を恐れない」。

国民の1%「しか」クリスチャンはいない、クリスチャンは日本では少数だ、少数だと繰り返し言われますけど、100万人も「人を恐れない」人が住んでいる国を、はたしてこれから現今の「ファシズム政権」は”鎮圧”できるでしょうか。

希望的観測すぎることは認めますが、過去80年間もカール・バルト、カール・バルトと「反ナチ神学者」を後追いし続けた日本の教会のことは、そう簡単には”鎮圧”できないと思いますけど。

そういえば、今の政府のほぼど真ん中にいる人もクリスチャンなはずだけど。

まあそれはともかく、歴史は繰り返していませんよ。

もし繰り返すのだとしたら、日本の教会は過去88年間、ただ惰眠をむさぼり続けただけだと謗られても仕方ありません。

ひたちなか教会で小宮山裕一牧師の就職式でした


今日はひたちなか教会で小宮山裕一牧師(中央)の就職式でした。

ひたちなか教会の皆さま、おめでとうございます!

小宮山先生、これからも共に!

小林先生、勧告のお言葉、ありがとうございます!

2013年12月8日日曜日

歴史は繰り返さない

えっとですね、一応申し上げておきますと、

ぼくは「歴史」は「繰り返さない」という立場なんです。

1925年と2013年が同じなわけないです。

ぼくの考えは、「繰り返される」のは「犯罪行為」であって、

それを「繰り返している」やつらにレッドカードを突きつけて

「権力の座」から退場させなくてはならないというものです。

しかし、それは「権力の座」からの退場であって、

地上の世界からの追放ではありませんし、あってはなりません。

つまり、「歴史は繰り返す」のではなくて

「歴史そのものは犯罪者を絶滅させる役割を必ずしも持っていない」

ということだと、ぼくは思っています。

歴史から犯罪者がいなくなればすっきりする、という考えもあるでしょうけど、

それこそファシズムの一種です。

犯罪者を締め出し、絶滅させる役割を「歴史」そのものは持っていない。

「歴史は繰り返される」ではなく「犯罪は繰り返される」。

そのたびに我々は何を考え、何をなすべきか。それが重要だと思います。

屁理屈っぽくてすみません。

犯罪者の「手口」は昔も今も同じ。

ですが、まんまと逃げおおせることが、かつてはできたかもしれませんが、

今はもうできません。

その意味では、「歴史」は「繰り返さない」と思います。

逃げられるものなら逃げてみろ。

たまには牧師らしく、聖書の御言葉を引用します。

「人々を恐れてはならない。

 覆われているもので現されないものはなく、

 隠されているもので知られずに済むものはないからである。」

(新約聖書・マタイによる福音書10章26節)

2013年12月7日土曜日

「この私が何者であるか知らないふりをなさるならば」


今週火曜日(12月3日)

北小金駅から国会議事堂駅までの電車の中で読んでいた本の中で、

最も感動した言葉を引用させていただきます。

ひとりで涙が止まらなくなり、隣の男子高校生に二度見されました。

-------------------------------------------------------

総督は、なおも執拗に、「カェサルの守護霊にかけて誓え」と迫ったが、

ポリュカルポスは答えた。

「私が、あなたの言うとおりにカェサルの守護霊にかけて誓うだろう

 などという空しい考えを持ち、

 この私が何者であるか知らないふりをなさるならば、

 心を広くしてお聞き下さい。

 私はキリスト教徒です。

 キリスト教の教えの内容を学びたいならば、

 一日の猶予をお与え下さい。

 そうすればお話し致します。」

「聖なるポリュカルポスの殉教」(土岐正策・土岐健治訳)より引用。

『キリスト教教父著作集22 殉教者行伝』教文館、1990年、11頁。

-------------------------------------------------------

みなさま、それではおやすみなさい。

ゆっくり休むことが明日の力になります。

「第20回 カール・バルト研究会」報告


(日付が変わってしまったので)昨日、

2013年12月6日(金)

午後9時から7日(土)午前0時すぎまで

「第20回 カール・バルト研究会」を

グーグルプラス・ハングアウトで行いました。

テキストはカール・バルト『教義学要綱』

(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の

「11 救い主にして神の僕」の前半部分でした。

日付が変わるくらい盛り上がりました。面白かったです。

神学の学びをしているときも

国会前のデモ参加者と祈りで連帯しています。

今が「信仰告白的事態」(status confessionis)でなくて、

いつがそうなのでしょうか。

ぼくらはべつに、神学ごっこしてるわけじゃないんだ。

そのへんはね、なんとかお伝えしたいところです。

2013年12月4日水曜日

2013年12月3日(火)参議院前のデモの様子です

2013年12月3日(火)午後2時頃の参議院前のデモの様子です。 ぼくのガラケーで撮りました。 どこに「テロ」の要素があるんだか、さっぱり分かりません。 一般市民をこれ以上バカにしないほうがいいと思いますよ。 軍事オタク政権の皆さまへ。


無理な採決、もうやめましょうよ


軍事オタク政権に戦勝妄想から覚めてもらうための一つの方法として、

デモは確かに有効かもしれません。

40年前ならね、

鉄パイプとか火炎瓶とか迫撃砲を持ってるんじゃないかとか、

でたらめな嫌疑をかけて、警官隊に実弾こめさせる、

みたいなことが可能だったかもしれませんが、

今は無理です、それは。

最大でプラカード一枚持ってるだけです。

あ、太鼓持ってた人もいたな。

全員が全員、丸腰の一般市民。

ぼくなんかガラケーと財布と本しか持ってなかったし。

あ、ボールペンもあったか。

そのボールペン、スパイ道具みたいな仕掛けとかないですよ。

ないない。アホか。

ぼくらテロリストですか。違うと思うけど。

そんなぼくら相手に実弾こめれますか。

こめれたとしても、それどうにかできますか。

そんなことさせてしまうのは、

善良な警察のみなさんに対して、むしろ申し訳ないですよ。

させられるか、そんなこと。

ちっちゃい子どもさんいる警察の人たちもたくさんいるでしょうし、

首都圏だって線量、十分高いし、

今の国を動かしてる人たちに向かって言いたいこと、山ほどあるはず。

本心では制服ぬいでデモに参加したいけど、

それやると家族を食わせることができなくなるので我慢してるだけ。

違憲国会で決めたことになんか、だれも従えないって。

無理な採決、もうやめましょうよ。

2013年12月3日火曜日

国会議事堂まで行きました

本日12月3日(火)午後1時から3時まで国会議事堂の前にいました。

違憲国会での特定秘密保護法案の採決に反対します。

デモをテロと同一視し、民主主義に反するとみなす与党幹事長に抗議します。

以上、よろしくお願いいたします。

2013年12月3日

関口 康















2013年11月29日金曜日

二重予定論をファン・ルーラーはどのように受けとめたか

つい先ほどのことですが、京都在住の神学生の方からツイッターでご質問をいただきましたので、ツイッターでお答えしました。

質問は「二重予定論をファン・ルーラーや現代の改革派神学者はどのように受けとめているか」です。ぼくからの返信内容を以下にまとめておきます。ツイッターの性質上、粗い回答であることは、どうかお許しください。

----------------------------------------

ご質問ありがとうございます。

二重予定論は、バルト(主義者)と非バルト的改革派神学者とで、思想構造が全く違うことは明白です。ご承知のとおりバルトは「神は、イエス・キリストを遺棄に定めることによって、人間(全人類)を救いに定めた」という二重予定的万人救済論です。

このバルトの二重予定的万人救済論は、説教とかでしゃべりやすいし、とっても耳触りがいいので、20世紀の中盤から終盤にかけて、すっかりもてはやされましたが、どうも詭弁くささがぬぐえません。非バルト的な改革派神学者は、彼の二重予定論に立つことはできません。

さりとて、現代の(非バルト的な)改革派神学者は、16世紀のカルヴァンの「プリミティヴな」二重予定論のテキストをコピーして配布して、「これを受け容れなさい。そうすれば、きみも改革派教会のメンバーになれるからね」と言っているだけでもありません。

カルヴァンのいわゆる絶対的予定論(神が仁王立ちして人をヤギとヒツジに分けるの図)の危険性を最も早期に認識し、立ち向かう必要を自覚したのは、アルミニウスとその支持者(レモンストラント)です。レモンストラントとの論争の中で改革派教会は二重予定論の改善を続けてきました。

それで質問への答えですが、たとえばファン・ルーラーは二重予定論をどう考えたか。カルヴァン同様、あの人この人が選ばれているかどうかは「経験」で認識できるという立場でした。しかし、彼にとって重要な問題は、「永遠の選び」の永遠性は時間性とは矛盾するものだ、ということです。

我々がしばしば陥る罠は、「永遠の選び」と言いながら、それをまるで時間的な大昔のことであるかのようにイメージしているということです。ですが、「永遠」には過去も現在も未来もありません。「永遠」と「時間」は根本的に次元が違うのです。

ですから、ファン・ルーラーは先輩神学者ノールトマンスの「神はいちばん最後の瞬間に永遠のご決意をなさるのだ」という言葉に同意します。時間的な大昔に、ではなく、「いちばん最後の瞬間」に神の定めが明らかにされる。これはア・プリオリな決定論や運命論・宿命論とは異なる話です。

ぼくに分かるのはファン・ルーラーくらいです。他の現代の改革派神学者の二重予定論は分かりません。ファン・ルーラーの予定論テキストの一つを拙訳で公開していますので、ご一読いただけますとうれしいです。

「神の選び」(1958年)
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1958.html

ファン・ルーラーの二重予定論に対する見解を垣間見ることができるテキストの拙訳をもう一つ公開していますので、こちらもご一読いただけますと幸いです。

「ウルトラ改革派とリベラル派」の「3、予定理念からの論理的演繹」
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1970.html

とりあえず以上です。長々とすみませんでした。

お答えになっていないようでしたら、どうかお許しください。

神学の勉強がんばってください。心から応援しています。ご質問ありがとうございます!

2013年11月28日木曜日

ファン・ルーラーの翻訳がなかなか進まない理由

言い訳は見苦しいかぎりですが、

ファン・ルーラーの翻訳がなかなか進まない理由。

ファン・ルーラーは深い人なんです。

徹底的にどこまでも掘り下げようとする人です。

そのファン・ルーラー先生にすっかり触発されて、

ぼくまで掘り下げたくなってしまうんです。

書き方がけっこうアフォリズムで、

短くて鋭い言葉をパッパッパッと提示していくところは読むたびにうなるのですが、

説明も注釈もなしにパッパッパッとテンポよく来るもんだから、

日本人読者、というのはぼくのことですが、ぜんっぜん分かんないことだらけなんです。

とくに歴史上の人名とか、過去の神学概念。

それが注釈なしに出てくるもんですから、イチイチ調べなくちゃならない。

調べなくちゃならないって言っても、ぼくも怠慢なのが悪いんですが、

いろんな図書館を探し回るほどの機動力があればいいんですが、

それよりもネットで探して買っちゃう。

だけど、お金もかかるし、外国の書店から本が届くまでに時間がかかる。

今は子どもたちの教育費にお金がかかる時期なので、新しい本は全く買えない。


たとえば、この写真の本ですが、

左から

コクツェーユス『契約論』(現代オランダ語版)
ファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)
『リュースブルク全集』全四巻
ファン・ニーウェンホーフェ『リュースブルク研究』
シュレーダー『ファン・ローデンステイン研究』
ファン・ヘンデレン他編『第二次宗教改革研究』

みたいなものを集めてきましたが、これらの本は、

ファン・ルーラーの論文の中に「コクツェーユスは」とか「リュースブルクによると」とか「ファン・ローデンステインの言葉で言えば」とか「第二次宗教改革」の話がパッパッパッと出てくるので、

仕方なく購入したものです。

だって、訳書だって責任は重大ですよね。

訳者には意味も内容も分からないけど原著者が書いているから、そのまま「横のものを縦にしました」というわけには行かない。

ぼくは自分のブログには「そんなの知らねーよ」くらいの乱暴な言葉はいくらでも書いてきましたが、

もし将来、自分の訳した本が出版される日が来て、それを買ってくださる方がいて、その方から質問を受けたときに「そんなの知らねーよ」とお答えしたりは、ぜったいしません。そんな感じになるくらいだったら、出版しないほうがいいんです。

だけど、コクツェーユスも、リュースブルクも、ファン・ローデンステインも、第二次宗教改革も、一つ一つがものすごく深い思想世界を持っていますので、

そこにも引き込まれながら、それでもなお「本題の」ファン・ルーラーにぼくの集中力を戻していくというのが一苦労なんです。

たとえば、ぼくが持っている『リュースブルク全集』(写真中央の四巻本)は、とても美しい状態で保存されていた古書なのですが、

それは1940年代に出版された古い全集だったことが購入後に分かり(だから購入を後悔しているという話ではありません)、

今ではもっと新しい全集が出版されている、とか、

そういう情報を得ると、ファン・ルーラーとは全く無関係の問題なのですが、それはそれで興味がわいてきますし。

左から二番目のファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)についても、

この本の原著オランダ語版の原題はAmicitia Deiというのですが、

このラテン語の読み方をぼくらはアミキティア・デイだと思っていたら、

5年前に石原知弘先生と一緒にファン・アッセルト先生ご自身から「いやいや、その発音はアミシティア・デイだ」と教えていただいたり。

それで、また調べ直したら、同じラテン語でもキリスト教用語限定の発音方法があり、その場合はciはキではなくシだということが分かるとか。

もう、それはそれで面白くて仕方ないのですが、「本題の」ファン・ルーラーはそっちのけになってしまいます。

出版関係の方々にとっては、ぼくのような人間のすることは、利益には全くつながらないものなので、もうどうしようもないですね。

ぼくはスピードとか成功とか成果とか、そういうものとは全く無縁な人生です。マッドですね。松戸のマッド。

2013年11月27日水曜日

ぼくは「ブロガー牧師」ではありません

ぼくの管理しているブログの投稿数は、時々チェックしています。 

すべてぼくの自筆です(自筆って日本語で間違ってないですよね)。 

ぼくの管理しているブログの投稿数(2013年11月27日現在)

関口 康 日記          投稿: 1020 件
今週の説教           投稿: 210 件
超訳聖書             投稿: 3 件
カール・バルト研究会     投稿: 17 件
ファン・ルーラー著作集草稿 投稿: 20 件

だそうです。合計: 1270件ですね。我ながら呆れます。

投稿ごとに長短がありますが、平均の長さはどれくらいでしょうかね、全く見当つきませんが。 

完全に当てずっぽうですが、

昔ながらの400字詰め原稿用紙4、5枚にはなるんじゃないでしょうか。

40字×40行にフォーマットしたA4判用紙1枚程度。 

あれってA5判の本の2ページ分てことでしょ、雑に計算すれば。 

だったらぼくはもう、2540ページくらいの本を書いた計算になるのかな(ならないよ!)。

ぼくの「視野」からカルヴァン先生がいなくなりました


今日の午後、一時間ほどかけて、牧師室(書斎)の本棚の整理をしていました。

字で説明するのは難しいのですが、牧師室は「コ」の字型になっていて、

「コ」の字の上の横棒に「デスクと応接室」があり、

「コ」の字の縦棒と下の横棒に逆L字形に「本棚」があるという構造になっているため(この説明で分かります?)

「デスクと応接室」の側から見える本棚は、ほんの一部分だけです。

それで工夫を要するのは、「デスクと応接室」の側から見える部分、つまり、デスクで仕事中の「視野」にどんな本を置くか、です。

これまでも、いくつかのパターンがありました。しかし、今日の整理の目的は、はっきりしていました。

それは、デスクで仕事中の「視野」を「組織神学」の本で埋め尽くすことでした。

その代わりに犠牲になったのがカルヴァンです。

これまでは、さすがにカルヴァンは外せないでしょうと、常に見える位置に必ず置いていました。

しかし、本日の大移動により、

カルヴァンは16世紀に生きた「過去の人」で、つまり「歴史神学」の研究対象であるということで、

「壁の向こう」にある歴史神学コーナーへとおいやられてしまいました。

しかし、正直に言いますと、

カルヴァン先生の視線から解放されて、ほっと安堵しています。

まあ、みんなカルヴァン先生の(不肖の)後継者ですけどね。

學生時代の思ひ出


講義名は忘れましたが、

『宗教の神学』(ヨルダン社、1985年)を出版なさった直後である、

ということだけは、よく覚えています。

当時の肩書きは、なんでしたっけ、

たぶん「国際基督教大学教会牧師、宗教部長、教授」くらいですかね、

そういうお立場で、

ご自身の母校でもある東京神学大学で、

ぼくらを相手に講義してくださったときの

毎回うれしそうなお顔を、今でも忘れることができません。

今からだいたい30年前ということですよね、

なんだか大昔のことになりました。

その講義の中で繰り返し強調されていたことは、

「戦前にバルト、バルトと言っていた日本の牧師や神学者たちが、

戦争が始まりそうになった途端、

口をつぐんでしまい、戦争協力にひた走った」ということです。

「あんな人たちはインチキなんだよ」と、おっしゃっていました。

今のぼくらの眼前の光景は、どうなんでしょうね。

ぼくは、自分が卒業した学校から

本当に「卒業」してしまう人間であるということを

改めて昨日、強く自覚しました。

学校なんかにいつまでも縛られて生きていきたいとは思わないもの。

同窓会とかまっぴら。

幼稚園から大学まで、そういうのに出たことないです。

あ、ちょっと脱線しました。

今が「戦前」だとは考えたくないです。

そんなこと、考えたいわけないじゃん。

イヤです、ありえねえ。これからも戦争しない国でいてください日本。

だけど、いよいよ変な感じになってきました。

それはぼくだけの個人的で特殊で異常な感覚じゃないと思う。

かなり多くの人と共有できている感覚だと思う。

だけど、もう「口つぐんでる」んじゃないかなという雰囲気を感じるのは、

ぼくの気のせいでしょうか、

「バルト、バルトと言っていた」人たち。

ぼくの恩師に喝破してもらいたいです、

「あんな人たちはインチキなんだよ」ってね。

ま、「ぼくの気のせい」ということにしておきますね、とりあえず。

ぼくは「カール・バルト研究会」やってますけどね、

バルトの神学には批判的です。「批判的カール・バルト研究会」です。

でも、彼の行動は尊敬しています。

尊敬したうえで、ぼくなりに見習っているつもりです。

2013年11月26日火曜日

違憲状態国会の違憲状態議員による強行採決は犯罪だ

違憲状態国会の違憲状態議員による強行採決は犯罪だ。

司法がんばれ。東京地検特捜部がんばれ。

法の精神を守れるのは、あなたたちだけだ。

まして特定秘密保護法案だ。

違法国会の違法採決で成立した法で、違法政府の秘密をすべて隠せてしまう。

そんな法案の強行採決などしてしまえば、この国はその日から無政府状態だ。

そういうことができてしまうなら、

その政府とその法案に賛成した国会議員を、心底から軽蔑する。

この本はぼくの宝物です(読めないけど)

今日は疲れちゃいましたので、そろそろ休みます。

今日の最後にオタク的なコレクション紹介。


レオンハルト・ラガツ著
『神の国のための戦い ブルームハルト父子、そしてもっと先へ!』
(初版1922年、第二版1925年)

「こんな本を持ってるぜぇ」と見せびらかしたいだけです。

ぼくはドイツ語は苦手ですので。

2013年11月25日月曜日

実践神学概論の参考書

神学の第四部門としての「実践神学」の一教科としての「実践神学概論」に該当する文献で

ぼくが持っているのは、この写真に写っている本です。


8冊ありますが、翻訳本を含んでいる8冊ですので、実際には5冊です。

左から

ロスカム・アビンク『神学諸科解題』
『実践神学 ロスカム・アビンク教授退任記念論集』
ヘイティンク『実践神学』(オランダ語版、英語版)
ブラウニング『基礎的実践神学』
イミンク『信仰論』(オランダ語版、英語版、日本語版)

ロスカム・アビンク教授(1914-1996)はフローニンゲン大学で教えました。

ヘイティンク教授(1938-)はアムステルダム自由大学で教えました。

ブラウニング教授(1934-2010)はシカゴ大学で教えました。

イミンク教授(1951-)は現在プロテスタント神学大学の学長です。

それぞれの実践神学概論に、その著者独特の文体や論調があり、個性の強さを感じます。

強いて言えば、論理的に最も整理されているのは、ヘイティンク先生の『実践神学』だと思います。

聖書コーナーです


あくまでも相対的な話ですが、

オランダ語の教義学の本の話よりは、もう少し共感を得られやすい写真を公開します。

「聖書コーナー」です。

カイパーとバーフィンクの本です


本棚の話題は反応が温かいので、もう少し続けます。

この写真に写っている範囲内にあるのが、

「アムステルダム自由大学」を設立したカイパーと、

カイパーの同僚バーフィンクの本です。

ぼくが持っているカイパーの本は、

左から

『一般恩恵論』全3巻(オランダ語)
『天使論』(オランダ語)
『聖霊論』(英語版)
『カルヴァン主義』(オランダ語版、英語版、日本語版)

などです。

カイパーについて書かれた本(伝記、思想)もあります。

真ん中の黒っぽい四巻本から始まり、その右にあるのが

バーフィンクの本です。

その四巻本が『改革派教義学』(オランダ語)です。

その右側に、同書の英語版を並べています。

あとは

『啓示の哲学』(オランダ語版、日本語版)
『改革派組織神学』(日本語版、原題『神の偉大さ』)
『賛美の供えもの』(オランダ語版)

です。バーフィンクの伝記や研究書もあります。

2013年11月24日日曜日

惜しみなく分け与えなさい

テモテへの手紙一6・17~21

「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。恵みがあなたがたと共にあるように。」

いまお読みしました個所も「聖書はすごい」と思わされるところです。二千年も前に書かれたものなのに、まるで今のわたしたちの状況を手に取るように見ているかのようなことが書かれています。

今は深刻な格差社会です。アメリカで年収が上がっている人は上位1%だけだそうです。100人に1人は右肩上がりの裕福な生活をしているのかもしれませんが、99人はそうではないのです。日本も今すでに、ほとんど同じ状況ではないかと思います。

1%の人になるための競争を、早い人は幼稚園の頃から始めています。負けないように、蹴落とされないように、必死でがんばっています。がんばることが悪いと言いたいのではありません。しかし、お金は天下の回りものだと、昔から言われてきたではありませんか。ある人の分が多ければ、他の人の分は少なくなるのです。

今の日本の経済政策はお札をたくさん印刷してお金を増やし、それで経済を活性化することだそうですが、それはただのごまかしです。いま本当にしなければならないことは、上位1%の人たちの年収を守ることではなく、99%の人々になるべく公平に配分することです。

みんなが完全に等分に分ければよいというような単純な話ではありません。しかし、持っている人が持っていない人に対して「あの人たちは頑張らなかったからこうなったのだ。自業自得なのだ」とだけ言って済ますことはできません。そちらのほうも単純な話ではないのです。

しかし、そのように単純に考え、実際にそのような言葉を口にし、持っていない人を見くだし、傷つける。まさにそれが、今日の聖書の個所で言われている、この世で富んでいる人が陥る「高慢」の意味だと思います。

「不確かな富に望みを置くのではなく」と書かれています。「富」はたしかに「不確かな」ものです。株をなさる方々は、株の価値は秒単位で変動しているものであることをご存じでしょう。悪口を言いたいわけではありませんが、株で利益を得ようと思うことは、賭博をするのと変わりません。会社で無理やり株を買わされている方々も多くおられると思うので、本当にこれは悪口で言っていることではありません。ただ、株の運命そのものは、一寸先は闇です。これは悪口ではなく事実です。

株も投資も非常に危険なものです。賭博は論外中の論外です。人より多くのお金を持つことが悪いわけではありません。しかし、大切なことは、いかに人より多くのお金を持つかではなく、そのお金で何をするかです。人それぞれの生き方や価値観をとやかく言うと叱られますので、そういうことはしないでおきます。そこから先は、自分の頭と心で考えてくださいとしか言いようがありません。

今申し上げていることは、教会の皆さんに申し上げていることではありません。教会の皆さんはよく分かっておられる、あえて言う必要がないことばかりです。多くの財産を手にすることが悪いわけではありません。しかし、厳粛な事実は、それらはすべて、いつまでも自分のものであり続けるわけではないということです。わたしたちの命には必ず終わりの日が来るからです。そのときには、誰かに手渡さなければなりません。

しかし、それを誰に手渡すのでしょうか。わたしたちは10月に、キリスト教葬儀社の方に来ていただいて「遺言セミナー」をしました。講師の方から「遺言をちゃんと書いてください」と教えられました。何も書かなければ、法律に基づいて、自動的に財産分与がなされます。それでも構いません。しかし、世のため、人のために遺す分はないのでしょうか。あるいは、神さまのため、信仰のために遺す分は。

こういう話をしますと「おやおや、牧師が信者に金銭を要求しているぞ」というような話になってしまいかねないので、私は本当はこんなことをあんまり言いたくないのです。しかし、教会は非営利団体です。皆さんの献金、あるいは寄進のみによって支えられている存在です。それ以外にどうすることもできません。皆さんの生活に負担をおかけしようなどという気持ちは全くありません。しかし、教会「も」助けていただきたいのです。今はこのようなことを真剣にお願いしなくてはならない状況でもあります。

長男が中学に入ったときからですから、もうかれこれ7年前からということになります。妻が仕事をするようになりましたので、私が家事をするようになりました。結婚して22年になりますが、最初の15年間は、私は家事を全くしませんでした。だから、今はお詫びのような気持ちでやっています。ほとんど毎日買い物に出かけ、妻が留守の日はごはんを作り、皿を洗い、洗濯し、掃除し、朝はゴミ出ししています。

偉そうに言うつもりはありません。当たり前のことなのです。それを15年間も全くしたことがなかったことのほうが問題です。妻には本当に申し訳ないことをしました。

自分で家事をするようになって、「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置く」(17節)という御言葉の意味が沁みるように分かります。高級な食材を使えば美味しい料理ができるのは当たり前です。私が追求しているのは、いかに安い食材で美味しい料理を作れるかです。お肉や野菜の安売りの日は何曜日かというようなことも、だんだん分かってきました。そういうことを全く知らないで生きてきたことのほうが問題です。大失敗です。

「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神」の意味は、「わたしたちに高級なものをいつもくださり、贅沢な生活をさせてもらえる神」ということではないと思うのです。そういうのは全く正反対です。楽しくありませんし、実は豊かでもありません。いろいろと自分で考える必要がないからです。

私は今、楽しくて仕方がないです。自分でいろいろなことができるようになりました。ありがたいことです。遅ればせながら、毎日の家事に人生の喜びを見いだしている今日この頃である、ということを、この機会にお話ししておきます。

(2013年11月24日、松戸小金原教会主日夕拝)

ぼくの「ファン・ルーラー文庫」は四種に分類できます


ぼくの「ファン・ルーラー文庫」は次の四種に分類できます。

(1)左端から緑色の本までが旧・新の「著作集」。

(2)その隣から中央の赤い本まで「論文集」。

(3)その隣から右から四分の一あたりまでが「黙想集」。

(4)残りはファン・ルーラーを取り上げた「研究集」です。

ある出版社の方が、ファン・ルーラーの新しいほうの「著作集」(写真の中の緑色の本)を全訳しようと提案してくださったことがあるのですが、

それを実現するためには改革派神学とオランダ語に習熟した最低10人くらいの人材が一致協力して訳業に専念できるようなシステムが必要だと、ぼくは思います。

22世紀ですね。

2013年11月23日土曜日

みなさん、オランダ語を勉強しましょう!

前の記事にアップした本棚の写真の下の三段分がすべて

カール・バルトの本と、バルトについて書かれた本です。


「すごくたくさんある。だけど、この程度のものだ」

という言葉は、バルトにも当てはまると思います。ビビるほどの量ではありません。

我々が一人の学者を偶像にしないためにできそうなことは、

複数の神学者たちの本を「揃える」ことかもしれません。

日本では知られていない神学者たちが、

カルヴァンやバルトほど本を書きました。我々が知らないだけです。

複数の神学者の本を「揃える」ことで、何が起こるのか。

メディアなどが作りだした「偉大な」神学者の相対化です。

日本で知られている「偉大な」神学者の代表は

アウグスティヌス、トマス、ルター、カルヴァン、ウェスレー、バルトでしょうか。

彼らを相対化することができるようになります。

ベルカウワーもファン・ルーラーも、ドイツ語でも書きましたが、

二人ともオランダ人ですので、著作の大半はオランダ語です。

オランダ語はドイツ語に似ています。ドイツ語の基礎が分かれば、すぐ読めるようになります。

講談社オランダ語辞典は画期的でした。これなしには、ぼくは読めません。

みなさん、オランダ語を勉強しましょう!

どれほど偉大な神学者でもバケモノではありません

ふいに思い出したのは、学生時代の先輩の言葉です。

三鷹の学生寮のぼくの部屋の本棚を見て

 「きみは揃いものが好きなんだね」

と言われたことがあります。

その先輩が誰だったのかは覚えていません。その人の顔が思い浮かびません。

でも、先輩のおっしゃったこと、当たっていました。

ぼくは揃えたくなる人間です。「収集癖」のようなものが、たぶんあります。

なぜ揃えたくなるのかは分かりません。その理由を知りたいわけではありません。

ただ、分かったことがあります。

それは、どんなに偉大な先生でも  一生の間にできる仕事は限られている、ということです。

当たり前のことですが、揃えてみて納得できました。


この写真の上の段は、ベルカウワー(1903-1996)の本とベルカウワーについて書かれた本です。

下の段は、ファン・ルーラー(1908-1970)の本とファン・ルーラーについて書かれた本です。

いずれもパーフェクトなコレクションではありませんが、かなり網羅できていると思います。

ベルカウワーとファン・ルーラーは二人ともオランダの改革派神学者でした。

ほぼ同時代に活躍しましたが、所属教団が異なるため、主張に違いはありました。

二人の関係を研究することは、大きな意義があります。

それよりぼくがいま言いたいことは、二人の著作の量です。

「すごくたくさんある。だけど、この程度のものだ」

ということです。

どれほど偉大な神学者でもバケモノではありません。人間です。

人ひとりの一生の間に書き残しうる言葉には、限界があります。

「揃えて」みて初めて、そのことが分かりました。

それでぼくは、ほっとしたのです。

神学をなめてはいけません。しかし、むやみに恐れることもありません。

何を言ってるのか分からなくなってきましたので、このへんで終わります。

2013年11月22日金曜日

ぼくに安住の地は無いような気がします

いま気づきました。

ぼくは今週月曜日のブログ

「まあ、ぼくは『岡山県人』ですから、

 千葉の空気も、東京の空気も、読んであげる義理はありません。」

と得意気に書きましたが、

その三日後の、昨日木曜日のブログには、

岡山の空気をけがすようなことを書いてしまっています。

あーあ、こうしてぼくは日々、世間を狭くしています。

外国語できないから「日本から出て行け」とか言われても無理だし。

ぼくに安住の地は無いんですね、たぶん。

しゅるしゅる(煙)。

2013年11月21日木曜日

違憲状態国会が決めた法律に逆らうと禁固刑何十年という話になるのはグロテスクすぎます

違憲状態選挙で選出された(確定)

違憲状態議員による(確定)

違憲状態国会で(確定)

明白に違憲的ななんちゃら法案が審議され(いま)

その法案が「数の力で」成立した場合でも(?)、

その法律に従わなければ、禁固刑何十年(ええーっ?!)という話、

バカバカしすぎて、グロテスクすぎて、ついて行けないです。

ただちに解散総選挙すべきだと思います。

ただし、一票の格差の問題は解決したうえでの再選挙です。

または、なんちゃら法案は審議未了廃案とする。

どちらかです。

ぜひお願いいたします。

【追記】

ぼくごときの意見を無視するのは、そりゃいとも簡単なことですよ。

だけど、ぼくが書いたことは、ごく普通の庶民感覚だと思いますよ。

まさか強行採決するんですか。

違憲状態国会の強行採決。ずいぶんアナーキーですね。前代未聞ですな。

そういうことすると、皆さんの輝かしい経歴に傷がつくんじゃないですかね。

もう二度と法律だの憲法だのという言葉を口にできなくなるんじゃないですか。

恥ずかしいと思わないのかな。結局、権力の亡者だったのか。がっかりですね。

2013年11月20日水曜日

2012年12月衆議院議員選挙「違憲状態」についての最高裁大法廷判決に寄せて

1票の格差:12年衆院選は違憲状態 最高裁大法廷(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/m20131120k0000e040232000c.html

ついに最高裁判決出ました。

竹崎博允裁判長は、ぼくらの高校、岡山朝日高校の先輩だったんですね。知りませんでした。

竹崎博允 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/竹崎博允

今日の判決によると、選挙そのものは有効だそうですので、

せめて「違憲状態議員」と「合憲議員」の区別はされるべきだと思います。

この判決が出ても議席に堂々と座れる人の神経を、ぼくは疑います。

「違憲状態議員」は自主的に傍聴席に座るべきです。

それが不服なら自主的に議員バッジを外すべきです。

考えてもみてください。

「違憲状態議員」を含む国会で決められた法律に、

ぼくらは、どの顔して従えばいいのか。

冗談じゃない。

「違憲状態議員」たちを、どの国民が尊敬できるのか。

ぼくには無理です。

というか、その人自身、国会議員としてのプライドを持てるのか。

ぼくには甚だ疑問です。

早く解散総選挙してあげるほうが、その人たちの尊厳を守れると思います。

松戸小金原教会の月報『まきば』最新号が完成しました


松戸小金原教会の月報『まきば』2013年11月号が完成しました。

巻頭言 今月の言葉

 「被造物だけではなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいます」 (ローマ8:26)

牧師 関口 康

わたしたちは教会のために産みの苦しみを続けているでしょうか。教会に通うことは自分の満足や安心を求めるためであるというだけでは済まないのです。

わたしたちは自分のことで精一杯です。他人の世話までできる余裕はありません。しかし、わたしたちが悩んだり困ったりしたときに教会が助けになった経験をもっているなら、同じような悩みや苦しみを今味わっている人たちのためにも教会が必要だということが分かるはずです。遠くの教会まで苦労して通っていた人たちにとって、自分の家の近くに教会があることの意味や価値が分かるはずです。

いや、今は自動車・バス・電車でどこでも行ける。近所の教会などなくてもよい。もしそのような考え方が、教会も伝道もすっかりあきらめた結果として出ているものだとすれば、反省し、悔い改めなければならないことです。

パウロは教会をあきらめませんでした。どんなことがあっても伝道を続けました。パウロの言う「目に見えないものへの希望」とは伝道の希望です。まだ存在しない教会が、新しく生み出されることの希望です。まだ洗礼を受けていない人が、教会に通い、神の前で喜びと感謝をもって生きはじめることの希望です。

東関東中会の教師会を行いました

茨城県立県民文化センターのイルミネーション

今日(2013年11月19日火曜日)は、ひたちなか教会(茨城県ひたちなか市)で東関東中会の教師会を行いました。

開会礼拝の説教は勝田台教会の坂井孝宏先生でした。素晴らしい説教でした。

その後、日本キリスト改革派教会『教会規程』とカルヴァン『キリスト教綱要』を学びました。有意義な時間でした。

帰りに見かけた茨城県立県民文化センター(水戸市)のイルミネーションが美しかったです。

2013年11月18日月曜日

千葉の東京 Tokyo in Chiba

東京ディズニーランドが千葉にあることが「偽装」だというなら、東京大学(柏)も、東京歯科大学(千葉)も、東京電機大学(千葉NT)も、東京基督教大学(印西)も、千葉にあるのはすべて「偽装」ですかね。

こういうことをあんまりうるさく言い過ぎると、ギスギスしそう。ネット時代に地名の意味はだんだん薄れてきている気がします。

「新東京」とか「新都心」とか「副都心」というのは、まだちょっと遠慮がある感じですよね。堂々と「東京」を名乗りながら千葉、というのは、ぼくはもう慣れましたが、いまだにネタにされ続けられるところがありますね。

柏・松戸が十分東京であることはぼくもそうだと思います。が、それでどうなるかっていうと、柏・松戸在住の「若い元気なクリスチャン」は、柏・松戸にある教会の前を華麗にスルーして、自動車・バス・電車で東京の教会まで行っちゃうんですよね。悲しい、悲しい、悲しい、悲しい現実です。

しかし、その「若い元気なクリスチャン」だった人たちも、やがて華麗に加齢する。その頃になってやっと、「ああ、しんどい。遠くまで行くの、やんなっちゃった。苦労して東京の教会まで行っても、東京の教会は若い人たちばっかりで、ぼく/あたしの居場所が無くなっちゃったわ。...あれ?よく見ると、うちの近くにも教会あるじゃない、気づかなかったわ(50年くらい前から同じ場所にあるんですが...)。ま あ、仕 方 な い、こ こ で も い い わ。」(ゲシュペルトは筆者)とか言って、来てくれたりします。

これは教会だけの話でなく、病院や商店や学校なども基本的にだいたい同じことが当てはまります。ちょっと大きめの手術をすることになった人は、ほぼ必ず、東京の有名な病院のスーパードクターにやってもらうために、何日でも何か月でも待ちます。松戸・柏にも名医はたくさんいると思うのですが、病院や医師までブランドものです。

商店も基本的に同じことが当てはまると思います。全国チェーンのタコ焼き屋の「松戸小金原店」と、東京の「原宿店」とで、タコ焼きの味が違うとは考えにくいのですが、松戸・柏の「若くて元気な」人たちは、「松戸小金原店」の前を華麗にスルーして、「原宿店」のタコ焼きをハフハフしたりします。

学校も然り。場合によっては小学校くらいから、何時間もかけて東京の有名校に通わせられている子どもたちがいます。それが悪いとは思いませんが、「地元の学校は荒れている」という神話を信じるゆえにそうする、という親もいます。しかし、それは神話です。べつに荒れてません。

こういうことを書くと嫌われることは分かっているのですけどね。

まあ、ぼくは「岡山県人」ですから、千葉の空気も、東京の空気も、読んであげる義理はありません。

ネット時代の教会と牧師

以下、思いつくままに書きます。

注意していただきたいのは、これはぼく自身の直接的な体験ではないという点です。あくまでも可能性であり、一種のフィクションです。悪しからず。

(1)教会関係とネット関係

毎週日曜日に教会に集まる同士(とくに牧師と教会員)と、牧師自身のネット関係の仲間は、別々のほうがいいような気がします。

なぜなら、教会の中にはネットを使わない人がいますので、いわば必然的に、教会員「の一部」と牧師がネット関係にあることになるからです。

そうなりますと、牧師の言葉や牧師経由の情報が「伝わっている人」と「伝わっていない人」が教会の中に併存する格好になることは、必然的です。

それは、教会の中に不信感、不和、対立を引き起こす遠因ないし直接の原因になりかねません。

(2)ネット経由の情報は「パソコン(モバイル含む)の前」でしか得られない

ネット時代の牧師は、(ぼくら日本キリスト改革派教会でいえば)大会や中会の委員会や、その他ありとあらゆる方面からの情報が、今やメールはじめネット経由で送られてきています。

「ネット経由で送られる情報」を入手するための「唯一の」方法は、「パソコンの前に座ること」です。他にどうすることもできません。

しかし、「パソコンの前に座る牧師」の姿が、見る人によっては、非常に「不愉快な存在」に見えてしまうらしいのです。その感情たるや、「人間を相手にするのではなく、パソコンを相手にしている不埒な牧師」だ、みたいな感じのようです。

イヤ、違うんですが。「大昔の」手旗信号とか、モールス信号とか、交換電話とか、わりと最近のファックスとかと、ネットは、基本何も変わらないんですが。

「パソコンの画面を見つめるだけで、ぼく/あたしの顔を見てくれない」とか文句言いたい気持ちも、まあ分からないでもないですが、それ、毎日通っておられる病院のお医者さんへの不満ですよね。そのお医者さんたちに文句言ってくださいね。

(3)ネット時代の「忙しい」牧師は、ハタから見ると、「何もしていない」ように見える

教会は、いますでに、あらゆる情報をネット経由でやりとりしはじめています。

たとえば、ぼくら日本キリスト改革派教会の「東関東中会」では、

中会の会議や各委員会の開催通知、議案書、会議録略報、あるいは緊急連絡や訃報などはPDFやワード文書形式でメールに添付されて送られてきます。プリントアウトやファイリングは各人に任されています。

他にも、多くの委員会が各自のメーリングリストなどを設けて日常的に議論が交わされていますし、最近はfacebookなども積極的に利用されるようになりました。

あるいは、これは大会や中会のケースではありませんが、個人的なグループなどでは、スカイプやハングアウトなどのビデオ通話で、会議や勉強会が行われるようになりました。

このような動きはネットコミュニケーションの発達に連動しているものでもありますが、同時にそれは「教会の伝道不振」という時代的背景を持っています。

それはどういうことかといえば、早い話、各個教会も中会も大会も献金収入が減る一方で、経済的に追い詰められているため、会議や委員会のたびに支出される「日当、交通費、食事代、宿泊費」といったものを切り詰めることに必死です。

その中でのネットコミュニケーションの活用は、きわめて危機的な財政難にある各個教会、中会、大会を「助ける」意義もあるのです。

ところが、ここに大きな問題が発生します。

上記のような多岐にわたるネットコミュニケーションは、すべてパソコン(モバイル含む)の前で行われます。

そして、その姿を「客観的に見れば」、

牧師が書斎にひとりで引きこもり、パソコンの前に座って、目と指を不断に動かし続け、独りごとを言い、時々爆笑したり、大きな声でしゃべっている、

というふうな絵になります。

しかも、多くの牧師は、教会に近接した場所に自宅(牧師館)があり、長時間の通勤などをしていません。

そのため、「ネット時代の忙しい牧師」は、ハタから見ると、「自室に引きこもってパソコンをいじっているだけのヒマな人」に見えてしまうのです。

すると、どうなるか。

「ヒマそうな牧師」は、教会からの尊敬の対象にはなりにくくなります。

「ぼくたち/あたしたちは、毎日毎日、汗水たらして長時間の通勤を耐え、

ひどい人間関係の中でもみくちゃにされ、イヤな仕事をこなしている。

それなのに、うちの牧師は、自室にこもってパソコンをいじっているだけ。

冗談じゃないわ。あんな牧師に耐えられるか」

というような話になりかねません。

イヤイヤ、そんなことないから。

めっちゃ忙しいですよ、まあたしかに「パソコンをいじっている」だけですが。


2013年11月17日日曜日

神に計画があり、万事が益となります

ローマの信徒への手紙8・28~30

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

今日もローマの信徒への手紙を開いていただきました。今日の個所に記されているのは多くの人の心を慰めてきた有名な御言葉です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)と記されています。

「神を愛する者たち」と言われているのが、被造物がその出現を待ち望んでいるとパウロが書いていた「神の子たち」(19節)のことです。それはわたしたちです。イエス・キリストと結ばれるために洗礼を受けた者たちです。それは教会です。

しかもそれは、教会という団体を指していると同時に、この団体の中にいる一人一人のキリスト者を指しています。その場合の個人と団体との関係は、「鶏が先か、卵が先か」という問題ほどには難しくありません。教会の場合は個人が先です。個人としての一人一人のキリスト者が集まって教会をつくるのです。その逆はありません。そこに一人もキリスト者はいないけれども、教会が存在するということはありません。

しかし、パウロは「神を愛する者たち」とは「御計画に従って召された者たち」であると、ただちに言い換えています。「御計画」とは神の御計画です。わたしたちの神は心をもっておられる存在です。その神が、御自身の心の中に、この地上に教会をつくる計画をもっておられるのです。その意味は、神がこの世界に教会が必要であると信じておられるということです。そして、その神が御自身の必要と御計画に基づいて、神を愛する者たちを神のみもとに召し集められるのです。

この「召された」という点は重要です。わたしたちは自分で教会を探して、ここに来たと思っています。電話帳を調べたかもしれませんし、最近ではインターネットで調べたという方も多いでしょう。チラシを見てくださった方もおられるかもしれませんし、聖書を本屋で買って読んだ、キリスト教の本を読んだ、キリスト教のラジオ番組を聞いたという方もおられるかもしれません。あるいは、教会の人から誘われた。親に連れて来られ、自分も信じるようになった。そのように、わたしたちが教会に通いはじめるまでには、いろいろなきっかけがあったと思います。

しかし、それがどのようなきっかけだったにせよ、わたしたちは、とにかく自分でここに来たのだと、最初は誰でもそう思います。遠くの町から引っ越してきたとき、いくつかの教会をまわってみて、自分にいちばん合いそうな教会はここだと思って通うことにした。そのように最初は誰でも思います。そのように考えること自体が間違っているわけではありません。当然のことです。

しかし、そのわたしたちが教会に通いはじめて、しばらくすると、分かって来ることがあります。それは、わたしは自分で教会に来たと思っていたけれども、実はそうではなかったということです。神がわたしを教会へと召されたのだということが分かってきます。神御自身があらゆる手段を用いて、わたしたちを教会へと導いてくださったのだ、ということが分かってきます。

それはよく考えてみれば、ものすごく分かりにくい、めちゃくちゃに現実離れした考え方ではないということをお分かりいただけるはずです。先ほど電話帳だ、インターネットだ、チラシだ、本だ、ラジオだと言いました。あるいは教会の人から直接誘われた。それらはすべて教会自身ができるだけ多くの人たちに教会の存在を知っていただきたいという強い願いをもって行っていることです。ここに教会が存在していること自体も、教会の建物も、ずっと前からここにあったわけではなく、教会のみんなで力を合わせ、献金を集めて作っているものです。

そういうことは、教会に初めて来たばかりの頃のわたしたちには分からなかったことです。最初はみんなお客さんでした。お客さんであることが悪いわけではありませんが、だんだん教会の内部事情が分かってくるときが来ます。

神を信じることも、教会に通うことも、自分で始めた、自分で決めたと、最初はみんなそう思うのです。しかし、実際はそうではなく、わたしたちは招かれ、召され、集められたのです。すべての人、すべての生き物が自分で自分を生み出すことはできず、必ずその親から生まれるように、わたしたちの信仰も、教会生活も、自分で生み出したものではなく、神が生みだしてくださったものなのです。

もちろん、いま申し上げていること自体が信仰です。わたしたちは神を信じる信仰へと導かれないかぎり、そのような考え方をもつことができません。信仰がなければ、わたしたちはあいかわらず、自分でここに来た、自分で教会を選んだと思うでしょう。しかしその思いは、信仰を与えられたときに初めて、実はそうではなかった、神が私をここへと召し集めてくださったのだという思いへと置き換えられるのです。

いま、少し長く説明させていただいたのは「召された」という言葉の意味です。パウロが言いたいことは、教会は神がつくってくださったものであり、わたしたちは神によって教会に集められたのだ、ということです。それは神がこの世界に教会が必要であるとお考えになったからです。

それでは、なぜ神はこの世界に教会が必要であるとお考えになったのでしょうか。その答えはこうです。神は、御自身の手によって創造されたこの世界と人間から、御自身が愛される存在でありたいと願われたのです。神は「神を愛する者たち」をこの世界に生み出すことを願われたのです。

人間の親子の関係を考えてみれば、いま申し上げていることは、ある程度はご理解いただけるはずです。親が自分の子どもたちに願うことは、それはやはり自分のことを愛してもらいたいということだと思います。自分の子どもに嫌われたい、憎まれたいと願う親は、通常はいません。全くいないとは言い切れませんが、多くはないと思います。ほとんどの親は子どもから愛されたいと願うでしょう。

もちろん、そのように、親が子どもから愛されるために親がしなければならないことは、子どもを愛することです。自分が愛した分だけ、相手から愛してもらえるでしょう。親は子どもを愛さないが、子どもからは愛されたいというのは虫が良すぎます。親と子どもの関係は、ギブアンドテイクです。親から子どもへの愛は一方通行の場合もあると思います。しかし、親から愛されなかった子どもが、それでも親を愛するということは通常ないと考えるべきです。

神は世界と人間を心から愛してくださっています。わたしたち一人一人を愛してくださっています。しかし、親から子どもへの愛は一方通行である場合もあると、たったいま申し上げました。そのようなことが神とわたしたち人間との間にもありえます。そのようなことが現実にあります。

わたしたちの命は神が創造されたものです。わたしたちの存在と人生を創造されたのは、神です。そして、わたしたちは生きている間、あらゆる種類の恵みと祝福、楽しみと遊びを神から与えられています。

しかし、そのようなことは全く考えたこともないという人は、残念ながら少なくないのだと思います。わたしたちは神から愛されているとか、神の恵みをいただいているとか言われても、その意味がよく分からないと感じる人は、おそらく多いのだと思います。神からどれだけ愛されていても、その愛に気づくことがなく、ありがたいとも思わないので、「神を愛する」ということの意味が分からないのです。

教会とか牧師とか、そういう人たちが、聖書の言葉に基づいてそのようなことを言っていることについては、それを全く知らないわけではないし、少しくらいは耳を傾けることもやぶさかではない。しかし、だからといって、それを信じなさいとか受け容れなさいとか言われても困る、と感じる人は、多いのだと思います。

なぜ困るのでしょうか。その理由は分かります。なるほどたしかにわたしたちには恵みというようなものも与えられているのかもしれない。しかし不幸もたくさんあるではないか。わたしたちの人生は苦労だらけ、不幸だらけではないかと考えてしまうからだと思うのです。神が世界を愛し、人間を愛しておられるというなら、なぜこの世界と人間には苦労があり、不幸があるのか。それを説明してくれなければ納得できないし、信じなさいと言われても不可能だ。そのようにはっきりおっしゃる方もおられます。

その言い分を、私自身は全く分からないと感じるわけではありません。ある意味で、よく分かる話です。しかし、ここから先は少しだけ、私の考えを言わせてください。私はいま、牧師という立場で教会に関わらせていただいています。その私が知っていることは、いま教会に集まっておられるみなさんがどういうきっかけで教会に通うようになられたのか、ということです。

私はみなさん全員のことを何もかも知っているわけではありません。また、私が知っていることをべらべらしゃべることはできません。しかし、はっきり言えることは、ほとんどの人は、「私は幸せな人生を送ることができています。だから神を信じます」という理由で教会に通い始め、信仰をもって生きるようになったのではない、ということです。「私は幸せだから、神を信じます。不幸だから神を信じることができません」とおっしゃる方は、ほとんどいません。私自身はそのような方と出会ったことがありません。

現実はむしろ正反対です。多くの人は、不幸のどん底にいたときに救いを求め、助けを求めて教会に来られたのです。大切な家族を失った。自分が病気になった。人生に空しさを感じた。世間に絶望した。何が真実で、何が嘘っぱちかが分からなくなった。そのようなときに、聖書を読みたい、神の御言葉を知りたいと願って、教会に来られたのです。

そうでもないという方がおられるかもしれません。それはそれで問題ありません。人生に不幸など無いに越したことはありません。しかし、不幸を体験したことがないという人は、どこにもいないのです。病気になったことがないという人はいません。苦しんだことも泣いたこともないという人など一人もいません。わたしたちが人間であり、傷つきやすい肉体をもつ存在であるかぎり、ほとんど毎日のように疲れを感じ、不満を抱え、助けを求めて生きているのです。

それこそが今日の個所でパウロが言っている「万事」の具体的な内容です。わたしたちが人生の中で体験するあらゆることが「万事」です。世界に起こるすべての不幸、すべての絶望を含むあらゆる出来事が「万事」です。

その「万事」が「益となるように共に働く」のだとパウロは書いています。わたしたちの人生に襲いかかる不幸が、かえってわたしたちを、神を信じ、神に依り頼む信仰に導き、教会へと招き入れるのです。そのような方法で神はわたしたちを「神を愛する者」へとつくりかえてくださいます。神がこの私を心から愛してくださっていることが分かるようにしてくださるのです。

(2013年11月17日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年11月16日土曜日

「○○フォーティーエイトになりました!」とは決して言いたくないです

今日は独りでひっそり自分の誕生日を祝いました。

一昨年も昨年もfacebookの皆さまから怒涛のバースデーメッセージをいただいて、うれしかったです。

誕生日を非公開に設定してみたら、一日中し~んとしているので、それはそれで寂しい誕生日でした(ウソです、ぜんぜん寂しくありません)。

48歳になりました。

昨年の誕生日の時点で、「来年関口は『ぼくは○○フォーティーエイトになりました!』とか騒ぐに違いない」と予測されていましたので、それだけはするまいと、かたく心に誓いつつ、去る一年を過ごしてまいりました。

人生はややしんどいですが、とりあえず前に進んで行くしかありません。

ぼくは今の10代、20代くらいの人たちを応援したいです。

30代以上の人たちは、どうぞご自由に、自分の力で生きて行ってください。よろしくお願いいたします。

それではまた。

もうすぐ日付が変わりますので、これにて終了します。

2013年11月14日木曜日

余裕のやっちゃんです

全く個人的なつぶやきなのですが。

ぼくの属する「東関東中会」は、

これまでは毎年の第二回定期会を11月23日(祝)に固定してきましたが、

今年はいろいろ考えて11月4日(月)に行い、もう終わってしまいました。

それで何が起こったか。

今とっても精神的に余裕がある状態なんです。ぽけーっとしています。

中会会議というのは「決めごと」をする場ですので、

会議までは心理的に混乱状態ですが、

会議が終われば決議内容を実行に移すだけです。すっきりさわやかです。

というわけで、今年に限っては、クリスマスまでポカン顔の関口です。

教会の牧師室や牧師館の、掃除とか片づけとか、しています。

まるで、いつでも引っ越しできるような、さわやかさです。

余裕のよっちゃん、というやつです。ぼくはやっちゃんですけどね。

「教会を動かす」の含意は「教会をよくする」です

前稿の続き。

「教会を動かす」の含意は、もちろん「教会をよくする」です。

歴史が証明するとおり、巨悪がはびこるのは社会だけでなく教会も然りです。

ぼくは悪人かもしれませんが(だとしたら、すいません)、ぼくは巨大ではないので「巨悪」ではありえません。ぼくが片付けば済むならいつでも退場しますけど、何の変化もありません。

ぼくのことはともかく、社会だけでなく教会にも巣食う巨悪の根源を正当な手続きで排斥し、かつ教会をよくすることが「動かす」です。

でも、教会は簡単に動かせません。

教会を利用してビジネスをしようと思いついた人は、たいていあきらめて出て行きます。営利目的で教会を乗っ取るのは容易ではないというか、全く不可能だからです。

教会はカネにはなりません。特定政党や特定企業に利用されることも断固拒否します。

それは教会の保守性(「この世で最も保守的な存在としての教会」トレルチ)の良い面だと、ぼくは思います。

しかし、悪い面もあります。

健全な批判精神を持っている人たちが、多くの場合、教会の周辺においやられてしまいます。

何も変えたくない、変わらないでほしいと願っている人たちが、ど真ん中に居座る。

ど真ん中に居座って、それで何かを懸命にしてくれるならいいけど、何もしない。

偏執的にミクロ的な一真理に固執し、不毛な同語反復を続け、さまざまな可能性に目を向けず、自派の存続を揺るがす人たちを組織票で抹殺する、といったやり方を好む。

これも「教会」ですよね。だけど、動かさなくてならないと思う。

世界で最も保守的なものを変革できれば世界は変革しうるんじゃないかな

昨日は「教会(キルへ)はインドのカースト制度を除けば多分この世の中で最も保守的なものである」というエルンスト・トレルチの言葉(1921年)に改めて接し(久しぶりに読みました)、

ちょっとファイトの念が燃えはじめたぼくだったりします。

なんていうか、

それって逆に考えれば、

トレルチをして「この世で最も保守的」と呼ばしめた「教会」を変えることができるほどの説得力ある言葉と生き方が見つかれば、そのとき世界は変わるってことですよね。

「教会」という、この押しても引いても梃子でも動かない、がっかりするほど鈍重なものを動かすことができる力があれば、世界は動くってことですよね。

そして、その言葉、その生き方、その力は、「教会」の中にいる者たちにしか手に入れることはできませんよね。教会に関わったことない人たちに、教会を動かす力はない。

「世界が変わらない、動かない」と嘆く気持ちは、ぼくも同じ。

だけど、それを言うなら、ぼくらはまず「教会」を変え、動かしてみせなくちゃね。

それができたら、世界も動いてますよね。

こういう考え方、間違ってますかね。

2013年11月13日水曜日

国や社会の形成にとって教会は必要不可欠だと思う

以下、今日読んでいる本から引用します。

日本語版原文では改行なしでつながっていますが、読みにくいので、適当に改行を加えました。

「さてしかしながら、われわれの関連にとって決定的に重要なのは、教会型に基づく社会哲学は、分派型に基づく社会哲学と全く別のものであるという事態である。

結局、完成された理論としての社会哲学をもっているのは教会だけである。というのは、教会のみが学問に対する関心と、この世を支配するのに役立つその学問の力に対する関心をもっているからである。

教会の学問性つまり教会哲学と神学は、それ自体が教会の相対的世界性の一部であり、この世界性と一緒になって一層広範に発展したのである。

しかしことに内容的な面で矛盾しているところが見られる。教会はこの世との妥協を企て、しかも自らの罪の赦しの理念や恩寵の理念を用いてこの妥協をかなりうまく実現することができた。教会はこうして、相対的自然法の諸々のこの世的な秩序を冷静に認めることができた。

また教会はそれらのおかげで、持続するこの世の中で継続的な労働を営む準備をすることができた。

教会は、その全体的な施設の理念、恩寵の理念、権威の理念それ自体において保守的である。それは、インドのカースト制度を除けば、多分この世の中で最も保守的なものである。

教会は、国家と社会における諸々の世俗的な秩序との関連においても保守的である。教会は一般に国家の権威と世襲的な社会組織の安定性に対して、それらによって束縛されることはないが、親和性をもっている。」

1922年(91年前)に発表された文章です。論者の炯眼に圧倒されました。

ただし、読み方というか解釈には、工夫というか予備知識がかなり必要な文章ではあります。

なかでも、「教会」(キルへ)と「分派」(ゼクテ)の明確な区別は、日本のキリスト教界にはピタリとは当てはまりません。

この人の分類法で考えていけば、日本のキリスト教界にあるのはほとんどすべて「分派」(ゼクテ)だ、という判断になるでしょう。

彼にとって「教会」(キルへ)とは、「学問への関心」をもち、「世界と妥協する」存在なのです。

しかし、そのことを踏まえたうえでも、ぼくはやはり、この論者が定義する意味での「教会」の存在が日本に必要だと考えさせられました。

この論者に言わせると、「教会」はインドのカースト制度に匹敵するくらいの「保守的な存在」だということになるようですが、それは当たっているとぼくは思う。

しかし、教会が「保守的」であること自体が悪いことだとは、ぼくは思わない。

一つの国や社会が形成されていくためには、教会のように「腰の据わった存在」が必要不可欠だと思うのです。

反論はあるでしょう。

この文章が発表されてから10年ほど後のドイツに出現したあの極右政党と「教会」(キルへ)との「妥協」はあってはならなかった。それも、そのとおりです。

上記の引用はエルンスト・トレルチの論文「キリスト教社会哲学」の一節です。

(佐々木勝彦訳、『トレルチ著作集』第3巻、ヨルダン社、1983年、24~25頁)。

1922年といえば、トレルチがプロイセン文部省次官を辞した1921年と、57歳で死去する1923年との間に発表されたもの、ということになります。

当時、ベルリン大学哲学部の教授でした。トレルチの個人史においても、ドイツの政治史においても、重要な意義を持つ論文だと思います。

2013年11月12日火曜日

「超訳聖書」のブログを立ち上げました

三つしか記事がありませんので、独立させるのは早いかもしれませんが、

頭と心の整理の必要もあり、「超訳聖書」のブログを立ち上げました。

超訳聖書
http://chouyaku.blogspot.jp/

「萌訳聖書」というタイトルにしてほしいという要望があるんですが、どうしたものか...

何度も書きますが、するどいツッコミには耐えられません。

ケンカ腰でかかってくるタイプの批判は無視しますので、悪しからず。

とにかく、ぼくは自分の読み方に、何のこだわりもありません。

また、最新の聖書学的知識などは、持っていません。

強いて言えば、ぼくが試しているのは「文体研究」のようなことです。

まあ、でも、まだほとんど何もできていませんので、

先走ったことを書くのはやめておきます。

2013年11月11日月曜日

のれんに腕押し、ぬかにクギ

だけど、日本だけではないと思いますが、

「プロテスタント」教会は、いろいろグループで細分化しているので、

他からの批判も自己批判もできにくい構造になっていると思うんです。

のれんに腕押し、ぬかにクギで、ひらひらかわすことばかり得意で、

自分にとって都合の良い「教会批判」にはやたら関心が強い割に、

自分に都合の悪い「教会批判」は、自分のこととして聞こうとしない。

ぼくは今、このことを他人事として書いてるわけではないですよ。

他人事になるわけないじゃん、生まれて(あと数日で)48年、

日本の「プロテスタント」教会から離れたことは一度もない人間なので。

ぼくは牧師の子弟ではないですが、

日曜日に教会にいなかった日は両手の指で数えられるほどしかないです。

年数で競うつもりはない、ということは、前から繰り返し書いています。

70代、80代の人に、40代、50代の者たちが、年数で勝てるわけないよね。

「外部」から文句言われるのはイヤですけどね。本当は聞きたくもない。

「何が分かるんだ」と言いたくなる衝動にかられることもあるほどです。

だけど、「身内」をかばい続けるのは、少々疲れました。

ホントに疲れました。

疲れても牧師。

死ぬまで牧師。

やりますよ、牧師。

ためいきもつかないぞ。

ぼくとかがためいきつくと、

「自分はもっとたいへんだ」と、

たいへんアピールしたくなる人たちがいるもんね。

ためいきついてません。ついてませんついてません。

茶坊主、お見合い、どうぞどうぞ

先週の「第19回 カール・バルト研究会」で結構盛り上がったのは、

「茶坊主」の話でした。

その内容を書くと角が立つので、書きませんけどね。

今の日本の(プロテスタント)教会は、

バレーボールの「お見合い」状態なのかもしれません。

ていうか、ダチョウ倶楽部の「どうぞどうぞ」だな。

発信力が強かった世代の人たちがほとんど引退状態にあり、

発信力が弱い、または発信力が無い人たちが、ど真ん中に居座っている。

引退状態にある世代の人たちの発信力にいつまでも期待し、ぶらさがる。

そういうの恥ずかしいと思わないのかな。ぼくは恥ずかしいんだけど。

2013年11月9日土曜日

忘れた頃の「超訳聖書」です

忘れた頃の「超訳聖書」です。

するどいツッコミには耐えられませんので、悪しからず。

--------------------------------------

ローマの信徒への手紙8章18~25節

使徒パウロ/著  関口康/超訳


そりゃもちろんね、苦しいですよ、ぼくらだって。

だけど、今ぼくらが味わってる苦しみなんてね、

ぼくに言わせてもらえば、どうっちゅことないんですよ。

だって、この苦しみを耐えた向こう側に、明るい明日が待ってるんだからね。

ただただ、その夢だけ見て生きてますよ、ぼくは。

全世界がぼくらに期待してくれてるんです、はっきり言って。

人生は空しいとか、生きる意味ないとかね、そういうことばっか言ってる世界が、ね。

そういうこと言ってる人たちだって、自分でそうなりたくてなったわけじゃないんだよ。

じゃあ、だれがそうしたのって話になるわけだけど、

もうそれは神さまだとしか言いようがないね。

ぼくらに空しさとかを味わわせる神さまって、どんなだよと、

つい言いたくもなるけどね。

だけど、だからこそ、世界には希望があるんですよ。

だって、空しいままでいたい人なんて、いないんだから。

あとは死ぬしかないとか、どうせ世界は終わるんだからとか、

そういう思いにとらわれてしまってどうしようもなくなっているときでも、

なんとかそこから這い出したいと、だれでも思っているんですよ。

その出口なしの堂々めぐり状態から自由になって、

キャッキャ言って遊んでる子どもたちの笑顔のような輝きの中で

神さまとぼくらが仲良く生きていけるときが来るんですよ。

それってやっぱりスゴイことなんです。

ぼくらが生きてる世界は神さまが造ったものですよ、それは信じてほしいです。

この世界がぼくらのことを期待してくれててね、

「早く生まれろ~、早く生まれろ~、う~ん、う~ん」てね、

「ひっ、ひっ、ふー」でもいいや、

さあ、これから赤ちゃんがお腹から出てこようとしているときのお母さんみたいに、必死にね、

ぼくらを産むために、全世界がふんばってくれてるんですよ。

産まれてくるぼくらのほうも、サボってるわけじゃないですよ。

ぼくらも必死ですよ。お母さんのお腹の中から自力で這い出しちゃうくらいの勢いあるぜ。

赤ちゃんは出てくるときは、ひーひーとかは言わないけどね、

出てきてから「どぎゃあ」と泣くまではね。

だけど、心の中で、っていうか、口には出せないけど、

赤ちゃんだって必死で泣いてるんですよ。狭いしね。

「こんなところから出てやる~」みたいな感じでね。

いま言ってるのは、もちろんたとえですよ。

何を言いたいのかって?

ぼくらがさ、教会とか信仰とか、何が悲しくてそんなものを守ったりしてるのか。

そんなものを守ろうとするから苦しむことがあるとかね。

そんなことにまるで興味を持ってくれない人たちが圧倒多数の中でね。

「なにそれ?」とか「宗教オタク」とか言われたりもしながらね。

自分でも何やってるのか分からなくなるとき、あるかもしれないよね、はっきり言って。

だけど、ぼくらは教会続けますよ。

信仰とか捨てられないですよ。

そういうことがなんでできるのか、ですよ、ぼくが言いたいことは。

それはやっぱり、さっき言ったことですよ、

全世界がぼくらに期待してるんだってば。

だって、空しいままでいたい人なんか、ひとりもいないんだから。

神さまとか、人生の意味とか、やっぱり知りたいんですよ。

そんなの知らなくていい、なんて人はいないですよ。

全世界がぼくらに期待してくれていると信じることが、ぼくらの希望だし、

そういう希望を持てること自体が、ぼくらの救いそのものですよ。

全世界が教会に期待してくれているかどうか、証拠見せてみろとか言われてもね、

そんなもん見せられませんよ。「期待」って見えるものなのか。逆に聞きたいよね。

だけど、目に見えないけど、本当にそうなんだよ。

信じろとか言っても無理かもしれないけど、信じるしかないじゃん。

目に見えないものだから、ぼくらは信じるんだよ。

もう見えてるものは、信じる必要ないじゃん。だって、目の前にあるんだから、

ぼくはね、自分で言うのもなんだけど、我慢強い人間です。

いつまでも待ちますよ。

ぼくは教会をあきらめない。

Christliche Anthropologie in de Konflikten der Gegenwartは「現代の闘争の中におけるキリスト教人間像」だろうか


サブタイトルは、Christliche Anthropologie in de Konflikten der Gegenwartだったのか。初めて知りました。

それが「現代の闘争の中におけるキリスト教人間像」と訳されています。辞書的意味に忠実に訳されてはいるということは、よく分かります。

しかし、ちょっと厳しすぎる言い方かもしれませんが、訳者の視線は、この本をまだ読んだことがなく、ドイツ語を読むことができない人たちに、ではなく、この本をドイツ語原著で熟読していて、ドイツ語の構文を知っている「身内」に向かっているのではないかと、なんとなく訝しく思えてきます。

いま書いていることは誤訳の指摘ではないし、訳者に対する批判でも攻撃でもありません。ただ、いろいろ感想を述べているだけです。

とはいえ、Konfliktは「闘争」だろうか。「の中における」という日本語に奇妙さはないだろうか。inを間に挟んだ二つの文は、いつでも後者を先に、前者を後に訳さなければならないか、などなど、いろいろ考えさせられています。

たとえばの話、「キリスト教的人間論の今日的議論」と訳すのは間違っているでしょうか。原著者がサブタイトルに込めている意味は、その程度のことだと思うのですが。

この訳書が出版された時期の背景的なことを想像すれば「闘争」と訳したかったのかもしれないことは分からなくもないですが、最大で「葛藤」くらいではないでしょうか。

なんか、そんなことを考えました。

忘れた頃の「超訳聖書」です

忘れた頃の「超訳聖書」です。

するどいツッコミには耐えられませんので、悪しからず。

--------------------------------------

ローマの信徒への手紙8章18~25節

使徒パウロ著/関口 康「超訳」


そりゃもちろんね、苦しいですよ、ぼくらだって。

だけど、今ぼくらが味わってる苦しみなんてね、

ぼくに言わせてもらえば、どうっちゅことないんですよ。

だって、この苦しみを耐えた向こう側に、明るい明日が待ってるんだからね。

ただただ、その夢だけ見て生きてますよ、ぼくは。

全世界がぼくらに期待してくれてるんです、はっきり言って。

人生は空しいとか、生きる意味ないとかね、そういうことばっか言ってる世界が、ね。

そういうこと言ってる人たちだって、自分でそうなりたくてなったわけじゃないんだよ。

じゃあ、だれがそうしたのって話になるわけだけど、

もうそれは神さまだとしか言いようがないね。

ぼくらに空しさとかを味わわせる神さまって、どんなだよと、

つい言いたくもなるけどね。

だけど、だからこそ、世界には希望があるんですよ。

だって、空しいままでいたい人なんて、いないんだから。

あとは死ぬしかないとか、どうせ世界は終わるんだからとか、

そういう思いにとらわれてしまってどうしようもなくなっているときでも、

なんとかそこから這い出したいと、だれでも思っているんですよ。

その出口なしの堂々めぐり状態から自由になって、

キャッキャ言って遊んでる子どもたちの笑顔のような輝きの中で

神さまとぼくらが仲良く生きていけるときが来るんですよ。

それってやっぱりスゴイことなんです。

ぼくらが生きてる世界は神さまが造ったものですよ、それは信じてほしいです。

この世界がぼくらのことを期待してくれててね、

「早く生まれろ~、早く生まれろ~、う~ん、う~ん」てね、

「ひっ、ひっ、ふー」でもいいや、

さあ、これから赤ちゃんがお腹から出てこようとしているときのお母さんみたいに、必死にね、

ぼくらを産むために、全世界がふんばってくれてるんですよ。

産まれてくるぼくらのほうも、サボってるわけじゃないですよ。

ぼくらも必死ですよ。お母さんのお腹の中から自力で這い出しちゃうくらいの勢いあるぜ。

赤ちゃんは出てくるときは、ひーひーとかは言わないけどね、

出てきてから「どぎゃあ」と泣くまではね。

だけど、心の中で、っていうか、口には出せないけど、

赤ちゃんだって必死で泣いてるんですよ。狭いしね。

「こんなところから出てやる~」みたいな感じでね。

いま言ってるのは、もちろんたとえですよ。

何を言いたいのかって?

ぼくらがさ、教会とか信仰とか、何が悲しくてそんなものを守ったりしてるのか。

そんなものを守ろうとするから苦しむことがあるとかね。

そんなことにまるで興味を持ってくれない人たちが圧倒多数の中でね。

「なにそれ?」とか「宗教オタク」とか言われたりもしながらね。

自分でも何やってるのか分からなくなるとき、あるかもしれないよね、はっきり言って。

だけど、ぼくらは教会続けますよ。

信仰とか捨てられないですよ。

そういうことがなんでできるのか、ですよ、ぼくが言いたいことは。

それはやっぱり、さっき言ったことですよ、

全世界がぼくらに期待してるんだってば。

だって、空しいままでいたい人なんか、ひとりもいないんだから。

神さまとか、人生の意味とか、やっぱり知りたいんですよ。

そんなの知らなくていい、なんて人はいないですよ。

全世界がぼくらに期待してくれていると信じることが、ぼくらの希望だし、

そういう希望を持てること自体が、ぼくらの救いそのものですよ。

全世界が教会に期待してくれているかどうか、証拠見せてみろとか言われてもね、

そんなもん見せられませんよ。「期待」って見えるものなのか。逆に聞きたいよね。

だけど、目に見えないけど、本当にそうなんだよ。

信じろとか言っても無理かもしれないけど、信じるしかないじゃん。

目に見えないものだから、ぼくらは信じるんだよ。

もう見えてるものは、信じる必要ないじゃん。だって、目の前にあるんだから、

ぼくはね、自分で言うのもなんだけど、我慢強い人間です。

いつまでも待ちますよ。

ぼくは教会をあきらめない。

2013年11月8日金曜日

「第19回 カール・バルト研究会」報告


好例の集合写真を撮り忘れましたので、

代わりに本の写真を。

今日(2013年11月8日金曜日)21時から23時30分まで

「第19回 カール・バルト研究会」を

グーグルプラス・ハングアウトで行いました。

今日のテキストは

カール・バルト『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の

第10章「イエス・キリスト」の後半部分でした。

ここに来てバルト神学の問題性が一気に噴出するといった感じで、いろいろと考えさせられました。

本日の参加者は下記(五十音順、敬称略)。

小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)途中まで
藤崎裕之(北海道亀田郡)

次回は、な、なんと「第20回」です。

「第20回 カール・バルト研究会」は11月29日(金)21時から23時までです。

どなたもぜひご参加ください。

2013年11月7日木曜日

ぼくは「プア充」です

http://www.kotomatome.net/archives/33810872.html

島田某氏(面識なし)の書きっぷりは

あんまりぼくの好みじゃないんですけど、

「プア充」という言葉の流行源になっておられるらしいと、

FBのお友達から今日教えていただき、微妙な気持ちでいます。

ぼくは自他ともに認める(かどうかは不明)「プア充」の体現者です。

生涯2回経験した「海外旅行」は、すべて他の方のお金で行かせてもらいました。

ぼくの年収をFBとかに書くと教会の名誉にかかわるので書きませんが、

たぶん驚かれるほどです。

そういう人間なのですが、

ぼくを見て「かわいそう」と哀れんでくださる方はいないですね。

それは「プア充」だからだと思いますよ。自慢じゃないですけどね。

「プア充」、ですか、あはは。大笑いですね。ナニ言ってんだか。

それ、ぼくらのことですよ。

ぜひ「牧師」になってください。

よろしくお願いいたします。

土下座。

「現代人に納得できる教義学」を求めて(3)

「現代神学」という四文字熟語を使用することにぼくは心理的抵抗があります。なぜなら、神学が現代において営まれているかぎり、それは「現代神学」だからです。たとえテキストが過去の神学者の著作であっても、それを現代人が読み、現代人に理解できる言葉を用いて解釈している時点で「現代化」が起こっています。

「現代神学の元祖はシュライアマハーである」というシナリオは、いつ誰が書いたのでしょうか。おそらくそれを書いた人の「現代」は今の我々の「大昔」です。タイムラグというのは、時間の微妙なずれを指す言葉ではないでしょうか。「現代神学」という語のずれまくり感は、ハンパないレベルです。

神学エンチュクロペディーを学んだ人は、神学に聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学の四部門あり、組織神学は「現在」にかかわる部門であるという事情をご存じでしょう。そして言わずもがなですが、論者の「現在」が論者の「現代」です。つまり「組織神学」が「現代神学」であるとも言えるのです。

しかし「組織神学」は現代的な学問であるというようなことを仮にぼくがどこかで語ったとして、それをどなたがまともに聞いてくださるだろうかと考えるだけで頭が痛い。そもそも神学そのものが現代社会から失われている。まして「組織神学」など見る影もない。意図的に看板を下げる大学が増えている。

そんなこんなを考えているとき、ずっと前に買い集めたまま、ほとんど全く読まずに放置していた数冊の本に目がとまりました。新教出版社の「現代神学の焦点」シリーズです。ぼくが持っているのは9冊だけです。このシリーズが完結したのかどうかさえ知りません。

巻数順に並べた「現代神学の焦点」シリーズ

ぼくは「現代神学の焦点」シリーズの価値が分かりませんでした。とりあえず買いました。しかし、どう読んだらいいのかが見えませんでした。十巻を超えるシリーズのわりに、テーマの並べ方がランダムで、全体の統一性が全くない気がして読みづらかったです。

しかし、わりと最近(時期の特定はできないです)、「現代神学の焦点」シリーズの並べ方の順序を、何気なく変えてみたのです。あくまでも一つの可能性としてではありますが、伝統的な教義学ロキの順序を真似て、本棚上で並べ変えただけです。

ぼくがやったことは、「現代神学の焦点」シリーズの並べる順序を変えてみたことだけです。巻数順なら「理性、復活、未来、人間、新約聖書、平和、神、苦しみ、旧約聖書」の順ですが、「理性、旧約聖書、新約聖書、神、人間、苦しみ、復活、平和、未来」の順にしてみました。

伝統的な教義学の順序に並べ変えた「現代神学の焦点」シリーズ

すると、どうでしょう。ただシリーズ本の並べ方を変えてみただけなのに、これまでは買ったはいいけど本棚の埋め草になっているだけで何の興味もわいてこなかったこの新教出版社「現代神学の焦点」シリーズが、急に生き生きと立ちあがった気がしました。「ああ、これは一線級の教義学だ」と思いました。

もちろんぼくは、このシリーズの複数の著者のうち何人かは、自分の著作を「教義学呼ばわり」されることを快しとしないであろうことを分かっているつもりです。「ぼく/あたしの本はヴィッセンシャフト(学問)だよ。ドグマティーク(教義学すなわち独断論)ではないよ」と猛然と反発するに違いない。

でも、それは「組織神学」ないし「教義学」の本質を根本的に誤解しているゆえに生じる反発なのだと、ぼくには思えてなりません。今は「組織神学」と「教義学」を交換可能な同義の概念として用いますが、その意味の「教義学」は本質的に、本の並べ方を学ぶ学問であると言ってよいようなものなのです。

「教義学とは本の並べ方を学ぶ学問であると言ってよいようなものである」と書いた点について、これ以上広げる予定はない。ネガティヴな意味で書いたわけではないし、皮肉でも自虐でもないです。「本の並べ方」を軽んじるなかれ。それは今や「図書館情報学」等の名称で自立した一大学問になっています。

「図書館情報学」の中身をぼくは知らないので、クマンバチの巣に手をつっこむのはやめておきます。くわばらくわばら。ただ、「組織神学」と同義語として用いる意味の「教義学」は、知の全体系をトータルに把握しうるキャパシティをもつ巨大図書館の「本の並べ方」を研究することに似ています。

「現代人に納得できる教義学」を求めて(2)

しかし、本当に難しいのはここから先です。「解説」とは意味不明の言葉を理解可能な言葉へと置き換えることを意味すると考えた上で、そのことをキリスト教の教義学にも当てはめて考えようとするとき、非常に難しい問題にぶつかります。それは「教義学」そのものが現代社会から失われているという問題です。

ただし、それはとても難しい問題ですので、ぼくが今ここでスラスラと論じることができるようなことではないです。ただ、現象としてはかなり既出であり、ほとんど自明でさえあることなので、ちょっと例を挙げるだけで「あああ」という声が上がるのではないかとも思っています。

ぼくがすぐ思いつく代表的な「現象」は、たとえば聖書の言葉や神学の概念を「現代的な学問」である心理学や社会学や歴史学などの各領域で固有な定義づけがなされている言葉へと「翻訳」することで、「はは、なるほど」と納得するという流れです。でもそういうのはぼくが求めていることではありません!

神学の概念を心理学や社会学や歴史学の概念へと全く置き換えてしまうのであれば、それは「神学を放棄すること」であり、「神学が心理学や社会学や歴史学へと吸収されること」をやはり意味せざるをえません。それでよいなら「神学」は不要です。神学部・神学大学・神学校などは、もちろん不要です。

しかし、「神学部・神学大学・神学校などは、もちろん不要です」は、その前の「それでよいなら」という仮定の話の続きです。このような仮定はぼく自身も不快なので、自分で不快だと思いながら書くべきではないのかもしれません。神学は不要とは思っていないから、ぼくは神学にとどまり続けてきました。

ぼくに「神学者」を名乗る資格はないです。しかし、カール・バルトが使った言葉をそのまま借りて言えば「自分が神学者であることをはずかしいと思うような小児病」をバルト自身は「ある程度脱却したつもり」だと書いたのとよく似た心境を今のぼくが持っていることは、なんと驚くべきことに、事実です。

「現代人に納得できる教義学」を「求めている」ぼくが「求めていないこと」は、神学という学問が心理学や社会学や歴史学などへと吸収されてしまうことです。そのことを、ぼくは全く求めていません。神学の問題は神学が解決しなくてはなりません。教義学の刷新の結果が神学の喪失であってはなりません。

だからこそ、ぼくは「現代人に納得できる教義学の実現は非常に難しい」と言っているのです。問題は、どうしたら神学を喪失しないで教義学を現代的なものへと刷新しうるか、です。心理学や社会学や歴史学をワルモノにするつもりはありませんが、これらの学問と神学とは、厳密に区別されるべきなのです。

その意味では「神学」と「キリスト教学」も、やっぱり違うものなのだと思います。いっそ、キリスト教学が「現代的な装いへとカムフラージュされた神学」であればよいのに!しかし、どうもそうではなさそうです。キリスト教学は、意図的に、全速力で神学のもとから走り去ろうとしているように見えます。

「現代人に納得できる教義学」を求めて(1)

ぼくくらいの年齢になれば、全く新しいことを考えて書くことよりも、「事実上長年それを続けてきたが、しかし、それを字に書いてまとめたことはまだない」というようなことを、字に書いてみるという感じのことのほうが多くなってくるのではないかと思います。

実は、また新しい論文を書こうとしています。

具体的にどのような論文を書こうとしているかについては、まだ十分には考え抜いてはいませんが、キリスト教の教義学の方法論に関することになるだろうと言っておきます。

早い話にしてしまえば、「現代人に納得できる教義学」です。キリスト教の教義をビジュアルに表現するとどうなるか、というあたりが特にツボです。

というようなことを、若い友人の牧師と夜遅くまで話していました。ぼくが気になるのは「天使」とか「キリストの昇天」などです。「復活」は微妙です。

ぼくの問題意識は、たとえば映画やアニメでそれらを表現する場合、わりと従来なされてきたように、SFチックな描き方で本当によいのだろうかということです。

古い教義学は聖書の出来事を「超自然」(スーパーナチュラル)と表現します。しかし、それを映画やアニメで表現すると、やたら荒唐無稽になります。そういう映画やアニメを見れば見るほど、あまりにもアホらしく感じて愛想をつかす人が続出します。スペクタクルな描き方であればあるほど信仰の対象になりにくいです。

「『復活』は微妙です」と書いたのは、復活の事実性を否定したくないからです。だけど、キリストの復活や人類の復活を、ゾンビのように墓穴からズズズと這い出てくる血まみれの死体のようなものをイメージすべきとは、たぶんだれも考えていない。だけど、だったら何をイメージすればいいのでしょうか。

ぼくのイメージする「現代人に納得できる教義学」の20世紀的前例はブルトマンの「非神話化」です(ブルトマンは教義学者ではなく聖書学者ですが)。聖書は古代の神話的表象で書かれているが、現代人はそれを受け継いでいない。現代人に固有の表象へと聖書を「翻訳」しなおすことが「非神話化」です。

しかし、どうでしょう、20世紀においてブルトマンの「非神話化」は聖書学の枠内にとどまってしまい、教義学の刷新には至らなかったのではないでしょうか。「聖書学VS教義学」という不幸な対立図式もありました。しかし、今は21世紀です。「非神話化された教義学」が求められていないでしょうか。

一例:「イエスは聖霊によって、肢である私たちに、天の賜物を注いで下さいます。聖霊降臨は、イエス昇天後の神の恵みの第一の現われです」。

これは、ある文章を分かりやすく解説するのを目的として書かれた文章です。しかし今日では、この解説文を分かりやすく解説する文章が必要であることは明白です。

平たく言えば、言葉が足りていないと言わざるをえません。解説が解説になっていない。今日では意味不明の文章の解説文を、今日では意味不明の単語やセンテンスを用いて書いている。それを読んだり聞いたりする側の人に理解できないことは当然であるばかりか、おそらく語る者も意味を理解していない。

英英辞典というのがありますよね。オランダ語にも蘭蘭辞典あります。日本語で言えば、国語辞典。同じ言語の中でより難解なほうの言葉をより平易な言葉で解説している辞書。どれもとても便利なものです。しかし、時々「解説になっていない解説」がありますよね。ちょっと笑ってしまうようなケースです。

「A」という単語があり、その意味解説のところに「B」と書いてある。つまり、「AはBである」と説明されている。しかし、「B」の解説内容がイマイチよく分からない。それで同じ辞書の「B」の項をめくってみると、その解説文に「BはAである」と書いてある。つまり、何の解説もできていないのだ。

同じようなことが、従来のキリスト教教義学の中で繰り返されてきたと、ぼくは考えています。一方に「AとはBである」と書いてある。そのBの意味が分からないのでBとは何かを同じ本の中で調べてみると、「BとはAである」と書いてある。結局AもBも意味不明のままである。ケムに巻くとはこのことを言うのです。

意味不明の言葉で意味不明の言葉を解説すべきではありません。それは読者を迷路に陥れるのを楽しむタイプの人の趣味かもしれませんが、それは一種の異常心理のようなものです。そんなのは「解説」ではありません。それは当たり前のことなのだけど、そういうことを堂々とやっている人を見ると、ぼく的にはぞっとします。

「解説」というのは、読者に理解できない言葉を、理解できる言葉へと置き換えることでなければ、無意味ですよね?

教会の説教が「聖書の解説」という側面を持ち、教義学が「古代宗教思想の現代語での解説」という側面を持つのであれば、それは現代人に理解できる言葉で書かれる必要がありますよね?