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讃美歌21 436番 十字架の血に
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「立ち上がれ」
エフェソの信徒への手紙 5章 6~13節
関口 康
「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
今日の箇所の中心的な言葉は「光の子として歩みなさい」(8節)です。直前に「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と記されています。この箇所で描かれているのは、キリスト者の教会生活の始まる“前”と“後”の違いです。「光の子」は教会生活を営むキリスト者であり、その反対の「闇の子」はそうでない人々です。ただしこの描き方には人の心を傷つける要素があります。今の説明が間違っているという意味ではありませんが、慎重な配慮を要する箇所であることは間違いありません。
「むなしい言葉に惑わされてはなりません」(6節)、また「彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい」(8節)とあります。文脈上は明らかに、教会の外にいる人々が「むなしい言葉」を語っているので、その仲間に加わらないでくださいという意味です。しかし、そのように言えば、強い反発が返ってくるでしょう。「教会は、なんと鼻持ちならない人々か。自分たちだけが正しく、他のすべての人が間違っているかのように言う」。この批判には真摯に耳を傾ける必要があります。
別の見方ができなくはありません。それは、「光の子」と「闇の子」を区別することと、教会に属するか属さないかは無関係である、という見方です。日本では「無教会」の方々は、いま申し上げた立場をお採りになります。しかし、その方法では問題は解決しません。少なくとも今日の箇所で言われている「光の子」は「教会の交わり」から離れては存在しません。
ただし、その場合の「教会」の意味は場所や建物ではありません。神の言葉が語られ、聞かれ、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いの福音を共に信じ、互いに助け合い、さらに聖餐式や愛餐会を通して共に食卓を囲む信徒同士の交わりこそが「教会の交わり」です。
特に最後に挙げた聖餐式と愛餐会は、教会の最も“物理的な”要素です。一例だけ挙げます。今もコロナ禍が完全に収束していると考えている方はおられないと思いますが、とらえ方は多様でしょう。最もひどい状態だった頃、それでも聖餐式を続けなければ、と苦心なさった教会の話を最近聞きました。
その話の中に、インターネットの動画で礼拝堂と各自の家庭をつなぎ、礼拝堂では牧師と役員で聖餐式を行い、各家庭にとどまっている方は各自でパンと杯を準備し、同じタイミングで飲み食いしたという事例が含まれていて、驚きました。私はいま、その方法をお採りになった教会を批判したいわけではありません。その方法に問題があるとしたら、それで「共に食卓を囲んだ」ことになるかどうか、「教会の生きた交わり」であると言えるかどうかにかかっているでしょう。
教会の交わりに“物理的”要素があることの意味は、わたしたちのカラダを持ち運んで集まることが大切だ、ということです。牧師は牧師館の中に住まわせていただき、移動の苦労が無いので、「教会の生きた交わり」に参加するために多くの時間や労苦を費やされている皆さんに申し訳なく思っています。しかし、私も今年1月の半ばから左足に強い炎症を患い、立つのも歩くのも難しい状態を1か月過ごしました。少しでも皆さんに寄り添うことができたのでは、と思います。
「教会の生きた交わり」に参加することに、隣人の前に姿を現すことが含まれています。それが「光の子として歩むこと」と無関係でないことを今日の箇所が教えてくれています。たとえば「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい」(3~4節)はすべて隣人との関係性の問題です。
自分ひとりの部屋で何を言おうと何をしようと自由です。しかし、この箇所では、何を語り、何を行うかが問題になっています。ひとりでいるときには問題にならないことが、隣人の前では問題になります。これで分かるのは、「光の子として歩むこと」には、隣人の前に自分の姿を現すことを含んでいるということです。自分以外の隣人と“物理的に”出会うことを含んでいます。「教会」は場所でも建物でもありません。そうではなく、人間関係です。
その意味で「光の子」の「光」は、文学表現にとどまらず、“物理的な”「光」を含んでいます。照明器具だけの問題にしてしまえば、自宅の室内にいるほうが外出中より明るい場合があるかもしれませんが、聖書の時代状況には当てはまりません。
“物理的な”要素に偏りすぎると精神的な要素が弱まるかもしれません。今日私がお話ししていることも、聞けば聞くほど、ただの道徳の話に聞こえるかもしれません。まして私は、現時点ではまだ学校の教室で生徒に教える仕事を続けています。立場上、生徒に言わなくてはならないのは、「早起きしなさい。いつまでも寝ていないで、ベッドから立ち上がれ。授業に遅れないように。授業中に居眠りしないように」というようなことばかり。それと同じことを教会でも言いたいのかと思われるかもしれません。そのように皆さんから問われたら「違います」と答えたい気持ちが起こらないわけではありませんが、「その面も含まれています」と答えざるをえません。ただし、わたしたちが教会の礼拝に出席することは、義務や責任ではなく、恵みであり祝福です。
今日の朗読範囲のすぐ後に「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」(14節)と記されています。この言葉にはカギ括弧がつけられています。どの書物からかの引用であると考えられていますが、どの書物なのかは不明です。しかし、旧約聖書のイザヤ書60章1節に似ているという指摘があります。
イザヤ書60章1節には「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」と記されています。これも精神的な意味だけでなく、“物理的な”意味が含まれています。
「らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。ケダルの羊の群れはすべて集められ、ネバヨトの雄羊もあなたに用いられ、わたしの祭壇にささげられ、受け入れられる」(イザヤ60章6~7節)は、砂漠の長旅を経てエルサレム神殿の礼拝に集まる人々の姿を描いています。しかもそれは、バビロン捕囚後の神殿再建の希望の幻として描かれています。
今日の礼拝に出席してくださっているみなさんの中で、いちばん遠くから来られた方はどなたでしょうか。「らくだ」で来られた可能性は低いでしょう。電車か自動車の長旅を経て来られたに違いありません。その方は、昨夜は何時に就寝され、今朝は何時に起床され、何時に出発なさり、途中の渋滞や混雑を経て、どんな思いで来られたでしょう。家が近い方々はラクをしておられるという意味ではありません。わたしたちの教会生活は一日にしてならず、と申し上げたいです。礼拝をささげ続けるだけでも多くの苦労があります。そのうえで、わたしたちのすべての労苦に神が「光」を当て、報いてくださいます。「光の子として歩む」とは、そのようなことです。
(2024年2月18日 聖日礼拝)
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「命の言」
ヨハネの手紙一1章1~4節
関口 康
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」
今日開きました聖書の箇所は、新約聖書のヨハネの手紙一の冒頭部分です。1章1節から4節までを司会者に朗読していただきました。
「ヨハネの手紙」と題される文書は三つあります。そのうち「二」(第二の手紙)と「三」(第三の手紙)には、「長老のわたしから」と記されていて、「長老」を名乗る人物が書いた文書であることが明らかにされていますが、「一」(第一の手紙)の中には著者についての情報がありません。
ヨハネス・シュナイダーという聖書学者によると、「ヨハネ福音書とヨハネの第一の手紙の著者は同一人である」とされます(『NTD新約聖書註解 第10巻公同書簡』日本語版1975年、307頁)。しかしシュナイダーは、ヨハネ福音書とヨハネの手紙一の著者はイエス・キリストの12人の弟子の中の使徒ヨハネが書いたとするキリスト教会の伝統的な理解に立つわけではありません。使徒ヨハネではない別の誰かが書いたものであるが、今日まさにわたしたちが開いている冒頭部分の記述内容からして、主イエスの地上の生涯と活動を目の当たりにした人物が書いたものであるとしています。私も基本的にその線で同意します。
ヨハネの手紙一の冒頭部分に書かれているのは、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」(1節)という言葉です。この「命の言(ことば)」は「聖書」という言葉で置き換えることはできません。そうではなく、ヨハネによる福音書の冒頭部分に記されている言葉が思い起こされるべきです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1章1~5節)と記されているあの言葉です。
そうです、「命の言(ことば)」とは、真の救い主イエス・キリストのことです。人間を照らす光としての命の言はイエス・キリストご自身です。ヨハネの手紙一の冒頭部分に、その「命の言」を著者自身が「聞き」、「目で見」、「よく見」、「手で触れた」と記されています。これは明らかに、イエス・キリストと著者との間に直接的なかかわりと交わりがあったことを意味しています。
ヨハネの手紙一の「初めからあったもの」の意味は、ヨハネ福音書の「初めに言があった」と呼応しています。ヨハネ福音書の続きに「万物は言によって成った」とあるとおり、「初めから」の意味は「天地創造よりも前」です。神は天地創造のとき「光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれ」(創世記1章4~5節)ました。これは、神が天地創造のとき「時間」を創造されたことを意味します。その「時間の創造」より前を指すのが今日の箇所の「初めから」の意味であり、ヨハネ福音書1章1節の「初めに言があった」の意味です。つまり、イエス・キリストは「時間の創造」よりも先におられた“永遠の存在”であるという信仰をヨハネ福音書もヨハネの手紙一も告白しています。
続きを読みます。「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためである。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(2~3節)。
この言葉の意味を、正しく理解すべきです。この手紙の中で一度も自分の名を名乗っていない著者は、主イエスの地上の生涯と活動を目の当たりにした人物であることを明らかにしています。しかし、この人はそのことを自分の特権であると考えていません。「わたしとイエスさまは直接の知り合いだけれども、当時イエスさまと関係を持っていなかったあなたはそうではない。わたしとあなたは違うのだ」というような仕方で、自分の優位性を主張し、相手を見下げるような考えは全く持っていませんでした。そうではなく、わたしはイエス・キリストの福音を宣べ伝えるのだ、その福音を信じる人はだれでも、主イエスの声を直接聞き、その生涯と活動を直接見、手で触れたわたしたちと全く同じ交わりの中に入ることができるのだと、心から信じていました。
そうでないなら、教会の存在は無意味です。宣教は無意味です。主イエスの地上の生涯と活動を直接知っている二千年前の最初のひと握りの人たちだけが特別扱いされ、それ以外の人たちはその他大勢扱いされるだけであるのであれば。
ヨハネの手紙一とヨハネ福音書の共通の著者の確信は、それとは正反対です。直接の知り合いであろうとなかろうと、そのこと自体は問題でない。ユダヤ人だろうと異邦人だろうと、豊かだろうと貧しかろうと関係ない。宣べ伝えられた福音を信じる人はだれでも、国境も人種も時代もすべて超えて、御父と御子の交わりに入ることができるし、その関係は平等である。だからこそ、わたしたち教会は、あらゆる困難を乗り越えて福音を宣べ伝えるのだと、心から信じていました。
「交わり」と訳されているギリシア語は、コイノニアです。ここでの意味は「参加すること」です。かつての英国聖書学の権威者C.H.ドッドは英語の「パートナーシップ」を意味すると理解しました。しかし、くれぐれも誤解のないように。「御父と御子イエス・キリストとのコイノニア(交わり)」を与えられた人は、神の“第四位格”へと組み入れられて、「父・子・聖霊・わたし」の四位一体(The Quaternity)にはなりません。「いち人間」として、しかし、他のキリスト者と比較して「自分はあの人より下だが、あの人より上だ」などと高ぶったことを考えるべきでなく、神の前で平等な「いちキリスト者」として、教会に参加し、伝道と教会形成のわざを通して神と教会に仕える人生を送ることができる、という意味です。それ以上でもそれ以下でもありません。
ヨハネの手紙一の冒頭部分は「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(4節)で締めくくられます。「これらのこと」はそれ以前の1節から3節までだけを指していません。そうではなく、この手紙全体を指します。さらに広げて、教会のすべての宣教を指すと言っても過言ではありません。ヨハネ福音書にもイエス・キリストご自身の言葉として同じ趣旨のみことばがあります。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(ヨハネ15章11節)。
宣教の目的は「喜び」にある、ということです。「命の言(ことば)」としてのイエス・キリストが来てくださったのは、世界を喜びで満たすためである、ということです。
使徒パウロも書いています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケ一5章16~18節)。
わたしたちの今週1週間が、喜びに満たされたものでありますよう、お祈りいたします。
(2024年1月28日 聖日礼拝)
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「恵みの選び」
ガラテヤの信徒への手紙 1章11~24節
関口 康
「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされ(ました)。」
今日の箇所は、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙1章11節から24節までです。この手紙の最初の 2 章(1~2章)の主旨はパウロの自己弁明です。わたしパウロは「使徒」であるということ。他のすべての使徒と完全に対等の存在であるということ。そのことを強く主張しています。
反発される可能性があります。パウロも人の子だった。人には傲慢をいさめ、謙遜を勧める。しかし、結局は自分と他の使徒を比較して地位や順位を競っているだけではないか。そのようなそしりを受けることをパウロ自身が知らずにいたとは思えません。しかし、パウロはだれが何と言おうと自分が「使徒」であることを弁明せざるをえませんでした。なぜなら、彼の敵対者たちが彼から「使徒」の呼び名と権利を剥奪しようとしたからです。
聖書で「使徒」と呼ばれるのはイエス・キリストの12人の弟子です。ただし、使徒のひとりのイスカリオテのユダが自害した後、くじ引きでマティアが選ばれ、ユダの穴埋めをしましたので、マティアも「使徒」です。しかし、パウロは自ら「使徒」を名乗ります。それはイエス・キリストの啓示によると主張します。そして自分は「使徒」である以上、他の使徒と同等の権威を持っているので、他の使徒たちに従属する立場になく、反論する権利があることを主張しました。
牧師は使徒ではありません。しかし、パウロの言い分は、牧師たちにはよく分かるものです。使徒と牧師の働きは本質的に同じです。旧約聖書の預言者も同様です。牧師は預言者でもありません。しかし、働きは本質的に同じです。神の言葉を預かり、民に伝えることです。
だからこそ、牧師にはパウロの言い分がよく分かります。だいたいいつも「あの人は神の言葉を語るにふさわしくない」と思われているものだからです。パウロは牧師たちの代弁者です。
「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」(11~12節)とパウロは記します。
これは、「福音」(喜びの知らせ)は人間が考え出したものではなく、人間から教えられたものでもなく、イエス・キリストの啓示によるという意味です。
「イエス・キリストの啓示」とは、イエス・キリストが十字架にはりつけにされたゴルゴタの丘とその先から始まるキリストによる新しい歴史を指しています。新約聖書のどこにも「啓示」という言葉で「聖書」を意味させる箇所はありません。啓示は人が常に携帯できる物ではありません。「啓示」の意味は、隠されていたものを明らかにすることです。明らかにするのは神ご自身です。聖書の知識の伝達ではなく、神がご自身の御心(エウドキア=神の喜び)を人の心に開示することです。それを人は「信仰」という方法で受信し、理解します。
「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教としてどのようにふるまっていたかを聞いています」(13~14節)とあるのは、だれか特定の人がガラテヤ教会の人々にパウロの過去を言いふらしたという意味よりも、次の二つの意味の可能性を考えるほうがベターです。
ひとつは、パウロがユダヤ教徒として熱心かつ忠実であったことを、多くの人が知っていた。つまり、彼は有名人だったということです。
もうひとつの意味は、ガラテヤ教会はパウロの第1回伝道旅行の成果として生み出された教会であり(これは「南ガラテヤ説」に基づく理解です)、ガラテヤ教会の人々にパウロ自身が自分の過去を直接話したことがある、という意味です。
彼の過去とは、「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていた」過去です。「神の教会」とはキリスト教会のことです。「神がお立てになったキリスト教会」です。しかし、その後パウロはユダヤ教から完全に距離を置くことになりました。「キリスト教」という言葉は、当時からありました。キリスト教とユダヤ教には完全な区別があり、2つの異なる領域です。
パウロは、神のみわざとしてのキリスト教会を破壊していた自分の罪を告白します。彼が迫害したのはエルサレムの教会だけでなく、外国の都市のキリスト者を迫害しました。パウロは自分が「神の教会」を迫害したことを思い出すたびに自分自身に失望しました。その罪から救われ、今の自分があるのは神の恵みによることを強く自覚し、神への感謝を忘れなかった人です。
ユダヤ人の生活は、少なくとも外面的には、完全に律法のおきてに従っていましたので、道徳的には非の打ち所がありませんでした。しかし、それらすべてが、そのまま彼の罪だと分かりました。絶対的な宗教的確信が「神の教会」を滅ぼそうとする力の源泉になっていたのですから、方向転換のためには神の雷(かみなり)が必要でした。彼は一方の絶対的な信仰から解放され、過去のものとは全く異なる、全く新しい意味でのイエス・キリストにおいて啓示された福音への絶対的な信仰へと回心しました。それは最も難しい方向転換です。神のわざそのものです。
パウロは自分の「回心」の事実を、エレミヤ書1章5節の言葉を借りて述べています。「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされ……」(15~16節)。
預言者エレミヤに示された主の御言葉は次のとおりです。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」(1章5節)。
「母の胎から生まれる前に」の最も中心的な意味は、預言者としての資格のあるなしは本人の努力によらないということです。神の言葉を預かり、民に伝える働きにふさわしいかどうかは、人間が決めるのではなく、神ご自身が決めることです。神が恵みによって選んだ人だけが、神の言葉を民に伝える働きに就くことができます。その真理は永遠に変わりません。
パウロは、回心から 2 年後、エルサレムの使徒ペトロを訪問します。これはパウロが真の使徒になるために通るべき巡礼だったことを意味しません。パウロの意図はペトロへの自己紹介です。ペトロはキリスト教会の最高権力者でした。パウロがペトロのもとに行ったのは人々が彼を信頼しないからです。しかし、パウロはペトロの弟子になりたかったのではありません。パウロは誰の弟子でもなく、イエス・キリストの使徒です。「キリスト・イエスの僕(しもべ)(ドゥーロス=奴隷)」であるとすら名乗っています(ローマ1章1節)。僕は主人以外の誰にも従いません。
パウロは、他のだれかが築いた土台の上に立って、伝道と牧会のわざに就くことをよしとしませんでした。パウロは孤独を恐れませんでした。孤独を恐れる人に、異邦人伝道の使命を果たすことは不可能です。孤独を恐れる人に、神の言葉を民に伝える職務は果たせません。「神が恵みによってこのわたしを伝道者として選んでくださった」という確信のみが伝道者を支えます。
(2024年1月14日 聖日礼拝)
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「死から命へ」
エフェソの信徒への手紙2章1~10節
関口 康
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるものではなく、神の賜物です。」
今日は2024年最初の聖日です。今年1年も、わたしたちが各自の持ち場にあって、家庭や職場や地域社会の中で、主の前で謙遜に歩むことができますようお祈りいたします。
今日の聖書箇所は、エフェソの信徒への手紙2章1節から10節までです。この箇所に記されているのは、イエス・キリストを信じる信仰を神の恵みとして与えられ、かつイエス・キリストの体なる教会に連なって生きるわたしたちへの励ましの言葉です。
ただし、これはたしかに励ましですが、単なる現状肯定や無批判な受容ではなく、わたしたちが謙遜であり続けることを求めるニュアンスが含まれています。それは、謙遜でない人を戒め、教会生活の原点としての洗礼の教えに立ち返ることを求めるニュアンスです。
今日の箇所に出てくる印象的な言葉は「あなたがた(わたしたち)は死んでいた」です。1節に「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」とあります。4節以下にも「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし(中略)キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」とあります。
両者の共通点は「死ぬ」という言葉が出てくることですが、その意味はどちらも、キリスト者であるわたしたちは「これから」死ぬのではなく「以前」または「かつて」死んでいたということです。しかしその「死んでいた」わたしたちが「生きる者」となるというのですから通常の生活感覚の逆です。普通は、生きている人が亡くなる。しかし、その反対のことが言われています。つまり、ここで言われているのは生物学的な意味の「死」ではありません。宗教的な意味です。
生物学的には「生きている」状態であるが、宗教的には「死んでいる」状態とは何でしょうか。その違いは、神との関係です。神との関係が途絶えていることが宗教的な意味で「死んでいる」状態であり、反対に、神との関係が回復し、遮断していたのに再接続できるようになったことが「生きている」または「生き返った」状態です。イエス・キリストの死と復活によって、キリストと結ばれたわたしたちの存在まで死んでいた状態から生きている状態へと切り換えられました。
それでは、以前は「死んでいた」わたしたちが「生きている」者になった転機はいつかというと、それは「洗礼」であるというのがパウロの教えです。パウロは「キリストと共に死ぬこと」と「洗礼」の関係を明確に語っています。
代表的な箇所はローマの信徒への手紙6章3節以下です。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」。
コリントの信徒への手紙二5章14節以下にも同じ趣旨の言葉があります。「わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。
いま2か所、パウロの言葉を読みました。両者に共通するのは、イエス・キリストが死んでよみがえったのは、罪によって死んでいたわたしたちが生きる者になるためであるという信仰の教えです。そして興味深いことは、ローマの信徒への手紙でも、コリントの信徒への手紙二でも、パウロがこの教えを前面に打ち出す文脈の意図は、キリスト者である者たちこそ「謙遜」であるべきことを教えることにあるという点です。
それは、わたしたちはもはや自分のために生きているのではなくキリストのために生きているのだから、自分を誇り、不遜な態度をとるのはやめようではないかと呼びかける文脈です。第二コリント書に至っては、パウロとコリント教会が激突した状態で、教会の内部にパウロを激しく批判する人々がいることを知りつつ、イエス・キリストの弟子としてふさわしい謙遜と冷静さを取り戻すことを呼びかけるために書かれた手紙です。そのためにパウロは、すべてのキリスト者が経験している「洗礼」の事実に立ち返ることを訴えています。
それでは、なぜわたしたちが「以前」死んでいたのかといえば、罪の奴隷だったからです。命をもたらす神の支配下ではなく、死をもたらす罪の支配下にいたからです。今日の箇所の3節に記されている「わたしたちは皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」が、罪の奴隷状態にある人間の姿を表しています。
誤解なきように気をつけたいのは、3節の言葉には、今はキリスト者になっている人たちが以前は「こういう者たち」や「ほかの人々」の中にいたということを責める意図があるわけではないことです。そのように理解すると、教会の交わりに参加していない人々を軽蔑したり攻撃したりする意味になってしまい、ファリサイ主義の罠にかかっています。
重要なことは、「『あんな人たち』の中にいた過去」から「『こんな人たち』の中にいる現在」へと陣地換えしたかどうかではなく、罪の奴隷状態であることから解放されているかどうかです。洗礼を受けてイエス・キリストの体なる教会の一員になったとき、それ以前の生き方とは180度方向転換すること、すなわち「回心」(conversion)が起こったかどうかです。
そして、その「回心」との関係で特に重要なことは、今日の箇所の8節以下の言葉です。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」。
ここに再び、キリスト者である者こそ「謙遜」であるべきことを強く訴える教えが出てきます。信仰ですら、あるいは信仰こそ、熱心かどうかの競争を、教会の中ですら、あるいは教会の中でこそ、全力で始める人々がいつの時代にも登場するので、それを強く戒める言葉が、ここに出てきます。信仰は自分の努力や行いではなく神の賜物である。したがって、わたしたちが「信仰によって義とされる」ことの中に、いかなる意味でも本人の努力や業績に対する評価の要素はない、ということを意味します。神から「頂戴した」(プレゼントされた)信仰を、まるで自分の努力の成果や勲章のようにとらえることは許されていません。
そのような事情であることを、わたしたちひとりひとりが理解したうえで、謙遜に生きることができるようになるための訓練場がイエス・キリストの体なる教会です。ただし、教会的な意味での「謙遜」は、一般的な礼儀作法の問題ではありません。自分の名誉のために生きているか、それとも、神の栄光を現すために生きているかの問題です。その評価は神がしてくださいます。
(2024年1月7日 聖日礼拝)
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「天に栄光、地に平和」
ルカによる福音書2章8~20節
関口 康
「『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」
クリスマスおめでとうございます!
今日の聖書箇所は、ルカによる福音書2章8節から20節です。イエス・キリストがお生まれになったとき、野宿をしていたベツレヘムの羊飼いたちに主の天使が現われ、主の栄光がまわりを照らし、神の御心を告げた出来事が記されています。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(10節)と、天使は言いました。
天使の名前は記されていません。ルカ福音書1章に登場するヨハネの誕生をその母エリサベトに告げ、また主イエスの降誕をその母マリアに告げた天使には「ガブリエル」という名前が明記されていますし、ガブリエル自身が「わたしはガブリエル」と自ら名乗っていますが(1章19節)、ベツレヘムの羊飼いたちに現われた天使の名前は明らかにされていません。同じ天使なのか別の天使なのかは分かりません。
なぜこのようなことに私が興味を持つのかと言えば、牧師だからです。牧師は天使ではありません。しかし、説教を通して神の御心を伝える役目を引き受けます。しかし、牧師はひとりではありません。世界にたくさんいます。日本にはたくさんいるとは言えませんが、1万人以上はいるはずです。神はおひとりですから、ご自分の口ですべての人にご自身の御心をお伝えになるなら、内容に食い違いが起こることはありえませんが、そうなさらずに、天使や使徒や預言者、そして教会の説教者たちを通してご自身の御心をお伝えになろうとなさるので、「あの牧師とこの牧師の言っていることが違う。聖書の解釈が違う。神の御心はどちらだろうか」と迷ったり混乱したりすることが、どうしても起こってしまいます。
もし同じひとりの天使ガブリエルが、エリサベトにもマリアにもベツレヘムの羊飼いたちにも、さらにマタイ福音書に登場するヨセフにも、東方の占星術師たちにも現れたということであれば、天使自身は神ではありませんが、情報源が統一されている点で、聴く人や状況によって神の御心の内容が違って聴こえることは起こらないので、不統一よりは安心できるかもしれません。
ところで、ベツレヘムの羊飼いに現われた天使が「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(10節)と言いました。しかしこれは翻訳のひとつの可能性です。原文には4つの単語が並んでいます。「ユーアンゲリゾーマイ・ヒューミーン・カーラーン・メガレーン」ですが、最初の「ユーアンゲリゾーマイ」だけで「喜びを告げる」(announce glad tidings)という意味になります。「ヒューミーン」は「あなたがたに」(to you)。「カーラーン」は「喜び」(joy)。そして「メガレーン」が「大きな」(great)です。つまり「喜び」が“ダブって”いるということです。さらに「大きな」(great)で“ブースト”されています。とても大きな喜びです。
その内容は「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(11節)です。この言葉を厳密に理解することを求める方々は、「あなたがたのために」(to you)とは誰のためかが気になるはずです。大別して3つの可能性が考えられます。
第一に、「民全体」(10節)をイスラエル民族に限定して「あなたがたイスラエル民族のために」。その場合は、イスラエル王国の再建を目標とする人にとっての喜びを意味します。
第二に、ベツレヘムの羊飼いに限定して「あなたがたベツレヘムの羊飼いのために」。その場合は、差別の対象になっていた羊飼いの苦境と関係し、弱い立場の人にとっての喜びを意味します。
第三に、すべての限定を解除して「全人類のために」。まさにすべての人にとっての喜びです。クリスマス礼拝のメッセージとして最もありがたいのはこの可能性でしょう。私も同意します。ただし、自分の読みたいように読む、というのは危険な面があることは覚えておくべきです。
しかし、第三の読み方にも根拠があります。天使の言葉の中で「救い主」(ソーテール)、「主」(キュリオス)、「メシア」(クリストゥス)と、それぞれ意味が異なる3つの称号がイエスさまに当てはめられています。「救い主」(ソーテール)と「主」(キュリオス)はどちらもローマ帝国の皇帝が自ら名乗り、周囲に呼ばせた称号です。その称号がイエスさまに当てはめられたのです。それはつまり、地上におけるソーテールでありキュリオスである存在は、あの独裁者ローマ皇帝ではなく、今宵生まれたイエスさまである、ということが明確に示されたことを意味します。
そして「メシア」(ギリシア語でクリストゥス)は、ユダヤ人たちが長い歴史の中で待ち望んだ存在です。つまり天使が「あなたがたのために救い主(ソーテール)がお生まれになった。この方こそ、主(キュリオス)メシア(クリストゥス)である」と羊飼いたちに告げている言葉の中に出てくる3つの称号の意味は、ユダヤ人のためにも、異邦人(=「ユダヤ人以外の人々」を指す)のためにも、すなわち「全人類」(=ユダヤ人+異邦人)のためにイエスさまはお生まれになった、という意味であると理解できます。
天使は最後に「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)と言いました。これも翻訳のひとつの可能性です。しかも、この言葉は歴史や国境を越えて多くの人に誤解されてきた事実があることを指摘しておきたいと思います。
特に誤解されてきたのは後半の「地には平和、御心に適う人にあれ」です。私も誤解していたことを正直に告白します。「御心」は「神の御心」です。しかしそうなりますと、「神の御心に適う人(だけ)に平和が訪れますように」という意味なのかと考える人が必ず現れるでしょう。「神の御心に適わない人には平和は訪れなくても構わない」と、神は天使を通して羊飼いに告げたのか、聖書を通してそのことをわたしたちに告げているのか、と考える人が必ず現れるでしょう。
全く違います。完全に正反対です。しかし、翻訳をやり直す必要はありません。「御心に適う人」と「御心に適わない人」がいる、という読み方をやめるだけで済みます。「御心に適う“人”」は「全人類」を指していると理解すれば、問題は解決します。
日本語聖書で「御心」と訳される伝統になっている「エウドキア」の意味は「神の喜び」です。この言葉には旧約聖書の背景があります。特に創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とお喜びになったことと関係しています。
全人類が「神の喜び=神の御心」(エウドキア)に適った存在です。例外も限定もなく「全人類に平和がもたらされますように」と歌う天の大軍の歌声がベツレヘムの夜空に響き渡ったことを想像しながら、今夜のクリスマスイヴ音楽礼拝を共にささげたいと願います。
(2023年12月24日 クリスマス礼拝)
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ルカによる福音書1章26~38節
「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。」
(2023年12月17日 聖日礼拝)
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「葛藤と隘路からの救い」
ローマの信徒への手紙7章7~25節
関口 康
「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」
今日の礼拝は昭島教会創立71周年記念礼拝です。長い間、献身的に教会を支えて来られた皆さまに心からお祝い申し上げます。
この喜ばしい記念礼拝の日にふさわしい宣教の言葉を述べるのは重い宿題です。私がその任を担うことがふさわしいと思えません。2018年4月から鈴木正三先生の後の副牧師になりました。そして2020年4月から石川献之助先生の後の主任牧師になるように言われました。2020年4月は、日本政府から「緊急事態宣言」が出され、当教会も同年4月から2か月間、各自自宅礼拝としました。また、教会学校と木曜日の聖書に学び祈る会は3か月休会しました。そのときから3年半しか経っていません。
3年間、教会から以前のような交わりが失われました。なんとかしなくてはと、苦肉の策でインターネットを利用することを役員会で決めて実行したら「インターネットに特化した牧師」という異名をいただきました。申し訳ないほど「私」の話が多くなってしまうのは、3年間、家庭訪問すらできず、皆さんに近づくことがきわめて困難で、皆さんのことがいまだにほとんど分からないままだからです。
日本語版がみすず書房から1991年に出版されたアメリカの宗教社会学者ロバート・ベラ―(1927~2013年)の『心の習慣 アメリカ個人主義のゆくえ』で著者ベラーが《記憶の共同体》という言葉を用いたのを受けて、日本のキリスト教界でも特に2000年代にこの言葉を用いて盛んに議論されていたことを思い起こします。この言葉の用い方としては、個人主義、とりわけミーイズム(自己中心主義)に抵抗する仕方で「教会は《記憶の共同体》であるべきだ」というわけです。
なぜ今その話をするのかといえば、昭島教会の現在の主任牧師は、残念なことに《記憶の共同体》としての昭島教会の皆さんとの交わりの記憶を共有していないし、共有することがきわめて困難な状況が続いていると申し上げたいからです。この状態が長く続くことは決して良いことではないと、本人が自覚しています。不健全な状況を早く終わらせる必要があると考え、そのために努力しています。
教会はルールブックで運営されるものではありません。ルール無用の無法地帯ではありませんが、それ以上に大切なのは、教会の皆さんが共有しておられる「記憶」です。「記憶」が大切だからこそ、今日のこの礼拝が「昭島教会創立71周年記念礼拝」であることの意味があります。
今日開いた聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙7章7節から25節です。理解するのが難しい箇所だと多くの方がおっしゃいます。私もそのことに同意します。しかし、この箇所を読むときの大前提が、読む人によって違っている場合が多くあります。特に重要な問題点を2つ挙げます。
第1に、この箇所に繰り返し出てくる「わたし」は誰のことかという問題です。7章だけで「わたし」が45回出てきます。シンプルに考えれば、この手紙は使徒パウロが書いたので、その中に「わたし」と単数形で書かれている以上、パウロ自身のことを指しているに違いないと言えなくはありません。しかし、そうなると、わたしたちがこの箇所を読む場合、これはあくまで《パウロの自叙伝》であるととらえて読む必要があることになります。伝統的にはそう読まれてきました。たとえば、オリゲネス、アウグスティヌス、ルター、カルヴァンがそう読みました。しかし、それで本当に正しいでしょうか。
第2は、いま申し上げた第一の問題と深い関係にあります。それは、この箇所で「わたし」は明らかに自分の心の中に潜む罪の問題で葛藤していますが、この葛藤はイエス・キリストを信じて救われる《以前の「わたし」》つまり《過去の「わたし」》の心の状態を描いたものであり、イエス・キリストを信じて救われた後はこの葛藤から全く解放され、罪の問題について悩むことも苦しむことも無くなる、という理解があるが、その読み方で正しいかという問題です。
第一の問題と第二の問題の関係性を言うなら、パウロが自叙伝として「わたし」が過去に属していたユダヤ教ファリサイ派からイエス・キリストを信じて救われたときに彼の中に内在していた罪の問題が解決し、葛藤が無くなったことを述べることがこの箇所に記されていることの趣旨であるということになるとしたら、先ほど挙げた2つの問題の読み方のどちらも正しいということになります。
しかし、結論だけ言いますと、今日的には、どちらの読み方も支持できません。それは聖書の解釈上の問題でもありますが、わたしたち自身に当てはめて考えてみれば理解できることだと思われます。
「律法は罪だろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければわたしは罪を知らなかったでしょう」(7節)とパウロが記していることの趣旨は、先ほど「教会はルールブックで運営されるものではないが、ルール無用の無法地帯でもない」と申し上げたことと関係します。「律法」は「法律」の字並びを逆さまにしただけで、英語では同じLaw(ロー)です。法律の存在そのものが罪であることはありません。しかし、律法にせよ法律にせよ、「法」の役割は私たち人間に、そのルールに従うことができない自分の罪や弱さや欠けを否応なしに自覚させることにあることは、わたしたちの体験上の事実でしょう。「法」の存在がわたしたち人間にとって究極的な意味の「救い」をもたらすことはなく、むしろ、ダメな自分をさらされ、それを直視することを求められるだけです。
しかも、法律の順序を逆さまにして「律法」という場合、その意味することは「神の言葉」であり、なおかつ「神を信じる者たちが従うべき教え」なので、個人的なものではなく、共同体が共有するときこそ意味を持ちます。「律法」は個人のルールブックではなく教会のルールブックだということです。そもそも誰ともかかわりを持たない完全な個人は存在しませんが、自室でひとりでいるときにルールは不要かもしれません。他の誰かとかかわりを持つときに初めてルールが必要になります。
しかし、それが先ほど第二の問題として挙げた、今日の箇所の「わたし」の葛藤はイエス・キリストを信じて救われるよりも前の、過去の「わたし」であると、もしわたしたちが読んでしまうと、共同体としてのキリスト教会は、ルール無用の無法地帯であるかのようになってしまいます。キリスト教会は律法主義には反対しますが、律法そのものを除外することはありませんし、あってはなりません。
そして、もうひとつ、今日の箇所の葛藤する「わたし」、なかでも特に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこのからだから、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(24節)という悲痛な叫びは、あくまでも未信者だった頃の、あるいは他の教えに従っていた頃の過去のわたしであって、今は違うということになるとしたら、キリスト者にはこの葛藤は無いのかと問われたときにどのように答えるかの問題になります。キリスト者は「惨めな人間」ではなくなるのでしょうか。それはわたしたち自身がよく知っていることだと思います。
今日の宣教題を「葛藤と隘路からの救い」としましたが、救いはイエス・キリストへの信仰によってすべて成就され、今はもはや悩みも苦しみも無いと申し上げるためではありません。隘路(あいろ)は「狭くて通るのが難しい道」のことです。今のわたしたち自身が、昭島教会が「葛藤と隘路」の只中にいると申し上げたいのです。その中からの「救い」のために必要なのは、コロナ禍の3年間で失われた教会の交わりの回復と、《記憶の共同体》としての教会が再興されることだと、私は信じます。
教会の交わりの回復の第一歩として今日はこれから聖餐式を行います。今後の課題として、愛餐会、シメオン・ドルカス会、読書会や勉強会を取り戻すことを役員会で検討しています。
(2023年11月5日 昭島教会創立71周年記念礼拝)
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「信徒の成長」
フィリピの信徒への手紙1章1~11節
関口 康
「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」
今日は日本キリスト教団の定める「信徒伝道週間」の初日にあたり、お2人の教会員の証しを伺いました。ご準備くださったお2人に心から感謝申し上げます。
今日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章1節から11節までです。この手紙は使徒パウロが書いたものです。今日の箇所に記されているのは、パウロがフィリピの信徒のためにささげた祈りの言葉(9~11節)と、その祈りをささげた理由(3~8節)です。
パウロはフィリピの教会のみんなのことを思い出すたびに、神に感謝し、喜びをもって祈っていると言います(3~4節)。なぜなら、あなたがたが最初の日から今日まで福音にあずかっているからだと言います(5節)。
「最初の日」(5節)の意味は、パウロとフィリピ教会が最初に出会った日を指していません。その意味で受け取ると、私パウロと出会ったことで初めてあなたがたがイエス・キリストの福音を受け入れることができた、その日から今日に至るまで、ということにならざるをえませんので、まるでパウロの伝道者としての個人的な力量について書いているかのように読めてしまいます。
「福音」は宣べ伝えられた途端に伝道者の手を離れます。また、手を離さなければなりません。伝道者は「福音」そのものが持つ力を信頼し、「自分が宣べ伝えた、自分が教えた」という思いを捨て、教会の信徒を自分の支配から解放しなければなりません。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)の「その方」は、神です。福音宣教の主体は、神です。神はご自身が始めたことを最後まで成し遂げてくださり、完成してくださる方であるとパウロは言っています。パウロが始めたことをパウロが完成するわけではありません。
12節の「福音の前進」も、私パウロが福音を前進させた、という意味ではないし、あなたがたフィリピ教会に連なるみんなが福音を前進させた、という意味でもありません。福音それ自体が、自らの力で前進した、という意味です。福音そのものに躍動的な意志がある、ということです。
いま申し上げていることは、私が声を大にして言わなくても、比較的長いあいだ、教会生活、信仰生活を続けて来られた方々はよくご存じです。自分自身のことを振り返っても、家族や友人、教会の中で出会った方々のことを思い返しても、たとえば、教会が立てた伝道目標として、毎年何人を教会に招き、受洗者を何人生むかを決めて、その通りになったことがあったでしょうか。仮にあったとして、教会が計画通りに右肩上がりに教勢を拡大し、財政的にも潤い、社会的にも大きな影響を及ぼすようになっていく、というようなことが、どれほど続いたでしょうか。
もし続いていないのであれば、それはわたしたち人間の失敗でしょうか。「偉大でない」伝道者の力量不足が教会衰退の原因でしょうか。そのようなことを教会の中で言い争うこと自体が教会衰退の原因かもしれないと、手を胸に当てて考えてみることには、意味があるかもしれません。
パウロの祈りは9節以下です。注目すべき言葉は「あなたがたが清い者、とがめられるところのない者になるように」(9節)です。「清い者」と「とがめられるところのない者」はニュアンスが違います。前者は内面の状態を指し、後者は目に見える外面の状態を指します。「ひたむきに神を求めること」と「非の打ちどころのない生活を送ること」です。それが「知る力と見抜く力を身に着けて、愛がますます豊かになった」(9節)状態を指していることは明らかです。
これで分かることは、パウロは、イエス・キリストの福音は、信じて歩む人間の性質に内面的にも外面的にも変化をもたらすと信じているということです。信徒は福音と出会った最初の状態のままにとどまりません。人間としての性質が善きものへと変化し、成長します。それがパウロの信仰であり、代々の教会の教えです。「聖化」(sanctification)と言います。
このように言うと、教会の内からも外からも非難の声があがります。教会の外からは「それはキリスト者の傲慢である」とか「教会に通っている人より通っていない人のほうがはるかに誠実で高潔な生活を送っている」と。
教会の内からは、今日の箇所の「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて」の意味はあくまで「キリストの義」であって「人間の義」ではない。人間にはキリストの義が転嫁されるに過ぎず、人間はどこまでも罪人であり続ける、と。
教会の外からの非難については、私たち教会の反省材料として甘んじて受けるほかありません。しかし、教会の中の我々は、今日の箇所の「義の実」の意味を過小評価すべきではありません。たとえば、「日本基督教団信仰告白」(1954年制定)の「聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」は、今日の箇所が典拠です。
「実」(英語のフルーツ)は、キリストの義が人間へと転嫁された「結果」を指します。原因と結果を混同してはいけません。「結果」は、聖霊(「聖霊」は「神」です)によって「与えられる」ものですが、聖霊の働きにおいては、人間の意志と主体性が排除されないことが重要です。
「あふれるほどに受けて」は新共同訳(1987年)ですが、以前の口語訳(1954年)でも、最新の聖書協会共同訳(2018年)でも「満たされて」と訳されています。新共同訳のように「受けて」と訳すほうが人間の主体性を後退させて、神の主体性と恩恵の一方性を強調することができますが、それではパウロの意図に反します。「知る」のも「見抜く」のも、「愛する」のも、「清い者となる」のも「とがめられるところのない者」となるのも、すべて人間が主体だからです。
人間の意志も感情も主体性も奪われて、まるで夢にうなされているかのように「させられる」のではありません。わたしたちの身代わりにイエス・キリストが「知り」「見抜き」「愛し」「清い者となり」「とがめられるところのない者になってくださった」のであって、私たち人間自身には何の変化もないと、パウロは言っていませんし、考えてもいません。
「キリストの義」が転嫁された結果としての「実」(フルーツ)は、人間の側の主体的な行動の変化です。それもまた十分な意味で神の恵みです。人間が自分の努力で自分をつくりかえることはできません。神の導きと助けなしに自分の力で成長したと言い張るなら、傲慢のきわみです。またそれは事実ではありません。しかし、教会に何年、何十年と通っても、何の変化も無かったというのであれば、それはそれで寂しいことだと言わざるをえません。
「決してそうではない」ということを、今日証しをしてくださったお2人が教えてくださったと信じます。「この教会に通って良かった」とわたしたち自身が心から思えるような教会を、神の導きと助けのもとに、共に作り上げていくことを祈ろうではありませんか。
(2023年10月15日 聖日礼拝)
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「豊かさと貧しさ」
ルカによる福音書16章19~31節
関口 康
「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」
今日の聖書箇所に記されているのは、イエスさまのたとえ話です。登場する人物は3人です。
ひとりは「ある金持ち」です。名前は明かされません。西暦3世紀のエジプトの写本では名前が付けられていますが、後代の加筆です。名前がないことに意味があると考えるほうがよいです。名前があるとこの人物の言動が他人事になるからです。イエスさまの意図はむしろ、この金持ちは自分のことだと、自分に当てはめて受け取るように、聴衆(読者)に求めることにあります。
2人目には「ラザロ」という名があります。多くの方はヨハネによる福音書11章に登場するマルタとマリアの弟のラザロを思い出されるでしょう。しかし、今日の箇所のラザロは架空の人物です。とはいえ、大事な点があります。イエスさまのたとえ話の中で名前がある登場人物は、今日の箇所のラザロだけです。また、ラザロという名前は、ヘブライ語で「神が助ける」という意味の「エルアザール」をラテン語化したものです。この名前に大きな意味があると考えることができます。
3人目はアブラハムです。ユダヤ人の先祖です。しかし、アブラハムは血縁としてのユダヤ民族の父であるだけでなく、使徒パウロがローマの信徒への手紙4章で詳しく論じているとおり、キリスト者にとっての信仰の父でもあります。ただし、今日の箇所でアブラハムはやはりイエスさまのたとえ話の中に登場しているにすぎません。しかも、登場場面は死後の世界です。
「ある金持ち」は「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(19節)とあります。「紫の布」は上着で、「麻布」は下着。上下とも高価な衣服を身に着けていた、という意味です。「ぜいたくに遊び暮らす」は毎日宴会を開いていた、という意味です。
金持ちの門前に「ラザロ」が横たわっていました。「できものだらけ」と訳されているのは医学用語で「ただれ」という意味です。ラザロが金持ちの門前にいた理由は「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」(21節)からです。ただし、書いてある通りに理解すべきなのは、ラザロはその家の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと「思っていた」だけで、実際には、食卓から落ちる物すらもラザロの口に入るものはなかった、ということです。
しかも、当時の金持ちは、自分の(汚れた)手を拭くためにパンの切れ端を使い、使用後は食卓の下に投げ落としていたそうですので、「食卓から落ちる物」の中にそれが含まれている、と考えることができます(J. エレミアス)。「犬もやって来ては、そのできものをなめた」(21節)とあるのは、当時のユダヤ人にとって「犬」が不浄な動物と考えられていたことと関係あります。
ラザロの苦痛は肉体的にも精神的にも激しかったに違いありません。しかし、彼の口からの苦情については何も言及されていません。金持ちは自分の家の門前に横たわっている人がいることを知っていましたし、その名が「ラザロ」であることも知っていましたが、何も与えず、何もしませんでした。
そして、2人の人生が終わりました。ラザロは「神が助ける」という名前にふさわしく「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれ」ました(22節)。天国です。「アブラハムのすぐそば」(アブラハムの胸)はユダヤ人にとって最高の名誉ある場所です。そこは涼しいそうです。
「金持ちも死んで葬られ」ました(22節)。ラザロは「葬られた」と記されていませんので、葬儀はなかったかもしれません。金持ちのほうは葬儀が行われましたが、行き先は「陰府(よみ)」(ハデス)でした。いわゆる死後の世界です。ただし、このたとえ話において「陰府」は中間状態を指しています。最後の審判の判決が下る前の「未決」(pending)の状態の人々が置かれる場所です。
陰府の金持ちから、アブラハムのすぐそばのラザロの姿が見えたそうです。ただし、「はるかかなたに」(23節)とあるとおり、距離が遠い。それで「大声で」、金持ちがアブラハムに「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と(24節)と言う。
丁寧な言い方をしているようですが、ラザロに対してはもちろんアブラハムに対しても事実上命令しています。金持ちの習性かもしれません。彼が「ラザロ」の名前を知っているのは、ある意味で驚きです。ラザロが自分の家の前にいたのだから名前を知っていて当然かもしれませんが、生前のラザロに対して何もせず、見て見ぬふりしていました。自分が陰府の業火で苦しんでいるときだけ、ラザロの名前を呼び、しかも、自分に仕えさせようとする。そうするようにラザロに言ってほしいとアブラハムに依願するような言い方で、アブラハムに対しても事実上命令する。
この傲慢な金持ちに対するアブラハムの対応はとても冷静で公平でした。天において報いを受けるのはラザロであってあなたではないということを、この金持ちに明確に示しました。そもそもの前提として、この人が金持ちだったのは地上の人生においてだけで、死後は無一文です。死んだ後まで貧富の差は無いし、財産争いもありません。そういうのはすべて地上の事柄です。
金持ちとアブラハムの対話の中で特に大事な点は、金持ちが、自分が陰府(ハデス)の火で焼かれても仕方ないほどひどい仕打ちをラザロにしたことを認め、自分の救いは断念したうえで、まだ生きている5人の兄弟たちには「こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(28節)とアブラハムにお願いしたとき、アブラハムが「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(29節)と答えているところです。
「モーセと預言者」とは、わたしたちの呼び方では「旧約聖書」のことです。「モーセ五書」と呼ばれる創世記から申命記までが、ユダヤ教の聖書の第1部「律法」(トーラー)です。そしてユダヤ教の聖書の第2部が「預言者」(ネビイーム)、第3部が「諸書」(ケトゥビーム)です。ここで「モーセと預言者」はトーラーとネビイームを指しています。
「彼らに耳を傾けるがよい」(29節)とアブラハムが答えたと、イエスさまがおっしゃっている、という点を忘れないようにしましょう。これはイエスさま御自身の教えです。わたしたちは律法主義を避ける勢いで、律法を否定する危険があります。自分は贅沢三昧で、貧しい人を見下げ、愚弄し、無視するような人生を送らないために旧約聖書の律法が役に立つことをイエスさまが教えておられます。
イエスさまはマタイ福音書の「山上の説教」では「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5章3節)とおっしゃっていますが、ルカ福音書の「地上の説教」では「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6章20節)とおっしゃっています。後者は明らかに物質的な貧困を指しています。「貧しさ」自体は「悪いもの」と今日の箇所(ルカ16章25節)で呼ばれています。しかし貧しい人を「神が助ける」(エルアザール=ラザロ)と信じることができるのが、わたしたちの信仰です。
助けを求めている人を助けなかった人々が、自分の救いと報いを求めるのは、虫が良い話です。豊かな人々のためにもイエスさまは死んでくださいました。しかし、それを免罪符にして贅沢三昧を続け、貧しい人を見下げ、愚弄し、無視するのがキリスト教なのかと自問することが求められています。
(2023年10月1日 聖日礼拝)
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「十字架を背負う教会」
ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節
関口 康
「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」
先週は夏期休暇を取らせていただき、別の教会の礼拝に出席させていただきました。どの教会に行くか考えていたとき■さんのお怪我の話を伺い、にじのいえ信愛荘でも聖日礼拝が行われているので、ご出席なさってはと、おすすめをいただきました。
そうしようと思い、にじのいえ信愛荘に電話したところ、■先生ご夫妻は療養のため別のところにおられると教えていただきましたので断念し、別の教会に出席しました。
「のんびりできたか」とお尋ねがありましたが、あまり休めませんでした。文句を言っているわけではありません。私が行った教会の牧師もずいぶん疲れておられる様子で、私も同じだなと、いろいろ考えさせられる機会になりました。
今日開いていただいた聖書の箇所は、これも日本キリスト教団聖書日課に基づいて選びました。聖書日課には「十字架を背負う」とだけ書かれていましたが、私が「教会」という言葉を加えて「十字架を背負う教会」としました。
この箇所は使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙の結びの部分です。「パウロが書いた」と言ったばかりですが、11節の意味は、パウロ自身が自分の手で書いた部分は今日の箇所だけだということです。「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」というのは、この箇所より前の部分は別の人に書いてもらっていた、という意味です。
つまり口述筆記です。パウロが口で話すことを書記役の人に書いてもらっていました。しかし、手紙の最後の部分だけは自筆で書きます、しかも大きな字で書きますというのは、手紙ですから「声を大にして言う」ことはできませんが、これだけは分かってほしいと、パウロが強調したい内容を書いた部分であるという意味です。
パウロは何をそれほど強調したがっているのかといえば、ひと言でいえば、教会の中に分裂が起こっているが、それを食い止めなければならないということです。12節の「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」というのが、教会の分裂の原因です。この問題はガラテヤの信徒への手紙の始めから終わりまで一貫して取り上げられているものです。事件の経緯が比較的詳しく記されているのは2章ですので、ぜひお読みください。
そこに書かれていることを短く言えば、この手紙で「ケファ」と呼ばれている使徒ペトロまでがイエス・キリストの十字架の福音を信じて律法の束縛から全く解放されて自由になったはずのキリスト者にユダヤ教の割礼を受けさせようとする勢力に負けて妥協していることに、パウロが我慢できず、ペトロ本人に面と向かって抗議した、というのです。
教会の洗礼は「水」を用います。水はかけたら流れ落ちるだけで、からだに証拠は残りません。しかし、割礼はからだに傷をつけることですから、動かぬ証拠が残ります。旧約聖書に基づいているので権威が生じますし、いわゆる包茎手術と同じですので、相応の費用がかかったはずです。そういうことで優越感と主導権と実利を得ようとした人々がいました。
私の教会生活は生まれたときからなので、もうすぐ58年になります。24歳で伝道師になってからも33年目です。そのことで悩んだことまではありませんが、キリスト者であることについて、目に見える客観的な「証拠」や「しるし」を求める人々のニードに、何度となく接してきました。
揶揄したいわけではないので、具体例を挙げること自体に躊躇がありますが、何も言わないと分かりにくいので例を挙げます。たとえば、仏教や神道にあるような仏壇や神棚のようなものがキリスト教には無いのか、というようなニードです。あるいは、カトリック教会の人々が用いるロザリオやベールのようなものはあなたがた(日本キリスト教団はプロテスタントです)に無いのか、というようなニードです。「ありません」と答えると、とても残念がられました。
いま申し上げていることは、パウロが直面した問題と本質的に同じです。この手紙の5章6節に「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と記されていることの意味は、わたしたちキリスト者には第三者の目に見える客観的な「しるし」や動かぬ「証拠」となる割礼のようなものは何も無いし、要らないし、有害無益なのであって、外側からは決して見えない心の中の信仰だけが必要である、ということです。
なぜそういうものが何も無いし、要らないし、有害無益なのかといえば、そのような「しるし」を持っているかどうかで争いが始まり、教会を分裂させるからです。それを持っている人たちは持っていない人たちを見下げてもよいと思い込んで威張り、押し付けたり売りつけたりしようとするからです。西暦1世紀の生まれたばかりの赤ちゃんのようなヨチヨチ歩きの小さな教会の中で主導権争いが始まり、コップの中の嵐が起こり、教会が分裂して弱くなり、イエス・キリストの福音を宣べ伝える、教会本来の使命を果たすことができなくなるからです。
パウロは言います、「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(14節)。
この言葉は正確に理解される必要があります。特に後半の「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている」の意味は何かをよく考えることが大切です。
「はりつけにされる」の意味は、死ぬこと、または殺されることです。しかし、「この十字架によって」が「イエス・キリストの十字架」を指していることは明らかですので、イエス・キリストの十字架にわたしまではりつけにされるという意味ではありません。ここに書かれているとおり「世がわたしにはりつけにされている」のであり、「わたしが世にはりつけにされている」という意味です。その意味は、わたしと世とは「死んだ」関係であり、つまり「終わった」関係である、ということです。わたしが「世」のマナーやルールに従う理由はもはやない、ということです。
「世」とは現代の世俗社会(Secular society)よりも広い意味です。しかし、かなり近い意味です。教会の中にまで持ち込まれる「心の中の信仰」だけでは足りないとする、目に見える客観的な動かぬ「証拠」を見せつけてまで主導権争いをしようとする人の動きそのものが「世」です。
「イエス・キリストの十字架以外に誇るものがあってはならない」とは、そのような争いとは一切手を切って生きる者に自分はされた、というパウロの信仰告白です。
パウロだけでしょうか。わたしたち「教会」もそうでなければならないのではないでしょうか。私が今日の宣教題に「教会」と付け加えたのは、そのことを申し上げたかったからです。
(2023年9月10日 聖日礼拝)