2013年11月29日金曜日

二重予定論をファン・ルーラーはどのように受けとめたか

つい先ほどのことですが、京都在住の神学生の方からツイッターでご質問をいただきましたので、ツイッターでお答えしました。

質問は「二重予定論をファン・ルーラーや現代の改革派神学者はどのように受けとめているか」です。ぼくからの返信内容を以下にまとめておきます。ツイッターの性質上、粗い回答であることは、どうかお許しください。

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ご質問ありがとうございます。

二重予定論は、バルト(主義者)と非バルト的改革派神学者とで、思想構造が全く違うことは明白です。ご承知のとおりバルトは「神は、イエス・キリストを遺棄に定めることによって、人間(全人類)を救いに定めた」という二重予定的万人救済論です。

このバルトの二重予定的万人救済論は、説教とかでしゃべりやすいし、とっても耳触りがいいので、20世紀の中盤から終盤にかけて、すっかりもてはやされましたが、どうも詭弁くささがぬぐえません。非バルト的な改革派神学者は、彼の二重予定論に立つことはできません。

さりとて、現代の(非バルト的な)改革派神学者は、16世紀のカルヴァンの「プリミティヴな」二重予定論のテキストをコピーして配布して、「これを受け容れなさい。そうすれば、きみも改革派教会のメンバーになれるからね」と言っているだけでもありません。

カルヴァンのいわゆる絶対的予定論(神が仁王立ちして人をヤギとヒツジに分けるの図)の危険性を最も早期に認識し、立ち向かう必要を自覚したのは、アルミニウスとその支持者(レモンストラント)です。レモンストラントとの論争の中で改革派教会は二重予定論の改善を続けてきました。

それで質問への答えですが、たとえばファン・ルーラーは二重予定論をどう考えたか。カルヴァン同様、あの人この人が選ばれているかどうかは「経験」で認識できるという立場でした。しかし、彼にとって重要な問題は、「永遠の選び」の永遠性は時間性とは矛盾するものだ、ということです。

我々がしばしば陥る罠は、「永遠の選び」と言いながら、それをまるで時間的な大昔のことであるかのようにイメージしているということです。ですが、「永遠」には過去も現在も未来もありません。「永遠」と「時間」は根本的に次元が違うのです。

ですから、ファン・ルーラーは先輩神学者ノールトマンスの「神はいちばん最後の瞬間に永遠のご決意をなさるのだ」という言葉に同意します。時間的な大昔に、ではなく、「いちばん最後の瞬間」に神の定めが明らかにされる。これはア・プリオリな決定論や運命論・宿命論とは異なる話です。

ぼくに分かるのはファン・ルーラーくらいです。他の現代の改革派神学者の二重予定論は分かりません。ファン・ルーラーの予定論テキストの一つを拙訳で公開していますので、ご一読いただけますとうれしいです。

「神の選び」(1958年)
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1958.html

ファン・ルーラーの二重予定論に対する見解を垣間見ることができるテキストの拙訳をもう一つ公開していますので、こちらもご一読いただけますと幸いです。

「ウルトラ改革派とリベラル派」の「3、予定理念からの論理的演繹」
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1970.html

とりあえず以上です。長々とすみませんでした。

お答えになっていないようでしたら、どうかお許しください。

神学の勉強がんばってください。心から応援しています。ご質問ありがとうございます!