1988年7月10日日曜日

最初の確信(初芝教会)

日本基督教団初芝教会(大阪府堺市)

関口 康(東京神学大学学部4年)

ヘブライ人への手紙3章12拙~4章16節

夏の間、みなさんとご一緒に聖書の学びの時を送ることができます幸いを、心より感謝いたしております。

今年も東京神学大学から43名もの神学生が、全国各地の教会に派遣されておりまして、同じように夏期伝道実習をしております。

心から思いますことは、全国各地で、あるいは世界全体で、主イエス・キリストが宣べ伝えられ、喜びのうちに心からなる礼拝がささげられ、賛美の歌がうたわれている、また同じ志をもつ者が神さまと人とに仕えることを生きがいとして励んでいる、その事実は、何ごとにも換えがたくすばらしいことだ、ということです。

神学生たちはみんな若くてちゃらんぽらんに見えたりしますけれども、主イエス・キリストにとらえられて信仰をもって日を過ごすことの喜びを自ら知り、またそれを多くの人に宣べ伝えることにこのいのちすべてを賭けていこうと確信している者たちでありまして、夏期伝道となると、始まるのがうれしくってしょうがない。そこでありがたい訓練を受けて、将来みなさんのお祈りに支えられて、新たなる伝道の旅に出かけるための備えをするのであります。

信仰をもって日を過ごすことは、じつに喜ばしいことであるはずなのです。神さまにのみ一切の希望を抱き、決して絶望しない。神さまにのみ依り頼む者たちが召し集められている教会に連なり、支えあって、励ましあって、生涯を送る。友なくして生きていくことを欲しない。愛し合うことを学びあいながら成長していく。

教会は、聖霊降臨のときから今日に至るまで、神さまのお約束を固く信じて疑わない者たちの群れであり続けています。

そしてまた、その信仰を未だ受け入れていない者に対して、その人にもまた救いの御手が働いているのだということを、なんとかして知らせようと働く群れであります。

たとえば、親ならば、自分の子どもに信仰の継承をしていくこと、ただそれだけを生きがいとしていく、そのような「心の貧しい」伝道者たちであるはずなのです。

しかしながら、教会は、じつに初めから、新約聖書の時代から、その内側に常に一つの大きな問題を抱えてまいりました。

そもそもキリスト教会は、いつでも、外側からの攻撃、迫害といったことには強かったようです。かえってそのことによって結束力を固め、信仰は深まり、祈りは熱っぽくなる。教会が教会であることの確固たる根拠を追求するようになり、ちょっとやそっとでは崩されない、どんなことにでも怖気づかない群れとされていく、そういったものでありました。

しかしながら、教会は、内側から沸きあがって来る問題には甚だ弱く、ともすれば一切の希望を失い、そのことによって霊的な力を失い、それでもって弱く小さくなっていく。

今朝ご一緒に開きました聖書の個所、ヘブライ人への手紙の著者が問題にしていることは、まさに彼が深くかかわっているとある教会が、非常に深刻な事態に陥っていて、その問題の大きさたるや、まさに教会を教会でなくするような事柄なのだ、ということであります。

それは、キリスト者第二世代への信仰の継承の問題でした。つまり、主イエスの十字架と復活とを直接には知らない世代に対する伝道の問題でした。信仰は継承されていくものだ、と一言で申し上げましても、それが言葉で言うほど容易なことではないということは、みなさんもご経験なされていることと思います。

初めのキリスト者たち、たとえば、「使徒」と呼ばれた主イエスの弟子たちの勇ましいほどの信仰は、聖書にさまざまに記されているとおりですが、その初めのキリスト者たちの信仰を、歪めることなく正しく後に続くものたちに伝えていくことがいかに困難であったかということは、聖書の至るところに取り上げられていると言えます。このヘブライ人への手紙においてそれは中心的テーマでありました。

たとえば、第1章の14節には、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」と書かれています。この「救いを受け継ぐことになっている人々」というのが第二世代のキリスト者だというわけです。

また、第2章の1節をご覧ください。「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」と言われております。

主イエスがお語りになった御言葉、教会が信仰をもって語ってきた言葉、伝えられてきた言葉を「強く心に留めよ」(口語訳)とは、わたしたちにとっては、何をいまさらお説教されなくとも、信仰者ならば当たり前のことだ、と思われることかもしれません。

しかしながら、その当たり前のことが、当たり前でなくなっている。「そうでないと、押し流されて」しまう。確固たる信仰の基礎がゆるがせにされ、教会が教会でなくなってしまう。そのような危機が訪れているというのであります。

3章の12節にも、こう言われています。「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。」

つまり、このヘブライ人への手紙の著者は、初めのキリスト者たちの抱いていた喜びと希望に満ちあふれた確固たる信仰を、第二世代のキリスト者たちが正しく受けとめることをせず、別の思いにとらわれて、信仰から離れてみたり、別の信念をもってみたりして、結局神さまと教会から失われてしまうかもしれない。いや、そうなってしまっていると。

さらにまた、神さまに希望を持つことができないのですから、あらゆるものに絶望しつつ、神も何とかもあるものかと神と人とを恨みながら、どうしていいのやら分からないうちに世を去っていくと。

そのような事態が教会の中にあることを、あたかも父親が自分の言うことを聞かない息子のことを心のうちで心配しながら、険しい顔で戒めるように、語るのであります。

そもそも、なぜこのような事態が起こってきたのか、ということについて考えてみますときに、必ずしも簡単に答えられるようなことでない、複雑な事情があったように思われます。ただ言うことを聞かない新人類、というようなことではないように思うのであります。

それはおそらく、初めのキリスト者たちが抱いていた信仰の根本問題と関係があったのであります。

いつでもそれはこう言われてきました。主イエス・キリストは苦難の生涯を歩まれた後、十字架につけられてこの世の罪を贖い、よみがえられて御神の栄光をあらわし、天に昇られたのだと。そしてその後、主イエスは終わりの日にもう一度おいでになるのだと。

わたしたちの主の祈りにありますように、わたしたちの信仰の核心部分には、たしかに「御国を来たらせたまえ」があります。神さまのご支配を早く実現してくださいと、そのために主イエス・キリストが再び来たりたもう日を待ち望んでまいりました。

しかし、主イエスは、まだおいでくださらない。この世に悪の力はなくならない。「御国を来たらせたまえ」という祈りには、いっこうに答えられない。

初代のキリスト者たちは、イエスさまはすぐにおいでくださるのだと、だから今どんなつらい目にあっても、どんなに苦しくてもこの信仰を捨ててはならんのだと、そう素朴に信じて外からの猛烈なほどの迫害の手に対してたじろぎもせずに、勇ましく、これこそが信仰だと言わんばかりに派手な殉教の死を遂げていったというわけであります。

キリスト者第二世代は、そうした最初の世代の人たちの殉教の死をおそらくは目の当たりにしながら、あるものは恐怖におびえながら、あるものは肉親を失った悲しみにうちふるえ、迫害者に対する復讐心もさることながら、主イエス・キリストを信じたゆえに殺されたと考えるときに、主イエス・キリストの救いに対する不信感、信仰そのものに対する疑いを持つようになる。

信じて祈ったが結局報われなかったではないか、父親や母親は死んでしまっていなくなってしまったではないか。天国で逢えるという言葉を信じて、どれほどの慰めがあるというのであろうか。せいぜいおとぎ話の、人をだますような、むなしい信仰。

キリスト者第二世代の者たちにとって、すさまじい迫害の前に次々と倒れていく殉教者群像を見ながら、それでももし、主はわれらの救い主なり、と心から告白するためには、相当の勇気と、力と、なにものにもまさる慰めの言葉とを必要としたかということを思うのです。

ですから、3章12節の御言葉の中の「信仰のない悪い心」というのは、何か大罪人の心の中にあるような不気味なドロドロとしたような思いというのとは少し語感が違うと思うのです。

その「信仰のない悪い心」とは、人間的にいうと同情に値するような、なぜなら信仰をもって死んでいった父や母、友や先生の姿を目の当たりにして、信仰の意味について深く考え込んでしまうような「信仰のない悪い心」なのですから。

また、何よりも、主イエス・キリストが、まだ来てくださらない。この世に悪の力はなくならない。福音の御言葉は結局嘘だったのか、信じるだけ馬鹿馬鹿しいことだったのかと考えてしまうような「信仰のない悪い心」なのでありますから、わたしたちにとって、受け入れるに耐えない、あまりにもひどい考え方と言ってしまえないものなのであります。

もし、キリスト者が個人個人孤独であって、たった一人で信仰生活を送れと言われたならば、誰がそれに耐えることができるのでしょうか。何か厳しい精進を経て悟りを開くようにして、この信仰を維持せよと言われて、誰がそれをなしえましょうか。

わたしたちはそんなに強くないのです。わたしたちは日々の生活の中で、常にドロドロとした人間関係の中ですぐにでも押しつぶされてしまいそうなほどにもみくちゃにされて、いやな思いにさせられる、すぐにでも恨み言、つらみ言を口にしてしまうほどに弱いのです。

それでも、まったくもって絶望してしまわず、何か依り頼むべきお方にすがるような気持ちで、信仰を持って来たのだと思います。あるいは、教会に来て、そこに集まってきた人々の赤裸々な、それでも何か純粋で素朴な信仰の証しの言葉に励まされながら、世を去る日までこの確信を抱き続けようと決心を新たにしてきたのだと思います。

ヘブライ人への手紙の著者は、その若者たちに本当の慰めの言葉を語り始めるのであります。第3章の初めから、押し流されてしまいそうな弱い信仰の持ち主たちに向かって、旧約聖書の詩編95編を紐解いて、説教しているのです。それはちょうど教会学校の先生が生徒に向かって、聖書を開いて、その中の一言一言をよく吟味しながら、「きょう」という題名で教え諭しているのと同じ光景を思い浮かべられたらよいと思います。

「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
 荒れ野で試練を受けたころ、
 神に反抗したときのように、
 心をかたくなにしてはならない。」

3章13節をご覧ください。「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」とあります。

「罪に惑わされてかたくなになった人」がいたならば、叱り飛ばし、あるいはその罪を指摘して、交わりを絶ってしまいなさい、というようなことは、ここでは全く語られていないのであります。

「日々励まし合いなさい」という言葉は、信仰者には常に友が必要である、ということを指し示しているとも言えます。

しかも「今日」ということが、大切なのであります。明日の態度、将来の態度について問われてはいないのであります。初めのキリスト者は、迫害の中で明日も知れぬ身であったのです。その恐怖の真っ只中で、一日一日を厳かな思いをもって、涙の祈りをささげつつ、信仰を全うしていったのです。

それは、将来来たるべき神の国を夢見つつ、それをただ一つの慰めとして、今、その日、そのときを充実したものとして、受け取っていったのであります。それが主イエスを待ち望む信仰の本当の意味なのであります。

その信仰を継承する者たち、今にも乱れそうな、砕け散りそうな信仰の持ち主に向かって、その日一日、主に守られたことを感謝せよと、神さまのご臨在を信じて、安心して歩みなさいと、それ以上のことは求められていないのであります。

「荒れ野における試練の日々」、つまりエジプトを出たモーセ率いるイスラエルの一行が、約束の地カナンを目の前にして四〇年間入ることを許されずに、荒れ野で試練のときを送ったとき、神さまは決して約束を破られるような方ではないということは、彼らにはよく分かっていたにもかかわらず、目の前の食べ物は尽き、貧しくておいしくない、一日分のマナだけで生活することに耐えられなくなっていった。

「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」(民数記11・4~6)と泣き叫ぶようになっていった。

モーセさえも弱気になって、こんな目に遭うならば、主よ、むしろわたしを一思いに殺してください、と祈りさえするようになってしまった。猜疑心が猜疑心を煽り立て、罪が罪を上塗りするようになった。それはイスラエルが神の言葉を「聞いたのに背いた」からだ、ということなのであります。それが、神さまに望みを失った者の哀れな姿なのであります。

3章14節に「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです」とあります。

この「最初の確信」、このことが大切なのであります。これは、人間的な決心とか、思い込みの部類には決して属さないことなのであります。

信仰は決して一人では持ちえないと申し上げましたが、教会もまた各個教会では立ちえないのであります。もっと大きなキリストのからだなる教会、しかも歴史的な、初めのキリスト者たちから現代の私ども一人一人に至るまで、一つの幹に連なる枝としてつながっている、そのようなものとして教会は確固として立っているのであります。

その教会の「最初の確信」。それは、ここでは全世界の創造主なる神さまの安息のうちにわたしたち信じる者たちを入れてくださる、というお約束を信じることと結びつけられて語られています。それがキリストにあずかることなのだと。

信仰の継承は、個人的な信念の伝授ではありません。そうではなくて、歴史の中に脈々と伝えられてきた、決して絶望することのない、明るい希望の根拠、「最初の確信」を「最後まで」、つまり、この世界の終わりまで、主イエスの再び来たりたもうその日まで「しっかりと持ち続け」なさい、ということなのであります。

神さまの救いのみわざは真実であり、たしかである、ということを、どんなにそれが目に見えなくとも、それが全く疑わしいほどに困難な状況にあっても信じ続ける、そのような信仰が、今日に至るまで伝えられてきているのだと思います。

伝えられてきたことを、また伝えていく。それがわたしたちキリスト者の使命なのであります。

(1988年7月10日、日本基督教団初芝教会主日礼拝)