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2024年6月23日日曜日

広く大きな救い

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「広く大きな救い」

エフェソの信徒への手紙2章11~22節

関口 康

「〔キリストは〕二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(14-15節)

先週日曜日の午後に東武線とつくばエクスプレスを乗り継いで浅草教会に行きました。私以外に足立梅田教会から3名の方。教会に落語家を招いて寄席をするという。わたしたちはいちばん前に座りました。

もうひとかた、足立梅田教会の元会員の方がお見えになりました。その5人で寄席の帰りに浅草で作戦会議。楽しく過ごしました。

落語家さんは、牧師館に戻ってネットで調べたら、1953年6月、群馬の前橋生まれ、71歳。私の父も前橋生まれなので親近感がわきました。私の血の半分は群馬産です。

落語そのものは「面白くないことはない」ぐらいでしたが、「第2部」だという余興で始めたのが「懐かしのスーパーヒーローに早変わり」という演目。何を始めるのかと思えば、重ね着した服を一枚ずつ脱いでいく。最初が星飛雄馬、次がエイトマン、最後が月光仮面。

落語の内容は、あとで調べたら「鮫講釈(さめこうしゃく)」という演題の古典落語。

伊勢神宮(現在の三重県)に全国から人が集まってお参りする。熱田(現在の名古屋)から伊勢まで行く渡し船が、桑名の沖で多くの鮫に囲まれて動かなくなった。

船の中にひとりの講釈師がいた。その講釈師が「今生の名残に一席やらせてほしい」と涙ながらに訴えた。最期だからいろんな講話をいっぺんにしたいと「五目講釈」をすると言い出す。赤穂浪士の大石内蔵助と、大岡越前と、牛若丸(源義経)と、武蔵坊弁慶が同時に出てくる、筋書きがめちゃくちゃな話を、扇子を船べり(落語では膝)にバタバタ叩きつけて話す。

すると鮫が逃げて行った。海の中で鮫同士が会話する。「なぜ講釈師ごときが怖くて逃げたのか」と尋ねる鮫がいた。「講釈師だったのか。船べりをあんまりバタバタ叩くので、かまぼこ屋かと思った」で終わる。

鮫はかまぼこの原料。かまぼこ屋が怖い。若い人たちは分からないオチかもしれません。

先週の報告のつもりでお話ししています。とにかく思ったのは、わたしたちも浅草教会さんを見習って、落語家を教会にお招きするようなことを本格的にしなくてはならないかもしれないなということです。

落語家さんがたも特にコロナ後たいへんなのだそうで。かなり自虐的に「週休5日制です」とか、「かつては北は北海道、南は沖縄で仕事をさせていただいたものですが、今では、北は北千住、南は南千住です」とおっしゃっていました。「仕事ください」と携帯電話の番号までみんなに教えてくださいました。そういう必死なところも見習わなくてはと思いました。

落語家を教会に招いて寄席を開く浅草教会さんに見習う。当然です。でも、それだけではない。プライドを捨てて「仕事ください」と言い出し、星飛雄馬にもエイトマンにも月光仮面にも変身する落語家さんにも見習う。そうでなくてはいけないなと思わされました。

今日の聖書のお話もしっかりしますので、ご安心ください。「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり」(11節)と記されています。

聖書はユダヤ人でない人のことを「異邦人」と呼びます。ユダヤ人かどうかの外見上のしるしは、割礼を受けているかどうかでした。割礼とは、要するに包茎手術です。そんなことを真顔で求められるのがユダヤ教だというわけです。

これもおかしな話で、女性に割礼は求められません。女性である時点でユダヤ人男性からは異邦人を見る目で見られるかもしれません。逆に、割礼を受ければ元異邦人でもユダヤ人になれる。その場合のユダヤ人はユダヤ教団の信徒を意味します。

なので、割礼を受けていない男性、割礼を受けるも受けないも関係ない女性は、神から遠いとみなされました。「しかし、あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(13節)の中で「遠い」とか「近い」とか言われているのは、神との関係です。

「体の一部を切り取る手術を受けた者は神に近づくことができるが、その手術を受けない者は神から遠いままである」というような言い方をすれば、ずいぶんとおかしな話だと多くの現代人が気づくでしょう。「指を詰める」という話と大差ありません。

私はユダヤ教徒を差別するつもりはありません。ヒトラーがしたことです。しかし、彼らの教えに問題が無いとは思いません。もし問題が無いのであれば、わたしたちも割礼を受けないかぎり神に近づくことはできません。女性は割礼を受けることができないわけですが。

エフェソの信徒への手紙を使徒パウロの真筆であることを認めない聖書学者が増えています。私が東京神学大学の神学生だった頃の新約聖書の教授の竹森眞佐一教授が講義の中でその問題を取り上げておっしゃった言葉を忘れられません。

「エペソ書の思想は、他のパウロ書簡と似ているということを否定する学者はいないんですよ。似てるんでしょ?だったら『パウロが書いた』でいいんですよ」とおっしゃいました。私もその線で「パウロが書いた」と言います。

パウロは異邦人伝道を生涯の仕事にした人です。そのパウロが今日の箇所に書いているのは、「我々は神に近い」とか「あの人たちは神から遠い」とか言って、結局のところ、人を宗教的に見下げるようなことをする人間の愚かさをご存じの神が、愛する独り子イエス・キリストを世に遣わしてくださり、イエスさまは十字架の上で血を流して死んでくださった、そのおかげで教会内で対立していた人々を、神が和解させたという話です。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(14~15節)。

これはユダヤ教団とキリスト教会の対立の話ではなく、キリスト教会内部の話です。元ユダヤ教徒で割礼を受けた後キリスト教の洗礼を受けた人たちと、元異教徒で割礼を受けたことがないままでキリスト教の洗礼を受けた人たちとで、神からの距離に差があるという議論が教会内部で起こったので、パウロはそんな愚かな話はないと、口を酸っぱくして言い続けたのです。

しかし、今の日本の教会で、割礼を受けるべきかどうかという議論が起こることはまず無いし、少なくとも私は寡聞にして知りません。なので、もう少し別の文脈で考えないと今日の聖書箇所の意味が私たちには理解できません。

キリスト教も戒律ずくめの形で教え込まれる可能性があります。学校を悪く言うつもりはありません。しかし、学校式の教え方にはどうしても命令の要素が加わります。遅刻してはいけない、おしゃべりしてはいけない、居眠りしてはいけない、無断欠席はいけない。ルールを守れないと減点。罰則主義。

熱心な信徒が自分の子どもに信仰を伝えるときも、命令的になりがちです。私も子どもたちにはずいぶん命令しました。自分は命令されるのが誰よりも嫌いなのに。

子どもたちは反発します。おとなだって反発します。命令を正当化する宗教があるなら、その宗教の神に敵意を抱く。反逆する。必然的な帰結です。しかし、その敵意を罰するのではなく、神の御子の肉体で受け止め、抱きしめ、敵意を無効化して愛するためのキリストの十字架なのだとパウロは言います。何とも言えない気持ちにさせられます。

神の救いは広くて大きいのです。教会が「伝道しましょう、多くの人に教会に来て欲しいです」と言いながらやたら高い壁を作って、これを乗り越えることができた人だけ仲間に入れてあげると言っているかのようなのは矛盾です。

「こうでなければキリスト者でない、こうでなければ教会でない」と、決めごとが多くないほうがいいです。なるべく自由でありたい。

壁をぶっ壊そうではありませんか。牧師が月光仮面になってバイクで駆け回るぐらいで、ちょうどいいのです。

(2024年6月23日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)

2015年11月22日日曜日

神に倣う者(松戸小金原教会)

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
エフェソの信徒への手紙5・1~5

「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」

今日からエフェソの信徒への手紙の5章に入ります。全部で6章ある手紙ですので、残りあと3分の1です。12月末で学び終えることができるようにスケジュールを組みました。この手紙の最後まで、共に学ばせていただきたいと願っています。

しかし、いまお読みしました個所は、新共同訳聖書をご覧になればお分かりいただけますが、4章の終わりで話題が途切れていませんので、段落が区切られていません。それは先週学んだ4章25節からの話題が続いていることを意味しています。本当は今日のような読み方をしてはいけないのかもしれません。とにかく了解しておくべきことは、すべては前回の個所の続きであるということです。

前回の個所に付けられている小見出しは「新しい生き方」でした。そういう内容のことが、今日の個所にも続いていると考えてください。しかし、新共同訳聖書の小見出しは元々のギリシア語原文に最初からあったわけではなく、あとから便宜的につけられたものです。このタイトルが不適切であるというような考えがあれば、別のタイトルをつけても、もちろん構いません。そのようなことも申し上げておく必要があるでしょう。

しかし、その前の段落の小見出しが「古い生き方を捨てる」であり、その「古い生き方」との対比を意図して「新しい生き方」という小見出しがつけられたことは明らかです。しかしまた、やや気をつけなければならないことは、この段落に「新しい生き方」という言葉そのものは出てこないということです。

それが出てくるのは、さらにその前の段落です。「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け」(4:22-23)。

今申し上げているのは大事な点です。「新しい生き方」という段落には出てこない「新しい」という言葉がその前の段落に出てきますが、「新しい生き方」でなく「新しい人」を「身に着け」と書かれています。その前には「古い人を脱ぎ捨て」と書かれています。「古い生き方」とは書かれていません。

ここでわたしたちが気づく必要があるのは、ここで言われている「新しい生き方」とは、「自分の力で自分が変わる」ということとは全く違うということです。そうではなくて、外から身に着けるものです。「新しい人を身に着ける」のです。

この「身に着ける」は自分が生まれながらに持っている性質や才能を育て、伸ばすことによって、自覚や考え方の方向性を換えるといったこととは違うことです。文字どおり服を着るように、まとうこと、羽織ることです。着用です。つまり、ここで「新しい人」とは、元々の私に、外からプラスされるものです。

この説明だけで聖書の人間理解、キリスト教の人間理解のすべてを語り尽くすことはできないかもしれません。しかし、そのようなことが少なくともこの個所に確かに書かれています。

言い方を換えれば、「自分が頑張りました。自分で頑張りました。自分で自分を変えました」と言い続けている間は何一つ「新しい生き方」になっていないし、「新しい人」を着ていません。「古い生き方」の「古い人」のままです。こういうふうに言い直せば皆さんにとって少しはピンとくるものがあるかもしれません。

生まれた時から先天的に与えられている性質や才能を育て、伸ばすことが間違っていると言いたいわけではありません。それは正しいことであり、必要なことであり、大事なことです。しかし、そのような方法でうまく行くのは、たぶん若いうちだけです。教会で年齢の話をするのはかなり慎重でなければならないと思いますが、私も先週50歳になりました。上り坂ではなく、下り坂です。そのことを謙虚に認める必要があります。

しかし、がっかりする必要はありませんし、どうかがっかりしないでください。聖書に教えられている意味の「新しい生き方」とは、自分の持って生まれた才能を育て、伸ばすことによって得られるようなものではないからです。天賦の才能のようなものは、年齢と共に失われます。しかし、それを失ったからといって、わたしたちの人生が終わるわけではありません。

それどころかむしろ、「私が頑張っている。私が頑張ってきた。私の力で私を変える」。そういうことが何ひとつ言えなくなったその日から「新しい生き方」が始まるのです。なぜなら「新しい生き方」とは100パーセント神さまから与えられるものだからです。自分の力で手を伸ばしてつかみとるものではないからです。

私が頑張った、自分の力で手に入れたと思っているものは、失うのが怖いでしょう。自分より力をつけてきた他の人々に、いつでも奪われる恐れがあるでしょう。しかし、「新しい人」はそのようなものではありません。

「新しい人」を得るために、努力は必要ありません。しかも、すべて無料(ただ)です。願えば、だれでもいただけます。その意味では無差別です。無料で、無差別でだれでもいただけるものというのは一般的には価値が無いものだとみなされるはずです。見せびらかすことの意味がありませんので。「それは無料ですよね。だれでももらえるものですよね」と言われてしまうようなものを、わざわざ見せびらかす人はいません。

しかし、神さまが与えてくださる「新しい人」とは、そういうものです。一般的には無価値なものです。人との差を競う思いの反対です。そういうのはすべて「古い生き方」であり、「古い人」です。そして、ここで重要なことは、その「古い人」はわたしたちの中に死ぬまで残り続けるものだということです。それを否定することはできません。「古い人」を「脱ぎ捨て……なければなりません」と書かれてはいますが、完全に脱ぎ捨てることができないからこそ、「……なければならない」のです。

しかし、その脱ぎ捨てようとしても脱ぎ捨てきれない「古い人」の上に「神にかたどって造られた新しい人」を「身に着ける」ことが勧められています。「古い人」と「新しい人」は重ね着が可能なのです。「あなたがその古い人を脱ぐまで待っています。新しい人を着るのは、それまでお預けです」と神さまから言われてしまうようなら、だれもそれを着ることはできません。

重ね着感がよく表されていたのが、先週の個所の「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」でしょう。すぐに腹を立てるのはクリスチャンらしくないとか言われてしまうでしょう。でも、腹が立つことはだれにだってあるでしょう。先週の個所では、腹を立てること自体は禁止されていませんでした。しかし、日が暮れるまでには落ち着きなさいよという意味のことが言われていました。

「古い人」がいつまでもちらちら見え隠れする。「新しい人」は「古い人」の上から重ね着しているだけです。それでいいのです。それ以外の道はないのです。

今日の個所の「神に倣う者となる」は「神にかたどって造られた新しい人を身に着け(る)」(4:24)と同じ意味です。そうでなければ理解不可能です。

「倣う」とは真似することですので、「神さまの真似をしなさい」という意味になりますが、神さまではありえないわたしたち人間が神さまを真似することなどできっこない。どうしたらいいのかと、ただ戸惑うばかりです。

しかし、その「神に倣う」というわたしたち人間には不可能なことを神さまが可能にしてくださるのです。神の「何」に倣うのかといえば、ここで言われているのは「赦し」と「愛」です。「赦し」のほうは「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(4:32)です。

「愛」のほうは「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(5:2)です。「赦し」も「愛」も、神さまが、キリストにおいて、わたしたちにしてくださったことです。

つまり、「神に倣う者となる」とは「神さまはわたしたちの罪を赦してくださったでしょ、神さまのひとり子であるイエス・キリストの命をくださるほどまでにわたしたちを愛してくださったでしょ、だからわたしたちも互いに赦し合い、愛し合わなくてはなりませんよね」ということです。

わたしたちがどれほど神さまの真似をしても、わたしたち自身が神さまになるわけではありません。わたしたちにできるのは、神さまがわたしたちにしてくださった無条件の「赦し」と犠牲的な「愛」の道筋の真似をして、人を赦し、人を愛すことを諦めずに続けていくことですよね、という話です。

残る問題は、これらのことをわたしたちがどれくらい自分のこととして真剣に考えることができるかです。それが実はいちばん難しいことです。「互いに愛し合いなさい」とか「互いに赦し合いなさい」とか何度言われても、自分のことにならず、他人事のように思えてしまう。むなしい思いが消えない。心の中で「あかんべえ」と舌を出している。

それでもいいですし、そういうものですよ、という話です。「重ね着」でいいのです。

(2015年11月22日、松戸小金原教会主日礼拝)

2015年10月18日日曜日

平和のきずな(松戸小金原教会)

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
エフェソの信徒への手紙4・1~6

「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」

今お読みしました個所に記されているのは、すべて教会のことです。すでに学んだ個所に書かれていたのは「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(1:23)でした。教会は「キリストの体」です。キリストは教会の頭(かしら)です。

頭と体は切り離すことができない、切り離してはならない関係です。切り離すと、両方とも死んでしまいます。キリストと教会の関係も同様です。ただし、キリストと教会の関係は、肉体的な関係というより霊的な関係です。キリストから離れた教会は霊的に死んでしまいます。

しかし、キリストと教会の関係は、父なる神がイエス・キリストにおいて聖霊によって生み出してくださった特別な関係です。教会がキリストにしがみつくことによって、いまにも壊れそうな関係を必死で維持しているというようなものではありません。神がわたしたちを招いてくださったのです。

もちろんその関係は、神の招きがなければ成立しないものであるとも言えます。神が招いておられもしないのにわたしたちの側で必死にしがみついているというような関係ではありません。しかし、心配する必要はありません。もしわたしたちの中に、ほんの少しでも「信仰」が与えられているならば、神はわたしたちを必ず招いてくださっています。たとえその「信仰」が、遠い過去にほんの一瞬感じた程度のことであるとしても。

なぜそのように言えるかといえば「信仰」もまた「神の賜物」だからです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(2:8)と書かれているとおりです。神は御自身が招いてくださる人々に「信仰」を与えてくださるのです。

聖書が教える「信仰」の意味は、わたしたち人間が生まれつき持っている遺伝的な性質とは異なるものです。すべての人が持っていると言われる宗教心や信心とは異なるものです。聖書が教える意味の「信仰」は、わたしたちが生まれたあとに、外から与えられるものです。

だからこそ、その点においては「ユダヤ人」も「異邦人」も、差がありません。聖書の神を信じる家庭に生まれた子どもたちも、そうでない家庭に生まれた子どもたちも、差がありません。すべての人は、生まれたあとに、外から信仰を与えられます。信仰は聖書から学ぶものです。

「私の親は熱心な信者で、私はその家に生まれた者です。だから私はいまさらわざわざ聖書を学ぶ必要はありません」と言うことができる人は誰もいません。もちろん家庭環境の中で自然に身につく要素が全く無いと言いたいのではありません。しかし、だからといって、聖書を学ぶ必要はないし、教会に通う必要はないと言ってもよい理由にはなりません。

なぜこのようなことを強調しなければならないかといえば、今わたしたちの教会で始めようとしていることと関係あるからです。幼児洗礼を受けた方が信仰告白のための準備として勉強会を始めようとしています。幼児洗礼は、本人の自覚も意志も、そして信仰もない状態で授けられた洗礼です。

そのような洗礼は無意味だということにはなりません。幼児洗礼は、十分な洗礼です。半分の洗礼でもなければ、不十分な洗礼でもありません。しかし、本人に信仰のない洗礼であることは確実です。「信仰なき洗礼」というのは矛盾であると思われる方がおられるかもしれませんが、そのような洗礼をわたしたちは、何の躊躇もなく積極的に行っています。だからこそ、その人は洗礼をもう一度受け直すのではない仕方で、自分の心と口で信仰を告白することが、あとから必要になるのです。

それは二度手間だ、どのみち自分で信仰を告白することを求めるのであれば最初から幼児洗礼など授けなければよいという話にもなりません。幼児洗礼は、授けられた本人にとってよりも、親と教会にとって重要な意味があります。それは聖書に基づいて子どもに信仰を教える約束をすることです。

もちろん実際には子どもたちは親と教会の願いどおりにならないことのほうが多いです。しかし、そこから先は神にお任せしましょう。幼児洗礼は、子どもたちを親と教会の手下にする手段ではありません。子どもが親の思いどおりにならないのは当たり前です。

子どもは親の人形ではありません。教会の人形でもありません。親も、教会も、そして子どもたちも「神から招かれている」存在です。人を招くのは神です。人に信仰を与えるのは神です。人を救うのは神です。親も、教会も、神ではありません。

幼児洗礼を受けた子どもたちだけの話ではありません。すべての大人たちも同様です。もちろん、実際にわたしたちが教会に初めて来たときに体験したことは、目の前に教会の建物があった、チラシを見た、教会の人に誘われた、など様々です。しかし、そのことを教会はいつまでも恩着せがましく言うべきではありません。

なぜなら、すべての教会と教会員は「神から招かれている」(1節)存在だからです。教会の中心におられる、教会の主宰者は神です。そのことを忘れてしまい、わたしたちの思い通りにならない人を教会から排除するようなことがあってはなりません。

次の通りです。「そこで主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(1-3節)。

大事なのは「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」という点です。「招く」とは招待することです。教会に集まるすべての人は、神御自身の招待客です。例外はありません。牧師も長老も同じです。「私は招く側であって招かれる側ではない」と言える人は一人もいません。

この点で間違いを犯しやすいのは、牧師や長老かもしれません。だからこそ、私はこの点を強調しなくてはなりません。「私は招く側であって招かれる側ではない」と思い込んだ途端にあっという間に傲慢の落とし穴に落ちるでしょう。

神がこの私を忍耐と寛容の御心をもって招いてくださり、愛してくださり、受け容れてくださったのです。神は、この私を受け容れてくださったうえで忍耐しておられるのです。この私の存在を我慢してくださっているのです。ちっとも言うことを聞かない、思い通りにならないこの私のことを。

教会が「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努める」ことにとって最大の障害は、わたしたちがいつの間にか神の招きによって教会に受け容れられた存在であることを忘れてしまうことです。わたしたち自身が教会のヌシになり、来てもらいたい人と、来てもらいたくない人とを選別しはじめることです。

イエスさまはそのような方ではありません。社会の中でつまはじきにされていたような人々をこそ、イエスさまは招いてくださり、弟子にしてくださったではありませんか。わたしたちもそうだったでしょう。すべての人がそうでした。神から招かれるにふさわしい生き方をしていたから招かれた、という人は、一人もいません。

生まれる前から信仰を持っている人はいません。それは、生まれる前から聖霊を与えられている人はいないと言うのと同じです。生まれる前から教会に通っているという人はいます。お母さんのお腹の中にいるときから、お母さんと一緒に教会に来ていたという人はいます。しかし、そうである人が自動的に信仰をもつわけではありません。

すべての人は教会にあとから加えられた人です。神から招かれた人です。そのようなわたしたちが「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つ」ことができる根拠は、キリストという頭(かしら)のもとにある体の一部に加えていただいたという信仰です。

「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてものを通して働き、すべてのものの内におられます」(4-6節)。

このように書かれていることは、あるいは私の説明は、抽象的で理屈っぽいでしょうか。頭の中で考えただけの空想の教会であって、現実の教会とはかけ離れているでしょうか。もしかしたら、そのような面があるかもしれませんが、そのようにだけ言って済ませることはできないと思います。

と言いますのは、この個所の主旨として最も大事なのは、どうやら、現実の教会が陥りやすい傲慢の落とし穴に陥らないようにしなさいという戒めの側面だと思われるからです。

この個所に書かれていることがわたしたちにとって、なるほど理想的かもしれないが現実の教会からかけ離れていると感じるようなことであればこそ、わたしたちがしなければならないのは、その理想的な教会と現実の教会を見比べて、現実の教会のどこが間違っているのかを反省してみることです。

しかし、「わたしたちは神から招かれた」という言葉そのものは、わたしたちにとって何度言われてもぴんと来ないものではないかとも思います。これは私の個人的な感想です。何度言われてもぴんと来ない。何を言われているのかよく分からない。おそらく、神という方がわたしたちの目に見えないお方であることと、どうやらそれは関係しています。

チラシを見て関心をもった、教会の中のだれかに誘われた、だれの魅力にひかれて教会に来ている、というような話のほうが、よほど具体的で分かりやすいと私も思います。それはマザー・テレサかもしれませんし、三浦綾子さんかもしれない。「神から招かれた」という話よりも、よほど分かりやすい説明です。その気持ちは、私にも十分に分かります。

しかし、そこでわたしたちは、あえて踏みとどまらなければなりません。人ではなく、神がわたしを招いてくださった。人は神が私を神と教会へと招いてくださるために遣わされた存在であると考えて、納得する。そのことにわたしたちは、固くとどまるべきです。教会の頭は、人ではなくキリストです。教会は「キリストの体」です。

(2015年10月18日、松戸小金原教会主日礼拝)

2015年1月1日木曜日

2015年 新年礼拝説教

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
PDF版はここをクリックしてください

エフェソの信徒への手紙6・10~20

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」

新年あけましておめでとうございます。今年もどうかよろしくお願いいたします。

このところ毎年の新年礼拝で、教会の一年間の目標とする聖句(目標聖句)の解説をさせていただいています。

12月の定期小会で相談した結果、2015年度の目標聖句を「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(エフェソの信徒への手紙6・10)に決めました。今月1月25日の定期会員総会で承認していただきたいと願っています。

この聖句を今年の目標聖句にしましょうと提案したのは私です。もちろん理由がありました。教会はどのような力によって立っているのかを、改めて深く考える一年になることを願ったからです。

その答えがこの聖句に明言されています。教会は「主の偉大な力」によって強くされて立っているのです。「主」とは神です。教会は「神の力」で立っています。

そんなことは当たり前だ、キリスト教のイロハである、何を今さらこのことを強調する必要があるのかと思われるかもしれません。しかし、当たり前のことだからこそ、真剣に考えましょう。

「いや、そうではない。教会は人間の努力によっても立っている」。そういうふうに考えることは、もちろんできます。そのことを私は否定しません。そして、そのことは聖書の中でも否定されていません。11節以下を読めば、聖書が人間の努力を否定していないことが分かります。

「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(11節)と記されています。神の武具を身に着けるのはわたしたちです。教会です。

そして、そのわたしたちが神の武具を身に着けて何をするのかというと、「悪魔の策略に対抗して立つことができるようにする」のです。悪魔の策略に対抗して立つのもわたしたちです。教会です。

悪魔の策略に対抗することも、立つことも、わたしたち以外の誰かがやってくれるわけではありません。わたしたち自身は戦わないし、自分で立とうとはしないが、わたしたちの代わりに神が戦ってくださり、教会を立ててくださるという話ではないのです。

「神の武具」の具体的な種類が14節以下に書かれています。

「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。…救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」。

ここに出て来るのは、帯、胸当て、履物、盾、兜、剣です。こちらのほうだけ読めば、古代の軍人が鎧を着用した姿を思い浮かべることができます。しかし、これらすべてはたとえです。ここに書いてあるとおりのことをイメージするとしたら、この人は丸腰です。

帯くらいは締め、履物くらいは履いているかもしれません。しかし、胸当ても、盾も、兜も、剣も、目に見える形のものは持っていません。全くの裸ではないかもしれませんが、堅い金属のよろいではなく、ごく普通の服を着た人の姿でしかありません。

つまり、ここに描かれているのは武装した軍人の姿ではなく、文字通り丸腰の、完全なる一般市民の姿です。真理も、正義も、平和の福音を告げる準備も、信仰も、救いも、神の言葉も、わたしたちの目に見えないものだからです。

「それで何ができるのか」と思われるかもしれません。現実の武器や凶器を持った人もいる危険な世界の中に丸腰で出かけるのは、自ら死にに行くようなものではないかと思われるかもしれません。

しかし、教会とはそういうところなのです。わたしたちは「主の偉大な力」によって、すなわち「神の力」によって立っているのです。

教会では牧師だけではなく、長老や日曜学校の先生が聖書のお話をしてくださっています。また、聖書のお話をする人だけがいても、教会は成り立ちません。話を聞いてくださる人がいなければ、教会は成り立ちません。

言葉とはそういうものです。コミュニケーションです。キャッチボールです。相手がいない話は独り言です。独り言も言葉ではあります。しかし、そればかり続けていると虚しくなってきます。

「牧師の説教だけで教会が立っているわけではありません、そんなことはありえません」ということを言いたくて、今の点を付け加えました。教会の全員が神の言葉を宣べ伝えるために奉仕するのが教会です。

しかし、その神の言葉は、わたしたちの目に見えないものでもあります。何が、どんな力が、教会を立てているのかを、わたしたちは目で見ることができないのです。目に見えない神の力によって、神の言葉の力によって、教会は立っているのです。

「主に依り頼み」については説明が必要です。原文に「依り頼み」という表現は見当たりません。原文は「主にあって」(エン・キュリオー)です。「に依り頼み」は、訳者が補った表現です。

意味として間違っているわけではありません。しかし、今年の目標聖句の強調点は、原文にない「依り頼み」のほうではなく、後半の「その偉大な力によって強くなりなさい」のほうにあります。

教会は「神の力」によって強くなります。「神の力」で立っています。それは、神の言葉であり、聖書であり、説教であり、信仰です。

そこがおろそかにされたり、ないがしろにされたりすると教会は弱くなります。しかし逆に、そこが重んじられれば、教会は強くなります。

そのことを今年はぜひ深く考えたいと願っています。

(2015年1月1日、松戸小金原教会新年礼拝)