2013年12月23日月曜日

わたしが命のパンである

ヨハネによる福音書6・34~40

「そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその日を終わりの日に復活させることだからである。』」

今日皆さんに覚えていただきたい聖書の御言葉は、たった一言です。

それは「わたしが命のパンである」というイエス・キリストの御言葉です。

この御言葉が出てくるのは、新約聖書のヨハネによる福音書の6章35節です。その前後の文脈が分かるように、いま少し長めに朗読しました。

イエスさまが「わたしが命のパンである」とおっしゃった文脈は、イエスさまとイエスさまのもとに集まって来た群衆との対話です。

その「群衆」の中にいたのはイエスさまの弟子たちだけではありません。イエスさまの弟子とはイエスさまを信じている人のことです。しかし、そこにはまだイエスさまを信じていない人々もいました。その人たちの前で、イエスさまは「わたしが命のパンである」とおっしゃったのです。

そのときの状況について聖書に記されているのは次のようなことです。イエスさまのお話を聞くためにたくさんの人が集まって来ました。なんと5千人もの大集会が行われたというのです。

すると、そのときイエスさまが、一つのことを気にかけられたというのです。なんとイエスさまは、ご自分の話を聴くために集まって来てくれた5千人の人々の食事の心配をしてくださったというのです。みんなお腹がすいただろうと心配してくださったというのです。しかし、イエスさまの弟子たちは、5千人の食事の準備などは考えてもいませんでした。

そこでイエスさまは一つの奇跡を行われたというのです。一人の少年が持っていた大麦のパン5つと魚2匹を手に取られ、それを5千人の人たちにお分けになりました。

どういう方法でかは分かりません。とにかく5千人で分けた。すると、みんながそれで満足し、満腹したというのです。驚くべき奇跡です。

それでどうなったか。イエスさまを信じる人たちが増えたというのです。驚くべき奇跡的な出来事を目の当たりにして、それをきっかけにして、イエスさまを信じるようになった人たちがいたというのです。わたしたちも信仰の道に入るときには、いろいろなきっかけがあります。

ところが、イエスさまは、その人々に対して、ものすごく厳しいことをおっしゃいました。それは震えあがるほど厳しい言葉です。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(6・26)。

イエスさまがおっしゃっていることの意味は、あなたがたは、私を信じているのではなくて、ごはんが食べたいだけなのだ、ということです。

ごはんを食べさせてくれるから、わたしのもとに集まっているのだろう。ごはんを食べさせてもらえなくなったら、わたしのもとから去るだろう、ということです。これは厳しい言葉です。

しかし、その人たちにも言い分がありました。彼らはイエスさまに言いました。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」(30節)。

あなたを信じることは、やぶさかではない。信じろというなら、信じてもいい。だけど、そこまで言うなら、あなたを信じるに価するだけの根拠を見せてくれ、それを見せてくれるなら信じてあげてもいい、というわけです。彼らの言い分も、よく分かります。

その人々に対してイエスさまがおっしゃったのが「わたしが命のパンである」という御言葉でした。その意味は、「わたしがパンだ。わたしを食べなさい」ということです。

これはとてもひどい話だ、人の体を食べるという話なのか、気持ち悪い、というような意味のこととして聴いた人たちもいたようです。しかし、イエスさまがおっしゃっていることは、もちろんそのような意味ではありません。

しかし、それでは、イエスさまがおっしゃりたいことは、何でしょうか。考えられるのは、次のことです。「イエスさまを食べる」とは、イエスさまの存在を丸ごと受け容れることです。イエスさまを丸飲みすることです。それはイエスさまを心から愛し、共に生きることです。

気持ち悪いでしょうか。そういう面もあるかもしれません。しかし、たとえば結婚の直前や直後のカップルは、相手を食べてしまいたい(?)と思うくらいの気持ちを持っているのではないでしょうか。

もちろんお互いは独立した人格同士ですから、食べてしまってはいけません。しかし、「愛する」というのは、相手と自分を明確に区別することができないほどに、いつも一緒にいたい、一緒でありたいと願うことです。

イエスさまを愛すること、イエスさまの御言葉に従い、イエスさまの行いを模範にして生きること。それが「イエスさまを食べること」です。そのことをイエスさまは、ご自分の弟子たちに対してだけではなく、まだイエスさまを信じていない多くの人たちにお勧めになったのです。

それは、わたしたちにとって毎日の食事に匹敵するほど大切なことです。いま私は「匹敵するほど」と言いました。どちらが大事なのか、というような比較はできません。両方、大切です。

両方が大切であるということは、イエスさま御自身のお考えでもあります。イエスさまがそういうお考えでなければ、5千人の人々の食事の心配などなさったはずがないのです。

「食事のことなどどうでもいい。そんなことは個人の自己責任だ。わたしには関係ないことだ。食べずに我慢しろ。そんなことよりも、わたしの話を聴くことのほうが大事だ」とは、イエスさまはおっしゃいませんでした。

ですから、私も牧師として、そのようなことを言ったことは一度もありません。毎日の食事のことなどどうでもいい。それよりも信仰のほうが大切だ。そのようなことを考えたこともありません。

日々の食事の問題は、わたしたちの人生の大問題です。それはイエスさまを信じることに匹敵するほど重要です。

しかし、そのことを十分に確認したうえで、もう一言付け加えさせていただきたいことがあります。

毎日の食事のためだけに働くことには、どこかしら空しさが伴います。その人生にプラスアルファが欲しくなります。汗水たらして働いて、その全精力を自分と家族の生活だけに費やしてしまうということには、空しさが伴います。

生活の余裕など1ミリもないかもしれません。それもよく分かります。しかし、だからと言って、世のためにも、人のためにも、そして神や教会や宗教のために、1ミリの関心も持たないというような人生になってしまってよいでしょうか。そこには空しさが伴います。

人生のプラスアルファとしてでもいいです。イエス・キリストを信じてみませんか。「命のパン」を食べてみませんか。イエスさまが願われたことは、そのことです。

(2013年12月23日、松戸小金原教会クリスマスキャンドル礼拝)