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2016年7月4日月曜日

礼拝の意味(千葉英和高等学校)

ネヘミヤ記8・9~10

関口 康

「『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。』民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。『行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である』」。

3年生はこれからですが、今は毎年恒例の学校行事としての教会訪問を実施しているところです。人数を分散する目的から最初に2年生、次に1年生、最後に3年生という日程を組んでいます。日程を守ることも大事です。しかし学校としてはとにかく教会に行ってみてほしいという願いを持っているだけです。

1、2年生からはすでに、多くの教会訪問のレポートが提出されています。それを今、じっくり読ませていただいています。その中で、面白いなと思った感想がありました。他の感想が面白くないという意味ではありませんが。一人二人ではなく、多くの人が同じことを書いていました。それは「学校の礼拝と比べて教会の礼拝は良かった」という感想です。

その理由もちゃんと書かれていました。ご本人たちに無許可ですので、私の言葉で言い換えて紹介します。「本気で信じている人たちがこんなにたくさんいることを知って驚いた。教会の礼拝は本格的で真剣だった」「初めて行ったので緊張したが、教会の人が親切にしてくださったので、安心できた。あのような親切な大人になりたいと思った」など。

他にもたくさんの感想を寄せていただきましたが、どちらかといえば、肯定的な感想のほうが多かったです。「行ってよかった」とはっきり書いてくれた人もいました。否定的な感想が全く無かったわけではありません。それはそれとして尊重されるべきです。でも、多くはありませんでした。

しかし、このことは面白がるだけで済む問題ではありません。「学校の礼拝と比べて教会の礼拝は良かった」という感想には、学校の礼拝に対する厳しい問いかけが含まれているということを見逃すわけには行きません。もし教会の礼拝が本物の礼拝だということであれば、学校の礼拝はその逆だということになるわけです。

そういう感想をいただいて残念だとは思いません。でも、ちょっとひとこと言いたくなります。「学校の礼拝も本物の礼拝です」と。擬似礼拝でも似非礼拝でもありません。しかし、そのことをただ一方的に言い張って済む問題ではありません。「学校の礼拝も本物の礼拝です」ということを納得してもらえるようにするにはどうしたらよいのかを、真剣に考えなくてはなりません。

そのようなことを考えながら今日の聖書の箇所を選ばせていただきました。先ほど宗教委員の方々に朗読していただいたのは、旧約聖書のネヘミヤ記8章9節から10節までです。

ここに描かれている場面は、大昔に行われた「礼拝」の様子です。今から約2500年前です。ユダという国が隣国バビロニアに占領されました。神を礼拝するための神殿も、王の住む城も、バビロニアの軍にめちゃくちゃに破壊されました。そして、ユダ王国の住民の多くが捕虜としてバビロニアに連れて行かれました。それはとてもとても辛くて悲しい出来事でした。

しかし、その70年後、ユダの人々が元の町に帰れることになりました。そして、壊れたままだった神殿や城の壁を、みんなで力を合わせて建て直すことができました。今日の個所に登場する泣いている人々は、神殿と城の壁を建て直した人々です。そうすることができたことがうれしくて、涙を流しています。

しかし、その涙には別の意味もありました。70年もの間、自分の国の神殿も城も壊れたままでした。その間、人々は自分の町に戻れませんでした。故郷に帰ったとき思い出されたのは70年間の屈辱と苦悩、そして苦渋に満ちた日々でしょう。彼らのうれし涙の中に複雑な涙が混ざっていたに違いありません。

これまでいろんなことがありました。嫌な目にもさんざん遭いました。でもそれらすべては神が導いてくださった結果であると信じる。そして神に感謝するために礼拝する。それがこの箇所の場面です。ここで言っておきたいのは、礼拝はそういうときにも、いえ、そういうときにこそ行うものである、ということです。

学校の礼拝は毎週行っています。先週の月曜日は文化祭の代休でしたので、今日の礼拝は2週間ぶりです。2週間前のわたしたちは今のわたしたちとは全く違います。文化祭の楽しい思い出がわたしたちの心に刻まれました。それだけではありません。学校でも、学校以外でも、わたしたちはいろんな体験をしました。

その中には、うれしいこと、楽しいことだけでなく、悲しいこと、嫌なこともあったでしょう。どう考えても否定的にしかとらえることができないこともたくさん含まれていることでしょう。しかし、それらのこと一切を神が導いてくださったと信じる(この「信じる」が難しいことではありますが)。過去のすべてを思い起こし、涙を流す場所が礼拝です。

それは、うれし涙の中に複雑なものが混ざり合った涙です。その涙を流すことで神の前に心の重荷をおろし、安心する場所が礼拝です。良かったことについては感謝、悪かったことについては反省、そして次なる課題と目標を思いめぐらす場所が礼拝です。

この礼拝の中で説教しているのが、この本の書名になっているネヘミヤとその仲間たちです。彼らが語ったのは、「今日はあなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」ということでした。これは、泣くことを禁じているのではなく、すでに泣いている人を慰め、喜んでいいのだと励ます言葉です。

「良い肉を食べて、甘い飲み物を飲みなさい」とも言っています。今日はうれしくて楽しい日だから、美味しいごちそうを食べて笑いなさい、楽しみなさいと言いたいのです。学校の礼拝でごちそうや飲み物が出てくれば、みんなもっと元気になるでしょうか。現実には不可能ですが、何かのヒントになるかもしれません。「聖なる日」とは楽しい喜びの日であるということです。

わたしたちの「聖なる日」はいつでしょうか。礼拝を行う日がその日です。つまり今日です。礼拝は喜んでもよい、楽しんでもよい場所です。学校礼拝も同じです。ただし、げらげら笑って大騒ぎしてもよいとか、礼拝中に自分の好き勝手におしゃべりしてもよいという意味ではありません。そういう楽しみ方は、自分たちは楽しいかもしれませんが、他の人は楽しくありません。

神の恵みを感謝し、心の中で静かに喜ぶことが大切です。そしてお祈りする場所が礼拝です。

明日から第2回定期試験です。第1回試験のとき、1年生のあるクラスの試験監督をしました。みんなとても緊張しているのが分かったので、言いました。「みんな人事は尽くしたんだからね。最後はお祈りするしかないんだよ」と。

私は皆さんのためにいつもお祈りしています。定期試験、がんばってください。

(2016年7月4日、千葉英和高等学校 学校礼拝)

2008年1月1日火曜日

主を喜び祝え!


ネヘミヤ記8・9~10

「『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。』民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。『行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である』」。

あけましておめでとうございます。今日は新年礼拝です。日曜学校との合同礼拝として行っています。今、子どもたちがたくさん集まっています。楽しく過ごしたいと思います。

日曜学校の皆さん、皆さんは泣いたことがありますか。もちろんあると思います。どんなときですか。兄弟や友達とけんかしたときですか。悲しいときですか。そういうときも、たぶん泣くと思います。

今日読んだ聖書の個所に出てくる人々も泣いていました。なぜ泣いているのでしょうか。うれしいことがあったからです。うれしいときにも人は泣くのです。この人々に、とてもうれしい出来事が起こったのです。それは何でしょうか。ちょっとだけ説明しておきます。

昔々の話、今から2500年ほど前のことです。わたしたちと同じ神さまを信じていたユダという国に住んでいたユダヤ人が、隣のバビロンという国との戦争に負けてしまいました。神さまを礼拝するための神殿も、王さまが住んでいたお城も、バビロンの軍隊に壊されてしまいました。そしてユダヤ人の多くが捕虜としてバビロンの国に連れて行かれてしまいました。それは、とても辛くて悲しい出来事でした。

しかし、それから70年の後、バビロンに連れて行かれたユダヤ人たちが元々住んでいた町に帰れることになりました。そして、壊れたままだった神殿、またお城の壁をみんなで力を合わせて建て直すことができたのです。

今日の聖書の個所の泣いている人々は、神殿とお城の壁を建て直した人々です。それがやっとできたということがうれしくて泣いているのです。この場面は、神殿とお城の壁が元通りになったことを、神さまに感謝するために行っている礼拝の場面です。

しかし、その涙には、別の意味もありました。ただうれしかっただけではなかったようです。考えてもみてください。70年もの間、神殿とお城が壊れたままだったのです。また、その間、人々は自分たちが元々住んでいた町に戻ることができなかったのです。皆さんも、もし同じような目にあうことがあったら、どのように感じるかを想像してみてください。

今日の個所に出てくるユダヤ人たちは、今やっと自分たちの町に戻ることができ、また神殿とお城の壁を建て直すことができたわけですが、そのときに心の中に思い出されたことは、70年の間に嫌な目にあったこと、辛かったこと、寂しかったこと、悔しかったことなど、いろいろあったと思うのです。

また、ちょっと恨みもあったかもしれません。70年前に戦争に負けた人たちは、神さまの言いつけを守らなかった人々であるということが聖書に書いています。そのような昔の人たちが犯した罪のせいで、そのあとの人たちが苦労させられた、そのことに腹を立てて泣いていた人もいたのではないかと思います。

しかし、そのようないろいろなことがあったけれども、とにかく今わたしたちはやっと自分たちの国に帰ることができた。すべては神が導いてくださった結果であると信じて、その神に感謝するための礼拝をささげている。それが今日読んだ聖書の個所の場面です。

「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と言っているのはエズラさんとネヘミヤさんという二人の人です。泣いているみんなに「泣いてはいけません」と言っています。笑いなさい、楽しみなさいと言いたいのです。

「良い肉を食べて、甘い飲み物を飲みなさい」とも言っています。今日はうれしい日、楽しい日なのだから、おいしいごちそうを食べて、笑いなさい、楽しみなさいと言いたいのです。

また「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ」と言い、だから「泣いてはいけません」と言っています。「聖なる日」と聞くとわたしたちは、もしかしたら、ちょっと怖いような気持ちを持つかもしれません。「聖」とは清いということです。清いとは「きたない」とか「けがれている」の反対です。そうしますと、わたしたちが思い描くイメージは悪いことをしないようにとか、真面目にするように、という意味ではないかということになる。「シー静かにしなさい。真面目にしなさい。うるさい人はこの部屋から出て行きなさい」と怒られてしまうのではないかと、感じる人がいるかもしれません。

しかし、ここに言われている「聖なる日」の意味は、どう考えても、そういうことではありません。「聖なる日」なのだから、おいしい肉を食べなさい、甘い飲み物を飲みなさい。笑いなさい、楽しみなさいと言われているのですから、「シー静かにしなさい」の反対です。そうです、「聖なる日」とは、笑ってもよい日であり、楽しんでもよい日であるという意味なのです!

実を言いますと、わたしたちにとっての「聖なる日」は、日曜日です。みんなで教会に集まって、神さまに礼拝をささげる日です。「聖なる日」である日曜日は、笑ってもよい日であり、楽しんでもよい日です。おいしい肉を食べ、甘い飲み物を飲んでもよい日です。

そんなものは、毎日、食べたり飲んだりしているよ、という人もいるかもしれません。私が言っているのは、そういうものは、日曜日以外は食べてはいけません、という意味ではありません。むしろ逆です。わたしたちは、毎日、笑ってもよいし、楽しんでもよいのです。

私のお父さんの話をします。今でも岡山県に住んでいます。私が生まれる前から今まで、ずっと教会に通っています。長い間、“クリスチャンしている”人です。

この私のお父さんは、とてもはっきりしていました。日曜日に教会で楽しいことがあると、月曜日から土曜日まで、ずっと楽しそうでしたし、うれしそうでしたし、元気そうでした。日曜日に教会で何か嫌なことがあったり、牧師さんの説教がつまらなかったりしたときは、月曜日から土曜日まで、ずっと不機嫌でした。

みんなが私のお父さんと同じかどうかは分かりません。でも、どうやらみんな、多かれ少なかれ、同じような気持ちを持っているのではないかと思うのです。

日曜日は、一週間の初めの日です。今日は一年の初めの日です。初めの日が悪ければ、この先どうなるのだろうかと不安になったり、嫌な気持ちになったりするものです。逆のこともいえます。初めの日がよければ、この先もよいことがあるだろうと希望を持つことができます。今週も、今年もがんばるぞという気持ちになり、ファイトがあふれてきます。そこには相乗効果、または相関関係があるのです。

わたしたちにとっての「聖なる日」は、日曜日です。日曜日は、笑ってもよい日であり、楽しんでもよい日です。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と言われているとおりです!

もちろん、日曜日に笑うとか、楽しむと言っても、教会の礼拝は、テレビや漫画ほどは面白くないかもしれません。教会の牧師さんや長老さんや日曜学校の先生たちは、お笑いの芸人のようにゲラゲラ笑える話をしてくれるわけではありません。

しかし、お笑いの芸人さんたちに対しては、ちょっと言いたいこともあるのです。それは、あの人々なりに頑張っているとは思いますが、あの人々の笑いは、すぐに飽きられてしまうものである、ということです。

対して、教会のお話は、けっこう長生きです。教会の歴史は、二千年も続いてきました。聖書のお話、神さまのお話には、飽きるということがありません。たとえて言うならば、教会のお話は、おかあさんやお父さん(!)が作ってくれる、毎日のごはんです。毎日のご飯に「飽きた」という人はいません。毎日のご飯を「飽きたから食べない」としたら、死んでしまいます。聖書を通して神さまが与えてくださる日々の糧に飽きる人は、いないのです。

ぜひ、毎週日曜日、教会に遊びに来てください。礼拝を楽しんでください。教会は喜び楽しむ場所なのです。今年もよろしくお願いいたします。

(2008年1月1日、松戸小金原教会新年礼拝)