2013年11月7日木曜日

「現代人に納得できる教義学」を求めて(2)

しかし、本当に難しいのはここから先です。「解説」とは意味不明の言葉を理解可能な言葉へと置き換えることを意味すると考えた上で、そのことをキリスト教の教義学にも当てはめて考えようとするとき、非常に難しい問題にぶつかります。それは「教義学」そのものが現代社会から失われているという問題です。

ただし、それはとても難しい問題ですので、ぼくが今ここでスラスラと論じることができるようなことではないです。ただ、現象としてはかなり既出であり、ほとんど自明でさえあることなので、ちょっと例を挙げるだけで「あああ」という声が上がるのではないかとも思っています。

ぼくがすぐ思いつく代表的な「現象」は、たとえば聖書の言葉や神学の概念を「現代的な学問」である心理学や社会学や歴史学などの各領域で固有な定義づけがなされている言葉へと「翻訳」することで、「はは、なるほど」と納得するという流れです。でもそういうのはぼくが求めていることではありません!

神学の概念を心理学や社会学や歴史学の概念へと全く置き換えてしまうのであれば、それは「神学を放棄すること」であり、「神学が心理学や社会学や歴史学へと吸収されること」をやはり意味せざるをえません。それでよいなら「神学」は不要です。神学部・神学大学・神学校などは、もちろん不要です。

しかし、「神学部・神学大学・神学校などは、もちろん不要です」は、その前の「それでよいなら」という仮定の話の続きです。このような仮定はぼく自身も不快なので、自分で不快だと思いながら書くべきではないのかもしれません。神学は不要とは思っていないから、ぼくは神学にとどまり続けてきました。

ぼくに「神学者」を名乗る資格はないです。しかし、カール・バルトが使った言葉をそのまま借りて言えば「自分が神学者であることをはずかしいと思うような小児病」をバルト自身は「ある程度脱却したつもり」だと書いたのとよく似た心境を今のぼくが持っていることは、なんと驚くべきことに、事実です。

「現代人に納得できる教義学」を「求めている」ぼくが「求めていないこと」は、神学という学問が心理学や社会学や歴史学などへと吸収されてしまうことです。そのことを、ぼくは全く求めていません。神学の問題は神学が解決しなくてはなりません。教義学の刷新の結果が神学の喪失であってはなりません。

だからこそ、ぼくは「現代人に納得できる教義学の実現は非常に難しい」と言っているのです。問題は、どうしたら神学を喪失しないで教義学を現代的なものへと刷新しうるか、です。心理学や社会学や歴史学をワルモノにするつもりはありませんが、これらの学問と神学とは、厳密に区別されるべきなのです。

その意味では「神学」と「キリスト教学」も、やっぱり違うものなのだと思います。いっそ、キリスト教学が「現代的な装いへとカムフラージュされた神学」であればよいのに!しかし、どうもそうではなさそうです。キリスト教学は、意図的に、全速力で神学のもとから走り去ろうとしているように見えます。