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2010年12月20日月曜日

徹夜で仕事をしなければならない人を温めるために(女子聖学院中学校2010年度クリスマス礼拝)

ルカによる福音書2・8~14

関口 康

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」

クリスマスおめでとうございます。

先ほど朗読された聖書の個所は、聖書の中でもとても有名なところです。

皆さんはクリスマスの劇をしたことがあるのではないかと思います。その劇のための役を決めるときに必ず、羊飼い役の人が選ばれるはずです。そして、その羊飼いたちの前には必ず、たき火が置かれるはずです。イエスさまがお生まれになった日、羊飼いたちは「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(8節)と聖書に書かれているからです。

彼らは外にいました。屋根はありませんでした。そして、「夜通し」というのですから徹夜です。彼らは徹夜の仕事をしていたのです。しかも、その仕事は「羊の群れの番」でした。生き物相手です。羊の敵は狼でした。羊飼いたちは、羊たちに狼が襲いかからないように徹夜で見張りをしていたのです。

皆さんは徹夜の仕事をしたことがありますか。まだ中学生なので仕事はしていないかもしれません。しかし、お父さんやお母さんが徹夜で仕事をしているという方はおられるかもしれません。

私の妻は徹夜で仕事をしています。何の仕事なのかといえば、二つの施設のかけもちです。一つは、いわゆる24時間保育園です。私の妻は保育士です。もう一つは、児童養護施設です。そこでも保育士の仕事をしています。

どちらの仕事も夜の仕事です。「夜の仕事」と言うと誤解されるかもしれません。しかし、その施設に預けられる子どもたちの親の中には「夜の仕事」をしている人たちもいます。親が仕事をしている間、子どもたちが保育園に預けられます。夜遅くに預けられ、朝迎えに来る親もいるようです。

保育士たちには、「守秘義務」と言って、その仕事の中で知ったことを外部の人に話してはならないという決まりがありますので、妻は私に何も教えてくれませんし、私も何も聞きません。だから具体的なことは何も知りません。

私が知っているのは、徹夜の仕事を終えてぐったり疲れて帰ってくる妻の姿だけです。私にできるのは、本当に大変なんだなと、妻の体を心配することだけです。

しかし、私はもう一つのことを知っています。それは、「夜の仕事」をしてでもお金を稼がなければならない人々がこの日本の中に大勢いるということです。生まれたばかりの赤ちゃんを夜の保育園に預けてでも。

また、児童養護施設には親がいない子どもたちや、親から虐待を受けている子どもたちがいます。子どもたちは自分の力で生きていくことができませんので、誰かの助けが必要です。親が子どもを助けることは義務であり責任でもありますが、その義務と責任を負うことができない親たちがいることも事実です。

また、別の人のことですが、私の教会には水道局で働いている方がいます。この方も徹夜の仕事です。当たり前のことですが、夜も水道は使われるからです。みんなが飲む水の中に変なものが混ざらないように、また水道のポンプが止まらないように、誰かが見張りをしなければなりません。

障がい者施設で働いている方もおられます。徹夜で、体の不自由な人たちを助ける日もあるようです。自分で動くことができない方が、夜にトイレに行きたいときや病気になったときは、誰かが助けなければなりません。

今日の聖書のお話から遠ざかってしまったかもしれません。しかし、私が皆さんにお伝えしたいのは、皆さんが眠っている間にもいろんな人が一生懸命働いているということです。「そんなの知ってるよ」と思われるかもしれませんが、改めてそのことを考えてみていただきたいのです。

その仕事に共通しているのは、それは本当につらい仕事であり、人間の限界を感じる仕事であるということです。皆さんのお父さんやお母さんやご兄弟の中にそのようなつらい仕事をしている方がおられる場合は理解していただけるはずです。また、そのような方が家族の中にいなくても、皆さんの想像力を働かせていただけば、徹夜の仕事をしている人がどれほど大変なのかは、お分かりになるはずです。

先ほど読まれた聖書の箇所に記されているのは、イエスさまがお生まれになった日に起こった出来事です。そこにはっきり書かれているのは、イエスさまがお生まれになったという事実を神さまから最初に知らされた人々は、そのとき「徹夜の仕事」をしていたということです。

私は今日皆さんに、徹夜の仕事だから尊いとか、日中の仕事は尊くないとか、そういうことを言いたいわけではありません。どの仕事も尊いものです。しかし、強いていえば、どちらがつらいかといえば、やはり夜の仕事はつらいのです。つらくても、しなければならない仕事がある。そういう仕事を誰かがしなければならないとき、だれかが犠牲を払い、体を張ってその仕事に取り組まなければならないのです。

しかしまた、仕事ということには、もう一つの要素も必ずあります。それは自分の生活のためです。お金を稼ぐため、毎日ご飯を食べるため、家族を養うために、仕方なくつらい仕事をしなければならないのもわたしたちです。

つらいから仕事しないというのでは自分も家族も困ります。皆さんがこの学校に通うために誰がどのような苦労をしているかを、皆さんは知っておられるはずです。

羊飼いたちもそうだったということを考えてみてください。羊飼いが誰のために徹夜で働いていたかは分かりません。しかし、苦労している彼らのところに神さまが、うれしいお知らせをいちばん早く伝えてくださったのです。

「今日イエスさまがお生まれになりました。あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と。

死に物狂いで苦労している人たちを神さまが労ってくださったのです。寒い夜に外で仕事をしなければならない人たちを神さまが温めてくださったのです。

皆さんが将来、どんな仕事をなさるのかが楽しみです。一生楽をして暮らしたいと考えている方もおられるかもしれませんが、それは甘いです。苦労しましょう。

皆さんの人生が神さまの祝福のうちにありますよう、お祈りしています。

(2010年12月20日、女子聖学院中学校クリスマス礼拝)

身に覚えのない罪を疑われた人をかばうために(女子聖学院高等学校2010年度クリスマス礼拝)

マタイによる福音書1・18~25

関口 康

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」

クリスマスおめでとうございます。

私は今日、皆さんの前で初めてお話しします。男子の聖学院高校では今から約20年前に聖書の授業の教育実習をさせていただいたことがあります。たった一時間でしたが、一生懸命にお話ししましたところ、授業が終わったとき男の子たちが私に拍手をしてくれました。その時以来、聖学院という学校が大好きになりました。皆さんにお会いできたことを心から感謝しています。

今日はクリスマス礼拝です。クリスマスのお話をしなければなりません。初めてお会いする皆さんにどんな話をしようかと迷いましたが、とにかく皆さんと一緒に聖書を読んで、そこに書かれている一つの事実をお知らせしようと考えました。

先ほど読まれた聖書のみことばの最初に書かれていたことは「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」(18節)でした。ここにはイエス・キリストの誕生の次第が書かれています。「誕生」とはもちろん生まれることです。イエスさまがどのようにしてお生まれになったのかが書かれているのです。

その最初に書かれていることは、とても衝撃的な事実です。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。イエスさまのお母さんであるマリアはヨセフという男性と結婚する約束をしていたのに、まだ結婚する前に、お腹の中に赤ちゃんがいることが分かったと書かれているのです。

当時のマリアさんは、たぶん皆さんと同じくらいの年齢でした。10代の後半だったと考えられます。今の皆さんが、お腹の中に赤ちゃんがいるということになりますと、それは一つの事件とみなされるに違いありませんが、当時のユダヤの社会の中では特別なことではありませんでした。ただし、それが結婚する前のことであったということになりますと、話は全く別です。当時のユダヤの社会の中で、それはとんでもない罪でした。死刑に値するとみなされました。

しかしマリアさんは、どうしていま自分のお腹の中に赤ちゃんがいるのかについて、その原因というか理由をはっきりと知っていました。少なくとも、ヨセフさんとの関係の中で与えられた子どもではないということを知っていました。また、ヨセフさん以外の男性と関係したためにそうなったわけではないということを知っていました。

先ほど私はマリアさんは皆さんと同世代だったと言いました。なぜそのことを強調するのかといいますと、当時のマリアさんと同世代の皆さんには、このときのマリアさんの気持ちが分かるのではないかと思うからです。初めてお会いする皆さんの前で変な話をしたいのではありません。しかし、どうしていま自分のお腹の中に赤ちゃんがいるのかについて原因も理由も分からないという方はここにはおられないはずです。10代の後半は、それだけの責任をとることができる年齢であると申し上げたいのです。

ですから、マリアさんは、声を大にして言いたかったはずです。「私は罪を犯していません!誰から責められなければならないようなこともしていません!」と。それでも周りの人たちは、彼女は何か隠しているとか、ありえないことを言い張っているだけだと白い目で見たはずです。その証拠に、結婚の約束をしていた最も信頼していた彼氏が彼女を疑ったのです。ヨセフさんは彼女を信頼できなくなり、誰にも知られないうちに別れようと決心したというのです。

こういうときに皆さんならどうしますかとお尋ねしてみたい気持ちが私にはありますが、いま手を挙げて答えてくださいとは言いません。それぞれ自分で考えてみてほしいです。

自分には身に覚えのない罪を最も信頼している人から疑われたときにどうしますか。一生懸命その相手に説明しますか。説明して分かってもらえますか。分かってくれる相手であれば説明することには意味があります。しかし、本当に分かってくれますか。もしいくら説明しても分かってくれなかった場合はどうしますか。説明は時として泥沼にはまることがあります。説明すればするほど、見苦しいとか言い訳がましいとか見られて、ますます窮地に追い込まれることがあります。

私が思うこと、それは、もし皆さんが自分の身に覚えのない罪を疑われた場合は、誰が何と言おうと堂々としておられたらよいということです。良い意味で自分自身を信じていただきたいです。そして少し話は飛躍しますが、そのようなときにこそ、神さまを信じていただきたいです。

神さまはそういう人を決して見殺しにはしません。罪のない人を罪に定めることを、人はするかもしれませんが、神さまはしません。神さまはヨセフさんの夢の中で「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20節)と声を大にして主張してくださいました。神さまがマリアさんをかばってくださったのです。そのことをヨセフさんは信じました。二人の信頼関係は回復されて、無事にイエスさまがお生まれになりました。

高校生の皆さんは、将来何の仕事をするのかを悩んでおられると思います。もしまだ決まっていない方に考えていただきたいことは、身に覚えのない罪を疑われている人たちを助ける仕事を探していただきたいということです。

わたしたち人間は、誰からも信頼してもらえないと感じるときに絶望します。絶望している人を助ける仕事、生きるのをやめてしまおうとしている人に生きる希望を与える仕事、それは本当に尊いものです。それは、神さまがマリアさんにしてくださったのと同じことをすることです。マリアさんの命とイエスさまの命は、神さまが助けてくださったのです。

皆さんの将来が神さまの祝福のうちにありますよう、お祈りしています。

(2010年12月20日、女子聖学院高等学校クリスマス礼拝)