2013年11月17日日曜日

神に計画があり、万事が益となります

ローマの信徒への手紙8・28~30

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

今日もローマの信徒への手紙を開いていただきました。今日の個所に記されているのは多くの人の心を慰めてきた有名な御言葉です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)と記されています。

「神を愛する者たち」と言われているのが、被造物がその出現を待ち望んでいるとパウロが書いていた「神の子たち」(19節)のことです。それはわたしたちです。イエス・キリストと結ばれるために洗礼を受けた者たちです。それは教会です。

しかもそれは、教会という団体を指していると同時に、この団体の中にいる一人一人のキリスト者を指しています。その場合の個人と団体との関係は、「鶏が先か、卵が先か」という問題ほどには難しくありません。教会の場合は個人が先です。個人としての一人一人のキリスト者が集まって教会をつくるのです。その逆はありません。そこに一人もキリスト者はいないけれども、教会が存在するということはありません。

しかし、パウロは「神を愛する者たち」とは「御計画に従って召された者たち」であると、ただちに言い換えています。「御計画」とは神の御計画です。わたしたちの神は心をもっておられる存在です。その神が、御自身の心の中に、この地上に教会をつくる計画をもっておられるのです。その意味は、神がこの世界に教会が必要であると信じておられるということです。そして、その神が御自身の必要と御計画に基づいて、神を愛する者たちを神のみもとに召し集められるのです。

この「召された」という点は重要です。わたしたちは自分で教会を探して、ここに来たと思っています。電話帳を調べたかもしれませんし、最近ではインターネットで調べたという方も多いでしょう。チラシを見てくださった方もおられるかもしれませんし、聖書を本屋で買って読んだ、キリスト教の本を読んだ、キリスト教のラジオ番組を聞いたという方もおられるかもしれません。あるいは、教会の人から誘われた。親に連れて来られ、自分も信じるようになった。そのように、わたしたちが教会に通いはじめるまでには、いろいろなきっかけがあったと思います。

しかし、それがどのようなきっかけだったにせよ、わたしたちは、とにかく自分でここに来たのだと、最初は誰でもそう思います。遠くの町から引っ越してきたとき、いくつかの教会をまわってみて、自分にいちばん合いそうな教会はここだと思って通うことにした。そのように最初は誰でも思います。そのように考えること自体が間違っているわけではありません。当然のことです。

しかし、そのわたしたちが教会に通いはじめて、しばらくすると、分かって来ることがあります。それは、わたしは自分で教会に来たと思っていたけれども、実はそうではなかったということです。神がわたしを教会へと召されたのだということが分かってきます。神御自身があらゆる手段を用いて、わたしたちを教会へと導いてくださったのだ、ということが分かってきます。

それはよく考えてみれば、ものすごく分かりにくい、めちゃくちゃに現実離れした考え方ではないということをお分かりいただけるはずです。先ほど電話帳だ、インターネットだ、チラシだ、本だ、ラジオだと言いました。あるいは教会の人から直接誘われた。それらはすべて教会自身ができるだけ多くの人たちに教会の存在を知っていただきたいという強い願いをもって行っていることです。ここに教会が存在していること自体も、教会の建物も、ずっと前からここにあったわけではなく、教会のみんなで力を合わせ、献金を集めて作っているものです。

そういうことは、教会に初めて来たばかりの頃のわたしたちには分からなかったことです。最初はみんなお客さんでした。お客さんであることが悪いわけではありませんが、だんだん教会の内部事情が分かってくるときが来ます。

神を信じることも、教会に通うことも、自分で始めた、自分で決めたと、最初はみんなそう思うのです。しかし、実際はそうではなく、わたしたちは招かれ、召され、集められたのです。すべての人、すべての生き物が自分で自分を生み出すことはできず、必ずその親から生まれるように、わたしたちの信仰も、教会生活も、自分で生み出したものではなく、神が生みだしてくださったものなのです。

もちろん、いま申し上げていること自体が信仰です。わたしたちは神を信じる信仰へと導かれないかぎり、そのような考え方をもつことができません。信仰がなければ、わたしたちはあいかわらず、自分でここに来た、自分で教会を選んだと思うでしょう。しかしその思いは、信仰を与えられたときに初めて、実はそうではなかった、神が私をここへと召し集めてくださったのだという思いへと置き換えられるのです。

いま、少し長く説明させていただいたのは「召された」という言葉の意味です。パウロが言いたいことは、教会は神がつくってくださったものであり、わたしたちは神によって教会に集められたのだ、ということです。それは神がこの世界に教会が必要であるとお考えになったからです。

それでは、なぜ神はこの世界に教会が必要であるとお考えになったのでしょうか。その答えはこうです。神は、御自身の手によって創造されたこの世界と人間から、御自身が愛される存在でありたいと願われたのです。神は「神を愛する者たち」をこの世界に生み出すことを願われたのです。

人間の親子の関係を考えてみれば、いま申し上げていることは、ある程度はご理解いただけるはずです。親が自分の子どもたちに願うことは、それはやはり自分のことを愛してもらいたいということだと思います。自分の子どもに嫌われたい、憎まれたいと願う親は、通常はいません。全くいないとは言い切れませんが、多くはないと思います。ほとんどの親は子どもから愛されたいと願うでしょう。

もちろん、そのように、親が子どもから愛されるために親がしなければならないことは、子どもを愛することです。自分が愛した分だけ、相手から愛してもらえるでしょう。親は子どもを愛さないが、子どもからは愛されたいというのは虫が良すぎます。親と子どもの関係は、ギブアンドテイクです。親から子どもへの愛は一方通行の場合もあると思います。しかし、親から愛されなかった子どもが、それでも親を愛するということは通常ないと考えるべきです。

神は世界と人間を心から愛してくださっています。わたしたち一人一人を愛してくださっています。しかし、親から子どもへの愛は一方通行である場合もあると、たったいま申し上げました。そのようなことが神とわたしたち人間との間にもありえます。そのようなことが現実にあります。

わたしたちの命は神が創造されたものです。わたしたちの存在と人生を創造されたのは、神です。そして、わたしたちは生きている間、あらゆる種類の恵みと祝福、楽しみと遊びを神から与えられています。

しかし、そのようなことは全く考えたこともないという人は、残念ながら少なくないのだと思います。わたしたちは神から愛されているとか、神の恵みをいただいているとか言われても、その意味がよく分からないと感じる人は、おそらく多いのだと思います。神からどれだけ愛されていても、その愛に気づくことがなく、ありがたいとも思わないので、「神を愛する」ということの意味が分からないのです。

教会とか牧師とか、そういう人たちが、聖書の言葉に基づいてそのようなことを言っていることについては、それを全く知らないわけではないし、少しくらいは耳を傾けることもやぶさかではない。しかし、だからといって、それを信じなさいとか受け容れなさいとか言われても困る、と感じる人は、多いのだと思います。

なぜ困るのでしょうか。その理由は分かります。なるほどたしかにわたしたちには恵みというようなものも与えられているのかもしれない。しかし不幸もたくさんあるではないか。わたしたちの人生は苦労だらけ、不幸だらけではないかと考えてしまうからだと思うのです。神が世界を愛し、人間を愛しておられるというなら、なぜこの世界と人間には苦労があり、不幸があるのか。それを説明してくれなければ納得できないし、信じなさいと言われても不可能だ。そのようにはっきりおっしゃる方もおられます。

その言い分を、私自身は全く分からないと感じるわけではありません。ある意味で、よく分かる話です。しかし、ここから先は少しだけ、私の考えを言わせてください。私はいま、牧師という立場で教会に関わらせていただいています。その私が知っていることは、いま教会に集まっておられるみなさんがどういうきっかけで教会に通うようになられたのか、ということです。

私はみなさん全員のことを何もかも知っているわけではありません。また、私が知っていることをべらべらしゃべることはできません。しかし、はっきり言えることは、ほとんどの人は、「私は幸せな人生を送ることができています。だから神を信じます」という理由で教会に通い始め、信仰をもって生きるようになったのではない、ということです。「私は幸せだから、神を信じます。不幸だから神を信じることができません」とおっしゃる方は、ほとんどいません。私自身はそのような方と出会ったことがありません。

現実はむしろ正反対です。多くの人は、不幸のどん底にいたときに救いを求め、助けを求めて教会に来られたのです。大切な家族を失った。自分が病気になった。人生に空しさを感じた。世間に絶望した。何が真実で、何が嘘っぱちかが分からなくなった。そのようなときに、聖書を読みたい、神の御言葉を知りたいと願って、教会に来られたのです。

そうでもないという方がおられるかもしれません。それはそれで問題ありません。人生に不幸など無いに越したことはありません。しかし、不幸を体験したことがないという人は、どこにもいないのです。病気になったことがないという人はいません。苦しんだことも泣いたこともないという人など一人もいません。わたしたちが人間であり、傷つきやすい肉体をもつ存在であるかぎり、ほとんど毎日のように疲れを感じ、不満を抱え、助けを求めて生きているのです。

それこそが今日の個所でパウロが言っている「万事」の具体的な内容です。わたしたちが人生の中で体験するあらゆることが「万事」です。世界に起こるすべての不幸、すべての絶望を含むあらゆる出来事が「万事」です。

その「万事」が「益となるように共に働く」のだとパウロは書いています。わたしたちの人生に襲いかかる不幸が、かえってわたしたちを、神を信じ、神に依り頼む信仰に導き、教会へと招き入れるのです。そのような方法で神はわたしたちを「神を愛する者」へとつくりかえてくださいます。神がこの私を心から愛してくださっていることが分かるようにしてくださるのです。

(2013年11月17日、松戸小金原教会主日礼拝)