2022年8月28日日曜日

兄を迎えに来た父(2022年8月28日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 280番 馬槽のなかに(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「兄を迎えに来た父」

ルカによる福音書15章25~32節

秋場治憲

 前回はこの物語の前半、放蕩に身を持ち崩し、戻って来た息子に駆け寄って、首を抱いて接吻し喜ぶ父の姿がありました。今回はその後半、真面目な兄が父に食ってかかり、父を悲しませる、というお話です。今回は悲しむ父が主人公です。

今日のテキストには「『放蕩息子』のたとえ」という小見出しがついています。これは後半の兄も含めてつけられた小見出しになっています。この放蕩息子とは決して弟のことだけではなく、兄も含めて父の心を理解しない二人の放蕩息子について語られたお話しであるということを念頭において、本題に入りたいと思います。

 私は前回父がこの息子を迎えに走った、というお話を致しました。父親は走ることによってその威厳を失います。その威厳を失ってでも、なりふり構わず子供に向かって駆け出した、駆け出さないではいられなかったほど、それほど父の心は沸き立っていた。喜びで満たされていた。ボロ雑巾のような服を着て、重たい足を引きずりながら帰った来た息子めがけてこの父は駆け出したのです。息子の首を抱いて接吻し、「さあ、急いで最上の服を持ってきて、この子に着せなさい」という言葉は、その思い[1]を伝えています。

神は高きにいることをやめて、低きにつきたもうたのです。神は仕えさせることをやめて、仕えようとしています[2]。軍馬にまたがるのではなく、ロバの子に乗って来られたのです。

 聖書をよく読むと、神は低くなりたもうたから高き方であり、仕える方になりたもうたから、偉大な方であることが教えられます。しかしキリスト教の歴史を見ていると、392年キリスト教がローマ帝国の国教になって以来、その神観がローマの皇帝像と重なり合う傾向が見られます。ローマ皇帝が偉大であったように、神も偉大な方である。神は高きにいまし、力強い方、というのです。キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入城されたこと、今日の讃美歌にあったように、御子がベツレヘムの馬小屋で誕生したことなど忘れられてしまったかのようです。

 今日のテキストにも仕える者になりたもうた父が描かれています。今回は放蕩息子の兄が登場してきます。25節には、弟が帰って来た時、兄は畑にいたと記されています。弟が放蕩に身を持ち崩していた時に、兄は畑にいたというのですから、大変です。畑とは働く場所であり、兄は朝から夕方まで一日中、汗水流して働いていたのです。一日の仕事を終え、疲れ果てて家に近づくと、いつもと様子がちがう。音楽が聞こえ、祝宴が開かれている様子。兄は一人の僕を呼び出し、「これはいったい何事か」と尋ねた。僕は「弟さんが帰ってこられました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」と答えた。兄は怒って家に入ろうとしなかったので、父親が家から出てきて、この兄をなだめた。この「なだめた」という言葉は、以前にもお話ししたことがあると思いますが、未完了過去形が使われています。この時称は「~していた」、「~しつつあった」、「~せんとしていた」というニュアンスを持っています。この箇所は「なだめ続けた」「なだめようとしていた」というニュアンスがあります。この父親に対して、兄は次のように答えます。

「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」

私はこの兄の怒りは当然であると思う。畑にいて仕事をしていた者と畑を食いつぶした者、父と共にいて父に仕えていた者と放蕩三昧に遊び惚けていた者、こう考えると兄の言っていることは正しい。彼は正当な抗議をしている。兄は勤勉であり、従順であった。模範的で、立派であった。 

 ところがここに聖書理解の難しいところがあります。聖書は決して勤勉でないことを褒めてはいません。また道徳的に正しくないことが、好ましいとも言ってはいません。聖書はこの兄が立っているところ以上のことを教えようとしているのです。

 常識的に言えば兄は正しく、弟は糾弾されなければならない。しかし道徳的に正しいから、その正しさの故に、人は神様と結びつくと聖書は言わないのです。律法を徹底的に守ることが、神と人を結びつけることになるとは言わないのです。パリサイ人の正しさは、神と結びつかない、と言うのです。神の求めたもうものは、砕かれた魂であり[3]、神の恵みを、赦しを信じることである、と言うのです。ここに律法とか、倫理、道徳の世界を越えた福音の世界、宗教的な世界があることを教えようとしているのです。それでは福音の世界とは、どういう世界か。ここでは罪人が探し求められ、父が彼に走り寄って抱きしめる、ということが起こる。これが福音の世界。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。[4]

「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 親鸞が歎異抄の中で「善人が往生するなら、悪人が往生しないことがあろうか」と言ったと伝えられていますが、これは宗教というものが分かった人の言葉であると思う。

 ところが兄にはこの世界が分からない。あれだけ父に心配をかけた弟が帰ってきた時、父が「この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった。」(24,32)と喜んでいる。しかも父親はこの言葉を二度までも繰り返している。これが兄には分からないのです。この弟は罰にこそ値するはずなのに、父が見つかっただの、生き返っただのと言って喜んでいることがさっぱり分からないのです。言葉を変えれば、兄は赦される世界があることがどうしても分からないのです。

 しかしこの父親は弟は死んではいなかったのに、どうして「この子は死んでいたのに生き返り、」と言うのでしょうか。これは聖書は死と言うものを単に肉体的なこととしてとらえるのではなく、神と人間との関係の中でとらえているからです。生きているということは、神と正しい関係にあることであり、神に背き、神から離反するとき肉体的には生きていても、神との関係においては死んでいるのです。だから「罪の支払う報酬は死である。[5]のです。この弟は父に背き、遠い国へと旅立ち、肉体的には生きていても、神との関係においては死んでいたのです。

 兄は父のもとにいて仕えていたけれども、その心は父ではなく自分に与えられる褒賞に向かっていたのですから、やはりこの兄も神に背き、父から離反して、死んでいたのです。

兄は父の言葉が分からなかっただけでなく、この弟に我慢がならなかったのです。肥えた子牛の丸ごとバーベキュウにワイン、音楽に踊り。これが父親の財産を食い尽くし、放蕩三昧に身を持ち崩した者に対する褒賞なのか。これは自分にこそ与えられるべきものであり、どうしてこんな弟なんかにあたえられるのか、というのです。

「『ぶどう園の労働者』のたとえ[6]」で朝から働いた者が、最後の一時間働いただけで一日分の労賃一デナリを受け取った者に対して不平を言ったのと同じです。表面的には父のため、主人のためと言いながら、その実、自分の利得とむさぼりへの欲求から神を求めていることが暴露されています。何年もの間父に仕えていたはずの兄が、弟が帰って来たことによって、その心が父には向かっていなかったことが暴露されてしまったのです。

 この兄の思いは単に弟に対する妬みだけではありません。この何年もの間身を粉にして、仕えてきた私の人生はどうしてくれるんだと言うのです。

「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」この「仕える」という動詞は、「縛り付ける」、「結びつける」という意味をもった動詞で、名詞になると「奴隷」になります。さらに「言いつけ」と訳されている言葉は、「命令、指令、掟、律法[7]」という意味の言葉です。つまり兄は、何年もの間、奴隷として父の命令に従ってきたということになります。兄は<喜んで><うれしい気持ち>で仕えていたのではなく、義務感から、いやいやながら奴隷的強制のもとで仕えていたということになります。これは悲惨です。それだけではありません。兄がこれまで寄って立ってきた土台が、音を立てて崩れ去ったのです。

私たちは当然のことのように、<罪の赦し>ということを言いますが、これは倫理、道徳への挑戦です。倫理・道徳において「~すべし」といわれていることをしなかったり、「~すべからず」と言われていることをしてしまった者を赦すということは、倫理・道徳への挑戦以外の何物でもありません。兄は真面目であり、倫理的には正しいことを言っているのですが、それがどれほど父の心を悲しませているかが分からない。どうして分からないか。この兄にとって、神に近づく道は、自分の正しさ、或いは道徳的、或いは宗教的熱心を積み上げ、これに磨きをかけることであったからです。人間は自分の努力、精進の頂点に達した時、神と対座することが出来る、という訳です。従って道徳的、律法的な高さに到達しない者に対しては、審きはあっても赦しはないのです。パリサイ人にとって、自分たちが努力と精進の結果手にしたものを、罪びとが何もしないで手にするなどということは有り得ないことでした。神の国が罪人のために場所を備えているというのは耐えられないことだったのです。もしこれを認めるなら、自分たちが日々苦労して行っている断食、神殿への十分の一税、律法順守の生活のすべてが、無意味になってしまうからです。

 主イエスがパリサイ人を批判した言葉に、「あなたがたはまわりを白く塗った墓に似ている」というのがあります。これは偉大で立派なわざと思われるわざの中に、最も嫌悪すべき不従順があるというのです。他方レプタ2枚の中に、冷たい水一杯の中に最も高価な従順が隠されているというのです。

 「ところがあなたのあの息子が」という言葉に注目したいと思います。

「あなたのあの息子」という言い方は、第三者が言う言葉であり、家族の親しみ、苦難を分け合って生きるという響きはありません。実に冷たい言葉です。しかも言外に私の弟ではない、という意味を含んでいます。私たちも時としてこの言い方をすることがあります。「あの人(方・先生)」など。

 この兄に対して父の言葉は「子よ、」と呼びかけておられます。この「子よ」という言葉は、テクノンという言葉が使われています。このお話の冒頭に「ある人に息子が二人いた。」という言葉がありますが、こちらはヒュイオスという言葉が使われています。テクノンというのは、父親の財産を受け継ぐ資格のある者というニュアンスを持った言葉ではありません。これは家族の一員として呼ぶ言葉であると言われています。英語で言うとmy son my child の違いというところでしょうか。決して厳密に使い分けられているということではありません。 ヒュイオスは15章だけでも8回も使われていますが(11,13,19,21(2回)、24,25,30節)、ルカはここで父の兄への呼びかけに、テクノンを用いています。この短いお話の中での8:1の比率は際立ちます。ルカはこのテクノンという言葉に父の思いの丈を託したことは、明らかです。

 

 Τεκνον, συ(あなたは) παντοτε(いつも) μετ’εμου(私と一緒に) ει(いる), και(そして) παντα(すべてのものは)

τα(定冠詞) εμα(私のものは) σα(あなたのもの) εστιν(である).

 

31節は「わが子よ、」と訳したいところです。

 少々無理して敢えて日本語に訳すと「お前さん」非常に親しみと愛のこもった言葉。お前さんはいつも私と一緒にいる。父はお前さんを愛している。そして私のものは全部お前さんのものではないか。一切合財お前さんのものではないか。子牛や子山羊は問題ではないではないか、と言うのです。ところが父が自分の財産のすべてを兄に差し出しておられるのに、兄はこの父の財産を何一つ受け取れていないのです。面白いですね、というと不謹慎だと言って怒られそうですが、不思議な世界です。父は無代価で、ただで差し出しておられるのに、兄はそれを手にするために日夜精進に精進を重ね、それを手にするために奴隷的強制のもとで手を伸ばし続けているのです。

 父は更に言葉を続けて「あなたの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と兄に問うのです。この言葉がこの物語のテーマだと言った人がいます。兄が「あなたのあの息子が」と言って弟を排除したのに対して、父は「お前のあの弟は」と弟を兄を含めた家族の一員に戻すのです。この父には兄も弟も共に「わが子たちよ(My little children)」なのです。

 イエス様が語っておられることは、道徳的教訓ではありません。道徳的教訓のレベルでこの物語を読むと、初めから終わりまで不条理です。この不条理を打ち破るのが、「あなたの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」という言葉です。<よかった、本当によかった。>という父の喜びです。ここには倫理、道徳を越えた父と息子の人格的な関係の世界、宗教の世界があるのです。親鸞は「弥陀が本願、親鸞一人がためなり」と言ったと伝えられていますが、この世界に通じるものがある。

この倫理、道徳を越えた世界、宗教の世界が目の前に展開された時、兄がそれまで寄って立ってきた土台が崩れさったのです。兄の世界とはパリサイ人、律法学者の世界であり、律法を守って生活する優等生にだけ報われる世界です。この最高の優等生である自分には<子山羊一匹すら>くれなかったのに、父の財産を食い尽くし、放蕩三昧に身を持ち崩して帰って来た最悪の劣等生である弟には<肥えた子牛>が与えられた時、優等生にだけ報われる神の土台は崩れ去ったのです。兄にしてみればこれまでの努力が水泡に帰した瞬間でもあったのです。同時に祭司長、律法学者、パリサイ人たち、律法の優等生たちの土台が崩れ去った瞬間でもあったのです。なぜなら彼らはそれらのわざを、褒賞を目当てに為してきていたからです。そしてこのことを受け入れることが出来なかった彼らは、主イエスを十字架の死へと追いやるのです。

しかし神殿で祈った徴税人のように、自分自身を弾劾するものは、神が義の衣を着せてくれるのです。丁度放蕩に身を持ち崩して帰って来た弟のように父が最上の着物を着せてくれるのです。ピカピカのサンダルがはかせられ、指には神の子の証として指輪がはめられているのです。これを受け入れるのが信仰です。私はあなた方の熱心や功績によってではなく、恩恵によって救おうとしているのに、どうしてあなた方は、自分を見出すに相違ないと思われるほどに自分たちの功績を誇るのか、と言われるのです。

 兄に代表される生き方は、道徳的に見ればすぐれた面もありますが、極めて大切な点を見落としています。彼らは神が罪人を招き、憐れみを示し給う時に、義なる方であるという点を見落としています。神の正義、義しさは、パリサイ人のように他人を裁くものではなく、罪人の罪を赦し、罪人を義なる者とする義しさであったのです。それゆえに、この父はこの長男を叱り飛ばしたり、切って捨てたりしてはいません。「あなたのあの息子は」と代名詞で呼んだ弟を、父は再び「お前のあの弟は」と家族の一員に戻し、「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と静かにかんで含めて、言い諭しています。その姿はちょうどべタニヤ村で「マルタよ、マルタよ」と言ってマルタを諭した時のように、その労を労いながら、父の心を伝えようとしていた姿と重なります。

 神の怒りと審きはゴルゴタの丘の上に下され、我らには罪の赦しとして、<よきおとずれ>として届けられたのです。

 主イエスはその後の弟のことについては、何も触れていません。後は自分で考えなさい、と言われているようです。この弟は良い息子に生き返ったことと思います。そして人々にあなたはよく立ち直りましたね、と褒められたかもしれない。しかし、その時この弟は、それは私の努力ではなく、ただ私に駆け寄って来てくれた父のおかげです、父の愛のおかげです、と答えたのに相違ないのです。だから私は喜んで、何でもしたい。喜んで父に仕えたい、と言うことでしょう。

 兄を迎える為に家から出てきた父は、兄の手を引いて宴会の席まで連れていくことができるでしょうか。父は弟が父から離れていたことを「死んでいた」と言っていますが、実は父のそばにいて父に仕えていたはずの兄もその心は、父から離れており「死んでいる」のです。弟は生き返ったのですが、兄は死んだままです。父はこの父の心を理解しない二人の放蕩息子に対して、<my little children わが愛する子たちよ> と呼びかけておられるのです。私たちはこの父の姿を忘れないでおきたいと思います。

 今日も告白した「使徒信条」は、「我らの主イエス・キリストを信ず」と告白しています。この「我らの」というのは、悔い改めてキリストを信じている者たちの、という意味ではありません。今日のたとえはキリストが、信じる者の主であると同時に、信じない者の主でもあることを伝えています。「正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせて下さるからである。[8]」主はその慈愛をもって、私たちすべてを導こうとしておられることを忘れないでおきたいと思います。

 この主イエスの言葉に目覚めさせられたのが、最後に主イエスを十字架から降ろし、自分の墓に葬った議員でアリマタヤ出身のヨセフであり、律法学者ニコデモでした。

テクノンの例を挙げると「私の子たちよ(my little children-RSV)、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯(したと)しても、御父のもとに(は)(私たちの)弁護者(で)、正しい方、イエス・キリストがおられます。」(ヨハネの手紙第一2:1)( )内の言葉は、より分かりやすくするために、私が追加したものです



[1] 創世記46章28~30 イスラエルはヨセフに言った。「私はもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」

[2] マルコによる福音書10:45「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」(口語訳)

[3] 詩篇51:19

[4] マタイによる福音書9:12,13

[5] ローマ人への手紙6:23

[6] マタイによる福音書20:11

[7] RSVcommandという英語を使っています。Lo(見よ)these many years(この何年もの間)I have served you(現在完了です 私はずーっとあなたに仕えてきた) I never disobeyed your command ;(そして私は一度としてあなたの命令に背いたことはなかった) yet(接続誌詞 にもかかわらず)you never gave me a kid(あなたは私に子山羊一匹すらくれなかった), that I might make merry with my friends. (私が友人たちと宴会をするために)

[8] マタイによる福音書5:45


2022年8月21日日曜日

友なるイエス(2022年8月21日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 493番 いつくしみ深い(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「友なるイエス」

ルカによる福音書18章9~14節

関口 康

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」

今日の聖書箇所は私が選びました。いつもは日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』どおりに選んでいますが、『日毎の糧』の今日の箇所が6月12日(日)の花の日・子どもの日礼拝の聖書箇所と同じだと気づきましたので、変更しました。しかし、今日の準備のために読み直した結果、解釈がとても難しい箇所であるということが分かりました。後悔先に立たず、です。

まずこれは「たとえ話」です。「イエスは次のたとえを話された」と書かれているとおりです。分かりやすく大げさな表現が用いられている可能性があることは否定できません。イエスさまが例示されたことを実際に言ったりしたりしていた特定の誰かが本当にいたかどうかは不明です。

しかし、イエスさまがこの話をなさったとき、共感する人がいたに違いありません。ただし、その共感には2種類ありました。なぜ「2種類」なのかといえば、このたとえ話の登場人物の姿を、自分に当てはめて「自分のことが言い当てられた」と感じるか、それとも自分以外のだれかに当てはめて「あの人のことだ」と感じるかの、どちらかの可能性しかないからです。

これが「何のたとえ」なのかは、はっきり記されています。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対する」たとえです。「対する」の意味は「反対する」です。抗議です。「自分は正しい人間だとうぬぼれてはいけない。他人を見下してはいけない」という非難です。

だからこそ、この話にどういう意味で共感するかが重要です。イエスさまのお言葉に共感しているときの自分の心の中に自分自身の姿が浮かぶか、そうでないかで、読み方が変わります。

私は今すでに結論的なことを申し上げています。イエスさまのご趣旨を考えれば、このたとえ話は自分以外のだれかに当てはめてはいけません。「あの人のことだ」と決めつけてはいけません。私自身も強く自戒します。このたとえ話を他人を非難する手段に使うだけなら最も悪いことです。もしほんの少しでもそのような誤解が広まるようなら、今日この箇所を取り上げて話さないほうがよかったと思えてきます。

中身に入ります。登場人物は2人です。ひとりは「ファリサイ派の人」、もうひとりは「徴税人」です。「ファリサイ派」の説明は新共同訳聖書巻末付録「用語解説」39頁以下に記されています。

「ハスモン王朝時代に形成されたユダヤ教の一派。イエス時代にはサドカイ派と並んで民衆に大きな影響力を持っていた。(中略)ヘブライ語『ペルシーム』は『分離した者』の意味であり、この名称の由来については種々の説があるが、恐らく律法を守らない一般の人々から自分たちを『分離した』という意味であろう」。

この説明によるとファリサイ派は「分離派」です。だれからの分離かといえば「一般人」です。最近は「芸能人でない人」が「一般人」と呼ばれます。私の嫌いな言葉です。「一般」の対義語が「特別」か「特殊」かで意味が変わってくるからです。自分たちは「特別」な存在だと自負する人が言う「一般人」は見下げる響きをまといます。逆に「一般性」が重んじられる場合(「一般常識」など)の対義語は「特殊」でしょう。見下げる響きがあるかどうかは、文脈に拠ります。

ファリサイ派の場合は、自分たちが「特別」であり、かつ「上の者」であると自負しているからこそ「見下す」のです。英語聖書ではlook down(ルックダウン)、オランダ語聖書ではneerkijken(ネールケイケン)(neer(ネール)が「下」の意味)という言葉です。いずれも「下を見る」という意味なので、見る人が「上」にいなければ成立しません。「上から」が省略されています。

このたとえ話に登場するファリサイ派の人が、どこで(where)、どのようにして(how)、だれ(who)を見下したかについてはイエスさまのお言葉に従うしかありません。

「どこで」(where)は「神殿」です。ただし、たとえ話ですので意味を広げて考えるほうがいいです。宗教施設です。「教会」も含めて。その最も典型としての「神殿」です。

「どのようにして」(how)は「祈り」です。この箇所に多様な解釈があると分かりました。この人が祈るとき「立って」いた(11節)ことが傲慢であるとか、「心の中で」祈った(同上節)のは、神に対してでなく自分に対する祈りなので、これも傲慢であるという解釈があるそうです。

結論を言えば、祈るときに立っていたことも、心の中で祈ったことも、そのこと自体が傲慢であることを意味しません。当時のユダヤ教で普通になされていたことです。普通だからこそ問題の範囲が広がります。わたしたちの祈りと本質的に同じ「祈り」で「他人を見下した」のです。

「最善の堕落は最悪」(corruptio optimi pessima コラプティオ・オプティミ・ペッシマ)というラテン語の格言があります。私の好きな言葉です。神殿で祈る行為は、人間の最高善です。最高善を用いて「他人を見下げる」最悪の行為に及ぶ人をイエスさまが描き出しておられます。

「だれを」(who)見下したのか。イエスさまはいろんなタイプの人を例に挙げておられます。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者、この徴税人のような者」(同上節)。しかし、イエスさまがおっしゃっていることの趣旨に照らして最も意味がある言葉は「ほかの人たちのように」です。その意味は「自分以外の全人類」です。自分だけを除いて、残るすべての人を見下げています。

違うでしょうか。このファリサイ派の人は、イエスさまが例に挙げておられないタイプの人のことは尊敬するでしょうか。そうではないと私には思えます。どんな相手であれ、あら探しをし、どんな小さな欠点や落ち度であれ見つけて、「神さま、私はあの人のようでないことを感謝します」と祈るだけです。相手はだれでもいいし、落ち度や失敗の内容もどうでもいい。「自分がいちばん上である」と言いたいだけです。「自分以上の存在はいない」と無差別に見下げるだけです。

この人のことを私が弁護するのは変かもしれません。もちろんすべて想像です。おそらくこの人は孤独です。人の目がこわいし、他の人から批判されることを最も嫌がります。だからこそ、常に自分以外のすべての人を攻撃し、批判する側に自分の身を置こうとします。その究極形態が「神殿で全人類を見下げる祈りをささげる人」の姿です。

もうひとりの人は、正反対の祈りをささげました。「徴税人」はユダヤ社会で見下げられる存在でした。その人が「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)と祈りました。

どちらの祈りが「義とされる」(=「正しいと神さまに認めていただける」)ものであったかを考えてみてくださいというのが、このたとえ話の意図です。答えも記されています。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(14節)。

そしてイエスさまは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14節)とおっしゃいました。「低くする」ではなく「低くされる」、また「高める」ではなく「高められる」と受け身で言われていることが大事です。「神さまが」そのことをしてくださる、という意味です。

イエスさまは、傲慢な人たちに踏みつけられている人を弁護してくださいます。イエスさまは、そのような苦しみの中にいる人たちの「友」です。

(2022年8月21日 聖日礼拝)

2022年8月14日日曜日

子どもを守る(2022年8月14日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌 主われを愛す(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「子どもを守る」

ルカによる福音書17章1~4節

関口 康

「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」

お気づきの方がおられるかもしれません。今日の聖書箇所は、先週の週報で予告した箇所から変更しました。今日開いたのはルカによる福音書17章1~4節ですが、先週予告したのはマルコによる福音書9章42~50節でした。

両者は「並行記事」ですが、先週予告したマルコの箇所は読めば読むほど「逃げ道がない」ことが分かりましたので、「逃げ道がある」ルカに切り替えました。「逃げてはいけない」かもしれませんが、とにかくお許しください。

しかしわたしたちは、イエスさまの本心の内容まで、都合よく勝手に決めてよいわけではありません。マルコ(9章42~50節)の内容は、わたしたちの救い主、神の御子、イエス・キリストが、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42節)とおっしゃった、ということです。

さらにイエスさまは、人間の体に2つある「手、足、目」のどちらか一方があなたをつまずかせるなら、つまずきの原因になっているほうの側を「切り捨てなさい」とか「えぐり出しなさい」とおっしゃった、ということです。

もちろんこれは、いま私たち自身が聖書を開いて目で見て確認しているとおり、聖書に確かに記されている言葉です。しかもイエスさまがおっしゃった言葉として紹介されているのですから、権威ある言葉に属しますし、見て見ぬふりなど絶対できません。

しかし、だからといって、この言葉どおりに本当に実行しなくてはならないと、わたしたちが考えなければならないかどうかは別問題です。

実例があるのです。多くは「手」ないし手首です。「足」や「目」の可能性がないわけではありません。「切り捨てる」「えぐり出す」までは行かなくても、「切り刻む」方々がおられます。

今はインターネットがあります。自分で自分の体を傷つけた写真をメールで特定の相手に送信したり、ソーシャルメディアで全世界に公開したりすることができます。

私も受け取ったことがあります。インターネットを私が使い始めたのは1998年ですので24年前です。これまでに何通かそのようなメールを受け取りました。1度2度ではありません。

「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれるほうがましだ」のほうは、そういうことを本当にすれば二度と浮かび上がって来ませんので、「試してみました」というわけに行きません。しかし、それに近いこと、あるいはそれに等しいことを実行する方々が現実におられます。

そのようなことをなさる方々が、聖書の言葉、イエス・キリストの言葉、神の言葉に基づいてなさるかどうかは、その方自身しか分からないことです。しかし「そうである」と言われたことがあります。「聖書にそう書かれていたのでしました」。そういうことが現実にあるということを、わたしたちは認識する必要があります。大げさな作り話ではありません。

私がいま申し上げていることは、イエスさまに対する批判ではないし、聖書に対する批判でもありませんが、だからといって、自分の体を自分で傷つける方々を責めているのでもありません。「だれが悪い」「だれのせいだ」と言い合って解決する問題ではないと私には思えます。

しかし、たとえイエスさまであっても、言いたい放題ではまずいのではないでしょうか、いくらなんでも言い過ぎではないでしょうか、酷すぎではないでしょうか、くらいは言っておくほうがよさそうに思います。本当に実行する方々がおられるからです。実行する方々を責めているのではありません。「お願いですからやめてください。そんなことをなさらないでください」と懇願したい気持ちがあるだけです。

しかし、なぜイエスさまはこれほどまでに過激なことをおっしゃっているのでしょうか。その意図を考える必要があります。

「小さい者」(マルコ9章42節、ルカ17章2節)の意味は「子ども」です。「つまずかせる」と訳されているギリシア語は「罠(わな)」や「餌(えさ)」という意味を持つスカンダロン(σκανδαλον)という名詞の動詞形のスカンダリゾー(σκανδαλίζω)で、英語「スキャンダル(scandal)」の語源であるという話は、教会生活が長い方はお聞きになっているでしょうし、今日初めての方は、これから何度も聞かされる話ですので、ぜひ覚えてください。

「つまずかせる」というと、柔道の足払いや大外刈りのように足をひっかける技を仕掛けること、あるいは石や木の棒などを地面に置いてだれかの足を引っかける悪さをすることなどを連想するでしょう。

しかし、ギリシア語の意味はそちらのほうでなく、餌を仕掛けて動物や鳥などをおびき寄せ、餌を食べている隙を狙って上から網をかけて、捕縛することです。そのような意味だという意味のことが、岩隈直(いわくま・なおし)氏の『新約ギリシア語辞典』に記されています。

いま申し上げたことをまとめれば、「小さい者の一人をつまずかせる」の意味は、子どもに餌を与えて罠にかけるような騙し方をして、罠をかけた側の人(「子ども」と比較される存在は「大人」)の食い物にすることで、その子どもの心身をめちゃくちゃに破壊し、将来と人生から光を奪い、落胆と絶望へと陥れることです。

そのようなことが許されていいはずがないと、イエスさまが、実際に罠にかけられて食い物にされてボロボロに傷つけられ、自分の言葉で物も言えなくなってしまっているかもしれないその子どもたちの代わりに、ほとんど怒り狂うほどの勢いで激しい言葉を発しておられるのです。

「大人になるまでは誰からも傷つけられたことがなく、大人になって初めて傷つけられた」という方々が、現実の世界にどれくらいおられるかは、私には分かりません。しかし、傷を受けた年齢が低ければ低いほど、その傷を背負って生きなければならない年月が長くなります。

私は今、算数の問題のような話をしました。治る傷ならば問題ないと言えるかどうかも難しい問題です。しかし、まだ子どもであるときに、一生治ることのない傷を、大人である人から明確な悪意をもって、または悪ふざけで、心身につけられて、それを70年も80年も90年も背負って行かねばならないとなれば、だれにとっても大問題でしょう。

そのようなことを大人がしてはいけない、させてはいけない、という明確な警告をイエスさまが発しておられると考えることができるなら、最初に申し上げた自傷行為の問題とは違った次元と角度から、今日の箇所のイエスさまの言葉を理解することができるのではないかと思います。

しかし、今日マルコでなくルカを選んだ理由は、子どもを罠にかけて騙して食い物にするような悪党でさえ、子どもだけでなく大人相手の犯罪をしでかす人でさえ、もしその人が悔い改めるなら「赦してやりなさい」(3節、4節)と、イエスさまがおっしゃっているからです。

「そんな都合のいい話があるか」と私も何度も言われてきました。「キリスト教はずるい教えだ」と。たしかにそうかもしれません。しかし、今こそわたしたちは、自分の胸に手を当てて考えるべきです。「私は今までだれも傷つけたことがないだろうか。私のために苦しんでいる人がいないだろうか。赦してもらわないかぎり生きてはならないのは私自身ではないだろうか」と。

しかし、覆水盆に返らず、考えることしかできないし、考えても無駄かもしれませんが、全く考えないよりは、少しはましです。私も他人事ではありません。重い言葉であることは確実です。

(2022年8月14日 聖日礼拝)

2022年8月7日日曜日

平和に過ごす(2022年8月7日 平和聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌531番 こころのおごとに(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「平和に過ごす」

マルコによる福音書9章33~41節

関口 康

「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」

今日は8月第1日曜日です。日本キリスト教団が1962年に定め、翌1963年から実施している「平和聖日」です。1960年の日米安全保障条約に反対する国内の平和運動との関係で定められた日です。そのことを昨年度も申し上げました。

しかし、私には軍隊経験はありませんし、戦争の現場にいたことも無いし、キリスト教や他の平和運動の団体に属していません。私にできることがあるとすれば、聖書の中で「平和」は何を意味するかを解説することと、戦争が終わることを祈ることです。

無力さを痛感していないわけではありません。しかし、長年私を支えている言葉があります。メールのやりとりでした。20年ほど前です。現在、首都圏の国立大学で政治学を教えておられる教授です。私とほぼ同世代で、日本キリスト教団の教会に属するキリスト者の方です。

なぜ20年ほど前か。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件への報復を理由に始まったアフガニスタン戦争の勃発当初、私は30代でしたが、そのときも何もできない無力さを痛感し、悩んだからです。戦地に乗り込んで平和運動をする人がいることを知り、「あんなふうにできたらいいのに」と考えました。私はそういう人間です。考えるだけで行動が伴いません。

私の思いをその先生に伝えたところ、慰めの言葉をくださいました。「戦地に行って平和のために行動することと、自分が今いる場所で平和を享受し、平和に過ごすことは、本質的に同じ意味と価値を持つので、悩むことはない」(大意)というものでした。

目から鱗が落ちる思いでした。平和運動を日々展開しておられる方々には、まるで言い逃れをしているかのように響く言葉かもしれません。しかし、決して言い逃れではありません。事柄の本質に迫る言葉です。まさに20年、大切に受け止めてきました。

「自分が今いる場所で平和を享受し、平和に過ごすこと」は簡単で当たり前のことでしょうか。何十年も前から「平和ボケ」という言葉を耳にしますが、失礼極まりない言いがかりです。

平和憲法があるかぎり、わたしたちが徴兵されることはなく、自分が武器を取って戦地に立つこともありません。その平和憲法を、現政府が力ずくで変えようとしています。

徴兵が始まれば、戦地に行かされるのは今の子どもたちです。「教え子を戦地に行かせない」という言葉をまさか私が学校の教室で高校生たち相手に力説する日が来るとは想像していませんでした。本当にそうなる可能性がゼロでなくなっています。肯定する意味ではありません。

今日の聖書箇所の中で特に取り上げたいのは、40節の「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」というイエス・キリストの言葉です。

聖書のどの言葉も同じですが、ひとつの言葉だけを前後の文脈から切り離して、勝手な意味を押し付けてはいけませんので、本来ならば文脈の説明を欠かすことはできません。しかし、今日は特別に、別の方法を採らせていただきます。

今日ご紹介したいのは、新約聖書の最初の3つの福音書の中に、いずれもイエスさまの言葉として紹介され、おおむね同じ趣旨でありながら、内容が異なる並行記事がある、ということです。

マタイによる福音書12章30節(新共同訳22ページ)には「わたしに味方しない者は、わたしに敵対し(ている)」と記されています。ルカによる福音書9章50節(新共同訳124ページ)は「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」と記されています。

今日の箇所のマルコ福音書の言葉に近いのはルカ福音書のほうですが、マルコで「わたしたち」と書かれているところが、ルカでは「あなたがた」になっています。

言葉どおりに考えれば、イエスさまが範囲に含まれるかどうかの違いです。「わたしたち」にはイエスさまが含まれ、「あなたがた」にはイエスさまは含まれません。その場合「あなたがた」の意味は「教会」です。そして同時に「聖書の読者」です。あなたのことです。

マルコ福音書の言葉と、もしかしたら正反対の意味にもとれるのが、マタイ福音書の言葉です。「味方でない者は敵である」と言うのと、「わたしに逆らわない者」つまり「わたしの敵でない者は味方である」と言うのとで正反対の意味になるかどうかは考えどころですが、かなり違います。

いま挙げた3つの福音書の並行記事の中で、本当にイエスさまがおっしゃった言葉はどれなのかを決定するのは不可能です。それよりも大事なことは、3つすべてが同じひとりのイエスさまから発せられた言葉であると受け入れたうえで、その意味を重層的に考えることです。

このようなことは、私の考えを披歴するより、信頼されてきた参考書の言葉を紹介するほうがよいと思います。日本の教会で古くから読まれてきたアドルフ・シュラッター(Adolf Schlatter [1852-1938])の『新約聖書講解2 マルコによる福音書』(新教出版社、1977年)の今日の箇所のところにマタイ福音書12章30節についての素晴らしい解説があることが分かりました。

「決意のある、忠実な交わりだけが、どこまでもイエスに結びついて行く道である。真心からイエスの側に立たない人は、イエスの戦いの相手、戦って雌雄を決する、世の戦いの相手であるもろもろの力に奉仕し続けている。そこには真剣で、痛切な悔い改めへの呼びかけがあり、決断と決意を求め、どっちつかずの人びとを奮い立たせ、中途半端を裁き、ひそかな敵意を明るみに出し、その人がわれとわが身を投げ込む危険を教えている」(同上書105ページ)。

私なりの言葉で言い換えれば、マタイ福音書のほうの「わたしの味方でない者は敵である」というイエスさまのみことばは、その「敵」とイエスさまが戦闘なさるのではなく、「戦って雌雄を決する世の戦い」から決別して、「戦わないわたしの側につきなさい」という呼びかけを意味するということです。「戦わない決心と約束をしなさい」ということです。

この理解で正しいならマタイ福音書とマルコ福音書は矛盾していません。シュラッターが次のように整理してくれています。「前者〔マタイ〕は、私たちが自分たちのなまぬるいどっちつかずの行き方が気に入ってしまわないように防ぎとめる。後者〔マルコ〕は、私たちが自分たちの弱々しく、未熟な在り方のために気落ちしてしまわないよう防ぎとめている」(同上書106ページ)。

もう一度読みます。シュラッターによるとマルコのイエスさまの言葉には「私たちが自分たちの弱々しく、未熟な在り方のために気落ちしてしまわないように防ぎとめる」意味があります。

自分は安全地帯にいて、平和のために具体的な行動を起こせず、何をすればよいか分からないし、手をこまねいて状況を観察しているだけであることを苦にし、ただ悩むばかりだとしても、「戦わない決心と約束」をお求めになるイエスさまに逆らわないならば、その人々と共にわたしはいると、イエスさまが慰めてくださっている、ということです。

決して言い逃れではありません。「わたしたちが戦いを避け、平和に過ごすこと」が「イエス・キリストの味方」であることを意味します。それは日々の平和運動です。

(2022年8月7日 平和聖日礼拝)