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2016年7月10日日曜日

キリストの言葉が豊かに宿るようにしなさい(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東)
コロサイの信徒への手紙3・16~17

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」

いきなり私事で恐縮ですが、今日開いていただきましたのは、私が過去に個人的に経験した出来事と強く結びついている箇所です。その出来事についてもお話ししたいと願っていますが、その前に、この箇所そのものの意味をご説明させていただきます。

現代の聖書学者たちは、コロサイの信徒への手紙を「使徒パウロが書いたものではない」と断言しはじめています。私は狭い意味での「聖書学者」ではありませんので、そういう話を何度聞かされても「へえ、そうなんですか」というくらいの反応しかできないのですが、それでも学者さんたちの意見は可能なかぎり尊重してきたつもりです。あえて逆らう気はありません。

パウロが書いたものでないなら誰が書いたのかといえば、パウロの名前を借りた別の人物が書いたものであるという話になります。当然といえば当然の結論です。そして聖書学者たちの意見としてもう一つ重要な点は、この手紙は実は狭い意味での「手紙」でもないということです。私が言っていることではないです。聖書学者たちの意見です。

「手紙」でないなら何なのかというと、キリスト教の教えを簡略にまとめたパンフレットのようなものだったのではないかという話になります。ここから先は多少批判的な言い方を含んでいますが、この手紙の中には教会の現実が見える具体的なことへの言及がほとんど見当たらず、もっぱら抽象的なことしか書かれていないので、そういうものは「手紙」であるとは言えないというような話です。

しかし、先ほど申し上げたとおり、私自身は狭い意味での「聖書学者」ではなく、聖書学の「門前の小僧」ですので、正確な議論は学者さんたちにお任せいたします。軽んじるつもりも無視するつもりもありません。ただ私は、教会で説教するときは、これを「使徒パウロの手紙」として扱うことにしています。そのことはご容赦いただきたいと願っています。

そうすることのほとんど唯一の根拠は、冒頭に記されている「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ」(1・1)という言葉だけです。この言葉に基づいて、私は「パウロはこう書いています」「パウロはこう述べています」と申し上げます。

ですから、みなさんにお願いしたいのは、私が「パウロ」という言葉を発したときは、みなさんの頭の中でパウロにかぎ括弧をつけていただきたいということです。それで問題ありません。「かぎ括弧付きのパウロが書いた手紙」ということで、聖書学者のみなさまにご容赦いただくしかありません。

しかし、なるほどたしかに、この手紙の中には教会の現実が見えるような具体的なことへの言及はほとんど見当たらず、もっぱら抽象的で観念的で概念的なことが書かれていることは事実です。良く言えば「キリスト教入門」ないし「教会入門」のテキストとして扱いやすい内容です。悪く言う必要はないかもしれませんが、なるほどたしかに、教会の現実が見えない。

しかし、原理・原則というのは、いつでも悪者扱いされるべきではありません。とくに入門志願者や初めての人の中には、原理・原則をはっきり教えてもらうほうが戸惑わなくて安心できると考える人が一定数います。

会社や社会で「こうしなさい、ああしなさい」と命令ばかり受けてきて、教会でも「こうしなさい、ああしなさい」と命令されるのはまっぴらごめんだと感じる人は多いかもしれません。しかし、教会には原理・原則が存在しないというわけではありません。

前置きが長くなってしまいました。今日開いていただいた箇所は、今申し上げていることとの関係でいえば、キリスト教の基本中の基本が書かれているところであるといえます。キリスト教入門、教会入門における最も基本的で根本的な部分が、この短い言葉の中に集約されています。

私はこの箇所の説教をするたびにポイントを三つに絞ってきました。第一は「キリストの言葉が豊かに宿るようにしなさい」、第二は「詩編と賛歌と霊的な歌により神をほめたたえなさい」、そして第三は「イエスによって父である神に感謝しなさい」です。つまり、三つのポイントとは、みことば、賛美、お祈りです。

そして私は、こういう話をいつもします。キリスト教は、どういう場所でも、どういう集会でも、とにかくこの三つです。それは、みことば、賛美、お祈りです。毎週日曜の礼拝も、水曜の祈祷会も、結婚式も、お葬式も、どんな場所でもどんな集会でも、みことば、賛美、お祈りです。

それが基本中の基本であるという意味で、この三つはキリスト教の読み書きソロバンです。イロハです。それが、みことば、賛美、お祈りです。結婚式とお葬式で同じ聖書の箇所を読み、同じ賛美歌をうたうことも、しょっちゅうあります。その意味では、結婚式もお葬式も、礼拝そのものです。

そして、私がこの箇所の説教をするたびに繰り返し強調してきた点があります。それは、みことばについても、賛美についても、お祈りについても、すべては「わたしたち自身が真剣に取り組むべきこと」としてとらえる必要があるという点です。それだけ言っても意味が分からないと思いますので、このあと説明いたします。

過去の経験上、誤解が生じやすいのは、みことばについてです。賛美とお祈りについては、それが「真剣に取り組むべきこと」であるということを、比較的すぐに理解してもらえます。真剣に賛美することの重要性、真剣にお祈りすることの重要性は分かってもらえます。しかし、みことばについては誤解されることが多かったです。

私の説明を誤解する人たちは、決まっていました。みことばとは神の言葉であって、つまりそれは、神御自身がお語りになる言葉なのであって、みことばについての主導権は、徹頭徹尾神御自身にあるのであって、その神の言葉の前で人間はひたすら受け身であるのだから、いかなる意味でも我々人間はみことばに対して能動的な立場にはありえない、というような前提理解を持った人たちです。

私はそういう前提理解を持った人たちから、面と向かって不快感を表明されたこともあります。そのような経験を、私は実際にしてきました。

私はどこを強調してきたのかといえば、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」という新共同訳聖書のこの訳文はとても正確だと思うので、このとおりに考えてほしいということです。そして、「宿るようにする」のは、あなた自身ですよ、他のだれもやってくれませんよ、ということです。そこをとにかく強調してきました。

キリストの言葉があなたの内に豊かに「宿るようにする」ためにどうすればよいのでしょうか。それは自分で努力するしかありませんよと、私は説明してきました。主導権は、徹頭徹尾あなた自身にありますよと。聖書を自分で開き、自分で読み、繰り返し読み、たくさん学び、深く考えることが必要ですよと。

もっとも二千年前には、だれでも簡単に自分の聖書を買って持っているというような状況にはありませんでしたので、だれでも自分で聖書を開いて自分で読むということはできなかったと思います。その場合は、教会で説教を聴くという方法で聖書を学ぶわけです。しかし、それも自分ですることです。だれかが代わりにやってくれるわけではありません。

この「豊かに宿るようにする」の「する」の主語はあなた自身ですよということを、私は繰り返し強調してきました。しかし、この私の説明は、どの教会においても、どの牧師たちの中でも、一定の人々から強い違和感を表明され、拒絶されてきました。

でも、私はこの件に関しては譲ることができません。なぜ譲ることができないかといえば、それが最初に申し上げた、私が個人的に経験した出来事と関係しているからです。

個人を特定できるような具体的なことは伏せます。様々な外的要因が重なり、激しく落ち込んだ人がいました。その人のことを考えながら、私は礼拝で今日の箇所についての説教をしました。

そのとき私は、こう言いました。「人間の心は風船のようなものです。悪いものがたくさん入っている状態を緩和するには、その悪いもののほうを取り除くことはできませんので、良いものをたくさん詰め込んでいくしかありません。その良いものがキリストの言葉です」と。

その日、その人の心に変化がありました。私が今申し上げているのは、みことばが、あるいは私の説教がその人を救った、というようなことでは全くありません。キリストの言葉が豊かに「宿るようにした」のはその人自身であり、自分の心を開き、聴く耳を持ったのも、その人自身です。

そのことを今日みなさんにも言いたいのです。キリストの言葉が「豊かに宿るようにする」のは、みなさん自身です。礼拝中、別のことを考えていませんか。聖書への興味や関心を失っていませんか。「それどころではない」と思っていませんか。心は、耳は、閉じていませんか。

学校でも私は「こら起きろ、聞け」というような言い方はしませんし、できません。まして教会ではそういう言い方は全くできません。だからお願いです。どうかどうか聖書に関心を持ってください。拙い説教であることは重々承知していますが、どうか耳を傾けてください。キリストの言葉が豊かに宿るようにしてください。よろしくお願いいたします。

(2016年7月10日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東)


2016年6月12日日曜日

あふれるばかりに感謝しなさい(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東)

コロサイの信徒への手紙2・6~7

「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして作り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」

今日はいろんな意味で緊張しています。千葉若葉キリスト教会の皆さんと、そして千葉英和高校の聖歌合唱部のメンバーと共に礼拝をささげています。私は千葉若葉キリスト教会のメンバーでも牧師でもありませんので、どちらかといえば高校生を快く歓迎してくださった教会の皆さんに感謝しなければならない立場ではあるのですが、気持ちのうえでは、私は断然、教会側の人間です。

私はいま千葉英和高校で聖書の先生をしています。1学年4クラス、2学年4クラスで聖書の授業を担当しています。しかし昨年末(2015年12月)までは、教会の牧師でした。1990年4月から25年、牧師の仕事だけをしてきました。そういう立場の人間です。

自己紹介を兼ねて、私がしてきた教会の牧師という仕事について少しお話しさせていただきます。教会の牧師というのは、日曜日しか働いていないわけではありませんが、日曜日以外は、ものすごく自由な時間の使い方ができる立場です。むしろできるだけ自由でなければなりません。

なぜなら、牧師の仕事の基本は、日曜日の礼拝で説教すること(説教)と、教会の方々の実に様々なお世話をすること(牧会)と、新しく教会に通ってくださる方々を探し求めること(伝道)なので、決まった時間、決まった場所だけで仕事するというのでは対応できないことがほとんどだからです。

ちょうど今、1学年の授業でそのあたりのことを話しているのですが、宗教が果たすべき最も大事な役割の一つは人の「死」を深く考えることです。しかし、教会は死を「考える」だけでは済みません。誤解を恐れずに言えば、教会は死を具体的に扱います。死に直接触れます。

病床へのお見舞いとお祈り、看取り、引き取り、納棺、葬儀、火葬、納骨、記念。そのような形で、遺された家族や友人の心に寄り添い、お世話をします。教会自体は、病院でも施設でもありません。牧師自身は、医者でもセラピストでもカウンセラーでもありません。教会は教会であり、牧師は牧師です。他のものに例えようがない、独自の仕事を担っています。

しかしまた、それを「仕事」と呼ぶと嫌がられたり叱られたりします。おやおや、牧師さんはそういうことをビジネスとして割り切っておられるのですかと批判されたりします。もちろんビジネスとして割り切れるものではありえません。ただひたすら奉仕の思いです。しかしまた、これは「仕事」ではないのかというと、そうでもなく、「こういう仕事もあるのです」としか表現しようがないところもあります。

いま言おうとしているのは、牧師の仕事は、日曜日以外はなるべく自由でなければならないことの理由の説明です。人の死を具体的に扱う仕事である以上、いつどなたがどうなるか分からない以上、何か一定の時間を会社勤務などで拘束されることとは、かなりの面で矛盾します。最も短くいえば、牧師はできるだけヒマでなければなりません。

しかし、こういうことを言いますと、これがまたとても誤解されます。いつもぶらぶらしている、まるで遊んでいるようだ、いい御身分だ、などと冷笑されます。しかし、私は大学院を卒業した25歳から25年間、ずっとその仕事をしてきました。25年間ぶらぶら遊んできました。

すでに高校生の何人かから授業中に聞かれたことは「牧師は儲かるのですか」というのと「学校の先生と教会の牧師はどちらが儲かるのですか」という質問です。とても答えにくい質問です。「牧師は儲からないです」と答えるだけで精一杯です。だってお金を儲けるための仕事ではないのですから。その意味でも、私は25年、お金のために働くということをしたことがなく、ただひたすら、ぶらぶら遊んできた次第です。

ついでにいえば、牧師の仕事の中でいちばん中心にあるのは、お話しすることです。聖書について説教することと、お祈りすることと、讃美歌をうたうことです。いわば口を動かしているだけです。そういう批判を受けることがあります。お前は口を動かしているだけではないかと。そんなわけで、教会の牧師はお金儲けもしないし、通勤もしないで、いつもぶらぶら遊んでいて、口を動かしているだけです。そういう25年を私は実際に過ごしてきました。

もう一つだけダメ押し的に付け加えさせていただけば、牧師の仕事のメインは、神の栄光を表すことです。そのため、牧師の自分自身ができるだけ前に出ないようにすることが求められる仕事です。自分がそこにいたこと、働いていたことの形跡が残らないようにする必要があります。

「あの教会は何々先生の教会だ」という言われ方をされているようなら、たちまち批判されます。教会は神のものであり、何々先生のものではありえないと。それは当然の批判ですので、牧師たちは、いかなる意味でも自分の働きの形跡を残してはいけません。何年働こうと、どれほど重くて辛い仕事を果たそうと、まるでその人がいなかったかのように、自分の影もにおいも消し去らねばなりません。

いま言っていることは、半分以上は悪い冗談です。どういうふうに言えば正しく理解してもらえるか分からないので、冗談を言ってごまかしているだけです。しかし、そろそろ冗談は控えめにして、真面目にお話ししなくてはなりません。先ほど司会者に朗読していただきました聖書の箇所に入っていきます。しかし、その前にお断りしておきたいことがあります。

私がいま学校の授業の中で声を大にして言っているのは、「学校は宗教団体ではありません。学校は学校です。学校の中で私が皆さんに特定の宗教をすすめたり特定の宗教団体に勧誘したりするようなことはありません。それは入学時の皆さんと学校との約束事項ですので、どうかご安心ください」ということです。

それに加えて言うことは、「ただし、ここは学校なので、とにかく勉強してください。宗教について徹底的に考えてください。それはしてください。聖書の授業は考える時間(シンキングタイム)です。聖書の授業中は他のことは考えないでください。集中してください。聖書の授業中は内職禁止。他の教科の授業は内職してもいいという意味ではありませんが」ということです。

しかし今日は違います。ここは学校ではありません。教会です。宗教団体です。私は遠慮なく特定の宗教をおすすめしますので、覚悟してください。とか言うと、恐ろしくなって家に帰りたくなるかもしれませんが。

本題に入ります。今日朗読していただいた聖書の箇所に書かれていることの説明です。「あなたがた」は「主キリスト・イエスを受け入れた」人々のことを指しますので、キリスト教の信者のことです。今この教会にいる人たちも同じです。私も同じです。ですから、この「あなたがた」は「教会」そのものを指していると考えることは間違いではありません。「教会」とは、建物の名前ではなく、信者の集まりの名前ですから。

教会の人たちは目的があって集まっています。その目的が今日の箇所にはっきりと書かれています。それは「キリストに結ばれて歩む」という目的です。「結ばれて」がどのような状態かを説明するのはやや難しいことですが、「結婚」の「結」に近い意味だと言えば、ピンとくる方がおられるかもしれません。家族のような関係になり、日々共に生きることです。それ以上のことはうまく説明できません。

しかし、まだだいぶ抽象的かもしれません。その次の文章が少しだけ具体的な説明になっています。「キリストに根を下ろして造り上げられる」とは、ごく一般向けの言葉づかいで言えば、キリスト教の考え方を土台にしながら自分の人生や世界についての考え方を積み上げていくということで間違いとは言えませんが、もう少し深い次元のことです。なぜなら、すぐ後に「教えられたとおりの信仰をしっかり守ること」と記されているとおり、この件は「信仰」の次元にかかわることだからです。

特定の宗教を信じるとか、特定の宗教団体に参加するというようなことは、したくない、すべきでない、ありえないという拒絶反応が学校の中にも日本社会全体にもあることはよく分かっています。しかし、だからといって、日本人の大勢が「無神論者」なのかというと決してそうではない。「無宗教」は政治的な意味での「無党派」に最も近い関係にあると、先日の授業で話したばかりです。

なぜ「無党派」の人が多いのかは分かります。だって信頼できる政党がないんだもの。信頼できる大人がいないんだもの。特定の政党を支持し、特定の政治家に投票しろと言われても、そんなことは無理だもの、と感じている人が多いからです。

それと「無宗教」はかなり近い、よく似ている関係にあると私は思います。だって信頼できる宗教がないんだもの、尊敬できる大人が教会にいないんだもの。私はこれを決して他人事としては考えていません。自分自身に厳しく問われていることだと思っています。

「あふれるばかりに感謝しなさい」。これが教会に人が集まる究極的な目的です。教会は多くの感謝、そして多くの喜びを持ち寄り、みんなで分かち合う場所です。神の豊かな恵みに対する感謝、お互いの奉仕に対する感謝。それを独り占めするのではなく、共有し合うのが教会です。

教会は、お年寄りばかりが集まっていて、自分と同じ世代の人がいないので、つまらないですか。きみたちもいつかお年寄りになるよ。教会に来るのは、そうなってからでいいか。まあ、あまり無理なことは言わないでおきますが。

でも、言っておきます。良いことは、幼いころ、若いうちから始めるほうがいいです。習いごと、お稽古ごとをしている方には、必ず分かるはずです。ピアノを高校生になってから始める。それでは絶対に遅い、間に合わない、とまでは言えないかもしれませんが、かなり厳しい練習が必要でしょう。それと宗教は同じです。

もう一度言います。良いことは、幼いころから、若いうちから始めるほうがいいです。教会も同じです。主キリスト・イエスに結ばれた生活を始めることに早すぎるということはありません。それはとてもしっかりした人生の土台です。その上に、“キャラブレ”しない、筋の通った、しっかりとした考え方と生き方を造り上げることができます。

今日は学校ではないので、こういう話をすることをお許しください。

(2016年6月12日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会主日礼拝)

2004年10月24日日曜日

励ましの言葉


コロサイの信徒への手紙2・1~5

「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。」

ここに記されているパウロの言葉は、コロサイ教会の信徒たちへの励ましの言葉です。しかし、そのことを語るために、パウロは、このわたし自身があなたがたのために労苦し、闘っているのだ、ということを、あえて言葉にして、相手に伝えようとしているのを見ると、わたしなどは、つい、いろいろと考えさせられてしまいます。

とくに日本では、自分自身の苦労話を大っぴらに語り、わたしがこんなに苦労しているのだから、分かってほしいというような仕方で、相手の義理人情に訴える話し方のことを「浪花節」と呼ぶことがあると思います。たとえ悪気はなくても、何となく押し付けがましい話し方である、と思われてしまいます。

もちろん、こういう話し方でも十分に分かってくれる心優しい人々もいますし、じつは、そういう人のほうが多いのかもしれません。逆に考えて、自分は少しも苦労していないのに、ひとには「がんばれ、がんばれ」と語る人は、ほとんど信用を勝ち取ることができません。

しかし、世間にはいろんな人がいる、ということも事実です。ひとの話を聞く場合にも、冷たい感じの聞き方というのがあります。あなたの苦労がわたしにとって何の関係があるのですか。わたしも苦しいです。苦労話など聞きたくありません、と突き放されてしまうことがあるのです。

しかし、このことは、別の見方をするなら、自分の苦労話を安心して語ることができる相手がいる、というのは、幸いなことである、とも思えます。わたしの苦労話を善意として受けとめてくれる人がいるなら、パウロにとってコロサイ教会の人々は、そのような善意を期待できる、信頼関係のうちにある相手であった、と理解することができるかもしれません。

ところで、パウロは、彼らのために、何の苦労をしている、というのでしょうか。

「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。」

ここでパウロは、あなたがたコロサイ教会の人々とラオディキアにいる人々とが「心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるため」に、わたしは苦労しているのだ、と言っています。

この中で、とくに注目したいのは「理解力」という言葉です。また「キリストを悟る」という点が語られています。ただし、ここでの「悟る」には、以前も申し上げましたように、いわゆる仏教的意味での「悟りを開く」という意味は全くありません。むしろ「学び知ること」です。平たく言えば「勉強すること」です。

あなたがたに豊かな理解力が与えられ、キリストを学び知るために、わたしが苦労しているのだ、というのですから、パウロが苦闘している事柄として、わたしたちにとって最も分かりやすいであろう表現は、聖書に基づく「説教」とその準備である、ということではないでしょうか。

パウロも牧師の一人です。牧師は説教だけをしておればよいわけではありません。少なくとも牧会の仕事があります。しかし、説教もします。原稿も書きます。この点も、前回のこの手紙の学びの中で、すでにお話ししたことです。

そして、説教の準備というのは、意外と思われるのかどうかは分かりませんが、実際にやってみると、これはこれなりに、結構たいへんなことであると思います。

現在神戸改革派神学校で学んでいる浅野正紀神学生が、先週わたしに、一通のメールを送ってくださいました。そのメールに添えられていたのは、神学校で毎週水曜の夜に行われている祈祷会の奨励の原稿でした。「率直なところを批判してください」と書かれていましたので、率直なところの批評を書いて、送り返しました。こんなところで手加減するのは、かえって失礼だと思いましたので、遠慮なく厳しいことも書かせていただきました。

すると、浅野さんは、すぐに、わたしが指摘いたしましたすべての点を徹底的に見直してくださり、全面的に書き直して、また送ってこられました。

こういうことができる人、他人の批判を自発的に求めてこられる人には、間違いなく豊かな成長があります。浅野さんの熱心と謙遜な態度に、心から敬意を表したいと思います。

こういう人を見ていますと、わたしは、つい黙っていられなくなります。

こういうことができないのは、むしろ牧師たちです。自分の説教は素晴らしいと思い込んでいます。そう思い込んでいるかぎり、それ以上の成長は、全く期待できません。わたしは人のことは言えませんが、自分のことはすべて棚に挙げて言いますが、根本的に何か誤解しているのではないか、もう少し真面目に勉強したほうがよいのではないか、と思わされる牧師の説教に出くわすことが、しばしばあるのです。

パウロにとって、説教とは、ひとをして、神の秘められた計画であるキリストを悟らしむる何かです。「神の秘められた計画」とは、神の奥義という意味です。

そして、それは、神のすべての計画そのものを指しています。改革派信仰の表現の中で最も当てはまるのは、「神の聖定」(decrees of God)です。それは、創造者なる神によるこの世界と人類の創造のみわざから始まり、救い主イエス・キリストの十字架と復活による贖いのみわざを通り抜けて、歴史と現在における教会と世界の歩みと、終末におけるそれらの完成のみわざのすべてを含みます。

しかしまた、「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」と書かれているように、神のすべてのご計画を把握し、かつ正しく理解するための要(かなめ)と鍵は、まさにその神のすべてのご計画の中心に立っておられる救い主イエス・キリストです。

イエス・キリストを抜きにした「聖定」の教理は、単なる運命論・宿命論に陥る危険性があります。キリストが登場しない運命論・宿命論は、キリスト教的な教えにはなりえません。パウロは「巧みな議論にだまされないようにするため」と書いています。それが正しい教えか・誤った教えかを見分けるしるしは、そこにキリストがおられるどうかという点にかかっている、ということです。

説教とは、これらのすべてについて、聖書に基づいて、できるかぎり多くの人々に語り伝える仕事です。これは人が自らの一生をささげて取り組むに価する仕事です。説教だけがそうだと言いたいのではありません。しかし、説教もそうである。たしかにそうである、と語ることは許されるのではないでしょうか。

なんだか今日は、すっかり「浅野さんの話」になってしまいました。しかし、わたしは、いつか浅野さんに直接伝えたいことがあります。あなたの努力と労苦は必ず報われるときが来ます。間違いなく報われるときが来ます。天の神さまが報いてくださるでしょう。教会のみんなが喜んでくださるでしょう、と。

ただし、広い意味での「説教」は、牧師や神学生たちだけの仕事ではありません。「説教」は、長老や日曜学校の先生はもちろんのこと、じつは、すべてのキリスト者が仕えるべき仕事でもあると思います。

「説教」は、結局、わたしたちのこの信仰を、自分の家族や友人に正しく豊かに伝えることができる真実の言葉を探し求めるわざです。ラブレターを書くときのような真剣さと熱心さが必要です。

そして「説教」は、誰よりも、このわたし自身が、喜びと確信をもって、このわたしの信仰を公に告白する行為です。

良い意味で「みんなの宿題」であると、ご理解いただければと、願っております。

(2004年10月24日、松戸小金原教会夕礼拝)