2013年12月15日日曜日

家畜小屋の中で救い主がお生まれになりました

ルカによる福音書2・1~14

「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」

いまお読みしました聖書の個所は、毎年クリスマスが近づくたびに、またはクリスマス礼拝当日に読んできた個所です。ここに記されていることの中で最も大切なことは、わたしたちの救い主イエス・キリストがお生まれになった場所はどこなのか、ということです。それを示す言葉がキーワードです。

そのキーワードは「飼い葉桶」です。飼い葉桶があるのは家畜小屋です。つまりイエスさまは家畜小屋の中でお生まれになりました。

言うまでもないことですが、家畜小屋は人間の住む場所ではありません。まさか当時、人間の住む場所はどこにもなかったという話ではありません。「宿屋には彼らの泊まる場所が無かったからである」(7節)と記されています。宿屋はあったのです。しかし、彼らの泊まる場所がなかったのです。

ローマ皇帝アウグストゥスの命令で当時ローマ帝国の支配下にあったユダヤ王国の人々がそれぞれ自分の町へ帰って住民登録をしなければならなくなりました。ユダヤ人たちは遠い町への移動を強いられ、国じゅうは蜂の巣をつついたような状態になり、宿屋はどこも満室でした。だからイエスさまは家畜小屋でお生まれになりました。人間の住む場所ではないところでお生まれになったのです。

この個所を改めて読みながら考えさせられたことがあります。それは、ローマ皇帝アウグストゥスにとっては、自分の下した命令によって動かす人々がどんな目にあおうと、どんな苦しみを味わおうと、そんなことはどうでもよかったに違いないということです。

ヨセフとマリアにとって、初めての子どもをそのような場所で産まなければならなかったことは、悲劇という以外に表現しようがないことだったに違いありません。しかし、そのようなことは現実に起きます。

一国の権力者の目から見れば、国民一人一人はまるで飛行機の上から地上を見るとそこに見えるごま粒のように小さい人間の姿かもしれません。しかし、その人々も確かに人間です。ごまではありませんし、家畜でもありません。

国民一人一人の姿がちゃんと人間として見えているならば、一つの命令を下す場合でも、その結果、国民の一人一人がどのような目にあうのかということを丁寧に考えるでしょう。だれ一人不幸にならず、少なくとも人間として尊重されるように配慮がなされる政治を行うでしょう。

しかし、そのようなことに全く関心を持たない、国民の一人一人がどうなろうと関係ないと思っているような政治家は、ただのファシストです。

先週は、ユダヤの国のヘロデ王の悪党ぶりをお話ししました。これで分かることは、イエスさまがお生まれになったときのユダヤの王も、そして今日の個所に登場するローマ皇帝アウグストゥスも、ファシストだったということです。

悪党が政権を握ると国民は不幸になります。イエスさまがお生まれになったのは、まさにそのような時代でした。ほんの一握りのファシストのとりまきたちが政治的・軍事的に大多数の国民を支配し、国民の富を独占する。それによって国の中に経済格差が起こる。貧しい人々は苦しみを味わうばかりです。そういうことが現実に起こるのです。

そのようにして生み出される貧しい人々の代表的な存在が、今日の個所に登場する「ベツレヘムの羊飼い」です。

羊飼いたちは「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をして」(8節)いました。彼らは「野宿」をしていました。野外生活者です。「夜通し」働いていました。夜に寝ないでする仕事です。そして、年がら年中付き合っているのは「羊の群れ」でした。人間相手の仕事ではありません。彼らが過酷極まりない労働に従事していたことは間違いありません。

しかし、その仕事は誰かがしなければならないことです。羊の肉は人の食用にされますし、毛皮は人のために用いられます。羊飼いの仕事をする人がいなければ、多くの人は困ります。しかし、過酷な仕事ですので、だれもが嫌がります。人気がある仕事ではありえない。楽な就職先はあっという間に無くなる。競争に強い人が勝ち取る。最後に、いちばんつらい仕事として羊飼いの仕事が残る。

しかも、ベツレヘムの羊飼いたちはユダヤ人であると考えられます。しかし、ユダヤ人であれば、アウグストゥスからの命令で、自分の町に帰り、住民登録をしなければならなかったはずなのですが、羊飼いたちはそのようなことをしていなかったと思われる。なぜそうなのか。彼らは住民登録の対象外であるとみなされていたからです。それは国民の数に入っていないことを意味します。政府からも行政からも、事実上、人間扱いされていないということです。いつどこで死のうが殺されようが関係ない。生活保護の対象外です。

その彼らに主の天使が現れました。そして「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10~12節)と教えてくれました。

何が「あなたがたへのしるし」でしょうか。それは、もちろん「飼い葉桶」です。それが置かれている、人間の住む場所ではない家畜小屋の中で、「あなたがたのために」、つまり、「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしている」あなたがた羊飼いたちのために、今日救い主がお生まれになった、と主の天使が教えてくれたのです。

「今日」というのですから、主の天使がこの羊飼いたちに救い主の誕生を教えてくれたのは、新聞の号外のようなものです。ニュース速報です。誰よりも先にあなたがたに伝える。あなたがたのような「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしている」人々にこそ、真っ先に伝える。あなたがたが日々生活しているのと同じ場所で、あなたがたと同じ姿で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。その救い主は、あなたがたの側についてくださる。味方になってくださる。あなたがたの苦しみを共に担ってくださり、共に苦しんでくださる。それが救い主イエス・キリストである。そのことを主の天使が教えてくれたのです。

そして、その天使に天の大軍が加わり、神への賛美が始まりました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)。そして、羊飼いたちは、イエスさまがおられる場所、飼い葉桶のある家畜小屋にたどり着きました。そして、彼らは、「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)と書かれています。

この羊飼いたちはイエスさまに初めてお会いして何をしたのでしょうか。イエスさまに対する礼拝であり、賛美です。先週と先々週学びましたマタイによる福音書には東の国の占星術の学者たちが、イエスさまのもとにやってきたことが記されていました。彼らはひれ伏してイエスさまを拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。占星術の学者たちはイエスさまにお会いして何をしたのでしょうか。それもまたイエスさまに対する礼拝であり、賛美です。

羊飼いたちと学者たちよりも前にイエスさまにお会いした人たちのことは、聖書には記されていません。おそらく彼らがいちばん最初です。もちろんヨセフとマリアのほうが彼らよりも前だと言えば、そのとおりです。あとは、家畜小屋にいたかもしれない動物たちのほうが前だと言えば、そうなるかもしれません。

しかし、動物たちのこととイエスさまの両親のことはともかく、イエスさまのもとに集まり、世界の歴史の中で初めてイエスさまを礼拝し、賛美した人として聖書に記されているのは、ユダヤ人の中で人間扱いされていなかったベツレヘムの羊飼いたちと、ユダヤ人たちからは異邦人であるという理由で軽蔑されていた東の国の占星術の学者たちでした。彼らに共通しているのはユダヤの社会の中で差別されていた人たちだ、という点です。

繰り返します。世界の歴史の中でイエス・キリストを最初に礼拝したのは、ユダヤ人たちから差別されていた人たちでした。ユダヤ人とは聖書の御言葉をよく学び、よく知っている人たちのことだということは、繰り返し申し上げてきました。しかし、そのような人たちは、生まれたばかりのイエスさまを礼拝しませんでした。それどころか、ユダヤ人であったヘロデに至っては、律法学者や祭司長の聖書知識を悪用して、イエスさまを見つけ出して殺すことを図ったということまで記されています。あるいは、ユダヤ人たちの多くは、その後、イエスさまが十字架の死に至るまで、イエスさまを憎みました。

いま私が申し上げているのは、ユダヤ人という民族の人のすべてが悪いという話ではありません。ユダヤ人差別をしているのではありません。あるいは、聖書の知識を持っている人のすべてが悪いという話ではありません。そのようなことを私が言うはずがありません。聖書を学ぶことは大切です。それは世界の知識の中の最高かつ最良の知識です。

しかし、ヨーロッパに古いことわざがあります。「最良のものが堕落すると、最悪のものになる」。最高に価値ある存在が堕落すると最悪の結果を生み出すのです。たとえば、聖書の知識を悪用すれば最悪の結果を生み出すのです。イエスさまを十字架につけて殺した人々は、世界中で誰よりも聖書の御言葉をよく知っていた人たちなのです。

わたしたちはどうでしょうか。イエスさまのもとで最初に行われた礼拝に集まった人たちのような人を、わたしたちの礼拝に積極的に招かなければなりません。今のわたしたちの教会に、そのような人がどれくらいいるでしょうか。夜通し働いている人、社会から差別されている人、聖書の御言葉を知らない人。その人々のために、救い主イエス・キリストはお生まれになったのです!

(2013年12月15日、松戸小金原教会主日礼拝)