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2025年5月11日日曜日

聖書と生活

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教 「聖書と生活」

テモテへの手紙二4章1~8節

関口 康

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(2節)

「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」(日本基督教団信仰告白)

「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」の2回目です。私は1冊の本を書こうとしているわけではありません。教会ブログで公開しているのは説教原稿です。実際の礼拝では、もっと多くのことをお話ししています。礼拝に来てくださっている方々にご理解いただけば、目標達成です。ご意見があればぜひご来会ください。お待ちしております。

前回から「聖書とは何か」についてお話ししています。ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])の文章を参考にしつつ、聖書が「ユダヤ人によって書かれた書物」であることが「外部の真理」であることを意味し、聖書の教えを受け入れることが過去の歩みとは異なる方向への「転換」をもたらし、「回心」をもたらすということをお話ししました。

今日は前回の続きです。今日取り上げるのは「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」という条文です。聖書の霊感(れいかん)の教理と言います。

証拠聖句はテモテへの手紙二3章16節「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」です。「霊感」と聞くと「霊感商法」を連想する人が多い時代になりました。しかし「霊感」とはインスパイア(inspire)のことです。名詞形はインスピレーション(inspiration)です。ごく普通の文脈で用いられています。

聖書が「神の霊感によって成った」とは「神の霊」すなわち「聖霊」の導きの下に100パーセント人間によって書かれたことを意味します。それ以外の意味はありません。

「神の霊は、神ご自身ではない」と考えられることもありますが、それは誤解です。神の中から噴き出した気体(?)や、流れ出た液体(?)のようなものを想像するのは間違いです。

次回は三位一体の神について学びます。「神の霊」は「父、子、聖霊なる三位一体の神」としての「聖霊」ですので、端的に「神」(God)です。聖書の霊感の教理も、「聖書は〝聖霊なる神〟の導きによって(人間によって)書かれた」と言っているだけです。

ですから、この教えは決して難しい話ではありません。むしろ、すっきりした気持ちになれるほど、聖書は100パーセント人間によって書かれた書物であると、何の躊躇もなく説明することができます。そこに魔術の要素はありません。

「その説明で大丈夫ですか。我々が今まで教えられてきたことと違うのですが」とお思いの方がおられるでしょうか。「聖書は神さまが書いたものであって、人間が書いたものではない」でしょうか。この「聖書は人間によって書かれたものではない」という考え方は、私は最も危険だと考えています。

ある朝、マタイは目を覚ましました。すると、机の上にイエス・キリストの生涯を描く福音書が置いてありました。パウロも目を覚ましたら、同じように、いろんな教会や個人に宛てた手紙が机の上に置いてありました。しかし、彼らにはそれを書いた記憶がありません。彼らが寝ている間に、意識を失っている間に、聖書のすべてが書かれましたというようなことは起こりませんでした。それはオカルトの世界です。

聖霊なる神は、人間の中で、人間と共に、人間を活かし用いて、働いてくださいます。人間の理性も感情も判断力も、人間の真・善・美も、活かされたままです。聖霊はわたしたちの身代わりに死んでくださることはないし、私たちの身代わりに聖書を書いてくださったりもしません。聖霊が働いてくださっている間、人間は眠っているわけではないし、気絶しているわけでもないし、サボっているわけでもないのです。その点を間違うと、全キリスト教がオカルト化します。

そういうことではなく、聖書の霊感の教理は、(三位一体の)聖霊なる神ご自身が私たち人間に接触し、私たち人間へと影響・感化を及ぼし、浸透し(沁みていき)、私たち人間に感銘・感動を与えてくださる過程を経て「インスパイア」された人間が聖書を記した、と言っています。

しかし、そこでストップです。神は聖書の著者の人間性も歴史性も排除しません。そこでもし人間性の排除が起こるなら、それを「洗脳」というのです。私たちが聖書を読むときに、当時の歴史について調べたり考えたりする必要があるのは、聖書は100パーセント人間が書いた書物だからです。

日本基督教団信仰告白が聖書について書いている「誤りなき規範」の「誤りなき」の意味は、「無謬性」(インフォーリビリティ:Infallibility)のことだと考えるのが妥当です。「無謬性」は「無誤性」(インエランシー:inerrancy)との比較で考えるのが理解しやすいです。

インフォーリビリティ(無謬であること)は「フォール(堕落)していない」という意味です。インエランシーは「エラー(誤記)がない」という意味です。日本基督教団信仰告白が肯定しているのは前者(「聖書は堕落していない」)のほうであって、後者(「聖書は誤記がない」)のほうではありません。

聖書に「誤記」はあります。しかし、「堕落していない」とは「神のみこころにかなっている」ということです。その意味は、聖書に記された言葉を読んで、その教えを信じたとしても、その教えに基づいて生活したとしても、それによって罪を犯すことにはならないので大丈夫です、ということです。

だからこそ、聖書は「信仰と生活の誤りなき規準」なのです。

(2025年5月11日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年5月4日日曜日

聖書と教会

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「聖書と教会」

テモテへの手紙二3章10~17節

関口 康

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(16節)

「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」(日本基督教団信仰告白)

今日から「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」を始めます。全10回の予定です。

私は昨年3月より足立梅田教会にいます。これまでは基本的に「教会暦説教」をしてきました。聖書箇所も日本基督教団聖書日課『日毎の糧』から選んできました。

「教会暦説教」には長所と短所があります。長所はクリスマス、イースター、ペンテコステなどの行事に合わせた説教ができることです。短所は毎年同じ話になりがちなことです。出口がない円をぐるぐる回っている感じです。

「教理説教」には出口があります。聖書の教えを歴史的な順序で説明しますので、「初め」も「終わり」もあるからです。ただし、それは現代的な意味の「歴史」とは異なります。私たちの場合は「天地創造」(創造論)から「神の国の完成」(終末論)までを描く「神のみわざの歴史」です。

「抽象論だ」「おとぎ話だ」と日本に限らず世界中で嘲笑を受けて来ました。このことについては実際の説教を聞いていただかないかぎり理解してもらえませんので、これ以上は言いません。

日本基督教団信仰告白が「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は」から始まり、「聖書とは何か」という問いに答えることから出発しているのは、わたしたちがかくかくしかじかのことを信じると言っているのは、そのように聖書に書かれているからであると述べようとしています。

「あなたたちは聖書に書かれていることを全部信じるというのか。たくさん間違いがあることは学問的に証明されている」と言われます。おっしゃるとおりと思いますが、問題は何をもって「間違い」と言うかです。現代の科学技術を駆使した歴史学や考古学の観点から矛盾や間違いを指摘されるのはありがたいことです。だからといって信じることをやめるかどうかはダイレクトに結びつきません。

日本基督教団信仰告白の「旧新約聖書は(中略)教会の拠るべき唯一の正典なり」の「正典」は、一般的に言えば「経典」ですが、わざわざ「正典」と呼ぶのはCanonという決まった用語の翻訳だからです。Canonは「はかり、物差し、規準」などの意味です。

したがって、この条文の意味は、日本基督教団は「聖書というはかり」に収まる範囲のキリスト教信仰を共有しているということです。この「はかり」を超えて主張されることになれば、異端または別の宗教であると判定せざるをえないということです。

20世紀オランダのプロテスタント神学者ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が聖書について述べた複数の文章が『ファン・ルーラー著作集』第2巻(原著オランダ語版、2008年)に収録されていることが分かりました。「聖書の権威と信仰の確かさ」(1935年)、「信仰の土台としての聖書」(1941年頃)、「聖書の権威と教会」(1968年)、「聖書の扱い方」(1970年)など。

これらのファン・ルーラーの文章すべてに一貫していたのが「私たちは聖書に書かれていることだから信じている」という主張の線です。また「聖書の権威」と「信仰の確かさ」は両方あって初めて成り立つ、ということも繰り返し主張されていました。

たとえば、創世記3章にエバと蛇が会話する場面が出てきます。民数記22章にはバラムがロバと会話する場面が出てきます。こういう箇所を読んで「蛇やロバが人間と会話できるはずがない。聖書に書かれていることはウソばかりだ」と言い出すのは聖書の本質が分かっていないからだとファン・ルーラーは言います。「聖書」には、歴史、文学、書簡、詩歌など、さまざまな文学形式で記されている文書が収められています。

また、ファン・ルーラーが書いていることの中でこのたび私が最も感銘を受けたのは、〝聖書がユダヤ人によって書かれたものであることは、私たちゲルマン人にとって、自分たちの内側には真理が無かったことを意味する〟と彼が主張しているくだりです。

以下、ファン・ルーラーの説明を要約してご紹介いたします。

本など他にもたくさんあるのに、聖書を「本の中の本」と呼ぶのはなぜだろう。古い本を読んで我々ゲルマン人の魂の本質を知りたいだけなら、ヴァイキング時代を描いた北欧神話『エッダ』に手を伸ばすほうがよいのではないかと思うのに、そうしないで聖書を読もうとすることに、我々はもっと違和感を抱くべきであるとファン・ルーラーは言います。あまりに慣れすぎて我々はその違和感を認識できないのだ、と。

我々ゲルマン人が「外部からもたらされた救い」によって「改宗」したのは「クローヴィス」の頃だと書いています。それはフランク国王クローヴィス1世(西暦466~511年)が、妻のひとりがキリスト者だったことで自分自身も西暦496年にキリスト教に改宗したことを指しています。

その「クローヴィスの改宗」こそ、ゲルマン人にとっての「転換」であり、最も深い自己意識と決別したことを意味する。それは「いまだに完全には癒えていない我々の魂の傷」であり、だからこそ「国家社会主義〔ナチス〕はその転換を覆そうとしたし、現代の西洋社会はその転換を超克したいと望んでいる」とファン・ルーラーが書いています(「聖書の扱い方」1970年参照)。

ファン・ルーラーの文章を読んで私が考えさせられたのは、1549年フランシスコ・ザビエル来日から476年、ベッテルハイム宣教師の沖縄伝道開始1846年から179年、ヘボン、ブラウン両宣教師の横浜到着1859年から166年を経ても日本の大半の人々に「転換」が起こらないのは、「外部の真理」によって転換させられることを恐れているからだ、ということです。

今申し上げたことは、日本基督教団信仰告白に明記されていません。しかし「聖書」は「日本にとっての外部の真理」であるという点が勘案されるべきです。そのことが認識されないかぎり「改宗」が起こることはありません。私の父も母も戦後に洗礼を受けてキリスト者になりました。1945年の敗戦という事実を突きつけられて「我々の内側には真理は無かった」と思い知らされたからだと思います。

「外部から持ち込まれた真理」によって、まず自分自身が変えられ、それを広く宣べ伝えるのが「教会」ですから、「身内で固まりたい人たち」や「民族主義的な人たち」からは嫌われます。違和感を示されることが多いです。

だからこそ逆に、教会は「身内で固まりたい人たち」や「民族主義的な人たち」から排除された人たちにとっての「避けどころ」(シェルター)や「出口」になり、そこに新しい共同体が生まれます。「日本人」という概念の今日的な意味は、少なくとも私には明確には分かりません。

「キリスト教は敵国の宗教だ」と言われた時期が長かったと思います。しかし、キリスト教の起源は、アメリカでもヨーロッパでもなく、アジアです。

オランダ人のファン・ルーラーが1970年の時点で「聖書」は「外部の真理」だと言っているのですから、私が申していることも「今この瞬間に日本列島に在住している私たち」にとってだけ「外部」だという意味ではありません。実はユダヤ人にとっても「外部」でした。究極的には神ご自身が人間にとっての「外部」です。「改宗」のために「外部の真理」が必要なのです。

(2025年5月4日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2015年7月12日日曜日

御言葉を宣べ伝えなさい

東関東中会講壇交換で船橋高根教会で説教させていただきました
テモテへの手紙二1・1~5

「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」

今日は東関東中会の講壇交換でお邪魔しています。松戸小金原教会の関口です。船橋高根教会の礼拝で説教させていただくのは初めてです。松戸に来て12年目。東関東中会ができて9年目。12年で12教会を回りました。最後が船橋高根教会です。やっと辿り着きました。今日はよろしくお願いいたします。

先ほど司式者に朗読していただきました聖書の個所に記されているのは、わたしたちに対する神の命令です。他人ごとではありません。それは「御言葉を宣べ伝えなさい」(2節)ということです。ただし、「御言葉」の「御」は日本語的な丁寧語です。原文に「御」という字が付いているわけではありません。

原文には単純に「言葉」(ロゴス)と書かれているだけです。つまり「言葉を宣べ伝えなさい」です。しかし、「宣べ伝える」というのも日常的に使うことはほとんどない教会独特の言葉づかいです。原文で使われている言葉に最も近い日本語は「知らせる」です。あるいは「告知する」というようなことです。

説教を行う場所の問題は、ここでは取り上げられていません。しかし最も考えられるのは、日曜日ごとに教会に集まって行われる礼拝の中です。礼拝の中で聖書に基づいて説教を行うことが「御言葉を宣べ伝えること」です。それだけに限定することはできませんが、かなり多くの部分を占めていると言えます。

その礼拝の中で行う説教を指して「御言葉を宣べ伝えること」という表現で言われるようになったものと思われます。日本語的な丁寧語などを取り除いて言い直せば「言葉を知らせること」です。もっと雑な言い方をすれば「しゃべること」。口を開いて言葉を発することです。黙っていないことでもあります。

それを「折が良くても悪くても励みなさい」(2節)とパウロがテモテに命じています。それは同時にわたしたちに対する神の命令です。「折が良くても悪くても」というのは、原文をそのまま日本語に置き換えただけです。しかし、これが何を意味するのかを理解するのはとても難しいことのように思えます。

なんとなく分かるのは、ここに書かれていることの趣旨は、「折が良いときは御言葉を宣べ伝えることに積極的だが、折が悪いときは御言葉を宣べ伝えることに消極的であるような態度」を戒めることに違いないだろうということです。しかし、その場合の「折」とは何でしょうか。これの特定が難しいのです。

それと、先ほど申し上げたとおり、「御言葉を宣べ伝えること」は、日曜日ごとに教会に集まって行われる礼拝の説教を指している可能性が高いです。限定はできませんが。しかし、もしそうだとすると「折」とは何でしょうか。「説教しやすい日曜日」と「説教しにくい日曜日」があるということでしょうか。

そのような意味で書かれている可能性は十分あります。しかし、「説教しやすい日曜日」とは何でしょうか。「説教しにくい日曜日」とは何でしょうか。それは説教者の気分や体調の話でしょうか。良い気分で、良い体調なら、良い説教ができる。しかし、気分がすぐれなかろうと、体調が悪かろうと説教しろ。

「折が良くても悪くても励みなさい」とは、そういう意味でしょうか。面白い解釈ではあると思いますが、それだけではないような気がします。それでは、説教を聴く側の人たちの気分や体調の話でしょうか。今日はごきげんが悪い人たちが大勢集まっている。体調がすぐれず、体を引きずってきた人ばかりだ。

そういう人たちが大勢集まっている日曜日は「説教しにくい日曜日」だ。その日は「折が悪い」。皆うなだれ、苦虫を噛みつぶした顔で我慢して座っている。そのような人々の前でも、お構いなしに説教しろ。それが「折が良くても悪くても励みなさい」という意味であると、そのように考えてよいでしょうか。

それも一案ではあると思いますが、そのようなことだけではないような気がします。もう少し広い意味ではないでしょうか。先週は「説教しやすい日曜日」だったが、今週は「説教しにくい日曜日」である。そういうことはありうると思いますが、まるで気分次第です。風に吹き回されている枯れ葉のようです。

そういうことよりも「折」とはもう少し広い意味の「時代」を指していると考えるほうがよいかもしれません。聖書に基づく説教を積極的に受け容れる気運が高まっている時代があるが、そうでない時代もある。しかし、逆風が吹いている時代であっても、説教をやめてはならない。これなら納得できそうです。

しかし気になることがあります。先ほどから私は、この個所に書かれている「御言葉を宣べ伝えること」は、日曜日ごとに教会で行われる礼拝の中での説教を指していると、やや限定的なことを申し上げています。それ以外の可能性を否定する意図はありません。日曜日以外にも説教することは可能だからです。

しかし、そうなりますとものすごく気になることがあります。日曜日の礼拝に集まる人々の中にも説教を受け容れない人々が含まれている可能性があるというような考え方をしなければならないのかということです。日曜日の礼拝に集まる方の中には、求道者や新来者もおられます。しかし、多くは教会員です。

そうなりますと、ここに書かれている「折が悪くても(御言葉を宣べ伝えることに)励みなさい」の意味は、教会の中に説教に対して否定的な人が混ざっている可能性があること、その人々から吹いて来る逆風を感じたとしても説教しろ、というようなことを意味していると考えなくてはならないのでしょうか。

実はそのとおりです。明らかにそのような意味で書かれています。「とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(2節)と書かれていることの趣旨も同じです。教会の中に聖書とその説教に反対する人々がいる。そのような人々をとがめなさい、戒めなさい、励ましなさいということです。

続きにとても厳しい言葉が記されています。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(3-4節)。この「時」と「折」が同じ言葉(カイロス)です。

「だれも健全な教えを聞こうとしない時」の「だれも」は、明らかに、教会の人々です。「人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師を寄せ集め」の「人々」も教会です。「真理から耳を背け、作り話の方にそれて行く」のも教会です。教会がこのようになってしまう時が来ると言われています。

しかし、このように言われると私は反発したくなります。「なんてことを言うのか、ひどすぎる。苦労して教会に来ても文句しか言われない。わたしたちのうちのだれが健全な教えを聞こうとしていないのか。誰なのか名前を挙げてはっきり言ってください。当てこすりはやめてください」と言いたくなります。

しかし、そのような反発を感じてしまうことこそが、わたしたちに仕掛けられた罠かもしれません。教会もまた、聖書の真理から離れていく誘惑の中にある。そのことをわたしたちは率直に認めましょう。この個所には教会にとって愉快でない言葉が書かれています。しかし、良薬はしばしば口に苦いものです。

しかし、明るい話もしておきます。わたしたちは、自分にとって都合の悪い話を素直に受け容れることができるほど寛容ではないし、忍耐強くもない、弱さをもった人間です。面白い話、楽しい話のほうがありがたいに決まっています。耳障りの悪い話を聞き続けると心身が壊れます。それも否定できません。

説教は拷問ではありません。教会は牢獄ではありません。教会に行くたびに嫌なことばかり言われ、不断に批判的なことばかり聞き続ければ、神経が破壊されてしまいます。そのあたりの配慮は必要です。大切なことは健全な教えを聞くことです。真理を聞くことです。その点がクリアされていればいいのです。

東関東中会はどうだろうかと考えさせられました。「自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め」られた結果の東関東中会でしょうか。そのようであってはいけないと、東関東中会の教師たちは考えています。健全な教えを語ること、真理を語ることに熱心な教師たちが集まっています。

しかし、説教は教師だけで成り立つ働きではありません。「御言葉を宣べ伝えなさい」という命令は、教師だけではなく、教会全体に与えられた命令として受けとめるべきです。説教は、それを聴く人がいなければ、独り言です。言葉はコミュニケーションにおいて成り立つものです。一方通行ではありません。

「しかし、あなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」(5節)。これも教師だけの話にしてしまってはなりません。教師だけが身を慎み、教師だけが苦しみを耐え忍び、教師だけが福音宣教者の仕事に励むのでしょうか。それは不健全です。

しかし、ここから先は役割分担です。苦労を押し付けあっても意味がありません。互いに協力しましょう。教師と教会が一致協力して御言葉を宣べ伝えましょう。私はまた12年後に船橋高根教会で説教させていただきます。そのときにまたお会いしましょう。その日までどうかお元気でお過ごしくださいませ。

(2015年7月12日、船橋高根教会主日礼拝、東関東中会講壇交換)

2014年10月26日日曜日

御言葉を宣べ伝えなさい



テモテへの手紙二4・1~5

「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」

「御言葉を宣べ伝えなさい」(2節)と書かれています。そのことについてこれからお話ししようとしている私がどうしても触れなければならないことがあります。それは、先々週の10月14日(火)から16日(木)まで大阪で行われた、日本キリスト改革派教会第69回定期大会のことです。

歴史的な大会になりました。過去30年にわたって大会的に議論してきた女性教師と女性長老の任職に道を開く教会規程改正案を可決しました。施行は来年10月です。しかし、今やわたしたちの前に、このことについて障害となる要素は全くありません。

これから日本キリスト改革派教会は大きく変わります。これまでは小会にも中会にも大会にも男性しかいませんでした。これからは女性がいます。女性教師がすぐに増えることはないかもしれませんが、女性長老はあっという間に増えるでしょう。

教会の中で教師と長老が最も責任を持つのは、御言葉に関することです。現在は、教師がするのが「説教」であり、長老がするのは「奨励」であるという用語上の区別はあります。しかし、その一方で「信徒説教者」という制度も、今の日本キリスト改革派教会にあります。「信徒説教者」は教師ではなく信徒です。そのため「教師がするのが説教である」という説明が、すでに成り立っていません。

教師になるためには、神学校の入学試験とか定期試験とか卒業試験とか卒業論文、あるいは、説教免許試験とか教師候補者登録とか教師試験とか、さまざまな難関を乗り越える必要がありますので、教師の説教を特別扱いしていただけることに有難い面はあります。しかし私は、教師の説教と長老の奨励の間に大きな差はないと考えています。「御言葉を宣べ伝える」という点では全く同じものです。

教会の中で御言葉に関する責任を負う教師と長老の職務に就く人の中に、これまでの日本キリスト改革派教会においては、一人の女性もいませんでした。すべて男性でした。しかし、これからは違います。女性が御言葉を語ります。語らなければなりません。

語ることはもちろんできます。できないはずがないではありませんか。男性と女性の間に、御言葉を語ることにおいてどこにどんな差があるのでしょうか。

日曜学校の礼拝のお話は女性たちがずっとしてきました。しかし、大人たちの礼拝の説教を女性がすることはありませんでした。しかし、子ども相手ならば良いが、大人相手ならば良くないと、差をつけることの意味が、私には全く分かりませんでした。

私自身は、日本キリスト改革派教会の中でこの議論が始まった30年前にはまだ日本基督教団の教会におりましたし、日本基督教団では私の妻は教師でしたし、わたしたちが日本キリスト改革派教会に教師加入したのはわずか17年前のことです。30年前の状況、あるいはもっと前の状況を知りません。

ですから私はこの問題についての大会の議論から距離を置き、議論に参加しないようにしてきました。私にとっては、女性教師と女性長老のことは、全く議論の余地のない、何の疑問もない、シンプルに賛成の立場でしたので、そのような感覚をもって日本キリスト改革派教会の歴史を知らない私が議論に参加すること自体が失礼なことであると考えてきました。この議論そのものがばかげたものである気がしてなりませんでしたので、議論に参加する資格がないと考えてきました。

堂々巡りの反対意見を述べる人々の姿は、私にとっては見るに堪えないものでした。思い出したくもないことですが、実際の議論の中で、女性はすぐ泣くとか、すぐ感情的になるというような意見が出てきたこともあります。この議論が早く終わることを願っていました。女性教師と女性長老に道を開く決議を早くすべきである。そしてこの耐えがたい議論を早くやめるべきであると考えてきました。

先々週、その議論がやっと終わりました。まだいろいろ言いたい人がいるかもしれませんが、大勢は決しました。これ以降の議論は無意味です。これからは、女性たちが教会の中の御言葉を扱う責任を持つ職務に就くことができます。

これからの日本キリスト改革派教会においては、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(4・2)というパウロの言葉は、男性たちだけではなく、女性たちにも命じられます。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じる」パウロの言葉は、これからは男性だけに語られるものではありません。

教師と長老の職務は、もちろんいろんな面で重い責任を負いますが、充実感とやりがいのある仕事でもあります。

パウロが書いているのは「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を傾け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」(3~5節)ということです。

これは、教えや信仰の内容において教会が間違った方向に進んでいこうとしているときに、それを食い止める働きです。しかし、それを行う方法は感情的なものではありません。あくまでも理性的に、落ち着いて、御言葉の真理を正しく解き明かすという方法で行うのです。それが女性たちにできないはずがありません。

この件に関する先々週の大会の議論で改めて驚かされたのは、大会の議場がきわめて静粛であったことです。誰一人感情的にならず、理性的に、冷静に粛々と議論がなされ、静かに決議されました。この冷静さに接して、私は改めて、日本キリスト改革派教会の大会に対する尊敬の念を深めました。

しかし、すべての議論は終わりました。聞くに堪えない意見が議場で語られることはもはやないと信じたいです。これからは、「御言葉を宣べ伝えること」に男性も女性もありません。「とがめ、戒め、励ますこと」に、「忍耐強く十分に教えること」に、男性も女性もありません。その差別はありません。大会が新しい時代を迎えたのですから、各個教会も新しい時代を迎えましょう。

これからは、女性が教師や長老にならなくてもよい、その職務の責任から逃げる理由として聖書や教会規程を持ち出すことはできません。その意味では女性たちの責任が重くなったと言えるでしょう。

女性「も」と言ってはいけません。この言い方がすでにアウトです。ぜひ女性「が」日本キリスト改革派教会の教師になってください。長老になってください。私はそのことを心から願っております。

(2014年10月26日、松戸小金原教会主日夕拝)

2014年9月28日日曜日

聖書から離れてはなりません



テモテへの手紙二3・10~17

「しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」

「聖書から離れてはなりません」という説教のタイトルは私が便宜的に付けたものです。パウロが書いていることとは違います。パウロは「聖書から」ではなく「自分が学んで確信したことから」(14節)離れてはなりませんと書いています。

しかし、その先には「あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです」(14~15節)とありますので、「自分が学んで確信したこと」(14節)と「聖書」(15節)とがほとんど同じことを意味していることは明らかです。

しかし、厳密にいえば全くイコールで結んでしまわないほうがよいだろうと、私は考えています。とくに注目すべき点は「自分が学んで確信したこと」の中の「自分の確信」という側面です。パウロが書いていることは、言い方を換えれば「自分の確信に忠実であれ」ということです。ある意味での自意識の強さが表現されているとさえ読むことができます。

たとえ結果的にほとんど同じ結論になるとしても、パウロが書いている言葉そのものは、あくまでも「自分の確信」から離れてはならないということであって、「聖書」から離れてはならないということではありません。そういうことを厳密にとらえる必要があると私は思います。

なぜこのようなことを厳密にとらえる必要があるのでしょうか。それは聖書の本質にかかわる問題です。聖書は、我々人間によって学ばれねばならず、確信されねばならないものだということです。聖書は礼拝堂の講壇や祭壇の上に飾っておくものではありません。金箔付きの講壇聖書に向かって深々とお辞儀をしても何の意味もありません。自分の家のどこかに飾っておくものでもありません。

そういうものではないという意味で、聖書はただの本です。開かないまま、閉じたままでは全く意味をなしません。この本は徹底的に読まれ、学ばれ、自分の個人的な確信になる必要があります。そうでなければ聖書の存在意義はありません。

ですからこの説教のタイトルの「聖書から離れてはなりません」は、肌身離さずいつでもどこでも聖書というこの本を持ち歩きなさい、というような意味ではありません。そうすることが悪いわけではありませんが、持っているだけ、携帯しているだけでは意味がありません。読まれる必要があり、学ばれる必要があります。そして、わたしたち一人一人の個人的な確信にまでなる必要があります。それが「聖書」です。

パウロが「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」と書いていることには理由があります。「悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていく」(13節)からです。ずいぶんと辛らつな言葉ですが、パウロが非難しているこの「悪人や詐欺師」とは誰のことでしょうか。考えられる可能性は二つです。一つは文字通りの一般的な意味での悪人や詐欺師のことです。しかし、もう一つは教会の中の悪人や詐欺師です。可能性が高いのは二つめのほうです。

次の段落にパウロが次のように書いています。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を傾け、作り話の方にそれて行くようになります」(4・3~4節)。

これは明らかに教会内部の話です。不健全な教えを宣べ伝える教師がいるという話です。またそれだけではなく、そのような不健全な教師を好き勝手に寄せ集める教会があるという話でもあります。こうなると教会は混乱状態です。教会を混乱に陥れている人たちを指して「悪人や詐欺師」と呼んでいる可能性は高いです。

このようなことをパウロが書く意図は、そういう「悪人や詐欺師」が教会の中にもいる、いや教会の中にこそいるということをテモテに伝えることです。しかし、そのような中でこそ、あなたは自分が学んで確信したことから離れてはならない、と励ましの言葉を書いているのです。

「あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです」(14~15節)。

ここでパウロが「学ぶこと」と「親しむこと」を区別しているように読める点は、とても重要なことだと思いました。前者は、テモテは聖書をだれかからきちんと学んでいるということです。後者は、テモテは幼い日から聖書に親しんできたということです。同じことのようでもありますが、区別するほうがよいと思います。

「聖書を学ぶこと」に関しては、今では大学の学問としての聖書学という独立した専門分野が確立しています。そこまで行かなくても、教会や個人で自覚的に勉強を勉強することはできます。しかし、その意味での聖書の研究とか勉強のようなことを、子どものうちからする必要はありません。

しかし「聖書に親しむこと」については、なるべく小さい頃から始めるべきです。早すぎるということはありません。神さまの素晴らしさ、世界が作られたこと、わたしたち人間が罪を持っていること、その罪から人を救うためにイエスさまが来てくださったこと。これらのことは、子どもたちでも十分理解できます。

パウロは両方書いています。「聖書を学ぶこと」と「聖書に親しむこと」。この両方を合わせた意味での「自分の確信」です。このような確信をもって、教会の中の「悪人や詐欺師」に惑わされないで、正しい信仰の道を歩みなさいとパウロは書いているのです。

最後に一つ、大事な点を申し上げておきます。ここでの「聖書」(グラフェー)の意味はわたしたちにとっての旧約聖書のことです。当時はまだ新約聖書という形でまとまった書物はありませんでした。新約聖書が誕生したときから「聖書」が「旧約聖書」になりましたが、新約誕生以前は、旧約聖書が「聖書」(ザ・バイブル)でした。

しかし、それでは新約は「神の霊の導きによって書かれた」聖書ではないのかという心配には及びません。今では旧約・新約合わせて「聖書」です。

(2014年9月28日、松戸小金原教会主日夕拝)

2014年6月22日日曜日

俗悪な無駄話を避けなさい(夕拝説教)


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テモテへの手紙二2・14~19

「これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、その言葉は悪いはれ物のように広がります。その中には、ヒメナイとフィレトがいます。彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、『主は御自分たちを知っておられる』と、また『主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである』と刻まれています。」

先月は第四日曜日の午後にチャペルコンサートがありましたので、夕拝を休会にしました。それで少し間があきましたが、今日の夕拝から、テモテへの手紙二の学びを再開したいと思います。

これは使徒パウロが後輩伝道者テモテに書き送った手紙として、教会の歴史の中で伝えられてきたものです。皆さんの中には聖書やキリスト教の最近の書物を多く読まれる方もおられると思います。最近の書物の中には、この手紙はパウロが書いたものではなく、パウロの名を借りた人が書いていると説明しているものがかなりあります。そういう書物を読んでおられる方のために、その点について触れておく必要を感じます。

なぜそのように言えるのかという説明の中に、パウロの他の手紙と比べて、用いられている文体や用語がかなり異なっているというのがあります。それは、たしかにそのとおりなのです。ですから、そのことを理由に(理由は他にもありますが)、この手紙は使徒パウロが書いたものではない、と説明することは不可能ではないと私も思います。

しかし、私は別のことを考えます。何を考えるのか。わたしたちでもしょっちゅうするのは、公の言葉づかいとごく親しい身内相手の言葉づかいとを使い分けることです。官公庁が公式文書に用いるような言葉と親しい仲間同士の間で用いる言葉とは違っていて然るべきです。そういう区別をパウロがしなかったと言えるでしょうか。

私はパウロが書いたかどうかという点については賛成も反対もしません。どちらの立場もそれなりの言い分があると思います。しかし、私の感覚から言わせていただけば、パウロが書いた手紙であると考えるほうが、面白い結論が出てきそうな気がします。

教会は秘密主義なのかと誤解されるのは困るのですが、現実の教会があつかう問題の多くは、微妙でデリケートな事柄ばかりです。そのようなことについて、牧師同士がひそひそ話をしているという様子を想像していただくとよいかもしれません。

テモテへの手紙の内容は、そのような、教会内部に起こる微妙な問題ばかりで、それらをめぐって秘密裏におこなった牧師同士の会話だと考えると腑に落ちる部分が多くあります。パウロの他の手紙とは文体や用語が違うのでパウロの手紙ではないと言ってしまいますと、いま申し上げたような興味深い可能性を失ってしまう気がするのです。

今日お読みしました個所に書かれていることも、微妙と言えば微妙な話です。「これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい」(14節)と書かれていますが、「人々」とは教会の人々です。おそらくは牧師テモテが牧会する教会の人々のことであり、それはもちろんクリスチャンです。

そのクリスチャンである人々に対してパウロが書いていることは、「言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい」というわけです。裏返して言えば、クリスチャンの中にも、人の言葉をあげつらうような人がいる、ということです。

ただ、この「言葉をあげつらう」という訳は、少し訳しすぎではないかという印象を私は持ちます。原文の言葉を単純に訳せば「言い争う」です。言い争いは教会の中でも起こりうることを、パウロは知っています。だからこそ、そうならないようにテモテに注意しているのです。

それに続く「そのようなこと」とは「言葉をあげつらうこと」または「言い争うこと」です。そのようなことは「何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです」とパウロは書いています。「聞く者」は教会です。その言い争いの場は教会の中ですから、聞くのは教会の人々です。「聞く者を破滅させる」とは、教会に悲惨な結果を招くことになるということです。

すでにパウロはその悲惨な結果を体験済みでした。「あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました。その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます」(1・15)。だからこそ、パウロはテモテに自分と同じ苦労や悲劇を味わわせたくなかったのです。

「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」(15節)。これは説明の必要がないほど論旨明快な言葉だと思います。

「適格者と認められて」とあるのは、今のわたしたちでいえば説教免許とか教師試験とかのようなことがパウロの時代から行われていた可能性を感じる言葉です。実際の試験がどういうものだったかは分かりませんが、何らかの試験はおそらくあったのではないかという印象です。

そしてそれに続く言葉が「俗悪な無駄話を避けなさい」(16節)です。緊張感ある言葉です。そしてまた、この文脈でこの言葉がいきなり出てくると誤解されてしまうところが出てくるかもしれません。パウロが書いているのは、狭い意味での教師、牧師、説教者だけの話ではないのかもしれませんが、この文脈で言われると牧師たちは説教以外のときは黙っていなくてはならなくなります。牧師は聖書の言葉だけを語ってほしい。あとは黙ってほしいという話になりますと、息が詰まってしまいます。

翻訳の問題があるかもしれません。「俗悪な無駄話」と訳されていますが、この「俗悪(ぞくあく)」と「悪(あく)」の字がついて悪者(わるもの)呼ばわりされてしまっていますが、この言葉を原文で確認するかぎり、これは「世間の話」というくらいの意味だと思います。

この単語の中に「敷居」という字が含まれています。字義どおり訳せば「敷居が低い」とか「敷居がない」です。その敷居は、教会の内と外を隔てる敷居です。その敷居を踏み越えている話かどうかが問われているのです。

その意味では「俗悪な無駄話」はやはり訳しすぎです。実際の意味は、教会の中に「世間の話」を持ち込みすぎないほうがよい、教会の敷居を低くしすぎないほうがよい、ということです。

世間の評価、世間の肩書き、世間の付き合い。それらすべてが悪いわけではありません。新共同訳は「俗悪」と呼んでしまっていますが。

しかし、そのようなものを教会の中に持ち込むべきではありません。教会には教会固有の判断があります。教会らしい言葉があります。

敷居を取り去りすぎないでください。そういうことをすると、教会が壊れます。教会でない、別の団体になります。

そのことをパウロは警戒し、パウロにその危険を伝え、警戒を促しているのです。

(2014年6月22日、松戸小金原教会主日夕拝)

2012年12月30日日曜日

「アーメン」という言葉は何を意味していますか


テモテへの手紙二2・11~13

「次の言葉は真実です。『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。』」

今日は2012年最後の礼拝です。今年一年間も、神の御手に守られて過ごすことができましたことを感謝しています。

さて、今日の説教のタイトルは、先ほどみんなで交読しましたハイデルベルク信仰問答の第52主日の問129の言葉をそのまま引用したものです。「『アーメン』という言葉は、何を意味していますか」。

ですから、今日の説教の結論は決まっています。ハイデルベルク信仰問答の問129の答えそのものです。それは次のとおりです。

「『アーメン』とは、それが真実であり確実である、ということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです」(吉田隆訳、新教出版社)。

これが今日の説教の結論です。これ以上に付け加えることはほとんどありません。私にできることがあるとしたら、ハイデルベルク信仰問答がこの問いの答えとして書いていることの意味をいくらか噛み砕いて説明することくらいです。

「アーメン」という言葉は、旧約聖書の時代から使われているヘブライ語が歴史的にいちばん古いと言われています。そして、この言葉の意味は、ハイデルベルク信仰問答がまさに書いているとおり、「真実である」とか「確実である」ということです。

また、他の人の意見に同意や賛成の意を表わすときに言う「そのとおり」という意味でもあります。願いや祈りの意味の「そうでありますように」という意味にもなります。ですから、いちばん短く言えば「アーメン」は「そうだ」という意味です。

そのような意味の言葉をわたしたちキリスト者は、すべての祈りの最後や、賛美歌の最後、そして日常会話の中でさえ繰り返し用いています。つまり、わたしたちは、ほとんど毎日のように「そうだ、そうだ」と言っているのです。

とにかくこれだけははっきり言えることは、「アーメン」とは、なにかを肯定する言葉であるということです。否定ではありません。他人の語る言葉のすべてをいちいち「そうではない、そうではない」と否定していくタイプの人が時々いますが、ちょうど正反対です。

「アーメン」は「そうではない」の正反対です。「そうだ」です。他人が語る言葉に同意することであり、賛成することです。否定することではなく、肯定することです。

しかも、祈りや賛美歌の場合を考えてみると、それは必ずだれか人間の祈りであり、だれか人間の賛美です。日曜日の礼拝の中で祈りをささげるのは司式の長老や牧師ですが、水曜日の祈祷会などでは、それぞれが個人的な願いごとをお祈りします。

その最後にみんなで「アーメン」と唱えることは、祈りそのものや賛美そのものへの肯定でもあるのですが、同時に、その祈りをささげた人やその賛美を歌った人への肯定でもあると考えることもできるでしょう。

その人の語る言葉を肯定するだけではなく、その言葉を語る人自身の存在そのものを肯定すること、受け容れることも、その「アーメン」の中に含まれているはずです。

言い方は明らかにおかしいわけですが、「あなたの祈りの内容は肯定しますが、あなたの存在は肯定できません」というような奇妙な使い分けを、わたしたちはしません。

「あなたのことは嫌いだけど、あなたの祈りにはアーメンと言ってあげます」というようなことは、教会の中では言ってはならないことです。

わたしがあなたの祈りに「アーメン」と言うときは、同時にあなた自身の存在に「アーメン」と言っているのです。わたしたちは、そのような意味でも「アーメン」と言うのです。

しかし、ハイデルベルク信仰問答の問129の答えに書かれていることは、私がいま申し上げたことだけでは終わらない内容をもっています。

今まで申し上げてきたことも重要ですが、答えの後半部分に書かれていることが、ある意味でもっと重要です。「なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです」と記されています。

ここに書かれていることをよく読みますと、その主旨は、先ほど申し上げたような、わたしたちのうちの誰かがささげた祈りそのものへの肯定であるとか、その祈りをささげている人への肯定であるというよりも、むしろ、わたしたちがささげる祈りを聞いてくださる神御自身への肯定であるということが分かってきます。

「わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれている」というのは、言い方を換えれば、わたしが心の中で感じていることは不確実である、ということです。そのような不確実なことよりも、わたしの祈りを聞いてくださっている神という方は確実な方であるということです。

確実な方というのは日本語としては適切ではないかもしれません。信頼できる方とか、安心できる方というほうがよいかもしれません。

なるほど、たしかにわたしたちの祈りは不確実なものです。祈っても聞かれないと感じることは、たくさんあります。あなたの信仰が足りないからだ、あなたの努力が足りないからだと言われると、わたしたちは言葉を失います。そのとおりであると認めざるをえませんが、それ以上どうすることもできないところまで追いつめられてしまいます。

信仰が足りない、努力が足りないと言われて「そんなことはありません」と反論できる人は教会にはいません。そもそも教会には、信仰においても努力においてもすっかり破れてしまった人たちが、神の助けを求めて集まってきているからです。

もしわたしたちが、自分の力で自分の生きるべき道のすべてを切り開いていけるなら、わたしたちは神に祈る必要はありません。祈りとは、自分の信仰や努力が不確実であることを実感し、かつ痛感しているからこそ、わたしたちの心の叫びのように湧き出してくるものなのです。

しかし、わたしたち自身は不確実でも、確実なものがあることをわたしたちは知っています。それは神さまです。世界のすべてが不確実であり、不安定であっても、神さまは確実であり、この世界を根底から支えてくださっています。その信頼と安心のうちに、わたしたちは神に祈りをささげることができ、「アーメン」と唱えることができるのです。

今日開いていただいたのは、テモテへの手紙二2・11以下のみことばです。なぜこの個所を選んだのかといいますと、ハイデルベルク信仰問答の問129の答えの最後に「引証聖句」と呼ばれる聖書の御言葉が三か所指示されている中の一つが、テモテへの手紙二2・13だからです。

この個所が「引証聖句」であるということの意味は、ハイデルベルク信仰問答の問129の答えは、この聖書の御言葉を根拠にして書かれているということです。それは次の御言葉です。

「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」(テモテへの手紙二2・13)。

今日わたしたちが考えているのは「アーメン」という言葉の意味です。それは真実であり、確実であるという意味であると、すでにご説明しました。しかし、問題は何が真実であり確実なのかです。

その最も正しい答えとして考えられることは、ハイデルベルク信仰問答が指示しているこの御言葉に書かれていること、すなわち、「キリストは常に真実であられる」ということであり、さらにその根拠は「キリストは御自身を否むことができないからである」ということだ、ということです。

「キリストは御自身を否むことができない」とは言われていることは、非常に興味深いことです。どこが興味深いのかといえば、キリストにもできないことがあると言われているからです。全知全能の神の御子なるキリストにもできないことがあるのです。なんでもできる方(全能者)にもできないことがあるというのは論理的に矛盾しています。しかし、そのように聖書ははっきり書いています。

イエス・キリストにも、できないことがある。それは、御自身を否定することです。それができない。キリストは御自身の何を否定できないのかと言いますと、「御自身が常に真実であられること」を否定できないのです。

神の御子イエス・キリストは、神の御心を行うためにこの世界へと派遣された方です。キリストは父なる神の御心に忠実な方です。神の御心に対する忠誠心をもって、この世界において神のみわざを遂行するために来られた、と言ってもいいでしょう。

その御自身に託された使命をイエス・キリストは否定することができないのです。父なる神との約束を裏切ることができないのです。十字架の死に至るまで神の御心に従順であられたし、世の終わりまでその従順さは変わらない、そういうお方なのです。

そのような父なる神に対するイエス・キリストの忠実さ、誠実さに対する肯定や信頼をわたしたちは「アーメン」という言葉で言い表すのです。「わたしたちは誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」からです。

実際、わたしたちは誠実ではありません。裏表があります。あっちで言っていることと、こっちで言っていることが食い違っていたりします。嘘もつきます。でたらめなことも言います。

言葉だけではなく、おこないで人を裏切ります。人の信頼を失うような失敗や過失や罪をおかします。ほとんど毎日、そのようなことの繰り返しです。

叩けばほこりが出ます。掘り返せばぼろが出ます。私はそうではないと否定できる人は誰もいません。完璧な人はいません。罪の無い人は一人もいません。裁き合うのは簡単です。

しかし、イエス・キリストだけは常に真実な方です。そうであることをわたしたちは信じています。信じているからこそ、祈ることができるのです。「アーメン」と唱えることができるのです。

来年一年間の教会の歩みが守られるように、お祈りしましょう。

(2012年12月30日、松戸小金原教会主日礼拝)