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2024年8月12日月曜日
ヨブの苦難
2024年7月14日日曜日
助け船はあるか
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説教「助け船はあるか」
使徒言行録27章27~44節
関口 康
「どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」(34節)
「14日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた」(27節)という、わたしたちにとって日常的とは言いにくい、たいへん衝撃的な描写から始まる箇所を、今日は朗読していただきました。
一体、何が起こったのでしょうか。
先週の箇所で使徒パウロはローマ総督フェリクスの前で弁明していました。弁明の主旨は、自分は何も悪いことをしていない、ということでした。
フェリクスの在任期間は紀元53年から55年まで(諸説あり)。主イエスの十字架刑の20年後。主イエスが総督ポンティオ・ピラトの前に引き出されたのと同じように、パウロも総督の前に引き出されました。
フェリクスは、自分がキリスト教を信じることはありませんでしたが、理解を示してくれました。フェリクスはユダヤ人の要求をかわして、パウロの死刑を延期しました。
フェリクスは善人だったと、著者ルカが言いたいのではありません。フェリクスについて「パウロから金をもらおうとする下心もあった」(24章26節)と記されています。パウロがそんなお金を持っていたとは思えないのですが。
その2年後、パウロの拘留状態は変わりませんが、ローマ総督がフェリクスからフェストゥスに交代しました(24章27節)。パウロを拘留する側の責任者が交代したことを意味します。
このフェストゥスの性格も前任者フェリクスと大差ありません。「ユダヤ人に気に入られようとして」(25章9節)行動するタイプの総督だったことを著者ルカが明らかにしています。
フェストゥスがパウロに「わたしの前で裁判を受けたいと思うか」と問いました。その答えは「私は皇帝に上訴します」(25章11節)というものでした。フェストゥスは驚きました。「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」(25章12節)と返さざるをえませんでした。
パウロは外地タルソスで生まれ育ったユダヤ人。ローマ帝国の市民権を持っていました。そのため、自分の死刑が問われる裁判において、イタリアにいるローマ皇帝への直訴の権利を持っていたのです。
それでフェストゥスは次の段階としてパウロをユダヤのアグリッパ王に会わせました。アグリッパ王としては、ローマ総督の側から要請を受けることは、両国の力関係を考えると悪い気はしなかったはずです。
パウロが面会を許可されたアグリッパ王の謁見室には、フェストゥス、ローマ軍の千人隊長、町のおもだった人たちが同席しました(25章23節)。
フェストゥスはパウロを最初はかばってくれました。ユダヤ人たちが「こんなやつ生かしちゃおけねえ」とめちゃくちゃに騒いで暴れるんですが、私にはどうしてもこの男が悪い人間に見えないんです。だけど、当の本人が「ローマ皇帝に上訴する」だと、とんでもないことを言い出すもんですから、イタリアまで船で護送することにしました、と言う(25章24~27節)。
そこまで聞いてアグリッパも直接パウロから話を聞きたくなったようで「お前は自分のことを話してよい」と許可し(26章1節)、パウロが怒涛の弁明を始めます(26章2~23節)。
すると、フェストゥスがいらいらしはじめます。特にキリスト教の「死者の復活」の教理についてパウロが話し始めたあたりから、聴くに堪えないと思えたようです。あからさまな暴言を吐いて、パウロの弁明を妨害しはじめます。
このやりとりが記されているのは26章24節から32節までです。私はこの箇所のやりとりが大好きです。ぜひ一流の俳優さんたちに演じていただきたいです。
私が考えた配役は次の方々です。使徒パウロは堺雅人さん、フェストゥス総督が香川照之さん、アグリッパ王は北大路欣也さん。TBS日曜劇場「半沢直樹」(2013年、2020年)のメインキャストのみなさんです。
フェストゥス(香川さん)
「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」
パウロ(堺さん)
「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきり申し上げます。(中略)アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」
アグリッパ(北大路さん)
「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」
パウロ(堺さん)
「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが」
みんな唖然としたところで、三者のやりとり終了。アグリッパがフェストゥスに「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と耳打ちして終わる。
こうしてパウロはローマへ護送されることになりました。航路については、新共同訳聖書の聖書地図9 「パウロのローマへの旅」をご覧ください。その船が嵐に巻き込まれて難破し、「アドリア海」で漂流しました。それが今日の箇所の状況です。
「アドリア海」は、現在は「イタリア半島とバルカン半島の間の海域」を指しますが、当時は「シチリア島とクレタ島の間の海」を指します。聖書地図の航路は間違っていません。
船に乗っていたのは「276人」(27章37節)。パウロの拘留地エルサレムから出発。地中海へと出航したのはシドンの港から。クレタ島の「よい港」までたどり着けました。
しかし、季節は冬。パウロはこれ以前に2回も伝道旅行を経験してきた人で、旅の知識がありました。冬の船旅は危険なので、これ以上は進むべきでないと乗船者に忠告しますが、百人隊長は船長や船主のほうを信頼し、パウロの忠告を聞き入れませんでした。囚人の言うことに従う軍人がいるだろうかと考えると、無理もない気がします。
とにかく彼らはクレタ島で冬を過ごしましたが、南風が吹いてきたので、これはチャンスと錨(いかり)をあげて、イタリアに向かって出航しました。するとそのとき「エウラキオン」と呼ばれる真逆の北東からの暴風に襲われ、あっという間に難破船になってしまいました。
浮力を保つために、積み荷を捨て、船具まで捨てました。「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた」(27章20節)という描写は、鬼気迫るものがあります。
そのときパウロが立ち上がります。彼が始めたのは、全員を励ますことでした。
「私の言い分を聞いていればこんなことにはならなかった」とは言いました。しかし「ざまあみろ」と吐き捨てませんでした。絶望している人々に追い打ちをかけませんでした。「元気を出しなさい」(27章22節)と言いました。「勇気を出しなさい」とも訳せます。
もうひとつ、パウロがしたのは、食事をとることをみんなに訴えることでした。絶望して食事がのどを通らなくなった人々に「どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」(27章34節)と言いました。
発言は単純です。「元気出してね」と「ごはん食べてね」です。それがすごいと思いませんか。
状況は同じだし、むしろ不利な立場の囚人なのに、なぜかひとりだけ心が折れていないし、他の人を全力で励ます。
こういう人になりたい、どうすればなれるか知りたい、と思いませんか。
今日の聖書箇所がわたしたちに教えていることは、276人を乗せた絶望の難破船の「助け船」は、その中に乗っていたひとりの囚人、パウロその人だったということです。
「助け船」の意味は、「水上の遭難者、または遭難船を救助する船。転じて、困っているときに力を貸してくれるもの」。
あなたの「助け船」は誰ですか。あなたは、誰の「助け船」になりたいですか。
2024年7月7日日曜日
希望はあるか
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2024年6月30日日曜日
いのちの重さ
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使徒言行録9章36~43節
関口 康
「やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた」(39節)
今日の朗読箇所は、使徒言行録9章36節から43節までです。今日の箇所の内容に入る前に、大前提の話をします。それは、使徒言行録が描く教会の歩みの「主役」はだれかと言う問題です。
「教会史の主役はイエス・キリストです」と言って済まされることがあります。反論しにくいです。しかし、そればかり言われると、弟子たちはまるで操り人形です。暴力性を帯び始めます。
現実の教会は多くの方々の献身的奉仕によって築かれたものです。ひとの働きの評価の問題を言いたいのではありません。事実として存在するひとが無視されてはならないと申しています。
使徒言行録の主役は複数います。1章から5章まではペトロ。6章から7章まではステファノ。8章はフィリポ。9章前半(1~31節)はサウロを名乗っていた頃のパウロ。9章の後半(32節)から12章までは再びペトロ。13章から28章までは回心後のパウロです。
「サウロ」はヘブライ語。イスラエル王国初代国王の名前。キリスト教への改宗後、国際的に通用するギリシア語名「パウロ」を名乗り、異邦人伝道に出かけました。
使徒言行録の「主役」は、ペトロ、ステファノ、フィリポ、パウロの4人です。この4人を2つのグループに分けることができます。ペトロとパウロは「使徒」です。現代の教会組織の中で最も近いのは「牧師/説教者」です。ステファノとフィリポは「奉仕者」です。現代で最も近いのは「役員」です。
「牧師/説教者」と「役員」を差別したいのではありません。「使徒/説教者」だけが主役ではなく、「奉仕者」が十分な意味で主役であることが、西暦1世紀においてすでに認められていたことをご紹介したいのです。
教会の歴史における最初の殉教者ステファノは「使徒」ではなく「奉仕者」でした。殉教を美化する意図はありませんが、文字通り命がけで信仰を守り、結果として死に至りました。
フィリポも大活躍しました。「外へ外へと信仰を広める働き」をした人です。フィリポはユダヤ人が忌み嫌ったサマリア人に伝道した人です。またエチオピアの女王の高官に伝道して、洗礼まで授けました。
現代のエチオピアは、人口の6割以上がキリスト者です。そのことと聖書の記述をダイレクトに結ぶのは難しいかもしれません。しかし、少なくとも最初の種をフィリポが蒔いたことが、聖書に記されているという事実が重要です。
12人の使徒以外に、ステファノとフィリポを含む7人の奉仕者が選ばれることになった経緯は、6章1~7節に記されています。西暦1世紀の教会の大切な活動として、生活困窮者を助ける働きがありました。しかし、日々の分配の問題で教会の中に紛争が起こりました。しかし、使徒たちには説教の準備があるので、分配担当の7人の奉仕者を選ぶことにしました。
しかし、これは本当に誤解されやすいので、よくよく気を付けなければなりません。使徒たちは、「説教の準備」と「生活困窮者への支援」とを天秤にかけて、前者は後者より重要なので、重要度の低い後者にはかかわりたくないと言ったわけではありません。
使徒たちの意図は、”説教”と”福祉的な働き”は、教会の中でクルマの両輪の関係にあるので、後者を決して失ってはならないという決意として、奉仕者を選ばなければならないと考えた、ということです。軽んじる意味ではなく重んじる意味だったことを、ぜひご了解いただきたいです。ここで「愛恵学園」が思い起こされて然るべきです。
今日の箇所の話をする時間が少なくなりました。今日の箇所の「主役」はペトロです。しかし、主役だけでドラマは成立しません。主役ではないけれども、きわめて重要な役割を果たす人物がいて初めてドラマ全体が輝きます。
「きわめて重要な」登場人物は、ヤッファという町にいた「タビタ(アラム語名)/ドルカス(ギリシア語名)/どちらの意味も“かもしか”」という女性です。もうひとり、直前の段落の、リダという町にいた「アイネア」という男性も重要です。
ヤッファとリダとエマオとエルサレムの関係は、巻末の聖書地図で分かります。ヤッファは、今のテルアビブ。地中海に面した港町。エルサレムからヤッファまでの直線上にリダがあります。エマオは少し南。ガザはヤッファよりずっと南です。
リダのアイネアは「中風で8年前から床についていた」(33節)。その人にペトロが「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい」と言うと、すぐ起き上がったというのです。
アイネアがキリスト者だったかどうかは分かりません。しかし、次に登場するタビタが「婦人の弟子」と呼ばれているのに対し、アイネアはそう呼ばれていないので、アイネアはキリスト者でなかった可能性があると考える人がいます。そのほうが意義深いと私は感じます。
しかも、この「イエス・キリストがいやしてくださる」というペトロの言葉は「言葉遊び」、要は「だじゃれ」である可能性があります。
「イエスがいやす」は、ギリシア語で「イアタイ・イエスース」(ιαται [σε] Ιησους)。これが「ギリシア人の耳には同じ語源に聞こえた可能性は十分ある」というのです(※注)。
(※注 F. F. ブルース『使徒行伝』聖書図書刊行会、1958年、230頁。このブルース(Prof. Frederic Fyvie Bruce [1910-1990])の見解をオランダの権威ある註解書『新約聖書の説教』(De prediking van het Nieue Testament (PTN))の「使徒言行録」の著者、アムステルダム大学のリンディエ教授(prof. dr. Cord Hendrik Lindijer [1917-2008])が支持しています)。
日本語でもだじゃれが成立しそうです。「いえすが、いやす」。しかしこの場面でペトロが冗談を言ったと考えるのは、さすがに無理があるでしょう。私まで不謹慎なことを言っているような気持ちになります。
しかし、先ほど申し上げた「アイネアがキリスト者でなかったかもしれないという可能性」との関係を考えるとどうでしょうか。信仰を持っていない相手に信仰を強いるような言い方をペトロが“しなかった”と考えることができるとしたら。「神を信じなさい」ではなく、ユーモアをこめた言葉遊びを用いてペトロが語ったと考えることができるとしたら。
そして、最も大事な点は35節に記されています。「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った」。
「ペトロを見て」でなく「アイネアを見て」であることが重要です。「アイネアは“主を信じたから”いやされた」と記されていないことも重要です。アイネアが立ち上がることは絶対にありえないと、そちら側のほうに確信を持っていた人たちの、その確信が崩されたことが重要です。それをアイネアが実現したのです。アイネアは偉い人です。
ヤッファのタビタ(ドルカス)も偉い人です。「婦人の弟子」と明記されているとおりキリスト者でした。「たくさんの善い行いや施しをしていた」とあります。ヤッファの教会の福祉的な働きを中心的に支えたひとりでした。教会のみんなから慕われ、尊敬されていたことが伺えます。
そのタビタが病気で亡くなりました。タビタの体をきれいに洗い、みんなで2階に運んで安置しました。隣町のリダにペトロがいることが分かったので、ヤッファまで来てもらって葬式をしました。すると、教会で命拾いしたやもめ(widow、寡婦、未亡人、「屋守女」説)たちが、タビタが自分たちのために作ってくれた下着や上着をペトロに見せたというのです。
このときの様子を想像すると、私は胸が苦しくなります。「下着」にすら困るという追い詰められた状況の中にいた女の子たちを見かねたタビタが、得意の裁縫で下着や上着を作ってくれた。それをみんな思い出して泣いていたというのです。
そのタビタをペトロがよみがえらせたことが記されています。復活を信じることは、現代人には難しいです。ギリギリの線で考えることを許していただけないでしょうか。
ペトロは葬式で「タビタは生きている」と説教し、そのようにみんなが信じたのです。
「教会に来ると、生活に行き詰まって苦しかった頃の私を親身になって助けてくださったあの人を思い出す」という方がおられないでしょうか。「私のいのちの恩人」が教会の中にいた。教会に来るたびにその人を思い出す。それもまた、ひとつの復活ではないでしょうか。
ペトロとパウロ(牧師/説教者)だけで、教会は成立しません。ステファノとフィリポ(役員)だけでも成立しません。アイネアとタビタ(共に生きる仲間)が必要です。3者が協力するとき「いのちの重さ」を実感できます。
(2024年6月30日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)
2019年7月21日日曜日
生命の回復
使徒言行録20章7~12節
関口 康
「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。」
おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。
こういうことは本当はすべて黙っていたい人間ではありますが、行きがかり上と言いますか責任上、何人かの方々にお知らせする必要があり、ご心配いただいていることでもあります。
先週木曜日に学校の今学期の私の仕事が終わりましたが、その翌日の金曜日の朝から激しい頭痛と全身の筋肉痛が始まり、熱まで出てきました。それで一昨日と昨日の2日間、牧師館でずっと寝込んでおりました。
今まで体験したことがないような強い頭痛でしたし、熱が出るのは10年ぶりくらいか、もっと前以来でしたので、いろいろ驚きました。
原因ははっきり分かります。私が担当している中高生の期末試験と提出されたレポート類の採点を、成績処理の締め切りに間に合うように一気にしました。それの反動が出たのだと思います。
前に働かせていただいた高校でも同じようなことをしなかったわけではありません。しかし、そのときの私は常勤講師でした。教会の責任は持っていませんでした。今年の私は非常勤講師です。教会の仕事が私の本業です。
駅前のドラッグストアでアイスノンを買ってきて、頭を冷やしてぐっすり休みましたので、今日はかなり大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません。
最初に私の話になってしまって、ごめんなさい。今日の聖書の箇所も、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に従って選びました。説教題の「生命の回復」も『日毎の糧』どおりです。
『日毎の糧』をどういう人たちが作っているのかを私は知りませんが、今日のこの聖書箇所と説教題で何を言わせようとしているのだろうと、つい考えてしまいました。
今日の箇所に書かれていることを、ざっとまとめます。このときわたしたちと同じように日曜日にみんなで集まって礼拝が行われていました。説教者は使徒パウロでした。パウロの伝道旅行の途中に立ち寄った地での礼拝でもあり、翌朝にはお別れすることになっていました。
それでおそらくパウロのほうも去りがたい思いを持ち、集まった人々のほうもパウロの言葉に熱心に耳を傾けていましたが、パウロの説教がどんどん長くなり、夜遅くなってしまい、それでもまだ続くものだから、つい寝込んでしまったエウティコという青年が、みんなが集まっていた建物の3階の窓から転落して死んでしまったというのです。
わっと騒ぎになったのでしょう。パウロもいったん説教を中断して、エウティコのところまで駆け寄り、抱きかかえて「騒ぐな。まだ生きている」とみんなをなだめました。
しかし、ここでわたしたちにとっては驚くべきことが起こります。それは、パウロがまた元の位置に戻り、今のわたしたちがいわゆる「聖餐式」として受け継いでいるパン裂きの儀式を行い、夜が明けるまで説教を続けたことです。
パウロだからできたことでしょうか、二千年前だからできたことでしょうか。いずれにせよ、わたしたちにはいろんな意味で驚かされる話だと思います。
教会の礼拝だから特別扱いであるという面が全くないとは言えないかもしれません。しかし、大勢の人が集まっている場所で、ひとりの人が死んだというのです。それでもその集会をその時点で解散せずに、予定したプログラムが終了するまで続けるのは、いろんな意味で難しいことだと思います。
よほど動かしがたい行事の場合は、生き返ったのだから大丈夫なのだ、集会を続けましょうという話になるでしょうか。パウロ先生にお会いできるのは今日が最後だから、死んだ人のことなどどうでもいいという話になっていないことには安心します。とにかくパウロは説教を途中で中断して青年のもとに駆けつけ、抱き上げたと書かれているのですから。
ここで再び私の話になって申し訳ありません。皆さんにはまだお話ししていないことです。
2007年2月17日ですので12年前ですが、当時私が牧師をしていた教会の礼拝中に、私が救急車で運ばれたことがあります。当時41歳でした。
その教会では、説教者が聖書朗読をしてすぐに説教を始める方式をとっていましたが、私が講壇に立って聖書朗読を始めようとしたときに気を失い、聖書朗読も説教も続行不可能になりました。妻が救急車を呼んでくれて、教会の礼拝はそこで中断されました。
私の気持ちとしては説教原稿をどなたかに読んでいただきたかったし、礼拝を続けていただきたかったですが、そういう状況でなくなりました。申し訳ないことをしました。
そのときの原因も過労といえば過労ですが、直接的には脱水症状でした。12年前は、私の娘がまだ小学生でしたが、自分の目の前で、日曜日の礼拝中に、自分の父親が死んだと、一時本気で受け取ったようで、大きな声で泣いたようです。その声が聞こえないくらい、私は気を失っていました。
私の話はもうやめます。礼拝中に説教者が死ぬ(死ぬ死ぬと不快な言葉を重ねて申し訳ありません)、またはなんらかの事故で礼拝の続行が不可能になる場合がないわけではない、ということのひとつの実例として、私の恥ずかしい過去をさらしました。
しかし、これは本当に難しい問題であると私はとらえています。話の筋がずれるかもしれませんが、東日本大震災の直後の日曜日(2011年3月13日)の礼拝中、私がいた千葉県松戸市の教会でもかなり大きな余震がありました。東京の教会のみなさんも同じ状況を体験されたに違いありません。礼拝堂の窓が割れたかと思うほど激しい音までしました。
そういうときに、それでも神にささげる礼拝なのだから、中断など一切考えずに続行すべきであると考えてよいでしょうか。今日の箇所のようにエウティコが死んだのに、まだ礼拝を続ける、まだ説教を続ける、生き返ったのだから構わないという話になるでしょうか。
話の筋はずれているかもしれませんが、いろんな意味で考えさせられるテーマを含んでいると、今日の箇所を読み直して思わされました。
こういう話もしておく必要があるでしょうか。それは、今日の聖書の箇所に記されている出来事は、キリスト教信仰の根幹にかかわる「死者の復活」とは全く異なることであるということです。
二千年前の人々にとってのいわゆる死亡判定の基準がどういうものだったかは私には分かりませんが、今のわたしたちとは違うかもしれません。今の基準を調べてみました。こういうこともすぐ分かる時代です。
「睫毛(しょうもう(まつげ))反射の消失、対光反射の消失、心音の消失、呼吸音の消失、前腕の橈骨(とうこつ)動脈および頸動脈の触診、心電図モニターで脈拍ゼロの確認」で死亡診断となるそうです。最近大切なお身内を亡くされた方々もおられる前で、このような話をずけずけして申し訳ありません。
二千年前はどうだったでしょう。息をしていないし、心臓が止まっている。それで死んだという感じではなかったかと思います。AEDでドンと刺激すれば、心臓が動き出し、息を吹き返すかもしれない。今日の箇所の出来事は、そういう話だと思っていただくほうがよいと思います。奇跡的な出来事ではありますが、「死者の復活」とは全く異なります。
今日は日本キリスト教団の聖書日課に基づく聖書箇所と「生命の回復」という説教題でお話ししています。先ほどから考えさせられているのは、私は何を話せばよいのだろうということです。今もなおそのことを考えながら話しているところがあります。
冗談のような話にするわけには行かないのですが、今日の箇所からわたしたちが教訓として学びうることは、「ひとりの人が眠り込んで転落死するほど長い説教をしてはいけない」とか、「人がひとりみんなの前で死んだのに、それでもなお礼拝を続行しようとするのはいかがなものか」とか、そのようなことばかりが思い浮かびます。不謹慎で申し訳ありません。
しかし、今申し上げていることを私は、まるで冗談のような言い方をしてはいますが、きわめて深刻に受け止めている面があります。「私の話はもうやめます」と言いましたが、最初の話に戻ります。私が2日間寝込むことになった「原因」に。「せいにする」意味ではありません。
生徒たちが書いてくれた大量のレポートを赤ペンでコメントしながらすべて読みました。かなり多く出てくる意見は「礼拝の説教が長い」「退屈過ぎて死にそうだ」ということでした。
私の説教のことではありません。私の説教は中学校と高校それぞれ月に1回ずつだけです。しかし、そうでない意見もありました。「元気になる」「励まされる」「心が落ち着く」。そのように書いてくれた生徒も大勢いました。
学校の話にしているのは、いくらか逃げの要素を含んでいます。教会ももちろん同じだと思っています。
それぞれ忙しい毎日を過ごしておられる皆さんが、まさに万難を排して日曜日ごとに礼拝に出席してくださっています。なかには遠くから電車やバスや自動車に乗ってきてくださる方々もおられます。
その皆さんにとって「今日は教会に来て本当によかった」と思っていただける礼拝と説教でなければならないと心から願う次第です。
死んでいたのに息を吹き返せるような礼拝を、生命が回復されるような説教を、祈り求めてやみません。
(2019年7月21日)
2018年9月23日日曜日
鍵を探して扉を開ける(立川からしだね伝道所)
| 日本キリスト教団立川からしだね教会(東京都立川市高松町3-2-1) |
使徒言行録9章26~31節
関口 康
「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」
立川からしだね伝道所のみなさま、こんにちは。関口康(せきぐちやすし)と申します。よろしくお願いいたします。
4月から西東京教区の教会の担任教師になりました。先月発行された『教区だより』の「新着任教師紹介」の中に私の文章もあります。1990年に日本キリスト教団の教師になりましたが、途中19年間は日本キリスト改革派教会に移籍し、2年前の2016年に日本キリスト教団に戻ってきました。
今日は私のほうから道家紀一(どうけのりかず)先生にお願いして説教させていただくことになりました。道家先生は、最初は嫌がっておられましたが、私がしつこくお願いしたので仕方なく受け入れてくださいました。
しつこくお願いしたのは、道家先生の前でどうしても言いたいことがあったからです。ひとことでいえば、道家先生は素晴らしい伝道者であるということです。
お世辞を言いに来たのではありません。道家先生を昔からよく知る者のひとりとして、お人柄の一端をご紹介したいと思いました。初対面のみなさまですし、夕礼拝でもありますので、聖書の言葉を厳密に解釈するような硬い話ではなく、私の個人的な証しをするのをお許しいただきたく願います。
私と道家先生の初めての出会いは1985年4月です。今から33年前です。私が東京神学大学の1年生から2年生に進級したとき、道家先生は茨城大学を卒業されて3年に学士編入されました。年齢は道家先生のほうが私より5歳も年上の大先輩ですが、東京神学大学の学生寮の住民としては私のほうが1年先輩でしたので、何を言われてもいつもタメ口で返していました。
学生寮時代の道家先生との最大の思い出は、私が学部4年のとき中古で買って2年ほど乗った赤いスポーツカー「日産シルビア」を売ることになったときに買ってくださったのが道家先生だったことです。当時の東京神学大学を覚えている人たちは「赤い車の関口」のことばかりを悪く言うのですが、それを言うなら道家先生も赤い車に乗っておられました。
道家先生は1989年3月に大学院を修了されました。そして最初に赴任されたのが徳島県の小松島教会でした。1年後の1990年3月には私も大学院を修了し、高知県の南国教会に赴任しました。つまり道家先生と私は、同じ四国教区の教会で伝道者としての歩みを始めた関係です。
そして、教区や分区での関係だけでなく、いわば有志の集まりとして、高知県、徳島県、愛媛県の牧師と教会をつなぐグループがありました。そして、そのグループ主催の「説教セミナー」があり、そこでも私と道家先生が同席する機会が何度かありました。
そのグループのことも「説教セミナー」のことも話し始めると長くなりますので、割愛します。しかし、私の人生において決定的な意味を持ちました。
ある年の「説教セミナー」の席上、私は当時のリーダー格の先輩牧師たちを、面と向かって非常に強い言葉で批判しました。そして、その翌年、私は南国教会を辞めて九州教区の教会に転任しました。さらにその教会も1年足らずで辞任し、とうとう日本キリスト教団そのものも辞めて、日本キリスト改革派教会に移籍しました。それが1997年です。
なぜ私は教団を辞めたのか、なぜ改革派教会に移籍したのかについても、長くなりますので割愛します。しかし、ひとつだけ申し上げたいのは、私が教団離脱を決断した決定的な瞬間は、その道家先生も参加しておられた、あの「説教セミナー」の最中だったということです。
ところがその後、神さまがいたずらを始めました。そして、私の身に大きな変化が起こるたびに、なぜかいつもそこに道家先生が登場しました。
道家先生との再会の最初は、2009年に宗教改革者カルヴァンの生誕500年を迎えるにあたり、2007年にアジア・カルヴァン学会の日本大会が行われることになり、その前年の2006年にカルヴァン研究者の久米あつみ氏を中心に日本側のスタッフチームを作ることになったときです。
スタッフになってほしいと日本キリスト改革派教会の私にも呼びかけがあり、久米あつみ長老がおられる井草教会に集まることになったとき、当時の井草教会の牧師が道家先生でした。
まさか無視するわけには行かないだろうと道家先生がおられる牧師室をお訪ねしました。そして私が「ご無沙汰しています」と言うなり、道家先生から返ってきたのは「裏切り者め」という言葉でした。いかにも道家先生らしい言葉を聞くことができて安心しました。
そして、その再会の日すぐにではなくカルヴァン学会のスタッフミーティングの何回目かのときでしたが、道家先生がちょっとうれしいことも言ってくれました。ただ一言、「関口くんの言ったとおりになった」とおっしゃいました。しかし、それ以上のことは何もおっしゃいませんでした。
当時の私は日本キリスト改革派教会の教師でしたので、日本キリスト教団の内部のことは分かりませんでした。しかし、そのとき道家先生がおっしゃった「関口くんの言ったとおり」の意味が、あの「説教セミナー」のときに私が強い調子で言った批判の言葉を指していることに、私はすぐに気づきました。その道家先生の一言に深く慰められたのを忘れることができません。
聖書の話そっちのけで私の話になって申し訳ありません。しかし、どうしてもお話ししたいのです。私は、当然のことながら、日本キリスト教団に戻ることは二度とありえないという強い決心をもって離脱しました。その決心がないような教団離脱などそもそもありえません。しかし、人間が憎くなったとか、だれかにつまずいたというような理由ではありませんでした。
何が最も根本的な理由だったかといえば、日本キリスト教団において教師に対する「戒規」を行うことは「絶対に不可能」であると当時の私に思えたことでした。1997年に教団に提出した教師退任届に書いたのはそのことでした。私が書いた文面は、教団事務局に今でも保管されているはずです。
私自身も罪深いひとりの人間として生きつつ神の言葉を預かり語る者として、もし自分が罪を犯したときに、この私に免職の戒規を適用する仕組みが機能しえないような教団にとどまることに、当時の私は良心の呵責を覚えました。
逆に言えば、理由はそれだけでした。私にとって問題だったのは「戒規」の問題だけでした。
だからこそ私は、移籍先の日本キリスト改革派教会の中で親しくなった人々に例外なく打ち明けてきたのは、「もし日本キリスト教団でたったの一度でも教師への戒規を行うことができたら、私は日本キリスト教団に戻るであろう」という自分の考えでした。その意味は、日本キリスト教団にそれを行うことは「絶対に不可能」であるということでした。
ところがその後、2010年に日本キリスト教団史上初めて教師に対する免職の戒規が行われたことをキリスト新聞の報道で知り、天地が逆転するほど驚きました。そしてなんと、免職された当該教師への言い渡しの場に道家先生が担当幹事として立ち会っておられたことを最近知り、これまた驚きました。
それで困ったのが私です。その2010年の戒規と共に、私に「日本キリスト教団に戻らない理由」がなくなってしまいました。それで日本キリスト教団に戻ることを決心しました。
一昨年の2016年の春に受けた教団の転入試験の提出論文にも、そのことしか書いていません。教師検定委員会の面接のとき、委員全員が「こんなのは理由にならない」と文句を言いましたが、私は「いけませんか」と気色ばんだだけで、それ以上のことは言いませんでした。それで通してもらいました。
日本キリスト教団で任地を求めていたとき、当時教団の総務幹事だった道家先生にも何度かお会いしましたが、その答えがいちいち冷たい。「戻ってくるな」と言われました。そういう人だということは昔から知っていますので、笑いましたが。
そして今や、道家先生と私は、西東京教区の「隣の隣」の教会の牧師になりました。道家先生は私のこれまでの人生の中で随所随所に突如として姿を現わし、何ごとか決定的なことを告げて去っていく、天使なのか悪魔なのか分からない存在であり続けています。
なぜ今日、このような話をするために先ほど朗読していただいた聖書箇所を選び、このような説教のタイトルをつけたのかということを、そろそろ申し上げます。
この使徒言行録9章は、使徒パウロがまだサウロと呼ばれていたときに体験した回心の出来事と、キリスト教会の伝道者として歩み始める出発の場面が描かれている箇所です。
サウロ(後の使徒パウロ)は、キリスト教会にとっては最近まで自分たちを殺そうとしていた迫害者であり、ユダヤ教側にとってはキリスト教に寝返った裏切り者でした。両サイドのどちらの人々からも信用してもらえない孤立感の中で、伝道者としての歩みを始めました。
そのとおりのことが書かれています。「サウロはエルサレムに行き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だと信じないで恐れた」(26節)。当然のことです。しかし、助け舟を出してくれたのがバルナバでした(27節)。
バルナバの仲裁によって、やっと使徒たちがサウロを信用してくれて、話を聞いてくれました。そして、サウロの命を狙う人々もいたので、逃げ道を作って助け出し、伝道の旅へと送り出してもらえました。
このときのサウロの一連の動きの中に、いわゆる奇跡の要素は全くないと私には思えます。天からバリバリと稲妻がとどろき、超自然的で神秘的な奇跡が起こった形跡などは全くありません。
ここに描かれているのは、前途に立ちはだかる壁や障害物をハンマーでぶち壊して無理やり道をこじ開けるのではなく、鍵を探して扉を開けるように、壊れた人間関係を修復するための仲裁の努力を重ねることによって道を切り開いていく、そのようなサウロと支援者の姿です。
「伝道」の話になると「壁をぶっ壊せ」だの「既成概念を打ち破れ」だのと言い出す人がいますが、そのような暴力的な言葉に私が突き動かされることはありません。とことん事務屋に徹し、教憲教規と信仰告白を踏まえ、「教会論的手続き」を積み重ねていく道家先生のような方の言葉に私は全力で耳を傾けます。
手続きを無視してめちゃくちゃに人を集めても、それが「教会」になることはありません。そう思ったからこそ私は、年がら年じゅう会議と事務仕事ばかりしている、温度が低い日本キリスト改革派教会に移籍したわけですが。
たとえていえば(あくまでもたとえです)、道家先生は、太っている人に「太ってるね」、勉強が苦手な人に「勉強が苦手だね」と言ってくれるような人です。とことん冷たいですが、言葉に嘘がありません。事実を事実としてまっすぐに伝えてくれる真の伝道者です。そういう人がいなければ「教会」はできません。
立川からしだね伝道所と西東京教区の諸教会のために、心からお祈りいたします。
(2018年9月21日、日本キリスト教団立川からしだね伝道所 夕礼拝)
2018年5月20日日曜日
聖霊と生きる
関口 康
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
おはようございます。今日の礼拝はペンテコステ礼拝としてささげています。「ペンテコステおめでとうございます」という挨拶を私は聞いたことがありません。しかし、今日がおめでたい日であることは確かです。
ペンテコステは、最も単純にいえば全世界のキリスト教会の誕生日です。教会は「団体」ですから「設立記念日」と言っても構いません。ペンテコステは、イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスに匹敵するほど大切な記念日です。また、イエス・キリストの復活をお祝いするイースターと同等の価値を持つ祝祭日です。
しかし、これはあくまでも私個人の印象であるとお断りしたうえで申し上げますが、もしかしたら日本の教会に、そうであることの認識が欠けているかもしれないと感じることがあります。全世界の教会の誕生日だからおめでたいと言われてもピンとこないと思われる方がおられませんでしょうか。
たとえば、各個教会に設立記念日があります。日本キリスト教団にも創立記念日があります。それらについても同じことが当てはまるのではないかと思います。「だから何なのか」と感じてしまう。「それが私の人生と何のかかわりがあるのか」と。
「私にとって重要な意味を持つのは、この私の誕生日であり、この私が洗礼を受けてキリスト者としての歩みを始めたことを記念する受洗記念日である。それをお祝いするならまだ分かる。教会の誕生日なんかどうでもいい。私とは関係ない」と。
かなり穿った見方が混ざっていますので、そのようなことは一度も考えたことがありませんとおっしゃる方がおられるようでしたらお許しください。どうか怒らないでください。
そして私は、もしこういう感覚をお持ちになる方がおられても責めるような気持ちは全くありません。私自身もこういうことをしょっちゅう考えているからです。もしかしたら皆さんの中に私と同じ感覚を持っておられる方がおられるのではないかと想像して、あえてお尋ねしています。
ひと言でいえば個人主義なのだと思います。「神は好きです。イエス・キリストも好きです。しかし教会は嫌いです」とおっしゃる方がおられます。私の知るかぎりでも少なくありません。「教会などなくても自分の信仰は維持できます。神と自分の一対一の関係が重要なのであって、教会は邪魔になるだけです。面倒くさいものに巻き込まれたくありません」と。
そういう感覚をお持ちの方々を私が責めるつもりがないのは、教会はそういう存在であると私自身が考えているからです。「お邪魔してすみません」と謝りたくなります。「皆様の人生と生活を支配しようなどとは全く考えておりません。もしお役に立てることがあるようでしたら、何なりとお申し付けください」という気持ちがあるだけです。
この気持ちは私が牧師の仕事を始めた最初の日から全く変わっていませんので、かつて牧師をした教会の方々からよくお叱りを受けました。「弱腰すぎる」「頼りない」「もっと権威をもってください」と。「はいはい分かりました」とお答えすると「はいは一回」と言われたり。のれんに腕押し、ぬかに釘。
どの教会もどの牧師も、みんなそうだと思いません。強い権威をもって立とうとする教会もあります。しかし、そのほうがいいと私にはどうしても思えません。私の個人的感想としてではなく、聖書と神学に基づく結論として。教会は個人に「弱く優しく」寄り添う存在以上であるべきでない。
今日開いていただいたのは使徒言行録2章です。最初のペンテコステの日に起こった聖霊降臨の出来事が描かれている箇所です。しかし、今日の箇所に入る前に見ておきたいのは使徒言行録1章6節以下に記されているイエス・キリストの昇天の出来事です。
昇天は、使徒言行録1章3節によると、イエス・キリストの復活から40日目に起こったことです。そのとき何が起こったのかといえば「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」(1章9~10節)ということです。
これを文字通り受けとるべきかどうかに疑問を持つ方がおられるかもしれません。イエス・キリストの背中に羽根が生えて、鳥か飛行機のように飛んで行かれたのでしょうか。そのようにとらえるべきなのか、それともこれはある意味での比喩としてとらえてよいかの判断は、わたしたちに任せられています。
この箇所で重要な点は、ひとつです。イエスが「彼らの目から見えなくなった」ことであり、「離れ去って行かれた」ことです。つまり、このときからイエス・キリストは地上において不在になられたのです。
そして、イエス・キリストの昇天から10日目、イエス・キリストの復活から数えれば50日目に起こったのが聖霊降臨の出来事です。そのように使徒言行録が描いています。
「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(2章1~4節)。
そこで何が起こったのかは、記されていることに基づいて想像するほかはありませんが、これも文字通り受けとるべきなのか、それともある意味での比喩なのかを考える必要がありそうです。「激しい風」や「炎のような舌」といった、大げさというと語弊がありますが、ドラマティックな形容詞や副詞が目立つ文章が続いています。
この中で重要な点は二つです。第一は、ひとつの場所に集まっていたイエス・キリストの弟子たちが「聖霊に満たされたこと」です。第二は、彼らが「ほかの国々の言葉で話しだしたこと」です。
どちらも奇跡的な出来事として描かれています。しかし、第二のほうからいえば、彼らがほかの国々のいろんな言葉で語り出したのは、いろんな国の多くの人々にイエス・キリストの福音を宣べ伝えるためでした。つまり、このときから世界伝道の準備が始まったのです。
そして第一の、イエス・キリストの弟子たちに聖霊が注がれたことの意味は何かと考えるときに大事なことが、先ほど触れたイエス・キリストの昇天の出来事との関係です。昇天の出来事がイエス・キリストの「不在」の始まりだったとすれば、聖霊降臨の出来事はイエス・キリストの「代わり」としての聖霊が、弟子たちと共に働いてくださることの始まりだったと言えます。
それとも、イエス・キリストが不在になった時点で、教会は伝道をやめて解散すべきだったでしょうか。初代教会はそうしませんでした。イエス・キリストの弟子たちが、イエス・キリストの「代わり」に伝道を継続したのです。
キリスト教会の信仰において「聖霊」は、神の力(パワーやポテンシャル)であるというだけにとどまりません。「聖霊」は端的に「神」です。わたしたちの「神」は父・子・聖霊なる三位一体の神です。この点は譲ることができません。
そして「聖霊」が「神」であるとしたら、聖霊降臨の出来事において起こったことは、イエス・キリストの弟子である者たちの存在(体と心)の内部に「神」が宿ってくださることが起こったとしか言いようがない、ということです。
しかも「聖霊」が三位一体の神であるということは、わたしたちの存在(体と心)の内部には「聖霊のみ」が宿るのであって、父なる神もイエス・キリストも宿ってくださらないということではなく、「聖霊」が宿るこの私の中に、父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださることを意味します。
私が教会の方々によくお勧めしてきたのは「山のあなたの空遠くにおられるかどうか分からない方に呼びかけるような祈りではなく、自分に言い聞かせるように祈るとよいと思います」ということです。この私に神が宿っておられ、その神に祈るのですから、それでよいのです。
それはものすごく重要なことであり、驚くべきことです。なぜなら、イエス・キリストの弟子たちは、あくまでも一個人だからです。その一個人の内部(体と心)に「神」が宿ってくださるということは、その現象としての外見上は、神がたくさん増えたかのようです。なぜなら各個人は「ほかの国々の言葉で話しだした」とあるとおり、いろんな言葉で語るからです。
聖霊が注がれた人、すなわち「聖霊なる神が宿ってくださった人」は、それ以前に持っていた記憶も感情も失うのかといえば、決してそうではありません。それらを失うとすれば「洗脳」を意味しますが、各個人は元々の人間のままです。なんら変化はありません。たとえ「上書き保存」されたとしても、元々の記憶も感情も残ったままです。思い出したくないような過去の記憶も事実もすべて。
それでよいのです。元々のこの弱い人間性を持ったままの私を「神」が用いてくださるのです。神はおひとりであり、三位一体の神を信じる信仰は多神教ではありません。しかし、聖霊と共に生きる者たちは、判で押したような同じ言葉しか言わなくなるわけではありません。それぞれ違った言葉や発想で語ります。それが聖霊の働きの特徴です。
教会とはそういうところです。基本的に全く自由な団体です。自分の感情を押し殺す場所ではありません。故意に人を傷つけるようなことは言わないほうがいいに決まっていますが、思ったことを思ったとおり語ることが許されています。わたしたちは何も怯える必要がありません。
そういう場所がわたしたちの人生の中にあることを感謝したいと思います。
(2018年5月20日)
2017年6月4日日曜日
聖霊が希望を生み出す(下関教会)
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| 日本基督教団下関教会(山口県下関市) |
関口 康(日本基督教団教師)
「さて、使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見つめて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」
下関教会の皆さま、おはようございます。イースター礼拝で説教させていただきました関口康です。ペンテコステ礼拝にもお招きいただき、ありがとうございます。今日もよろしくお願いいたします。
自分で言わないほうがよさそうなことですが、イースター礼拝とペンテコステ礼拝が同じ説教者であることは、神学的に正しいことです。2つの出来事にはつながりがあるということを鮮やかに示すことができるからです。
事実、2つの出来事は密接に関連し合っています。いわば続きものの話です。どちらか一方の出来事だけでは完結しません。ですからペンテコステ礼拝でも説教をさせていただけることになったときには腕が鳴るものがありました。
しかし、問題はそこから先です。イースターとペンテコステとの間に何回日曜日があるでしょうか。6回です。つまり、2つの出来事は7週離れています。1週は7日、7週は49日。その翌日の50日目がペンテコステです。ユダヤ教の「過越祭」の安息日の翌日、それがイエス・キリストが復活されたイースターの日曜日です。その日から数えて50日目に行う「五旬祭」がペンテコステというヘンテコなカタカナ言葉の意味です。ペンテコステとは「50」という数字を意味しています。
その50日間を私もこのたび強く意識しながら過ごしてみて分かったのは「50日はけっこう長い」ということでした。その間に6回の日曜日がめぐってきました。その間私は何をしていたかといえば、ほとんどすべての日曜日はいろんな教会で説教していました。
そうなるとどうなるかお分かりでしょうか。1回1回が新しい出会いの連続で、とても緊張します。しかも、説教させていただくときはその教会の方々だけを愛し、その教会の方々のことだけを考えながら説教します。別の教会に行けばその教会の方々を愛します。そういうことをしていますと、過去の記憶は加速度的に薄れていきます。
いま私は自分のことを話しているだけのようですが、そうではありません。今日の箇所に登場するイエス・キリストの弟子たちも、私が味わったのと同じ気持ちを味わったのではないかと思うのです。
当時の状況を想像してみるに、イエスさまの弟子たちはイースターとペンテコステの間に何をしていたのかといえば、毎週日曜日に集まって礼拝していたと考えられます。当時も今も同じように7日ごとに日曜日がめぐってきたし、そのたびに礼拝し、説教を語り、聴き、祈りをささげていました。
たとえそのようにはっきりと聖書に書かれていなくても、事実そうなのです。彼らが日曜日に礼拝をしなかったことはありえないのです。聖書に書かれていないことは彼らがしていなかったかというと、その理屈がおかしいわけです。それが彼らの「生活の座」(Sitz im Leben)だったのです。
ですから、今日の箇所の最初の「使徒たちは集まって」の「集まって」は、単なる集まりではなく、ほとんどそれは「教会」を意味すると考えるべきです。わたしたちが今、この教会に集まって礼拝をささげているのとほとんど同じ状況に弟子たちが立っていた様子を想像すべきです。ただし、それは日曜日ではなかったと思われます。その理由はあとで述べます。
しかも、1章3節以下には「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」と記されています。
これで分かるのは、イエスさまがその復活された姿を現わしてくださったのは40日だけだったということです。ペンテコステまで、あと10日足りません。しかも40は7で割り切れません。イースターから40日目は日曜日ではなく木曜日です。
それはつまりこういうことです。イエスさまは今日のペンテコステ礼拝の先々週の礼拝にはお見えになりましたが、先週の礼拝にはお見えにならなかったということです。弟子たちは、せっかく復活してくださったイエスさまの姿がどこにも見当たらない、寂しくて不安な10日間を過ごしたのです。
それで今日の箇所に記されているのがイースターから40日目の出来事です。ここに記されていることをひとことでいえば、イエスさまのお別れの挨拶です。寂しい言い方はしたくないのですが、そうとしか言いようがありません。
弟子たちがイエスさまに尋ねました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(6節)。
原文に基づいて私なりに訳してみました。「主よ、イスラエル王国をあなたがこの時代に取り戻してくださいますか」。
どこかで聞いたことがある言葉にしてみました。「取り戻す」。それは、今は自分たちの国や社会の本来の形を失っている状態なので一刻も早く本来の形を取り戻したいと願っている人々の言葉です。
それはきわめて《後ろ向き》の考え方です。過去の栄光にしがみついています。「我々はこんなはずではない」と嘆いています。現実を受け入れることができずにいます。「我々は一生懸命がんばってきた。それでも今の状態なのだから、我々の責任ではない」と言いたがっています。
そして、「今の状態が我々の本来の姿を失っているのは、強くて悪い敵がいるからだ。これまでのリーダーが弱すぎたのだ。政治が悪い、社会が悪い」と責任を転嫁したがっています。だから我々の本来の姿を「取り戻す」ための強いリーダーが必要なのだ。「それはあなたですか。それはいつですか。今ですか」と、イエスさまに食い下がっています。
ですから、もしそこでイエスさまが「わたしが取り戻す。ただちに取り戻す」とお応えになれば、たちまち英雄です。拍手喝采です。しかしイエスさまは、それを聞くと弟子たちが必ずがっかりしたであろうことをお答えになりました。
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(7節)。
私なりの訳は次のとおりです。「時代(クロノス)やタイミング(カイロス)は、あなたがたには分からない。それを決めるのは御父の権限である」。
そして「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)。
私の訳は次のとおりです。かえって分かりにくいかもしれませんが、原文どおりです。「あなたがたの上に聖霊が臨むと力の受領が起こる。エルサレムでも、ユダヤとサマリアの全土でも、地の果てまでも、あなたがたが私の証人である」。
新共同訳聖書は「わたしの証人となる」と訳していますが、原文は英語のbecomeではなく、be動詞です。「である」です。「あながたが私の証人である」。その意味は、聖霊を受けた人は、それまでとは違う、まるでスーパーマンやウルトラマンのような特殊な存在へと変身するわけではないということです。昨日も今日も変わらない同じ人間が「主の証人である」と任命されるだけです。
イエスさまのお答えの趣旨ははっきりしています。イスラエル王国を取り戻したいなら、それは私の仕事ではなくて、あなたがたの仕事であるということです。聖霊によって力を受けるのも、わたしの証人であるのも「あなたがた」なのですから。
そして、イエスさまは「彼らが見ているうちに天に上げられ」(9節)ました。「私が一緒にいるとあなたがたはいつまでも自分の働きと責任を自覚しないから、そろそろいなくなるので後はよろしく」とおっしゃりたいかのように。
イエスさまの姿が見えなくなっても、弟子たちは「天を見つめて」(10節)いました。先ほどまでイエスさまに「あなたですか、今ですか」と食い下がっていた弟子たちは《後ろ》を向いていました。過去の栄光にしがみついていました。しかし、次は《上》を向き始めました。天を見上げ始めました。「イエスさま、行かないでください」と言いたそうに。
すると彼らは白い服を着た二人の人に叱られました。おそらく天使です。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見つめて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(11節)。
天使たちが弟子たちに言おうとしているのは、あなたがたは目を向ける方向が間違っているということです。《後ろ》ではないが、《上》でもない。《前》を向きなさいと言っています。
なぜなら、天に上げられたイエスさまが再び戻ってこられるのは、あなたがたが生きているこの地上の世界なのだから。あなたがたが目を向けるべき先は、《後ろ》すなわち過去ではなく、《上》すなわち地上を離れた天でもなく、《前》すなわち地に足をつけたままたどり着くことができる、我々の現実の世界の未来である。
今日の説教に「聖霊が希望を生み出す」と題をつけました。これはパウロの言葉に基づいて考えた題です。
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマの信徒への手紙5章4~5節)。
わたしたちは、この言葉の意味をよく考える必要があります。出発点は「聖霊」です。「聖霊」が与えられているわたしたちの心に「神の愛」が注がれています。
しかし、そのわたしたちに「苦難」が訪れます。そこで求められるのが「忍耐」です。それは我慢することです。特別な意味を考える必要はありません。そして我慢すれば、我慢した分だけの忍耐力がつきます。それが「練達」です。「練達」が身について初めて「希望」を語ることができるようになります。
その希望はわたしたちを欺きません。虚偽でも詐欺でもありません。輝かしい将来を見ることができる日が来ます。そのような意味での「希望」です。それは「苦難」と「忍耐」と「練達」を経てようやくたどり着ける希望です。
しかし、忘れてはならないのは、その最初の「苦難」を「忍耐する」のは、あくまでも「わたしたち」であるということです。イエス・キリストが「私の身代わりに」忍耐してくださるわけではありません。この文脈に「身代わり」の話を持ち出してはいけません。そういうのは聖書の教えの曲解です。
今申し上げたことは、身も蓋もないような話です。宗教の話というよりは普通の話です。そうです。聖書の教えは普通の話です。わたしたちはスーパーマンにもウルトラマンにも変身しません。人間のまま「希望」をもって、喜びをもって生きていくことができます。ただし、そのためには「苦難」と「忍耐」と「練達」を通り抜ける必要があります。
しかし、今日私がお話ししているのは、皆さんに「何かを言いに」来たというのではなく、私自身に言い聞かせていることです。《後ろ》でもなく《上》でもなく《前》を向く。過去にしがみつくのではなく、地上に絶望して天を見つめるのでもなく、地上の未来を見つめる。それは今の日本の教会と牧師に強く求められていることです。
そのとき「聖霊」がわたしたちをしっかりと支えてくださいます。「聖霊」とは端的に「神」です。聖霊なる神がわたしたちをしっかりと支えてくださいます。使徒パウロの言葉の途中を省いて言えば「聖霊が希望を生み出す」のです。
(2017年6月4日、日本基督教団下関教会 ペンテコステ礼拝)
2017年2月26日日曜日
恐れるな、語り続けよ(千葉若葉教会)
関口 康(日本基督教団教務教師)
「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』パウロは一年六か月ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。」
今日の箇所の文脈は、使徒パウロの第3回伝道旅行です。パウロはそろそろ高齢者と言える年齢になっていました。あらゆる困難を乗り越えて神の御言葉を宣べ伝える働きを続けてきました。
そのパウロに神が幻の中で「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」と励ましの言葉を語りかけてくださいました。これはパウロに神が語った言葉です。しかし同時に、すべての伝道者、そして教会にも神が語り続けています。伝道者は個人的に神の言葉を宣べ伝えているのではなく、教会と共に働く存在だからです。
もちろん伝道者は個人的にも語ります。そこに教会がなければ伝道者は何も語ることができないのではなく、伝道者は新しく教会を生み出すことができます。しかし、親のいない子どもはいません。子どもは自分で自分を生むことはできません。教会も同じです。新しい教会にも生み出す母体となる親の教会が必ずあります。
しかしまた、ここで私が声を大にして言いたいのは、すべての教会の生みの親は神であるということです。教会はイエス・キリストの体です。究極的にいえば、伝道者と教会が属している母体は神御自身であり、神の御子イエス・キリスト御自身です。だからこそ、伝道者と教会が恐れず黙らず神の言葉を宣べ伝える働きを続けるために、神御自身の励ましの言葉を必要としています。
ここで問題があります。それは、伝道者と教会を励ます神の言葉は、わたしたちが手にしているこの聖書という書物そのものなのかといえば、必ずしもそうとは言い切れません。これはもしかしたら皆さんを驚かせ、不安な気持ちに陥れる言い方かもしれません。
しかし、今日の箇所に書かれているとおり、伝道者パウロに神が励ましの言葉を語りかけてくださったのは「幻の中で語りかける」形式であったことが分かります。「パウロは聖書を読んだ。こう書かれていた。だからパウロはそう信じた」というようなことを使徒言行録が書いていないという点が重要です。
パウロが自分の働きの支えとし、根拠とし、その上に立って伝道の仕事を続けた神御自身の励ましの言葉は、いわばたかが「幻の中で語りかけられたもの」にすぎないものでした。第三者が客観的にそれを証明できるわけではありません。何の証拠にもなりませんし、何の保証もありません。「それはあなたの思い込みだ」と言われてしまえば、それまでです。
伝道者と教会の存在は、その意味では、砂上の楼閣です。常に危険な綱渡りをしていると自覚するほうが、よほど現実的かもしれません。
しかしまた、だからこそ、伝道者と教会にとって「祈り」が意味を持ちます。祈りとは願いです。まだ実現していないことが実現しますようにとただ思っているだけです。ただ願っているだけです。私はこれだけのことをしたのだから当然これだけの評価を受けるべきだというような権利主張をすることが祈りではありません。
その意味では伝道者も教会も常に不安の中にあります。この務めにだれが耐えうるのでしょうか。しかし、神はこの務めを担う人々を世の中から選び出して、無理にでも担わせる方です。そのような、光栄でもあり、重荷でもあるのが伝道の働きです。
パウロが「幻の中で」この励ましの言葉を聴いたのはコリント伝道の最中だったことが分かります。使徒言行録によれば、パウロがコリントを訪れたのは、ギリシアの首都アテネの次でした。アテネとコリントはさほど遠くない距離にあります。
パウロのアテネ伝道は、しばしば評価が分かれるところです。パウロはアテネで伝道に失敗したととらえる人もいれば、失敗したとまで言うのは間違っているととらえる人もいます。私はどちらかといえば、パウロのアテネ伝道は失敗したと考えるほうです。
パウロがアテネで出会ったのは、多くの偶像でした。あるいはギリシアの神々をまつる神殿でした。それを見て彼は「憤慨した」(17章16節)と記されています。エピクロス派やストア派の哲学者たちと討論をしたとも記されています(17章18節)。エピクロス派(エピキュリアン)といえば快楽主義、ストア派(ストイシズム)といえば禁欲主義ですが、そのあたりに立ち入るいとまはありません。
そのようなアテネでパウロが力説したのは、大きく分ければ2つのことでした。第一は「神は手で作った神殿などにはお住みにならない」(17章24節)ということでした。そして第二は「神がひとりの人を死者の中から復活させて(イエス・キリストの復活)、すべての人にそのこと(すべての人の復活)の確証を与えた」(17章31節)ということでした。
ところが、特に後者の「死者の復活」を語ったことで、あざ笑われ、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と立ち去られてしまいました(17章32節)。しかし、何人かの人はパウロに従って信仰に入った、とも記されています(17章34節)。パウロのアテネ伝道は失敗とまでは言えないと考える人々の根拠は、この点にあります。
しかし私は、パウロのアテネ伝道は失敗だったと考えています。それはパウロが死者の復活について語ったから失敗だったという意味ではありません。私が考えるのはもっと根源的なことです。
パウロのアテネ伝道には「憤慨」すなわち「怒り」という動機があったという点が問題です。腹立ち紛れに当てこすりの言葉を語ったのです。そのような動機で語られる言葉で心が動く人がいるでしょうか。それが「伝道」と言えるでしょうか。と、そのあたりのことを私は考えています。
そういうのは今の人なら「上から目線」と言います。私が過去に出会った少なくない数の外国から日本に来た宣教師たちの中に、そのタイプの人々がいました。「日本は霊的に貧しい国である。日本人は霊的に貧しい人々である。だから我々は日本に伝道し、日本人を回心させなければならないのだ」というようなことを書いたり語ったりする人々と出会ったことがあります。
外国の宣教師だけを悪者にするつもりはありません。日本人の伝道者にも、日本の教会にもそのタイプの人々がいます。私自身も同じような感覚に陥ることがありますので、自戒しなければなりません。
そのようなやり方で誰の心が動くでしょうか。ばかにされた、けなされたとしか感じないでしょうし、ますます心を閉ざされてしまうでしょう。自分が逆の立場であればその気持ちは分かるはずです。「怒り」や「軽蔑」が動機であるような伝道がうまく行くはずがありません。結果的に何人かの人が信仰に入ったとしても、長い目で見れば、パウロのアテネ伝道は失敗だったと言わざるをえません。
さて、パウロはアテネの次にコリントに行きました。コリントでパウロは、アキラとプリスキラというテントづくりを職業とするユダヤ人夫婦の家に住み、彼らの仕事を手伝うアルバイトをしながら伝道しました(18章1~4節参照)。
この箇所を根拠にして日本の教会でも「牧師たちはパウロと同じようにアルバイトをしながら伝道すべきである」というようなことがしばしば語られてきました。その趣旨を私は理解できるほうです。しかし、この箇所に記されていることが、伝道者の活動をサポートする教会の責任がまるで全く免除され、放棄されてもよいかのような意味で引用されることもありますので、警戒心が私にはあります。
話の流れをよく考えていただけば、コリントでのパウロのアルバイトは、あくまでも一時的な緊急避難だったことが分かります。恒常的なことでも固定的なことでもありません。
そして、シラスとテモテがマケドニア州からコリントに来てからは、パウロは御言葉を語ることに「専念した」と記されていますが(5節)、これはおそらく彼らがマケドニア州の教会で集めた献金を持ってきてくれたので、アルバイトで食いつなぐ必要がなくなったことを意味していると思われます。
お金を稼ぐことが伝道の目的ではありません。しかし、伝道の継続のために、そして伝道に専念するために教会の支えが必要です。
しかし、パウロがどれほど伝道に専念できるようになっても、必ず妨害が入り、そのたびに伝道の継続が困難になったことも事実です。それでパウロは移動を余儀なくされ、働きの場を転々とすることになりました。
その苦労がパウロを伝道者として成長させました。コリントでは多くの人々が信仰に入り、洗礼を受けました。教会の仲間が増え、パウロの伝道を支えてくれる人々が増え、1年6か月コリントにとどまって伝道を続けることができました。
繰り返します。お金を稼ぐことが伝道の目的ではありません。しかし伝道の継続のために、そして伝道に専念するために教会の支えが必要です。
「教会は伝道者を助けることができませんので、自分でアルバイトをしてください。パウロもそうしたではありませんか」という言い方は、文脈を無視した間違った引用であるとしか言いようがありません。
「幻の中で」神がパウロに語りかけてくださった「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」(9~10節)という言葉は、このような文脈の中で理解されるべきです。
伝道は賭けごとではありませんが、賭けの要素があることを否定できません。パウロにとっての伝道の究極の根拠は「幻」でした。それが何なのかは、彼以外の誰にも見ることができないし、理解することもできません。それは、ただ願いであり、祈りです。「にすぎない」ものです。
しかし、それを必要としている人々が大勢います。神の言葉を必要としている人々がいます。救いを求めている人々がいます。そのためにわたしたちは伝道を続けるのです。それ以上でもそれ以下でもありません。
(2017年2月26日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)
2017年2月19日日曜日
神の言葉によって立つ教会(千葉本町教会)
関口 康(日本基督教団教務教師)
「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」
千葉本町教会のみなさま、おはようございます。日本基督教団教務教師の関口康です。今日初めて説教壇に立たせていただきます。どうかよろしくお願いいたします。
岸憲秀先生と知り合ったのはちょうど30年前です。1987年3月です。岸先生は青山学院大学の学生でした。私は東京神学大学の3年を終えて4年になる春休みでした。お会いしたのは箱根で行われた全国教会青年同盟の春の修養会です。恵先生も参加しておられました。私の妻も参加していました。それぞれみんな独身でした。懐かしい、良い思い出です。
その後、岸先生が東京神学大学に入学され、1年か2年在学期間が重なっていたはずですが、1990年に私が先に卒業し、高知県の日本基督教団の教会の伝道師になりました。それ以降お会いできずにいましたが、13年前の2004年4月に私が千葉県松戸市の教会に来てまもなく、岸先生から久しぶりにメールをいただきました。東京神学大学卒業生有志同窓会の連絡でした。その後、15年ぶりくらいで岸先生と再会しました。お互いに変わり果てていましたが、すぐに意気投合しました。
昨年4月、私が教務教師として日本基督教団に復帰することになったときも、千葉支区長の岸先生にたいへんお世話になりました。30年来の悪友同士ですが日本宣教を共に担う牧師仲間として岸先生を尊敬しています。今日は岸先生が韓国出張で不在ですので、本人のいないところでほめておきます。
さて、先ほど朗読していただきましたのは使徒言行録20章31節と32節です。この箇所は、20章18節から35節まで続いている使徒パウロの説教の一部です。そのため、今日の箇所はその文脈の中でとらえる必要があります。
パウロの第3回伝道旅行の中で最も重要な拠点のひとつがエフェソです。パウロのエフェソ伝道についての記事は、19章1節の「パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て」と書いてあるところから始まります。パウロはエフェソで3年間伝道しました。
嫌なこともありました。ひどかったのはデメテリオというアルテミス神殿の模型を作る銀細工職人との争いです。「手で作ったものなど神ではない」とパウロが教えていることを知ったデメテリオが、このままパウロを放っておくと自分たちの商売が成り立たなくなるし、アルテミス神殿の権威の失墜を招くだろうと危機感を募らせ、人々を扇動してパウロの伝道を妨害しはじめました。事件の詳細は19章に描かれています。
そのデメテリオとパウロの争いを収めるために大きな役割を果たしたのは、「パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たち」(19章31節)の存在でした。その人々が騒動の鎮静化に乗り出してくれました。
彼らは、ローマ帝国の属州の人々に義務づけられていた皇帝礼拝を監視する人々でした。そのような人々の中に「パウロの友人」がいて、しかもパウロの身柄を保護する側になってくれたというのは、パウロの伝道活動の影響力を物語る重要なエピソードであると言えます。
そのような苦労も味わったエフェソでの伝道にひと区切りつけて、パウロは再びエルサレムに戻ることにしました。そのエフェソの人々とのお別れの場で行なったパウロの説教が、今日の箇所の前後の文脈です。
このパウロの説教は、私が知るかぎり、礼拝説教のテキストとしてよく取り上げられる箇所です。とくに牧師を隠退するときや、他の教会に転任するとき、この箇所を取り上げて説教する牧師がたがおられます。内容が「お別れの説教」ですから。この箇所を取り上げて説教すると、教会の人々から「うちの牧師はそろそろ転任するつもりか、隠退するつもりか」と勘ぐられることさえあります。
説教の内容は力強く、感動的で、美しいものです。現代の批判的な聖書注解書の中には「この説教はパウロの思想をよく表現してはいるが、使徒言行録の著者ルカの文学的創作物である」というような何とも興ざめなことが書かれていたりします。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。
しかし、今日皆さんにお話ししたいと願ってきたのは、使徒パウロの伝道旅行の歴史的事実がどうだったかとか、この説教はパウロが実際に語ったものかそれともパウロとは無関係にルカが創作したものかというような話ではありません。
今日お話ししたいと願ってきたのは、「神の言葉によって立つ教会」ということです。順序を換えて言い直せば、「教会は神の言葉によって立つ」です。その意味は、教会の土台は神の言葉であるということです。教会の存在を根底において支えているのは神の言葉であるということです。
いま申し上げたことに関することが、この箇所に確かに記されています。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」。
この箇所の読み方には注意が必要であると、牧師になったばかりの頃、先輩の牧師がたから何度も繰り返し教えられました。なぜ注意が必要なのかといえば、この箇所には「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」と書かれているにもかかわらず、それを「神とその恵みの言葉とをあなたがたにゆだねます」と誤読する可能性があるからだ、ということでした。そうではないのだ、そうではないのだと、何度も言われましたので、忘れることができません。
大事なことは、この箇所に書かれているのはパウロがエフェソの教会の人々「に」神とその恵みの言葉「を」ゆだねたのではなく、エフェソの教会の人々「を」神とその恵みの言葉「に」ゆだねたと言っていることです。
そうではなく、もしパウロが「あなたがたに神の言葉をゆだねた」という意味のことを言っているとしたら、パウロは一時的にせよ、自分は神の言葉の所有者であると自任していたことになります。それを私の次にあなたがたに「委ねます」または「託します」と言いながら、神の言葉を手渡す関係に自分を置いていることになります。リレー競走のバトンの受け渡しの関係です。
しかし、ここに書かれているのはそういう意味ではないと、先輩がたから教えていただきました。ここに書かれているのは、あなたがた「を」神の言葉「に」ゆだねる、ということだ。つまり、牧師であり説教者であるパウロは神の言葉の所有者ではなく、自分が退くからといって、教会の人たちに神の言葉のバトン「を預ける」とか「を託す」という関係にあるわけではないのだ、ということです。
ここで言われているのはそのようなことではなく、牧師であり説教者であるパウロ自身も神の言葉の上に立って生きかつ説教してきた者として、その自分と同じ土台の上にあなたがたも立ってもらうのだという意味で、神の言葉「に」あなたがた教会「を」ゆだねると言っているのだということです。
それはこの箇所に書かれているとおりですし、私も納得していることですので、先輩がたから教えていただいたとおりのことを皆さまにお伝えしておきます。しかし、もう一点、付け加えたいことがあります。それは、ここで言われている「神とその恵みの言葉」の具体的な意味は何かという点です。
単純に「聖書」と言いたいところです。そのほうが話が分かりやすくなります。しかし少し厳密に考えれば、少なくとも当時は、わたしたちが今持っているような形の「新約聖書」は存在しません。それならば「旧約聖書」を指しているのかといえば、それも限定しすぎです。
考えられるのは、もっと広い意味です。直前にパウロが言っている「わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたこと」すべてを含んでいます。狭い意味の「聖書」だけでなく、少なくとも「説教」が含まれるし、「一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきた」努力、時間、感情、個人的な関係などのすべてが含まれている「神の言葉」です。
「そうではない。神の言葉は神の言葉なのだ。人間の努力だとか、心の動きだとか、人間的な感情のようなものは神の言葉に含まれるわけがないし、含まれてはならない。人間的な思いが教会を左右するようなことがあってはならない。そのようなものの上に教会は決して立ちはしない。教会は人間のものではなく神のものである。あらゆる人間的な思いを否定し、対立するところに成り立つひたすら純粋な神の言葉の上だけに、真の教会は立つし、立たねばならない」というような反論が起こるかもしれません。
しかし今日の箇所を読むかぎり、いま私が付け加えたことのすべてが否定されなくてはならないほどの反論の根拠は見当たりません。私が付け加えたことを別の言葉で言い換えるとすれば、「神の言葉によって立つ教会」を強調することは正しいが、だからといって聖書、説教、教会における「人間性」を排除する理由になりはしない、ということです。
そのことを、メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレー先生が、使徒言行録20章32節の註解としてしっかり書いておられました。ウェスレー先生は偉大であると思いました。次のとおりです。
「神は何の手段も用いずに、このようにわたしたちの信仰を築き得るのであるが、実際には手段を用いて、信仰を築いてくださる。諸君よ、今は以前よりもキリストを知ったから、人間的な教師の必要はあまりないなどと、思いあがらぬように気を付けるがよい」(『ウェスレー著作集 第1巻 新約聖書註解 上』松本卓夫・小黒薫訳、ウェスレー著作集刊行会、新教出版社、初版1960年、第二版1979年、498ページ)。
感覚的にはよく分かる話です。説教者の人柄と説教そのものを完全に区別することができるのかという問題です。現実に不可能です。
「神の言葉によって立つ教会」は「人間」を排除してはいけません。説教者が「人間」であることも「人間的」であることも、排除できませんし、排除してはいけません。パウロが教会の人々をゆだねた「神とその恵みの言葉」は、彼自身が「夜も昼も涙を流して」教えたものでもあるのです。
岸先生のような温かい人柄の牧師先生と共に歩んでおられる千葉本町教会の皆さまは、本当に幸せです。「人間」に冷淡な教会は残酷です。教会がそういうふうになってはいけません。
千葉本町教会の皆さまの上に、さらなる主の祝福がありますよう、心からお祈りいたします。
(2017年2月19日、日本基督教団千葉本町教会 主日礼拝)
2017年1月1日日曜日
教会の使命いまだ已まず(上総大原教会)
関口 康(日本基督教団教務教師)
「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。』わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す』と主は言われた。」
「『さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。「急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。」わたしは申しました。「主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を迫害したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。」すると、主は言われました。「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。」』
あけましておめでとうございます。日本基督教団教務教師の関口康です。上総大原教会の新年礼拝にお招きいただき、ありがとうございます。どうかよろしくお願いいたします。
しかしまた、私が今日ここに立たせていただいているのは、上総大原教会の前任者の石井錦一先生が昨年7月4日に突然亡くなられたため現在この教会の牧者が失われた状態であることを同時に意味しています。皆さまのお気持ちを思うと、胸が苦しくなります。
私も石井先生にはいろいろお世話になりました。最初にお会いしたのは13年前の2004年4月です。私は当時、日本基督教団ではなく日本キリスト改革派教会の教師でした。2004年4月に松戸市の日本キリスト改革派教会の牧師になりました。そのとき松戸教会におられた石井先生を表敬訪問したのが最初の出会いでした。
その後、石井先生から「関口くんの歓迎会をするので来てください」というお電話をいただきました。集まっていたのは松戸市内の超教派の牧師がたでした。その後も石井先生とは何度もお会いし、温かいアドバイスをいただきました。
私の父の出身教会が松戸教会です。60年前に父が千葉大学園芸学部(千葉県松戸市)で学んでいたとき、松戸市内で行われた賀川豊彦先生の伝道集会に誘われ、そこで信仰を与えられ、まもなく松戸教会で洗礼を受けました。父は大学卒業後、就職で岡山市に移り住みました。私は岡山で生まれました。
父にとって信仰のふるさとは松戸教会です。それは同時に、私の信仰のルーツが松戸教会であることを意味しています。父に洗礼を授けてくださったのは石井先生の前任者の黒岩先生でしたが、石井先生は私の父が松戸教会の出身者であることをとても喜んでくださいました。
その石井先生と最後にお会いしたのは一昨年2015年5月8日でした。私はもともと日本基督教団の教師でしたが、一昨年2015年までの19年間は日本キリスト改革派教会の教師でした。その私が再び日本基督教団の教師に戻ることを決心したときにも石井先生に相談させていただきました。そのときも石井先生は親身になって私の言葉に耳を傾けてくださいました。
しかし、それほどまでお世話になった石井先生が昨年7月4日に亡くなられたことを、私はしばらくのあいだ全く知らずにいました。昨年7月の時点では、私はすでに日本基督教団の教師であり、東京教区千葉支区の教師でしたが、私には知らせていただけませんでした。それで石井先生の葬儀に馳せ参じることができませんでした。
現在の私は高等学校で聖書を教える教員です。月曜日から金曜日までの朝8時半から夕方5時半までが勤務時間です。千葉支区教師会には出席できていませんし、千葉支区主催の行事にも出席できていません。しかし声を大にして言わせていただきます。私は日本基督教団東京教区千葉支区の教師です。ぜひ皆さまのお仲間に加えていただきたく心から願っています。
さて、その私が今日、上総大原教会の主日礼拝で、しかも新年礼拝で説教をさせていただく機会を与えられました。この教会をお訪ねするのも千葉県いすみ市に足を踏み入れるのも初めてです。全くの初対面の皆さまにどのようなお話をさせていただこうかと考えましたが、なんとか心が定まりました。ここはなんといっても、とにもかくにも「伝道」の話をさせていただこうと思いました。
この教会だけではありません。日本基督教団だけではありません。すべての教会が大きな悲鳴をあげています。伝道不振に喘いでいます。キリスト教だけではありません。宗教が弱っています。まるで役割を終えてしまったかのように。そして、なんたることか、教会や牧師たちが、まるでそのことが自分たちに定められた動かしがたい運命であるかのように受け容れ、自分たちの終わりの日が来るのを無抵抗にじっと待っているかのようです。
冗談ではありません。教会を勝手に終わらせないでください。このように言うのは、だれかを非難したいわけではありません。私自身にも責任があります。教会を勝手に終わらせてはなりません。
教会はだれのものでしょうか。そのことをわたしたちは何度も自分に問いかけなくてはなりません。教会はわたしたちのものでしょうか。ある意味で、そのとおりです。わたしたちの教会はわたしたち自身が守っていかなければなりません。
しかし、教会はわたしたちのものでしょうか。それだけでしょうか。もしそうだとしたら、教会がうまく行かなくなったら、さっさと閉じて山分けでもするのでしょうか。冗談ではありません。教会は神のものです。イエス・キリストのものです。その意味では教会はわたしたちのものではありません。そのことをわたしたちは決して忘れてはなりません。
教会に与えられている使命についても同じことが言えます。わたしたちはイエス・キリストを勝手に殺してはなりません。「もう大昔に死んだ人だろう」と、わたしたちまでが言うべきではありません。そんなのは信仰ではありません。イエス・キリストは生きておられます。そしてその生きておられるイエス・キリストから教会に、日々新しい使命が与えられ続けています。
もちろん「現実的に考えること」も大事です。しかしそこでわたしたちは屁理屈を言い続けてよいと思います。「現実」とは何を意味するのか、その定義を示してみよと、問い続けることが必要です。その問いの答えは単純なものではありえないからです。
名指しなどは避けますが、隠退した牧師のような人々が「教会の店じまいをしなくてはならない」とか言い出すことがあります。冗談ではありません。そのような言葉を聞くたびに非常に嫌な気持ちになります。教会は神のものです。イエス・キリストのものです。勝手に私物化しないでください。
初めてお訪ねした教会で、しかも新年礼拝というおめでたい場所で、なんだか腹立ちまぎれのような話をしているようで申し訳ありません。しかし私の気持ちはなんとか皆さんを励ましたいだけです。その一心で今日ここに立たせていただいています。
今日、皆さんに開いていただいた聖書の箇所は2箇所です。この教会では旧約聖書と新約聖書の両方を朗読しておられることが事前に分かりましたので、そのように選ばせていただきました。旧約聖書のエレミヤ書1章と、新約聖書の使徒言行録22章です。
2つの箇所に登場するのは、預言者エレミヤと使徒パウロです。両者に共通する要素があります。そのひとつは、御言葉を語るようにと、エレミヤは神から、パウロはイエス・キリストから命ぜられていることです。
しかし、それだけではありません。共通している要素がもうひとつあります。エレミヤもパウロもその命令をはっきり断ります。神から「しなさい」と言われたことを「いやです」とお断りするのがエレミヤとパウロの共通点です。
「はい分かりました」と二つ返事でお引き受けするというようなあり方とは全く違います。しかも彼らは、なぜ断るのか、なぜ自分はその働きにふさわしくないのか、その理由を具体的に挙げました。その点がふたりとも共通しています。
しかも彼らが挙げた理由はどちらも非常に客観的でした。説得力を感じるものでもありました。彼らが挙げた理由を聞くと、おそらく多くの人が納得したことでしょう。それは彼らが自分の姿を客観的に冷静に見つめていたことを意味しています。
エレミヤは、「わたしは若者にすぎません」と言いました。それを聞けば「たしかにそれはそうですよね。若い人には無理ですよね」と多くの人が納得しただろうと思います。
パウロは、自分がもともとキリスト教の迫害者であり、キリスト者をつかまえては殺して回っていた人間であることを多くの人に知られていることを理由に挙げて、そんな私は今さらイエス・キリストの福音を宣べ伝える働きにはふさわしくないということを言おうとしました。それもおそらく多くの人が納得できる理由です。「それはたしかに無理ですよね。やめておいて正解です」と認めてもらえる理由だと思います。
しかし、それではなぜ私は今日、伝道の話をするために、この2つの箇所を選ばせていただいたのでしょうか。皆さんにはきっともうお分かりでしょう。
私が申し上げたいのは、もしわたしたちが伝道をやめてしまい、教会をあきらめてしまおうとするならば、そのための理由もまた、客観的にあげていけばいくらでも見つかるし、どれも非常に説得力のある材料になるに違いないということです。
数え上げればきりがありません。「少子高齢化です」、はいそのとおりです。「経済不況です」、はいそのとおりです。「社会全体の宗教離れです」、はいそのとおりです。すべては客観的に正しいし、説得力があります。もはや何の反論もできません。
しかし、それが何なのでしょうか。それがどうしたというのでしょうか。そのような理由をいくら客観的に分析し、どれほど説得力をもって言おうとしても、わたしたちが教会をあきらめ、伝道をやめる理由にはなりません。「恐れるな」と言われ、「わたしがあなたを遣わすのだ」と言われ、「あなたを遣わしているのは、このわたしなのだ」と言われる方が生きておられるかぎり。
私はいま学校の教員ですので、学校が取り組んでいる客観的で学問的な社会分析といった次元のことを軽んじる意味で申し上げているわけではありません。そういうことも大事です。しかし、最終的には、そういうのは全くどうでもいいことです。
どれほど自分の姿と社会の姿を冷静に見つめ、客観的に分析しようとも、それはわたしたちが伝道をやめ、教会をあきらめる理由にはなりません。そのような理由など教会には存在しないからです。なぜなら、教会は神のものであり、イエス・キリストのものだからです。
私は、自分の伝道がうまく行ったと思えたことはありません。どこに行ってもうまく行かず、失敗だらけで、いくつもの教会を転々とし、そのたびに家族を泣かしてきた者です。そのような者が申し上げていることですから、全く説得力がない話であることは自覚しています。「こうしたら伝道はうまくいく」、「こうしたら教会は成長する」という話は私にはできません。そのことをお詫びしたい気持ちです。
本音をいえば、逃げ回りたい気持ちがないわけではありません。自分にはふさわしくないとお断りする理由をあげていけば、いくらでもあります。現実的に考えていくと、とても乗り越えられそうにない高すぎるハードルはいくらでも見つかります。
しかし、主のご命令ですから従います。教会をあきらめることができません、伝道をやめることができません。そういう感じでよいのだと思っています。
もう一回言いましょうか。わたしたちがどれほど客観的に正しく、説得力のある理由を探してきても、教会をあきらめ、伝道をやめる理由にはなりません。教会は神のものであり、イエス・キリストのものですから、わたしたちが勝手にあきらめ、勝手にやめることはできないものだからです。
上総大原教会の歩みがこれからも主に守られますようにお祈りさせていただきます。支区・教区・教団の交わりの中で、私もお祈りとお支えの仲間に加わらせていただきます。
(2017年1月1日、日本基督教団上総大原教会 新年礼拝)
2015年5月24日日曜日
教会の時代 ペンテコステ礼拝
| 日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂 |
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信仰深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざけるものもいた。」
今日はペンテコステ礼拝です。「ペンテコステ」という言葉は何度聞いても耳慣れないものがあります。意味を説明すべきかもしれませんが、これは固有名詞であると考えてください。毎年ペンテコステという日がやってくる。その日に教会に行くとペンテコステ礼拝がある。そういうことだと覚えてください。
「ペンテコステ」という言葉の意味は、重要ではありません。それが分かったからといって「ペンテコステ礼拝」の意義が分かるわけではありません。重要なのは「ペンテコステ礼拝」を行う意義です。ごく大雑把に言えば、今日はキリスト教会の設立記念日です。それが「ペンテコステ礼拝」を行う意義です。
5月24日がそうだという意味ではありません。日付は毎年変わります。なぜ毎年変わるのかも説明すべきかもしれませんが、それも割愛します。日付もあまり重要ではないからです。しかし、乱暴に言い過ぎることは控えます。日付に関して大切なことが、ひとつあります。それは、イースターとの関係です。
今年のイースターは4月5日でした。どうしたことでしょうか、今年から突然、日本中で「イースター、イースター」と大騒ぎでした。大騒ぎの波に乗って教会にたくさん人が来てくださればよかったのですが、残念ながら、そういうふうにはなりませんでした。いえ別に、文句を言いたいわけではありません。
そして今日が5月24日。4月5日から7週間後です。一週間が7日。7週かける7日は49日。たす1日で50日。つまりイースターから50日目がペンテコステです。これは毎年同じです。イースターの日付も毎年変わりますが、イースターの50日後に必ずペンテコステが来るという関係は変わりません。
毎年変わらないのはイースターから50日目にペンテコステが来ることです。イースターとペンテコステのこの関係が重要です。しかし、50日であるのは歴史の事実に基づいているだけです。50日でなければならないわけではありません。重要なのは、イースターの後にペンテコステが来るという順序です。
イースターは、十字架にかかって死んだイエスさまが復活されたことを記念する日です。しかし、復活されたイエスさまのお姿を目撃したのは、イエスさまの弟子たちだけでした。そのときの彼らのことをわたしたちは「教会」とは呼びません。イエスさまの復活の50日後に「教会」が初めて誕生したのです。
しかし、使徒言行録(1:3)によれば、復活されたイエスさまが弟子たちの前に姿を現されたのは「40日」だったと記されています。「50日」ではありません。50日後のペンテコステには教会が誕生します。しかし、教会が誕生する10日前にイエスさまの姿が弟子たちの目にも見えなくなったのです。
その10日間は弟子たちにとって不安な日々だったでしょう。イエスさまは彼らの心の拠り所だったからです。その彼らにとって、目に見えるイエスさまがいてくださるのと、目に見えないイエスさまを信じることとでは、どちらが安心でしょうか。それは目に見えるお姿のほうが安心であるに決まっています。
わたしたちも大切な家族や友人の死に立ち会ってきました。その方々は今も神と共に生きておられるとわたしたちは信じていますが、その方々の姿をわたしたちの目で見ることはできません。悲しみや寂しさがあります。このわたしたちと同じことが、イエスさまと弟子たちとの関係の中にもあったと言えます。
しかし、その彼らのもとに新しく心の拠り所となるご存在が来てくださいました。そのご存在を聖書は「聖霊」と呼びます。教会は「聖霊」を神であると信じています。聖霊は神です。その聖霊なる神が、弟子たちのもとに来てくださいました。それが今日お読みしました聖書の個所に描かれている出来事です。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(1~2節)。「五旬祭」がペンテコステです。「一同」とはイエスさまの弟子たちです。彼らは集会中でした。そのとき彼らに不思議な出来事が起こりました。
「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(3~4節)。書いてあるとおりのことが起こったとすれば、まさに不思議な出来事です。オカルト的怪奇現象だとしか言いようがありません。
しかし、わたしたちがある程度考えてよいことは、聖書もまた、文学的な表現を用いて書かれているということです。たとえば、現代の自然科学の観点から聖書を読んで、このようなことはありえないなどと言って完全に退けてしまうのは、聖書の読み方としてふさわしくないし、間違っているとさえ言えます。
そして、この個所に登場するのは「炎のような舌」です。それが「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と書かれています。弟子たち自身の「舌」は彼らの口の中にあります。しかしこのとき起こったのは、彼ら自身の「舌」ではなく、別の「舌」が現れ、それが彼らにとどまったということです。
そして、その「舌」が彼らに「とどまった」とは、頭の上にくっついたわけではなく、彼らの体の中、口の中に入り込んだことを意味します。つまり、弟子たちは「二つの舌」を持つに至ったのです。しかし、そのように言いますと語弊が出てきそうです。「二枚舌」といえば悪い意味しかありえないからです。
しかし、彼らに与えられたのは「炎のような舌」でした。すると「聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のです。「ほかの国々の言葉」だけ読むと、彼らに与えられたのは外国語をしゃべれる能力のようなものかと考えたくなりますが、そういう話だけではないと思われます。
なぜなら、イエスさまの弟子たちの仕事は、聖書に基づいて神の言葉を説教することだからです。神の言葉を全世界にあまねく宣べ伝えることが、彼らの仕事であり、使命です。そのことを考えれば、「炎のような舌」を与えられ彼らが「ほかの国々の言葉で話しだした」ことの意味は、おのずから分かります。
その意味はこうです。その日以来弟子たちは、燃えるような熱心さで、国境や言語の違いを越えた全世界に向かって、神の言葉を宣べ伝えるようになったということです。それ以外の意味は考えられません。それが今からおよそ二千年前の「五旬祭の日」(これが「ペンテコステ」です)に起こった出来事です。
その日をわたしたちは「教会」が誕生した記念日として覚えてきました。わたしたちが今日何を記念しているのかといえば、イエスさまの弟子たちが全世界に熱心に神の言葉を宣べ伝えるようになったことを記念しているのです。それが彼らにできるようになったのは、「炎のような舌」が与えられたからです。
そして、この「炎のような舌」こそが「聖霊」であると考えることが可能です。そして「聖霊」は端的に神です。つまり、このとき彼らに起こったのは、ただ単に外国語をしゃべれる能力が与えられたということだけで終わる話ではありえません。彼らの中に端的に「神」が宿ってくださったことを意味します。
しかしそれは、彼らが神になったということではありません。人間は神にはなりません。人間は人間です。しかし彼らは、人間のままで神の言葉を語るようになったのです。そのために、別の「舌」が与えられました。それは、生まれつきの人間には決して語りえない「神の言葉」を語れるようになるためです。
それは二枚舌ではありませんと、先ほどから申しています。しかしそれは「悪い意味ではない」と言いたいだけです。もしかしたら本当に、ある意味で二枚舌かもしれません。なぜなら、代々の教会が宣べ伝えてきた、そして今のわたしたちが宣べ伝えている神の言葉は、人間の思いとは異なるものだからです。
そのことはわたしたちが聖書を読むたびに感じることです。聖書の言葉が人間の思いとかけ離れていると感じることは多いです。どこを読んでも必ず共感できるわけではなく、むしろ反発を感じたり、葛藤を覚えたりすることのほうが多いのが聖書です。聖書には人間の思い通りのことが書かれていないのです。
しかし、それでいいのです。神はわたしたちの手下ではありません。立場は逆です。人間のほうこそ神のしもべになるべきです。人間の願いや野心がすべて人間の思いどおりに実現するなら、人間はモンスターです。人間には罪があるからです。この世界は、人間の思いどおりになどならないほうがいいのです。
わたしたちは、自分の罪を悔い改め、神に従うべきです。そのことを教会は、これまで宣べ伝えてきたように、これからも、世の終わりまで宣べ伝えて行かなくてはなりません。しかし、そのためには、人間の思いのままを語る舌とは異なるもう一つの「舌」、すなわち、神の言葉を語る「舌」が必要なのです。
(2015年5月24日、松戸小金原教会ペンテコステ記念礼拝)
2014年5月4日日曜日
恐れるな、語り続けよ
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| 日本キリスト改革派草加松原教会 礼拝堂 |
日本キリスト改革派草加松原教会 主日礼拝説教(2014年5月4日)
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使徒言行録18・1~11
「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。『あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。』パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。」
今日、私が草加松原教会で説教させていただくことになりましたのは、代理牧師の櫻井良一先生に私から無理に頼み込んだからです。私のほうから櫻井先生に直接お電話して説教者のローテーションに加えていただきました。そのことを皆様にお許しいただきたく願っています。
私は、ちょうど10年前の2004年4月に松戸小金原教会に転任しました。その前は山梨栄光教会の牧師でした。私は草加松原教会と同じ東部中会に属していました。松戸小金原教会も、10年前は東部中会の教会でした。しかしその2年後の2006年に東部中会から東関東中会が分離しました。それ以降は、草加松原教会と松戸小金原教会は別の中会の所属になりました。
しかし私は、今でも東部中会に心を残しています。私にとっては当然のことだと思っているのですが、東部中会の教会のことが心配で心配でたまりません。
しかし、このことは実際に体験してみなければ分からないことだったのですが、中会が分かれるということは、私にとっては情報が全く入らなくなることを意味していました。東関東中会の私には、東部中会の教会のことが本当に何も分からなくなりました。
私にとって草加松原教会は、10年以上前から特別な思いを抱いてきた教会です。この教会の会員のOさんは山梨栄光教会のご出身の方です。Oさんは仕事の休みで山梨のご実家にお帰りになるときには必ず山梨栄光教会に出席してくださり、草加松原教会のことを教えてくださいました。
また、これもやはり山梨栄光教会に関係する話なのですが、私が山梨栄光教会にいた頃の日曜学校の生徒の一人がこの教会の出身教師になったK先生です。独協大の学生時代のK先生からこの教会のことをいろいろと教えていただいたことをよく覚えています。
また、S長老をはじめこの教会の何人かの方々には東部中会の定期会や臨時会、また夏期信徒修養会など、あるいは定期大会といった場所でお会いする機会があり、とても親しくしていただきました。草加松原教会の皆様にお会いするたびに、私は励まされてきたのです。
しかし、中会が別になり、ほとんど全く東部中会の情報が私の耳に入らなくなりました。そして、ある日突然、草加松原教会が今は牧師がいない状態だというような話を、風の便りのような形で知らされ、ただただ驚くばかりでした。
しかし、中会の違いが大きな壁のようにも感じられ、草加松原教会のお話をうかがっても、驚くことしかできず、心配することしかできず、どうしたらいいのか分からない状態がずっと続きました。何かお手伝いできることはないだろうかと、ずっと考えていましたが、ただ考えているだけでした。
昨年の夏に一週間の夏期休暇を教会からいただいたとき、平日でしたが、車を飛ばしてこの教会の前まで来たことがあります。
外環道を使えば、松戸から草加までは一時間弱です。今日は日曜日で、出勤ラッシュがありませんので40分ほどで着きました。松戸と草加は、すぐ近くです。日本キリスト改革派教会としては、三郷教会を挟んで、草加松原教会と松戸小金原教会は「隣の隣」の教会です。
しかし、中会が違うゆえに何もできない。手をこまねいているしかない。そのような歯がゆい思いをずっと持ちながら、今日まで過ごしてきました。
それでとうとう我慢できなくなり、櫻井先生に頼みこんで説教をさせていただくことにしたのです。これは私の本当の気持ちです。
先ほどお読みしました聖書の個所、使徒言行録18・1~11は、たいへん僭越な言い方ではありますが、草加松原教会の皆様をなんとかしてお励まししたいその一心で選ばせていただきました。
イエスさまが幻の中で使徒パウロの前にお姿を現わしてくださいました。そして、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(9~10節)という力強い励ましの言葉を、パウロに語りかけてくださいました。
これと全く同じ御言葉を、イエスさまは今日、草加松原教会の皆様おひとりおひとりに語りかけてくださっています。
しかしこのように申し上げますと、疑問を感じる方がおられるかもしれません。もちろんいろんな疑問が考えられるわけですが、私自身も考えさせられたことがあります。それは次のような疑問です。
パウロのようなきわめて突出して英雄的な個人が経験したイエス・キリストとの出会いの出来事を、他の誰にでも当てはめることができるのだろうかという疑問です。
たしかにパウロは英雄的な伝道者でした。いかなる迫害をも恐れず、孤立を恐れず、主のご命令とあれば、どこにでも行く、何でもする。そのようなことができた人です。そのパウロのような生き方や働き方は、他のだれでも真似できるようなものではありません。
パウロのような人だったからこそ、イエスさまは彼自身の幻の中に現れてくださって「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」と語りかけてくださったのであって、それと全く同じ言葉をイエスさまがわたしたちにも語りかけてくださっていると考えるのは間違っているのではないか、という疑問です。
しかし、私の結論は、そのように考えることは間違っていないというものです。パウロが経験したイエスさまとの出会いの出来事について、この個所の前後に書かれていることをよく読めば分かることは、このときパウロは実際にはかなり追い詰められていて、ある意味どうしようもない苦境にあり、もう伝道をやめてしまおう、伝道者であることをやめてしまおうという決心に至る一歩手前のところに立たされていたのではないかと考えられる、ということです。
「パウロはアテネを去ってコリントへ行った」(1節)と書かれていますが、パウロのアテネ伝道は事実上失敗だったと、多くの人が否定的に評価しています。詳しい説明をするいとまはありませんが、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それでパウロはその場を立ち去った」(17・32)と記されている点は重要です。パウロのアテネ伝道は、町の人からあざ笑われ、あしらわれたものでした。
その次に「しかし、彼について行って、信仰に入った者も、何人かいた」(17・33)とも書かれていますので、パウロのアテネ伝道は失敗だったと断定的に評価することまではできないのではないかと主張する人もいます。しかし、いずれにせよ、アテネを去りコリントへ行ったときのパウロは相当がっかりした気持ちを抱き、残念な思いをかかえていました。聞く耳を持たないアテネの人々の前から逃げるような格好で立ち去ったのです。
しかも、コリントに到着したパウロは、今日の個所に書かれているとおり、アキラとプリスキラというユダヤ人夫婦の家に住まわせてもらい、この夫婦がしていたテント造りの仕事を一緒にしながら伝道することになりました。この個所に基づいて、伝道者パウロは教会からはお金を一切受け取らず、もっぱらテント造りの収入だけで伝道したのだと説明する人がいますが、本当にそうでしょうか。
たしかにパウロはコリントの信徒への手紙一9章に「わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか」(6節)と書いていますし、その後の個所に「しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした」(12節)と書いています。しかし、これはある意味でコリント教会に対する一種の批判として書いていることです。実際のパウロは、どの教会からも経済的な支援を全く受けなかったわけではありません。他の手紙には、教会の人々の献金と彼自身に対する経済的支援への感謝の言葉が書かれています。
そのことを考えますと、パウロのコリント伝道がテント造りの副業収入だけで続けられたということについても、それは彼にとっては必ずしも喜ばしいことではなかったとも考えられます。むしろ、経済的に追い詰められて、他にどうしようもなくなって、そうせざるをえなかったということのほうが近いのではないかと思われるのです。
そして、そのパウロの重苦しい状況に追い打ちをかけたのが、コリントのユダヤ人たちからの迫害です。「彼らが反抗し、口汚くののしった」(6節)と書いてあるとおりです。そのユダヤ人たちの態度にパウロは激怒しました。服の塵を振り払って、「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く」(6節)と言い放ちました。
要は、パウロはキレたのです。「伝道者はキレてはいけない。牧師はキレてはいけない」と、よく言われます。私も最近だんだん怒りっぽくなり、キレやすくなっていることを深く反省しています。伝道が思うように行かず、経済的にも追い詰められる。それに追い打ちをかけるように、容赦ない批判を浴びせられ、攻撃される。こういうことが続きますと、人はキレやすくなります。
しかし、キレた牧師はそのことだけで失格者と言われてしまう。「伝道者としても、キリスト者としても、人間としても失格者である」というような負の烙印を押されてしまうのです。
しかし、このようなことは、パウロでなくても、狭い意味での伝道者あるいは教会の牧師でなくても、多くの人が体験することではないでしょうか。そして、そのような場面に実際に出くわし、自分自身がそのようなことを体験するとき、わたしたちは、それでも伝道を続けていこう、聖書に基づく神の御言葉を語り続けよう、説教をしようという思いを強く維持し続けることができるでしょうか。それは不可能であるとまでは言いませんが、非常に難しいことではないかと思うのです。
ですから、幻の中でパウロがイエスさまの御言葉を聞いたこの出来事には一つの背景があると考えられます。それはどういう背景なのか。このイエスさまの御言葉を聞く直前までパウロが抱いていた思いは、すべてこの御言葉の正反対だったのではないか、ということです。
彼は恐れていました。語り続けることは不可能だと確信しそうになっていました。もう黙ろう、と思いはじめていました。書くのもやめだ、断筆宣言だ、というようなことまで考えていたかもしれません。孤立感を深めていました。経済的にもじり貧でした。誰も助けてくれない。主は本当にわたしと共にいてくださるのだろうかと、疑いの思いが去来するほどでした。この町には、自分に敵対する人しかいない。伝道者の言葉を受け容れ、イエスさまへの信仰を受け容れる人などほとんどいないと、絶望しかかっていました。
そのパウロの、逆の意味での確信、悪いほうの確信を打ち砕く言葉を幻の中でイエスさまが語ってくださったのです。そのように理解することが可能です。
先ほどから幻、幻と言っていますが、パウロが眠っている間に夢でも見たのでしょうか。その夢の中にイエスさまがご登場なさったのでしょうか。ある意味そのとおりかもしれません。しかし他方で、わたしたちは「伝道のヴィジョン」という言葉をよく使います。この意味でのヴィジョンも幻です。
わたしたちが「伝道のヴィジョン」という言葉を使うときにだいたい考えていることは、実際はまだそのことは目に見える現実になっていないけれども、将来そのようになっていくことを望み、希望をもって計画を立て、その計画を実行に移すことです。
パウロにも、わたしたちと同じ意味での伝道の計画、伝道のヴィジョンがなかったわけではありません。彼は、その場限り、思いつき、行き当たりばったり、成り行き任せ、無軌道、無計画の伝道をしていたわけではありません。結果的に自分の思うように行かなかったこと、計画どおりに事が進まなかったことはいくらでもあるのですが、だからといって無計画だったということではありません。
それでは、わたしたちの伝道のヴィジョンのほうは、それは単なる計画であって、それはつまり、予定は未定であって決定ではないというようなことを言えば済まされるようなことなのでしょうか。あるいはまた、それは自分たちの人間の思いで立てた計画だから実現しなかったのだ、計画など最初から立てなければよかったのだ、というような総括で済まされるようなことなのでしょうか。
そうではないはずです。わたしたちの「伝道のヴィジョン」は、多くの人の熱心な祈りの中で立てられたものであり、聖書の教えに基づき、神の御心に従って立てられた主の計画であり、そのようにして与えられた希望であるはずです。もしそうであるならば、わたしたちの教会にかつて与えられた「伝道のヴィジョン」の中で、その幻の中で、イエスさまは、今でも強く語りかけてくださり続けていることを信じることができるはずです。
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。
このイエスさまの言葉が、わたしたちの「伝道のヴィジョン」の中でも強く響き渡り続けています。この言葉は、パウロという突出した英雄的な個人だけに語られているものではなく、すべての教会に語りかけられています。
しかもそれは、わたしたちでいえば、中会とか大会という単位へと語りかけられているのではありません。この御言葉は、一つ一つの教会、各個教会、この教会、そして、わたしたち一人一人に語りかけられているのです。
2008年8月31日日曜日
やっと夢がかなった
使徒言行録28・17~31
今日で使徒言行録の学びを終わります。約一年半かかりました。最初の説教のときに私が申し上げたことを、たぶん皆さんはお忘れになっているでしょう。「使徒言行録の学びが終わるまで、皆さん元気でいてください」。冗談で言ったわけではなく本気で言いました。しかしこの間、一人の姉を天におくりました。一人の兄、一人の姉が、遠くに引っ越して行かれるのを見送りました。一人の姉は長期入院中です。仕事が変わった方、身辺が急に忙しくなった方々がおられます。年々体力が落ちていると感じている方は多いでしょう。私も今年前半は、体調不良に苦しみました。すべてこの一年半の間に起こったことです。
「願いがかなう」というのは簡単なことではない。そんなふうに感じます。使徒言行録に紹介されているのは最初の教会の様子、とりわけ伝道者たちの戦う姿でした。しかし、ここで言わせていただきたくなることは、最初の教会の人々やペトロやパウロだけが苦労したわけではないということです。わたしたち自身も苦労しています。わたしたち自身も、ペトロやパウロと同じか彼ら以上に、一日一日、足と体を引きずりながら、いろんなものにぶつかり傷つきながら生きています。しかしそれでもわたしたちが絶望してしまわないで立っていることができるのは、苦しみの日々の中でほっと一息つくことができる瞬間があるからであり、それを神の恵みとして受けとることができるからではないでしょうか。
日曜日の礼拝が皆さんにとってそのような時間でありうるようにするために、私なりに努力させていただいているつもりです。わたしたちの月曜日から土曜日までがつらくて、そのうえ日曜日までつらかったら、わたしたちは、もはや立っていることができません。教会の礼拝は、現実から逃避するための場所ではありません。しかし、現実の戦いのなかで傷ついた人々の安息の場ではあります。今日、日曜日はわたしたちの安息日なのです!ですから、皆さんどうぞここで休んでください。エウティコのように説教の途中で居眠りしてくださっても構いません(ただし、三階から落っこちないように。松戸小金原教会に三階はありませんが)。教会にはどうぞ休みに来てください。遊びに来てください。私にはそれ以外の表現ができません。ここは、お説教に苦しめられる拷問部屋ではないからです。
パウロの夢は、ついにかないました。念願のローマに着きました。パウロはこれまで、いくら祈っても計画を立ててもローマに行くことはできませんでした。ところが、その彼が囚人となってローマ人の兵隊に護送されるという格好で彼の夢がかないました。しかし、過程がどうあれ、パウロにとって重要だったのはローマに行くことでした。なぜパウロはローマに行きたかったのでしょうか。その理由が今日の個所に記されています。
「三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。『兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。』すると、ユダヤ人たちが言った。『私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。』そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。」
パウロの発言の趣旨をまとめておきます。キリスト教信仰を宣べ伝えるパウロの活動をユダヤ人たちが理解してくれない。実際のキリスト教信仰はユダヤ人たちが信じる聖書の教えと反するものではない。ところが、ユダヤ人たちはそれが聖書の教えに反するものであると言い張り、パウロを捕まえて殺そうとした。裁判でローマ人は、パウロのしていることは死刑に当たるようなものではないことを理解してくれた。それでも、ユダヤ人たちが彼の有罪を言い張るので、ローマ皇帝に上訴しなくてはならなくなったというわけです。パウロは、キリスト教信仰を宣べ伝えることは、それによってだれかから責められたり殺されたりするようなものではないことを、ローマ皇帝に認めてもらいたいのです。
もう少し短く言い直します。パウロが「ローマに行かなくてはならない」という確信をもった理由は、キリスト教信仰とそれを宣べ伝えるキリスト教会の“市民権”を保障してもらうためであったということです。これを信じているから逮捕されるとか、これを宣べ伝えているから殺されるというような不当な扱いを今後一切受けることがないように法的に認めてもらうためであったということです。その法の番人がローマにいる。そこでこの問題についてはローマに行ってその人に直接かけあって話してみたいという動機をパウロが持っていたということです。
しかし、この理由は、私にとっては、分かりにくいものです。なぜ「分かりにくい」と言わなければならないのでしょうか。
第一は、わたしたち(念頭にあるのは、21世紀の日本のキリスト者)は、パウロと同じような意味で、キリスト教信仰とキリスト教会の“市民権”を獲得するための戦いをしなければならないような状況にあるとは思えないからです。わたしたちがこの信仰をもって生きることを決心し、そのような人生を歩んだからといって、それによってただちに迫害されたり殺されたりするような状況にあるわけではありません。
それどころか!つい最近ある先輩牧師の口から聞いた言葉をお借りすると、今日の状況は「糠に釘、のれんに腕押し」です。わたしたちが何を信じようと、何を宣べ伝えようと、「どうぞご自由に」という空気に包まれます。全く無関心です!迫害されたり殺されたりするような状況に戻るほうがよいなどと、まさか考えているわけではありません。しかし、いわばその代わりに、無関心の牢獄、無反応・不感症の泥沼の中にいるような感覚があります。これがパウロの時代とわたしたちの時代の決定的な違いであると思われるのです。
もう一つ。第二に申し上げることは、第一に申し上げたこととはいくらか違う次元から見たことです。しかし内容的には重なります。
パウロのローマ行きの理由は、ローマ皇帝に上訴することによって、キリスト教信仰とキリスト教会の市民権を保障してもらうためでした。しかしそこで私がどうしても抱いてしまう疑問は、はたして本当にそのようなことがパウロひとりの力で可能なのだろうかということです。相手はローマ帝国の最高権力者です。歴史が伝えるところによると、歴代の皇帝たちは、人を人とも思わない、凶悪な独裁者でした。そのような人のところまで、まるでネズミ一匹のようなパウロが、単身でのこのこ乗り込んだからといって、何がどう変わるというのでしょうか。あまりにも無謀すぎるのではないか。危険すぎるのではないか。そのように感じられてしまいます。
もっとも、パウロは、これまでの間にすでに、ユダヤの最高法院を相手し、ユダヤの王アグリッパに対しても戦いを挑んできました。だからこそローマにも行き、ローマ皇帝の前にも立つ。そのような勢いを得、自信を抱くことができたのかもしれません。
しかし、ここでわたしたちがどうしても考えなければならないことは、ユダヤとローマは違うということです。ユダヤの王とローマ皇帝は違うのです。ユダヤの王アグリッパの前でパウロがそれを根拠にして語り、しきりと訴えていたのは聖書です。「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」(26・27)。ユダヤの国は、たとえどれほど堕落していたとしても、聖書を土台にして立つ国家でした。彼らの思想や文化の中に聖書の教えが生きていました。だからこそ、パウロが聖書の言葉を引き合いに出して論じることに対して、ユダヤ人たちは大いに反応し、また多くの場合、激怒したのです。両者の対話は、いちおう成り立っていたのです。
しかし、ローマ皇帝の場合はそうは行きません。聖書の御言葉を根拠にして語ったからといって、それを理解してくれるような相手ではありませんでした。どう考えても。それは全く異なる思想、全く異なる文化のうえに立っている相手でした。
聖書の教えが全く通用しない相手と語り合う。言葉の通じない、通じそうもない相手と話す。この点においてはパウロの状況とわたしたちの状況とが重なりあってくるところがあります。私は時々、家族の者から「内弁慶である」と批判されることがあります。そうであることを正直に認めざるをえません。すべての牧師が私と同じであるとは限りません。しかし、牧師たちの多くは、聖書を用いての議論ならば、得意としているはずです。私もそうです。もしそれが聖書に基づく議論であるならば、夜を徹して語り合うことができる用意と自信があります。
しかしです。聖書の教えが通用しない相手には苦手意識をもってしまいます。何をどう話してよいかが分からなくなってしまいます。黙ってやりすごすしかないと考えてしまいます。“引きこもり”になってしまいます。
そのような私であるゆえに、パウロの姿を見ると、大いに反省させられます。相手からネズミ一匹と思われようとも、聖書の教えが全く通用しない相手であろうとも、この信仰、この教会を守るために勇気をもって立ち向かう。このパウロの姿に学ばなければならないことがたくさんあると思います。聖書を知らない人々に、聖書を教えること。この信仰の真の価値を知らない人々に、この価値を分かってもらうこと。これこそが伝道であることは、間違いないことだからです。
「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。『聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。「この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。』パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」
使徒言行録の最後の部分は、いくらかコミカルでユーモラスな調子で書かれています。念願かなってローマにたどり着いたパウロの前に、またしても(!)無理解なユダヤ人が現われ、苦労するのです。「あーあ。まったくもう!」というパウロのため息が、ここまで聞こえてくるようです!
ローマの町はパウロにとって天国ではありませんでした。地獄でもありませんでした。そこでも引き続き、彼の日常生活が坦々と続けられました。彼の日常生活とは、御言葉を宣べ伝えること、すなわち伝道でした。パウロから伝道を取り去ると、彼のあとには全く何も残らなかったでしょう。パウロの人生は、神とキリスト、そして教会のためにすべて献げられたのです。
(2008年8月31日、松戸小金原教会主日礼拝)
2008年8月24日日曜日
伝道を楽しめ
使徒言行録28・1~16
「わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。」
パウロの乗った難破船は、地中海に浮かぶ一つの島に辿りつきました。その船に乗っていた276人全員の命が助かりました。彼らは大きな喜びに満たされたに違いありません。
その島に着いたばかりのときには、そこがどこの陸地であるかが彼らには分かりませんでしたが(27・39)、まもなくそこがマルタ島であることが分かりました。なんと、その島に住人がいたのです。
島の名前は、その住人たちが教えてくれたのでしょう。流れ着いた島の住人の言葉が分かるというのは有難いことです。そして何よりそこに人が住んでいたこと自体が幸いです。人の住んでいないジャングル島に着く可能性もありえたはずです。
積み荷も船具も、そして最後の食糧も、彼らには残っていませんでした。飢えと寒さの中、冷たい雨まで降っていました。惨めさと絶望の状態にあり、ガタガタ震えていた彼らを、野獣ではなく人間が、温かいたき火をもって助けてくれたのです。
人が人を助ける姿には、本当に心温まるものがあります。知らない人は縛り上げて奴隷にするとか、「人を見れば泥棒と思え」と教えられているとか。そのような可能性も決して無かったわけではないでしょう。
マルタ島の人々は、あとで見るように、宗教的・文化的に言えばパウロにとってもわたしたちにとってもかなり違和感を覚えるような人々だったかもしれません。しかし、彼らには彼らなりの文化があり、困っている人を助けることにおいて明確な良心があったと言うべきです。間違いなく言えることは、彼らはパウロたちにとって命の恩人であるということです。そのことを決して見落とすべきではありません。
「パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた。住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。『この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、「正義の女神」はこの人を生かしておかないのだ。』ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、『この人は神様だ』と言った。」
初めての島でたき火に当たっていたパウロが、さっそく災難に遭いました。パウロの手に蝮が巻きついてきたのです。海の難は去り、次は毒蛇の難です。それを見たマルタ島の住人たちはパウロを「人殺し」であると考えました。これは悪人に対する神の裁きであり、ばちが当たったのであると考えたのです。そのような考え方が彼らの宗教であり、彼らの文化であったと見るべきです。
しかし、パウロ自身はいたって冷静でした。驚くことも騒ぐこともせず、蝮を火の中に払い落して退治しました。災難から逃れ、何事もなかったように立っていることができました。すると、マルタ島の人々は、パウロのことを「この人は神様だ」と言いはじめたというのです。
人殺しにされたり、神様にされたり。パウロとしてはそれこそが、蝮にかまれるよりも災難だったかもしれません。しかし、それもまた彼らの宗教であり、文化であったと見るべきです。重要なことは、そこはエルサレムでもなければアンティオキアでもなかったということです。そのときパウロは異なる宗教の持ち主のど真ん中に立っていたのです。
さて、私はこの個所を読みながら、四つの問いを抱きました。第一の問いは、このときパウロが蝮に襲われても大丈夫だったことについて、わたしたちはどのように考えるべきだろうかということです。
もちろん、パウロの信じる神さまがパウロの命を蝮の毒から守ってくださったと言っても間違いではないでしょう。しかしまた、私にとって重要だと思える点は、このパウロの冷静な態度です。蛇に襲われた。蜂が飛んできた。そのとき重要なことは、とにかく冷静であること、そして相手の動きから決して目をそらさないことです。
熊が襲ってきた場合は「目を見てはならない」と言われますが、動きから目をそらしてはなりません。忘れてはならないことは、相手も生き物であるということです。こちらが怯えてあわてて騒げば、向こうもびっくりして攻撃を仕掛けてきます。暴れると噛みついてくるのです。
第二の問いに移ります。それではこのときパウロが冷静でありえた理由は何だろうかということです。それはやはり彼の強さにあったと言うべきです。パウロの強さの理由は、はっきりしています。単純に言えば、彼は神さま以外の何も恐れなかった人なのです。
これまで見てきましたように、パウロは人間というものを全く恐れませんでした。襲いかかろうと構える群衆のなかで、一人で立ち、一人で語ることができました。暴力も恐れませんでした。法廷も恐れませんでした。死刑宣告も恐れませんでした。
また彼は、人間だけではなくどんなことも恐れませんでした。海も恐れませんでした。暗闇も空腹も恐れませんでした。彼が唯一恐れたのは神です。そして真の救い主イエス・キリストです。その方以外のどんな存在も恐れませんでした。そのパウロにとって蝮などは、ちっとも恐くなかったのです。
第三の問いは、パウロが蝮にかまれたことを見てパウロを「人殺し」だと考えたマルタ島の人々の考え方を、わたしたちはどのように受けとめるべきだろうかということです。
はっきり言っておきます。彼らの考え方は、どれほど公平に見ても、パウロの信じていたキリスト教信仰と相容れるものではありえません。わたしたちは、彼らのような考え方についていくことはできません。誰かに災難が降りかかった。それは悪人に対する神の裁きであり、ばちが当たったのである。このように語ることは、わたしたちには許されていません。
この点は、どこまでも拡大していくことができるでしょう。戦争の被害に遭った。地震の被害に遭った。それは神の裁きである。そのように言いはじめますと、責任の所在がぼやけます。地震の場合でさえ、人災の可能性があるからです。そのように言うことは、「神の名をみだりに唱えること」に通じるでしょう。
しかし、です。ここで私は、第四の問いを発しておきます。それは先週申し上げたこととよく似たようなことです。それは、この場面でパウロが語っていない言葉があるということです。なぜパウロはその言葉を語っていないのだろうかという問いです。
パウロが語っていない言葉とは何でしょうか。すぐに気づいていただけると思います。マルタ島の人々がパウロのことを「人殺し」であると言い、その次に「この人は神様だ」と言いました。しかし、ここで驚くべきことは、そのときパウロが彼らに対して「わたしは人殺しではない」とか「わたしは神ではない」と反論していない(!)ということです。議論もしていません。微笑み(最低でも苦笑い)をもって受け流している感じです。
議論するのが面倒くさかったからでしょうか。もしかしたらそうなのかもしれません。しかしこれまでのパウロの言動と比較してみると、どこか違いを感じます。
もっと食ってかかってよさそうな場面です。噛みつくような調子でむきになって反論しそうな場面です。「わたしは人殺しではないが、神でもない。人間を神と呼んではならない。あなたがたの考え方は間違っている。今すぐその考えを捨てなさい」。もしこの場面でパウロがそのように語っていたとしても、わたしたちが驚くことはないでしょう。しかしパウロはここでは一切反論していません。
その理由は何でしょうか。そのことについては何も書かれていません。ただ、考えさせられることは、パウロも少し変わってきているようだということです。
アテネでの演説を思い起こしてくださる方もおられるでしょう。アテネの至るところに偶像があるのを見て憤慨したパウロは、誰が聞いてもアテネの人々を痛烈に批判しているように受けとれる言葉を語りました。皮肉な言い回しで、目の前にいる人々に噛みつき、こき下ろしました。おそらくそれがパウロの正義であり、語らずにはおれない言葉でした。その結果アテネの伝道は明らかに失敗に終わりました。「それでも構わない。言いたいことを言えたので私は満足である」と、パウロは考えていたのではないでしょうか。
しかし、そのパウロが、ここマルタ島では、「この人は神様である」と言われても黙っています。いい気持ちになっていたはずがありません。キリスト教信仰とは全く相容れない思想です。それでも反論していません。“新しいパウロ”とまで呼ぶのは言い過ぎかもしれませんが、ここに至って異教的な人々に対する接し方が変わってきたように見えるのです。
わたしたちの教訓にすべきことがあると感じます。何でもかんでも言い返すのではなく、少し黙ることも大切ではないでしょうか。そのように考えさせられます。
そして、実際のパウロが次にとった行動はとても興味深いものです。
「さて、この場所の近くに、島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼はわたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた。ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた。」
マルタ島の長官プブリウスの父親が、病気で寝ていました。パウロは、その家に行って苦しんでいるその父親を助けました。そうしたところ、島の人々がパウロのもとに集まるようになり、深く敬意を表してくれるようになりました。そして船出のときには必要な物を持って来てくれるほどまで仲良くなったのです。
ここにはわたしたちの伝道を考えるうえで、とても重要なヒントがあるように思われてなりません。問わなければならないことは、町の人々を批判し、皮肉を言い、けんかして、どうして伝道ができるだろうかということです。
私自身は、アテネでのパウロの気持ちが全く分からないわけではありません。偶像など見るのも嫌なところがあります。しかし、パウロの時代において、彼が初めて行った町が“異教的”であるというのは考えてみると当たり前のことだったわけです。
わたしたち日本の教会の場合も、それと似たようなことが言えるでしょう。この町に一つしかない改革派教会にとって、この町の多くの人が改革派教会の存在を知らないのは当たり前のことなのです。
しかし、その場面でわたしたちが感情を表に出し、「この町は異教的である。改革派的ではない」などと言っては、むきになって立ち向かい、相手を怒らせ、もめごとの種を撒き散らしていくことが伝道なのでしょうか。そうすることが教会の使命であると言わなければならないのでしょうか。もう少し違ったやり方はないのでしょうか。
このマルタ島でのパウロのように、苦しんでいる人のために祈り、手を置いていやすというようなやり方は、どうでしょうか。それは、単純に人の役に立つことをすることです。困っている人を助けることです。相手に喜んでもらえること、楽しいことをすることです。
大切な点は、わたしたちがそれを“教会の外側”にいる人々に向かってすることです。わたしたち自身がどんな人にも親切にふるまい、信頼される人間になり、「あの人が通っている教会ならば、わたしもぜひ通いたい」と思ってもらえるようになることです。時間がかかるかもしれません。しかし、それこそが最も理にかなった伝道の方法なのです。
(2008年8月24日、松戸小金原教会主日礼拝)
2008年8月10日日曜日
生きぬけ
使徒言行録27・27~4
先週の個所に記されていましたのは、恐ろしい出来事でした。囚人としてローマ皇帝のもとに護送されることになった使徒パウロを乗せた船が、地中海の上で激しい暴風に遭い、漂流しはじめたというのです。「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた」(27・20)と書かれていました。
その船に乗っていた人の数は276人であったと、今日の個所の37節に記されています。これだけの数の人々が、暗闇の海の上でほとんど絶望してしまったのです。
しかし、そのような状況とその人々のなかで、パウロは、非常に毅然とした態度を貫きました。それは、ある意味で不思議なことでもあります。そもそもパウロは囚人でした。一人の囚人に過ぎない存在でした。その船のなかでパウロは、いかなる意味でも指導的な立場にはありませんでした。指導的な立場にあったのは、ローマの百人隊長であり、軍人たちであり、船長であり、船主でした。
もしその人々がその船に乗っている人々を励まし助けたというならば、よく分かる話になるわけです。しかし、彼らはおろおろするばかりでした。その中で一人、パウロが語りはじめました。護送中の囚人の一人にすぎなかったパウロが、とにかく一生懸命になってみんなを励まし、力づける言葉を語ったのです。そしておそらくはパウロの言葉が、絶望していた人々を勇気づけるものとなったのです。
「十四日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった。船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた。ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに、『あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない』と言った。そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。」
27節以下に描かれていますのは、航海についての専門的な知識をもっていた船員たちが、どこかの陸地に近づいていることを察知したとき、船が暗礁に乗り上げて難破することを恐れ、自分たちだけがその船から逃げ出そうとした様子です。しかし、その怪しい動きにパウロが気づきました。そして、そのパウロが即座に取った行動は、百人隊長と兵士たちに船員たちの逃亡計画を知らせ、それを阻止してもらうことでした。
このパウロの行動の意味は、次のように説明できると思います。専門的な知識をもっている人が自分たちの命を守るために逃げ出し、彼ら以外の人々、つまり、専門的な知識をもっていない人々の命を犠牲にすることは重大な犯罪であるということです。そのことをパウロが「百人隊長と兵士たち」に知らせたことの意味は、その人々の軍事力、あるいは警察力に訴えることであるということです。
ここで皆さんにお考えいただきたい点は、わたしたちが何らかの専門的な知識をもつとは、まさにそのようなことであるということです。話は飛躍しているかもしれませんが、いわゆるインサイダー取引がなぜ犯罪なのかを考えていただくと、私が申し上げたいことをすぐご理解いただけるに違いありません。これから株価が上がることを事前に知りうる少数の専門的な知識をもった人々が、値上がりする直前に株を買い、値上がりした直後に売り抜けて一儲けする。これは重大な犯罪なのです。
他にも例を挙げて行くと、きりがありません。わたしたちが考えなければならないことは専門的な知識をもつとはどういうことなのかということです。そこにどのような責任が伴い、果たすべき役割が伴うのかです。もちろんわたしたちが専門的な知識をもつためには一生懸命に勉強する必要があるでしょう。つまりその問いは、わたしたちが一生懸命に勉強することの目的は何なのかという問いでもあるでしょう。
自分自身や家族や友人たちだけを助けるためだけでしょうか。そうではないでしょう。わたしたちは、多くの人々のために、公共の福祉のために、自分の専門的知識が用いられるようになるために一生懸命に勉強すべきなのです。そして多くの人々と共に力を合わせて危機的な状況を乗り越えていくために真剣に働くべきなのです。そうでなければわたしたちの勉強にも仕事にも意味がないでしょう。いかにもケチくさい、自分のことしか考えないような生き方は、明らかにまずいでしょう。
もちろんその中に自分自身や家族や親しい友人たちが含まれていることは許されてよいことでしょう。しかし、自分たちだけが逃げ延びて、他の多くの人々が犠牲になっていく様子を、まるで対岸の火事でも見るように、遠くから眺めているというのでは、何のための専門的知識なのか、何のための勉強なのかが真剣に問われなければならないでしょう。
先週も申し上げましたように、パウロには、航海に関する専門的な知識はなかったかもしれません。しかし、そのパウロが、彼の全力を尽くして危機的状況の中にあった人々を助けることができたのです。その意味をよく考える必要があるように思われます。
「夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。『今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。』こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。」
その船に乗っていた人々は、14日間、つまり二週間もの間、全く何も食べずに過ごしました。その中でパウロが語った言葉は「どうぞ何か食べてください」ということでした。先週の個所でパウロは、人々に「元気を出しなさい」と語り、また「わたしは神を信じています」と語りました(25節)。私が興味深く感じたことは、パウロがこの場面で口にしていない言葉がある、ということです。
それは「皆さん、どうか神を信じてください」という言葉です。また「皆さん、どうか祈ってください」という言葉です。このような場面ではそういう言葉を語るべきではないということを、私が言いたいわけではありません。事実としてパウロはそのような言葉を口にしていないということを申し上げているのです。そのようなことよりもむしろ、この場面でパウロが積極的に語った言葉は「元気を出しなさい」であり、「何か食べてください」という言葉であったという事実です。
「神を信じてください」「祈ってください」という言葉のほうを“宗教的な”言葉と呼ぶとしたら、「元気を出しなさい」「何か食べてください」という言葉はいわば“一般的な”言葉です。あるいは、前者を“精神的な”言葉と呼ぶならば、後者はいわば“肉体的な”言葉です。さらに言い換えれば、後者は“人間的な”言葉であると呼べるでしょう。
もちろんパウロは自分自身の告白として「わたしは神を信じています」と語っていますし、また彼自身の一つの態度決定として神に祈りをささげています。しかし問題は、そのパウロが自分以外の他の人々に対して何を語り、どのような態度をとったかです。今日の個所を見るかぎりパウロはきわめて積極的に“一般的”な言葉、あるいはきわめて“人間的な”言葉をもって人々を励ましました。この事実が、私にとっては大変興味深く感じられたのです。
この点は、わたしたち自身の姿と重ね合わせて見ることができるでしょう。より根本的な問いとしては、教会と牧師は“人間的な”言葉を語ってはならないだろうかということでもあるでしょう。わたしたちが苦しみの中にある人々を励ましたり慰めたりするために語るべき言葉は何なのかを考えるための、重要な材料になるでしょう。それこそ二週間も食事をとれない状態のなかで全く絶望しかかっている人々に向かって、ここぞとばかりに伝道しなければならないでしょうか。それが彼らを助けることになるでしょうか。
この場面でパウロが語っている言葉に対して私が感じることは人間的な温かさ、あるいはデリカシーです。
伝道者になりたての頃のパウロは、語る言葉の一つ一つがけんか腰のようでした。噛みつくような調子で語っていました。しかし、そのパウロも本当に苦しみ抜いてきたのではないでしょうか。人の苦しみや痛みがよく分かるようになってきたのではないでしょうか。人が生きるために、「生き延びるために」(34節)何が必要であるかを、人としての心の深い次元で知るようになってきたのではないでしょうか。ここにパウロの人格的成長を読み取ることができるように思います。
「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」というのは、もちろん真剣そのものの言葉であるに違いないのですが、どこかしらユーモラスな響きがあります。これと似た表現は、旧約聖書のサムエル記上14・45、サムエル記下14・11、列王記上1・52、また新約聖書のマタイによる福音書10・30、ルカによる福音書12・7に出てきます。
その個所を見ると分かることは、問題は髪の毛の本数ではないということです。「主なる神があなたの命をしっかりと守ってくださる」という点を強調して語る、励ましの言葉です。人を勇気づける言葉です。
「朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。」
船がついに陸地にたどり着きました。しかし、船員たちが予測したとおり、浅瀬にぶつかってしまい、船が壊れてしまいました。兵士たちが、囚人たちが逃げないように殺そうとしたのは、彼らに与えられた任務を全うしようとしたからではありません。囚人に逃げられてしまうと彼らの責任を追及され罰せられることを恐れての行為です。ここにも自分が助かることしか考えない、自己保身的な人々の姿が描かれています。
しかし、彼らの計画は、百人隊長が阻止しました。「パウロを助けたいと思った」とあります。パウロを大事に思う気持ちを、百人隊長が持ってくれたのです。そのおかげで誰も殺されずに済んだのです。全員が助かったのです。
どうか言わせてください。囚人にすぎない一人のパウロが、276人全員の生命を救ったのです。他の誰よりも強く立ち、全力を尽くして、与えられた知恵と力を用いて。
その際、“自分のことしか考えないわがままな人々との戦い”という点を無視することができません。自分自身を含む(これが重要です!)全員が生き延びるために、パウロは、その頭と心をフル稼働させて、最後まで戦い抜いたのです。
(2008年8月10日、松戸小金原教会主日礼拝)
2008年8月3日日曜日
わたしは神を信じています
使徒言行録27・1~26
使徒言行録の学びも、大詰めを迎えています。今日の個所から始まりますのは、言ってみるならば、パウロの第四回目の伝道旅行の様子です。ただし、第四回目という数え方が正しいかどうかは微妙です。
これより前に行われました三回の伝道旅行は、パウロ自身の祈りと計画に基づくものでした。しかし、今回は違います。今やパウロは囚人です。彼は囚人として、ローマ帝国の軍隊に引き連れられて、新しい旅行を始めることになったのです。
目的地は、イタリアの首都ローマでした。パウロがカイサリアで行われた裁判の結果を不服としてローマ皇帝に上訴したのを受けて、ローマに護送されることになったのです。それは、この(事実上の)第四回伝道旅行は、パウロの祈りと計画に基づくものではなかったことを意味しています。
とはいえ、今申し上げた事実にもかかわらず、これはパウロにとって事実上の第四回目の伝道旅行であったとみなすことができます。なぜなら、ローマに行くことそれ自体は、すでに十分な意味でパウロ自身の祈りと計画の中にあったことだからです。そのことは、ローマの信徒への手紙の中に記されています。「わたしは、祈るときにはいつもあなたがた〔ローマの教会の信徒たち〕のことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(ローマ1・9~10)。
ところが、パウロはその続きに「何回もそちら〔ローマ〕に行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」とも書いています。つまりパウロにとってローマは、何とかしてそこに行きたいと願いつつ、いろんな要素に妨げられて、なかなか行くことができなかった場所だったのです。
そのためわたしたちは、事情は何であれ、パウロの願いはかなったのだと信じてよいのではないでしょうか。生きておられる神御自身が全く不思議な仕方で、パウロをローマへと導いてくださった。そのように見ることができると思います。
「わたしたちがイタリアへ向かって船出することに決まったとき、パウロと他の数名の囚人は、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスという者に引き渡された。わたしたちは、アジア州沿岸の各地に寄港することになっている、アドラミティオン港の船に乗って出港した。テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコも一緒であった。翌日シドンに着いたが、ユリウスはパウロを親切に扱い、友人のところへ行ってもてなしを受けることを許してくれた。そこから船出したが、向かい風のためキプロス島の陰を航行し、キリキア州とパンフィリア州の沖を過ぎて、リキア州のミラに着いた。ここで百人隊長は、イタリアに行くアレクサンドリアの船を見つけて、わたしたちをそれに乗り込ませた。」
船を用いて海をわたってパウロと何人かの囚人をローマへと護送する責任を負うたのは、ローマの百人隊長ユリウスでした。
このユリウスがパウロを「親切に」扱ったと言われていますが、「親切に」は「人道的に」または「人に優しい仕方で」と訳すこともできる言葉です。その意味として考えられるのは、パウロは確かに囚人でしたが、非人道的な仕方で拘束されておらず、かなり自由に行動できる状態にしてもらっていたということでしょう。当時のローマ人たちの寛大さや見識を垣間見ることができるエピソードと言えるでしょう。
「幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航行し、ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い『良い港』と呼ばれる所に着いた。かなりの時がたって、既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。それで、パウロは人々に忠告した。『皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。』しかし、百人隊長は、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用した。」
今日の個所から分かることは、パウロの時代の海の旅は決して順調なものではなかったということです。当時のローマ軍の船の大きさや性能がどれほどであったかは知りません。しかし、向かい風が吹けば進むことができず、陸や島を見ながら針路を決めたりしていることを見るかぎり、いかにも危なっかしい古代の原始的な船を想像すべきでしょう。
そして、もたもたしている間に冬が訪れました。すると、この時期の航海は危険であるとパウロは判断し、そのように人々に忠告したと記されています。ここで問題になることは、はたしてパウロに航海についての専門的な知識があったのかということです。書物や勉強によって得た知識くらいは持っていたと考えてよいかもしれません。また、これまで三回の伝道旅行の中には船に乗る場面もありましたので、そのたびに船長たちから教えられた知識があったのかもしれません。しかし、これとてあくまでも想像にすぎません。
むしろ事実に近いと思われることは、パウロの判断は、彼自身が「わたしの見るところでは」と言っている点を重く受けとめるとしたら、一種の直感あるいは霊感のようなものに基づくものであったということです。別の言い方をすれば、パウロはこの件に関しては素人(しろうと)であると見られても仕方がない人であったということです。
だからこそ、というべきでしょう、百人隊長はパウロの判断を受け入れず、船長や船主の判断のほうを信用しました。これはある意味で仕方がないことです。専門分野を越えて口を出すと、いろんな反発が返って来ます。「素人である」と批判されます。
ところが、です。パウロの判断が的中しました。彼らの船は、その時期に発生する暴風の直撃に遭い、太陽も星も見えない闇の中で、行く先も分からぬ状態になり、漂流することになったのです。
「この港は冬を越すのに適していなかった。それで、大多数の者の意見により、ここから船出し、できるならばクレタ島で南西と北西に面しているフェニクス港に行き、そこで冬を過ごすことになった。ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく『エウラキロン』と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。やがて、カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができた。小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。人々は長い間、食事をとっていなかった。」
私自身は、暴風のなか海の上を漂流するというようなことを経験したことはありません。強いて挙げるとしたら、一度だけ少し似ている状況に遭遇したのは、ギリシア発エジプト行きの飛行機に乗っているときでした。積乱雲に突入し、機体が激しく揺れたり、垂直に落ちたりして、私の目の前に座っていた客室乗務員の女性たちが乗客より大きな声で悲鳴を上げているのを見て、こちらが不安になってしまったことくらいです。
しかしまた、もう少し視野を広げて考えてみるとしたら、パウロが実際に遭遇した嵐の中のこの漂流体験は、わたしたちが人生のなかで何度となく味わう生活上の苦労の体験になぞらえることができるように思われます。
ここで二回繰り返されている印象的な表現は「流されるにまかせた」です。わたしたちも「流されるにまかせる」という体験をしたことがあるのではないでしょうか。
また彼らは「積み荷」(!)を捨て、ついには「船具」(?!)までも捨てました。こういう体験も、わたしたちは何度となく味わったことがあるのではないでしょうか。決して捨ててはならない大切なもの、それを捨てると先の人生を生きていくことさえも(精神的・肉体的に)困難になるほどのものまでも、仕方なく、涙を流しながら、捨てなければならない場面が、何度となくあるのではないでしょうか。
わたしたちの人生も、そして教会も同じです。教会も様々な困難、経済的な行き詰まりなどまで味わいます。あらゆることを切り詰めながら難しい局面を必死で乗り切っていかねばならないときがあります。
パウロが知っていたのは、おそらくその面なのです。彼には、船や海についての専門的な知識はなかったかもしれません。しかしパウロは、教会という船の船長を務めてきた人です。伝道の嵐と戦ってきた人です。海よりも恐ろしい反対者や迫害者に囲まれて、その中で死ぬほどの苦しみを味わってきた人です。
興味深いことは、そのパウロこそが、この嵐の中の恐ろしい漂流体験の中で、その面での専門家であったはずの船長よりも船主よりも、さらにローマ軍の兵隊たちよりも力強い言葉を語って、みんなを励ましたのだということです。パウロの強さは、明らかに、教会と伝道の戦いの中で身につけてきたものなのです。
「そのときパウロは彼らの中に立って言った。『皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。』」
パウロには一言多いところがありました。言わなくてもいいことを、つい言ってしまう。「わたしの言ったとおりにしていれば、このような目に遭うことはなかったのに」。
これは、苦しんでいる人をますます追い詰める言葉です。語られなければならない言葉かもしれませんが、これを聞く人の心は必ず傷つくでしょう。
パウロとしては、つい出てきた言葉だったかもしれません。しかし、それ以上は続けていません。実際に苦しんでいる人々を前にして、「その苦しみを招いたのは、あなたがたの責任である。そもそもあなたがたの最初の判断が間違っていたのである」というようなことをいくら言っても、彼らを助けることにならないことくらい、パウロにも分かっていたのです。
原因や責任の追究は、後回しでよい。今必要なことは、現実となったこの苦しい状況をみんなで乗り越えていくことである。そのことをパウロはよく分かっていたのです。
むしろこの場面でパウロが語ったことは「元気を出しなさい」でした。そして「わたしは神を信じています」という言葉でした。
「わたしは」にも「神を」にも「信じています」にも、それぞれ重い意味が込められていると感じる非常に味わい深い言葉です。もちろんその意味は、「神がこの絶望的な状況を切り開いてくださる。そのことをわたしは信じています」ということでしょう。
しかしパウロが「神を信じてください」とは言っていない点も重要です。この場面でパウロは、押しつけがましいことを少しも言っていないのです。
今、苦しみの中にいる方々へ。わたしたちもパウロと同じ言葉を送ります。
「わたしは神を信じています」。神がわたしたちを必ず助けてくださるでしょう。
(2008年8月3日、松戸小金原教会主日礼拝)
2008年7月27日日曜日
時が良くても悪くても
使徒言行録26・19~32
使徒パウロがユダヤの王アグリッパとローマ人総督フェストゥスの前で行った弁明が、もう少し残っています。パウロの言葉は、最後まで力強いものでした。
「『アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。』」
「私は天から示されたことに背かず」とあります。しかし「背かず」とたった三文字で訳されますと、さっと読み飛ばされてしまいそうです。語られている事柄の重大さを考えますと、「背かず」だけでは物足りません。もう少し丁寧に訳す必要があります。
よりよい訳の可能性としては「私は天から示されたことに従わざるをえませんでした」です。または「背くことができませんでした」です。イエス・キリストとの出会いの体験がパウロの人生を変えたのです。パウロが進もうとしていた道をキリストが遮ったのです。その先には一歩も進ませないと言わんばかりに立ちふさがったのです。キリストはパウロと同行者たちを“転倒”させたのです。
しかし、パウロがそのことを、これまた文字どおりの「“天から”示されたこと」として語っている点が重要であると私は思います。これは人によって違うことかもしれません。わたしたちは「私の人生を変えてくださったのは神である」と端的に語ることができるでしょうか。パウロが言っていることは、要するにそういうことなのです。彼の言っている「天」とは、神御自身を指しているのです。
わたしたちは、そういう場合におそらくいくらか躊躇があります。「何々さんが私を教会に誘ってくれたから今日の私がある」と言いたくなります。「たまたま目の前に教会があり、たまたま立ち寄ったのがこの教会だった」と言いたくなります。
そのようなわたしたち自身の言葉遣いが間違っているわけではありません。事実を事実として率直に述べているだけです。私が申し上げたいことは、パウロの語り方は、わたしたちの語り方とは明らかに違うものであるということだけです。
しかし、です。パウロの言葉には力強さがあります。果てしないまでの底力を感じます。彼の信仰の最終的な根拠は人間ではないということが語られているからです。神がパウロの人生を全く新しいものへと作り変えてくださったのです。パウロは「天から」、すなわち「神から」示されたことに服従したのです。
信仰の最終的な根拠が人ではないと語ることが、なぜ力強いのでしょうか。最も単純に言えば、人間は裏切ることがありうるからです。これは、人を信用して裏切られたことがある方々にはご理解いただける話でしょう。
パウロの場合も、そのことが関係していると思われます。間違いなく言いうることは、パウロが最初に神を信じたとき、彼を「神」へと導いたのは同胞であるユダヤ人であったということです。しかし、そのパウロが今やユダヤ人たちによって殺されようとしているのです。このわたしを神へと導いてくれたユダヤ人たちによって、わたしは殺されようとしている。もしパウロが信仰の最終的な根拠を人間に置いていたとしたら、自分はユダヤ人たちに裏切られたというような思いの中で、彼は全く絶望するしかなかったのです。
しかし、パウロは絶望しませんでした。信仰の最終的な根拠が人間ではなく、神御自身に置かれていたからです。人間につまずいても、パウロの信仰は揺るぎません。誰が何と言おうとも、パウロの信仰が失われることはありません。
これらの点について、わたしたちはどうでしょうか。わが身を振り返って、よく考えてみなければならないように思われてなりません。
「『ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。』」
しかし、です。パウロの信仰の根拠は、「突然輝いた天からの光」というおそらく時間にすればたった一瞬にすぎない、神秘的で不思議な出来事という、ただそれだけのものではなかったと言うべきです。根拠は今日の個所の中に、少なくともあと二つあります。
第一の根拠は「天からの光」です。しかし、第二の根拠は「聖書」です。「預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません」と言っているとおりです。第三の根拠については後ほど述べます。
イエス・キリストへの信仰の根拠は聖書にある。そのことをパウロは確信していました。これも彼の信仰の強さを表しています。
聖書は、わたしたち人間のように、昨日言ったことと今日言っていることとが違っているというような、曖昧で変わりやすい言葉の持ち主ではありません。今日ここで語ったことを来週「あれは無かったことにしてください」と語ることは、ある意味での勇気や謙遜さが必要なことではあります。しかし書かれた文字、あるいは印刷された文字には、そのようなあやふやさはありません。聖書の言葉を根拠にする信仰は、そのようなあやふやさの余地を残さない、きわめて明確な確信に至るのです。
「パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。『パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。』パウロは言った。『フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。』」
パウロはまだ弁明を続けていました。しかし、フェストゥスは「大声」でパウロの言葉を遮りました。それ以上語らせないように妨害したのです。そして、「お前は頭がおかしい」という言葉でパウロを侮辱しました。
「学問のしすぎで」とあります。これでも間違いではないと思います。しかし、原典を見ると、フェストゥスの言葉の中に“マニア”の語源と思われるギリシア語が記されています。つまり、フェストゥスが言っていることは、「お前は特定の宗教にのめり込みすぎている」というようなことです。「宗教かぶれである」とか「宗教マニアである」というようなことです。
この点から分かることは、ローマ人フェストゥスにとっては、教養の一つとして宗教についてのある程度の知識をもつということくらいは許容できるとしても、何か特定の宗教にのめり込むとか、“ハマる”ことは、精神的なバランスが崩れている、偏った人間であることの何よりの証拠に見えたのだろうということです。フェストゥスの目に映るパウロはマニアのようなものだったのです。一種の熱狂主義、視野の狭さ、精神の不安定さなどを感じ取ったのです。
宗教というものがたしかにそのような人間を生み出すことがありうることについては、わたしたちも知らずにいるわけではありません。やや誤解を恐れながら申し上げますと、もしわたしたちの信仰が先ほど申し上げた二つの根拠、すなわち「天からの光」と「聖書」という根拠だけにとどまるものであるならば、パウロがその言葉で批判された“マニア”のようなものと大差ないと見られても仕方がないのではないでしょうか。
しかし、今日私が最も強調してお話ししたいと願っていることは、パウロはこの二つの根拠だけにとどまっていなかったということです。彼の信仰には第三の根拠がありました。それは「このことはどこかの片隅で起こったことではありません」という点です。
ここで「このこと」とはイエス・キリストに関するすべての出来事です。その出来事は、どこかの片隅で起こったことではなく、アグリッパさん御自身もよくご存じのことです。このパウロの言葉の意図は、イエス・キリストに関するすべての出来事は「歴史的な事実」として起こったものであるということです。つまりパウロの信仰の第三の根拠とは「事実」です。もう少し丁寧に言えば「歴史的事実」です。これは重要な要素なのです。
パウロの意図は、次のように説明できます。
もし私が宣べ伝えているキリスト教信仰が「天からの光」と「聖書」だけを根拠にしている宗教であるとするならば、わたしたちの姿はたしかに、宗教マニアのようなものに見えてしまうかもしれません。しかし、わたしたちの場合はそれだけではありません。わたしたちの宗教は「歴史的事実」を重んじるものです。
アグリッパさん、あなたもよく知っているあの出来事。誰もが目の前で見た現実の出来事。ひとりのナザレ人イエスが十字架の上にかけられて殺されたあの出来事、それがわたしたちのキリスト教信仰の根拠です。あの出来事だけは、いくらなんでも無かったことにすることはできないでしょう。
ですから、私の頭は少しもおかしくありません。私が歴史的事実に基づいて語っていることを「頭がおかしい」などと、もし本当に言われなければならないのだとしたら、その事実を事実として認めているすべての人の頭も「おかしい」と言われなければならないではありませんか。そんな馬鹿な話はないでしょう。
「アグリッパはパウロに言った。『短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。』パウロは言った。『短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。』そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。彼らは退場してから、『あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない』と話し合った。アグリッパ王はフェストゥスに、『あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに』と言った。」
パウロの弁明を聞いたアグリッパの心は、ほんの少しくらいは動いているような気がしますが、皆さんはどのようにお読みになりますでしょうか。短い時間で私をクリスチャンにする気かと、皮肉とも冗談ともとれる言葉を述べています。「おやおや、不覚にもあなたの言葉に説得されそうになったじゃないか」と冗談めかして言っているのかもしれません。そしてアグリッパは、パウロが上訴さえしていなければ彼は釈放されただろうと、同情のことばさえ口にしています。
もちろん、それ以上のことは言えません。たとえば、アグリッパはパウロの言葉に納得したとか、アグリッパにも信仰が芽生えたというようなことまで語るのは無理でしょう。それほど甘くはないと思います。しかし、です。アグリッパはパウロの言葉に相当な迫力と説得力を感じたであろうということくらいは言ってもよさそうです。
言い逃れとして申し上げるつもりはありませんが、伝道には時間がかかるのです。相手がほんの少しでも心を動かしてくれたなら、その日の働きとしては十分すぎるほどです。相手が誰であれ、時が良くても悪くても、わたしたちは語り続けなければならないのです。
(2008年7月27日、松戸小金原教会主日礼拝)







