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2013年11月24日日曜日

惜しみなく分け与えなさい

テモテへの手紙一6・17~21

「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。恵みがあなたがたと共にあるように。」

いまお読みしました個所も「聖書はすごい」と思わされるところです。二千年も前に書かれたものなのに、まるで今のわたしたちの状況を手に取るように見ているかのようなことが書かれています。

今は深刻な格差社会です。アメリカで年収が上がっている人は上位1%だけだそうです。100人に1人は右肩上がりの裕福な生活をしているのかもしれませんが、99人はそうではないのです。日本も今すでに、ほとんど同じ状況ではないかと思います。

1%の人になるための競争を、早い人は幼稚園の頃から始めています。負けないように、蹴落とされないように、必死でがんばっています。がんばることが悪いと言いたいのではありません。しかし、お金は天下の回りものだと、昔から言われてきたではありませんか。ある人の分が多ければ、他の人の分は少なくなるのです。

今の日本の経済政策はお札をたくさん印刷してお金を増やし、それで経済を活性化することだそうですが、それはただのごまかしです。いま本当にしなければならないことは、上位1%の人たちの年収を守ることではなく、99%の人々になるべく公平に配分することです。

みんなが完全に等分に分ければよいというような単純な話ではありません。しかし、持っている人が持っていない人に対して「あの人たちは頑張らなかったからこうなったのだ。自業自得なのだ」とだけ言って済ますことはできません。そちらのほうも単純な話ではないのです。

しかし、そのように単純に考え、実際にそのような言葉を口にし、持っていない人を見くだし、傷つける。まさにそれが、今日の聖書の個所で言われている、この世で富んでいる人が陥る「高慢」の意味だと思います。

「不確かな富に望みを置くのではなく」と書かれています。「富」はたしかに「不確かな」ものです。株をなさる方々は、株の価値は秒単位で変動しているものであることをご存じでしょう。悪口を言いたいわけではありませんが、株で利益を得ようと思うことは、賭博をするのと変わりません。会社で無理やり株を買わされている方々も多くおられると思うので、本当にこれは悪口で言っていることではありません。ただ、株の運命そのものは、一寸先は闇です。これは悪口ではなく事実です。

株も投資も非常に危険なものです。賭博は論外中の論外です。人より多くのお金を持つことが悪いわけではありません。しかし、大切なことは、いかに人より多くのお金を持つかではなく、そのお金で何をするかです。人それぞれの生き方や価値観をとやかく言うと叱られますので、そういうことはしないでおきます。そこから先は、自分の頭と心で考えてくださいとしか言いようがありません。

今申し上げていることは、教会の皆さんに申し上げていることではありません。教会の皆さんはよく分かっておられる、あえて言う必要がないことばかりです。多くの財産を手にすることが悪いわけではありません。しかし、厳粛な事実は、それらはすべて、いつまでも自分のものであり続けるわけではないということです。わたしたちの命には必ず終わりの日が来るからです。そのときには、誰かに手渡さなければなりません。

しかし、それを誰に手渡すのでしょうか。わたしたちは10月に、キリスト教葬儀社の方に来ていただいて「遺言セミナー」をしました。講師の方から「遺言をちゃんと書いてください」と教えられました。何も書かなければ、法律に基づいて、自動的に財産分与がなされます。それでも構いません。しかし、世のため、人のために遺す分はないのでしょうか。あるいは、神さまのため、信仰のために遺す分は。

こういう話をしますと「おやおや、牧師が信者に金銭を要求しているぞ」というような話になってしまいかねないので、私は本当はこんなことをあんまり言いたくないのです。しかし、教会は非営利団体です。皆さんの献金、あるいは寄進のみによって支えられている存在です。それ以外にどうすることもできません。皆さんの生活に負担をおかけしようなどという気持ちは全くありません。しかし、教会「も」助けていただきたいのです。今はこのようなことを真剣にお願いしなくてはならない状況でもあります。

長男が中学に入ったときからですから、もうかれこれ7年前からということになります。妻が仕事をするようになりましたので、私が家事をするようになりました。結婚して22年になりますが、最初の15年間は、私は家事を全くしませんでした。だから、今はお詫びのような気持ちでやっています。ほとんど毎日買い物に出かけ、妻が留守の日はごはんを作り、皿を洗い、洗濯し、掃除し、朝はゴミ出ししています。

偉そうに言うつもりはありません。当たり前のことなのです。それを15年間も全くしたことがなかったことのほうが問題です。妻には本当に申し訳ないことをしました。

自分で家事をするようになって、「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置く」(17節)という御言葉の意味が沁みるように分かります。高級な食材を使えば美味しい料理ができるのは当たり前です。私が追求しているのは、いかに安い食材で美味しい料理を作れるかです。お肉や野菜の安売りの日は何曜日かというようなことも、だんだん分かってきました。そういうことを全く知らないで生きてきたことのほうが問題です。大失敗です。

「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神」の意味は、「わたしたちに高級なものをいつもくださり、贅沢な生活をさせてもらえる神」ということではないと思うのです。そういうのは全く正反対です。楽しくありませんし、実は豊かでもありません。いろいろと自分で考える必要がないからです。

私は今、楽しくて仕方がないです。自分でいろいろなことができるようになりました。ありがたいことです。遅ればせながら、毎日の家事に人生の喜びを見いだしている今日この頃である、ということを、この機会にお話ししておきます。

(2013年11月24日、松戸小金原教会主日夕拝)

2013年9月22日日曜日

信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい

テモテへの手紙一6・11~16

「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」

テモテへの手紙一の学びもあと一回分残っているところまで来ました。しかし、前もってお知らせしておきます。来月は第四日曜日の夕拝は、休会とします。

10月27日日曜日、午後3時から、「東関東中会宗教改革記念合同礼拝」を、船橋高根教会で行います。そちらに合流します。松戸小金原教会の夕拝はありません。

そのため、この手紙の学びは、10月27日ではなく11月24日の夕拝で終わりにします。12月からは、新しいテキストを学びます。

今日の個所はこの手紙の締めくくりにふさわしく、手紙の送り先であるテモテを励ます言葉が書かれています。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい」(11節)。

「避けなさい」の原語の意味を調べてみました。「避ける」と訳しても間違いではありません。しかし、「逃げる」とか「逃げ去る」という意味のほうが強い言葉であることが分かりました。

「これらのこと」(11節)とは何でしょうか。いろんな意味が考えられます。しかし最も直接的には、直前に書かれている「金銭の欲」(10節)です。そして、欲深い生き方のすべてです。そういうものを避けることが求められています。しかし、その意味は、むしろ逃げることです。全速力で走って逃げること。逃亡することです。

人間を分け隔てするようなことを言うべきではありません。しかし、欲望というのは自分一人でも成り立ちますが、それが集団化すると凶悪なものになりかねません。組織的な犯罪のようなものに組み込まれてしまうと、個人の力ではいかんともしがたい状況に追い込まれてしまうことがあります。

そのような人間関係からは、全速力で逃げるべきです。そうでなければ、悪い仲間に引きずり込まれてしまいます。

そういう関係からは一目散に逃げてください。そして、全く新しい関係に加わってください。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」を追い求める仲間に加わってください。それが教会です。

教会は、そのような犯罪集団から逃げてきた人々を匿うことがあります。洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれ、正義と信心、信仰と愛、忍耐と柔和を追い求める仲間になっていただくことを願っているのです。

「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」と続いています。

「信仰の戦い」とは何のことでしょうか。信仰とは戦うことでしょうか。思い当たるのは「欲」との戦い、あるいは「罪」との戦いです。

しかし、「戦いなさい」とパウロは言いながら、「避けなさい」(その意味は「逃げなさい」)とも言っています。わたしたちは、戦うべきなのでしょうか、それとも逃げるなのべきでしょうか。このような疑問が起こって来るような気がします。

しかし、パウロの言っていることは矛盾ではないと思います。「信仰の戦い」は、言葉の通常の意味での戦いではないのです。わたしたちの場合、「戦い」と言いましても、腕力を使うことではないし、暴力をふるうことでもありません。

それでは、言葉や知恵を用いて戦うのかと考えてみますと、もちろんその面もあるわけですが、口喧嘩をするわけではありません。言葉の暴力をふるいあうことではないのです。

ならば、何が「信仰の戦い」なのでしょうか。それは、罪を避けることです。欲望の誘惑から逃げることです。それこそが「信仰の戦い」です。

ですから、わたしたちは敵に背中を向けて逃げてもいいのです。弱虫と言われようが、負け犬と罵られようが、そこで立ち止まり、振り向いて、敵をめがけて暴力の戦いを挑むべきではないのです。

迷わず逃げてください。遠ざかってください。後ろを振り向かないでください。別れの言葉は要りません。「さようなら」と言わなくてはならないと思わないでください。それを言うために引き返す必要はありません。わたしたちは、命を得るために、罪から逃げるのです。逃げることは、恥ずかしいことではありません。

しかし、誤解がないようにお願いします。

それは「人生をやめること」ではありません。この世に生きているかぎり、罪を犯すことは避けられないということは、なるほど事実です。しかし、だからといって、罪から逃げるということは人生をやめることではないのです。

これはふざけた問いではありません。かなり深刻な問いです。深刻に真剣に、自分の罪を悔いるゆえに、自分がこの世に生きていること自体が罪であると思い、自分で命を断ってしまう人がいます。

しかし、それは誤解です。

「罪から逃げること」は、「人生をやめること」を意味するわけではありません。

そうではなくて、生きたままで、罪を犯さないように心がけることです。

つまり、「信仰の戦い」とは、地上で生きながらにして、罪を犯すことから逃げ続けるのをあきらめないことです。だからこそ、それは「戦い」なのです。

イエス・キリストと共に生きていくとは、そのようなことです。イエス・キリストは、腕力や暴力で戦われたわけではありません。全くの無抵抗の戦いでした。十字架につけられて殺されました。惨めであわれなお姿でした。

しかし、そのイエス・キリストと共に、わたしたちは生きていくのです。イエスさまは弱虫でも負け犬でもありません。罪との戦いを徹底的に戦い抜いた方なのです。

(2013年9月22日、松戸小金原教会主日夕拝)

2013年8月26日月曜日

金銭の欲がすべての悪の根です

テモテへの手紙一6・6~10

「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまな欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」

いまお読みしましたこの個所に書かれていることは、かなりストレートな書き方でもありますので、疑問の余地がないと言いますか、読んで字のごとくそのままの意味でだれでも容易に理解することができるものだと思います。

しかしまた、別の言い方をすれば、身も蓋もないという感じがなくもない。強く批判的な態度を示すタイプの人たちにすれば、あまりにも言葉が露骨すぎて、いろいろな立場にある人たちへの配慮が足りないのではないかと言いたくなるようなことかもしれません。

しかしこれは、これまで何度も繰り返し申し上げてきたことですが、(いろんな解釈の可能性があることは存じておりますが)、この手紙はパウロからテモテに対してごく個人的に送られたものであるとみなして読むと、いちばん腑に落ちるものがあると、私は考えています。

彼らは教会の牧師であり、伝道者です。同じ仕事に就いている先輩と後輩の関係です。時間的順序からすれば、後輩が先輩の苦労を知っているということは通常ありません。しかし、先輩には後輩の苦労が分かります。

厳密に言えば一つ一つの苦労は内容が違いますし、状況や年代の違いがありますので、後輩の苦労のすべてが先輩には分かるわけではありません。先輩づらは禁物でしょう。

しかし、同じ仕事に就いている先輩と後輩の関係の中で先輩にできることがあるとすれば、それは、苦労している後輩のその苦労を理解し、受け容れること。そして、慰め、励ますことです。そういうことを、パウロがテモテにしているのです。

ここに書かれていることは、要するにお金の問題です。あるいは、生活の問題です。衣食住の問題であると言ってもよいでしょう。しかし、「住」の問題は、触れられてもいません。住むところなんてどうだっていい、と言わんばかりです。

しかもこれは、教会の牧師どうしの会話として書かれていることですから、これは間違いなく教会内部の話です。牧師の生活の話であり、はっきりいえば牧師が教会から受けとる給料の話です。こういうふうに言ってしまいますと本当に身も蓋もなくなってしまうものがあるのですが、そうであるとしか言いようがないことが書かれています。

その中にとにかくはっきり書かれていることは、「食べる物と着る物があれば、わたしたち(パウロとテモテ?)はそれで満足すべきです」(8節)ということです。

ここに書かれていることの意味は、「贅沢な食べ物と贅沢な着る物があれば、わたしたちは満足することができます」というようなことではありえません。そういうことではなく、とりあえず生きることができればそれで十分だ、というような話です。

パウロに限っては、贅沢なものを食べ、贅沢な服を着るなどということは考えたこともないようなこと、脳裏をかすめたことすらないようなことなのではないかと思うくらい、そういうものから無縁です。

そのことは、「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。」(9節)と書かれていることからも分かります。

誤解がないように申し上げておきますが、この個所でパウロは金持ちになることが悪いと言っているのではありません。誘惑や罠や欲望に陥る、または陥りやすくなると言っているだけです。どんな誘惑にも罠にも欲望にも陥らない強靭な心をもっていると言える人であれば、その人はある意味で、お金持ちになっても構わないのです。

しかし、それほど強い人は存在しない、ということもパウロは考えているようでもあります。そして、そのことは、教会の牧師、伝道者も同じであるとパウロは考えています。

というか、そもそもパウロが書いていること自体は、教会の牧師、伝道者の話です。教会の牧師がお金持ちになろうとするということがあるとしたら、それは教会員の献金を当てにした話にならざるをえませんので、それが何を意味するのかということは、よく考えなくてはならないことです。

教会の献金によって教会の牧師、伝道者の生活が支えられていたのは、今に始まったことではありません。二千年前の教会から始まっていることです。そして、今日の個所に書かれていることを読むかぎりで分かることは、二千年前の教会から牧師の生活にはお金の苦労が伴うものだったらしい、ということです。

以前、朝の礼拝でお話ししたことがありますが、パウロはかつて結婚していた可能性があります。その根拠になる聖書個所があります。「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」(コリント一9・5)。

この個所にパウロが「私にも妻がいた」と書いているわけではありません。しかし、他の伝道者たちのように自分の妻を連れて歩く権利が、わたしたちにはないのか、と言っていることは間違いありませんので、古代教会以来の解釈として、パウロには過去に妻がいたが、伝道旅行に連れ歩くことになるのを避けて別れたのだ、というふうな理解の仕方があるのです。

実際それは、よく分かる話でもあるわけです。結婚すれば、子どもが生まれたり、家族が増えたりします。牧師一人の生活と活動ならば教会は支えることができる。しかし、家族は別であるという話になることもありえます。パウロにも人に言えない苦労があったのではないかと思うのです。

しかし、いま申し上げていることは、私が言っていることではありませんので、あしからず。今日の個所でパウロは何を言おうとしているのかを考えてみているだけです。

私自身は、結婚しました。子どももいます。そのことを悪かったと後悔したことは一度もありません。

私にとって家族はかけがえのない存在です。結婚や出産や子育てが「伝道」にとってマイナスだと考えたことは一度もありません。むしろプラスではないでしょうか。

それに、日本だけではないと思いますが、今の教会は牧師が結婚することや子どもがいることを、むしろ積極的に奨励する方向にあるのではないでしょうか。いつまでも独身のままの牧師がいると、「早く結婚しろ、結婚しろ」と周りから催促されるほどではないでしょうか。

お金の苦労だとか、結婚や子育ての苦労だとかいうのは、あまりにも人間くさすぎて、神に仕える者としてふさわしくないという話になるのでしょうか。そうかもしれません。

しかし、少なくとも、話のタネにはなります。町の人たちと仲良くなれます。「ああ、なんだ、我々と同じなんだ」と思ってもらえます。PTAの仲間に加えてもらえるチャンスもあります。教会の敷居を低く感じてもらえ、親しみを感じてもらえます。それも「伝道」ではないでしょうか。

そのように、私は自分に都合よく解釈しています。

(2013年8月25日、松戸小金原教会主日夕拝)

2013年6月23日日曜日

教会の責任は重いものです


テモテへの手紙一5・17~25

「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。聖書には、『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と、また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と書かれています。長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります。神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい。これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。ある人々の罪は明白でたちまち裁かれますが、ほかの人々の罪は後になって明らかになります。同じように、良い行いも明白です、そうでない場合でも、隠れたままのことはありません。」

こういう個所をどのように読むかは、本当に悩むところです。

パウロは非常に率直に書いています。ちょっとストレートすぎです。しかしそのことも、この手紙の宛て先がパウロの親しい後輩伝道者テモテであると考えれば、納得できます。ごく個人的な関係の中でのやりとりであることは明白です。

パウロとしては、このやりとりが自分が亡くなった後に公になるとは考えていなかったのではないでしょうか。しかも、それが新約聖書に収められ、二千年後の今でも読み継がれるものになるとは。

この個所でパウロが何を言っているのかを説明させていただきます。しかし、最初にお断りしておきたいことは、これは私の意見ではないということです。パウロの意見です。どうか誤解なさらぬようにお願いいたします。

「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たち」(17節)というのは、御言葉と教えのためにがんばっている長老と、サボっている長老とがいるという話ではありません。

「御言葉を教えのために労苦している長老」とは、日本キリスト改革派教会における職務名で言えば、「教師」のことです。わたしたちの言うところの「宣教長老」です。「宣教長老」に対して「治会長老」がいます。治会長老がいわゆる「長老」です。

ですからパウロが書いているのは、「宣教長老」である「教師」は「二倍の報酬を受けるにふさわしい」ということです。ここで「報酬」とは、明らかに給料のことです。わたしたちの教会では「謝儀」と呼んでいますが、「給料」と呼んでも間違いではありません。

そのあとに続く「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」という文章の意味は、牛は人間の畑仕事を手伝いながら畑のものを食べている、ということです。要するに、腹が減っては仕事はできない、という意味です。牧師の仕事も牛と同じである、ということです。

それを「二倍」受けるにふさわしいというのは、他の仕事に就いている人たちの二倍という意味だと思います。しかし、これは厳密な話ではなく、大雑把な話です。それは具体的にどの職業の人たちの二倍なのかとか、それは具体的に言うといくらぐらいになるのかというように、神経質に突き詰めるような読み方は間違っています。これは具体的な話というよりも、気持ちの問題ではないでしょうか。

また、この個所を読む際に重要だと思われることは、これを書いているパウロも、この手紙の宛て先であるテモテも「教師」であるということです。その教師同士が「ぼくたちの仕事は他の人の二倍の報酬を受けるにふさわしい」と言い合っているのですから、これは要するに愚痴です。実際に人の二倍の謝儀を受けとっているわけではなかった可能性のほうが高い。

先ほど私が「これは私の意見ではなくて、パウロの意見である」と申し上げたのは、パウロの権威を借りて私が皆さんに何ごとかを要求しているわけではありませんという意味です。

日本の教会の牧師たちの生活がいま非常に深刻な状態にあることは事実です。しかし今日の個所のようなところは、しかめっつらしながら読むような個所ではありません。教師たちは、愚痴をこぼしながらも、何とかかんとかやっています。

「長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります」と書かれています。

この「長老」は、わたしたちでいえば宣教長老と治会長老の区別のない、両方を合わせた「長老」のことです。それは教会の運営責任者です。小会・中会・大会の人たちです。この人々は教会運営の全責任を負っています。「責任」という漢字は「責められることを任される」と書きます。責任者とは、内外からのいろいろな苦情や批判を聞き、重く受けとめ、改善する立場の人です。

たとえば、教会の中に問題が起こった。そのことを小会に訴える人が、小会自身の責任も同時に問うことがありえます。「牧師や長老たちがちゃんとやってくださらないから、こういうことになった」と言われます。それだけではなく、牧師や長老は教会の中では目立つ場所にいますので、長所だけではなく、短所や欠点がよく見える。批判の対象にされやすい立場です。

だからこそ、教会の中で長老たちに反対する訴えは、「二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません」という話になります。個人的な恨みが教会で公の問題にされるようなことがあってはならないということです。そういうことをしはじめると、教会が壊れてしまうからです。

「神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい」(21~22節)。後輩テモテに対する親心を感じます。

そして、次の個所は、なんと聖書の中に「お酒を飲みなさい」という言葉が明言されている(!)個所があるということで有名です。「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい」(23節)。

しかし、この個所は変なふうに悪用されてはならないと思います。どんどんお酒を飲みましょうと、そのようなことをパウロが言っているわけではありません。また、ぶどう酒に病気(病名不明)を治す薬効があるのかどうか、また本当にそのような(ぶどう酒には薬効があるというような)意味でパウロが書いているのかどうかも分かりません。私は違うと思っています。

パウロが言いたいことは、教会の仕事はたいへんなのだから、あまり神経質にならずに大らかにやりましょう、お酒の少しくらい飲んでもいいんじゃないの、というくらいのことを言って、気分が沈みがちの後輩を励まそうとしている、ただそれだけではないかと、私は思う。そのくらいの、のんびりした言葉として読むくらいでちょうどよいと思います。

パウロが言いたいことは、教会の責任は重いということです。教会の責任だけが重いということではありません。また、牧師の責任だけが重いということでもありません。長老・執事の責任とか、小会・執事会の責任とか、そういうことだけでもない。一全体としての教会に与えられた責任は重いのです。

神が地上に教会をお立てになったのは、教会の存在と働きを通して、神御自身が働いてくださるためです。教会の働きが、神のみわざなのです。神は教会の働きを用いて、地上でお働きになるのです。

ですから、そのようにして神のみわざに参加する教会の働きは、光栄な職務であり、働きなのです。喜んで感謝して神に仕えることが、わたしたちにふさわしいことです。

じくじくと恨みつらみを言い、口を開けば愚痴だ批判だ、というのは暗い。

明るく楽しい教会、そして、公明正大な教会として歩んで行くことが、わたしたちに最もふさわしいことです。

(2013年6月23日、松戸小金原教会主日夕拝)

2013年5月26日日曜日

教会にできることは何か

テモテへの手紙一5・3~16

「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。やもめたちが非難されたりしないように、次のことも命じなさい。自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。年若いやもめは登録してはなりません。というのは、彼女たちは、情欲にかられてキリストから離れると、結婚したがるようになり、前にした約束を破ったという非難を受けることになるからです。その上、彼女たちは家から家へと回り歩くうちに怠け癖がつき、更に、ただ怠けるだけでなく、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします。だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです。信者の婦人で身内にやもめがいれば、その世話をすべきであり、教会に負担をかけてはなりません。そうすれば教会は身寄りのないやもめの世話をすることができます。」

この個所は、現代の社会の中で読まれるとき、ほとんど堪えがたい思いを持ちながら読む人たちも少なからずいるに違いない、そういう部分を含み持っている個所であると、私自身は認識しています。たとえ聖書の御言葉であっても、わたしたちがこういう個所を不用意に持ち出して、女の人はどうのこうの、独身の人はどうのこうの、というような話を軽々しくすべきではありません。私はそのように考えます。

また、この個所には明らかに、パウロの口が滑りすぎというべき、かなり行き過ぎた言及があると言わざるをえません。もしかしたらパウロが現実に知っている何人かの人たちがここに書かれているようなタイプの人たちだったのかもしれないという可能性まで否定することはできません。しかし、そのような話をすべての人に当てはまる話であるかのように引き延ばして語ることは危険です。そのようなことをすると、多くの人の心を傷つけてしまうことになります。

しかしまた、逆の見方もできるかもしれないと、このたび考えてみました。それは、今申し上げたことを逆の順序で考え直してみるだけです。

ここに書かれていることをすべての人に当てはめるのは、とんでもないことです。しかし、パウロが知っている何人かの人々はこういう人々だったということは、語っても構わないわけです。それが歴史的な事実であるとすれば、わたしたちは非常に貴重な歴史資料を手にしていることになります。西暦一世紀の教会の内部の様子が非常によく分かります。当時の教会の中にはなるほどこういう感じの人たちがいたのかというようなことが、手に取るように分かります。

第一に分かることは、当時の教会に入会する際の登録内容の中に、自分が「やもめ」であることを明記する仕組みがあったということです。「やもめ」とは、パウロがこの個所に書いていることによりますと、結婚経験があり、かつ配偶者と死別して独り身になった、60歳以上の女性のことであるようです。
そのような人々に、教会に「やもめ」として登録してもらうことの理由は、この個所の中に言葉として明記されてはいません。しかし、ヒントはたくさんあります。それは「身寄りのない」人であるということや、子や孫や親族がいる場合は、その人々が世話をすべきであると書かれていることなどです。

これでほとんどはっきり分かることは、当時の教会は、身寄りのないやもめの生活を保護するために、今でいうところの高齢者福祉施設のようなものを作って、共同生活を営んでいたに違いないということです。

しかしそれはあくまでも、自活できなくなった人たちの生活の保護です。もっとはっきりいえば、それは、生きていくためのお金の問題です。自分で稼ぐ力がない人々を助けるために、教会が経済的に支援していたのです。だからこそ、自活する力がある人や、蓄えがある人や、家族や親族がいる人は、自分たちで何とかしなさいという意味のことを、パウロは書いているのです。

しかし、これは二千年前の教会も今の教会も同じだと思いますが、教会がそのような人々の生活を助けるとか支えるとかいっても、それは要するに、そのための献金を集めるというような形でするしかないわけです。しかし、今の教会のことを考えても、牧師家庭の生活や中会や大会の負担金を支払うことでほとんど精一杯です。

そのような教会がさらに高齢者たちの生活を支えたいというようなことを考えたとしても、明らかに限度があるわけです。「来る方は拒みません、何人でもどうぞ来てください。すべての方の面倒を見させていただきます」というようなわけには行かない。ある程度、基準を定めて、対象人数を絞る必要が生じます。だからこそ、9節以下のような話になっているのです。

「やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません」。

しかしこれは、いま申し上げましたとおり、このような基準が設けられた理由として考えられるのは、教会側の経済的な限度という面が大きいと思われますので、逆に言えば、教会がもっと成長し、このような人々を助けられる力が増してくれば、基準を緩和していくこともありうるのだと思います。

しかし、パウロが「若いやもめは登録してはいけません」と書いていることの理由の部分については、さすがに、いくらなんでも言いすぎだと感じなくもありません。しかし、すべての人に押し並べて当てはまるのはとんでもないことですが、人間についての描写力は目に浮かぶようでもあり、文章として面白いとは思います。

しかしまた、パウロを弁護しておきたいと思う面もあります。それは、パウロが書いていることの中でおそらく最も大事なことは、「わたしが望むのは…反対者に悪口の機会を一切与えないことです」という点であるということです。

問題は、ここでパウロが「反対者」と呼んでいるのは、何に反対する人々のことなのかということです。考えられることは次のようなことです。当時の教会の中や外から、教会でそのような支援事業を行うこと自体についての反対の声があったのです。

そうでなくても弱く小さな教会なのに、そんなことのために力を注ぎ、お金を使うべきではない。もっと別のことに、力を注ぎ、お金を使うべきであるというような批判の声があがっていた。そのような非難・中傷・反対の中で、やもめたちの行状を見て、「ほらやっぱり」と非難され、妨害を受ける可能性があった。

そのような中で、パウロは、この事業は続行されるべきであると言いたかったのです。やもめたちの生活を教会が守らなくて、ほかのどこが守ってくれるのかと。ただ、力のない教会が行うことには限度があるので、いろいろと非難を受けて事業がストップしてしまわないように、気をつけてほしいと、パウロはテモテに伝えているのです。

現代社会においては、社会や政治の中に社会福祉の仕組みが整備されていますので、高齢者の福祉事業などに関して、教会がいろいろと抱え込まなくてもよいようになっています。しかし、社会福祉からも締め出されてしまい、最終的にどこにも頼るところが無くなって、教会に助けを求めてくる方もおられます。そのとき教会は何をすることができるでしょうか。そのような課題を考えていくときに、この個所に書かれていることは、大いに参考になると思います。

(2013年5月26日、松戸小金原教会主日夕拝) ※夕拝の説教題は、ブログ用に変更しました。

2013年4月28日日曜日

自分の父親と思って諭しなさい


テモテへの手紙一5・1~4

「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。」

こういう個所は「面白い」と思いながら読むことができる人と、必ずしもそうでないと感じる人とで分かれてしまうかもしれません。「老人」とか「やもめ」とかいう言葉がストレートに出てくることに抵抗があるという方がおられるかもしれません。

しかし間違いなく言えることは、西暦一世紀の教会の中での信徒同士の交わりの様子はこのようなものであったということです。私自身は「面白い」と思いながら読みましたし、「素晴らしいことだ」とも思いました。

教会の交わりというものが、まさに家族として、神の家族として、親子や兄弟姉妹として描かれています。そのようなものであるべきだと勧められてもいます。少なくとも、そのようなものが教会の理想的なあり方であるという思想があります。そのような理念があり、またそのような信仰があります。

しかしまた、ここで忘れてはならないことは、この手紙はやはり使徒パウロが年若い伝道者テモテに宛てて書いた手紙として読むべきだということです。その文脈から切り離して読むと、誤解されてしまう危険性があります。

この個所に書かれていることは、「若い牧師に対する先輩牧師のアドバイスの言葉」として読めば、パウロの意図をおそらく最も正確に理解することができるだろうと思います。この手紙にはすでに「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません」(4・11)と書かれていました。若い牧師が教会で大きな失敗をしないためにどういうことが大切なのかが、今日の個所に書かれているのです。

それが「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい」(1節)ということです。

この「老人」(プレスビテロス)は「長老」とも訳せる言葉です。しかし、教会役員としての「長老」には年齢の若い人がいますので、この個所の「長老」を教会役員としての長老だけに限定して考える必要はありません。それに、「長老を叱ってはなりません」と訳してしまうと奇妙な話になるでしょう。

そうでなく、この「老人」は高齢者です。若い人とは年齢が離れた、年上の教会員です。そういう相手を叱りつけてはいけませんとパウロはテモテに言っています。おそらくそのように言うパウロの意図は、高齢者の人間としての尊厳やプライドの問題です。高齢者のプライドを傷つけてはならないと言っているのです。

しかし、その一方で「自分の父親と思って諭しなさい」とも書いています。ここで用いられている場合の「諭す」(パラカレオー)という語の意味においては、教会の教師が信徒に教えたり指導したりすることを必ず含んでいますので、そもそも教えることや指導することを老人相手にしてはならないと言っているわけでもないのです。

「テモテよ、おまえは、年下の分際で、自分よりも年上である目上の人に向かって教えるだの指導するだのすること自体、たいへんけしからんことである。言語道断である」と、そのようなことを言っているわけではないのです。

つまり、ここでパウロが言っていることは、一方で若い牧師は高齢の教会員を叱りつけるようなことをしてはならないということです。しかし他方で、だからといって若い牧師は高齢の教会員を「諭す」責任を放棄してよいわけでもないということです。

それで私に思い当たるパウロの意図は、教会の牧師たちは教会員に対して“言い方を間違えてはならない”というあたりのことです。

同じことを言うのでも、厳しく冷たく吐き捨てるように叱り飛ばすようなやり方と、そうでないのとでは、伝えようとしている事柄の伝わり方や相手の反応が全く違います。

もし牧師や長老が教会員に求めることがあるとすれば、聖書のみことばに従って正しく生きるようになってもらいたいということだけです。まるで自分が権威者であるかのようにふるまい、自分の権威に従わせることが目的であるような牧師や長老では困ります。教会が完全に壊れてしまいます。

この個所を読んでいて私に伝わってくるパウロの思いがあるとしたら、それは、教会における人間関係は非常にデリケートなものだということです。そのデリケートな関係を大切に守らなければならない。土足で踏みにじるようなことをしてはならない。牧師や長老が率先して教会を壊すようなことをしてはならない。パウロがテモテに言おうとしていることは、そのようなことです。

「老人を叱ってはならない」。その意味は、何を伝えるにしても、言い方に気をつけなさい、ということです。

「自分の父親と思って諭しなさい」と書かれているところを読んで、私と父親との関係を考えさせられました。若くて元気だったころと比べると、最近はだいぶ弱っているような感じです。最近たまに電話で話すとき、ゆっくり丁寧に説明しなければ内容を理解してもらえないときがあります。落ち着いて内容を理解してもらい、十分に納得してもらえるように語る。そういうふうにすれば分かってもらえます。

しかし、わたしたちの現実の親子関係が、はたしてパウロが思い描くような理想的な関係になっているだろうかと考えると、私は心痛むものがあります。私はひどい親不孝者ですから。

しかし、ここで開き直って考え直してみる。親子の関係や家族の関係をいつでも必ず教会が模範にしなければならないだけではなく、その逆の順序もあるはずです。教会の中で培われた信頼関係を築くための方法のほうを家庭に持ち帰って、親子の関係や夫婦の関係に当てはめて生かしていくことも、わたしたちにできることです。教会と家庭との相互関係や往復運動が重要なのです。

(2013年4月28日、松戸小金原教会主日夕拝)

2013年3月24日日曜日

聖書に専念せよ


テモテへの手紙一4・11~16

「これらのことを命じ、教えなさい。あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。」

いまお読みしました個所、なかでも11節の御言葉は、私にとっては非常に思い出深い御言葉です。しかし、その思い出には証拠が残っていません。まさに記憶の中だけのことになってしまいました。そして、その記憶も、もしかしたら正確でないかもしれません。

実を言いますと、この御言葉は、私がおそらく生まれて初めて(?)自分のものとして手に入れた(このあたりの事実関係が怪しいのですが)旧約と新約の両方がある聖書の最初の空白のページに、当時私が通っていた教会の牧師が筆で書いた文字として記されていたものでした。

それはたしか私が中学か高校の頃から持っていた聖書です。たぶん親が買ってくれたのだと思います。なぜその聖書を中学か高校の頃に買ったと分かるのかといえば、私は高校を卒業してすぐに東京神学大学に入学しましたが、入学当初にはかなりボロボロだったので、同じ年に入学した一人の人から「おお、しっかり勉強してきたな」と冷やかされました。そんなふうに言われたことを覚えていますので、その聖書を買ったのが中学か高校の頃だったらしいことは分かります。

しかし、その聖書はもう私の手元にありません。ボロボロになったので捨てました。いつ捨てたかは覚えていませんが、捨てた記憶がはっきり残っています。捨ててしまってもう手元にありませんので、その聖書にこの御言葉が記されていたということの証拠がありません。しかし、その記憶だけは鮮明に残っています。当時の口語訳聖書からの引用でした。「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい」。そのように書かれた牧師の字が、私の聖書の最初のページに書いてあったのです。

なぜ私がそのことを覚えているのかといえば、とにかく自分の聖書を開くたびに、その御言葉が目に入っていたからであることはもちろんです。しかし、もう一つ、この御言葉を見るたびに、なんとも表現しがたい悔しい思いを味わっていたからです。だからよく覚えています。もっといえば、この御言葉を見るたびに、苛立つ気持ちがあったのです。

その理由の一つは、私が洗礼を受けた年齢が早かったことにあります。私は小学校に入る前のクリスマス、6歳の誕生日を迎えたばかりの頃に、幼児洗礼ではない成人洗礼を受けました。そういう洗礼を認めてくれる教会だったので、そういうことになりましたが、改革派教会の洗礼の考え方とは違うところがありますので、皆さんに同じことを勧める意図はありません。

しかし、私は洗礼を自分で志願して受けたことだけは間違いありません。志願した日の記憶がはっきり残っています。自分で洗礼を受けたいと言いました。だから責任は自分にあるのです。

しかしその後、中学生か高校生になった頃の私に立ち向かってきたのが、この御言葉でした。「年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、信者の模範になりなさい」。

そんなこと言われてもどうすればよいのか分からないというのが、正直な思いでした。私が幼いころに通っていた教会は、わりと規模の大きな教会でしたので、いろんな人がいました。年齢層は、上は80歳か90歳くらいの方々から、下は0歳児まで。その中で「信者の模範になりなさい」と言われても困る。心底、途方に暮れる思いになりました。真剣に悩んだ言葉なのですから、忘れることなどできるものですか。

この御言葉を書いてくれた牧師は、私がそこまで思い詰めるとは思っていなかったのではないかと思います。しかし、それはその牧師自身の言葉ではなくて聖書の御言葉なのですから、牧師の手からは離れています。だからその牧師には責任はありません。

しかし、今日のこの夕拝説教の聖書個所を決めるために、この個所を改めて読み直してみて、はっと気づかされるものがありました。しかし、それは別に、びっくりするようなことではありません。考えてみれば当たり前のことです。

それは単純な話です。この御言葉はやはり、使徒パウロが若き同労者テモテに書き送ったものであるということです。そして、テモテの仕事は伝道であり、教会の牧師としての仕事であるということです。「年が若いということで軽んじられてはならない」のは伝道者のことであり、教会の牧師のことです。「言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で信者の模範になること」が求められているのは教会の牧師です。誰にでも当てはめることができる話ではないのです。

そして、今回特に気づかされたことは、この二つのこと(若さゆえに軽んじられてはならないこと、信者の模範になるべきこと)は、すぐ後に記されている「わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」という御言葉から切り離すことはできない、ということです。

たとえて言うなら、テモテは神学校を卒業したばかりの伝道者であり、教会の牧師の仕事を始めたばかりです。その彼は、当然のことながら信者の模範になることが求められてはいました。しかし、どんな仕事でも、それを始めたばかりの人にできることとできないことがあるわけです。テモテには、まだできないことがあったのです。

できることとできないこととがある中で、パウロがテモテに求めたのは「わたしが行くときまで聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」ということでした。経験不足のテモテにできないことを「しなさい」とパウロは言いませんでした。今のあなたにできることをしなさいと言っているのです。それは聖書に専念することです。御言葉の説教に集中することです。

それは若い今のあなたにもできることです。御言葉の教師として召された者である以上、そのことができないようでは困ります。しかし、教会の中には説教以外にもいろいろな課題があります。説教以外の部分の中には、経験豊富な牧師でなくてはできないことがあるかもしれません。もしそれをまだできないのならば、無理をしなくてもいいし、背伸びしなくてもいいです。その部分は、わたしが行ったときにフォローし、カバーするので、大丈夫だから、安心しなさいと言っているのです。

これで分かるのは、パウロが書いていることは無理難題ではなく、むしろ現実的なことであるということです。ついでに言えば、経験不足の若い牧師を軽んじる傾向がある教会に対する苦言も含まれています。パウロが最も恐れているのは、牧師の失敗や過ちによって教会が壊れてしまうことです。そうならないように、経験不足の若いテモテをかばい、支え、励ますことがパウロの意図です。

(2013年3月24日、松戸小金原教会主日夕拝)

2012年10月21日日曜日

この町に教会がある


2012年度 松戸小金原教会 秋の特別集会(2012年10月21日)説教全文

テモテへの手紙一4・6~16

「これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛錬も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。これらのことを命じ、教えなさい。あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。」

今日は毎年わたしたちの教会がおこなっている秋の特別集会です。まだ教会に来られたことがない方々にわたしたちの教会の存在を知っていただくために、3千枚のチラシをこの地域に配布しました。この中にそのチラシを見て来てくださった方々がおられましたら、わたしたちは心から歓迎します。その方々には、ぜひこれから教会に足を運んでいただきたいと願っています。

今日これからお話ししますテーマは、「この町に教会がある」ということです。この町とは、千葉県松戸市小金原のことです。そして、この町にある教会とは、わたしたち松戸小金原教会のことです。しかし、小金原にはわたしたちの教会以外にもう一つ、教会があります。小金原二丁目にある栗ケ沢バプテスト教会です。その教会の牧師は吉高叶先生という方です。しゅっちゅうお会いしているわけではありませんが、仲良くしていただいています。しかし、この町の教会はこの二つだけです。他にはありません。二つのうちの一つがわたしたちです。

その意味でわたしたちはこの町に対して大きな責任を感じています。それはキリスト教の教えをこの町に宣べ伝える責任です。また、キリスト教の教えに基づく奉仕活動を続けていく責任です。小金原地区の現在の人口は約2万2千人です。そこに教会が二つしかありません。ですから、わたしたちの教会は、少なくとも小金原地区の人口の半分の1万1千人に対して、いま申し上げたことを行う責任を担っているのです。それで今日の集会のために3千枚のチラシを配らせていただいた次第です。

しかし、わたしたちの教会は現在50人です。寂しいことを言わないでくださいと叱られてしまうかもしれません。でも、それが事実です。しかも、50人の会員のうちで小金原に住んでおられるのは、15人です。あとの方々は松戸市の別の地区や柏市や印西市などから通ってくださっています。茨城県から通ってくださっている方も数名おられます。わたしたちの願いはこの地域の方々に対する責任を果たしていくことですが、そのことはまだ十分に果たせていません。そのことを痛感しています。

しかし、私は今日、皆さんに愚痴を言いたいわけではありません。この町に教会があることの積極的な意味を、喜びと感謝をもってお話ししたいと願っています。しかしごめんなさい、もう少しだけ愚痴っぽいことを言わせてください。

実を言いますと、この町にキリスト教の信者はわたしたちの教会に属する15人しかいないわけではありません。もっとたくさんおられます。先ほどご紹介しました栗ケ沢バプテスト教会の方々のことを言いたいのではありません。日本のキリスト者人口は国民の1%と言われています。百人に一人。小金原に2万2千の人がいれば、220人くらいは最低でもいるはずです。しかし、わたしたちの教会には15人。栗ヶ沢バプテスト教会にも同じくらいの人数ではないかと想像します。

しかし、それでは計算が合いません。いったい、この町の教会に通っておられないキリスト者の方々はどこの教会に通っておられるのでしょうか。松戸市内の別の地域や柏市などの教会かもしれません。しかし、もっと考えられる可能性は東京の教会です。バスに乗って、電車に乗って、あるいは自動車で東京の教会に通っておられるのです。松戸市が東京都との県境にあることが関係しています。また、小金原に住んでいる多くの方々が、かつて東京から引っ越してこられたことが関係しています。

ですから、その方々は、御自分の家の近くにわたしたち松戸小金原教会や、栗ケ沢バプテスト教会があっても、この教会の建物を御覧になったり看板を御覧になったりしても、残念ながら前を素通りされていることになります。

しかし、時々、たいへん有難いことに、そのような方々の中でだんだん高齢になられて、遠く東京の教会までバスに乗って、電車に乗って、あるいは自動車で通われるのが困難になられた頃に、「あ、こんなところにも教会がある」ということにやっと気づいてくださって、わたしたちの教会を訪ねてくださるようになる方々がおられます。先ほどご紹介しましたこの教会の会員のうちの15人の小金原にお住まいの方々のうちの何人かがそのような方々です。文句を言いたいわけではありません。しかし、もっと早く気づいてくださっていれば、と思わないこともありません。

私の口ぐせは、病院と学校と教会はできるだけ家から近いほうがよい、ということです。何かあればすぐに駆け込める距離。病院はまさにそのようなところにあると便利です。学校もなるべく近いと便利です。教会も同じです。何かあればすぐに駆けこめる距離。反対に、牧師がその方のお宅に駆けつけることができる距離。そのような教会に皆さんが属していることは、長い目で見ていただけば、悪いことではないと思うのです。

私が自分で言わないほうがよいかもしれませんが、「この町に教会がある」という言葉の中に、この町に牧師という仕事をしている人間が住んでいる、ということが少しくらいは含まれているということが意外に重要だったりします。残念ながら私自身はあまり人の役に立つような者ではないのですが、私以外の牧師たちは、けっこう役に立つ有用な人だったりします。

「牧師さんは日曜日以外は何をしているんですか」と尋ねられることが私も時々あります。そういうことを聞かれても、「ははは、ほんと、何してるんでしょうかねえ」と私はただ笑っているだけです。遊んでいると思われているのかもしれません。べつにどう思われようと構いません。私がふだん何をしているのかは今は申しません。バスに乗って、電車に乗って、自動車で会社に行くというような生活はしていませんので、ひまだと思われているかもしれません。しかし、そういう人間がこの町に住んでいることには意味があると思っていただけるような働きができるようになりたいと願っています。

教会がこの町にあり、牧師がこの町に住んでいることには、どのような意味があるのでしょうか。それは先ほどから申し上げていますとおり、何も無理して遠くの教会に通わなくても済むということです。つまりそれは、純粋に物理的な距離の問題です。徒歩や自転車で通える距離なら、バス代も、電車代も、ガソリン代も要りません。本質的でない話をしていると思われるかもしれませんが、意外に重要なことです。また、実を言いますと、非常に本質的な話をしているつもりです。

一つの点を申せば、昨年の東日本大震災の経験があります。皆さんの中にも、東京の会社や学校に通っておられる方々の中に、いわゆる帰宅困難者になられた方がおられました。距離が遠いということは、そのようなことにも関係してきます。

しかし、それだけではありません。宗教の本質的な点からも距離の問題を考えることができます。わたしたちの教会は「改革派教会」と言います。いわゆるプロテスタントの教会の中に属しています。プロテスタントの教会には無い考え方なのですが、キリスト教の中のカトリックと呼ばれる教会にはある考え方、他の多くの宗教にもある考え方は、いわゆる総本山のような場所があるということです。

カトリック教会のいわゆる総本山はローマのヴァティカンにあります。他の多くの宗教にもいわゆる総本山があります。しかし、わたしたちプロテスタントの教会にはありませんし、あってはならないと考えています。総本山がある宗教と、無い宗教との決定的な違いは距離の問題です。バスに乗って、電車に乗って、自動車に乗って、あるいは飛行機に乗って、そこに行かなければ本物の宗教に出会うことができないという考え方が、わたしたちの教会には無いのです。自分の家から近ければ近いほどよい。徒歩や自転車で通える、自分の生活圏と共にある宗教。日常生活の一部としての教会。それが、わたしたちの教会が理想とする宗教のあり方なのです。

だからこそです。わたしたちが「伝道」という言葉で呼んでいる、日本国内や世界各地にどんなに小さくても教会を作り、そこで日曜日ごとに礼拝を行い、他の曜日にもいろいろな集会を行っている理由は、いま私が申し上げた、わたしたちの教会が理想とする宗教のあり方とダイレクトに関係していることなのです。最も決定的な理由はわたしたちの教会には総本山が無いことです。もし総本山という言葉をあえて使えば、すべての教会が総本山なのです。松戸小金原教会が総本山です。会員50人の総本山などありえないと世間の人々からは思われてしまうかもしれません。しかし、わたしたちが毎週ここに集まることと、他の宗教の人々が総本山に集まることは、本質的に同じことなのです。

ここで最初に朗読しました聖書のみことばに注目していただきたいと思います。これは今から2千年前に書かれた手紙です。当時活躍したキリスト教の伝道者である使徒パウロが弟子のテモテに書き送った手紙です。このときテモテはエフェソと呼ばれる町に立てられた、おそらく当時はまだ小さな教会で働いていました。そのテモテにパウロが書いているのは、励ましの言葉です。「これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります」(6節)と書かれています。

実を言いますと、このときテモテはまだ若い人でした。青年と呼ばれる年齢だった可能性が高いです。それでパウロは次のように書いています。「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範になりなさい」(12節)。

これで分かるのは、使徒パウロが弟子のテモテと、テモテが働いているエフェソの教会に対して、どのような見方をしていたのかということです。

それは次のようなことです。あなたはたしかに年齢的に若いかもしれないが、だからといって、あなたの働きは不十分であるとか、あなたが働いている教会は未熟であるとか、そのようなことは無いし、人からそのように思われるようなことがあってはならないということです。ベテランの牧師が働いている教会は、いわゆる総本山で、新米の牧師が働いている教会は、周辺的な教会だ、というような考え方は、キリスト教の教えの中には無いし、あってはならない。

パウロはこのようにも書いています。「自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかり守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります」(16節)。

ここでとくに注目していただきたいのは、最後に書かれている「あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになる」というパウロの言葉です。これで何が分かるのかといいますと、テモテの年齢がどれほど若かろうと、エフェソの教会がどれほど小さかろうと、テモテが語る言葉によって、その町に住んでいる人々の「救い」が起こる、ということです。

しかし、テモテがその町の人々を救うのではありません。人を救うのは神です。テモテは、神御自身がその町の人々を救うために用いられる道具にすぎません。しかし、テモテの存在は神御自身が用いてくださる道具ではあるのです。道具なしに、テモテの存在なしに、神はその町の人々をお救いにならないのです。

松戸小金原教会が「地方の教会」であるというと、腹を立てる人たちがいるかもしれません。「何を言っているんだ、松戸は都会じゃないか」と言われてしまうかもしれない。「都会か地方か」という話の枠組みの中で見れば、わたしたちの教会は都会の教会だと言わなくてはならないのかもしれません。

しかし、わたしたちがどうしても意識するのは、お隣に東京という巨大な都市があり、そこにかなり年配のベテランの牧師がいる、かなり大きな規模の教会があり、そのような教会と比べれば、わたしたちは、小規模の、比較的若い牧師(私)がいる教会だということになる。この町に教会があるのに、前を通り過ぎられてしまう、中まで入っていただけないこともある、そういう教会の中に数えられてしまうことがあるので、その意味では「地方の教会」とみなされてしまう面があるかもしれません。

しかし、今日、皆さんにぜひご理解いただきたいと願っていることは、なんだか悪あがきのような言い方に聞こえてしまうかもしれませんが、初めから大規模の教会は存在しません、ということです。すべての教会が最初は小さな教会でした。また、もう一つ悪あがき。初めからベテランである牧師は存在しません。すべての牧師が最初は若い牧師でした。いま私は冗談のような話をしているわけですが、大真面目です。小さな教会、若い牧師が、長い年月の中で、次第次第に、少しずつ成長していくのです。最初は小さな働きしかできないのですが、次第次第に、少しずつ大きな働きができるようになるのです。

牧師だけの話をしてはいけません。教会が成長するということは、その教会に属する会員一人一人が成長していくことです。初めからベテランの教会員はいません。すべての人が最初は赤ちゃんでした。自分では何もできませんでした。何かができるようになるためには、社会的に大きな責任を果たせるようになるためには、多くの時間と努力が必要なのです。

ですから、今日、私から皆さんにお願いしたいと思っていることは、せっかく皆さんの家の近くにある、スープの冷めない距離にある、今はまだ小さくて若いこの教会が、大きく熟練した教会へと成長していくことのために祈っていただきたいし、まだこの教会の仲間に加わっておられない方々にはぜひこの教会の仲間に加わっていただきたいということです。皆さんに加わっていただくことがこの教会の成長です。

この町から教会が無くなってしまえば、この町に住んでいる方々がもしキリスト教の教えを学びたいと願われたときには、また繰り返して言いますが、バスに乗って、電車に乗って、自動車に乗って、遠くの町の教会まで通わなくてはならなくなります。元気なうちは、それもできる。しかし、わたしたちは、いつまでも元気なわけではありません。

松戸小金原教会の灯が消えないように、皆さんの祈りが必要です。もっと多くの仲間をわたしたちは求めています。どうか皆さん、わたしたちのためにお祈りください。ぜひ教会に来てください。

(2012年10月21日、松戸小金原教会 秋の特別集会)