2009年3月30日月曜日

「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(2)

バルトが大学教授になる前にはザーフェンヴィルで牧師をやっていたことは私も知っています。大学教授になってからもいわゆるバルメン宣言の起草などを通して教会に大きな影響を与えましたし、晩年のバルトは刑務所で説教したりしていました。

私がバルトを「教会に通わない神学者」であると呼ぶのは、これらの事実を全く知らないで言っていることではないつもりです。

私が問うていることは、神学者、とくにわざわざ『教会的な教義学』(キルヒェリッヒ・ドグマティーク)というタイトルの本を書いた「自称『教会的な』教義学者」が、それを書いている最中に教会に通っていなかったというのは、どういうことを意味するのだろうかということです。

ご承知のとおり(伝統的な)神学、とりわけ教義学には「教会論」(Ecclesiologie)という項目が不可避的に置かれることになっており、バルトの『教会的な教義学』にも「教会論」に該当する部分はありますし、非常に詳細な議論がなされてもいます。

しかしそれらの議論も「教会に通わないで」書かれていたというわけです。日曜日の礼拝には行かない。また、日本語で言えば教団や教区、大会や中会における「教会行政」などにも関与しない。 教会との関係という観点からいえばバルトは「フリーランスの神学者」であったと言えるでしょう。

したがって、バルトの語る「教会」は、深井さんの言葉を借りれば、本質的教会論であるということになるわけです。聖書と諸信条あたりを持ち出して「教会はこうあるべきだ」と本質論的に語る。そんな話は、やはり「絵に描いた餅」です。

そのようなバルトの議論を「無責任である」というような言葉で断罪するつもりはありませんが、あまりにも抽象的すぎるため、まともに傾聴するに値しないとは思います。

『教会的な教義学』というタイトルからして、これが「教会に通わない神学者」が自分の主力商品に付けた名前であるということになりますと、ギャグやジョークだったのか、あるいは皮肉たっぷりの当てこすりだったのかと勘繰りたくなります。

私は、仮にそれがギャグやジョークや当てこすりであったとしても、そのこと自体を悪いと言いたいのではありません。そうである可能性を知らない読者があまりにも多すぎるのではないかと言いたいのです。


2009年3月29日日曜日

真理を行う者は光の方に来る


ヨハネによる福音書3・19~21

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

今日を含めて四回(予告したよりも一回多く)、わたしたちの救い主イエス・キリストとユダヤ最高法院の議員ニコデモとの対話を学んできました。今日で一応最後にしますので、少しまとめのような話をいたします。しかし、最初に今日の個所に書かれているイエス・キリストの御言葉に注目していただきたく願っています。

こんなふうに書かれています。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」。これはどのような意味でしょうか。「光が世に来た」と言われている場合の「世」の意味については、先週かなり強調してお話ししたとおりです。途中の議論を全部省略して最初と最後だけくっつけて申せば、「世」とは要するに「世間」(せけん)のことです。わたしたちが日常生活を営んでいるこの地上の世界そのものと、わたしたちがかかわっているあらゆる人間関係そのものです。

その「世間」に来た「光」とは神の御子イエス・キリスト御自身です。「神は、その独り子を世にお与えになったほどに、世を愛された」(16節)のです。神が愛されたのは「世間」です。「俗」の字をつけて「俗世間」と言い換えても構いません。あるいは「世俗社会」でもよいでしょう。

神は、世俗社会と敵対するためにイエス・キリストをお与えになったのではありません。イエス・キリストを信じる者たちは俗世間に背を向けて生きることを求められているわけではありません。すべては正反対です。わたしたちに求められていることは、世間の真ん中で堂々と生きていくことです。世間の中に生きているすべての隣人を心から愛することです。そのことがわたしたちにできるようになるために、神は独り子イエス・キリストを与えてくださったのです。

別の言い方をしておきます。わたしたちが今立っているところは、絶望に満ちた暗闇ではありません。一寸先も闇ではありません。この地上にはすでに神の光が輝いています。わたしたちの歩むべき道もはっきり見えています。わたしたちに求められていることは、その道をとにかく歩み始めることです。

その道を歩んだ先はどこに行くのかも、教会に通っているわたしたちには分かります。教会には信仰の先輩たちがたくさんいるからです。すでに地上にいない、御国に召されている先輩たちもいます。わたしたちはその人々のことをよく憶えています。その人々の顔はひどく歪んでいたでしょうか。私にはそんなふうには見えませんでした。わたしたちはどんなふうになっていくのか皆目見当もつかない。全く路頭に迷う思いであるということがありうるでしょうか。そんなことはないはずです。

もちろんわたしたちには「あの人が幸せであることと、私がどうであるかは関係ない」と言って関係を遮断することもできます。「私の悩みは特別だ。他の人の悩みよりもひどい。私のことは誰にも分かってもらえない」と言って自分の殻に引きこもることもできます。しかしそれは勿体無いことです。また、少し厳しい言い方をすれば、それは罪深いことでもあります。それはイエス・キリストが「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」とおっしゃっているとおりです。

神の救いの光はすでに地上に届いている。わたしたちが歩むべき道もはっきりと見えている。しかし、それにもかかわらず、その光を見ようとしないこと、光の届かない物陰を探してその中に逃げ込もうとすること、そのようにして光を憎み、闇を好むことは、端的に言えば悪いことであり、罪深いことなのです。

しかしまた、よく考えてみれば、そもそもわたしたちにはその光から逃げおおせる場所があるわけでもないのです。聖書の真理から言えば、わたしたちの世界は一つしかありません。神は世界をただ一つだけ創造なさったのです。この世界は二つも三つもないのです。ですから、光から逃げて闇の中に閉じこもろうとしても、そこに光が追いかけてきます。光の世界から出て闇の世界に逃げ込めるわけではありません。一つの世界に光にさせば、闇は消えていくのです。神がその人をどこまでも追いかけていきます。その人の心の扉を叩いてくださる。それが神の御意志なのです。

続きに書かれていることも見ておきましょう。「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」。

これはすぐには理解できそうにない言葉です。ただ、ともかくこれは重要だと思えるのは「真理を行う者」が光の方に「来る」と言われている点です。神は「真理を行う者」が光の方に「来る」ことを望んでおられます。「来る」のはその人自身です。その時その人に求められるのは主体性です。神は人の心の扉をハンマーで叩き壊して無理やり突入するという暴力的な方法をお採りになりません!その人が自分で扉を開けるのを、神は待っておられるのです。

神が与えてくださった救い主イエス・キリストの光によってわたしたちが歩むべき道ははっきり見えていると、先ほど申しました。しかしそれは、鋼鉄のレールの上を無理やり転がらされることではありません。神を信じるということにおいても、信仰生活を営むということにおいても、人間の主体性はきちんと確保されるのです。わたしたちは無理やり連れて行かれるわけでも、やらされるわけでもないのです。そのことを「来る」という字に中に読み取ることができると思います。

しかしまた、そのとき、わたしたちは傲慢さに陥ることも許されていません。「真理を行う者」が光の方に「来た」ときにはっきり知らされることは、すべてのことは自分一人の努力によって達しえたことではなく、「神に導かれて」なされたことであるということです。光が来たときに闇の中に逃げ込もうとしたことも、しかしまた、逃げおおせることができないことを知って自ら扉を開ける決心をすることができたことも、です。そのことをわたしたちは、神無しに行ったのではなく、神と共に・神に導かれて、行ったのです。

ここから、これまでの四回分の話をまとめておきます。ニコデモに対してイエスさまがおっしゃったのは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」ということであり、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」ということでした。この二つの言葉は同じことが別の言葉で言いかえられているのです。

これについて私は、この文脈においてイエスさまがおっしゃっている「水」とは教会でわたしたちが受ける洗礼を指しているということ、また「霊」とは、わたしたちキリスト教会が信じるところの聖霊なる神のことであるということ、そして「霊によって生まれる」とは聖霊なる神の働きによってわたしたち人間の心の内に「信仰」が生みだされ、それによってわたしたち人間が「信仰生活」を始めることであるということを、相当ねちっこく駄目押し的な言い方をしながら説明してきました。洗礼はバプテスマのヨハネに始まり、その後の二千年間の教会の歴史が受け継いできたものです。わたしたちは洗礼を受けることによって自分の信仰を公に言い表わしてきたのです。

そしてまた、これは特に先週の説教の中で強調させていただいた点ですが、イエスさまがニコデモに向かって「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」とおっしゃった中に出てくる「地上のこと」の意味は何かという点については、次のように申しました。

わたしたちにとって教会とは地上の人生の中で必要なものであり、信仰をもって生きる生活、すなわち信仰生活もまた徹底的に地上で行われるものであるということです。教会こそが、またわたしたちの信仰生活こそが「地上のこと」なのです。今ここはまだ天国ではありません。わたしたちはまだ天上にいません。ここでイエスさまがおっしゃっている「地上のこと」とは否定的ないし消極的な意味で語られていることではありません。地上の価値を低める意味で言われているのではありません。天国だけが素晴らしいのではありません。神と共に生きる地上の人生が素晴らしいのです!

そして、いずれにせよはっきりしていることは、死んだ後に洗礼を受けることは不可能です。つまりそれは死んだ後に教会のメンバーになることは不可能であるということです。しかし、これは、洗礼を受けなかった人が必ず地獄に行くとか、教会に通わない人は必ず不幸せになるというような話をしているのではありません。それは全くの誤解です。そのようなことを私は決して申していませんし、そのような信じ方もいません。

私が申し上げたいことは、もっと明るいことであり肯定的なことです。また、ある見方をすれば、かなりいい加減なことでもあり、お気楽で、能天気で、人を食ったような話だと思われても仕方がないようなことでもあります。それはどういうことでしょうか。私が申し上げたいことは、洗礼を受けて教会のメンバーになるという、いわばその程度のことだけで、神はその人の罪を赦し続けてくださるのだということです。

先ほどもこの礼拝の初めのほうで、「罪の告白と赦しの宣言」が行われました。そのときわたしたちは定められた文章を読むことによって、自分の罪を告白しました。そして牧師が赦しの宣言の文章を読み上げました。これによって、わたしたちは「罪が赦された」と信じるわけです。これだけで何がどのように変わるのでしょうか。何も変わりっこないではないかと思われても仕方がないほど、あっけなく。傍目に見れば、「そんなのずるい」と思われても仕方がないほどに。これほどいい加減なことは他に無いかもしれないほどです。

しかし、ぜひ考えてみていただきたいことは、人の罪を赦そうとしないことそれ自体も、わたしたちの犯す大きな罪ではないだろうかということです。わたしたち自身は、人の罪をなかなか赦すことができません。「あのときあの人が私にこう言った。私はそれで傷ついた」。「あのときあの人は、私にこんなことをした。そのことを私は決して忘れない」。

自分に加えられた危害や罪は何年でも何十年でも憶え続けるのです。いつまでもこだわり続け、恨み続け、呪い続け、ビデオテープのように何度でも再生し続けるのです。私自身も同じです。洗礼を受けて教会に通い始めたくらいで、あの人のどこがどのように変わるというのか。変わるはずがないし、変わってなるものかと、固く信じているようなところがあるのは、わたしたち自身ではないでしょうか。

しかし、です。わたしたちは、こと罪の問題に関しては開き直った言い方をすべきではないかもしれませんが、それでもあえて言わせていただきたいことがあります。それは、イエスさまがおっしゃった「水と霊とによって生まれること」、すなわち洗礼を受けて信仰生活を始めることは、わたしたちが犯した自分の罪を悔いて「死んでお詫びする」というようなことよりもはるかに尊いことであるということです。死んだところで何のお詫びにもなりませんし、何も償うことができませんし、何も生み出すことができません。地上の人生から逃げ出したところで、神がお造りになったこの世界以外に、どこにも逃げ場所はないのです。

わたしたちが犯した罪と向き合うために選びうる最も良い選択肢はとにかく生きることです。そして、生きながらにして、神を信じて悔い改めることです。わたしたちは、暗闇の中ではなく光の中を、閉ざされた部屋の片隅ではなく世間のど真ん中を、堂々と歩いてよいのです。そうすることができる道を、イエス・キリストが開いてくださったのです。

(2009年3月29日、松戸小金原教会主日礼拝)

「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(1)

カール・バルトの書物は、やはり、とにかく一度はじっくり読まれるべきです。バルトは「今年150歳」と祝われている日本のプロテスタント教会の神学思想に、あまりにも大きな影響を及ぼしすぎました。つまり、現在の日本の教会の「病因」を探るためにバルトを読む必要があるのです。

ヨーロッパやアメリカの教会には「バルト以前の神学的伝統」があり、その中にあった様々な悪い面を徹底的に批判するアンチテーゼ提出者としてバルトが登場したわけです。その登場には歓迎されるべき面もあったことを私も認めます。

ところが、日本の教会には「バルト以前の神学的伝統」どころか、「キリスト教の伝統」そのものがほとんどなかったわけです。神学体系などというものが存在していなかった日本。そこに「体系的なもの」としてまとまったバルトが、まるでこれこそ「ザ・プロテスタント」、いや「ザ・キリスト教」でございます的な装いをもって、どどーんと輸入された。

おいおい、ちょっと待て、バルトが書いていることはあくまでも「アンチテーゼ」なのであり、要するにほとんどいつも「けんか腰」で書いていることなんだっつーことを知らないで、あるいは正体を見抜くことができず、彼が書いていることをほとんど無批判に鵜呑みにして、そのギラギラとした光を放つ鋭利な刃先を素人相手に向けては、迫力満点に「教会なるもの」の現状を批判し、ほとんど破壊していくほどにそれを罵倒する。

「教会なるもの」に対する批判や不満を持っている人にとってはバルトの言葉は救いだったと思います。私もかつてはそうでしたから。こんなクダラネエもん壊れちまえと、青春時代の破壊衝動みたいなものと共に教会を睨みつけていたい頃に接するバルトの言葉には、新鮮かつ衝撃的な感動がある。

しかし、いつまでもそれだけでは困るでしょう。我々は、こんなクダラネエもんと自分でもどこかで思いながら、また他の人々からそう思われていることを熟知しながらも、そんなもん(教会なるもの)でも、「これは我々の人生にとって水や空気、毎日の食事のように必要不可欠なものだ」と確信をもつことができたから、そんなもんを実に二千年も担い続けてきたのです。

「バルト自身は教会に通っていなかった」ことを、先週金曜日に行われた日本基督教学会関東支部会(会場:聖学院大学)での深井智朗先生の講演を通して確認しました。たぶんそうだろうなあと予想していたことが当たってしまった格好です。

「教会に通わない神学者」が『教会教義学』(キルヒェリッヒ・ドグマティーク)を書く!そのバルトが描き出す「教会」とは何ぞやが問われて然るべきなのです。はっきり言えば、それは「絵に描いた餅」にすぎません。深井先生の言葉を借りれば、「バルトは本質主義者であった」ということです。教会の本質はこうだと主張はするが、現実の教会にはコミットしようとしなかったのです。


2009年3月27日金曜日

「○○最大の」:人を幻惑するトリッキーな言葉

「無礼者め。この方は『20世紀最大の神学者』であらせられるぞ。控えおろう!」

水戸黄門かっつーの。アホクサ。

実際問題、これまでカール・バルトが紹介されてきた際に「20世紀最大の神学者」という(これ自体は意味不明な)マクラコトバがつけられたこと、何回くらいあったかを数えてみたらよいのです。

あるいは、今なら「20世紀最大の神学者」という検索語でネット上を調べてみれば、すぐに結果が出てくるんじゃないかと思うほど。直視するのが恐ろしいので私は検索したくないので、ぜひどなたかに試してみていただきたいところです。

「○○最大の」とかいう(どうとでも取れる)トリッキーな宣伝文句に頼るようになったら、神学も教会も終わりです。



2009年3月26日木曜日

「20世紀最大の神学者カール・バルト」という非学問的な宣伝文句

幸か不幸かこのところ仕事が立て込んでいて禁欲的な生活を強いられてきましたので、たまには発散することをお許しいただいてもよいでしょう。とても辛らつな皮肉を書きたくなりました。といっても、大したことではありません。前世紀以来、教会と神学の文献の中に繰り返し書き込まれてきた一つのクダラナイ決まり文句を笑い飛ばしたくなっただけです。

「20世紀最大の神学者カール・バルト」。

この非学問的な宣伝文句に多くの人々が踊らされてきました。出版関係の方々からすればただの販促のつもりで書いていることでしょうから、この方々を責めるのは酷です。しかし、これと同じ言葉を(なるべく客観性を求められる)学者や教師たちが反復するのはいただけません。事の真相をよく分かっていながら善良な市民をだましているなら、ペテン師であるとの誹りを免れません。あるいは、もし学者や教師たちまでも「だまされている」なら、ちゃんと勉強してくださいねと言わなくてはならなくなります。

とにかく意味不明なのは「20世紀最大の」です。何をもって「最大」と呼ぶのでしょうか。

例の『教会教義学』のページ数の多さでしょうか。「九千頁もある!」と驚かれてみたり、百科辞典サイズの白いクロス張りの本が教師たちの本棚の相当大きなスペースを分捕るので「白鯨」と呼ばれてみたり。

あれのページ数が多いことには以下のような理由があります。あれを実際に読んだことがある人なら誰でも知っていることです。

(1)とにかく繰り返しが多い。あれは一冊の本として書きおろされたものというよりも、大学での講義のレジュメ(というか完全原稿、というかセリフ)を集めて作ったもの。しかも、文書化(タイプ打ち)に際しては秘書のシャルロッテ・フォン・キルシュバウムの手がかなり加えられていることは確実で、バルトが書いたのかキルシュバウムが書いたのか分からないところも多々ある。つまり、漫画などでよく見る「原作 ○○ 作画 △△」がなされていたと言ってよい。「原作 バルト 作文 キルシュバウム」である。私はそうであることが悪いと思っているわけではない。しかし、九千頁の作文をバルトひとりでなしえたかのように宣伝する人々がいることは悪いと思っている。

(2)古代・中世・近代の神学者たちの文献からの引用(コピー&ペースト)がやたら長い。つまり、他人の書いた文章でページ数をかなり稼いでいる。翻訳されるわけでもなくラテン語ならラテン語のままで書き抜かれているだけである。このバルトのようなやり方は、他の人々がしてきたように、脚注で引用個所を指示するだけで文章そのものは引用しないやり方よりは「便利」で「ありがたい」かもしれない。しかし、そのことと、この本が「九千頁もあるからすごい」と言われてきたことのクダラナサとは、話が別である。

(3)バルトは『教会教義学』の中に教理解説と聖書釈義を区別しないで並べているので、両者を分けて出版してきた従来の神学者たちの教義学よりもページ数が多いのは当たり前。ついでに、あの本には時事評論やら政局分析やら書評のようなもの、さらにジョークとそのオチまで加わっている。私はそれが悪いと思っているわけではなく、好ましいことであるとさえ思っている。しかし、そのことと、この本が「九千頁もあるからすごい」と言われてきたことのクダラナサとは、話が別である。

(4)あとは余計なことですが、日本の中でカール・バルトを「20世紀最大の神学者」と呼びたがる人々の中に、自分の所属教団を「日本最大のキリスト教団」とも呼びたがる人が多かったりする(全員がそうだと言っているわけではありません)。そして、その教団の中の「最大規模」の教会に属していたりすると「おれは日本最大だ!」とさぞかしご満悦なのでしょうね(大爆笑)。

(5)かつて出会った一人の中学生から聞いた言葉。「おれたちの県の中学生の学力は、全国レベル最下位と言われている。そして、おれの通っている学校は県内最下位と言われている。そして、おれはその学校の最下位である。つまり、おれは全国最下位だということだ。鬱だ。」この中学生の用いた三段論法と、(4)の人々が用いる三段論法は、よく似ているものです。

2009年3月24日火曜日

カルヴァン写真コンクール!

以下、謹んでお知らせいたします。三件あります。



(1)カルヴァン写真コンクール!



オランダの新聞Trouw(トラウ=「真実」)のメールニュースは毎日私のパソコンにも届いているのですが、このところ忙しくて読む時間がありませんでした。しかし今朝、先週あたりの記事を読んでいて、驚くやら喜ぶやら。Trouw誌が現在、「カルヴァン生誕500年」を記念して「カルヴァン写真コンクール」(?!)を実施していることを知りました。



その記事はTrouw誌のホームページ(以下URL)にも掲載されています。興味深いものばかりです!
http://www.trouwcommunities.nl/trouw/ontspanning/interactief/calvijn-fotowedstrijd/



このページ中のStuur een foto op(写真を送信する)というリンクをクリックすると、自分の写真を送信できるページが開きます。



写真は誰でも送ることができます。テーマは「カルヴァンと私」(Calvijn en Ik)。カルヴァンとカルヴィニズムに関するものであれば、受け付けてくれるようです。締切は4月9日(木)です。作品は5月8日(金)からドルトレヒトに展示され、また最優秀作品はTrouw誌に掲載されるとのことです。写真が得意な方はぜひチャレンジしてみてください。



ちなみに、上記URLに公開されている写真の中で私が最も興味をひかれたのは、Kerkgang(教会に通う)というタイトルがついているものです。



黒っぽくて平べったい手さげカバンの横に、聖書と賛美歌、数枚のコイン(たぶん献金用)、そしてKINGという名前のドロップ飴か何か(よく分かりません)が並べてあるのを写しているものです。我々キリスト者にとっては当たり前の中身かもしれませんが、一枚の写真として見せられるといろんなことを考えさせられるものがあります。そして、何よりこれが「カルヴァンと私」というテーマのもとに置かれていることが興味深い。



日本でも「カルヴァン写真コンクール」、やりたいですね!



(2)カルヴァン生誕500年記念集会



さて、前にもお知らせしましたとおり、今年7月6日(月)以下の要領で「カルヴァン生誕500年記念集会」を行うことになりました。



日 時  2009年7月6日(月) 受付13:00 開会13:30 閉会19:55
会 場  東京神学大学  東京都三鷹市大沢3-10-30
会 費  2,000円 (軽食有 学生500円)



* プログラム
第一部 講演(13:45~)
「讃美と応答―この世を神の栄光の舞台とするために―」 芳賀 力氏(東京神学大学教授)
「ジュネーヴ礼拝式について」 秋山 徹 氏(日本基督教団上尾合同教会牧師)



第二部 講演と演奏(16:45~)
「ジュネーヴ詩編歌について」 菊地純子 氏(日本キリスト教会神学校講師)
ジュネーヴ詩編歌オルガンコンサート 今井奈緒子 氏(東北学院大学教授、オルガニスト)



第三部 ジュネーヴ礼拝式・聖餐式再現(18:25~)
礼拝司式         石田 学 氏(日本ナザレン神学校教授)
カルヴァン説教朗読  高砂民宣 氏(青山学院大学准教授)
聖餐式司式       関川泰寛 氏(東京神学大学教授)



その他詳細は以下URLをクリックしてください。



カルヴァン生誕500年記念集会
http://calvin09.protestant.jp/



主催は「カルヴァン生誕500年記念集会実行委員会」(久米あつみ委員長)。これは「アジア・カルヴァン学会日本支部」と「日本カルヴァン研究会」が協力してできた委員会です。私は委員会書記です(本日夕方、実行委員会のミーティングを青山学院大学で行います)。



また協賛者として、会場を快く提供してくださった「東京神学大学」(4月から近藤勝彦学長)を筆頭に、「一麦出版社」、「いのちのことば社」、「教文館」、「キリスト新聞社」、「クリスチャン新聞」、「新教出版社」、「日本基督教団出版局」(五十音順)と、最強のキリスト教出版各社が勢揃いでサポートしてくださることになりました。本当に感謝しております。



さらに、7月6日(月)当日、東京神学大学は夏休みに入っていますので、神学生たちがいろんな奉仕をしてくださることになっています。このことも感謝です。



とにかくこれが「五百年に一度の(!)ビッグイベント」であることは間違いありません。このところ連絡窓口である私のところに、問い合わせの電話が相次いでいます(しかし、なるべくなら、電話よりメールのほうが助かります)。



・「ファン・ルーラー」だけではなく、「カルヴァン」、「カルヴァン主義」、「改革派・長老派の教会と神学」、「詩編歌」、「ジュネーヴ礼拝式」等にも関心がある方、



・日本屈指のオルガニスト今井奈緒子先生のパイプオルガンの美しい音色をお聴きになりたい方、



・「東京神学大学の建物をまだ見たことがないし、入ったこともない」という方、



・「久米あつみ先生を一目見たい」という方(?)、



・その他、動機・理由は何であれ、



この機会にぜひお集まりくださいますよう、主催者の一人として心からお願いいたします。



(3)アジア・カルヴァン学会第7回講演会



また、再度お知らせしますが、4月25日(土)立教大学を会場に行う「アジア・カルヴァン学会第7回講演会」(主題「ヨハネス・アルトジウスの政治思想とその現代的意義~カルヴィニズムと政治をめぐる一側面~」講師 関谷 昇氏、コメンテーター 小川有美氏、司会 田上雅徳氏)にも、ぜひご出席くださいますよう重ねてお願いいたします。



詳細は以下URLをクリックしてください。



アジア・カルヴァン学会
http://society.protestant.jp/



寒い寒い(ホントに寒い)冬を乗り越えて、やっと春らしくなってきましたね(でも今日の松戸は、まだちと寒い)。皆さん、これから元気を出していきましょうね。花粉症の方はどうかお大事に。



このところ主日礼拝の出席者数が少し持ち直し、受洗志願者も複数与えられて、励まされています。厳しい戦いの中にある日本の教会のみんなが元気になるようなメッセージを発信していきたいです。これからもどうかよろしくお願いいたします。



ブログ「今週の説教」も毎週更新中です(「今週の説教メールマガジン」も続けています)。
http://sermon.reformed.jp/



ちなみに、検索サイトで「今週の説教」という語で検索すると、GoogleYahooGooではいまだに第一位で拾ってくれますが、MSNではなぜか百位以内にも入らなくなってしまいました。



2009年3月22日日曜日

神の愛


ヨハネによる福音書3・16~18

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が独り子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

先週学びました個所に「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」というイエス・キリストの御言葉が記されていました。イエスさまは、ニコデモに「地上のこと」をお話しになりました。ところが、ニコデモはイエスさまの御言葉を正しく理解することができませんでした。

ニコデモが理解できなかった「地上のこと」とは、何のことだったのでしょうか。ここで注目していただきたいのは次の御言葉です。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)。「水」とは洗礼のことです。すなわち洗礼を受けて教会のメンバーになることです。そのように言い切って間違いありません。そして「霊」とは聖霊のことです。聖霊があなたとわたしに注がれるのです。それによって、あなたとわたしに信仰が与えられるのです。

これらをまとめて言えば、次のようになります。「水と霊とによって新しく生まれる」とは、洗礼を受けて教会のメンバーに加わり、信仰に基づく人生を新しく始めることです。これこそが「地上のこと」です。すなわち、このことは、わたしたちの地上の人生の中で起こらなければならないことなのです。

駄目押し的な言い方をさせていただくことをお許しください。「私は洗礼は受けません。教会には加わりません。信仰生活も始めません。しかし天国には行きたいです」。このような言い分は通用しないということです。地上の人生が終わった後に洗礼を受けることは不可能です。洗礼は地上で受けるものです。教会と信仰は人生の中で必要なものなのです。

そして、わたしたちの信じる「天国」とは「神の国」です。両者は同義語です。天国におられるのは神です。ですから、「神は信じませんが、天国には行きたいです」というのは言葉の矛盾です。天国に行きたい人は、神を信じなければならないのです。

しかし、今私が申し上げていることは、多くの人の耳には厳しい裁きの言葉として響くものかもしれません。なぜなら、ご承知のとおり今日では多くの人が教会に通っておらず、洗礼を受けておらず、神を信じる信仰をもっていないからです。

そのような中でわたしたち教会の者たちが「教会に通っていない人は天国に行けない」というふうに語りますと、「それは冷たい言い方である」という反応がかえってくることがあります。それは全くの誤解なのですが、なかなか理解していただけません。

誰かを裁くつもりなど私にも教会にも全くありません。ただ、一つのことを願っているだけです。そのことをなんとかして理解していただきたいだけです。ご理解いただきたいと願っていることは、要するに地上の教会の存在意義です。「教会が存在することには意味があります」ということです。また、教会生活そのものの価値です。「教会に通うことには価値があります」ということです。

「教会なんて何をしているのか分からない、得体の知れない集団だ」と思われていることがとても歯がゆく思います。わたしたちはここに、教会に通っていない人々を裁くために集まっているのではありませんし、そのような人々を軽蔑するために集まっているのでもありません。ただ、わたしたちが強く自覚していることは、わたしたち人間は独りでは生きていないということです。互いに助け合う仲間が必要であるということです。教会は、そのことを自覚しつつ互いに助け合うために存在しているのです。

しかしまた、わたしたちは、人間同士の助け合いだけでは足りません。嵐の海でおぼれかけている者同士がどうして助け合うことができるでしょう。上から手を伸ばして助けてくださる方がおられなければ!人間の力をはるかに超える力をもっておられる方がおられなければ!わたしたちは助からないのです。

わたしたち教会の者たちが多くの人に何とかして理解していただきたいと願っていることは、このことです。わたしたちには互いに助け合う仲間が必要です。そして同時に神が必要なのです。そのことを強く自覚している者たちが、教会に集まっているのです。

ですから、わたしたちには誰かを裁く意図などは全くありません。裁くのはファリサイ派の得意技です。裁かれることを最も恐れているのは、むしろわたしたち自身です。

「神とか宗教とか、そういうものが必要なのは弱い人である。教会とかそういう場所は弱い人が集まるところである」と昔からずいぶん言われてきました。私も直接そのように言われたこともあります。しかし私は反論はしません。「はい、そのとおりです」と答えることにしています。「そのようにおっしゃるあなた自身も弱い人間の一人ではありませんか」と問い返すこともしません。もしそのようなことを心の中で思っていても、滅多に口には出しません。相手が嫌がるようなことは言わないほうがよいのです。わたしたちにできることは、黙って待つことだけです。あるいは、祈って待つことだけです。

しかしまた、わたしたちは、もう一つの単純な事実も知っているつもりです。先ほど私は「地上の人生が終わった後に洗礼を受けます」と言われても返答に困ると申しました。それは無理な話です。しかしこれとはいくらか違う言い分として、「神も宗教も必要であることは分かっているつもりです。でも、今は忙しいので、教会に通うひまがありません」と言われることがあります。こちらのほうならば、繰り返し聞かされてきたことですし、理解できることでもあります。

しかし、たしかに理解できることではあるのですが、心の中ではかなり腹を立てていることでもあります。わたしたちは「ひまだから」(?)教会に通っているのではありません!「逆ですよ!」と言いたいところです。わたしたちは、むしろ「忙しいからこそ」教会に通っているのです!

気が滅入りそうなくらいに忙しい。自分を見失いそうになるくらい、他人の顔も見えてないくらいに目が回っている。そのようなときこそ、わたしたちには教会が必要なのです。神の助けと、同じ信仰の仲間たちの助けとが必要です。わたしたちは「忙しいからこそ」自分自身を取り戻すために、心の平安を取り戻すために、教会に通っているのです。

さて、私は今日これまでのところで、「水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできない」というイエス・キリストの御言葉の意味を考えてきたつもりです。洗礼を受けて教会のメンバーになって信仰生活を送ることの意義と価値を訴えてきました。また、そのことはすべて地上で起こるべき出来事であるとも申しました。それが意味することは少なくとも私にとって「教会とは、わたしたち人間が生きていくために通うものである」ということです。教会は「ひまだから通う」ところではなくて、「忙しいから通う」ところなのです。

その際、しかし、わたしたちがどうしてもこの点だけは押さえておきたいと私が願っていることを、これから申し上げます。ただし、もしかしたら、皆さんをひどく驚かせてしまう内容を含んでいるかもしれません。

そのことが、実は、今日お読みしました個所に記されているイエス・キリスト御自身の御言葉に関係しています。16節に記されている「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」というこれです。この中でとくに注目していただきたいのは「世」という名で呼ばれている事柄です。この御言葉を短く言い直すなら、「神が世を愛された」となります。ですから、わたしたちが問題にしなければならないことは、神に愛されている「世」とは何のことなのかという点です。

これからこの問題の答えを申し上げたいわけですが、その答えは単純明快、読んで字のごとくです。「世」とは、ギリシア語「コスモス」の訳です。花の名前にもなっています。これは神が創造なさった天地万物を指します。ユニバースと訳されることもあります。

そしてまた、ここで語られている「世」とは、わたしたちが生きているこの地上の世界のことです。ワールドです。しかし、世界といっても「海外旅行先」の話をしているのではありません。「世」とはこの世界に生きている人々を必ず含んでいます。そしてもちろんわたしたち自身(わたしとあなた)も含まれます。

つまり、もっと分かりやすく、あるいはもっと身近で卑近な言葉で言い換えるとしたら「世」(コスモス)とは「世間」(せけん)です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世間(せけん)を愛された」と訳してもよい。そのようなことがここで突然語られているのだと理解することができるのです。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(17節)と言われている中に繰り返し出てくる「世」の意味も全く同じです。これらすべてを「世間」と呼び換えてもよい。「神が御子を世間(せけん)に遣わされたのは、世間を裁くためではなく、御子によって世間が救われるためである」。

このことを今、私は非常に力をこめて語っているつもりですが、もちろん明確な理由と意図があります。それは先ほどから申し上げていることにもちろん関係あります。わたしたちが教会に通っているのは、忙しく生きているからこそだと、先ほど私は言いました。しかし、わたしたちが決して間違ってはならないこと、それは、わたしたちが教会に通う理由は、「世間で過ごす忙しい日々」の中から逃れるためであるということであってはならないということです。

このように申し上げる理由は、はっきりしています。「神は世間を愛された」からです。神の独り子、救い主イエス・キリストを「世間」にお遣わしになったほどに。イエスさまは「世間」の中へと遣わされた方であると言われている以上、「世間」の中にこそおられる方なのです。

洗礼を受けて教会生活を始めること、信仰をもって生きる人間になることこそが「新たに生まれること」、すなわち新しい人生を始めることであるとイエスさまがおっしゃったことも、この点に直接関係しています。

頭の上にちょこっと水をかけたくらいで、あるいは、毎週日曜日の礼拝に通いはじめたくらいで、何が変わるのか、何も変わらないではないかと思われたり言われたりすることは多いのです。しかし、この点で私が申し上げたいことは、いや、むしろ、いっそのこと、何も変わらないほうがよいということです。わたしたちは、洗礼を受ける前も受けた後も、同じひとつの「世間」の中で生きていかなければならないことには変わりません。洗礼を受けた人は必ず職場を変えなければならないとか、人間関係も全く変えなければならないということはありませんし、変えるべきでもありません。

もし変えるべきことがあるとしたら、わたしたちが関わりをもってきた職場や人間関係を「愛する」ようになることです。かつては愛することができなかったかもしれないものを、です。「愛する」とは、裁いたり軽蔑したりすることの反対です。あなたと共に生きている人々を直視し、笑顔を向け、その人々のために生きること・死ぬことです。またそこには、自分自身を愛し、受け容れることが必ず含まれます。そのことが、実際にはとても難しいのです。その難しいことができるようになるために、すなわち世間と自分を愛する訓練を受けるために、わたしたちは神を信じる必要があり、教会に通う必要があるのです。

ですから、わたしたちは「ひまだから」教会に通うのではありません。それどころか、教会に通いはじめるとますます忙しくなります。世のため・人のために楽しんで奉仕する時間が増えていきます。それでよいのです!

(2009年3月22日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年3月21日土曜日

W. J. ファン・アッセルト講義「ファン・ルーラーと改革派スコラ神学」(2)

ご参考までに、ファン・アッセルト教授の講演の中で語られているいくつかの単語の発音を私の耳で聴くと、以下のようなカタカタ表記になります。「関口くん、あなたと私は違った聞こえ方がするんだが」とおっしゃる方の耳は、最大限に尊重します。しかし、とりあえずは私の聞き取り内容をご紹介してご批判を乞うことにします。( )内は辞書的意味であり、赤い字はアクセントの位置です。



van Ruler(人物名)
「ファン・ルーラー」
※「ルー」は舌がぶるると震えていますが、「リューラー」には全く聞こえません!



gereformeerde theologie(改革派神学)
「ヘリフォルミールテ・テオロヒー



scholastiek(スコラ神学)
「スコラスティーク」



protestantse orthodoxie(プロテスタント正統主義)
「プロテスタントセ・オルトドキシー



Nadere Reformatie(第二次宗教改革)
ナーデレ・レフォルマーチー」
※「チー」(tie)は「シー」ではないし、scholastiekの「ティー」(tie)でもありません。



traditie(伝統)
「トラディチー」



Calvijn(人物名)
「カルフェイン」
(カフェインではありません。カルヴァンのことです)



Calvinisme(カルヴァン主義)
ルフィニスメ」



onderzoek(研究)
オンデルジューク」



Abraham Kuyper(人物名)
ブラハム・イパー」
(「コイペル」には聞こえません。口を大きく開けた「カ」です!)



Bavinck(人物名)
バーフィンク」
(日本のキリスト教書店に流通している「バビンク」では絶対にありません)



loci(場所、転じて教説の意。いわゆるロキ)
チ」



menselijke vrijheid(人間の自由)
メンセラック・フイヘイト」



W. J. ファン・アッセルト講義「ファン・ルーラーと改革派スコラ神学」(1)

以前も「国際ファン・ルーラー学会」(2008年12月10日、アムステルダム自由大学)の「講義音声」をネット上で聴くことができるサイトをご紹介しました。それを再び聴いています。不思議なもので、何度も聴いているうちに、だんだん意味が分かってくるものがあります(というか、何度も聴かないと私にオランダ語は分かりません!)。



なかでも特に面白くて何度も聴いているのは、W. J. ファン・アッセルト先生の「ファン・ルーラーと改革派スコラ神学」(Van Ruler en de gereformeerde scholastiek)です。



ファン・アッセルト教授は、プロテスタントスコラ神学に関する研究の世界的権威者の一人であり、とくに17世紀のオランダで活躍した改革派神学者ヨハネス・コクツェーユス(Johannes Cocceius)の研究者です。ユトレヒト大学神学部でファン・ルーラーから直接教わった学生であり、御自身もユトレヒト大学神学部で教えておられる人です。現在は「オランダプロテスタント神学大学」で教えておられます。



ファン・アッセルト教授の神学的立場はファン・ルーラーと同じ「改革派神学」です。プロテスタントスコラ神学に対する評価は非常に高いものです。20世紀の弁証法神学者やそれ以降のエキュメニズム神学者が好んで持ち出してきた「16世紀宗教改革からの逸脱ないし退落としての17世紀の(死せる)正統主義」という説明図式に立たず、16世紀宗教改革からのラディカルな継続性(radicale continuiteit)が17世紀正統主義にあることを主張するものです。



この講演の中でファン・アッセルト教授は、radicale continuiteit theorie(根本的継続理論)という表現を用いておられます。この理論と同じ基本線に立つ人々として、元ハーバード大学教授ハイコ・A. オーバーマン教授(故人)や米国カルヴァン神学校のリチャード・ムラー教授といった方々を挙げておられます。



そのファン・アッセルト講義の音声はこれ(↓)です。
http://cgi.omroep.nl/cgi-bin/streams?/eo/radio/kerkinbeweging/2008-2009/vanasselt.wma



これは分科会における短い講義だったのですが、私は別の分科会に参加しましたので直接聴くことはできませんでした。しかし、帰国後ネットに講義音声が公開されて以来何度も聴いていてやっと分かってきたことが、いくつかあります。今日特にピンと来た部分は、この講義の真ん中あたりですが、次のようなことを言っておられるところです。



「ファン・ルーラーはカルヴァンをラディカルに相対化した。彼は自分の神学を『カルヴィニズム神学』(Calvinistische theologie)として把えることは決して無く、常に『改革派神学』(gereformeerde theologie)として把えていた。しかし、それはまた、一教団としてのオランダ改革派教会(Gereformeerde Kerken in Nederlands、GKN)の神学であるという意味でもないことは言うまでもない〔なぜならファン・ルーラーはGKNではなくNHKの神学者であるゆえに〕」。



この発言の直後、会場から爆笑が起こります。この講演会場が元GNK教団の教職者養成機関(神学校)であった「アムステルダム自由大学」であったゆえの笑いであると思われます。つまり、出席者たちは、ファン・アッセルト教授がアブラハム・カイパーの「カルヴィニズム」とカイパーが創設した「アムステルダム自由大学」とに対する軽い当てこすりを述べたことに大いに反応したわけです。他にもご紹介したい点がたくさんありますが、今は我慢します。



この国際ファン・ルーラー学会の講演音声は、多くの方々にお聴きいただくことをお勧めいたします。何度も聴いているうちにだんだん分かってくるはずです(一度も聴かなければ決して聴き取れるようにはなりません)。



以下URLに講演音声のリストがあります。http://cgi.omroep.nl...から始まるリンクをクリックすると、音声がスタートします(メディアプレーヤ等の音声再生ソフトが必要です)。レッツ・トライです!



国際ファン・ルーラー学会の講演音声リスト
http://www.aavanruler.nl/index.php?alias=Impressie



2009年3月19日木曜日

質疑応答(7)罪との格闘

(7)義認後の罪の問題といつまでも格闘し続けるのが、福音派の一つの特徴なのかもしれません。



ファン・ルーラーもウェスレー的な「完全聖化主義者」ではありませんので、聖化のプロセスにおける「罪との格闘」の問題は軽視していません。しかし、そのことをファン・ルーラーは徹底的に「三位一体論的・聖霊論的に」考え抜くのであり、つまり、それを「聖霊の内住」(inhabitatio Spiritus sancti)の事態として捉えるのであって、わたしたち人間(イエス・キリストにあって選ばれ、信仰を与えられた人間)のうちに「聖霊」(プニューマ)が働いてくださっていることを前提としながら、聖霊(なる神)と人間精神との(ティリッヒ的に言えば大文字のSpiritと小文字のspiritとの)内的葛藤として「罪との格闘」を描き出すのです。



そして、人間存在のうちに聖霊が(そして同時に「三位一体の神」が)内住してくださっていることそのものが、すでに「救われた状態」です。わたしたちは「神無しで」罪と闘うのではなく、「神と共に」闘うのです。その勝敗はいずこにありやは、すでに決していると信じるべきです。



そしてファン・ルーラーの場合には、すでに書きましたとおり、「地上の存在を喜び楽しまないこと」や「このわたしを全面的に受け容れないこと」こそが「創造者なる神への冒涜」なのであり、それこそが端的に「罪」なのです。「人生を嘆き悲しむこと」や「憂鬱にとらわれたままでいること」でさえ、彼に言わせれば「罪」なのです。



ですから、事は単純です!神の力を信頼して、大胆にこの世を喜び楽しめばよいのです。わたしたちにできることは、それ以上のことでも、それ以下のことでもありません。(終わり)



「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」



質疑応答(5)罪の二次性

(5)私も、被造世界を喜び楽しむことが神の意志であると思っております。しかし、それを具体的な生活の中で実践しようとする時、被造世界全体が堕落の影響によって「喪に服している」という面も忘れてはならないと思わずにはいられないのです。そうなると、被造世界を「喜び楽しむ」という時、そこには何らかの形で神を「喜び楽しむ」こととは、区別をつけなければいけないのではないでしょうか。



「喪に服している」というご見解には、正直ちょっとした驚きを禁じえませんでした。「堕落」(corruptio)の影響があるのは当然のことですが、イエス・キリストにおける「贖い」(redemptio)の影響のほうはいかがでしょうか。「贖い」とは、改革派神学の伝統においては「再創造」(recreatio)です。その意味は、創造の原初性の再獲得です。堕落した全被造物に「はなはだ善きもの」(erant valde bona! 創世記1・31)としての原初性が回復されるのです。



この「再創造」は終末だけに起こる出来事ではありません。それはイエス・キリストの十字架と復活による「贖い」によってすでに始まったことであり、今なお進展し続けており、終末における完成の日まで継続されます。花婿としてのイエス・キリストは、すでに来られています。祝宴はすでに始まっています。それにもかかわらず、どうしてわたしたちがいつまでも喪に服し続けなければならないのでしょうか。



「堕落」ないし「罪」についてファン・ルーラーが主張していることは、彼の言葉を借りれば、「罪は二次的なものないし二番目のものである」(De zonde is iets secundairs, een tweede)ということです。第一番目はもちろん「創造」(schepping)です。創造こそが「神の善きみわざ」です。天地を無から有へと呼び起こしてくださった神の力、そしてまたイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださった神の力と比較するならば、人間の犯す罪の力や影響などどれほどのものでもありません。もし人間の犯す罪の力が神の救いの力に勝利するというなら、人間は「神以上の存在」であると認めることを意味してしまいます。(さらに続く)



「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」



質疑応答(6)改悛的霊性

(6)これらの問題を掘り下げていくと、そもそも「世」をどう見ているかという点に帰着するように思います。私は、元々神に造られた良いものとしての「世」が堕落の影響によってその善性を見失ったため、現在我々の目に広がる「世」は無批判に享受できないものと見ている面があると思います。それに対してファン・ルーラーは、神に造られた良いものとしての「世」を強調しているのだと思います。もしこの分析が正しいとすれば、焦点は「ファン・ルーラーにおける被造世界の堕落の影響」にあると思うのですが、いかがでしょうか。



わたしたちが受け継いできたらしき「一切の(神学的)議論を堕落と罪の問題から始める伝統」は、改革派神学の場合は、その根元にドルト教理基準のTULIP(カルヴァン主義の五特質!)があると思われます。



しかし、ドルト教理基準は本質的に「コントラ・レモンストランティア」であり、アルミニウス主義者からの批判に対するレスポンスにすぎません。すなわち、あれは「コントラ」ないしアンチテーゼとしてのモチーフを初めから持っているものであり、ドルト教理基準自体は何らカルヴァン主義の本来的なテーゼではありません。それゆえ、ドルト教理基準から全改革派神学を出発させることは根本的かつ方法論的に間違っています。「全面的堕落」(Total Depravity)は改革派神学における第一のテーゼではありえないのです。



しかし、改革派教会も含む日本のプロテスタント教会が色濃く受け継いでいるのは、そのような歴史的・伝統的・信条的な神学思想というよりももう少し根の浅いものであると、私には感じられます。私が考えるのは、むしろビリー・グラハム的な大衆伝道のやり方の中にある「まず最初に罪意識を徹底的に叩き込むことによって人を回心へと導く」というあれです。典型的な心理的誘導方法(Psychological Inductive Method)です。



しかし、私はこのことをビリー・グラハムひとりの責任にするつもりはありません。パネンベルクが指摘した、プロテスタンティズム特有の「改悛的霊性」そのものを問題にしなければならないと考えています。



16世紀の宗教改革者たちが強調したことは、罪責意識そのものではなく、罪の自覚によって怯える魂がイエス・キリストによって自由にされるという点にありました。ところが、彼ら以降のプロテスタンティズムは、あまりにも過度の罪責意識を強調しすぎるあまり、洗礼を受けてイエス・キリストと共によみがえった後も(この意味での「よみがえり」は単なるメタファーではありません!)、いつまでも堂々巡りを繰り返す不健康なメンタリティに留まり続ける人間性を涵養してしまいました。パネンベルクの議論は正鵠を得ています。



「創造→堕落→贖い」と来た後に、またしても「堕落」が息を吹き返しているような議論をしてしまうのは、おそらく福音派だけではないと私は理解しています。改革派も同じです、というか改革派のほうがひどいかもしれません。(さらに続く)



「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」



質疑応答(4)神を喜ぶ自由



(4)創造者を「享受」することと被造物を「享受」することとの間にもし些かの区別もないとなるなら、逆に我々が「神を喜び楽しむ」ということもまた「贅沢」「遊び」ということになり、そこにある種の「不必要なもの」という概念、つまり「人間の主な目的」ではなく、オプショナルなものに成り下がるという思想が入り込むことにはならないのでしょうか。



(4)の質問はとくに重要なものだと思いました。「神を喜び楽しむこと」も、もちろん「贅沢」であり「遊び」です。ファン・ルーラーの線を伸ばしていけば当然そうなります。



私が「不必要」と書いたことは、なるほどたしかに「オプショナルなものへと価値を低めている」という反応ないし反発を招きかねません。



しかし、これはオランダ語のnoodzakelijkheid、ないし英語のnecessityをどう訳すかにも依ります。「必要性」と訳すと反発されるようなら、「必然性」と訳すと少しは理解されるものが出てくるかもしれません。しかし、問題は論理的(ロジカル)なことにとどまりません。「必然性」と訳しますと、論理的なことだけに限定されてしまう危険性があります。



この「必然性」を説明するために持ち出すことができそうな例は、(あまり良い例ではありませんが)「わたしたちがもうける子どもの数」などです。



結婚して子どもを産む。一人にしようか、二人にしようか、三人以上にしようか。何人「でなければならない」理由は、どこにも無いはずです。お二人の自由です。「どうぞご勝手に!」です。誰からも強制されません。「何人産まなければならない義務」などは、誰にもありません。そもそも「子どもを産まなければならない責任」さえ、人間にはありません。



そのようなところで義務だ、責任だ、役割だ、使命だと言い出すところに「使用」(uti)の伝統が臭います。しかし、たとえば「女性は子を産むために使用される」だなんてことは、もはや絶対に言うべきではありません。



「神の創造のみわざ」も、だれから強制されたものでもありません。神に向かって「創造しなさい」と命令したり、「神よ、あなたには天地万物と人間を創造する義務と責任がある」と説教したりする存在とは何なのでしょう。そういうことができるのは、おそらく「神以上の存在」だけです。



わたしたちの「神を喜び楽しむこと」についても、義務だ、責任だ、役割だ、使命だとやりだすのが我々の伝統(アウグスティヌスの伝統!)なのかもしれません。しかし、義務だ責任だと言っては脅され、命令されて、強制されて、嫌々ながらさせられることが、どうして「神を喜び楽しむこと」(fruitio Dei)でしょうか。全く矛盾しているではありませんか。いかなる強制もなく、自由のうちに仕えることが「神を喜び楽しむこと」ではないでしょうか。(さらに続く)



「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」



質疑応答(3)享受と使用

(3)アウグスティヌスが使用(uti)と享受(frui)という点に具体的に見出したのに対して、ファン・ルーラーがこの区別性を取り払ってしまうとすれば、彼はどこに両者の区別性を具体的に見出したのでしょうか。同じ「喜び楽しむ」あるいは「享受」(frui)と言う時、そこには「使用」(uti)と「享受」(frui)の差異ほどではないにしても、創造者を「享受」することと被造物を「享受」することには、何らかの区別性があるのでしょうか。



繰り返しになりますが、創造者と被造物の区別性を「享受」と「使用」の区別に求めること、すなわち、わたしたち人間の倫理的態度に求めることが、なぜ必要なのでしょうか。



創造者と被造物との区別を設けてくださったのは神御自身です。なぜ人間が、自らの態度をもって(一方に対しては崇敬ないし礼拝をもって、他方に対しては軽蔑と尊大さをもって)区別しなければならないのでしょうか。



わたしたち(その中には私自身も含まれています)が「被造世界を享受すること」に躊躇があるのは、それを軽んじるなり憎むなりするように教え込まれてきたからではないかと思うのですが、その教えないし命令は神から出たものではないでしょう。アウグスティヌスもカルヴァンも神ではないし、直接啓示の仲保者でもありません。



わたしたちにできることは、「創造者は被造物ではないし、被造物は創造者ではない」というこのきわめて単純な事実を確認することだけではないでしょうか。



ファン・ルーラーの場合、神の場合も、世界の場合も、「享受すること」(frui)においては区別も差もありません。それはちょうど、17世紀のフラネカーとライデンで活躍したヨハネス・コクツェーユス(Johannes Cocceius)が、御父なる神と御子キリストの関係についても、神と人間との関係についても、同じ一つの「友情」(amicitia)という概念で説明したのと似ています。(さらに続く)



「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」



質疑応答(2)世を軽んじる罪

(2)聖書以来、「この世と調子を合わせてはならない」ということ、「この世を軽んじる」ということは、多くの神学者たちが論じてきました。アウグスティヌス然り、Imitatio Christiの著者然り、カルヴァン然りです。「この地上を喜び楽しむこと」と「この世と調子を合わせてはならない」という教説とは、ファン・ルーラーの神学の中でどのように調和を保っているのでしょうか。



そもそも、「享受されるために」この世界とわたしたち人間は造られたのです。つまり、「享受されるべきこと」こそが事物の本質であり、創造者の意図なのです。



キリスト者に求められていることは、神の意図に従うこと(≠この世と調子を合わせること)です。神の意図に従わないこと、それに逆らうことを「罪」と呼ぶのです。



神の意図が「被造物(=世と人)は享受されるべきものである」ということであるならば、なぜわたしたちはそれを喜び楽しんではならないのでしょうか。世はむしろ、世自身を軽んじたり憎んだりするのではないでしょうか。人間はむしろ、人間自身や自分自身を軽んじたり憎んだりするのではないでしょうか。



「この世は罪と悪に満ちている」と言って人生を嘆き悲しみ、絶望し、ため息と不平ばかりを口にし、他人と自分自身を傷つける。このような「世を軽んじる」態度はなんら神の意図に従っていません。ファン・ルーラーは、そのような(敬虔主義的・禁欲主義的な)態度を指して「創造者なる神への冒涜」と呼んでいます。



むしろわたしたちキリスト者は「世と人と自分自身に逆らって」世と人と自分自身を享受すべきではないでしょうか。これがファン・ルーラーの提起した問題であると言えるでしょう。



私自身を含む(改革派)正統主義者の落とし穴は、「これはアウグスティヌスとカルヴァンが主張したことだ」と言われたが最後、ほとんどそのままを無批判に受け入れてしまいそうになることです。しかしわたしたちは、彼らから悪いものまで受け継ぐ必要はありません。やはり彼らへのストア主義の影響は明白であると私は見ています。聖書的でないものを、知らず知らず持ち込んでしまっているのです。(さらに続く)



「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」



質疑応答(1)汎神論の懸念

拙論「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」をお読みくださった方から以下のようなご丁寧な質問をいただきました。ご本人の許可を得ることができましたので、質問内容を公開用に編集させていただいたうえで、謹んで回答いたします。



(1)講演の引用文では「この世界こそが神の世界である。この世界こそが、まさに神の栄光の舞台(theatrum gloriae dei)なのである。この地上の生が、神の栄光の現実化である」と言われており、この辺りにファン・ルーラーの神学的根拠がありそうですが、地上において働かれる「神御自身」とその舞台である「地上そのもの(被造物)」を、同様に「喜び楽しむこと(享楽)」が許されているのは、なぜなのでしょうか。ともすると、両者を非常に近付けて「喜び楽しむこと(享楽)」を許すと、汎神論的(pantheistic)な思想に接近してしまいそうですが、ファン・ルーラーはこの辺りに警戒心を持っていたのでしょうか。もし持っていたとすれば、どのように汎神論的思想と自らの神学を区別されていたのでしょうか。



ご質問ありがとうございました。どれも当然起こりうる疑問ですので、次回の講演のための参考にさせていただき、そのとき論拠を挙げてきちんとお答えできるようにしたいと思います。



しかし、事はわりあい単純です。この件に関するファン・ルーラーの神学的根拠は、主に創造論です。(経綸的三位一体における)創造のみわざ(creatio)において起こることは創造者(Creator)と被造物(creature)の絶対的区別です。創造論がきちんと機能しているかぎり、そしてこの区別が維持されているかぎり、いかなる汎神論も起こりえません。何の心配もありません。



しかも、創造者と被造物の区別は人間自身が立てた区別ではなく、神御自身がお立てになった区別です。創造者(神)については享受してよいが、被造物(物と人)については使用にとどめるべきであるという見方は、なんといっても人間側からの視点です。神がそのようなことをおっしゃったでしょうか。



そしてファン・ルーラー自身が論じているのは、創造者にとっての被造物の存在とは(神の存在を成り立たしめる上でかならずしも「必然性」がないという意味で)「不必要なもの」であり、その意味での「贅沢」であり、「遊び」であり、「楽しみ」であるということです。つまり、創造者自身が被造物を「享受」しておられるのです!(続く)



カール・バルトの影響(2)

ファン・ルーラーとバルトの関係については、多くの人から繰り返し問われてきたことです。



バルトの場合は「シュライエルマッハー斬り!」で神学の新しい時代を切り開いたのでしょうし、オランダのファン・ルーラーやドイツのモルトマンは「バルト斬り!」で新しい時代を切り開こうとしました。

「キレてねえよ」とバルトは言ったかもしれないし、少しは痛い思いをしたかもしれない。まあ、そんなところでしょう。

かなり有名な事実は、晩年のバルト(1960年代)が『教会教義学』を「第三項の神学」(聖霊論)の光のもとに全部書き直したいとか言いだしたことです。

バルトは、自分の著書の中ではファン・ルーラーにはついぞ一度も触れませんでした。少なくとも私の知る限りは。

しかし、1950年代後半にファン・ルーラーが声を大にしてバルトの「キリスト一元論」を批判し、「三位一体論的神学が必要だ」とか「聖霊論的視点が必要だ」と主張していたことと、バルト自身の「第三項の神学によるKD全編書き直し」発言とは全く無関係ではありえないだろうと、私は見ています。

バルトがファン・ルーラーの名前を知らなかったはずはありません。バルトのオランダにおける親友であり何度も名前が言及されるライデン大学のミスコッテ教授は、オランダ改革派教会におけるファン・ルーラーの「論敵」でした。

ファン・ルーラーに関する情報は、ミスコッテから常に詳細に聞いていたはずです。「バルトとミスコッテがタッグを組んでファン・ルーラーを神学的リングの外に押し出した」と評している人がいるほどです。

私もバルトの近代主義、自由主義批判は正しかったと思っています。しかし、あの批判そのものはアンチテーゼにすぎないものであり、いわゆるジュンテーゼとしての新しいものを生み出すまでに至っていません。

19世紀の文化的プロテスタンティズムを徹底的に批判し、事実上の破壊にまで導いて、その後バルトは何を生み出したのでしょうか。「キリスト教的なるもの」(Das Christliche)を各個教会だけ(しかも都会の大規模教会だけ)、礼拝だけ、説教だけ、牧師だけのモノローグへと狭隘化しなかったでしょうか。

バルトについては今こそ真剣にそのようなことを考える必要があるだろうと、私は考えています。

ファン・ルーラーにしろモルトマンにしろ、新しいものを生み出すに至ったとまでは言えません。新しいものを生み出すどころか、20世紀の急速な世俗化=脱教会化の中で神学者の存在意義が根本から否定されてきた中で、手も足も出ない状況に追い込まれていったというのが本当のところでしょう。

しかしまた、だからこそ彼らが「バルト後の尻拭い時代」の中で新しいキリスト教的文化の形成のために悪戦苦闘した形跡はありありと残っていますので、それらから私たちが学びうることは多いと思います。



2009年3月17日火曜日

カール・バルトの影響(1)

拙論「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」をお読みくださった方から早速「ファン・ルーラーとカール・バルトは影響を受け合っているのか」という貴重なご質問をいただきましたので、謹んでお答えいたします。



ファン・ルーラーへのバルトの影響は決定的なものです。ポジティヴにも、しかしネガティヴにも。

ファン・ルーラーの大学(神学部)時代の組織神学の教授がハイチェマと言い、オランダ初のバルト主義者と呼ばれた人でした。博士論文執筆の際の指導教授にもなってもらいました。そのハイチェマを介しての影響です。

ファン・ルーラー自身の言葉で言えば、学生時代の(たぶん途中までの)ファン・ルーラーは「純血のバルト主義者」であった(やや冗談めかした誇張も含まれますが)ほどです。

しかし、ファン・ルーラーは学生時代(1920年代!)からすでにバルトの「限界」に気づき、反発も感じていました。ひとことでいえば、バルトの神学は「氷のように冷たい」という感覚であり、歴史や文化などに正当な位置を与えないものだという点への不満でした。

そして、その最初の思いがふくらみ、バルトの神学全体へのトータルな批判へと発展していきました。たとえば、現在『季刊 教会』に連載されているファン・ルーラーの「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差違」(牧田吉和先生の訳)には、バルト神学(だけではありませんが)へのトータルな批判の意図が込められています。

もっとも、年齢的には22歳の差があり(バルトのほうが上)、また国際的知名度(というか国際的売り込み)の上でもバルトのほうがはるかに優っていましたので、バルトはファン・ルーラーをほとんど全く相手にしませんでした。

また、誤解がありませぬように一応申し上げておきますと、拙論「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)」の主旨は、まさか「日本キリスト改革派教会批判」ではないし、「日本のカルヴィニスト批判」でもないということです。もっと広い話です。ここを読み間違えられて、「ああやっぱりな」とか思われてしまいますと、非常に困るところです。



ファン・ルーラーの喜びの神学(1)

先週金曜日に「五つのお知らせ」をしたばかりですが、一昨日と昨日で、二つ終わりました。どちらも楽しかったです。出席してくださった方々にも喜んでいただけたと思います。肩の荷物を少しおろすことができて、ほっとしました。残りはあと三つ。まだまだがんばるぞ。

「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」

(改革派神学研修所 東関東教室「信徒講座 生き生きクリスチャンライフ(1)」、日本キリスト改革派勝田台教会、2009年3月14日)

「聖書をどう語るか―牧師は説教をどのように準備しているか―」

(松戸小金原教会2009年度第1回教会勉強会、2009年3月15日)


2009年3月15日日曜日

地上のことを話しても信じないとすれば


ヨハネによる福音書3・9~15

「するとニコデモは、『どうして、そんなことがありえましょうか』と言った。イエスは答えて言われた。『あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。』」

先週から学んでおりますのは、わたしたちの救い主イエス・キリストとユダヤ最高法院の議員でありファリサイ派に属していたニコデモとの対話です。ニコデモにイエスさまがおっしゃったことは、こうでした。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。それに対するニコデモの答えはこうでした。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。

このニコデモの答えについて先週私が申し上げたことは、ニコデモはイエスさまの言葉を理解できなかったか、理解できたのにとぼけているのかのどちらかでしょうということでした。もう一度母親の胎内に入ってうんぬんの部分は、タイムマシンのような非現実的なことをイエスさまから言われたと感じて反発したか、腹を立てたかである可能性があるということでした。

ニコデモが腹を立てたと考える場合、彼が感じたことは自分のプライドを傷つけられたということでしょう。母親のお腹の中から出直してこいと言われた。それは、これまでの人生をすべて無かったことにしろ、ということか。生きてきたことはすべて無駄であり、苦労も無駄であり、流した涙も無駄である。そのように考えなければイエス・キリストと共に歩む新しい信仰の人生を始めることができないと言われるのであれば、わたしはそのような道に入ることができない。そのように感じる人がいるとしても、おかしくはありません。

しかし、イエスさまは、もちろん、決してそのようなことをおっしゃったわけではありません。そのようなことをイエスさまが言うはずがないと、わたしたちは、声を大にして言わなければなりませんし、イエスさまを信頼しなければなりません。わたしたちの人生には、無駄な部分など一つもありません。苦労も涙も無駄ではありません。わたしたちは生きていかなければなりません!何一つ無駄なことはないと信じて。すべてのものを両手の間にしっかりと抱えこんで。

ニコデモの疑問に対するイエスさまの答えは、こうでした。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。これは何のことでしょうか。何を意味し、また、どのようにして実現するのでしょうか。このことを今日は考えていきたいと願っています。

今日お読みしました最初の節(3・9)でニコデモが言っていることは、まさに今、私が問うたことそのものです。「どうして、そんなことがありえましょうか」。この翻訳は誤りであると、私が読んだ注解書に記されていました。ニコデモが言っているのは「どのようにしてそれは起こるのでしょうか」であると(C. K. Barret, John, 211)。イエスさまは、水と霊とによって新しく生まれなければならないと言われる。それは具体的にいえばどのようにして実現するのでしょうかと、ニコデモは質問しているのです。

この質問に対するイエスさまのお答えは、少々あきれておられるご様子です。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」。

あなたは先生でしょう。ユダヤ最高法院の議員であり、神の民イスラエルの最高指導者の一人であり、この国の人々を教え導かなければならない人でしょう。知恵と知識に溢れ、常識をもち、情報に事欠くこともないでしょう。そのようなあなたが、これくらいのことも分からないと言うのですか。

そして、そのようなことよりも何よりも、あなたがたイスラエルの教師たちは、聖書を勉強しているでしょう。この聖書という書物をきちんと勉強すれば、わたしが今言ったことを理解できないことなどありえないはずでしょう。それとも、あなたは分かっているのにとぼけているのですか。このような感じのことをイエスさまがおっしゃっている様子が伝わってきます。きついと言えば、これほどきつい言葉はない。強烈なパンチを、イエスさまがニコデモに向かって繰り出しておられます。

そして注目していただきたいのは11節以下です。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」。

私は今、この個所に書かれていることを注目していただきたいと申しましたが、同時に申し上げなければならないことは、この個所に書かれていることは分かりにくく、解釈が難しいということです。丁寧に見ていく必要があります。

まず最初に考えなければならないのは「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししている」の意味です。はっきり記されていないことは、イエスさまが何を知っておられてそれを語り、また何をご覧になってそれを証ししておられたのかです。しかし、考えられる可能性の選択肢がたくさんあるわけではありません。

いずれにせよ明らかなことは、イエスさまがおっしゃっているのは、水と霊によって人が新しく生まれる様子です。それがどのようにして実現するのかについての具体的な内容であり、経緯であり、現象とも言うべきことです。しかし、このように言うと、かえってますます分かりにくくなるかもしれません。

もっと分かりやすく言えば、水と霊によって新しく生まれた人の様子です。ニコデモがイエスさまのもとを訪ねたときには、すでにイエスさまの宣教活動は開始されていました。イエスさまのもとにはすでに十二人の使徒がおり、他にも多くの弟子たちが集まっていました。つまり、そこにはすでに一種の教会ができあがっており、あるいは少なくとも後に「教会」と呼ばれる人々の集まりの原型のようなものができつつありました。つまりそのときにはすでにイエス・キリストの名による洗礼を受けた人々がおり、イエス・キリスト御自身による聖書の解き明かしとしての説教を聴き、その説教によって呼び起された信仰をもって生きている人々の集まりがあったのです。

イエスさまがそれを知ってお語りになり、またそれをご覧になって証ししておられたのは、おそらくそれです。つまり、それはイエスさまのもとに集まっている人々の姿です。教会の姿と言ってもよい。しかし、より厳密に言えば、イエス・キリストの復活と昇天の後に起こる聖霊降臨の出来事によって「教会」になっていく前の信仰者の集まりとしての信仰共同体の姿です。あるいは、わたしたちなりの言い方でいえば、(かなりニュアンスは違うかもしれませんが)、独立した教会を設立する前の伝道所の姿と言ってもよいかもしれません。

ともかくイエスさまがそれを知り、それをご覧になっているのは、洗礼を受けて群れに加えられ、信仰をもって生きている人間の姿です。信仰者の姿です。もちろんその人々は水と霊とによって新しく生まれた人々です。

つまり、人が信仰者になるのは水と霊がその人の上に注がれた結果として起こることであるという意味で、水そのもの、霊そのものの影響あってのことであると言わなければならないかもしれません。しかし、少なくとも霊は目に見えない存在です。また水は、目に見えないということはありませんが、しかし、水そのものに何らかの特別な力があるわけではなく、水は水です。目に見えるのは霊ではなく、水そのものが持っている力でもなく(そのような力はないと申し上げたわけですが)、水と霊によって新しく生まれた人間であり、その姿です。

それは、ニコデモさん、あなたにも見えるでしょう。あなたの目に見える、見えている、信仰をもって生きている人々の姿。このわたしのもとにいる、教会に集まっているこの人々の姿をどうか見てください。それを見ても、あなたには「この人々は教会に通い始める前と何一つ変わっていない」としか見えないのですか。あなたの目は節穴ですか、とまではイエスさまはおっしゃっていませんが、何かそのようにおっしゃりたいほどの強い言葉が語られていると読むことができます。

注目していただきたい、しかし、解釈が難しいもう一つの点は、「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」です。これの解釈は二つに分かれます。

一つは、イエスさまがおっしゃる「地上のこと」とは、ニコデモがそれを「母親のお腹の中に戻ることなのか」と誤解したほどに地上的な意味にもとれる「新しく生まれる」というイエスさまがおっしゃった点であると理解し、それに対して「天上のこと」とは「水と霊によって生まれなければ入ることができない」とイエスさまがおっしゃった「神の国」としての天国のことであると理解する立場です。

かなりややこしい言い方をしたかもしれません。別の言い方をすれば、「新しく生まれる」とイエスさまがおっしゃったことは一種のたとえ話であると理解する立場です。その場合は、洗礼を受けること、信仰をもって生きること、教会のメンバーに加えられて教会生活を送ることも、一種のたとえ話であり、象徴にすぎないことです。それどころか、わたしたち人間がこの地上で体験する出来事は、いわばすべてがたとえ話であり、地上を離れた天国の出来事こそがリアルな現実であるとみなす立場です。

しかし、もうひとつの解釈がありえます。私はこれから申し上げることのほうが正しい解釈であると信じます。それは、水と霊によって新しく生まれること、そのことはすべて地上で起こることであり、それこそがまさに「地上的なこと」であるとイエスさまがおっしゃっていると理解する立場です。

この場合は、洗礼も、信仰も、教会生活も、たとえ話にすぎないものではなく、リアルな現実そのものです。わたしたちは地上でまさに新しく生まれるのであり、新しい人生を始めるのです。地上の現実のなかで天国そのものを体験するのであるとほとんど明言してよいほどの、リアルで劇的な変化を体験するのです。

こう言いますと、「何も変わっていないじゃないか」という声がすぐに聞こえます。このわたしは、またあの人は、この人は、教会に通う前と、教会に通い始めてからと、どこが変わっているのか。何も変わっていないではないかと。

そんなことはないと、私は申し上げたいし、イエスさまもそのようにおっしゃってくださるに違いありません。何も変わっていないどころか、全く違います。

あなたが教会に通っていること、教会のメンバーであること、そのこと自体が重大かつ決定的な変化です!お笑いになるかもしれませんが。

別の言い方をしておきます。わたしたちは、もはや独りで生きていないということです。あなたが絶望しそうなとき、教会があなたを助けます。どこへでも飛んで行きます。教会にできることは何でもします。

そのような仲間がいる。新しい家族がいる。それこそがあなたの新しい人生なのです。

(2009年3月15日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年3月13日金曜日

五つのお知らせ

以下、近況報告を兼ねて、五つのお知らせがあります。順序は、時間的に遠い順です。すべてに私も関わらせていただいています。なんだかとても忙しいです。



(1)カルヴァン生誕500年記念集会



2009年7月6日(月)、アジア・カルヴァン学会と日本カルヴァン研究会の共催による「カルヴァン生誕500年記念集会」を東京神学大学(東京都三鷹市)で行うことになりました。主題は「礼拝者カルヴァン」です。神学講演、ジュネーヴ詩編歌についての講演とパイプオルガン演奏、そして「ジュネーヴ礼拝式・聖餐式再現」など盛りだくさんの企画です。



詳しくは、「カルヴァン生誕500年記念集会ホームページ」をご覧ください。ポスターもダウンロードしていただけます。



カルヴァン生誕500年記念集会ホームページ
http://calvin09.protestant.jp/



また、このホームページで「カルヴァン生誕500年記念行事カレンダー」を近日公開予定です。このカレンダーには、日本全国ならびに海外で予定されているカルヴァン生誕500年祭の行事日程をまとめています。お楽しみに。



(2)アジア・カルヴァン学会 第7回講演会



2009年4月25日(土)、アジア・カルヴァン学会の第7回講演会を立教大学(池袋キャンパス)で行うことになりました。主題は「ヨハネス・アルトジウスの政治思想とその現代的意義~カルヴィニズムと政治をめぐる一側面~」です。第6回講演会が大いに盛り上がり、時間が足りなくなったので、攻守を交替して議論を続行することになり、今回の企画となりました。



詳しくは、「アジア・カルヴァン学会ホームページ」をご覧ください。有意義で白熱した議論を期待できます。ぜひご参加ください。



アジア・カルヴァン学会ホームページ
http://society.protestant.jp/



また、このホームページで近日中に「アジア・カルヴァン学会ニュースレター第5号」を発刊いたします。主な内容は、第6回講演会の報告(田上雅徳氏の講演要旨を中心に)です。お楽しみに。



(3)日本プロテスタント宣教150周年記念講演会



2009年4月21日(火)、日本キリスト教会と日本キリスト改革派教会の共催による「日本プロテスタント宣教150周年記念講演会」を、日本キリスト教会横浜海岸教会(神奈川県横浜市)で行うことになりました。両教会を代表する教師の講演を通して、日本宣教の幻を力強く受け継ぐ機会にしたいと願っています。



詳しくは、「日本プロテスタント宣教150周年記念講演会ポスター」をご覧ください。



日本プロテスタント宣教150周年記念講演会ポスター
http://www.rcj-net.org/images/150th_protestant_japan_poster.pdf



(4)牧師は説教をどのように準備しているか



2009年3月15日(日)、つまり明後日のことですが、松戸小金原教会の2009年度第一回教会勉強会を行う予定です。発題者は私・関口です。主題は「聖書をどう語るか」、副題は「牧師は説教をどのように準備しているか」です。教会のみんなに「伝道しましょう。伝道は牧師だけがするものではなく教会全体でするものです」と励ます立場にある者として、まずは自分の説教をどのように準備しているかを「公開」する機会をもちます。



詳しくは、「松戸小金原教会ホームページ」をご覧いただけますとうれしいです。このホームページは、現在80歳の引退長老が作成・管理してくださっています。



日本キリスト改革派松戸小金原教会ホームページ
http://www2u.biglobe.ne.jp/~matudo/



(5)改革派神学研修所 東関東教室



2009年3月14日(土)、つまり明日のことですが、改革派神学研修所東関東教室主催「信徒講座 生き生きクリスチャンライフ」で、私・関口が「ファン・ルーラーの喜びの神学」というお話をします。会場は日本キリスト改革派勝田台教会(千葉県八千代市)です。



詳しくは、「改革派神学研修所 東関東教室ホームページ」をご覧ください。



改革派神学研修所 東関東教室ホームページ
http://higashikanto.reformed.jp/



以上、宣伝ばかりとなりましたことをお詫びいたします。



私自身も過去にひどく痛感させられ続けたことですが、首都圏の教会と地方の教会の「情報格差」は、あまりにも歴然としています。ブログやメールのような(これ自体は安っぽい)ことが、ほんの少しでも何かのお役に立つのであれば(立つのであれば、です)、私の力の尽きるまで情報を発信させていただきます。



皆様、どうかお元気でお過ごしくださいませ。



2009年3月8日日曜日

新たに生まれなければ


ヨハネによる福音書3・1~8

「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。』イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。「あなたがたは新たに生まれなければならない」とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。』」

今日から三回に分けてじっくり見ていきたいと願っておりますのは、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)の議員の一人とイエスさまとのやりとりです。その議員の名はニコデモ。ユダヤ教団の「ファリサイ派」というグループに属していました。

このファリサイ派に属していた人の中で間違いなく現在最も有名な人は使徒パウロです。ファリサイ派の特徴は、まさに「パウロのような熱心さ」をもった人々であったと評することができるでしょう。

たとえば、パウロはキリスト教徒を迫害することに熱心であった過去をもっています。迫害することにも熱心、でした。しかしその後、パウロはイエス・キリストを信じるようになり、キリスト教を宣べ伝える伝道者になりました。信じることにも熱心、宣べ伝えることにも熱心、でした。そこにはもちろんパウロの個人的な資質を勘案する必要があるでしょう。しかしまた同時に、パウロ自身が認め、はっきりと自覚していたことは、わたしはあの熱心なファリサイ派出身の人間であるということでした。それほどに、宗教がそれを信じる人々の人格全体に与える影響は大きいのです。

ニコデモの場合はどうだったでしょうか。はっきりしたことは分かりません。しかし、やや強引な結びつけ方かもしれませんが、ニコデモにもパウロと共通する熱心さの要素を見出すことができるように思われます。熱心な人ということで私が描くイメージは、物事を突き詰めて考える人であり、一つのことを思い立ったらすぐさま行動に移す人であり、自分がとことん納得するまで簡単には受け入れない人であり、しかしまた、一度決めたらその道を、これまたとことん貫き通し、その決めごとのために自分の全生命を投げ出し、激しく動き回る人です。ニコデモにもそのような面があったのではないかと思うのです。

ニコデモは「ある夜」イエスさまのもとに来ました。この点は彼の人となりを考える上で重要です。ニコデモは議員であり、すなわち、その国の中では「超」の字が付く有名人なのであって、どこを歩いていてもすぐに知られてしまうほどの人でした。有名人の行動は衆人の注目と環視のもとにあります。そのような人がなんとかしてイエスさまにお会いしたいと願ったのです。

当然、人目をはばかりながら、こっそり会う必要がありました。しかしどうしても会いたい。今すぐ会いたい。イエスさまに会って話をしさえすれば、自分が今考えていること、あるいは今悩んでいることが解決するかもしれない。その思いを果たすためにニコデモは「夜」行動したのです。

あるいは、考え事をしていると夜も眠れなくなるタイプだった(?)のかもしれません。あるいは、夜ひとりであれこれと想像を巡らしているうちに、いても立ってもいられなくなり、イエスさまのところに行って悩みを聞いてもらいたいと思った(?)のかもしれません。「夜」イエスさまに会いに来たという点から、ニコデモとはどんな人だったのだろうかと、こんなふうにいろいろと想像を巡らしてみることもできるでしょう。

このニコデモがイエスさまに最初に言ったことは、イエスさまに対する尊敬を示す言葉でした。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」彼はこのことをお世辞で言っているのではありません。本当にそのとおりであると信じていたに違いない。人々が口にしはじめたイエスさまのうわさを聞くにつけ、その確信を深めていったものと思われるのです。

ニコデモが聞きつけたイエスさまについてのうわさ話は、人間の力では絶対にできないようなことができる、まさに神のような手(ゴッドハンド?)のわざをもつ、そういう人が現れた、というようなことであったと考えられます。

ここでこそ重要なことは、ニコデモは「議員」であったという点です。議員であるとは、要するに政治家であるということです。政治家が手にするのは、要するに権力です。彼としても、「人間離れした力」というくらいの意味での神の力のようなものが与えられさえすれば今よりもっと強い人間になれるのに、という願いや欲求を抱いていたと考えることはできるでしょう。

「政治」とか「権力」とかいう言葉を聞くとすぐに悪いイメージを抱くのは間違いです。力がなければ、人を助けることもできません。悪い社会を変えることもできないのです。もしニコデモがイエスさまのもとを訪ねた目的が「あなたが持っておられる人間離れした、まさにカミワザのような力をわたしにも教えてください。私もぜひあなたと同じような力を手にして強くなりたいです」とイエスさまにお願いすることであったとしても、彼のことを責めたり悪く思ったりすべきではありません。政治家ならば当然考えることであり、また考えるべきことなのです。

ところがイエスさまは、そのニコデモに対して、明らかに、どこか痛いところを逆なでするようなことを言われました。ニコデモの考えていることをすべてお見通しのように。しかしまた、あなたが考えていることは根本的に方向を間違っているので、それを変える必要があることだとおっしゃりたいように。根本的に方向を変えなければならないのは、あなたの考え方だけではなく、頭の中身だけではなく、生き方そのもの、生活全体も全く新しいものへと造りかえられなければならないとおっしゃりたいかのように。

イエスさまがおっしゃったのは、「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」ということでした。ここで語られていることは、要するに、新しく生まれる必要性です。「再び生まれる」と訳すこともできます。日本語的に表現すると、「生まれかわる」とか「生まれなおす」というふうになるかもしれませんが、かえって余計に分からなくなってしまうと感じる方もおられるかもしれません。

イエスさまがおっしゃっていることに最も近いかもしれない、わたしたちにとって比較的身近な表現は、「人生を一から出直す」ということです。そのように言えば、一応ぴんとは来るものになると思います。しかしそのこと(人生を一から出直すこと)とイエスさまがおっしゃったこととは「ある意味で近い」かもしれませんが、根本的に違います。

そもそも、「人生を一から出直す」とは、具体的に何をすることでしょうか。このような言葉を口にすることは、いとも簡単なことです。「わたしは出直します。一から、いやゼロから出直します」と。しかしそれは何をすることでしょうか。具体的なイメージに乏しいものがあります。今自分がしている仕事を辞めて、新しい仕事を始めることでしょうか。あるいは、現在の人間関係(結婚などを含む)を解消して、新しい人間関係を始めることでしょうか。もちろんそのとき大きな変化が起こるとは思います。しかし、それ(転職や再婚など)が「人生を一から出直すこと」でしょうか。それほどのことでしょうか。それによってわたしたちの人生が新しくなる面と、何も変わらない面の両方があるのではないでしょうか。

ニコデモはイエスさまがおっしゃったことの意味がよく分からなかったようです。または、分かっていてとぼけているかのどちらかです。彼はイエスさまに「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と問いかけました。生まれかわるとか生まれなおすだなんて、そんなことできませんよ。え、それってお母さんのお腹の中に逆戻りして再び産んでもらうことなのか?そんなこと、できるはずがないだろうと。

ニコデモがイメージしたらしいことは、いわばタイムマシンです。味わってきた嫌なことや辛い過去の思い出は、すべて消えてしまう。あのとき付いた体や心の傷も、あのとき失った体の部分や人間関係も、みんな元通りになる。恥多き人生を送ってきたという自覚のある人が、恥をかく前の自分に戻ることができる。今度こそは、恥をかかないで、失敗しないで、うまくやれるかもしれない。もし生まれかわることができるなら、あのとき、あの選択肢ではなく、この選択肢を選んでいたら、今とは全く違う人生がありえたかもしれない。

わたしたちはそのように考えることはできます。また、今はさまざまな選択肢を選ぶことができるし、選択肢そのものがあふれていると言えるほどです。顔や形の作りを変えることができる。性別さえ変えることができる。情報は洪水のように押し寄せる。どんなことでも教えてくれるし、教えたがっている。そのような中で、いろんな選択肢を見比べてみること、今の生き方ではなく別の生き方をしてみたいと考えること自体が悪いなどと、誰が責めることができるでしょうか。人生をやり直したいという願望なら、だれにだってあります。ないでしょうか。私にももちろんあります。すべてをリセットしてしまいたいという衝動さえ感じたことがないというと嘘になります。

しかし、それはいったいどのようにして現実化するのでしょうか。「生まれかわる」とか「生まれなおす」というのは非現実的なことではないでしょうか。ニコデモの質問の意図はこのあたりにあると言えるでしょう。

あるいは、ニコデモは、イエスさまの言葉を聞いて、もしかしたら、ひどく腹を立てたかもしれません。「新しく生まれなければならない」と言われる。ということは、今までの人生はすべて駄目だったということなのか。わたしの人生を全否定するつもりなのかと。「母親のお腹の中から出直してこい」とでも言いたいのか。それは、人を馬鹿にしている発言ではないのかと。

イエスさまの意図はもちろん、そのようなことではありませんでした。それはもちろん、非現実主義ではなく、現実逃避でもなく、他人の人生を馬鹿にすることでもありません。しかし、それでは何なのかというところまでお話しする時間がなくなりました。この続きは来週お話しいたします。

来週お話しすることに、少しだけ触れておきます。イエスさまは「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃいました。「風は思いのままに吹く」とも。これがイエスさまのお答えでした。

「風」のイメージで描かれているのは「聖霊」です。聖なる霊であり、聖霊なる神です。この、風のように自由に行き交い、人に影響と作用を及ぼす「聖霊」が、その人のうちに注がれ、働き、その人と共に生き始めること。それが、イエスさまのおっしゃるところの「新しく生まれること」です。その変化の大きさは、先ほど取り上げたようなこと(転職や再婚など)をはるかに越えています。事実上、全く新しい人生を始めることです!

(2009年3月8日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年3月1日日曜日

神殿を三日で建て直す


ヨハネによる福音書2・13~25

「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」

今日の個所に描かれているイエスさまのお姿は、どれほど贔屓目に見ても乱暴であると言わざるをえません。その手に鞭を持ってエルサレム神殿の中で暴れ回っておられます。唯一慰めを感じる点を探すとしたら、書かれていることを読むかぎりですが、イエスさまが振り回しておられる鞭が人の体に当たっていないことです。しかし羊や牛、両替人の金、その台には容赦なく鞭が振りおろされています。すべてがめちゃくちゃにされています。小さな子どもがいたら激しく泣いてしまうだろうと思われるほどです。

ですから、今日の個所のイエスさまのお姿はわたしたちにとっての模範的なものであると考えることはできません。「なるほど了解しました。わたしもこれから家に帰って自分の鞭を作ります」というようなことは、どうかお考えにならないでください。わたしたちには許されていることと許されていないことがあります。このときイエスさまがなさったことは、わたしたちが決して真似をしてはならないことです。わたしたちは、どんなことがあっても暴力を働くべきではありません。

しかし、です。今私が申し上げたようなことはイエスさまもよく分かっておられました。そのように信じることができます。イエスさまがエルサレム神殿の中で暴力を働かれたことについては、ヨハネによる福音書だけではなく、他の三つの福音書にも記されています。四つの福音書が証言していることは、イエスさまがこのようなことをなさったのは、後にも先にも、たった一回限りであるということです。

一回限りならば何をしてもよいと申し上げたいわけではありません。しかし、先ほども指摘しましたように、幸い、イエスさまの鞭は、人間をめがけて振りおろされたものではありませんでした。

そしてもう一つ指摘しうることは、これも四つの福音書に共通していることなのですが、イエスさまの鞭によって商品をめちゃくちゃにされた人々が逆上して、つかみあいの乱闘が始まったとは書かれていないということです。

そのため、私が感じることは、イエスさまのなさったことが暴力であることは認めざるをえませんが、しかし、どこかしら(「どこかしら」です)手心が加えられていたようでもあるということです。イエスさまのなさったことの目的は、人間に危害を加えることではなく、今の事態を変革し、打破することにあったと考えることができるのです。

神殿の中で商売をしていた人々が売っていたものは、まもなく始まろうとしていた過越祭で用いられるものでした。牛や羊や鳩は、犠牲の供え物として神にささげるためのものでした。つまり彼らが扱っていた商品は宗教用品でした。今とは違います。アクセサリーとかTシャツとか記念品というような、神殿の宗教とそれとの直接的な関係を見出すことが難しいようなものを売っていたわけではなかったのです。

この点から分かることは、イエスさまが問題にされたのは売られていた商品の内容ではなかったということです。もし彼らが牛や羊や鳩ではなく別のものを売っていたとしたら、イエスさまが暴力を働かれることもなかっただろうと考えることはできそうにありません。そのことはイエスさま御自身の言葉からもはっきりと分かります。「このようなものはここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」(16節)。

これではっきり分かることは、イエスさまが問題にされたことは、売られていた商品の内容ではなく、その場所で商品が売られていたこと自体であったということです。商売が行われるべきではない場所で商売が行われている。そのことを問題になさったのです。

しかしまた、このことは、もう一段階掘り下げて考えてみるべきです。そこで売られていた商品が宗教用品であり、かつ、まもなく始まろうとしていた過越祭に直接必要となる道具であったということは、その収益金や出店のための場所代などが神殿そのものの収入にもなっていたであろうということです。これは確実に言えることです。おそらくは神殿側としても、その収入をかなりの面で期待していたところもあったのです。

しかし、だからこそイエスさまは、そのこと自体を否定なさったようでもある!神殿の運営は商売によって成り立つものであってはならない。そのことをイエスさまは、まさに力づくで主張なさったようでもあるのです。

わたしたちはどのようなことを思い描けばよいのでしょうか。目を閉じてあれやこれやを想像してみるとよいのです。古い歴史を持つ大きな建物がある。それは一種の芸術作品とも言うべき何ものかである。それを一目見たいと外国からもたくさんの人々が集まってくる。そこで行われている礼拝とか、その礼拝において崇められている神とか、そういうことには全く関心のない人々も集まってくる。

しかしその人々も、信仰とか何とかは全く持っていないのだけれども、その建物の中で伝統的に行われてきたことの真似事くらいはしてみたくなる。辺りをきょろきょろ見回すと、あつらえ向きな商品を売っている店が見つかる。これは良かったと買い求めて真似事を始めようとする。もちろんそこには真剣に礼拝している人々もいますので、きゃっきゃと騒ぐようなことはさすがに慎むとしても、照れくさそうににやにや笑いながら、あるいは真剣に礼拝している人々を興味本位の目で眺めながら、心にもないことを始める。

そのようなことはわたしたちの時代においては、ごく当たり前のことのように行われていることですので、問題にしにくいことではあります。しかし、あえて言えば、興味本位で傍観する人々が混ざっている礼拝は、真剣に礼拝をささげている人々にとっては不愉快なものでありえます。信仰者としての率直な感覚からすれば、自分の命に代えても惜しくないほど大切にしているものを汚されたような気持ちにさえなるものです。

今の日本の中で問題になっていることは大学のレジャーランド化というようなことです。私の中で思い当たるのは、まさにこれに近いことです。イエスさまが問題にされたことは、神殿のレジャーランド化、あるいは宗教施設のレジャーランド化です。

しかし、こういうことを言いっ放しにするだけでは意味不明ですし、誤解を招くだけでしょう。「大学のレジャーランド化」とは、大学が学生にとって楽しい場所になってきたという意味ではありません。大学本来の目的は学問であるという点が見失われ、別の目的が支配する場所になってしまったという意味です。あるいは、学生がまるで観光客のようであり、先生はひたすら純粋にサービス業に徹しなければ成り立たない場所になってきたということです。そして、学生たちの支払う料金のようなもので成り立つようになってきたということです。

このように言うことによって私は、観光業に携わる人々や観光客を軽んじているつもりはありません。しかし、そのことをご理解いただいた上でなお申し上げなければならないことは、大学とレジャーランドは違うものであるということです。きちんと線が引かれなければなりません。そして神殿とレジャーランド、さらに教会(!)とレジャーランドも違うものであるということです。

このように私自身が申し上げる場合の意味は「教会は楽しい場所であってはならない」ということではありません。正反対です!教会は楽しい場所でなければなりません。教会はレジャーランド以上に楽しい場所でなければならないのです。

しかし、だからといってわたしたちは、教会を商品販売のような要素がないかぎり成り立たないものにしてしまってはいけません。それは本末転倒です。教会を支えるのは信仰であり、祈りであり、奉仕です。それはまた、わたしたちの教会には料金表のようなものは一切ありませんということでもあります。これだけ支払いさえすれば大丈夫というような規準のようなもの何もありません。また逆に、これだけ支払わなければ仲間に加えてももらえないというようなものもありません。

もっとも、イエスさまの時代の神殿で動物が売られていたのは、真剣そのものの礼拝者たちの中で遠い町から来る人々が、重い荷物を運ばずに済むように便宜を図っていた面もあったと思われます。ですから彼らのしていたことのすべてが悪いと言い切ることは無理な面もあるのです。しかし、そのような善い面が大義名分となり、隠れ蓑になって、いつの間にか悪い面が忍び込んでくるというのが世の常です。神殿側も、彼らの収入を当てにし始める。いつの時代にも、この種のことが宗教を堕落させる原因になってきたのです。

ですから、イエスさまが退けられたのは商売人たちであったと考えることは不十分です。イエスさまがお持ちになったその手に鞭の象徴的な意味は、商売人たちの裏に隠れているもの、すなわち、神殿そのもの、そしてまた神殿の宗教そのものへの(やや物騒な言い方をもちだすなら)宣戦布告であったと言えるのです。だから一回限りで十分だったのです。

退けられた商人たちは、暴力をもってかかってくることはありませんでしたが、イエスさまに食ってかかりました。「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」。それに対するイエスさまのお答えが、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」ということでした。この答えについてヨハネが解説しています。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(21節)。

事実イエス・キリストは三日で神殿を建て直されました。神殿とは神の栄光をあらわす器です。それはイエス・キリスト御自身の体である。すなわち、イエス・キリストが三日目に死人の中からよみがえられたこと、それによって、真の神殿が建て直されたのです。イエスさまの復活の体は、エルサレム神殿よりもはるかにまさって神の栄光をあらわすものでした。イエスさまを信じる者たちにとっては、エルサレム神殿はもはや不要になったのです。

聖地旅行などしてはならない、というようなことを申し上げているのではありません。しかし、何が何でもエルサレムに行かなければ真実の礼拝をささげたことにはならないというような考えはわたしたちには全くありません。わたしたちの礼拝は場所を問いません。突き詰めて言えば、教会は人であって、建物ではありません。そもそも、建物がなければ礼拝はできないという考え方自体がないのです。わたしたちはどんな場所でも・場所など無くても、今・ここで、霊とまこととをもって礼拝をおこなうことができ、それによって神の栄光をあらわすことができるのです。

(2009年3月1日、松戸小金原教会主日礼拝)