ツィンツェンドルフの本を読むか、
それとも、
1933年から1941年までのオランダとドイツのプロテスタント諸教会の本を読むかで迷い、
結局、カルヴァンの『キリスト教綱要』を読んでいるという
迷走っぷりです。
以下、引用。
「だからこそ信仰者は、この死すべき生を評価する際に、それ自体としては悲惨以外の何ものでもないことを弁え、いよいよ快活に一層よく用意のできた者として、来たるべき永遠の生への瞑想に自己の一切を委ねるという目標を持たなければならない。」
「比較して見ると、現世の生は無視して差し支えないのみならず、来たるべき生と対照的に、徹底的に軽んじまた忌避しなければならないものである。」
「天上の生と比べるならば、地上の生は疑いなく容易に軽んじられ踏み躙らるべきものである。」
「いずれにせよ、我々はこの世を飽き飽きするもの、あるいは憎いものとして関わり、それが終わることを願うのであるが、主の御旨であればここに留まる覚悟を決め、倦怠を覚えることがあっても一切の呟きや短気を断ち切っていなければならない。」
「したがって、生きるのも死ぬのも主のため、ということが我々に似合っているとすれば、己れの生と死の境目を主の意志決定に委ねなければならない。」
「死を求める熱心に燃えて絶えずそれを瞑想し、来たるべき不死の生の故にこの世の生を軽んじ、これが我々を罪の隷属の下に置いていることを思い、主が良しと見たもう時にはいつでも放棄できるように願うべきである。」
以上は、渡辺信夫先生によるカルヴァン著『改訳版 キリスト教綱要』(新教出版社)の第3篇第9章4節から抜粋させていただいたものです。
いわゆる「来たるべき永遠の生への瞑想」(meditatio futurae vitae)についてカルヴァンが論じている部分です。
ぼく流の超訳でまとめれば、
「ぼくたちは生きているのが嫌で嫌でたまらない。一刻も早く死にたいんだけどと願いながら、まだ死なせてもらえないのは主の御心のようなので、それならばと仕方なく生きてはいるが、死ぬと決まったら早く早くと願うべきである。そのようにしてぼくたちは人生と世界を徹底的に無価値なものとみなし、天上の生だけをひたすら夢見るべきである。」
というような話だと思います。(違うって言えますか?)
このカルヴァンの思想が、ぼくにとっては堪えがたいものでした。
つい先週くらいまで。
はっきり言えば、この部分に限ってカルヴァンは、まるでグノーシス主義者然としているとさえ感じていました。
ファン・ルーラーもこのカルヴァンの「地上の生を軽んじろ」という教えをひどく嫌っていました。
ですが、ふと気づかされるものがありました。
カルヴァンが「早く死にたい」理由というか、動機というか。
彼が「この世の生を軽んじろ」と主張する理由というか、動機というか。
今さら何を、と言われそうですが、
カルヴァンのそれは「殉教」の覚悟というか、決意そのものですよね。
カルヴァンのことを良く思わない人たちは、カルヴァンと言えばセルヴェ処刑に加担した、良心の迫害者のように扱いたいのでしょうけれど、
カルヴァンも十分な意味で迫害を受けた人だし、いつでも殉教の可能性はあった人です。またカルヴァンの教え子たちは、非常に過酷な迫害を受けました。
まだ学術的な根拠などはありませんが、
カルヴァンの「来たるべき永遠の生への瞑想」(meditatio futurae vitae)を「殉教」との関係で読み直してみると、ぼくの中の抵抗感が少しは緩和されるものがあるかもしれないなと思い直しているところです。
でも、ぼくは「早く死にたい」とは思わないです。
迫害者側に寝返るくらいなら死んだ方がましだとは思いますが...。
あ、これか!