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2024年7月29日月曜日

善いサマリア人

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「善いサマリア人」

ルカによる福音書10章25~37節

関口 康

「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(26節)。

(※以下の内容は、午前9時からの「教会学校」と、10時半からの「聖日礼拝」とで重複しないように連続でお話ししたことを、ひとまとめにしたものです。)

今日の聖書箇所は「善いサマリア人のたとえ」です。内容に入る前に「サマリア人」についてお話しします。

サマリア人と他のユダヤ人のルーツは同じですが、サマリア人は他のユダヤ人からバッシングやハラスメントを受けていました。なぜ差別されたかといえば歴史と関係あります。要するに別の国だった時代がありました。その年代は紀元前926年(928年説あり)から722年(721年説あり)までです。

その後、サマリアが中心の北イスラエル王国が隣国アッシリアによって滅ぼされました。そのときの北王国の難民の生き残りが「サマリア人」です。紀元前597年(596年説あり)には南ユダ王国のほうも隣国バビロニアによって滅ぼされました。

私は今「差別は仕方ない」という意味で言っていません。差別が起こった原因を述べているに過ぎません。要するに歴史が関係あります。別の国だった時代がありました。その時代に、両国の思想や文化の違いが生まれました。両国とも別の国によって滅ぼされましたが、その後も仲良くできない関係であり続けました。

さて今日の箇所です。前半と後半に分かれます。前半はイエスとある律法学者との対話、後半はイエスご自身がお語りになった「善いサマリア人のたとえ」です。

律法学者が主イエスに「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問しました。主イエスの答えは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という教えと、「隣人を自分のように愛しなさい」(英語でLove your neighbor as yourself)という教えを実行すればよい、というものでした。

しかし、この答えに律法学者は満足しませんでした。カチンとくるものがありました。自分を正当化しなければならないという思いがわいてきました。彼は自分は完璧な人間でありたいと願っていたのだと思います。「神」を愛することについては任せてほしいと胸を張って言えたでしょう。しかし、「隣人」を愛することについては躊躇がありました。

もし「隣人」の意味が全世界の全人類を指しているということであれば、「それは不可能です」と答えざるをえません。なぜなら世界には、愛しうる人もいれば、愛しえない人もいるからです。それが世界の現実です。

「隣人を自分のように愛すること」を実行することについてはやぶさかではありません。忠実に実行します。ですから、その「隣人」の定義を教えてください。「隣人」の範囲を決めてください。出題範囲を教えてもらえないテストなど受けられませんと、この律法学者は主イエスに反発しているのです。

その問いへの主イエスの答えが「善いサマリア人のたとえ」でした。たとえ話の内容自体は難しくありません。ある日、エルサレムからエリコまでの直線距離20キロの下りの山道で強盗に襲われて半殺しされた人が道端に倒れていました。その人の前を「祭司」と「レビ人」が通りかかったのに、2人ともその人を助けないで立ち去りました。

「祭司」はユダヤ教の聖職者、「レビ人」は祭司を助ける人たちです。神と教会に仕える立場にある人たちです。その人たちが、目の前で死にそうになっている人をなぜ助けないのでしょうか。倒れている人はユダヤ人であると想定されていると思います。祭司やレビ人の「隣人」の範囲にいると思います。それなのになぜ。

3人目に通りかかった人が、サマリア人でした。他のユダヤ人たちから差別されていた人です。その人が、半殺しにされて倒れていた人を助けてあげました。「さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と主イエスがお尋ねになりました。「その人を助けた人です」と彼は答えました。

全世界の全人類を助けることはひとりの力では無理です。しかし、自分の目の前で倒れているひとりの人を助けることは絶対に不可能ということはないはずです。

「何になりたいかではなくだれに必要とされているかが大切である」とコメディアンの萩本欽一さんが言ったそうです。その言葉と似ているとも言えますが、違うとも言えます。

「善きサマリア人のたとえ」の心は、そこに困っている人がいるなら、そこでつべこべ言わないでとにかく助けることが大事なのであって、「私はだれに必要とされているか」ということなどを特に意識しなくても、あなたのことを必要だと思ってくれる人が現われるかもしれませんよ、というくらいです。

 * * *

先週の礼拝後、1階で今日数年ぶりの再開となる教会学校の打ち合わせを兼ねて、かき氷の練習と試食会をしていたとき、その前日に私がアマゾンに注文した本を宅配業者が届けてくれました。それは三宅香帆さんという方の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書、2024年)という今年の4月に発売されたばかりの本です。

著者の情報を何も知らずに買いましたが、三宅さんは私の息子と同い年のようで、1994年高知県出身とのことです。京都大学大学院卒業後、会社勤めをしたそうですが、働いているうちに、それまで大好きだった本を読むことができなくなったそうです。そこで「本を読むために会社を辞める」という一大決心をなさり、文筆業に専念することになさった方です。

この本をまだお読みになっていない方のために、踏み込んだ説明はしないでおきます。それよりも、私がなぜこの本を買おうと思ったかをお話しします。それは、この本のタイトルの「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という疑問は、私自身が長年抱いてきた謎そのものだったからです。同じことを考えてくれる人がいて良かったと思いました。

しかし、私は牧師です。本が読めなくなることがあるのか、それだと仕事が成り立たないのではないかと、心配されるかもしれません。

私の中で「聖書を読むこと」は「読書」に含まれません。それが私の仕事ですから。私にとって「聖書」は、会社員の方が業務上取り扱っておられる書類と同じです。「働いていると聖書が読めなくなる」ということは、私に限ってはありません。読めなくなるのは、それ以外の本です。

正直に言います。言った後に後悔するかもしれませんが。私は「小説」を読む能力が子どもの頃からありません。絶望的にその能力が欠落しています。お医者さんに診てもらえば何か病名をつけてもらえるかもしれないと思うほどです。

小学校から高校まで国語の授業で、いろんな文学や小説を読め読めと言われて、実際に読もうとするのですが、さっぱり分かりません。「村上春樹の小説を読んだことがない」と言ったら呆れられたことがあります。そのときの冷たい反応で私もだいぶ反省しまして、「小説を読む力がない」と公言しないようにしてきました。隠すほどのことではありませんが。

それを私は自分の恥だと思っていて、苦にしていますので、なんとか克服したいと願っているのですが、どうしようもなくて、いろいろ考えて最近始めたことは、ネットでテレビドラマや映画を大量に観ることです。動画ならよく理解できるので、動画を先に頭に入れておけば、小説の文字を追うだけで理解できるようになるかもしれないと考えました。聖書もそっちのけで映画やドラマばかり観ているようで申し訳ないのですが。

なぜ今この話をしているのかといえば、今日の聖書箇所と関係づけたがっているからです。

三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の中で私が特に重要だと思いましたのは、「情報」と「知識」を区別しておられることです。「情報」は「知りたいこと」を意味する。しかし「知識」は「知りたいこと」に「ノイズ」が加わるというのです。

「ノイズ」は要するに「雑音」。なんらかの疑問を持ち、専門書や辞典やネットなどを調べることで答えを得るために集めるデータが「情報」です。しかし「知識」には「情報」以上のものが加わります。今まで考えたことも悩んだこともなかったようなこと、現時点の自分にとってまだ問題になっておらず、関心すら持っていない「余計なこと」が加わる。それが「ノイズ」であって、「情報」に「ノイズ」が加わって初めて「知識」になる、というのが三宅さんの説明の大意です。

興味深い説明だと思いましたが、同時にぞっとしました。断罪された気持ちでした。私が小説を読む力が無い理由が分かった気がしたからです。私が小説を読むことができないのは「情報」だけが欲しくて「ノイズ」を嫌っていたからかもしれないと。

聖書とキリスト教についての「情報」は受け容れることができるし、それが自分の仕事だと思っている。しかし、それ以外のすべては「ノイズ」なので、私を巻き込まないでほしいと距離を置く。そんな牧師はダメでしょう。人に寄り添うことができないではありませんか。

勘の良い方は、これから私が言おうとしていることにすでにお気づきだと思います。主イエスの「善いサマリア人のたとえ」に登場する祭司とレビ人が、傷ついた人の前を素通りしてしまうのはなぜなのか。その謎を解くためのヒントが見つかった気持ちでいます。

三宅香帆さんは「仕事をしていると本が読めなくなる」理由を「ノイズ」に求めておられます。エルサレムからエリコに下る道を通っていた祭司とレビ人が、死にそうになって倒れていた人の前を素通りしたのは、その人を「ノイズ」だと認識したからではないでしょうか。

3人の通行人のうちこの人を助けた唯一の存在が、サマリア人でした。この人は能力が高い人だと思います。傷口への対処法を知り、救助から看護依頼までスムーズで、2デナリ(1デナリは1日の労働賃金なので2デナリは今の2万円)の宿泊費を差し出し、不足分が発生すればそれも自分に請求してほしいとまで言う。心に余裕があり、常に広い視野を持ち、他人を助けることに躊躇がありません。こういう人はモテると思います。

「隣人愛の教えを実行するのは難しい」といえば、そのとおりです。しかし、不可能であると言って拒否するのではなく、可能なことから取り組んでいけばよいと思います。

互いに愛し合うことができるわたしたちひとりひとりになり、そのような教会を目指すことが求められています。

(2024年7月28日 日本基督教団足立梅田教会 教会学校・聖日礼拝 連続説教)

2022年8月21日日曜日

友なるイエス(2022年8月21日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 493番 いつくしみ深い(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「友なるイエス」

ルカによる福音書18章9~14節

関口 康

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」

今日の聖書箇所は私が選びました。いつもは日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』どおりに選んでいますが、『日毎の糧』の今日の箇所が6月12日(日)の花の日・子どもの日礼拝の聖書箇所と同じだと気づきましたので、変更しました。しかし、今日の準備のために読み直した結果、解釈がとても難しい箇所であるということが分かりました。後悔先に立たず、です。

まずこれは「たとえ話」です。「イエスは次のたとえを話された」と書かれているとおりです。分かりやすく大げさな表現が用いられている可能性があることは否定できません。イエスさまが例示されたことを実際に言ったりしたりしていた特定の誰かが本当にいたかどうかは不明です。

しかし、イエスさまがこの話をなさったとき、共感する人がいたに違いありません。ただし、その共感には2種類ありました。なぜ「2種類」なのかといえば、このたとえ話の登場人物の姿を、自分に当てはめて「自分のことが言い当てられた」と感じるか、それとも自分以外のだれかに当てはめて「あの人のことだ」と感じるかの、どちらかの可能性しかないからです。

これが「何のたとえ」なのかは、はっきり記されています。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対する」たとえです。「対する」の意味は「反対する」です。抗議です。「自分は正しい人間だとうぬぼれてはいけない。他人を見下してはいけない」という非難です。

だからこそ、この話にどういう意味で共感するかが重要です。イエスさまのお言葉に共感しているときの自分の心の中に自分自身の姿が浮かぶか、そうでないかで、読み方が変わります。

私は今すでに結論的なことを申し上げています。イエスさまのご趣旨を考えれば、このたとえ話は自分以外のだれかに当てはめてはいけません。「あの人のことだ」と決めつけてはいけません。私自身も強く自戒します。このたとえ話を他人を非難する手段に使うだけなら最も悪いことです。もしほんの少しでもそのような誤解が広まるようなら、今日この箇所を取り上げて話さないほうがよかったと思えてきます。

中身に入ります。登場人物は2人です。ひとりは「ファリサイ派の人」、もうひとりは「徴税人」です。「ファリサイ派」の説明は新共同訳聖書巻末付録「用語解説」39頁以下に記されています。

「ハスモン王朝時代に形成されたユダヤ教の一派。イエス時代にはサドカイ派と並んで民衆に大きな影響力を持っていた。(中略)ヘブライ語『ペルシーム』は『分離した者』の意味であり、この名称の由来については種々の説があるが、恐らく律法を守らない一般の人々から自分たちを『分離した』という意味であろう」。

この説明によるとファリサイ派は「分離派」です。だれからの分離かといえば「一般人」です。最近は「芸能人でない人」が「一般人」と呼ばれます。私の嫌いな言葉です。「一般」の対義語が「特別」か「特殊」かで意味が変わってくるからです。自分たちは「特別」な存在だと自負する人が言う「一般人」は見下げる響きをまといます。逆に「一般性」が重んじられる場合(「一般常識」など)の対義語は「特殊」でしょう。見下げる響きがあるかどうかは、文脈に拠ります。

ファリサイ派の場合は、自分たちが「特別」であり、かつ「上の者」であると自負しているからこそ「見下す」のです。英語聖書ではlook down(ルックダウン)、オランダ語聖書ではneerkijken(ネールケイケン)(neer(ネール)が「下」の意味)という言葉です。いずれも「下を見る」という意味なので、見る人が「上」にいなければ成立しません。「上から」が省略されています。

このたとえ話に登場するファリサイ派の人が、どこで(where)、どのようにして(how)、だれ(who)を見下したかについてはイエスさまのお言葉に従うしかありません。

「どこで」(where)は「神殿」です。ただし、たとえ話ですので意味を広げて考えるほうがいいです。宗教施設です。「教会」も含めて。その最も典型としての「神殿」です。

「どのようにして」(how)は「祈り」です。この箇所に多様な解釈があると分かりました。この人が祈るとき「立って」いた(11節)ことが傲慢であるとか、「心の中で」祈った(同上節)のは、神に対してでなく自分に対する祈りなので、これも傲慢であるという解釈があるそうです。

結論を言えば、祈るときに立っていたことも、心の中で祈ったことも、そのこと自体が傲慢であることを意味しません。当時のユダヤ教で普通になされていたことです。普通だからこそ問題の範囲が広がります。わたしたちの祈りと本質的に同じ「祈り」で「他人を見下した」のです。

「最善の堕落は最悪」(corruptio optimi pessima コラプティオ・オプティミ・ペッシマ)というラテン語の格言があります。私の好きな言葉です。神殿で祈る行為は、人間の最高善です。最高善を用いて「他人を見下げる」最悪の行為に及ぶ人をイエスさまが描き出しておられます。

「だれを」(who)見下したのか。イエスさまはいろんなタイプの人を例に挙げておられます。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者、この徴税人のような者」(同上節)。しかし、イエスさまがおっしゃっていることの趣旨に照らして最も意味がある言葉は「ほかの人たちのように」です。その意味は「自分以外の全人類」です。自分だけを除いて、残るすべての人を見下げています。

違うでしょうか。このファリサイ派の人は、イエスさまが例に挙げておられないタイプの人のことは尊敬するでしょうか。そうではないと私には思えます。どんな相手であれ、あら探しをし、どんな小さな欠点や落ち度であれ見つけて、「神さま、私はあの人のようでないことを感謝します」と祈るだけです。相手はだれでもいいし、落ち度や失敗の内容もどうでもいい。「自分がいちばん上である」と言いたいだけです。「自分以上の存在はいない」と無差別に見下げるだけです。

この人のことを私が弁護するのは変かもしれません。もちろんすべて想像です。おそらくこの人は孤独です。人の目がこわいし、他の人から批判されることを最も嫌がります。だからこそ、常に自分以外のすべての人を攻撃し、批判する側に自分の身を置こうとします。その究極形態が「神殿で全人類を見下げる祈りをささげる人」の姿です。

もうひとりの人は、正反対の祈りをささげました。「徴税人」はユダヤ社会で見下げられる存在でした。その人が「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)と祈りました。

どちらの祈りが「義とされる」(=「正しいと神さまに認めていただける」)ものであったかを考えてみてくださいというのが、このたとえ話の意図です。答えも記されています。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(14節)。

そしてイエスさまは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14節)とおっしゃいました。「低くする」ではなく「低くされる」、また「高める」ではなく「高められる」と受け身で言われていることが大事です。「神さまが」そのことをしてくださる、という意味です。

イエスさまは、傲慢な人たちに踏みつけられている人を弁護してくださいます。イエスさまは、そのような苦しみの中にいる人たちの「友」です。

(2022年8月21日 聖日礼拝)

2022年8月14日日曜日

子どもを守る(2022年8月14日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌 主われを愛す(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「子どもを守る」

ルカによる福音書17章1~4節

関口 康

「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」

お気づきの方がおられるかもしれません。今日の聖書箇所は、先週の週報で予告した箇所から変更しました。今日開いたのはルカによる福音書17章1~4節ですが、先週予告したのはマルコによる福音書9章42~50節でした。

両者は「並行記事」ですが、先週予告したマルコの箇所は読めば読むほど「逃げ道がない」ことが分かりましたので、「逃げ道がある」ルカに切り替えました。「逃げてはいけない」かもしれませんが、とにかくお許しください。

しかしわたしたちは、イエスさまの本心の内容まで、都合よく勝手に決めてよいわけではありません。マルコ(9章42~50節)の内容は、わたしたちの救い主、神の御子、イエス・キリストが、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42節)とおっしゃった、ということです。

さらにイエスさまは、人間の体に2つある「手、足、目」のどちらか一方があなたをつまずかせるなら、つまずきの原因になっているほうの側を「切り捨てなさい」とか「えぐり出しなさい」とおっしゃった、ということです。

もちろんこれは、いま私たち自身が聖書を開いて目で見て確認しているとおり、聖書に確かに記されている言葉です。しかもイエスさまがおっしゃった言葉として紹介されているのですから、権威ある言葉に属しますし、見て見ぬふりなど絶対できません。

しかし、だからといって、この言葉どおりに本当に実行しなくてはならないと、わたしたちが考えなければならないかどうかは別問題です。

実例があるのです。多くは「手」ないし手首です。「足」や「目」の可能性がないわけではありません。「切り捨てる」「えぐり出す」までは行かなくても、「切り刻む」方々がおられます。

今はインターネットがあります。自分で自分の体を傷つけた写真をメールで特定の相手に送信したり、ソーシャルメディアで全世界に公開したりすることができます。

私も受け取ったことがあります。インターネットを私が使い始めたのは1998年ですので24年前です。これまでに何通かそのようなメールを受け取りました。1度2度ではありません。

「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれるほうがましだ」のほうは、そういうことを本当にすれば二度と浮かび上がって来ませんので、「試してみました」というわけに行きません。しかし、それに近いこと、あるいはそれに等しいことを実行する方々が現実におられます。

そのようなことをなさる方々が、聖書の言葉、イエス・キリストの言葉、神の言葉に基づいてなさるかどうかは、その方自身しか分からないことです。しかし「そうである」と言われたことがあります。「聖書にそう書かれていたのでしました」。そういうことが現実にあるということを、わたしたちは認識する必要があります。大げさな作り話ではありません。

私がいま申し上げていることは、イエスさまに対する批判ではないし、聖書に対する批判でもありませんが、だからといって、自分の体を自分で傷つける方々を責めているのでもありません。「だれが悪い」「だれのせいだ」と言い合って解決する問題ではないと私には思えます。

しかし、たとえイエスさまであっても、言いたい放題ではまずいのではないでしょうか、いくらなんでも言い過ぎではないでしょうか、酷すぎではないでしょうか、くらいは言っておくほうがよさそうに思います。本当に実行する方々がおられるからです。実行する方々を責めているのではありません。「お願いですからやめてください。そんなことをなさらないでください」と懇願したい気持ちがあるだけです。

しかし、なぜイエスさまはこれほどまでに過激なことをおっしゃっているのでしょうか。その意図を考える必要があります。

「小さい者」(マルコ9章42節、ルカ17章2節)の意味は「子ども」です。「つまずかせる」と訳されているギリシア語は「罠(わな)」や「餌(えさ)」という意味を持つスカンダロン(σκανδαλον)という名詞の動詞形のスカンダリゾー(σκανδαλίζω)で、英語「スキャンダル(scandal)」の語源であるという話は、教会生活が長い方はお聞きになっているでしょうし、今日初めての方は、これから何度も聞かされる話ですので、ぜひ覚えてください。

「つまずかせる」というと、柔道の足払いや大外刈りのように足をひっかける技を仕掛けること、あるいは石や木の棒などを地面に置いてだれかの足を引っかける悪さをすることなどを連想するでしょう。

しかし、ギリシア語の意味はそちらのほうでなく、餌を仕掛けて動物や鳥などをおびき寄せ、餌を食べている隙を狙って上から網をかけて、捕縛することです。そのような意味だという意味のことが、岩隈直(いわくま・なおし)氏の『新約ギリシア語辞典』に記されています。

いま申し上げたことをまとめれば、「小さい者の一人をつまずかせる」の意味は、子どもに餌を与えて罠にかけるような騙し方をして、罠をかけた側の人(「子ども」と比較される存在は「大人」)の食い物にすることで、その子どもの心身をめちゃくちゃに破壊し、将来と人生から光を奪い、落胆と絶望へと陥れることです。

そのようなことが許されていいはずがないと、イエスさまが、実際に罠にかけられて食い物にされてボロボロに傷つけられ、自分の言葉で物も言えなくなってしまっているかもしれないその子どもたちの代わりに、ほとんど怒り狂うほどの勢いで激しい言葉を発しておられるのです。

「大人になるまでは誰からも傷つけられたことがなく、大人になって初めて傷つけられた」という方々が、現実の世界にどれくらいおられるかは、私には分かりません。しかし、傷を受けた年齢が低ければ低いほど、その傷を背負って生きなければならない年月が長くなります。

私は今、算数の問題のような話をしました。治る傷ならば問題ないと言えるかどうかも難しい問題です。しかし、まだ子どもであるときに、一生治ることのない傷を、大人である人から明確な悪意をもって、または悪ふざけで、心身につけられて、それを70年も80年も90年も背負って行かねばならないとなれば、だれにとっても大問題でしょう。

そのようなことを大人がしてはいけない、させてはいけない、という明確な警告をイエスさまが発しておられると考えることができるなら、最初に申し上げた自傷行為の問題とは違った次元と角度から、今日の箇所のイエスさまの言葉を理解することができるのではないかと思います。

しかし、今日マルコでなくルカを選んだ理由は、子どもを罠にかけて騙して食い物にするような悪党でさえ、子どもだけでなく大人相手の犯罪をしでかす人でさえ、もしその人が悔い改めるなら「赦してやりなさい」(3節、4節)と、イエスさまがおっしゃっているからです。

「そんな都合のいい話があるか」と私も何度も言われてきました。「キリスト教はずるい教えだ」と。たしかにそうかもしれません。しかし、今こそわたしたちは、自分の胸に手を当てて考えるべきです。「私は今までだれも傷つけたことがないだろうか。私のために苦しんでいる人がいないだろうか。赦してもらわないかぎり生きてはならないのは私自身ではないだろうか」と。

しかし、覆水盆に返らず、考えることしかできないし、考えても無駄かもしれませんが、全く考えないよりは、少しはましです。私も他人事ではありません。重い言葉であることは確実です。

(2022年8月14日 聖日礼拝)

2019年6月25日火曜日

自分で自分を治めよ(2019年6月25日、高等学校礼拝)


ルカによる福音書18章9~17節

関口 康

みなさん、おはようございます。

「6月は読書月間なので、礼拝の中で本の紹介をしていただけると幸いです」と書かれたプリントを見たことを昨日思い出し、今日がまだ6月であることに気づきました。それで昨日、大急ぎで一冊の本を読みました。

「この本です」とお見せしたいところですが、アマゾンのキンドル版で読みました。自分のパソコンにダウンロードしました。パソコンをチャペルに持ってくるわけには行きませんので、著者とタイトルをご紹介することでお許しください。

著者は三浦綾子さんです。タイトルは『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』(三浦綾子電子全集、小学館、2013年)。単行本が1999年に出版されています。図書館にありますので、ぜひ読んでみてください。

本書の主人公である矢嶋楫子(やじまかじこ)さんは、今の熊本県に当たる肥後国に、まだ江戸時代だった1833年に生まれ、1925年に92歳の生涯を閉じるまで活躍した教育者です。

矢嶋先生の存在を有名にしたのは、東京都千代田区の女子学院(現在の女子学院中学校・高等学校)の初代院長になられたことと、日本キリスト教婦人矯風会という社会活動団体の初代会頭になられたことです。

三浦綾子さんが描いているのは、矢嶋先生が生まれたときから亡くなるまでの生涯全体ですが、三浦さん自身があとがきに書いているように、伝記のようで伝記でない、小説のようで小説でない、評伝のようで評伝でない、不思議な内容を私も感じました。

悪い意味ではありません。これほど数奇な生涯をリアルに送る人が本当に存在したことを知ることができて、激しく心を揺さぶられました。「事実は小説より奇なり」という言葉通りの人生を送った矢嶋先生の人となりが、よく分かりました。

どこに最も感動したかといえば、これも三浦綾子さんがあとがきで、本書で伝えたかったことの要点を書いておられましたので、私の読み間違いでないことが分かって安心しました。

それは、矢嶋楫子先生の言葉として紹介されている「あなたがたには聖書がある。自分で自分を治めよ」という教えです。矢嶋先生は、プロテスタントの教会で洗礼を受けたクリスチャンの方です。学校では聖書を教える先生でした。

女子学院の前身の桜井女学校時代のころ、矢嶋先生ご自身のお考えで、学校に校則がなく、定期試験のときに試験監督を置かなかったそうです。それでも校風を乱す生徒はいなかったし、カンニングする生徒もいなかったそうです。

私が感動したのは、これと同じことを今の時代でもすべきであると思った、というような、そんな単純な理由ではありません。しかしとても反省させられました。

私もこの学校で4月から聖書の授業を担当させていただいていますが、矢嶋先生ほど強い確信をもって「あなたがたには聖書がある」と言えるような授業ができていないことを反省しました。申し訳ない気持ちでいっぱいです。

矢嶋先生が次のようにおっしゃっています。三浦綾子さんがお書きになった文章の中から引用します。

「人間という者は、規則がたった一つしかなくても、いったん誘惑に遭えば、たちまち規則違反をしてしまうものなのです。一つの規則さえ守れぬ者が、どうして二十も三十もの規則を守ることができますか。(中略)わたしは、罪の問題は、神の力に、神の愛にすがるより、しかたのないことだと思います。わたしたちの罪を代わりに負ってくださったキリストの十字架を、しっかりと見上げる以外に、守られる道はないと思います。わたしたちは生徒たちに、『あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい』と、口を開くたびに申しているわけです。」

今朝朗読していただいた聖書の箇所に出てくる、自分は聖書の戒めを守っているので正しい人間であるということを理由にして他人を見下している人々にイエスさまがおっしゃった言葉を、重く受けとめましょう。

その自分は聖書の御言葉を守っているので正しい生き方ができていると思い込んでいる人のほうが、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、貫通を犯す者でなく、この徴税人のような者でもないことを感謝します」とお祈りしました。

他方、自分の罪を自覚している人が「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、神さまの前にへりくだってお祈りしました。

どちらの祈りが、神の前にふさわしいでしょうか。そして、どちらの祈りの言葉が、人を慰め、励ますことができるでしょうか。

聖書は人を謙遜にするためにあります。そしてそのうえで聖書は、矢嶋楫子先生がおっしゃったとおり「自分で自分を治める」ためにあります。

三浦綾子さんの『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』をぜひ読んでみてください。心からお勧めいたします。

(2019年6月25日、高等学校礼拝)

2019年4月27日土曜日

百人隊長の謙遜(2019年4月27日、中学校礼拝)


ルカによる福音書7章1~10節

関口 康

みなさん、おはようございます。今月から3年生の聖書の授業を担当しています。日本キリスト教団昭島教会牧師の関口康です。

3年生の方々への挨拶は済んでいますが、1年生と2年生の方々は今日が初めてです。しかし、2年生の方々は一度お会いしました。昨年12月20日クリスマス礼拝で私がお話ししました。またお会いできたことに感謝しています。

今日の聖書の箇所に書かれていることをお話しします。イエスさまのもとに何人かの人が血相を変えて訪ねてきました。話の内容は、「百人隊長」と呼ばれる人の部下が重い病気で死にそうになっているので早く行ってあげてほしいということでした。

理解できる話です。しかし、そのときその人たちが余計なことを言うのです。それは次の言葉です。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4~5節)。

「あの方」とは百人隊長です。軍隊の人です。百人の兵隊を率いるリーダーです。部下に信頼される上司です。ユダヤ人のために会堂を建ててくれた人だとも言われています。自分のお金をたくさんささげてそれを建ててくれた人だということで、多くの人々に大変尊敬されていました。

いま病気で苦しんでいて死にそうになっているのは、その百人隊長さまの部下ですというわけです。つまり、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」というのは、あれほど尊敬されているあの方とその部下を助けるのは、あなたにとって当然のことですと、この人々は言っているのです。

しかし、それは余計なことです。悪気などは全くなかったでしょう。しかし、言葉を選ぶセンスがありません。「あの人を助けるのは、あなたにとって当然である」と言っているように聞こえることを言っています。少なくとも二つの意味で問題です。

一つは、もしそうだというなら、助けなくてもよい人がいるのかという問題です。「尊敬されていない人は助けなくてもよい」のですか。

もう一つの問題は、今困っている人がいるからその人を助けなくてはならないと、そのように言っている人たち自身がその人を助けるのではなく、イエスさまにそれをさせようとするのは何を意味するか、です。

彼らが言っているのは、レッツ・ゴーではなく、レット・ユー・ゴーです。もっとはっきり言えばゴーです。彼らはイエスさまに「行け」と命令しているのです。何の権限でイエスさまに命令するのですか。

しかし、なんと驚くべきことに、イエスさまは、その人たちにそう言われてすぐに腰を上げて、百人隊長の家へと向かってくださったというのです。「私に命令するな」と腹を立てないで。ここに、イエスさまの謙遜な姿を見ることができます。

しかし、ここで間違えてはならないのは、このときイエスさまは多くの人から尊敬されている百人隊長だから助けようとなさったのではない、ということです。どんな人でも分け隔てなく、イエスさまは助けてくださいます。これこれの業績がある人だから助けるのは当然であるが、そうでない人は助けないというような差別を、イエスさまはなさいません。

もう一つ、これも間違えてはならないのは、そういうふうにイエスさまに言ったのは百人隊長自身ではなかったことです。百人隊長自身が私の部下を助けるのはあなたにとって当然であると、イエスさまに対して考えていたわけではありません。

実際にそうであったことが分かるように記されています。イエスさまが途中まで来られたとき、百人隊長の友人がイエスさまのもとまで来て言いました。

「主よ、ご足労に及びません。わたしはあなたを自分の家の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(6~7節)。

この百人隊長は、本当に謙遜な人でした。だからこそ多くの人に尊敬されたのです。逆に言えば、謙遜でない人は尊敬されません。命令して人を動かすことしか考えない人は。それと、差別する人は。

今日の結論を言います。わたしたちみんな謙遜になりましょう。先生たちも謙遜になります。私も謙遜になります。生徒の皆さんも謙遜になりましょう。今日の聖書の箇所のイエスさまの謙遜や、百人隊長の謙遜に学びましょう。

私はこの学校のみなさんにお会いできるのが、うれしくて楽しくて仕方ありません。みなさんのことが大好きです。愛しています。だからこそ、みなさんには立派な大人になってほしいと心から願って、厳しいことを言います。

今日も一日、がんばりましょう。連休の間、みなさんの健康と安全が守られるようにお祈りしています。

(2019年4月27日、中学校礼拝)

2018年12月20日木曜日

見よ、飼い葉桶に救い主がおられる(2018年12月20日 中学校クリスマス賛美礼拝)


ルカによる福音書2章1~7節

関口 康

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

私に与えられた時間は限られています。先ほど朗読された聖書の中で、ひとつの点を取り上げて、考えを深め、思いを集中したいと願っています。

それは、最初に朗読されたルカによる福音書2章1節から7節までに記されていることです。ローマ皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録せよとの勅令が出たので、ヨセフとマリアがベツレヘムまで旅をしなければならなくなり、そのベツレヘムに滞在中にイエスを出産したことが記されている箇所です。

特に注目していただきたいのは、ヨセフとマリアが、生まれたばかりの赤ちゃんを「飼い葉桶に寝かせた」とあり、その続きに「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(6~7節)と記されているところです。

ここに書かれているのは二つのことです。一つは、イエス・キリストが寝かされた場所が「飼い葉桶」だったということです。飼い葉桶は家畜小屋にあります。その意味は、イエス・キリストは家畜小屋の中で生まれたということです。もう一つは、イエス・キリストを含めた三人家族に「泊まる場所がなかった」ということです。

二つのことを聖書は関係づけています。しかし、勘が良い方はこの関係づけに必然性があるかどうかに疑問を感じるかもしれません。「宿屋に泊まる場所がなかった。だからイエス・キリストは家畜小屋で生まれた。なぜそうつながるのか。他にも選択肢があるのではないか」と思われる方がおられませんか。

そもそもなぜ「宿屋に彼らの泊まる場所がなかった」のか。よくなされる説明は、アウグストゥスの勅令は全領土の住民が対象だったので、同じ目的で旅をしていた人々が大勢いた。だからどの宿屋も満室だったので泊まる場所がなかったということです。

しかし、それはひとつの説明です。他の可能性があります。「宿屋に彼らの泊まる場所がない」と書かれている以上、宿屋そのものがベツレヘムになかったわけではありません。しかし、すべての部屋が満室だったとも書かれていません。もしかしたら空室だらけだったかもしれません。確証はありませんが、「どこの宿も満室だった」とも書かれていませんので引き分けです。

しかし、問題はその先です。もし仮に実際の宿屋は空室だらけだったのに「彼らの泊まる場所がなかった」ということがありえたとしたら、その意味は何かということです。答えは簡単です。宿屋に支払うお金がなかったということです。宿屋はあり、部屋はあっても、それが「彼らの泊まる場所」になるとは限りません。

しかし、もしそうだとしたら、この話はどうなるのでしょうか。いつ生まれるかが分からない子どもを身ごもった状態で、大したお金も持たずに遠い町への旅に出て、旅の途中で破水して、宿屋に入れてもらえず、挙句の果てに家畜小屋での出産を余儀なくされた。

もしそうなら、政治のせいなんかではない。自分の準備不足、無計画、行き当たりばったり、成り行き任せ、その場限りの生き方をしてきた結果ではないか。無責任すぎないか。子どもが迷惑する。

というふうにお感じになる方が皆さんの中におられませんでしょうか、とお尋ねしたい気持ちです。いま申し上げたように私が言いたいわけではありません。しかし、尊重されるべき意見かもしれないと思うところがあります。

私は二人の子どもの親です。ひとりは明治学院大学の卒業生です。それ以上のことは言いません。彼らの個人情報ですから。私が言いたいのは、私にも子どもを育てた経験があるので、もし皆さんの中にヨセフとマリアは無責任な親の代表者だとお感じになる方がおられるとしたら、ヨセフとマリアに代わって「おっしゃるとおりです。ごめんなさい」と謝りたい気持ちになる、ということです。

しかし、謝るだけで終わりにしません。だから嫌われるのですが。そして私はこう言いたくなります。「それはそうかもしれない。しかし、状況が整わないからといってヨセフとマリアにイエスを生まないという選択肢がありえただろうか」と。その答えはノーです。その選択肢はありませんでした。だからこそイエス・キリストは「飼い葉桶」に寝かされたのです。

中学生の皆さんに妊娠や出産の話をこれ以上続けるのは荷が重いです。代わりに、皆さんが強い関心を持っておられるに違いない受験や就職、目の前のテストや成績、部活動のことに話題を向けます。

皆さんの中に、良い結果が出ることが見込めそうにないとあらかじめ予測できることについては、初めから関わらない、努力しない、見向きもしないという方がおられませんか。そういうのを悪い意味の完璧主義(パーフェクショニズム)というのです。完璧にならないことはしない。その結果、何もしない。百点でなければ零点と同じ。だから初めからテストを受けない、受けたくない。

初対面の皆さんにケンカを売りに来たのではありません。しかし、身に覚えのある方は耳を貸してほしいです。そして聞きたいです。親と学校が環境を整備し、状況がすべて整えば勉強するのですか。努力しないのは、環境を整えてくれない親と学校のせいですか。こんな家に生まれて、こんな学校に来て、お先真っ暗だと、そう思っている方がおられませんか。

ここでちょっと開き直らせてもらいたいです。もし仮に、あなたの人生があなたの親の見切り発車から始まり、その後もすべて準備不足、無計画、行き当たりばったり、成り行き任せ、その場限りの家庭で過ごしたとしても、だからなんなんだ。

ヨセフとマリアが子どもを「飼い葉桶」に寝かせたのは、見切り発車であろうと、状況が整わなかろうと、何がどうだろうと「この子を生まない」という選択肢だけはありえなかったことの証拠かもしれないのです。新しい命の誕生を最優先した結果であると言えるかもしれません。

イエス・キリストが「飼い葉桶」に寝かされたことは、聖書の普及と共に世界中の人に知らされてきました。それは、見方によれば恥ずかしいこと、隠したいことかもしれません。しかし、けらけら笑ってばかにする人は、いるかもしれませんが、その人は自分のしていることの意味が分かっていないのです。

その人の人生のどのページかに、その人自身の「飼い葉桶」が登場する人々と共にイエス・キリストはおられます。「おお、きみとぼく、おんなじだね」と言ってくださいます。その人の気持ちを、その人が置かれている状況を、イエス・キリストは理解してくださいます。

あなたのためにイエス・キリストはお生まれになりました。そのことを今日お伝えしに来ました。クリスマスおめでとうございます。

(2018年12月20日、明治学院中学校クリスマス賛美礼拝説教)

2018年12月16日日曜日

主があなたと共におられる(アドベント説教)


ルカによる福音書1章26~38節

関口 康

「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』」

先ほど朗読していただきましたのは、毎年クリスマスが近づくたびに世界中の教会の礼拝で開かれ読まれる聖書の箇所です。先週の礼拝で学んだ個所もそうです。

そのときイエス・キリストが何をお語りになったかが記されている箇所ではありません。普通に考えてそれは無理です。イエス・キリストは生まれたばかりの赤ちゃんだったわけですから。

それでは何が記されているのかといえば、二つの言い方ができます。一つの言い方は、イエス・キリストの父なる神が天使を用いて、イエス・キリストの母となり父となる人たちにお伝えになった言葉が記されています。しかし、そんなふうに言われるだけでは全く理解できないと感じる人々は少なくないでしょう。

そういう方々のためにもう一つの言い方を用意する必要があります。それは、とにかくイエス・キリストの母となり父となった人たちが、イエス・キリストが生まれる前に何を考えたのか、その具体的な内容が記されているとも言えるということです。

その中に天使が登場します。その天使がイエス・キリストの父なる神の言葉を彼らに伝えています。そのようなことが起こったのだと言えば、さっぱり理解できない話であるとまでは言えないようだとお感じいただけるはずです。

今日の箇所には書かれていないことですが、先週学んだマタイによる福音書には、マリアの夫(正確にはいいなずけ)ヨセフに天使は「夢に現れた」(マタイ1章20節)と記されています。

ああ、そうかヨセフは眠っていたのか。天使は夢の話だったのか。言われてみれば、わたしたちも夢は見る。夢の中で空を飛んだことがあるし、谷底に落ちたこともある。しかし、目が覚めたら元に戻れた。それと同じかと考えていただけば、全く理解できないことではないとお感じいただけるでしょう。

それともう一つの言い方もあるといえばあります。神を信じているか信じていないかにかかわらず、かなり多くの人々が、自分の子どもが生まれるときになにかしらの宗教心を抱くことが十分ありうるということです。

皆さんの中にご自分の名前を親が決めたのは姓名判断の占いだったという方がおられませんでしょうか。それは良いことだとか悪いことだとか言いたくてお尋ねしているのではありません。

子どもの親になる人に共通しているのは、たとえ自分の子どもであっても親の願いどおりにはならないことを必ず体験するということです。男の子が欲しい、女の子が欲しいと、いくら願っても、その通りにならないし、こういう顔の、こういう形の、こういう能力のと、いくら期待しても、その通りにはならない。

その通りにならなくてよいのです。親は子どもの創造者(クリエイター)ではないからです。その現実を突きつけられるほうがよいのです。だれの思い通りにもならないで、わたしたちは生まれてきたのです。そうであるなら、わたしたちの子どもたちも、わたしたちの思い通りになるわけがないし、させようとすること自体が傲慢です。

しかし、だからこそ、みんながみんな同じではないかもしれませんが、かなり多くの人々が、自分に子どもが生まれるというときに、なにかしらの宗教心を持つことがありうると先ほど申し上げたことが当てはまります。

それが聖書の神への信仰と直接結びつくとは限りません。人間としての自分自身の限界を自覚することと神を信じることの間には大きな断絶があります。その断絶を越えるために強い決心と勇気が必要です。

しかし、どこかで気づいているはずですし、気づくべきです。自分の思い通りにならない存在が生まれるとは何を意味するのかを。最初の命を創造(クリエイト)し、わたしたちの命を生み出し支えている存在がどこかにおられることを。

いま申し上げたのはわたしたちの誕生に関することです。しかし、イエス・キリストの誕生は話が別だと言わなくてはなりません。

先週学んだマタイによる福音書1章に記されていたのはイエス・キリストの父となるヨセフの側に起こった出来事でしたが、今日開いていただいているルカによる福音書1章に記されているのはイエス・キリストの母となるマリアの側に起こった出来事です。

内容は共通しています。どちらにも天使が現れました。それは「夢」の話だとマタイによる福音書に記されていましたので、今日の箇所の出来事も同じであると言ってよいかもしれません。わたしたちが夢の中で空を飛んだり崖から落ちたりするように、マリアとヨセフは夢の中で天使に出会い、神の言葉を聞いたのです。そのように言えば納得していただけるのではないでしょうか。

そしてその天使がマリアに告げたのが「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という言葉でした。それが最初の言葉だったことは、いろんな意味で興味深いです。そのすぐ後に「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(29節)と記されています。

マリアが戸惑ったのは、天使が先に用件を言わないで、いきなり「おめでとう」と言ったからです。電話でも電子メールでも、用件を先に言ってから「おめでとう」と言わないと驚かれます。「何がめでたいのかを先に言ってください」と叱られますので、気をつけてください。

しかし、先に用件を言わずに「おめでとう」だけを言った天使が続けて告げた言葉にマリアはさらに驚きます。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(30~33節)。

このお告げはマリアにとって驚きでしたが、それ以上に不安を感じることでもあったはずです。マリアは結婚していなかったからです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)とすぐに反論しているとおりです。

しかし、それだけではありません。あなたは王の母になると言われたからです。何を言われているのかが分からなかったに違いありません。なんでもすぐにわたしたちの話にしてしまうのは私の悪い癖で申し訳ないですが、もしわたしたちが同じことを言われたらどのように感じるだろうかと考えてみるほうがよいと思いました。

あなたは王の母になると言われた人は、子どもを王として育てる責任が生じます。まさに帝王教育です。

子どもは親の思い通りになりませんので、親の教育とは無関係に勝手に王になってくれる子どもがいないとは限りません。しかし、自分の子どもが王になってくれたとき、その親である人が必ず脚光を浴び、クローズアップされますので、その日に備えて、王の親にふさわしい人間にならなくてはなりません。

しかし、いま申し上げたことは、特に重要なことではないかもしれません。子どもが生まれるときに親が見る夢は、大なり小なり大げさな要素があるし、それはやむをえないと思います。

「そんなことを言われても、私は子どもを産んだことがないので分かりません」と、どうか言わないでください。あなたが生まれたとき、あなたの親は、夢を見たのです。

少なくとも自分の夢を託せる人になってほしいと、自分の子どもに期待しない親はいません。「たぶんいません」と誤魔化さないでおきます。あなたは王の母になると言われたマリアが、これから生まれる子どもが将来王になることを期待し、がんばってほしいという願いを持つことはありえたし、それが悪いわけではありません。

しかしマリアの場合、それだけでもありません。天使は続けます。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(35~37節)。

天使のこの言葉で、マリアはいよいよ驚いたはずです。あなたから生まれる子どもは、将来王になるだけでなく、神の子であると言われたからです。何を言われているのか分からない状態が極まっていると言わざるをえません。

もういいのです、それ以上のことは考えなくても。考えても分からないことです。自分の子どもが将来どうなるかが分からないことと、世界の将来がどうなるかが分からないことは通じ合っています。

分からないことは分からなくていいのです。自分の願い通りにならないことがあることを正直に認めればよいのです。自分自身はこの世界の中のひとつのことでさえ創り出すこと(クリエイト)ができないことを、ただ受け容れればよいのです。

マリアにはそれができました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と天使に応えました。これは、「神の言葉が私の存在においても実現しますように」という祈りです。

自分自身の願いを持つことが悪いわけではありません。むしろ持つべきですし、持たないのは無責任に通じます。しかし大人になればなるほど、どれほど願っても叶わないことがあることを知ります。胸が張り裂けるほど。

そのときに、自分の願いをはるかに超えた、もっと大きく広い次元で、神が何かを実現しようとしておられることを、私は信じます。

その内容は私には分からないけれどもとにかく神が実現しようとしておられることが、この私の存在においても現れますようにと、私は信じます。

神の大きな計画の中で、この私の存在が用いられますように、という信仰に基づく祈りです。

このマリアからイエス・キリストが生まれました。これが、聖書が教えるクリスマスの知らせです。

(2018年12月16日)

2018年6月20日水曜日

どうすれば親孝行できるか(桜美林大学)

桜美林大学(東京都町田市)
桜美林大学(東京都町田市)

ルカによる福音書16章27~31節

関口 康

「金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

桜美林大学の皆さま、こんにちは。関口康と申します。よろしくお願いいたします。

今日の礼拝が「地域連携特別週間」のそれであるということを、たったいま知りました。今の教会には4月に転任したばかりですので、教会についてお話しする資格はありません。そういう準備は全くしていませんので、別の話をさせていただきます。

最初に私の自己紹介をさせていただきます。しかし、詳しいことを申し上げる時間はありませんので、ちょっとだけ。

私は一昨日月曜日に、東京都杉並区の東京女子大学のチャペルで説教させていただきました。一日置いて今日水曜日は桜美林大学のチャペルにお邪魔しています。一週間で二つの大学をお訪ねすることになりました。

ツイッターでバズった人に「お前、有名人じゃん(草)」というリプを飛ばす人がいます。私も今週ですっかり有名人です。私もツイッターをしますので、ぜひフォローしてください。しかし、今は礼拝中ですので、私の話を聴いてください。礼拝中のスマホいじりは禁止です。

しかし、という接続詞でつなぐ話ではないかもしれませんが、昨日火曜日は八王子に新しくできたばかりのインターネット通販サイト「アマゾン」の倉庫でアルバイトをしていました。

朝8時から夜7時まで10時間(休憩1時間)、時給1000円、週3日。アルバイトしながらでもないと成り立ちにくいのが牧師の仕事でもあります。すべての牧師がアルバイトしているわけではありませんが。

本当は今日もアマゾンのアルバイトに行く予定だったのですが、せっかく桜美林大学のチャペルで説教をさせていただけることになりましたので欠勤しました。事前に欠勤届を出しましたので、無断欠勤ではありません。

昨日の仕事はストーでした。ストーというのは倉庫に大量に届く商材を倉庫の棚の中に入れていく仕事です。私の作業内容は日によって違いますが、私に回してもらえる仕事は、ストー以外はピックかパックです。

ピックというのはお客さんが注文した商品の情報が倉庫に届くので、その情報に基づいて商品を探して集める作業です。パックというのは商品を梱包する作業です。

その倉庫はJR八高線「北八王子駅」徒歩15分のところにあります。アルバイトを探している方がおられるようでしたら、ぜひ応募してください。大募集中ですので、きっと採用してもらえると思います。

このままアルバイトの話を続けるほうがぜったい面白いと思いますが、私は今日、そういう話をしに来たわけではありません。今日の説教に「どうすれば親孝行できるか」という題を付けました。「どうすれば大学生の皆さんが、いちばんむかつく題になるか」を考えました。

私にも2人、子どもがいます。上が23歳、下が20歳。皆さんと同世代です。ということは、皆さんの親御さんが私と同世代の方々だということです。

その私が皆さんに「どうすれば親孝行できるか」という話をするということは、私が自分の子どもたちに「どうすれば私に親孝行してくれるのか」と説教するのと同じです。嫌でしょう、そんな親。殺意を抱くレベルかもしれません。そういうことはよく分かっているつもりです。

そして、今日の説教の結論を先に言えば、皆さんが親孝行のために特別に何かをする必要など全くない、ということです。「ナニそれ?」と思われるかもしれませんが、そうとしか言いようがありません。「そんなことはどうでもいい」というのが今日の結論です。

先ほど朗読していただきました聖書の箇所は、イエス・キリストのたとえ話です。お金持ちの人がいました。その人の家の前にいつも寝ているラザロという人がいました。体中に吹き出ものがありました。それを犬が近寄ってきてなめたりしました。

その後、ラザロは死にました。お金持ちの人も死にました。人生は平等です。貧しい人も死にますが、お金持ちの人も死にます。いずれにせよ人は必ず死ぬという点で、人生は平等です。

死んだラザロは天国に行きました。アブラハムという旧約聖書の登場人物が天国にいて、ラザロを迎え入れてくれました。お金持ちの人は苦しい地獄に行きました。その人が見上げると天国のラザロとアブラハムの姿が見えました。

お金持ちだった人が大声でアブラハムに、そこにいるラザロを私のところによこせと言いました。「お金持ちだった人」と過去形で言いました。だってこの人はもう死んでいるのですから。天国にも地獄にもお金を持っていくことはできませんから。

その人がアブラハムに言ったのは、ラザロの指に水をつけて私の渇いた舌を冷やさせろということでした。するとアブラハムは、それは無理だときっぱり断ってくれました。それはそうでしょう。この人は生きている間、苦しんでいるラザロに施しひとつせず、見殺しにしていたのですから。

すると、金持ちだったその人がまだ言う。私の父親の家に兄弟が5人いるので、その者たちのもとにラザロを遣わして、こんな苦しい地獄に来ないで済むようにラザロを使って言い聞かせてくださいと。そのこともアブラハムはきっぱり断ってくれました。

なんでこの人、こんなに偉そうなのでしょうか。この人のおかしさは、自分はもう死んでいるのに、ラザロがまだ自分の言うことを聞く手下になると思い込んでいることです。

さっきから言いたくて我慢している言葉を言っていいですか。こいつ、ばかです。

私は皆さんにはぜひお金持ちになっていただきたいです。皮肉でなく心からそう願っています。しかし、人を見くだす人間にならないでください。もし私が皆さんの親なら、自分の子どもにそのことをこそ願います。私もつい「ばか」と言いました。反省します。ごめんなさい。

皆さんにはぜひ会社に入ったら、リーダーになってほしいし、スーパーバイザーになってほしいです。マネージャーになってほしいし、オーナーになってほしいです。しかしそうなったとしても、アルバイトの作業員を自分の手下だとかコマだとか、そういうふうに思い込まないでほしいです。

もし私が皆さんの親なら、皆さんがどんなに偉くなっても、人を見くださない、ばかにしない人になってほしいです。すべての親が私と同じ考えかどうかは分かりませんが。

そういう人に皆さんがなることこそ「親孝行」です。親孝行のために特別にしなければならないことは、何もありません。

(2018年6月20日、桜美林大学チャペルアワー)

2018年6月18日月曜日

どうすれば天国に行けるか(東京女子大学)

東京女子大学(東京都杉並区)
東京女子大学(東京都杉並区)

ルカによる福音書14章21~24節

関口 康

「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った、『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

東京女子大学の礼拝でお話しさせていただくのは2回目です。最初は1年前の2017年6月(27日)でした。そのとき「私も就活中です」と言いました。あからさまに言えば、1年前の私は無職でした。どうしてそうなったのかは話が長くなりますので割愛させていただきます。昨年の説教は私のブログで公開していますので、探してみてください。

昨年私が申し上げたのは「同情してもらいたいのではありません。『おじさんも必死で生きています』と言いたいだけです。私は絶対にあきらめません。皆さんも絶対にあきらめないでください」ということでした。勝手な話ですが、そのとき私は皆さんの前で再就職の誓いを立てた気持ちでした。そして、これまた勝手な話ですが、今日は再就職完了の報告をさせていただきに参りました。

失業中、ハローワークに通いました。いろんなアルバイトを探しました。私が持っている免許は、自動車の普通免許と宗教科の教員免許と牧師の免許だけです。「使えないやつだ」と思われたようです。多くの会社から不採用通知を受け取りました。応募したのは、警備会社、湯灌師(おくりびと)、浮気調査の探偵会社、などなど。学校関係は競争率が高すぎて不採用。塾講師も応募しましたが不採用。

やっと採用してもらえたのが物流関係の倉庫でした。ピッキングのアルバイト。しかし、現場が自宅から遠く、交通費がかかりすぎて収入が目減りする一方なので、1か月でやめました。自宅から歩いて行ける距離に印刷関係の会社を見つけて応募したら、なんとか採用してもらえました。

今年4月から教会の牧師の仕事に復帰しました。それ以前の25年間続けてきた私の本業です。本業に戻ることができました。競争率が高いわけではありません。そもそも就職先が少なく、成り手も少ない職種です。

今は牧師の仕事をしながら、昨年の経験を活かしてアルバイトをしています。自転車で通える距離の八王子のアマゾンの倉庫で週3日、1日10時間働いています。内容はピック(注文品探し)とパック(梱包)とストー(棚入れ)です。

なぜこんな話をしているか。皆さんの参考になるかもしれないと思うからです。「おじさんとわたしたちを一緒にしないでほしい」と叱られるかもしれません。ごめんなさい。

この私の話と、今日の聖書に記されていることと、「どうすれば天国に行けるか」という今日のお話のタイトルとの三者がどういう関係にあるかを、そろそろ申し上げなくてはなりません。

これはイエス・キリストのたとえ話です。ある人が宴会を開きました。たくさんの人を招待したいと願いました。ところが、招待した人たちが、いろんな理由をつけて宴会に来ませんでした。腹を立てた主催者が、要するにだれでもいいから無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれと、しもべに言いました。天国とはそういうところだと、イエスさまがおっしゃいました。

たとえ話はその意味を考えなくてはなりません。私なりの言葉で言えば「天国は競争率が低い」ということです。タダでごちそうをいただけるのにだれも来ないし、理由をつけて逃げられる。―チャペルの礼拝のようでしょうか。今日はたくさんの方が出席してくださり、ありがとうございます。空席だらけで、行けばだれでも大歓迎してもらえる。―教会の礼拝のようでしょうか。そうかもしれません。

主人に招かれた人々が、なぜ誰も来なかったのでしょうか。タダでもらえるものには価値がないと思ったからでしょうか。自分が一生懸命頑張って手を伸ばして自分の力で勝ち取り、つかみ取るようなものでなければ。

要するにだれでもいいの例として、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の自由な人」をイエスさまが挙げておられることに差別の意図はありません。それだけは誤解のないように言っておきます。しかし、競争社会の中で遅れがちになりやすい人々であるのは否定しにくいことではあるでしょう。

「世の中は違う。そんなに甘くない」と思われるでしょうか。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。競争そのものが目的ならば話は別ですが、人生は競争だけで成り立つものではありません。

就活に悩んでいる方にぜひ考えていただきたいです。一度でいいから競争心を捨ててみませんか。「自分はあの人より上である、あの人より下かもしれないが」というその競争心を。生きていくために、仕事を得るために、世のため人のために役立つために。忍耐して生きのびたごほうびとしての「天国」に迎え入れていただくために。

(2018年6月18日、東京女子大学 日々の礼拝)

2017年12月24日日曜日

大いなる光キリストの誕生(上総大原教会)

日本キリスト教団上総大原教会(千葉県いすみ市大原9696)

ルカによる福音書2章1~14節

関口 康

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」

上総大原教会の皆さま、クリスマスおめでとうございます。今年のクリスマス礼拝に説教者としてお招きいただき、ありがとうございます。今日もよろしくお願いいたします。

しかし、今日は12月24日、クリスマスイヴです。クリスマスは明日です。その意味では今行っているのはクリスマスイヴ礼拝なのかもしれません。

最初に個人的な話になって恐縮ですが、私にとってクリスマスイヴは2年前から特別な意味を持つようになりました。2年前の2015年12月24日に千葉県柏市の借家に家族で引っ越しました。そしてその1週間後の12月31日に教会の牧師を辞職し、19年間所属していた教派を退会しました。

よりによってクリスマスに牧師交代を求める教会に言いたいことはありますが、言うのを我慢しているだけです。2016年4月から2017年3月まで高等学校で聖書を教える常勤講師になりました。2017年4月以降は日本キリスト教団の無任所教師になりました。

つまり、私にとっての2年前のクリスマスイヴはのんびり楽しい日などでは全くなく、複雑な思いを抱えながら家族と共に新しい旅を始めた記念すべき日となりました。2人の子どもはすでに大学生と高校生でした。「妻がみごもって」はいませんでしたが、私と妻は「泊まる場所」を探しまわるヨセフとマリアさながらでした。

クリスマスとは何でしょうか。身も蓋もない言い方をしてしまえば、ひとりの赤ちゃんが生まれた日です。ただそれだけです。今でこそ世界中で大騒ぎする日であることになっていますが、特に名もない一般家庭に初めての子どもが生まれた日です。しかも旅先の宿も得られず、医者も看護師もいず、出産環境も劣悪極まりない中で、ほとんど人知れず生まれることになった子どもです。

それだけではありません。よく知られているとおり、マリアは未婚の母となりました。フィアンセのヨセフはマリアに宿る子どもが自分の子どもでないと知り、疑念と不安に陥りました。その事態を彼らは「天使のお告げ」でなんとか乗り越えました。

長旅を強いられたのは、その後のことでした。苦労して苦労してやっと生まれた子どもの出産祝いに駆けつけてくれたのは近所で徹夜で働いていた羊飼いたちと、遠い東の国から来た占星術師たち、そして「天使」でした。

彼らは野原や砂漠で子どもを産んだわけではなく、雨風しのげる屋根のついた場所だったではないか、それは幸せなことではないかという話になるでしょうか。誰もいなかったわけではなく、羊飼いや博士がいたではないか、何より「天使」が来てくれたではないか、それは幸せなことではないかという話になるでしょうか。

そういうふうに明るくポジティヴに解釈するのは、ある意味で自由です。しかし、新約聖書、とくにマタイによる福音書とルカによる福音書が、イエス・キリストの降誕の出来事について、これでもかこれでもかと描き出す状況はきわめて暗くネガティヴな意味しか持っていないと、私には思われてなりません。

乱暴な言い方はしたくありませんが、どうしても明るくポジティヴに解釈したい方は、その方自身が実際に同じ状況を味わってごらんになればよいのです。とか言うと「私は味わいました」「私もです」と次々に手を挙げてくださる方がおられるかもしれません。身に覚えのない妊娠。臨月の長距離旅行。家畜小屋での出産。「こんな幸せなことは他にない」などと言えるでしょうか。

最初のクリスマスの出来事を描いている聖書の個所の主人公は、その日にお生まれになったイエス・キリストではありますが、イエスさまはただ泣いておられただけです。その日に苦しんだり悩んだりしていたのは母マリアであり、父ヨセフです。その意味ではマリアとヨセフも主人公であると言ってよさそうです。

今日みなさんに開いていただいた個所に描かれているのもまさにその状況ですが、このたび改めて読み直してみて、興味深く思えたのは「天使」の役割です。天使はマリアにもヨセフにも現れました。マリアの親戚のエリサベトにも夫ザカリアにも現れました。ベツレヘムの羊飼いたちにも東方の占星術師たちにも現れました。

全員に共通しているのは、彼らが眠ると夢に「天使」が出てくる点です。しかし今日の個所に出てくる天使は、「羊飼いたちは眠っていた」とは書かれていませんので、起きているときには天使は現れないということではありません。

しかし、そのことよりも大事なもうひとつの共通点は、「天使」がそれぞれの人に現れるときは必ずその人々が元気になるような、励ましや慰めの言葉を語っていることです。救いの希望、解放の喜び、約束の実現が語られています。天使が出てくる夢を見た人々は、きっと寝覚めが良かったと思います。もう一度目をつぶって夢の続きを見てみたいと思うほどに。

しかしまた、これもある程度共通していることですが、「天使」が出てくる夢を見て、天使の言葉に慰められたり励まされたりした人々の実際の現実は、暗くてネガティヴなものだったということです。それは、布団に潜って目をつぶっても一晩中眠れないほどの悩みや苦しみを抱えていた人々でした。

みなさんの中に不眠で悩んでいる方がおられませんでしょうか。眠れるのがどんなに幸せなことかと思っておられる方が。イエス・キリストがお生まれになるというこの出来事に際して「天使」の夢を見た人々は、不眠に苦しんでいる方々と大なり小なり似ている状況の中にいました。その意味では、彼らが見た「天使」は、夢か現(うつつ)か幻(まぼろし)か見分けがつかないような存在だったかもしれません。

そして、さらにもうひとつの共通点があります。それは、彼らが見た「天使」は、彼らをとにかく「イエス・キリストのもとへと招く」存在だったという点です。もっとも、マリアとヨセフにとっての天使の存在は「イエス・キリストのもとへと招く」というよりも「イエス・キリストを生むことを促す」存在だったと言うほうが正確かもしれません。「安心してその子を産みなさい」とマリアに対してもヨセフに対しても天使が励ましてくれました。

私は今日、ベツレヘムの家畜小屋での出来事を「最初のクリスマス礼拝」と名付けることにします。その「最初のクリスマス礼拝」へと多くの人々を招くために「天使」が活躍しました。その関連で、ルカによる福音書にとても興味深い言葉が書かれています。「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」(1章26節)。

原文に「天使ガブリエル」(αγγελος Γαβριηλ)とはっきり書かれていますので、ガブリエルは「天使」です。「天使」は人間ではありません。しかし「神から遣わされた」とあるとおり、「天使」は神でもありません。しかし、いわゆる動物ではないし、植物でもありません。人間と同じような理性や感情を持つ存在として聖書に登場します。

そして私がこのたび最も興味深く思ったのは、その「天使ガブリエル」が「ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」と書かれていることです。これで分かるのは、天使は具体的なこの町あの町に「遣わされる」存在だということです。

私は詳しくありませんが、天使の背中に羽根がついている西洋中世の絵画があるのをよく見ます。天使に羽根が生えているかどうかは分かりませんが、どこへでも自由自在に飛んでいくことができるのかもしれません。しかし、それは鳥も同じです。それで分かるのは、「天使」はまさに鳥と同じで、同時に違う場所に存在することができないということです。存在できるのは一か所一か所です。

たとえば、私がいま住んでいる千葉県柏市と、上総大原教会がある千葉県いすみ市に、同じひとりの天使が、同じ時刻、同じ瞬間に同時に存在することはできません。「天使」が電車やバスに乗ったり、自分で自動車を運転したりするどうかは分かりませんが、何らかの移動手段が必要です。その移動のために時間や交通費がかかります。

「夢」の中に現れる天使に移動手段が必要なのかと私に問われても答えられません。しかし「天使」は「ナザレの町」や他の町へと「遣わされる」存在であることの意味を考えているだけです。そして、いま私が最も申し上げたいのは、その「天使」が果たした役割は「最初のクリスマス礼拝」へと多くの人を招くことだったということです。

「天使」の呼びかけに応えて実際に集まったのはイエス・キリストの両親になったヨセフとマリア、ベツレヘムの羊飼い、東方の占星術師だけだったかもしれません。クリスマス劇(ページェント)では羊飼いと占星術師が一緒に並んで立つ場面がたいていありますが、彼らが同じ時刻に同時にいたとは限りません。全員合わせても10人に満たない小さな小さな礼拝だったかもしれません。

あとは家畜小屋の動物たちがいたかもしれませんが、「最初のクリスマス礼拝」の出席者数にカウントしてよいかどうかは分かりません。しかし、そこで行われたのは確かにイエス・キリストを拝む「キリスト礼拝」であり、「教会の原形」でした。そのことを想起しうることが新約聖書に確かに記されています。

しかし、その「最初のクリスマス礼拝」の主人公であるイエス・キリストは、ただ泣いておられただけです。あるいは、眠っておられただけです。ご自分でしゃべることがおできにならない。「最初のクリスマス礼拝」の説教者はイエス・キリストではありません。いわばイエス・キリストの代わりに雄弁に語ったのが「天使」でした。救いの希望、解放の喜び、約束の実現を説教したのは、他ならぬ「天使」でした。

私はいま申し上げていることで「もしかしたら天使は普通の人間だったのではないか」というような推論を述べようとしているのではありません。天使は天使のままで全く問題ありません。そういう話のほうが面白いです。そして、天使が「神」ではないことは聖書においてははっきりしています。つまり、「天使」はわたしたちの信仰の対象ではありませんので、「天使を信じる」必要はありません。

私が申し上げたいのは、そういうことではありません。私が申し上げたいのは、今日の個所に出てくる「天使」が果たした役割としての「最初のクリスマス礼拝」に多くの人々を招くことは、十分な意味でわたしたちにもできる、ということです。真似することができます。

そう思いまして、私は今日のクリスマス礼拝のチラシを自分で500枚作り、先々週の12月10日(日)の午後2時半に大原駅に着き、途中1時間の休憩を含めて午後6時まで、配布させていただきました。教会のみなさんにご負担をおかけしたくありませんでしたので、代務者の岸憲秀牧師には許可をとりましたが、教会の皆さんには内緒で「勝手に」配らせていただきました。チラシの印刷費や往復交通費は、私の友人の方々が応援してくださいました。感謝してご報告させていただきます。

「教会の礼拝にぜひ来ていただきたい」というわたしたち教会の願いは、ただ人が多ければ活気があってよいとか、そういう理由ではありません。孤独な人、寂しい人、助けを求めている人が、この町にもどの町にも大勢いることを、わたしたちは知っています。そういう方々にとって教会がきっと助けになります。しかし、教会に来れば必ず友達ができるという意味でもありません。教会に行っても、もしかしたら「天使」しかいないかもしれません。

しかし、その「天使」が、救いの希望、解放の喜び、約束の実現を雄弁に語ってくれるとしたら、どうでしょうか。厳しい現実の中で眠れぬ夜を過ごしている人々に「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と告げる「天使」がいてくれたら。

そのときわたしたちの人生は、しっかりとした支えを得ることができます。ぜひ教会に来てください。

(2017年12月24日、日本キリスト教団上総大原教会クリスマス礼拝)

2016年12月12日月曜日

新しい時代の到来(千葉英和高等学校)

ルカによる福音書2章8~12節

関口 康

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」

今日の説教に「新しい時代の到来」というタイトルを付けたのは、「アドベント」という言葉の意味が「到来」だからです。「待つ」という意味はありません。「待つ」ではなく「来る」です。救い主イエス・キリストの誕生は「新しい時代の到来」を意味する。それが「アドベント」の意味です。

私の妻は保育士です。子どもたちが小さい頃は子育てに専念していました。息子が中学校に入学し、娘が小学校の高学年になったときから保育士の仕事を始めました。ちょうど10年前です。

保育士の仕事にもいろいろあります。現在は発達障がいを持つ子どもたちの施設で働いています。その前は児童養護施設で働いていました。複雑な事情の子どもたちの世話をしています。

しかし、妻の仕事の具体的な内容については、私は何も知りません。いろんな仕事に当てはまることでもありますが、妻の仕事には「守秘義務」があります。仕事上知りえたことを第三者に漏らしてはなりません。それは夫婦であっても親子であっても同じです。

学校の先生も同じです。学校の先生にも「守秘義務」があります。私も家でもどこでも学校のことは何も話しません。ですから、私と妻が家にいるときは、お互いにずっと黙っていることが多いです。それでいいのです。そういう仕事なのですから。

こういう話をするのは、皆さんの将来の進路選択や職業選択の参考にしてほしいという願いがあるからです。直接的な意味で保育士になってほしいという意味ではありません。私が言いたいのは、日本の中にも、小さいときから親子の関係や自分自身の体や心のことで激しく悩み苦しんでいる子どもたちがたくさんいるということを知らずにいないでほしいということです。そして、もし可能なら、そのような子どもを何らかの仕方で助ける仕事をぜひ目指してほしいということです。

先々週の礼拝にお招きした日本国際飢餓対策機構の方の話には、心を激しく揺さぶられました。飢餓で命を失う子どもたちが日本国内に大勢いるとは言えないでしょう。しかし、日本には問題がないということはありえません。人に言えない事情も多くあるのですが、だからこそ人知れず多くの子どもたちが小さいときから激しく苦しみ悩んでいます。

その中には皆さんと同世代の子どもたちがいます。皆さんの弟さんや妹さんの世代、あるいはもっと小さな子どもたちもいます。その子たちのことを他人事だと思わないでほしいです。きつい言い方になりますが、「そういう家庭環境に生まれてしまった子どもたちは、はい残念でした。でも、ぼくは、私は、ラッキーでした」というような考え方は捨ててほしいです。

「ノブリス・オブリージュ」というフランス語の言葉を皆さんはご存じでしょうか。英語でいえば「ノーブル・オブリゲーション」です。日本語には訳しにくい言葉ですが、その意味は「恵まれた人こそが社会的に果たすべき義務が重い」ということです。税金の額だけの問題ではありません。もし皆さんが「ぼくは、私は、ラッキーでした」と思うなら、そのような人こそが、そのようなことを考えることすらできない苦しい立場にいる人々のことを助けることについて大きな義務を負うべきです。

進路選択や職業選択について私が何か言うと、それは押し付けだ、指図するな、個人の自由だとお叱りを受けることがありますので、このことも慎重に言わなければなりません。押し付けるつもりも指図するつもりも全くありません。ただお願いしたいだけです。

今月初めに行われた学校のクリスマス祝会の「ページェント」(キリスト降誕劇)は本当に素晴らしかったです。感動しました。私は昨年までは在校生の保護者として毎年参加していましたので、4年連続で観させていただきました。どの年の作品も素晴らしかったですが、年々パワーアップしていると思います。

しかし忘れてはならないのは、ページェントが教えてくれたのは「最初の」クリスマス、つまりイエス・キリストの誕生の日の出来事は、本校のページェントの盛大さとは全く正反対と言えるほど寂しいものだったということです。

ヘロデを上手に演じてくれた名役者を悪者にする意図はありません。しかしイエスが生まれたのは裕福で贅沢なヘロデの側ではありません。正反対です。「こんな服で、こんな身なりで救い主に会いに行ってもいいのだろうか」と悩む羊飼いたちに涙が出ました。人の心の叫びが聞こえました。

しかしまた、そのような人々のもとでこそ、そのような人々のためにこそ救い主がお生まれになったのだと天使が教えてくれました。そうであることのしるし、その証拠は、幼子イエスが家畜小屋の飼い葉桶に寝かされていることであると教えてくれました。

その幼子イエスの姿は、裕福と贅沢のまさに正反対です。裕福と贅沢が悪いと言っているのではありません。しかし、世界には、そして今の日本にも、そうでない人が大勢いるし、多くの子どもたちが苦しんでいるということを深く考え、真剣に向き合うことなしに自分の裕福と贅沢だけを追い求めようとするならば悪いです。いいわけがないではありませんか。

そのことをクリスマスが、そして幼子イエスが、今日あなたに問いかけています。そのことを覚えて過ごすクリスマスでありたいと願います。

(2016年12月12日、千葉英和高等学校 学校礼拝)

2016年12月11日日曜日

最後の希望の光(千葉若葉教会)

ルカによる福音書2章8~14節

関口 康

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」

プロテスタントの教会にもいろいろありますが、「ふだんは教会暦のことなど全く無視しているのに、クリスマスとイースターとペンテコステばかり騒ぐのはいかがなものか」という意見が昔から根強くあることを皆さんもご存じだと思います。私もどちらかといえばそちらの影響を強く受けている人間ですので、アドベントになってもクリスマスになってもポカンとしているほうです。皆さんのお考えと違うようでしたらお許しください。

イエス・キリストの降誕の出来事を描いた聖書の箇所は、教会では何度も何度も読まれますので、さすがに聞き飽きたと思われる方が多いと思います。私も過去51年間教会生活をしてきましたので、50回はクリスマス礼拝をささげました。そのたびに同じ聖書の箇所が読まれますのでうんざりするのですが、今年の私はちょっと違います。新しい視点が与えられたという思いでいます。

新しいと言ってもそれほど新しくもないのですが、それは私にとっては新しい、とても新鮮な視点です。まだ先々週の12月2日金曜日に古書として入手して読み始めたばかりの本ですが、ドロテー・ゼレ先生の『神を考える 現代神学入門』(三鼓秋子訳、新教出版社、1996年)に書かれていることを読んで与えられた、私にとってはとても新しい視点です。

ゼレ先生は、ドイツで生まれ、アメリカのニューヨーク・ユニオン神学大学で教え、再びドイツに戻って活躍した女性の神学者です。1929年生まれとのことで、私の親とほぼ同世代の方です。そして、2003年に73歳で亡くなられました。

『神を考える』の日本語版の出版は1996年です。ちょうど20年前です。原著ドイツ語版の出版は1990年ですので26年前です。1990年といえば、私が東京神学大学大学院を修了して高知県の日本基督教団の教会の伝道師として仕事を始めた年です。当時の私は24歳で、現在51歳です。その頃のことを思い返すと、懐かしいと言えば懐かしい。しかし、教会と神学の歴史の長さを考えれば、ゼレ先生の神学はまだまだ新しい考え方です。

ゼレ先生の著書の日本語版は『神を考える』以外に、『苦しみ』(西山健路訳、新教出版社、1975年)、『働くこと愛すること』(関正勝訳、新教出版社、1988年)『幻なき民は滅びる 今、ドイツ人であることの意味』(山下秋子訳、新教出版社、1990年)などがあります。私が最初に購入したのは『苦しみ』ですが、ずっと前に購入しましたが全く理解できず、放置していました。しかし、やっと理解できるようになりました。ゼレ先生が何を言おうとしているのかが分かるようになりました。

そういうわけで今日は、聖書そっちのけでゼレ先生の本をずっと読んでいたい気持ちですが、そうも行かないと思いますが、今日はゼレ先生の文章を長めに引用することをお許しいただきたく願っています。以下のように記されています。

「一つ聖書の例を引いて、いろいろな神学的伝統における解釈の多様性を明らかにしてみたい。その例として、イエスが処女マリアから生れたという話を考えてみよう。正統主義は、この話を字句通りそのまま解釈する。イエスは処女から生れたのである。この教義的な表明は、アメリカのファンダメンタリストたちからは五つの根本的信条の一つとまでされ、信仰的財産に修正を加えようとする今世紀初めの自由主義的試みに対抗した」(65頁)。

解説の必要があるでしょうか。「正統主義」とか「ファンダメンタリスト」と呼ばれているのは聖書解釈の「保守的な」立場の人々です。「今世紀初め」は今では「前世紀の初め」です。引用を続けます。

「保守的な福音絶対主義の人たちの間では、処女降誕の教えはキリスト教信仰の本質的な構成要素とされ、これがなければ信仰は告白されることができない。この人たちにとって、信仰を決定する意味を持つのは戦争や大量虐殺の手段に対する態度ではなく、恐らく処女降誕の教えであろう」(65~66頁)。

ゼレ先生はこれを皮肉で書いておられるのではありません。全く書いてあるとおりです。「保守的な福音絶対主義の人たち」は、名指しは避けますが、つい最近まで私の身近なところにいましたので、私も肌感覚で分かります。真面目な人々ですが、ぞっとするところを持っています。引用を続けます。

「そこへ自由主義的な批評家がやって来て、聖書を開き、新約聖書の最も重要な記者はこの話を全く知らないか、或いは述べていないということを確認する。マルコはその福音をイエスが既に三十歳のときの受洗から書き始め、子供時代のことについては何も述べていない。マルコにとっては処女マリアに何があったのか、イエスがどのようにして生れたのかは、重要なことではなかった。ヨハネはイエスをずっと神のもとにおき、誕生の話を深く考えてはいない。それはパウロも全く同じである」(66頁)。

これは解説の必要はないでしょう。他の箇所にはっきり書かれていますが、「自由主義的な批評家」というのは、ゼレ先生が卒業したドイツのゲッティンゲン大学神学部や他のドイツの大学の神学者を指しています。引用を続けます。

「諸宗教をそれぞれの文脈において比較する、自由主義神学の副業であるいわゆる宗教史学派の助けを借りて、自由主義神学は処女降誕が古代ではかなり広まっていたモチーフであることを発見した。人々は好んで重要な人物や偉大な英雄が、処女から生れたと言ったのである。この各地で見られるモチーフは、父親が誰であるかはっきりとわかっている人でも、処女から生れたといわれるほど広く語られた。例えばソクラテスの父親も母親も私たちはよく知っているが、彼が死んで四百年のちには、処女降誕が語られた。ソクラテスの神性をより一層明らかに表すことができると考えたからである。したがってこのモチーフはユダヤ教ではなく、ヘレニズムに端を発したものであった。ヘブライの聖書は預言的に『おとめ』について語っている(イザヤ7・14)。そしてこのモチーフがルカの報告となって、教会史の中に入り込んできた。性や女性を敵視する響きは、聖書にはない」(66頁)。

「処女降誕物語」のヘレニズム起源説については、青野太潮先生も近著『最初期キリスト教思想の軌跡』(新教出版社、2013年)に書いておられます。ソクラテスが処女から生れたという話が実在することを知っている方々は、同じような話が聖書の中に紛れ込んできたことを証明できると考えておられます。私も特に異存はありません。しかし、ゼレ先生の意見は、ここから先です。

「私は18歳のときに持ったキリスト教への疑念を思い出すことができる。私が砕くことができなかった石(一番大きなものではなかったが、しかし一つの石であった)の一つが、私には理解できないこの処女降誕であった。なぜこのことを信じなければならないのか、解らなかった。処女から生れたイエスのほうが、父親がいるイエスよりも立派だというのか。それが私の救い、罪と悲しみからの解放に何の役に立つのか、私は理解しなかった。この信仰的財産がヘレニズム的解釈の一つに過ぎず、私がキリスト者であることにとって本質的なことではないということを自由主義神学を通して知ったとき、私がどんなに解放されたと感じたかを、今でもはっきりと覚えている。自由主義のパラダイムは、人間をしばしば信仰の躓きから解放してくれた」(66~67頁)。

しかし、ここでゼレ先生のお話は終わりません。ここから先が最も大事です。

「しかし、ラテン・アメリカの解放の神学では全く違っている。処女降誕のモチーフは不必要なものとされるのではなく、解放闘争の中へと組み込まれている。決定的なことは、解放者は貧しい人々の間でこの世に生れたということである。ラテン・アメリカでは多くの人々が未婚の母から生れ、父親を知らない。保護や援助を当てにすることができないまま、子どもを生む若い女性がいるという状況がごく普通なのである。彼女は困難に陥っており、恐らくエリサベトのような年上の女友達に助言を求めるだろう。彼女は見捨てられ、不貞を罰せられるのではないかと不安に思っている。これらはすべて私たちの社会にもある正常な状況である。この状況は解放の神学では次のように受け入れられている。マリアは私たちのうちの一人であり、彼女は光を、解放者を、救済者を生んだと。彼女に受胎を告げる天使は、『ソレンチナーメの農民の福音書』では、『反体制的』と見られている。『そしてマリアもまた、この知らせを聞くと、すぐに反体制的になる。彼女は地下組織に加わったかのように感じていたのではないかと思う。解放者の誕生は、秘密にされていなければならない』」(67頁)。

どうでしょうか。全く受け入れられないでしょうか。私はとても魅力を感じる解釈です。

「これはこの物語への全く新しい近づき方である。貧しい人たちから、しかも貧しい人々に属する女性という最も貧しい人々の立場から考えているという点で、全く異なっている。このような意味で、処女降誕の話が自由主義のように不必要なものとして批判されるのではなく、正統主義的パラダイムとつながりを持ちつつ、しかし同時に、貧しい人たちから、そして貧しい人たちのためにという新しい解釈の枠組みの中で、新しく解釈されている。そこからは性への敵意と支配ではなく、反体制と抵抗が伝わってくる。自由主義神学にとって処女降誕は、取り去ってしかるべき躓きの石である。解放の神学にとってそれは、一個のパンである」(68頁)。

今日開いていただいた聖書の箇所は処女降誕には直接関係ありませんが、まさに「貧しい人たちのもとで、貧しい人たちのために」イエス・キリストがお生まれになったことが分かるように記されている箇所です。この最も大切な視点の意味を教えてくれたゼレ先生の著書に感謝しつつ、皆さんにもご紹介したいと願った次第です。

明日(12月12日)は学校礼拝で私が説教します。そこでも私はこのことを話したいと考えています。

イエス・キリストは「貧しい人たちのもとで、貧しい人たちのために」お生まれになりました。イエスの両親も、イエスの誕生を祝いに来た羊飼いたちも、貧困と孤独の中にいた人々でした。イエスが最初に寝かされたのは、家畜小屋の飼い葉桶でした。夜通し働いていた羊飼いたちを明るく照らしたのは、夜空の星と「主の栄光」でした。後者はもしかしたら「マッチ売りの少女」(アンデルセン作)が最期に見た光のようなものかもしれません。

学校礼拝で話そうと思っているのは次のようなことです。「私は貧しくもないし、孤独でもない」と思える人は幸いです。しかし、そうでない人々のことを深く考え、真剣に向き合うことができないような心の持ち主であるなら不幸です。そのことをクリスマスが、そしてイエスがあなたに問いかけています。どういうふうに聞いてもらえるでしょうか。

イエス・キリストは、貧しい人々にとっての最後の光、最後の望みです。「私は貧しくないから関係ない」でしょうか。「私が貧しくなることはありえない」でしょうか。そんなことはないのではないでしょうか。そのようなことを考えながら過ごすアドベントでありたいと願います。

(2016年12月11日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会 主日礼拝)

2016年8月14日日曜日

友達を作りなさい(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東)
ルカによる福音書16章8~9節

「主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」

今日の説教のタイトルは、先ほど司会者の方に朗読していただいた聖書の箇所からそのまま引用したものです。イエス・キリストのお言葉です。しかし「友達を作りなさい」という言い方はいかにも居丈高な響きがあるような気がしましたので、タイトルを決めるときに迷いましたが、思い切って付けました。

しかしそれ以上に、この箇所を選ばせていただくこと自体に大いに迷いがありました。なぜ迷ったかはお分かりいただけると思います。たとえたとえ話であるとはいえ、わたしたちの救い主イエス・キリストともあろう方が、犯罪者とまでは言えないかもしれないとしても、明らかに「不正を犯した」人のことを引き合いに出した上で、そういう人をほめるようなことをおっしゃっているからです。

これは大問題です。とんでもないことです。一緒くたにしてよいかどうかは分かりませんが、首相経験者が「ナチスに学べ」と言って大問題になりました。大問題になって当然です。もちろんイエスさまは犯罪や不正そのものを肯定しておられるのではありません。そんなことをすればイエスさまの教えはすべて台無しになってしまいます。しかし、イエスさまは今日の箇所で「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というような、ほとんど確実に誤解を招くようなことをおっしゃっています。

私はいま「誤解」と言いました。本当に誤解かどうかはよくよく考える必要があります。よくよく考え、よくよく説明すれば、イエスさまが不正そのものを肯定しているのではないということを理解していただけるだろうと私は確信しています。しかし、お忙しい方々や、イエスさまに敵意や反発を持っている方々にはそういう説明を聴いていただけないので、誤解されたままになってしまいます。

なぜこれでイエスさまが不正そのものを肯定していることにはならないかといえば、イエスさまは富の本質を言っておられるからです。富と不正は切り離すことがきわめて難しい関係にあるということです。不正から完全に切り離された純粋な富などはどこにも存在しないということです。しかし、それは富そのものが犯罪や不正であるという意味ではありません。お金そのものが汚いという意味ではありません。お金が汚いのではなく、お金を扱う人間の心が汚いのです。

流通しないお金に価値はありません。全く使われることのない死蔵金はまさにただの紙切れであり、ただの金属片です。富は流通してこそ価値があります。人の手から人の手へと渡されてこそ、初めて意味を持ちます。そして、そうしている間に罪や不正が紛れ込んできます。紛れ込むのは当然であると言っているのではありません。罪や不正を肯定する意味では全くありません。それがまるで当然のことであるかのように言って、市民権を与えるようなことをしてはいけません。

しかし、断じてそういう意味ではないとしても、だからといって富と不正が完全に無関係になることはないとイエスさまが考えておられることは間違いありません。それが「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とイエスさまがおっしゃっていることの前半の「不正にまみれた富で」の意味です。

しかし、この御言葉でイエスさまがおっしゃっていることの主旨は、後半の「友達を作りなさい」のほうです。そして、その「友達を作る」ための手段として「不正にまみれた富」を用いなさいとおっしゃっているわけです。しかしその意味は、友達を作るために用いる富は「不正にまみれた富」だけであって、不正にまみれていない富は友達を作るために用いてはいけませんというような意味ではありません。それは支離滅裂です。まるで冗談です。もちろんそういう意味ではありません。

だからこそ私が先ほど説明させていただいたことが意味を持つと思います。不正にまみれていないような富はこの世には存在しないのです。すべての富が不正にまみれているのです。なので、イエスさまの話を曲解して、不正にまみれた富は友達を作るために使ってよいが、不正にまみれていない富は友達を作るために使ってはいけないというような詭弁を弄することはできないのです。

それはともかくイエスさまのおっしゃっていることの主旨は「友達を作りなさい」ということです。それははっきりしています。しかも「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とおっしゃっています。つまり、友達を作ることと、そのためにお金を使うこととを明確に関連づけておっしゃっています。

このようなことをイエスさまからはっきり言われると、あるいはこのようなことが聖書に書かれているのを読むと驚く人は多いはずです。「イエスさまも結局お金ですか。教会も宗教も結局お金ですか」と言われてしまうでしょう。さまざまな批判や反発を受けることになるでしょう。そのことをイエスさまはご覚悟のうえでおっしゃっています。

しかし私はいま、いくらか大げさな言い方をしています。大雑把に言っているところもあります。お金にかかわる問題はとてもデリケートな問題ですので、できるかぎり丁寧に話す必要があります。私が誤解されるのを最も恐れているのは、イエスさまが「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とおっしゃっていることを、言葉の順序を逆にして「友達を作るために不正にまみれた富を使いなさい」と言い直しても同じかどうかという点です。

それはどういうことかといえば、イエスさまがおっしゃっていることを「友達を作るためにお金を使うのは当然だ」と言い直し、「お金を使わないで友達などできるはずがない」と言い直し、「あなたはケチだから友達ができないのだ」と言い直す。イエスさまのおっしゃっていることを、そのような話へと変換することが可能かどうかということです。

皆さんはいかがでしょうか。もちろん私はいま、みなさん自身はどのようにお考えになりますかと問いたくて、このような挑戦的な言い方をしています。友達を作るために全くお金を使わないような人に友達などできるはずがないと、そのように思われるでしょうか。そして友達作りのために大事なのは結局お金だと。どんなにきれいごとを言おうとも結局この世はお金だと。

そういう価値観、そういう人生観、世界観をイエスさまが教えておられるでしょうか。イエスさまがそのことを肯定しておられるでしょうか。この箇所を読んで、イエスさまはわたしたちの味方だ、わたしたちの現実をよく分かっておられる、親近感がわく、というような話をしてしまってよいのでしょうか。私が問うているのはそのことです。

私の結論を言わせていただけば、それは違います。そんなことをイエスさまはおっしゃっていません。お金など使わなくても友達はできます。かえって「金の切れ目が縁の切れ目」というような関係になってしまっている相手は「友達」ではありません。少なくとも関係が対等ではありません。常にどこか必ず上下の関係であり、支配・非支配の関係なのであって、言葉の健全な意味での「友達」ではありません。

ですから、私はこの箇所に書かれていることをそういう話にしてしまわないほうがよいと考えます。お金を使うかどうかそのこと自体は、実は重要ではありません。重要なのは「友達を作ること」です。そのために手段を選ぶ必要はなく、どんな卑怯な手を使おうと、不正を働こうと一向に構わないので、とにかく「友達」を作りなさい、という意味ではありません。そんなふうにして作った関係の相手は「友達」でも何でもないです。それは話がおかしすぎます。冷静に考えれば分かることです。

たとえ話の中身に入るのが後回しになりました。ある金持ちに一人の管理人がいました。その管理人が主人の財産を無駄使いしていたというわけです。これがすでに「不正」です。そのことを主人に告げ口する人がいました。それで主人は管理人を解雇することにし、もう仕事を任せておけないので会計報告書を提出するようにと、管理人に命じました。

すると管理人は、自分は土を掘る体力もないし、物乞いをするのは恥ずかしくて嫌だと考えました。それで思いついたのが、主人のお金を貸した相手をひとりひとり呼んで、それぞれが借りているお金の金額を書き換えなさいと言い、主人に黙って割り引いてあげたというわけです。それぞれの負担を軽くしてあげたわけです。そのようにして多くの人に恩を売っておけば、主人が自分から仕事を取り上げたとき、その人たちが自分を助けてくれるだろうと考え、実行したというわけです。

お金を借りていた側の人々は、もちろん大喜びです。命乞いをしたいと思っていた人々が、まさに命を助けられた思いだったでしょう。そのようなことをした管理人のやり方を、主人が誰から教えてもらったかは分かりませんが、とにかく知る。内緒だったはずですが、また告げ口する人がいたのでしょう。しかし、そのことを知った主人が、その管理人のやり方をほめたというのです。

その後どうなったかは分かりません。管理人のやり方をほめた。いいぞ、よくやったと。それでもこの主人はこの管理人を解雇したのか、それとも解雇せずにそのまま仕事を続けさせたのか。それは分かりません。

しかし、分かることがあります。それは、この主人がこの管理人のどこをほめたのかです。それははっきりしています。この管理人がお金というものの本質をよく知り、その使い方をよく知っているという点です。この点を主人がほめたのです。

無駄使いはしてしまうタイプです。お金儲けは得意ではありません。お金を減らすことはできても、増やすことができません。どんどん良い商品を生み出して、たくさんお客さんを増やして、がんがんものを売るというようなタイプではありません。その意味では商売にも営業にも向いていません。

収入が増えないのに給料ばかりとります。会社にとっては迷惑な存在です。家にいればひたすら浪費するタイプです。「ごはんできました。お風呂わきました」と呼んでもらうまで何もしません。ずっと自分の部屋に引きこもっているか、テレビを見ながら寝そべっているタイプです。

しかし、そういうことは全くできなくても、できることがあります。人の負担を軽くしてあげることができます。お金だけの話ではないです。だれかに対して自分から貸している、貸しがあるようなところを、許してあげることはできます。「返さなくていいよ」と言ってあげることができます。

それで感謝してもらうことはできます。貸した借りたの緊張関係を解消できます。そういう方法で仲間を増やすことができます。この管理人はそういうことができた人です。もちろんそのことを自分のお金でない主人のお金でしているところは問題ですが、ある意味で最もお金の使い方を知っている人です。

たとえば親子の関係はどうでしょうか。親は子どもの育成と教育のために莫大なお金を使います。それは親子の間の貸し借りの関係でしょうか。そのように考える子どもたちは当然います。さんざん世話になった親なのだから、恩返ししなくてはならないと。

そのように要求する親もいます。言葉や態度で要求しなくても、親の心の中に少しでもその要求があれば、子どもたちは必ず拘束されます。身動きがとれません。もし親子の関係が貸し借りの関係であるならば、子どもが親から借りていないものは何一つないからです。

もし「返せ」と言われるなら、返さなければならないわけですが、そこから先は親子の関係というよりも、ほとんど主人としもべの関係、あるいは雇い主と従業員の関係になってしまうと思います。

夫婦の関係はどうでしょうか。難しい要素は、もちろんたくさんあります。もともとは赤の他人でしたので。しかし、夫婦の関係は、貸し借りの関係でしょうか。

親子でも夫婦でもない人々との関係にまで視野を広げていくと、同じように考えるのは難しいかもしれません。しかし、教会はどうでしょうか。牧師と教会員との関係、あるいは教会員同士の関係は、貸し借りの関係でしょうか。そういう要素もたくさんあると思いますが、それだけでしょうか。

神と教会の関係はどうでしょうか。神とわたしたちひとりひとりの関係はどうでしょうか。それは貸し借りの関係でしょうか。「神さまに貸してやった。でも、私の思い通りにならないから返してくれ」というような話になるでしょうか。

もちろんいろんな考え方やいろんな立場があると思いますので、一概には言えません。ただ今日の箇所で重要なことは、イエスさまが教えておられるのは「友達の作り方」である、ということです。その意味をよく考える必要があります。

私にとっても他人事ではありません。今は学校で聖書を教える仕事をさせていただいていますが、有期の採用ですのでいつまで続けさせていただけるかは分かりません。教会の牧師の仕事を探していますが、なかなか見つかりません。しかし、土を掘る力はないし、物乞いするのは恥ずかしい。この不正な管理人は私自身の姿です。「土を掘れよ、物乞いをしろよ」と言われてしまうかもしれません。悠長なことを言っている場合ではありません。

それで私が、不正を働いてでも、と考えているわけではありませんので、どうかご安心ください。そのような不正は決して働いておりませんので、ご信頼してください。

残念ながら、がんがん稼ぐというようなタイプではありません。「がんがん稼ぐ牧師」とか「どんどん儲ける教師」というのは、どこか言葉の矛盾を感じてしまいます。しかし、人の負担を軽くするためのアイデアや方法なら、いろいろ思いつきます。提案し、実行できます。そういう面でお役に立てるようになれればいいなと願っています。

最後は私の話になって申し訳ありません。しかし、これは私だけではなく、私と同じくらいの世代の多くの牧師たちが同じように抱えている悩みでもあります。ぜひお祈りいただきたく願っています。

(2016年8月14日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)

2013年12月15日日曜日

家畜小屋の中で救い主がお生まれになりました

ルカによる福音書2・1~14

「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」

いまお読みしました聖書の個所は、毎年クリスマスが近づくたびに、またはクリスマス礼拝当日に読んできた個所です。ここに記されていることの中で最も大切なことは、わたしたちの救い主イエス・キリストがお生まれになった場所はどこなのか、ということです。それを示す言葉がキーワードです。

そのキーワードは「飼い葉桶」です。飼い葉桶があるのは家畜小屋です。つまりイエスさまは家畜小屋の中でお生まれになりました。

言うまでもないことですが、家畜小屋は人間の住む場所ではありません。まさか当時、人間の住む場所はどこにもなかったという話ではありません。「宿屋には彼らの泊まる場所が無かったからである」(7節)と記されています。宿屋はあったのです。しかし、彼らの泊まる場所がなかったのです。

ローマ皇帝アウグストゥスの命令で当時ローマ帝国の支配下にあったユダヤ王国の人々がそれぞれ自分の町へ帰って住民登録をしなければならなくなりました。ユダヤ人たちは遠い町への移動を強いられ、国じゅうは蜂の巣をつついたような状態になり、宿屋はどこも満室でした。だからイエスさまは家畜小屋でお生まれになりました。人間の住む場所ではないところでお生まれになったのです。

この個所を改めて読みながら考えさせられたことがあります。それは、ローマ皇帝アウグストゥスにとっては、自分の下した命令によって動かす人々がどんな目にあおうと、どんな苦しみを味わおうと、そんなことはどうでもよかったに違いないということです。

ヨセフとマリアにとって、初めての子どもをそのような場所で産まなければならなかったことは、悲劇という以外に表現しようがないことだったに違いありません。しかし、そのようなことは現実に起きます。

一国の権力者の目から見れば、国民一人一人はまるで飛行機の上から地上を見るとそこに見えるごま粒のように小さい人間の姿かもしれません。しかし、その人々も確かに人間です。ごまではありませんし、家畜でもありません。

国民一人一人の姿がちゃんと人間として見えているならば、一つの命令を下す場合でも、その結果、国民の一人一人がどのような目にあうのかということを丁寧に考えるでしょう。だれ一人不幸にならず、少なくとも人間として尊重されるように配慮がなされる政治を行うでしょう。

しかし、そのようなことに全く関心を持たない、国民の一人一人がどうなろうと関係ないと思っているような政治家は、ただのファシストです。

先週は、ユダヤの国のヘロデ王の悪党ぶりをお話ししました。これで分かることは、イエスさまがお生まれになったときのユダヤの王も、そして今日の個所に登場するローマ皇帝アウグストゥスも、ファシストだったということです。

悪党が政権を握ると国民は不幸になります。イエスさまがお生まれになったのは、まさにそのような時代でした。ほんの一握りのファシストのとりまきたちが政治的・軍事的に大多数の国民を支配し、国民の富を独占する。それによって国の中に経済格差が起こる。貧しい人々は苦しみを味わうばかりです。そういうことが現実に起こるのです。

そのようにして生み出される貧しい人々の代表的な存在が、今日の個所に登場する「ベツレヘムの羊飼い」です。

羊飼いたちは「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をして」(8節)いました。彼らは「野宿」をしていました。野外生活者です。「夜通し」働いていました。夜に寝ないでする仕事です。そして、年がら年中付き合っているのは「羊の群れ」でした。人間相手の仕事ではありません。彼らが過酷極まりない労働に従事していたことは間違いありません。

しかし、その仕事は誰かがしなければならないことです。羊の肉は人の食用にされますし、毛皮は人のために用いられます。羊飼いの仕事をする人がいなければ、多くの人は困ります。しかし、過酷な仕事ですので、だれもが嫌がります。人気がある仕事ではありえない。楽な就職先はあっという間に無くなる。競争に強い人が勝ち取る。最後に、いちばんつらい仕事として羊飼いの仕事が残る。

しかも、ベツレヘムの羊飼いたちはユダヤ人であると考えられます。しかし、ユダヤ人であれば、アウグストゥスからの命令で、自分の町に帰り、住民登録をしなければならなかったはずなのですが、羊飼いたちはそのようなことをしていなかったと思われる。なぜそうなのか。彼らは住民登録の対象外であるとみなされていたからです。それは国民の数に入っていないことを意味します。政府からも行政からも、事実上、人間扱いされていないということです。いつどこで死のうが殺されようが関係ない。生活保護の対象外です。

その彼らに主の天使が現れました。そして「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10~12節)と教えてくれました。

何が「あなたがたへのしるし」でしょうか。それは、もちろん「飼い葉桶」です。それが置かれている、人間の住む場所ではない家畜小屋の中で、「あなたがたのために」、つまり、「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしている」あなたがた羊飼いたちのために、今日救い主がお生まれになった、と主の天使が教えてくれたのです。

「今日」というのですから、主の天使がこの羊飼いたちに救い主の誕生を教えてくれたのは、新聞の号外のようなものです。ニュース速報です。誰よりも先にあなたがたに伝える。あなたがたのような「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしている」人々にこそ、真っ先に伝える。あなたがたが日々生活しているのと同じ場所で、あなたがたと同じ姿で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。その救い主は、あなたがたの側についてくださる。味方になってくださる。あなたがたの苦しみを共に担ってくださり、共に苦しんでくださる。それが救い主イエス・キリストである。そのことを主の天使が教えてくれたのです。

そして、その天使に天の大軍が加わり、神への賛美が始まりました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)。そして、羊飼いたちは、イエスさまがおられる場所、飼い葉桶のある家畜小屋にたどり着きました。そして、彼らは、「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)と書かれています。

この羊飼いたちはイエスさまに初めてお会いして何をしたのでしょうか。イエスさまに対する礼拝であり、賛美です。先週と先々週学びましたマタイによる福音書には東の国の占星術の学者たちが、イエスさまのもとにやってきたことが記されていました。彼らはひれ伏してイエスさまを拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。占星術の学者たちはイエスさまにお会いして何をしたのでしょうか。それもまたイエスさまに対する礼拝であり、賛美です。

羊飼いたちと学者たちよりも前にイエスさまにお会いした人たちのことは、聖書には記されていません。おそらく彼らがいちばん最初です。もちろんヨセフとマリアのほうが彼らよりも前だと言えば、そのとおりです。あとは、家畜小屋にいたかもしれない動物たちのほうが前だと言えば、そうなるかもしれません。

しかし、動物たちのこととイエスさまの両親のことはともかく、イエスさまのもとに集まり、世界の歴史の中で初めてイエスさまを礼拝し、賛美した人として聖書に記されているのは、ユダヤ人の中で人間扱いされていなかったベツレヘムの羊飼いたちと、ユダヤ人たちからは異邦人であるという理由で軽蔑されていた東の国の占星術の学者たちでした。彼らに共通しているのはユダヤの社会の中で差別されていた人たちだ、という点です。

繰り返します。世界の歴史の中でイエス・キリストを最初に礼拝したのは、ユダヤ人たちから差別されていた人たちでした。ユダヤ人とは聖書の御言葉をよく学び、よく知っている人たちのことだということは、繰り返し申し上げてきました。しかし、そのような人たちは、生まれたばかりのイエスさまを礼拝しませんでした。それどころか、ユダヤ人であったヘロデに至っては、律法学者や祭司長の聖書知識を悪用して、イエスさまを見つけ出して殺すことを図ったということまで記されています。あるいは、ユダヤ人たちの多くは、その後、イエスさまが十字架の死に至るまで、イエスさまを憎みました。

いま私が申し上げているのは、ユダヤ人という民族の人のすべてが悪いという話ではありません。ユダヤ人差別をしているのではありません。あるいは、聖書の知識を持っている人のすべてが悪いという話ではありません。そのようなことを私が言うはずがありません。聖書を学ぶことは大切です。それは世界の知識の中の最高かつ最良の知識です。

しかし、ヨーロッパに古いことわざがあります。「最良のものが堕落すると、最悪のものになる」。最高に価値ある存在が堕落すると最悪の結果を生み出すのです。たとえば、聖書の知識を悪用すれば最悪の結果を生み出すのです。イエスさまを十字架につけて殺した人々は、世界中で誰よりも聖書の御言葉をよく知っていた人たちなのです。

わたしたちはどうでしょうか。イエスさまのもとで最初に行われた礼拝に集まった人たちのような人を、わたしたちの礼拝に積極的に招かなければなりません。今のわたしたちの教会に、そのような人がどれくらいいるでしょうか。夜通し働いている人、社会から差別されている人、聖書の御言葉を知らない人。その人々のために、救い主イエス・キリストはお生まれになったのです!

(2013年12月15日、松戸小金原教会主日礼拝)

2012年12月9日日曜日

イエス・キリストの生まれた場所はどこですか


ルカによる福音書2・8~20

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださたその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に留めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」

クリスマスの当日、あるいはアドベントの日曜日には、だいたい毎年、いまお読みしました個所を開いて説教してきました。私がこの教会の牧師として参りましてから来年3月で丸9年になりますので、この個所で9回目の説教になると思います。

ただし、この10時半からの朝の礼拝で毎年必ずこの個所で、ということではなく、9時半からの日曜学校の礼拝でおこなった年もありますので、この礼拝で正確に9回目ということではありません。

しかし私は、この個所の説教をするたびに、本当に難しい個所だと感じてきました。何が難しいのでしょうか。昨年も同じようなことを申し上げたかもしれませんが、いったい私はどのような顔をしながら、この個所に書かれていることを皆さんにお話しすればいいのかが分からないのです。

また、いま言ったのと同じことを反対から言い直しただけのことを申します。私が説教するときは皆さんの顔がよく見える位置にいます。この個所の話をしているときの皆さんが、難しそうな顔をしておられるのがよく見えるのです。

どうしてそうなってしまうのか、その理由はいくつか思い当たることがあります。

そのなかで私が最も申し上げたいことは、とにかくこの個所には「天使」が登場するということです。それがこの個所を難しくしている一番の原因ではないかと、私は考えています。しかも、天使が登場しなければ決して話が成り立たないほど、彼らは非常に重要な役割を果たしているのです。

しかし、天使とは何でしょうか。これが分からないのです。どのような顔をして話せばいいのかが分かりません。

聖書に出てくるので、私は天使の話をします。しかし、教会を一歩離れて、たとえば、すぐそこのマルエツのスーパーとかでお会いするご近所の方々に天使の話をできるかといえば、私にはできません。ふだんなら決してしない話を、私は、教会の中で、礼拝の中で、聖書に基づいてしています。

皆さんはどうでしょうか。今日それぞれご家庭にお帰りになって「今日は天使の話を聞いてきた」とお話しになると「大丈夫?」と心配されてしまうのではないでしょうか。

これを私はふざけて言っているわけではなくて、大真面目に言っています。真剣に言っています。くれぐれも誤解が無いように申し上げておきますが、私は、聖書に書かれていることを信じることができないというようなことを言っているのではないのです。天使の存在を信じることができないとも言っていません。

言い方はおかしいかもしれませんが、天使がいても、私は全然構いません。「いるか、いないか」と問われれば、「いるでしょうね」と答えたい人間です。しかし、「それはどのような存在なのかを説明してください」と言われても、それは答えられません。そのことが私には難しいのです。もしかしたら、私の性格が少し真面目すぎるのかもしれません。

このように考えるのは私だけはないと思うのですが、何かの話をすることを求められている者たちがその話を聞いてくださる方々に願っているのは「今日の話はよく分かった」と思っていただけることです。その内容に納得も理解もできないとしても、この人は何を言いたいのかとりあえず分かったと感じていただくことができればそれでよいと思っています。

しかし私は、天使の話をどのようにすれば、皆さんにそう感じていただけるのかが分かりません。頭を抱えてしまいます。

その点においては、先週お話ししましたマタイによる福音書に出てくる東の国の占星術の学者たちの話のほうが、まだ簡単にできるものがあります。

彼らが見たのは天使ではありませんでした。彼らは星の動きを研究しました。当時の高等な数学や天文学を駆使して、世界の運命であるユダヤ人の王の誕生を言い当てました。彼らなりの理論があり、彼らなりの合理的な結論に基づいて、イエスさまのもとにやってきたのです。

しかし、今日の個所に出てくる羊飼いたちには、学問も理論もありませんでした。彼らが見たのは彼らの前に突然現われた「主の栄光」であり、「天使」であり、「天の大軍」でした。そして、彼らは天使の声を聞き、その中で語られた救い主の誕生についてのお告げを聞いて信じたのです。

星の動きを天文学的に観察して、理論的な結論を出してきた占星術の学者たちと、全く違う方法でイエスさまのもとにたどり着いた羊飼いたちとは、大違いなのです。

私も心から尊敬している改革派教会の先輩牧師である榊原康夫先生が、今から40年も前の1972年に出版されたルカによる福音書の解説書(『ルカの福音書』いのちのことば社、1972年)の中で、今日の個所について重要な言葉を書いておられます。「羊飼いは、野宿のため神殿儀式などに参加できないので、ユダヤ教から破門され、裁判の証言も許されませんでした」(43ページ)。

これがどういうことを意味するのかといえば、羊飼いたちはふだんから聖書の言葉を学ぶことさえ許されていなかったということです。ですから、たとえばの話ですが、彼らが聞いた天使の声の内容は、彼らがふだんからユダヤ教の会堂や神殿に足を運び、ユダヤ教の祭司や律法学者たちから聖書に基づく説教を聞いていたので、その言葉を思い出したのだというような合理的な説明は成り立たないということです。

彼らは天使の夢を見たのでしょうか。つまり、彼らは野宿しながら居眠りをしていたのでしょうか。もしかしたら、そのような説明のほうがまだ成り立つかもしれません。マタイによる福音書の最初のほうに出てくる、イエスさまの母マリアの夫ヨセフについて書かれている個所には、「主の天使が夢に現れて言った」(マタイ1・20)と記されています。これで分かるのは、天使は夢の中にも現れる存在であるということです。

もしそうなら、羊飼いたちが見た天使についても、「実をいえば彼らは仕事中に居眠りしていました。それで天使が出てくる夢を見たのです」と説明したとしても、それは絶対に間違っていると責められることまでは無いはずです。天使は夢にも出てくる存在だからです。しかし、今日の個所に羊飼いたちは眠っていたとか、夢の中に天使が現れたとは、どこにも書かれていません。

しかし、このことについて、私は今日、ああでもない、こうでもないとしつこく言うのはやめます。一つのことだけに絞ってお話しします。それは、先ほど少し触れました、先週学んだ個所に出てくる東の国の占星術の学者たちと、今日の個所の羊飼いたちとの違いという問題です。

はっきり言いますが、「占星術」は、わたしたちには全く受け容れられない異教の立場です。たとえそれがどのような学問の研究に基づいていようとも、太陽や月や星の動きによってわたしたち人間と世界の運命が決定されているということはありえません。わたしたちは、そのようなことを信じることができません。それは運命論です。わたしたちが受け容れている信仰はそのようなものではないのです。

それに対して、羊飼いが見たのは「天使」でした。彼らが聞いたのは、天使の声であり、天の大軍の歌声でした。天使の存在、またその姿やその声には科学的な根拠があるのかと問われるなら、そんなものは無いと答えざるをえない。そんなのは神話だと言われればおっしゃるとおりだと答えざるをえない。そんなものを当てにして、ベツレヘムの羊飼いたちはイエスさまのもとへとやってきたのです。

今日私が申し上げたいことは、わたしたちが受け容れている信仰とはそのようなものだということです。わたしたちの信仰に科学的な根拠などはありません。

そして、今日も思い起こしていただきたいことは、わたしたちが最初に教会の門をくぐり、礼拝に出席し、説教を聞いた日のことです。

私から皆さんにお尋ねしたいことは、皆さんが初めて教会に来られたときの理由やきっかけは、太陽や月や星の動きのようなものによって決定づけられた動かしがたい運命だったのでしょうかということです。科学的理論に裏打ちされた不動の真理が、皆さんを教会の中まで運びこんだのでしょうか。そんなことはありえないと思うのです。わたしたちは、そういうふうな信じ方はしていません。

羊飼いたちが聞いた天使の声は「恐れるな」というものでした。その続きはこうです。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。

これは運命論ではありません。夜通し野宿をして羊の番をすることでユダヤ教から破門されていた、過酷な労働や社会的な差別に苦しんでいた名もなき人たちへの励ましの言葉でした。そのあなたがたのために救い主が来てくださったのだという慰めの言葉でした。あなたがたは価値なき人間ではない。あなたがたのために救い主が生まれてくださったゆえに、という喜びの知らせでした。

そのしるしは「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」である。羊飼いたちが生きている彼らの現実に近い場所で、救い主がお生まれになったのです。

イエス・キリストが生まれた場所はどこでしょうか。この質問にはいろんな答え方が考えられます。「ユダヤのベツレヘムです」という答え方もあれば、「地球です」という答え方もあります。今日の私の答えは「苦しんでいるあなたのところ」です。あなたのためにキリストが来てくださったのです。

わたしたちが教会に来て、神を礼拝することは、わたしたちの運命なのでしょうか。こうするしかない、他にどうすることもできない抗いがたい運命だから教会に来ているのでしょうか。そんなことはないのです。わたしたちには自分の意志があります。運命のリモコンに遠隔操作されているわけではないのです。

人生の苦境に立たされ、嫌な思いを味わい、逃げ場を求めていたそのとき、夢なのか現実なのか、どこからともなく、このわたしを慰め、励ましてくれる声が聞こえた。ような気がした。それでいいのです。

科学的根拠などはない。とにかく教会に来ました。このわたしのために救い主が生まれてくださった。それを信じる。

それがわたしたちの信仰なのです。

(2012年12月9日、松戸小金原教会主日礼拝)

2011年12月18日日曜日

星空の下で喜び生きる(2011年クリスマス礼拝)

ルカによる福音書2章1~21節

関口 康

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」

いまお読みしました聖書の箇所に記されていますのは、わたしたちの救い主イエス・キリストがお生まれになったときに起こった出来事です。そのときどんなことが起こったのでしょうか。ここに書かれているのは、大きく分ければ、二つの場所で起こった二つの出来事です。

第一は、イエス・キリストを身ごもった母マリアと夫ヨセフの身に起こった出来事です。

第二は、ヨセフとマリアがいたのとは全く別の場所にいたベツレヘムの羊飼いたちに起こった出来事です。

第一の出来事のほうから見ていきます。ここに描かれているのは、イエス・キリストを身ごもったマリアと夫ヨセフの二人が皇帝アウグストゥスの命令に従って住民登録をするために遠い町まで旅をすることになったという話です。

皇帝アウグストゥスはローマ帝国の最高権力者でした。ヨセフとマリアが暮らしていたユダヤの国はこの当時ローマ帝国の支配下にある属国でしたので、皇帝アウグストゥスの命令は絶対に守らなければならない関係にありました。そのため、皇帝の命令とあらば子どもを身ごもって危険な状態にある女性まで、たとえつらい長旅になろうともその命令に従わなければなりませんでした。

実際、その旅は本当につらいものとなりました。だれでもそうだと思いますが、子どもを身ごもった女性が旅の途中で子どもを産むことになることがうれしいはずはありません。子どもを産んだことがある方にはこの状況がどのようなものであるかをご理解いただけるでしょう。

出産とは激しい痛みがあり、たくさん血が流れ出す恐ろしい場面です。できるだけ安心できる場所で子どもを産みたいと願う人がいるのは当然です。旅の途中で、知らない人たちばかりいる場所で出産したい人などいるはずがありません。

そのような嫌なことを彼らがしなければならなかったのは、ローマ皇帝アウグストゥスの命令に絶対に従わなければならなかったユダヤの人々のかわいそうな状況があったからです。彼らは当時の政治家や軍隊や法律の犠牲になったのです。

そのような中でキリストはお生まれになりました。次のように記されています。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。

これでお分かりいただけるのは、イエス・キリストがお生まれになった場所は人間の住むところではなかったということです。最初に寝かされた場所は、飼い葉桶でした。それは家畜小屋の餌置き場であり、臭いにおいが漂う不潔な場所でした。

しかし、忘れられてはならないのは、彼らには神を信じる信仰があったということです。また、聖書によると、マリアが身ごもっている子どもは「神の子」であり、「救い主」であるという信仰が、マリア自身にもヨセフにもすでにありました。そのことがルカによる福音書1章を読むと分かります。彼らは信仰を全く持っていない状態でつらい目に遭っているわけではありません。

彼らには信仰がありました。だからこそ、どれほどつらい目にあっても、この子どもを産まなければならないと信じていたでしょうし、その信仰があったからこそ、つらい状況を耐えることができたのでしょう。そのようにわたしたちは信じることができます。

しかし、たとえそうであっても、やはりどうしても私が考え込んでしまうのは、彼らが旅の途中に子どもを産まなくてはならない状況に追い込まれてしまったこと自体は、はたして幸せなことだったのか、それとも不幸せなことだったのかということです。

幸せなことだったはずはありません。もっと普通の場所で、あるいはもっと安全な場所で、子どもを産みたいに決まっているではありませんか。

ローマ皇帝アウグストゥスの命令さえなければ、ユダヤの国がローマ帝国の属国でさえなければ、全国民の住民登録をしなければならないという法律さえなければ、危険な目に遭うことはなかったのにと、彼らが当時の政治家や軍隊や法律を恨む気持ちを持ったとしても当然だと思います。

次に見ていきたいのは、同じ日の、別の場所で起こった、第二の出来事です。ベツレヘムの羊飼いたちが野宿をしながら、星空の下で夜通し羊の群れの番をしていました。そのとき彼らの前に現れたのは「天使」であったと記されています。「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」と書かれているとおりです。

ここで私が言いたいのは、最初にご説明した第一の出来事を描いているときと、これからお話ししようとしている第二の出来事を描いているときとで、この書物の著者の語調が変わっているということです。雰囲気がすっかり、がらっと変わっています。

はっきり分かるのは、第一の出来事について記されている段落には「神」も「救い」も「天使」も出てこないということです。

その代わりに登場するのは、「皇帝アウグストゥス」とか「キリニウス」といった政治家たちの名前であり、「勅令」とか「住民登録」といった法律用語です。あるいはまた「シリア州」とか「ナザレ」とか「ベツレヘム」といった地名であり、生まれたばかりの子どもを「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」とか「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」という悲惨な現実の描写です。

ところが、第二の出来事に描かれていることは、それとは全く違います。ここには「天使」(?!)が登場します。「主の栄光」(?!)が周りを照らします。そして天使が羊飼いに「大きな喜び」(?!)を告げます。そして「天の大軍」(?!)が加わって神を賛美する大合唱(?!)が始まります。

天使の言葉は次のとおりです。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かしている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。

この天使の言葉の中に出てくるのは「大きな喜び」であり、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」ことであり、その方が「主メシア」であるということです。また、その生まれたばかりの子どもが「布にくるまって飼い葉桶の中に」いることは、人類の不幸や苦しみ、あるいは悲惨や嘆きのしるしではなく、あなたがたのために救い主がお生まれになったことを教える喜びのしるしであるということが明らかにされています。

先ほど私は「語調が変わっている」と申しました。第一の出来事と第二の出来事とは雰囲気や明るさが全く違います。その意味は、第一の出来事を描いている段落には全く出てこない「神」や「天使」や「救い」や「救い主」や「喜び」という言葉が、第二の出来事を描いている段落に至って全面的に登場します。

第一の出来事について書かれていることは、ただひたすら暗い。人間の現実とはいかに悲惨で、重苦しくて、嫌なものであるかが赤裸々に描かれています。

しかし、第二の出来事について書かれていることの中心は「天使」(?!)の話です。暗い新聞記事を読んだあとに夢見心地の本を読み始めたような気分になります。

しかし確認しておきたいのは、二つの場所で起こった二つの出来事は、同じ日の同じ夜の、そして同じひとりの救い主の誕生を描いているという点では、全く同じ一つの出来事であると考えることもできるということです。

それはいわば、一つのコインを表から見、その次に裏から見るというのと同じことだと考えることができます。解釈の違いであると言われれば、そのとおりかもしれません。

私がいま考えていることをオブラートに包む必要はないでしょう。今のわたしたちが置かれている状況を考えています。

今年は特別に悲しむべき出来事が起こりました。大震災、原子力発電所事故、そこから派生する多くの問題が一気に噴出しました。

わたしたちはいま、絶望していてもおかしくないほどの状況の中にいます。生まれたばかりの子どもを、飼い葉桶どころか、何もないところに寝かさなければならない人がいる。家族を、家を、財産を失った人々が大勢いる。悲惨な現実を数えればきりがない。

しかし、厳しい言い方かもしれませんが、それは事柄のひとつの面です。わたしたちは絶望の数だけを数えるようであってはなりません。全く同じ出来事を、絶望の面からだけでなく、もう一つの面から見直す必要があります。

物事には「神」や「天使」や「救い」や「救い主」、そして「喜び」の面が必ずあります。そして、わたしたちは、物事の二つの面(喜びの面と悲しみの面)の関係はどのようになっているのかを、マリアのように「思い巡らす」必要があります。

「神」だの「天使」だの「救い」だの、そんなものを信じられるものかと拒否しないでください。むしろ、信じてください。信仰をもって世界を見つめ直すとき、世界が少し違ったものに見え始めるでしょう。

世界には、まだ希望はあるし、喜びもあります。わたしたちは、生きてもよいし、生きることができるし、生きなければならないのです。

(2011年12月18日、クリスマス礼拝)

2010年12月20日月曜日

徹夜で仕事をしなければならない人を温めるために(女子聖学院中学校2010年度クリスマス礼拝)

ルカによる福音書2・8~14

関口 康

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」

クリスマスおめでとうございます。

先ほど朗読された聖書の個所は、聖書の中でもとても有名なところです。

皆さんはクリスマスの劇をしたことがあるのではないかと思います。その劇のための役を決めるときに必ず、羊飼い役の人が選ばれるはずです。そして、その羊飼いたちの前には必ず、たき火が置かれるはずです。イエスさまがお生まれになった日、羊飼いたちは「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(8節)と聖書に書かれているからです。

彼らは外にいました。屋根はありませんでした。そして、「夜通し」というのですから徹夜です。彼らは徹夜の仕事をしていたのです。しかも、その仕事は「羊の群れの番」でした。生き物相手です。羊の敵は狼でした。羊飼いたちは、羊たちに狼が襲いかからないように徹夜で見張りをしていたのです。

皆さんは徹夜の仕事をしたことがありますか。まだ中学生なので仕事はしていないかもしれません。しかし、お父さんやお母さんが徹夜で仕事をしているという方はおられるかもしれません。

私の妻は徹夜で仕事をしています。何の仕事なのかといえば、二つの施設のかけもちです。一つは、いわゆる24時間保育園です。私の妻は保育士です。もう一つは、児童養護施設です。そこでも保育士の仕事をしています。

どちらの仕事も夜の仕事です。「夜の仕事」と言うと誤解されるかもしれません。しかし、その施設に預けられる子どもたちの親の中には「夜の仕事」をしている人たちもいます。親が仕事をしている間、子どもたちが保育園に預けられます。夜遅くに預けられ、朝迎えに来る親もいるようです。

保育士たちには、「守秘義務」と言って、その仕事の中で知ったことを外部の人に話してはならないという決まりがありますので、妻は私に何も教えてくれませんし、私も何も聞きません。だから具体的なことは何も知りません。

私が知っているのは、徹夜の仕事を終えてぐったり疲れて帰ってくる妻の姿だけです。私にできるのは、本当に大変なんだなと、妻の体を心配することだけです。

しかし、私はもう一つのことを知っています。それは、「夜の仕事」をしてでもお金を稼がなければならない人々がこの日本の中に大勢いるということです。生まれたばかりの赤ちゃんを夜の保育園に預けてでも。

また、児童養護施設には親がいない子どもたちや、親から虐待を受けている子どもたちがいます。子どもたちは自分の力で生きていくことができませんので、誰かの助けが必要です。親が子どもを助けることは義務であり責任でもありますが、その義務と責任を負うことができない親たちがいることも事実です。

また、別の人のことですが、私の教会には水道局で働いている方がいます。この方も徹夜の仕事です。当たり前のことですが、夜も水道は使われるからです。みんなが飲む水の中に変なものが混ざらないように、また水道のポンプが止まらないように、誰かが見張りをしなければなりません。

障がい者施設で働いている方もおられます。徹夜で、体の不自由な人たちを助ける日もあるようです。自分で動くことができない方が、夜にトイレに行きたいときや病気になったときは、誰かが助けなければなりません。

今日の聖書のお話から遠ざかってしまったかもしれません。しかし、私が皆さんにお伝えしたいのは、皆さんが眠っている間にもいろんな人が一生懸命働いているということです。「そんなの知ってるよ」と思われるかもしれませんが、改めてそのことを考えてみていただきたいのです。

その仕事に共通しているのは、それは本当につらい仕事であり、人間の限界を感じる仕事であるということです。皆さんのお父さんやお母さんやご兄弟の中にそのようなつらい仕事をしている方がおられる場合は理解していただけるはずです。また、そのような方が家族の中にいなくても、皆さんの想像力を働かせていただけば、徹夜の仕事をしている人がどれほど大変なのかは、お分かりになるはずです。

先ほど読まれた聖書の箇所に記されているのは、イエスさまがお生まれになった日に起こった出来事です。そこにはっきり書かれているのは、イエスさまがお生まれになったという事実を神さまから最初に知らされた人々は、そのとき「徹夜の仕事」をしていたということです。

私は今日皆さんに、徹夜の仕事だから尊いとか、日中の仕事は尊くないとか、そういうことを言いたいわけではありません。どの仕事も尊いものです。しかし、強いていえば、どちらがつらいかといえば、やはり夜の仕事はつらいのです。つらくても、しなければならない仕事がある。そういう仕事を誰かがしなければならないとき、だれかが犠牲を払い、体を張ってその仕事に取り組まなければならないのです。

しかしまた、仕事ということには、もう一つの要素も必ずあります。それは自分の生活のためです。お金を稼ぐため、毎日ご飯を食べるため、家族を養うために、仕方なくつらい仕事をしなければならないのもわたしたちです。

つらいから仕事しないというのでは自分も家族も困ります。皆さんがこの学校に通うために誰がどのような苦労をしているかを、皆さんは知っておられるはずです。

羊飼いたちもそうだったということを考えてみてください。羊飼いが誰のために徹夜で働いていたかは分かりません。しかし、苦労している彼らのところに神さまが、うれしいお知らせをいちばん早く伝えてくださったのです。

「今日イエスさまがお生まれになりました。あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と。

死に物狂いで苦労している人たちを神さまが労ってくださったのです。寒い夜に外で仕事をしなければならない人たちを神さまが温めてくださったのです。

皆さんが将来、どんな仕事をなさるのかが楽しみです。一生楽をして暮らしたいと考えている方もおられるかもしれませんが、それは甘いです。苦労しましょう。

皆さんの人生が神さまの祝福のうちにありますよう、お祈りしています。

(2010年12月20日、女子聖学院中学校クリスマス礼拝)

2009年8月9日日曜日

らくだは針の穴を通れない ~誰のための人生か~


ルカによる福音書18・18~30

「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた。イエスは言われた。『なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。』すると議員は、『そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。これを聞いて、イエスは言われた。『あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言うと、イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。すると、ペトロが、『このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。』」

今日は千城台教会の講壇に初めて立たせていただきます。皆さんに開いていただいた聖書の個所には、共観福音書のすべてに紹介されている出来事が記されています。共観福音書とは、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書のことです。つまり、わたしたちが新約聖書というこの形の本を開いて読んでいきますと同じ話を三度繰り返して読むことになるわけです。これは三度でも何度でも繰り返して読む価値がある、大変重要な話であるということにしておきましょう。

登場人物は、イエスさまの他には、二人います。一人は「議員」と呼ばれています。ユダヤの最高法院(サンヘドリン)の議員です。もう一人はイエスさまの弟子のペトロです。しかし今日は、時間の関係で「議員」のほうに絞ってお話しいたします。

最初に考えていただきたいことは、彼が「議員」であったということの意味です。彼が属していたユダヤの最高法院(サンヘドリン)は、当時のユダヤ社会を支配していた最高権力者会議です。その会議はわずか70人で構成されていました。より正確に言えば議長と副議長を含めた72人であったとも言われています。

一つの国をたった72人で支配する。想像するだけでぞっとするものを私は感じます。ひとりの支配者による独裁政権とは違います。しかし、少数者が権力を握って離さない状態がそこにあり、権力のほとんど一極集中と言ってよい状態があったと考えることができるでしょう。

つまり、ここに出てくる「議員」は、そのまさに最高権力者会議のメンバーズリストに名を連ねていた一人であるということです。この点は要チェック事項です。なぜなら、彼が「議員」であったというこの点は、イエスさまとこの人の言葉のやりとりを理解する上でかなり重要な意味を持っていると思われるからです。ぜひ考えてみていただきたいことは、この「人」と話しをすることは、事実上その「国」と話しをするということに等しいということです。いまの日本の国会議員722人(衆議院480人、参議院242人)が日本国民を代表する存在になりえているかどうかは不明です。しかし、あの人々がそうなりえているかどうかはともかく、あの人々こそが、日本国民を代表する存在にならなければならないはずです。それが「議員」の役割でしょう。

その「議員」がイエスさまのところに来て、一つの質問をしました。「何をすれば、永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか」。この質問の意図をわたしたちがおそらく最も理解しやすいであろう言葉で言い換えるとしたら「どうすれば天国に行けるのでしょうか」です。その場合の「天国」とはいわゆる死後の世界です。わたしたち人間が死んだあとに行く場所のことです。つまり、この「議員」はイエスさまのところに来て何をしているのかというと、要するに、自分の死後の相談をしているのです。彼が心配していることは、自分の死後の行く先です。

しかも、ここでこそチェックしておきたいことは、マタイによる福音書の中でこれと同じ出来事を紹介している記事の中で、この議員が「青年」と呼ばれている点です(マタイ19・20)。どうやら彼は若い人でした。つまりこれは、若い人が自分の死後の行く先を心配している話であるということです。高齢者がそのような心配を抱くという話であれば、まだ理解できるものがあります。同情に値します。しかし、この議員にはこの地上でしなければならないことが、まだまだたくさん残っていた。その彼が、自分の死後の行く先が心配になってイエスさまのもとに相談に来たという、考えてみるとかなり奇妙な情景を思い浮かべることができそうなのです。

その彼に対して、イエスさまが最初にお答えになったことは、「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ」です。これはモーセの十戒の特に後半部分です。いわゆる隣人に対する愛の戒めです。地上生活を正しく営むための倫理の命題と言ってもよいものです。すると、この議員は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言いました。おそらく彼は、子どもの頃から高度の宗教教育を受けて来たのです。わたしは間違ったことをしてこなかった。神さまから嫌われる理由は無い、と言いたかったのでしょう。

ところが、です。イエスさまは彼に「あなたに欠けているものがまだ一つある」とお続けになりました。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

注目していただきたいのは、イエスさまが彼に欠けているものは「一つ」であると言っておられることです。しかし実際には二つのことをおっしゃっているようにも読めます。それは「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやること」と「わたしに従うこと」の二つです。しかしこの二つが「一つ」であると言われていることが重要です。イエスさまは、御自身に従うことと、持っている物を換金して貧しい人々に分けてやることとは、同じ一つのことであると言っておられるのです。

この話を聞いて、彼は「非常に悲しんだ」と記されています(24節)。マタイとマルコには「悲しみながら立ち去った」と記されています(マタイ19・22、マルコ10・22)。そして、彼が悲しみながら立ち去った理由も共観福音書のすべてに記されています。「大変な金持ちだったから」です。

しかし、どうでしょう。私はこの結末を読むたびに、「ちょっと待った!」と彼を後ろから呼びとめたくなります。そしてこの人に「あなたはイエスさまに何を相談しにきたのですか」と聞いてみたくなります。他にもたくさん問うてみたいことがあります。小一時間、問い詰めたい思いです。

あなたは確かに金持ちなのかもしれません。若いのに多くの財産を持っている。その財産が自分で稼いだものなのか、親から受け継いだものかは問わないでおきましょう。しかしどうしても気になることがあります。それは、「どうしたら永遠の命を受け継ぐことができるのか」というあなたの問いの中心にある事柄はただ単に自分の死後の行く先だけなのでしょうかということです。どうやらあなたは、ともかく自分だけは地上で幸せな人生を送り、さらに死んだあとまでも天国で幸せに暮らしたいと願っておられるようです。しかし、そのあなたの周りには地上の苦しみを味わっている国民が大勢います。いやしくも「議員」を名乗っているあなたの視野に国民の姿は全く入っていないのでしょうか。全く無視ですか。あなたは自分さえ良ければいいのですか。

そして最後に一つ付け加えたいことは「あなたの求めている天国には、お金は持っていけませんよ」ということです。あるいは「お金で天国を買うこともできませんよ」とも言ってみたい。このようなことを言いながら、だんだん腹が立ってくるかもしれません。

しかし、今申し上げたことはすべて私の考えです。イエスさまが同じことをお考えになったかどうかは分かりませんし、腹を立てられたかどうかも分かりません。しかし、断言できることがあります。それは、イエスさまがこの議員に対しておっしゃったことは大変厳しい内容をもっているということです。そしてその際どうしても無視できないことは、彼が国民の代表者であるべき人であったということです。彼が本当はしなければならないことは、自分の死後の心配などそっちのけで、国民の日常生活を心配することであったということです。この私の見方は間違っているでしょうか。

続けてイエスさまがおっしゃっていることは、ユーモアというよりは痛烈な皮肉です。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」このイエスさまの御言葉の解釈をめぐって必ず問題になるのは、「財産のある者が神の国に入ること」は「難しいことであるが可能なことである」ということなのか、それとも「全く不可能なこと」なのかという点です。

それで必ず問題になるのが「らくだが針の穴を通ること」は「可能」か「不可能」かという点です。驚くべきことに「可能」であると解釈する人々がいます。ただし、その解釈には特殊な手続きが必要です。その人々は、「針の穴」とは実はエルサレム神殿の一つの門の名前であるとします。ところが、その門は狭く窮屈なので、らくだたちは身をかがめて通る必要がある。しかし、全く通れないわけではない。求められるのは頭を下げること、すなわち謙遜な態度で通ることであると。

しかし、私が信頼を置いている注解書は、そのような解釈は無理であると主張しています。イエスさまがおっしゃっているのはラビたちも用いた誇張表現である。イエスさまが用いられた誇張表現の例としては「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタイ7・3)などを挙げることができると。

私に言えることは、素朴に読めば「らくだは針の穴を通れない」としか読めないということです。そして、イエスさまが彼に語ろうとなさったことはこうであると私は理解します。もしあなたの視野と関心の中に「貧しい人々」が全く入っていないならば、あなたがた「議員」に託されているこの国が「神の国」になることは「不可能」である。従って、あなたは「神の国」に入ることはできない。

この話をわたしたちにとっての希望のメッセージとして受け取るためには、いま申し上げたことをちょうど正反対に言い直せばよいだけです。つまり、「財産のある人々」は「貧しい人々」の現実に目を向けなさいということです。これは使徒パウロがローマの信徒への手紙(14~15章)に書いている「強い者が弱い者を担うべきである」という教えにも共通しています。逆はありえません。弱い者が強い者を担うことはできません。強い者、あるいは財産を持っている人々が全力を尽くして弱い者、貧しい人々を助け、共に生きる道を探らなければならないのです。

(2009年8月9日、日本キリスト改革派千城台教会主日礼拝)


2008年12月24日水曜日

天に宝を積むために


ルカによる福音書18・18~30

「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた。イエスは言われた。『なぜわたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。』すると、議員は、『そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。これを聞いて、イエスは言われた。『あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言うと、イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。するとペトロが、『このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。』」

クリスマスおめでとうございます。今夜お話ししますことは、クリスマスとは直接的には関係ないことかもしれません。しかしこの機会に聴いておいていただきたいことです。それは、聖書の中で「永遠の命」と呼ばれているものをわたしたちが手に入れるためにはどうしたらよいのかという問題です。

「永遠の命」と聞いてもピンと来ない方もおられるかもしれません。聖書には、これと同じ意味の「天国に入る」とか「神の国に入る」という言葉もあります。こちらのほうが分かりやすい方は、同じことを言っているとお考えいただいて構いません。聖書において「永遠の命」とは、永遠に生きておられる神との関係が永遠に切れないで生きていくことができる天国の生活です。永遠に生きておられる神と共に、永遠に生きていくことです。

その「永遠の命」をどうしたら手に入れることができるのでしょうかと、イエスさまに質問した人がいました。名前は出てきませんが、若い男の人でした。この人は「議員」でした。簡単に言えば、子供の頃からいろんな勉強を一生懸命にがんばってみんなから尊敬されるようになり、この国を代表するにふさわしい人物と認められた、そういう人でした。

その人がなぜイエスさまにこんな質問をしたのかという理由については、何も記されていません。しかし、だいたい想像はつきます。わたしはこれまで一生懸命がんばってきた。社会的に尊敬される、道徳的に落ち度のない生き方を貫いてきた。だから最高法院の議員になることができた。しかしまだ一つ足りないものがある。それが「永遠の命」である。わたしはこの先どんなに頑張ってもいつか死ぬ。死んでしまったら、頑張ったことが全部無駄になる。そんなのは嫌だ。わたしは死にたくない。

おそらくこんな感じのことをこの人は考えたのです。そしてイエスさまに質問しました。「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」するとイエスさまは次のようにお答えになりました。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。」

イエスさまの答えを聞いたこの人は「非常に悲しんだ」と聖書に書かれています。非常に驚き、がっかりしました。なぜかと言えば、この人は「大変な金持ちだったから」です。皆さんの中にも悲しんだり驚いたりがっかりしたりした方がおられるかしれません。無理もないことです。なぜならこのときイエスさまが、この答えがこの人を悲しませ、驚かせ、がっかりさせるものであるということを初めから分かっておられながら、あえてこのようにおっしゃっているということは、どう考えても明らかだからです。

この人が何を感じたのかについてもだいたい想像がつきます。冗談じゃない。私の財産は、私が頑張ってきたことの証しではないか。それを売り払ってしまったら、「欠けているものが一つある」どころか何もない状態になってしまうではないか。人から軽んじられるばかりの惨めな生活を送らなければならなくなる。そんなのは嫌だし、理不尽だ。

ルカによる福音書には書かれていませんが、マタイによる福音書とマルコによる福音書には、この人は「悲しみながら立ち去った」と書かれています。この人がイエスさまの前から立ち去ったことの意味は、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」というイエスさまの勧めを受け入れず、事実上拒否したということです。貧しさの中で苦しんでいる人々がいることを知りながら、自分の財産を失うことによって自分の地位が維持できなくなることを恐れたのです。たとえ自分が貧しくなってでも困っている人を助けようというような気持ちまでは持つことができなかったのです。

イエスさまがこの人の嫌がるようなことを言っておられるのは明らかに試しておられるのです。テストの結果、彼は立ち去りました。これではっきりしました。この人のように自分のことしか考えない、貧しさに苦しんでいる人がどうなろうと関係ないと思っている人は「永遠の命」を受け継ぐことができないのです。天国に入ることができないのです。

誤解を避けるために別の言い方もしておきます。最初に申し上げましたとおり、聖書の中で「永遠の命を受け継ぐこと」と「天国に入ること」あるいは「神の国に入ること」とは同じ意味です。そこから考えてみていただきたいことは、「天国」とはどのような人々の集まるところであり、また「天国」とはどのような仕組みになっているところなのだろうかということです。

わたしたちもやがて天国に行くでしょう。そのとき、そこには自分のことしか考えない人ばかり集まっていると分かったらどうでしょうか。あるいはまた天国にも貧富の差がある。そして貧しい人の入るところと豊かな人が入るところとが違うようにできているとしたらどうでしょうか。天国にもVIPルームがある。そこに入れる特別な人と、入れない普通の人がいる。あるいは、エグゼクティヴクラスの座席とエコノミークラスの座席がある。そのようなところに行きたいと思うでしょうか。私は嫌です。

イエスさまが問題にしておられるのは、いわばそのようなことです。「そもそも天国とはどのようなところなのか」です。天国には貧富の差はないのです。全員同じなのです。

「一生懸命頑張って稼いだ人も、怠けた人も、天国では同じ待遇であるということか。それなら、怠けた人のほうが得ではないか。頑張った人のほうは馬鹿を見るではないか」と言われてしまうかもしれませんが、そういうのは問題のすり替えというのです。

イエスさまが問題にしておられることは、豊かな人々が貧しい人々を助けようとしないことです。強い人々が弱い人々を担おうとしないことです。わたしたちが生きているこの世界、社会全体が良くなっていくことを望まず、強い個人だけが生き残る。そのような状態を是認し、温存し続けることです。それは「天国」ではなく、むしろ「地獄」なのです。

今夜は日曜学校の子どもたちも大勢参加してくれています。ちょっと難しい話だったと思いますので最後は分かりやすい言葉で言います。

できれば皆さんは将来がんばってぜひお金持ちになってほしいと願っています。そうなることが悪いと言っているわけではありません。でも、そのお金は、ただ自分のためだけに使うのではないようにしてください。自分以外の人のため、とくに困っている人のために、せっせと使ってください。遠慮なく全部使い切ってください。自分のためには一円も残してはいけません。

でも、大丈夫です。困っている人を助けるために全部を使い果たした人のことを神さまは放っておかれません。神さまが必ず助けてくださいます。そのことをぜひ信じてください。

毎日のごはんやおやつを食べたり飲んだりしてはならないという意味ではありません。食べなければ飲まなければ死んでしまいます。そういう意味ではなく、自分の持っているものにしがみつくのではなく、自分の働きやお金が世のため・人のために役立っているということを喜び楽しんでくださいということです。それが「天に宝を積むこと」なのです。

父なる神さまは、独り子イエスさまをお与えくださったほどにこの世を愛してくださいました。それがクリスマスの出来事です。そして、イエスさまはわたしたちを救ってくださるために十字架の上で御自身の命をすべて使い切ってくださいました。そのイエスさまを父なる神さまがよみがえらせてくださいました。そのことをわたしたちはイースターのとき学びます。イエスさまのご生涯は、どうしたら「天に宝を積むこと」ができるのかをわたしたちに教えてくれる模範です。

イエスさまのように生きること、あるいは全く同じでなくてもイエスさまの真似をして生きること、それが「天に宝を積むこと」なのです。

(2008年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイヴ礼拝)

2007年12月16日日曜日

栄光と平和の満ちる世界


ルカによる福音書2・13~14

「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」

今日を含めて三回、救い主イエス・キリストがお生まれになったときに、ベツレヘムの羊飼いたちに起こった不思議な出来事を学んできました。羊飼いたちは、野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていました。そこに主の天使が近づいて来て、主の栄光が周りを照らしました。そして、天使が「民全体に与えられる大きな喜び」を羊飼いたちに告げたのです。

その喜びの内容は、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」ということでした。その意味は、救い主という仕事をする人が来ました、で終わるものではありません。その救い主によってあなたがた自身が救われる、ということです。その救い主は、あなたがたを、あなたを救うお方である、ということです。

そして、その喜びの知らせは「民全体」に与えられたものであると言われている以上、救われるのは羊飼いたちだけではなくまさに「民全体」であると言わなければなりません。そして、この「民全体」の意味は全人類であると理解すべきであると、先週申しました。そうです、救い主イエス・キリストが持っておられる救いの力は、わたしたち自身を含む、全人類にとって有効なのです。

しかし、このように言うだけでは、まだ足りません。加えて申し上げねばならないことがあります。それは、たとえ救い主の持っておられる救いの力が“全人類にとって有効”であるとしても、それは一方的に押しつけられるようなものではない、ということです。

イエス・キリストの救いの力は、いわば、美味しいごちそうです。しかし、それを本当に美味しいと感じるのは、それを食べたことがある人だけです。あるいはまた、そのときにお腹がすいていた人だけです。食べたことがないし、食べるつもりもないし、今は別のものを食べて満腹しているという人にとっては、「これは美味しいものだ」と言われても、その味を知ることはできませんし、美味しいと思うこともありえません。

イエス・キリストを食べる、あるいは、キリストの救いの力を食べるとは、もちろん、すなわち、信じることです。信じたことがないし、信じるつもりもないし、今は別のものを信じて生きているという人には、イエス・キリストの救いの力が及ぶこともありえないのです。

その意味で、教会はレストランです。「ここで、美味しいごちそうを食べてください」と勧める務めがあります。店構えを整えたり、部屋の掃除をしたり、チラシを配ったり看板を立てたりすることは、わたしたちの仕事です。しかし、「要らない」という人の口を無理やりこじ開けて食べさせることはできませんし、そのようなことをすべきでもないのです。

しかし、わたしたちにできることもあります。実際食べた者たちが、「これ美味しいよ」と多くの人に教えてあげることです。レストランの評判を伝える最も有効な方法は口コミです。

また、実際にそれをいつも食べているわたしたちが、美味しそうな顔をすることです。楽しそうに店に通うことです。そうすれば行列ができる店になる。「あそこに行けば何かがある」と思うのです。

イエス・キリストの救いの力が「全人類」に及ぶために必要なことは、その救いの力によって実際に救われた人々が本当に心から喜んで生きていることです。わたしたちの喜ぶ姿が、わたしたちの笑顔が、世界に救いをもたらすのです。

主の天使に天の大軍が加わった、とあります。どういう意味でしょうか。考えられることを申し上げておきます。理解の鍵と思われるのは、羊飼いたちの前に現れた「主の天使」は単数であるということです。ここにいる天使は、ひとりです。ひとりの天使が、羊飼いたちに向かって福音の説教をしたのです。

しかし、そこに天の大軍が加わりました。もちろん、それは複数の存在です。説教は、基本的に一人でするものです。ある意味で孤独な仕事でもあります。しかし、もし複数の説教者が思い思いに同時に説教しはじめたら、聴く側の人にとっては、たぶんそれを聞き取ることができません。言葉が重なり合って、何を言っているのか分かりません。

しかし、そのとき説教者が本当に「わたしは孤独だ」と考えるとしたら、大きな間違いです。その説教者の背後に、天の大軍がいます!それは賛美する存在です。聖歌隊を思い浮かべるべきでしょうか。選び抜かれ、特別な訓練を受けた人々。おそらくそれだけではありません。

むしろ、それは、神を賛美する存在のすべてです。福音の喜びを賛美奉仕という仕方で表現する存在、それこそが「天の大軍」の姿なのです。

もちろん、神賛美の歌声も聴きとることができます。何を言っているのか分からないということはありません。しかし、賛美と説教は明らかに異なります。説教そのものは歌ではありません。私は今、ここで歌っているわけではありません。説教は論理的な言葉です。論理を用いて語ることができるだけです。

しかし、賛美は論理を超えた言葉です。メロディーがあり、リズムがあり、ハーモニーがあります。説教と賛美。これは礼拝の基本的な要素です。この点から言えば、説教者はなんら孤独ではありません。ベツレヘムで行われた世界で最初のキリスト教礼拝は、天使と天の大軍のコラボレーション(共同作業!)によって行われたのです!

そして、天使と天の大軍の大合唱の内容は、本質的に祈りであったということも加えて申し上げておきます。説教、賛美、そして祈り。祈りも礼拝を構成する重要な要素です。

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と言われています。「あれ」とは「あれ!」と命令しているのではなく、「ありますように」と祈っているのです。「いと高きところ」とは天です。天とは、神がおられるところです。それ以上の意味はありません。つまり、天の大軍が歌っていることは、「神のおられる天に、栄光がありますように」であり、神御自身に栄光がありますように、です。

そして、「地」とは、この世界です。神が創造された万物の生きているこの地上の世界です。この地上の世界に生きる「御心に適う人に」平和がありますように、と歌われているのです。

またここに新たな問題が生じます。「御心に適う人」とは誰のことだろうか、という問題です。しかし、これは難しい問題ではありません。先ほど申し上げたことのほとんど繰り返しであると思っていただいて構いません。

ここで歌われている「御心」の意味は、第一義的には神の意志です。神というお方は、御自身の意志を持っておられる存在です。意志とは、要するに、考えです。思想であり、計画であり、方針です。プランであり、スケジュールです。そして、それを決断すること、決定することです。その一切の意味を含んでいるのが「御心」という言葉です。

そして、その神御自身の決断と決定による計画ないし方針に「適う人」とは、もちろん、それに従う人です。神の御心を信頼し、それに従順に服従する人です。その人々のもとに平和がありますように、と言われているのです。

しかし、このようにだけ申しますと、おそらく皆さんの心の中に、ある一つのイメージが描かれてしまうのではないかと予想いたします。それは次のようなイメージです。

「御心に適う人」とは、要するに、神が決定されたことにただ忠実に従うことができる人のことである。その場合、たとえその決定された内容が納得行かないものであっても、理解できないものであっても、承服できないものであっても、いわば軍隊式に、上からの命令に対しては下の者は黙って従うしかないという仕方で、何が何でも、我慢強く、神について行く人のことである、というようなイメージです。

そして、そこに付け加わる密かな思いは「それはわたしではない」ということではないでしょうか。わたしはそんなに従順ではないし、我慢強くもない。納得の行かないことには、ついて行けない。そのようなわたしは「御心に適う人」には、なれそうもない、と。

しかし、私の願いは、どうかそういうふうに理解しないでいただきたいということです。ここで歌われている「御心に適う人」の意味は、そういうことではありません。我慢強さとか、悪い意味での禁欲的な絶対服従というようなことは、全く関係ないのです。

その事情は、むしろ、先ほどの繰り返しであると申し上げた通りです。「御心に適う人」とは、レストランで美味しいごちそうを食べて「ああ、本当に美味しい」と喜んでいる人です。美味しいものを食べて、美味しいと感じ、「美味しい」と言うだけのことです。そこには、命令だの服従だのというような強制的な要素は、微塵もありません。

実際、神の御心の本質は、喜びです。神御自身が喜びに満ちあふれた方であり、また、その喜びを何とかして地上の世界と、そこに生きるすべての者たち、とりわけわたしたち人間の中に伝えたいと、神御自身が願っておられます。神は、わたしたち神の子たちを、何とかして喜ばせたがっておられる父親なのです。

自分の子どもを何とかして嫌な思いにさせ、どうにかして苦しみを味わわせようとする親がいるとしたら、本当に困った存在です。イエスさま御自身が、次のようにおっしゃいました。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(マタイによる福音書7・9~10)。

そういう親は一人もいない、と言いきれない現実の中にわたしたちが生きていることはどうやら事実です。しかし、それはもちろん、非常に残念なことです。実際、そのような親のもとで幼少期を過ごした人々の中には、この世界そのものを愛することも受け容れることもできないと感じ、苦しんでいる人が大勢います。

もちろん親だけのせいにするわけにはいきません。社会的環境、あるいは政治、あるいは宗教にも、大いに責任があります。

繰り返し虐待を受けてきた人々にとっては、この世界こそが地獄であると感じるものであるに違いない。そして、その人々にとっては、この世界の中から取り上げられること、地上の世界から飛び出し、別の世界へと移されることこそが真の救いである、と言いたくなる場面があるに違いない。そのような思いの中にいる人々のことを、私が全く知らずにいるわけではないのです。

しかし、です。イエス・キリストはとにかく来てくださいました。救い主はお生まれになりました。わたしたちはこのことにしっかり踏みとどまるべきです。イエス・キリストがお生まれになったことは歴史的事実です。誰も否定できません。この世界は、イエス・キリストが来てくださった世界です。キリストの救いが実現した世界であり、少なくともそれが始まった世界です。ともかくここは“救いなき絶望の世界”ではないのです!

そしてこの方の救いのみわざは、とにかく行われました。そして、この方によって現実に救われた人は大勢います。この私もそうですし、ここにいる皆さんがそうです。教会の中にいる人々は、本当に厳しく辛いところを通って来た人々ばかりです。しかし、救い主イエス・キリストへの信仰によって慰めと喜びを与えられて生きています。

わたしたちの笑顔は、世間知らずな笑顔ではありません。むしろ、わたしたちは、ごちそうを食べた者たちなのです。神の恵みを喜び楽しんでいる者たちです。その意味で、わたしたち自身が「御心に適う人」なのです!

ですから、天使が祈ってくれた「地上の平和」は、将来的にもしかしたら実現するかもしれないが、願っても祈ってもなかなか手の届かない、虚しい望みにすぎないようなものではありません。むしろ、それは、あなたの目の前にあります。救い主イエス・キリストを信じて生きる人生そのものが、わたしたちの体験しうる「地上の平和」なのです!

(2007年12月16日、松戸小金原教会主日礼拝)