2010年3月21日日曜日

松戸小金原教会の新しい宣教方針について

教会設立30周年以後の展望と課題を踏まえて



関口 康



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はじめに



わたしたちは、2002年1月に小会で採択した「松戸小金原教会 21世紀初頭の宣教方針」を毎年の定期会員総会のたびに確認してきました。しかし8年前と現在とでは教会内外の状況が変わってきており、方針のより現状に適った軌道への修正が求められてきていること、また何よりも21世紀になって既に10年が経過し、「21世紀初頭」と呼びうる時期が終わりを迎えようとしていることなどから、わたしたちは新しい宣教方針の必要性を感じるようになりました。



そこで今年度内に三回予定している教会勉強会の共通テーマを「松戸小金原教会の新しい宣教方針について」に決めさせていただきました。私が願っていることは、三回の教会勉強会での学びや協議を経たうえで来年1月に開催する定期会員総会までに新しい宣教方針の原案を確定したいということです。そのために皆様にご協力いただきたく願っております。



とはいえ、私は、8年前に採択された現行の宣教方針には何一つ誤りはなく、ほとんど修正の余地がないほどの完璧さをもっていると考えています。ですから、「新しい」宣教方針を考えましょうと言いましても、実際には言葉遣いが変わっただけで、ほとんど同じことを繰り返しているにすぎないものになるだろうと予想しています。革命的な変化などは全く考えていません。わたしたちの教派の名称に革命(revolution)ではなく改革(reformation)という字があることは重要です。変えていくべき点があるとしても、革命的に根こそぎ変えてしまうのではなくて、従来の慣習を重んじつつ、徐々に改革していきます。それがわたしたちの教会の基本姿勢なのです。



さて最初にお願いしたいことがあります。副題を「教会設立30周年以後の展望と課題を踏まえて」としましたとおり、今日の話は未来志向で進めていきたいと願っております。しかし皆さんの中には「自分の10年後のことなど考えることができません。元気でいられるかどうかさえ」とおっしゃる方がきっとおられるであろうということは、私にはよく分かっています。しかし今日だけはそのような(暗い)話は、どうかお控えいただき、松戸小金原教会の将来についての夢を共に描いていただきたいです。そして、逆の言い方をお許しいただくと、松戸小金原教会を10年後にも、20年後、30年後、100年後にも「のこす」ためにはどうしたらよいのかについて知恵をお借りしたいと願ってもいます。



1、「教会形成の理念」の見直しについて



現行の宣教方針の「1、教会形成の理念」には次のように書かれています。



「(1)聖書に基づく正統的な信仰告白に立ち、宗教改革の歴史を正しく継承する改革派教会の形成と進展を目指す。
(2)主として北千葉地域に宣教の使命を覚え、近隣改革派教会と密接な連携のもとに伝道の責任を果たす。
(3)時が良くても悪くても、一貫した宣教の姿勢をとり、改革派教会として旗幟を鮮明にする。
(4)カルビニズムの諸原理に則り、社会的・文化的分野にも正しく適応し、キリスト教的土壌を豊かにする。」



ほとんど完璧です。私にはこれ以上のことは書けそうもありません。強いて付け加えることがあるとしたら、これらの理念が持っている言葉の響きはやや抽象的であるということくらいでしょうか。具体性に乏しいとまでは申しませんが、具体性の度合いと抽象性の度合いとを比較してみると、後者のほうが若干強く出ているというくらいです。



しかしまた、改めて読み返してみますと意外なことにも気付かされます。それは(1)から(4)までに繰り返されている言葉があるということです。それは「改革派教会」です。(4)に「改革派教会」という字は出てきませんが、「カルビニズムの諸原理」は事実上同じ意味です。この同じ言葉の反復の意味内容は明らかです。現行の教会形成の理念は、最初から最後まで、結局のところ、「改革派教会になること」という一点をひたすら目指すものだったということです。



しかし、どうでしょうか、この点は現時点においては十分に達成されていると私は信じています。現在の松戸小金原教会は「改革派教会」以外の何かでありうるでしょうか。だれがどこから見ても、わたしたちは「改革派教会」ではないでしょうか。



実際、現行の宣教方針の「1、教会形成の理念」の(1)から(4)までは成就しています。項目ごとに見ていきますと、(1)については礼拝や祈祷会や諸集会における改革派信仰の学びや長老制度の実践等において、(2)については2006年7月の東関東中会設立において、(3)については毎年の特別伝道集会の実施等において、(4)については各自の日常的実践において、わたしたちが「改革派教会になること」は成就しています。その意味では、「改革派教会」以外の何ものでもないわたしたちがこれからも「改革派教会になること」という一点を繰り返して言うだけでは、物足りないでしょう。見直す余地はこのあたりにあると言えそうです。



2、「目標」の見直しについて



現行の宣教方針の「2、目標」には「100人教会を目指して」とあり、その説明は次のとおりです。



「教会が自立し、対外的にも貢献し得る教会として発展すること。そのための目途として現住陪餐会員100人程度の教会を目指し、礼拝・教育・伝道・奉仕の各分野で教会員の成長をはかり、新会堂を宣教の拠点として十分に活用する。」



ひょっとしたら、ここに掲げられた会員数についての具体的な数値目標こそが、わたしたちを大いに悩ませ、一喜一憂の原因になってきたかもしれません。志を高く持つことは決して間違ってはいませんが、目標を達成できないことにただ苦しみ、「なぜ達成できないのか」についての原因究明や責任追究ばかりを考え始めてしまうとしたら、数値目標を立てること自体を断念するか、あるいは数値の下方修正を行う必要があるかもしれません。



この件に関しては2007年11月定期小会・執事会で一度、検討したことがあります。そのとき申し上げたことは、「百名教会になること」と「アットホームな教会であること」とは反比例するところがあるということでした。しかし、そうなりますと松戸小金原教会がこれまで持っていた魅力を失ってしまう危険があるため、もし目指すとしたら「アットホームな百人教会」であるということでした。またもう一つ述べた点は、私の知るかぎり、日本キリスト改革派教会においても、他の教団・教派においても、「百人教会」を実現しているところはほとんどの場合、歴代牧師のうちどなたかの在任期間が長かった(20年または30年以上に及ぶ)ということであり、頻繁に牧師が交代する教会が100人を超えている例は皆無に等しいということでした。つまり、この目標の実現には(あまり使いたくない表現ですが)「牧師のカリスマ性」に頼るところが大きいと言わざるをえないということでした。



このことについて私は澤谷牧師とかつて個人的に語り合ったことがあります。そしてそのとき苦笑しながら一致した意見は「わたしたち(澤谷牧師と私)には、そういうもの(カリスマ性なるもの)はないよねえ」という点でした。もちろん、このことは「ないよねえ」で済ましてよいものなのか、これから努力して(?)その種のものを身につけていくべきなのかは、判断に迷うところです。



3、「目標達成の方策」の見直しについて



現行の宣教方針の「3、目標達成の方策」には次のように書かれています。



「(1)上記の理念・目標は中期計画(20世紀内)に引き続いてそのまま踏襲する。
(2)中期計画(20世紀内)の総括を入念に行い、達成できなかったものについて、その要因を検討し、今後の達成を目指す。
(3)教会形成理念の(2)は、東関東中会と連携を密にして、協力することを当面の目標とする。
(4)教会形成理念の(4)は、新会堂を活用して地域に開かれた活動、特に日曜学校や週日の利用(例:おはなしのへやや、各種サークル活動)を積極的に推進する。
(5)今までの会堂委員会は、教会運営組織に位置づけられた委員会(部)とし、その業務は教会施設全般を統括するものとする。
(6)教会の伝道の主要な窓口は日曜の礼拝である。伝道委員会は、特に主の日の活動に力を入れるようにする。
(7)教会運営組織は、とりあえず次の概念で実施し、今後更に改善を加えていく。(以下略)
(8)教会員の教会活動への積極的参加。(以下略)」



このうち(1)と(3)と(5)と(6)と(7)と(8)に関しては、すでに実施済みの項目であると思います。また(4)についても、「おはなしのへや」は休止中ながら、「チャペルコンサート」や「教会バザー」などを挙げることができます。つまり現時点で未着手の課題は(2)の「中期計画(20世紀内)の総括と未達成目標の要因検討」だけであるというのが私の見方です。



しかし、繰り返しますが、教会形成の理念としての「改革派教会になること」については、すでに十分に達成していると思います。そのため現時点で達成していないのは「(現住陪餐会員)100人教会になること」だけです。



とはいえ上記のとおり、私自身にも、また小会・執事会の内部にも、この数値目標を維持し続けるべきかどうかという点に、いくらか迷いや戸惑いがあります。未達成目標の要因を検討していくことは重要です。また「教会が自立し、対外的にも貢献し得る教会として発展すること」については全く異論の余地がありません。しかしどうしても考慮せざるをえないのは、日本社会全体の「少子高齢化」(いわゆる逆ピラミッド型社会)の傾向と、一昨年に起こった「百年に一度」と言われる世界不況が、わたしたちの教会にも確実に影響しているということです。そのことを勘案することなく、具体的な数値目標を掲げ続けることが、結果的に、未達成の犯人探しのようなことになってしまうとしたら、有害無益であるとさえ言わざるをえません。



しかしまた、わたしたちにとって譲ることができないのは「改革派教会になること」です。この点の大幅な路線変更をすることによって会員数を増やし、経済力をつけていくという道を選ぶことは、わたしたちにはできません。そういうことをしますと、わたしたちの教会本来の魅力を失うばかりか、教会存立の理由そのものを揺るがせにしてしまいかねません。



4、教会設立30周年以後の展望と課題



さて、そろそろ「新しい宣教方針」の具体像を描いていかなくてはなりません。その場合踏まえるべきことは「教会設立30周年以後の展望と課題」です。以下の諸点を挙げることができます。



いわゆる“うつわ”(建物)の問題としては、2000年に建設した現在の会堂を維持・管理すること、そして(私からは言いにくいことですが)築40年を超えている牧師館をどうするかが今後の課題です。



しかし、もっと重要な問題は、言うまでもなく“なかみ”(人間)の問題です。わたしたちは現在の「少子高齢化」と「世界不況」の中で「改革派教会になること」と「100人教会になること」を同時に実現していくという課題に、どのように取り組んでいくべきでしょうか。当然「世代交代」ということも視野に入ってくるでしょう。



前者(改革派教会になること)は譲ることができませんが、後者(100人教会になること)については再検討の余地がありそうです。「現在の牧師がカリスマ性を体得するか、それともカリスマ性をもつ牧師を新たに迎えさえすれば、すべて解決する問題である」ということであれば、この話は最初から考え直さなければなりません。



5、新しい宣教方針の骨子(試案)



最後に、私が思い描いている新しい宣教方針の骨子を提示しておきます。



Ⅰ 人が育つ教会
(主日礼拝を中心とする信徒教育の充実、年齢や性別を越えた交わりの確立)



Ⅱ 喜び歌う教会
(礼拝賛美を中心とする教会音楽の充実、聖歌隊、チャペルコンサートなど)



Ⅲ 助け合う教会
(少子高齢化と世界不況の中でお互いの弱さを理解し、担い合えるようになる)



Ⅳ 世にある教会
(会堂を用いての地域活動に加え、地域社会の中に積極的に入っていくこと)



(松戸小金原教会2010年第一回教会勉強会、2010年3月21日)



2010年3月7日日曜日

世界不況の中での高校受験を体験して思うこと

このところブログを全く更新できませんでした。



その理由は私だけが知っています。人生と仕事をサボっていたわけではなく、「すべて終わるまでは決して書くべきでないこと」に必死で取り組んでいました。



種明かしをすれば、長男が高校受験でした。同年齢の子どもさんをお持ちの方々にはご理解いただけると思いますが、今年は「激戦」の一言でした。長男自身からは終始鬱陶(うっとう)しそうな目で見られていましたが、まるでステージママ(パパですが)のごとく、舞台袖から固唾を呑んで見守るばかりでした。



「激戦」となった原因はいろんな人が分析中ですが、ともかく明白なことは一昨年に始まった世界不況の影響です。公立単願者が激増しました。「公立高校無料化」の政策が突然打ち立てられたことの影響も当然ありました。家庭の経済事情との関係で「ゼッタイ公立」と厳命された子どもたちは安全の上に安全を期する必要がありました。そのため多くの子どもたちが一つないし二つ以上ランクを下げて受験せざるをえませんでした。それでも長男の中学校などでは、進路指導の教師から保護者全員に「今年は公立単願は非常に危険なので、私立を必ず一校以上併願してください」と強く勧められる事態でした。ランクを下げての受験を潔しとしない子どもたちは、自分(や塾)の願いと親や学校の願いとの板挟みの中で激しく苦しんだはずです。何年も前から(「民主党政権」など影も形も見えていなかった頃から)高い目標をめざして努力してきた子どもたちの立場からすれば、状況の変化(オトナの都合)を理由にランクを下げ(させられ)ること自体に大きな挫折感が伴わないはずがないわけですから。



長男が受験した公立高校は、志願者数が昨年比でプラス216名(!?)という驚異的な数字となり、県内最大の上げ幅でした。受験倍率も、特色化選抜3.19倍(昨年2.60倍)、一般選抜1.97倍(昨年1.57倍)でした。六年前(2004年4月)に県外から松戸市に引っ越してきたばかりの者には知る由もないことでしたが、ここしばらく人気や進学実績等が低迷していた同校は昨年あたりから(「リーマン・ショック以後」と断定してよさそうです)「人気校」としての復活を遂げたと、もっぱらの噂です。もっとも、わが家の場合は「自転車で通える公立高校」という条件を言い渡していただけなのですが。



「不況によって復活した」などと直接的もしくは短絡的に関連づけますと、同校関係者の方々には失礼に当たるかもしれません。しかし、言うまでもないことですが、「志願者数や受験倍率が激増した」ということは裏返せば「不合格者数も激増した」ということでもあるわけで、つまり、合格した子どもたちのほうも必ずしも手放しで(自分の結果さえ良ければよいという調子で)喜んでいるわけではないということでもあるのです。多くの親友たちの痛みを知る機会にもなりました。



その意味では、同校が「不況によって復活した」ということが事実であるとするならば、「不況の痛みの中にいる人々の心を深く理解することができ、かつ現代日本の社会問題に真剣に取り組むことができる人材を輩出する学校」になってほしいと願っています。



教会も同じであると考えています。不況の只中で「どこ吹く風」と言わんばかりに超然とした態度をとり続けるような教会はたぶん「教会」ではないのです。少なくとも「改革派」教会ではないと私は思う。特に(私自身を含む)子育て中の若い牧師たちは、見るからに草臥(くたび)れ果てているくらいで、ちょうどよいのです。