2023年1月22日日曜日

神は耐えられない試練を与えない(1月22日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 351番 聖なる聖なる
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「神は耐えられない試練を与えない」

コリントの信徒への手紙一10章1~13節

関口 康

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」

今日の聖書の箇所は、使徒パウロのコリントの信徒への手紙一10章1節から13節までです。ひとつの段落であるこの箇所の最後の13節にとても印象的な言葉が記されています。短くすれば「神は耐えられない試練を与えない」という意味になる言葉をパウロが記しています。

私は昭島に来てからテレビを観なくなりました。「忙しいので」を理由にしておきます。それで私に不足している知識はテレビドラマや情報番組の内容です。ニュースはインターネットで把握しています。それで感じるのは、聖書やキリスト教とは無関係な場面で「神は耐えられない試練を与えない」という言葉を頻繁に見かけるようになったことです。

とても慰められる言葉ですので、愛唱聖句にしておられる方がきっといらっしゃるでしょう。私も同じです。とても慰められます。しかし、この言葉が嫌いだとおっしゃる方がおられることも知っています。

いま味わっているこの過酷な現実を、神が与えた試練だと信じること自体はやぶさかでない。しかし、だからといって、これ以上の苦しみはないと思えるほどの苦しみを味わっている最中にこの言葉に接すると、「つまりそれは、私が味わっている苦しみは耐えられる程度の軽いものなので耐えなさいという意味でしょうか」とどうしても聞こえ、反発心を抱くきっかけになります。その気持ちもよく分かります。

いま私が申し上げていることで大事なことは三つです。

第一は、これは聖書の言葉であるということです。パウロの言葉です。テレビドラマや有名人に由来する言葉ではありません。

第二は、この言葉には文脈があるということです。文脈から離れたところで用いてはいけないという意味ではありません。言葉が独り歩きするのは当然です。しかし、元々の文脈の中でどういう意味で言われたかも大事です。別の意味で用いるべきではないという意味でもありません。しかし、気を付けなくてはならないことがあります。

それが第三の大事な点です。たとえ慰めに満ちた聖書の言葉であっても、使い方次第で相手を深く傷つける場合があります。取り扱いに細心の注意が必要です。

しかし、今申し上げた点を踏まえたうえで、もう一歩先のこととして申し上げたいのは、この段落にパウロが記している内容は解釈がとても難しいということです。分かるのはごく大づかみなことだけです。

この段落に記されているのは旧約聖書の出エジプト記の物語です。モーセに率いられたユダヤ人が奴隷の地エジプトから脱出して約束の地カナンをめざすあの物語です。

しかし、解釈が難しい言葉が、いきなり出てきます。「わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属する洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました」(1~4節)。

なぜここで「雲」の話になるかといえば、モーセたちが出エジプトの旅の中で「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」(出エジプト記13章21節)からです。

彼らにとって「雲」は保護のしるしです。「海を通り抜け」は背後に迫るエジプト軍からユダヤ人が逃れるためにモーセが葦の海を杖で割った奇跡物語(出エジプト記14章)を指しています。つまり「海」は解放のしるしです。

そして「雲」と「海」はどちらも「水」でできているというのがパウロにとって大事な点です。雲と海という「水」でユダヤ人の先祖は、モーセから洗礼を受けたのだとパウロは言っています。この解釈は私が参考にしているオランダ語の註解書(F. J. Pop, De eerste brief van Paulus aan de Corinthiers, De prediking van het Nieuwe Testament (PNT), 1965)の立場です。

これ以外にもこの段落には解釈が難しい言葉が次々に出てきます。見落としてはならないのが5節と6節です。「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです」。

これでパウロが言いたいことは、「洗礼」を受けたすべての人が、「海」と「雲」で表わされた神の保護と解放のみわざの中にとどまったとは言えないということです。もっとはっきり言えば、洗礼を受けて信者になった人が、その後に何をしでかそうと、深く人を傷つけるようなことをしようと、すべて神が見逃してくださるので罪を犯し続けても構わないという教えは成り立たないということです。パウロこそ信仰義認の教えを強調した人ですが、それとこれとは矛盾しません。

この段落でパウロが禁じている「悪事」は、はっきり分かるのが三つです。「四つある」という説明を見かけましたが、意味がよく分かりませんでした。第一は「偶像礼拝」(7節)です。第二は「みだらなこと」すなわち淫行(8節)です。第三は「不平を言うこと」すなわち短気(10節)です。これらの悪事を繰り返している人があなたがたコリント教会の中にいる、それはいけないことだと、パウロは強く警告しています。

以上の内容が「神は耐えられない試練を与えない」という言葉の文脈です。どうつながるかが分かりにくいとお感じになる方が多くないでしょうか。つながりにくさの原因は「試練」という訳語にあるかもしれません。誤訳であるとは言えません。しかし、文脈とつながりにくいです。

パウロとコリント教会の関係という文脈という観点から最もふさわしい訳語は「誘惑」です。「神は耐えられない誘惑を与えない」です。誘惑の具体的な内容は、上に述べた偶像礼拝、淫行、短気、そしてそれ以外にも多くあります。

誘惑の共通点は、逃げ道を奪われることです。それが罠です。入ったら出られなくされます。客がいなければ商売は成立しません。しかし、神は罠の網を引き破ってくださって「逃れる道」、しつこく付きまとう悪の誘惑からの「出口」を作ってくださいます。その「出口」こそ、ユダヤ人の先祖が体験した出エジプトの出来事であり、キリスト教信仰にも当てはまるということです。

まるで神御自身が罪の作者(the creator of Sin)であるかのように、すなわち、神が人間を「罪を犯さないことができない」(non posse non peccare)存在に創造されたかのように考えるのは間違いです。自分の罪を神のせいにしてはいけません。堕落の責任は人間の側にあります。罪を犯すことに必然性(Necessity)はありません。罠の網を神が引き破り、逃げ道を作ってくださいます。わたしたちは罪を犯し続けることをやめることができるし、やめなければなりません。これが「神は耐えられない試練を与えない」という使徒パウロの言葉の元々の意味です。

(2023年1月22日 聖日礼拝)

2023年1月15日日曜日

家族も救われる(2023年1月15日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 7番 ほめたたえよ力強き主に
奏楽・長井志保乃さん 動画・富栄徳さん

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「家族も救われる」

使徒言行録16章25~34節

「二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます』」

今日の聖書の箇所は使徒言行録16章25節から34節までです。この箇所に大勢の人が登場します。主役は使徒パウロと同行者シラスです。この二人以外の「ほかの囚人たち」(25節)もいます。「看守」(27節)もいます。そして最後に「看守とその家の人たち全部」(32節)が登場します。

囚人や看守がいるのは刑務所です。つまり、この物語に描かれているのはパウロとシラスが刑務所の牢に入れられ、そこから解放されるまでの出来事です。場所はマケドニア州のフィリピ(16章12節)。パウロの第二回宣教旅行の最中でした。

使徒言行録でパウロが刑務所に収監されるのは、この箇所だけです。ローマ兵に縄で「縛られ」たり(22章22節)、「鎖」をかけられたり(22章30節参照)、「留置」されたり(23章35節)しましたが、「牢に入れられた」とまでは記されていません。しかし、刑務所は人生一度でもごめんです。

パウロとシラスがなぜこのような目に遭ったかを知るためには16章16節から読む必要があります。発端はフィリピにいた「占いの霊に取りつかれている女奴隷」(16節)との出会いです。「占いの霊」(プニューマ・ピュトナ)の意味は「ピュトンの霊」です。ピュトン(英語「パイソン」)はギリシア神話に登場する蛇です。アポロンの神託を守り、アポロンによって殺された蛇です。

そして「ピュトンの霊に憑依された人」というその言葉自体が「腹話術師」を意味します。そして、それが「占い師」です。つまり、この女性(おそらく少女)は、腹話術を使って占いをする人でした。蛇を体に巻き付けて、脇の下から蛇の頭を出して、腹話術で占いの言葉を話して、蛇がしゃべったように見せ、お客さんから受け取った占いの料金を雇用主に渡すために働かされていた奴隷でした。

しかし、それは聖書の教えとは全く異質です。使徒言行録には、キリスト教の伝道者が異教的な魔術的宗教に立ち向かう場面が何度か出てきます。この箇所はそのひとつです。他にも、魔術師シモンVSフィリポ (8章9節以下)、魔術師エリマ VSサウロ(後の使徒パウロ)(13章8節以下)、エフェソでアルテミス神殿の模型を作っていた銀細工師デメトリオVSパウロ(19章23節以下) などがあります。

今日の箇所の女性は、パウロたちにつきまとって幾日も同じことを叫び続けました。それでパウロがたまりかねて、その霊に「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と言ったら、「霊が彼女から出て行った」(18節)というのが、パウロとシラスが刑務所に収監された理由です。

「たまりかねて」(ディアポネーセイス)の意味は「不快、不機嫌、憤慨、激怒、当惑」などです。パウロが感情むき出しで腹を立て、おそらく大声で怒鳴りつけたことを表しています。パウロのこういうところは直すほうがよいかもしれません。伝道者の粗暴な性格はつまずきの元です。しかし問題は、パウロがなぜ、または「何」に激怒したかです。ふたつ考えられます。ひとつは、この女性が毎日付きまとい、大声で騒ぎ続けたその迷惑行為そのものです。しかし、それだけではありません。パウロはこの女性の背後にある悪魔信仰と占いの世界そのものにも反対しています。

後者に対する不快感が、付きまとい行為に対してよりも比重が大きいと言えます。「悪を憎んで人を憎まず」は孔子の言葉ですが、パウロにも当てはまります。だからこそパウロは、「イエス・キリストの名によって」この女性に、ではなく「霊」に向かって、この女性から「出て行け」と命じたのです。

すると、この女性から「占いの霊」が出て行き、正気に戻りました。二度と占いができなくなったという意味です。それで激怒したのがこの女性の雇用主です。「悪を憎んで人を憎まず」だと言いました。「占いが悪なのか」と疑問を感じた方がおられるかもしれません。難しい問題です。しかし、明らかに悪いのは、奴隷を脅して働かせて、その奴隷が稼いだ金を巻き上げて生きている悪党どもです。パウロがしたことには、悪党集団からひとりの少女を助け出した面があります。

「金もうけの望みがなくなってしまった」(19節)主人たちは、パウロのしたことが原因だと知って激怒し、捕まえて高官(法務官)のもとに連れて行き、でたらめな理由を並べて、パウロたちを告発しました。群衆も一緒に騒ぎ出したため(22節)、高官たちはパウロたちを裸にし、鞭で打つように命じ、いちばん奥の牢に投げ込み(文字通り「投げた」)、足に木の足枷をはめて看守に見張らせました。

「鞭で打つ」(23節「ラブディゾー」)は、ローマ人のやり方では木の棒または杖(ラボス)で叩くことを意味します。ユダヤ人の鞭打ちは、ひもで叩きます。「杖」は職権のしるしであり、「杖を持つ人」は職権を有する人です。つまり、ローマの「鞭打ち」はローマ帝国の権力を背後に持つ屈辱極まりない刑罰です。パウロがコリント教会に宛てた書簡に「鞭で打たれたことが三度」(Ⅱコリント11章25節)と書いているのも「棒で叩かれた」(ラブディゾー)です。

状況説明が長くなりました。パウロとシラスが刑務所に収監されるまでの経緯の概略は以上です。想像するだけでぞっとする、全く堪えがたい仕打ちだと私には思えます。

ところが、様子が変です。体も心も傷ついたパウロたちが沈み込んでうずくまっていたかというと、正反対でした。「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」(25節)(?!)。

キリスト者には、大なり小なりこういう面があります。状況から考えれば苦痛のどん底にいるはずなのに、どこかしらひょうひょうとしていて、明るい性格のようだけれども、世間離れしているようでもあり、とらえどころがない。刑務所のいちばん奥の牢に厳重な足枷までかけられて閉じ込められているのに、讃美歌を歌ったりお祈りしたり。それを他の囚人たちが聞き入っていたというのです。笑いごとではありませんが、笑いがこみあげて来て、なごめるものがあります。

すると、次に起こったことが大地震です。刑務所の土台が揺れ、ドアが開き、鎖が緩みました。そのことを神が介入してくださって起こった出来事だという意味で使徒言行録は記しています。

しかし、驚くべき記述がまだ続きます。大地震ですべてのドアが開いた刑務所からすべての囚人が脱走したかといえば、そうではありませんでした。他の囚人も全員いたかどうかまでは分かりません。しかし、パウロとシラスは逃げませんでした。囚人脱走の責任をとらされると思い込み、自害しようとした看守に「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」(28節)と呼びかけ、食い止めました。

すっかり驚き、恐怖すら抱いた看守が、パウロに魂の救いを求めました。「先生がた、救われるためにはどうすべきでしょうか」(30節)。「すべき」の意味は、神の御心にかなう道は何かです。パウロとシラスの答えは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(31節)でした。

なぜ「家族も救われる」のかについての詳しい説明はありません。しかし理由は分かります。パウロとシラスの賛美と祈りの声を他の囚人たちが聞き入っていたというあたりにヒントがあります。

ひとりの人が救われると、家庭内にひとり「異次元」に立つ人が生まれます。それが嫌われる原因になるかもしれません。しかし、破局の防波堤になる場合があります。家族みんなが一蓮托生で絶望して破滅の道を突き進むのではなく、たったひとりでも神に期待し、讃美を歌い、祈る人がいれば、常識や社会通念とは異なる、全く別次元からの問題解決の道が生まれ、必ず出口が見つかります。

(2023年1月15日 聖日礼拝)

2023年1月8日日曜日

すべての人の神(2023年1月8日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 211番 あさかぜしずかに
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「すべての人の神」

使徒言行録10章34~43節

関口 康

「預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

今日の聖書の箇所は使徒言行録10章34節から43節です。この箇所に記されているのは使徒ペトロの言葉です。

この言葉が「いつ、どこで、だれに、なぜ」語られたのかを学ぶことは、とても大事です。「文脈」を無視すべきではありません。しかし、今日は踏み込みません。別にお話ししたいことがあります。

文脈に踏み込まなくても分かることがあります。それは、使徒ペトロは初代教会の代表者だったということです。代表者の発言は初代教会の信仰告白の基本線を表していると言える、ということです。

それではこのペトロの言葉の核心部分はどこでしょうか。それを見抜く必要があります。34節から43節のすべてが核心部分であるとも言えますが、長いです。たとえば「20字以内で要約してください」と問われたとき、どう答えればよいだろうかと考えてみることも大事です。

私なりの答えは「イエス・キリストこそ、すべての人の主です」(20字以内)です。「神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう」(36節)。

しかし、これだけでは意味不明です。やはり「文脈」が大事です。「神は人を分け隔てなさらない」(34節)、「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(35節)、「イエスは方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされた」(38節)、「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」。

注目すべき言葉は「どんな国の人でも」「すべて」「だれでも」「神は人を分け隔てなさらない」です。間違えてはなりません。これはイエス・キリストの弟子であるわたしたち教会の問題です。教会はだれに伝道するか、だれの悩みや苦しみに寄り添い、助けるかの問題です。そのことについて、教会が差別してはいけないということです。「イエス・キリストはすべての人の主」だからです。

しかも、イエスさまと神さまが区別されてはいますが、36節の「この方こそ、すべての人の主です」の「主」(ギリシア語「キュリオス」)は、神ご自身、あるいは神と等しい存在を指します。したがって、「すべての人の〝主〟」を「すべての人の〝神〟」と言い換えても趣旨に変更は生じません。イエス・キリストにおいてご自身を啓示された神は、人を分け隔てなさいません。

しかも、「イエス・キリストはすべての人の主である」と言われる場合の「すべての人」はキリスト者に限らず、という意味を含んでいます。これも教会の宣教にかかわる問題であることをわたしたちは忘れてはなりません。教会はキリスト者の専有物ではありません。わたしたちは信じているから(because)教会に通うのではなく、信じるために(in order to)教会に通うからです。信仰に至っていない人や、疑いだらけで信じきれない人に居場所がないようなところは「教会」ではありません。

ここまでが今日の聖書箇所の説明です。これから申し上げるのは一冊の本の紹介です。日本語版は2014年10月に発売されましたので、すでにお読みになった方がおられるかもしれません。

昨年亡くなられましたが、アメリカの宗教社会学者ロドニー・スターク教授(Prof. Dr. Rodney Stark [1934-2022])の『キリスト教とローマ帝国』(穐田信子訳、新教出版社、2014年)です。本書の主題は、西暦1世紀にパレスチナの片田舎で産声を上げたキリスト教が西暦4世紀(392年)にローマ帝国の「国教」になった理由は何か、です。その問題をスターク教授は統計学を駆使して解明しました。

それを今日取り上げるのは、特に年頭に際し、わたしたちの「これからの」宣教にとって大いに参考になると思うからです。

スターク教授によると、紀元40年のキリスト者人口はわずか1000人でした。ちょうど今日の聖書の箇所の頃です。ローマ帝国の総人口における比率は0.002パーセント。

しかし、紀元100年に7,530人(0.0013%)、紀元150年には40,496人(0.07%)、紀元200年に217,795人(0.36%)、紀元250年に1,171,356人(1.9%)、紀元300年には6,299,832人(10.5%)、そして「国教化」目前の紀元350年には33,882,008人(56.5%)になりました。

大事なことは、数字そのものよりも「なぜ増えたのか」です。その理由としてスターク教授が挙げているのが、紀元165年を発端として西暦2世紀のローマ帝国に襲い掛かった「ガレン(ガレノス)の疫病」です。死者総数に諸説ありますが、スターク教授は「ローマ帝国の人口の4分の1から3分の1が死滅した」という説に説得力があるとします。この疫病の流行のピーク時には、ローマだけで1日に5千人死んだという報告があるほどの大惨事でした。

その悲惨な状況の中でキリスト者による病者の看護が目覚ましかった、というのが本書の結論です。キリスト者は「死を恐れない」信仰を持っていたので、自分が疫病に感染する危険をいとわず、果敢に病者に近づき、病者がキリスト者であろうとなかろうと分け隔てせず、その人の口に忍耐強くスープを運び、とりなしの祈りをささげたので、その手厚い看護によってキリスト者生存率が高まり、また配偶者を疫病で失った異教徒が手厚い看護をしてくれたキリスト者に愛情を抱き、再婚したり、新しい配偶者が信じているキリスト教へ改宗したりしたため、キリスト者の人口が増えたという結論です。特に、キリスト者女性の働きは目覚ましいものでした。

キリスト者が「増えた」理由はまだあります。キリスト者は「子だくさん」でした。そのことがなぜ異教徒との差になるのかといえば、この時代のギリシア・ローマ世界において生まれた子どもの選別(間引きや中絶)をするのが当たり前だったからです。特に、女の子と障がいを持って生まれた子どもが対象とされました。しかし、キリスト者はそれを断固として禁じ、拒否し、生まれた子どもはすべて受け入れて育てたので、異教徒よりも人口が増えた、という結論です。

もうひとつの大事な点は、「キリスト者はユダヤ人伝道に成功した」という分析です(67頁以下)。キリスト者はユダヤ人への宣教を断念しなかったし、ユダヤ人の中からキリスト教へ改宗する人々が大勢いたことも「増えた」理由であるとします。ユダヤ人は西暦2世紀に国土を完全に失い、世界各地への離散の民(ディアスポラ)になりますが、長い伝統に基づくユダヤ人ネットワークがありました。そのユダヤ人ネットワークの中で、旧約聖書を捨てなくてよく、新約聖書を加えればよいキリスト教への改宗の動きが拡大した、というのです。(以上、関口による要約)

今のわたしたちにとって大いに参考になるではありませんか。神が人を分け隔てしないのですから、わたしたちも人を分け隔てすべきではありません。今はコロナ、戦争、不況の時代です。キリスト者であろうとなかろうと、手厚くもてなし、看護し、性別や障がいの差別などは断固拒否し、命を大切にし、互いに愛し合い、多種多様なネットワークを用いて広く深く永続的なかかわりを築いていくこと。

それこそがわたしたちの「これからの」宣教の目標です。古代教会の歩みから学ぶことは多いです。

(2023年1月8日 聖日礼拝)

2023年1月1日日曜日

新しい希望(2023年1月1日 元旦礼拝・新年礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌第二編152番 古いものはみな(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「新しい希望」

ローマの信徒への手紙12章1~8節

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

今日開いていただいたのはローマの信徒への手紙12章1節から8節です。この箇所から新しい部分が始まります。15章13節まで続き、その後、個人的な知らせと挨拶があります。

「ローマの信徒への手紙は8章まで読めばよい。9章以下は余計な部分で、12章以下は問題外だ」という読み方をする人たちを、私は知っています。

「イエス・キリストの十字架の愛の本質は無条件の赦しである。しかし、ローマ書12章以下には、キリスト者はどうあるべきだ、こうすべきだと細かい指示を伴う行動原理が記されている。それを受け容れたら、新たなる律法主義になるではないか。」

それは言い過ぎです。ローマ書12章以下のキリスト者の行動原理は、信仰義認の教えにとって重要な意味を持ちます。罪人を義と認めて受容してくださる神は、わたしたちを罪と悲惨の中に置き去りにされません。そのほうがはるかに冷たいです。

神はわたしたちを、神の前で誠実に生きる、神の義にかなう証し人へとつくりかえることを望んでおられます。神は応答(レスポンス)を求めておられます。イエス・キリストの十字架の愛によって罪赦されたわたしたちが神の恵みに応答すること(レスポンシビリティ=「責任」)を求めておられます。

もっともパウロは、12章以下の内容を体系的に記していません。大雑把にとらえれば、12章は個人的な生活を扱い、13 章は市民としての義務を扱い、第14 章はメンバーとしての義務を扱っていると言えなくはありません。しかし、パウロ自身がその順序で書こうと構想を練ったとは考えにくいです。

それでも結果的に、ある程度の図式化が可能なのは、出発点が明確だからです。この言葉が語られた状況は、おそらく主の日の礼拝です。礼拝の説教です。そこを出発点とし、説教者自身を含めてすべての人が、自分の家へと、社会へと、国へと出ていき、入り込み、あらゆることにたずさわります。

その意味で、主の日の礼拝は「扇の要」(おおぎのかなめ)です。キリスト者が主の日の礼拝を中心に広がっていく様子が描かれていると考えることができます。だからと言って個々人の行動が計画的に制限されることはありません。すべては自由です。わたしたちは神の操り人形ではありません。教会の中の「強い者」が「弱い者」を従わせることでもありません。

1節の「勧めます」(パラカレイン)の原意は「忠告する」とか「呼びかける」です。日本キリスト教団式文などの「勧告」も同じです。新約聖書では、祈りの助けを求めるときや、神の御心への応答を求めるときに用いられています。特にパウロの手紙で多く用いられています(Iテサロニケ4章1節、11節、5章14節、Iコリント1章10節など)。

「忠告」というかぎり、ある種の命令性があることは確かです。民主的な社会に生きている私たちは命令口調に敏感です。すぐに警戒心を抱きます。ですから、パウロが用いているこの言葉の意味を十分に考え抜く必要があります。表現は難しいです。

「勧める」とは、ある人が他の人に命令することではありません。「神がそのことを命じておられる」と人に告げることを神から委ねられた人の口を通しての、神ご自身による呼びかけが「勧告」です。多くの場合、「兄弟たち」に呼びかけるのは使徒です。しかし、使徒でない教会員にも、忠告(勧告)の賜物が与えられることがあります(8 節)。

キリスト者の生き方の内容は、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる」ことです。印象的なのは、「いけにえ」や「礼拝」という精神的な言葉が用いられていることです。

パウロの特徴と言えるのは「いけにえ」や「礼拝」という言葉を、旧約聖書における祭儀のイメージから移してくることです。「いけにえ」という言葉に旧約聖書の祭儀を思い起こさせる「神に喜ばれる」「聖なる」「生ける」という3 つの形容詞が結びつけられています。ユダヤ教では、生きたままの傷のない動物が神に献げられ、祭壇の上で屠られ、焼かれました。その香りは神に喜んでいただく甘い香りでした。わたしたちの体は、その動物の代わりです。

わたしたちがするのは自分の体を焼くことではありません。パウロが述べていることの背景にあるのは、肉体そのものは汚れた存在ではなく、罪が肉体の内面を汚すという教えです。しかしわたしたちは、イエス・キリストの十字架によって罪が取り除かれたので、肉体はきよくなりました。しかもそれは外面のきよさではなく、内面のきよさです。そのきよい体を神に献げることが求められています。

しかし、それはわたしたちにとっては、どこまで行っても「~と私は考える」としか言いようがありません。「わきまえる」(2節)は、自分でよく考えることです。新共同訳聖書では消えてしまいましたが、かつて長く広く用いられた口語訳聖書では「あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」と訳されていました。

この「霊的」を「合理的」と訳す例があります。なぜ「合理的」(理性にかなう)なのかといえば、神の御心は何なのかを結局最後は自分の頭と心で考えなくてはならないことを言わなくてはならないときです。わたしたちは神を信じるからと言って、理性が操られるわけではないからです。

内面のきよさが求められているのは、それが必ず私たちの行為と関係してくるからです。外面性をいくらつくろっても、内面が変わらないかぎり、何も変わりません。しかし内面が変われば、すべてが変わります。世間に調子を合わせるのではなく、神の御心は何か、何が善かを考え抜く、自分自身の内面に新しく生まれた行動原理に従って生きはじめるときに、わたしたちの人生も世界も変わります。

新約聖書に描かれている初代教会には、まだ「役職」などは存在せず、みんな平等で、他を圧倒する人はいなかったと言われることがあります。もしそれが事実なら、パウロが記している「(わたしが)あなたがたに勧めます」は、正当な権限を与えられているわけでもないのに自分の思い込みで一方的に威嚇しているだけであるかのようです。しかし、それはおかしいです。パウロは明らかに、教会が公式に認めた使徒的権威において語っています。初代教会においてすでに役職があったのです。

使徒の職務以外にも多くの役職がありました。7 節と 8 節に役職名がリストアップされています。それをパウロは「霊的賜物」(カリスマ)と呼んでいます。教会で役職につくことは、尊大になることの反対です。この世的な役職と同じ意味はありませんので、出世とか昇進とか栄転とか左遷とか、そういう考え方を断じて持ち込むべきではありません。

しかし、それではなぜ教会に役職が必要なのかといえば、私たちは神から与えられた恵み(カリス)の賜物(カリスマ)を無視する危険があるからです。人は自分のことを軽視しすぎることがあります。いばる必要は全くありません。しかし、自分には存在意義も価値もないと思い込むのも危険です。自分に与えられた恵みの賜物への過大評価も過小評価もどちらも危険です。

しかも、自分の価値は自分では分からないものです。だからこそ、(健全な)教会の交わりの中に自分の身を置く必要があります。そうすれば、生きる意味が分かります。存在への勇気(Courage to be)が与えられます。

本日の説教題「新しい希望」の意味は、いま最後に申し上げたことです。ぜひ教会の交わりに入ってください。教会の奉仕に参加してください。それが「生きがい」になります。「生きていてよかった」と言える人生になります。

今年もどうかよろしくお願いいたします。

(2023年1月1日 元旦礼拝・新年礼拝)