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2025年4月12日土曜日

改革派教会の訓練規定

日本基督教団紅葉坂教会(神奈川県横浜市西区宮崎町 1 )

講演「改革派教会の訓練規定」

日本基督教団足立梅田教会牧師 関口 康

はじめに

私に与えられた宿題は「改革派教会の訓練規定」について話すことです。貴『通信』35号に記したとおり、1990年 5 月に日本基督教団(以下「教団」)補教師准允、1992年12月に正教師按手を受けた私が1997年 1 月から2015年12月までの19年間を日本キリスト改革派教会(以下「改革派教会」)で過ごし、2016年 4 月に日本基督教団教師に戻りました。その経験に基づいて、改革派教会の「訓練規定」との比較において教団の戒規ルールの問題点を浮き彫りにすることが本講演の目標です。

誤解を避けたいと願っています。今の私は正真正銘、日本基督教団教師です。私にはもはや改革派教会を擁護する意図も責任もありません。彼ら自身も、みずからの教会規程(政治規準、訓練規定、礼拝指針)を「途上にある」ととらえています。その意味で「ひらかれた」姿勢を持っています。

改革派教会の基本姿勢

日本キリスト改革派教会は、戦前は旧日本基督教会に属し、1941年の日本基督教団創立当初は「教団第一部」に属し、戦後最も早く教団を離脱し、1946年に創立されました。創立当初から、彼らが「簡易信条」と呼ぶ旧日本基督教会の1890年の信仰告白および諸規則を下敷きにしつつ、米国南長老教会の伝統に基づき、彼らが「精密信条」と呼ぶウェストミンスター信仰基準(信仰告白、大・小教理問答書)の翻訳と教会規程(政治規準、訓練規定、礼拝指針)の整備に取り組みました。

創立50周年記念誌『日本基督改革派教会史 途上にある教会』1996年(142頁)によると、「条文となった規則によって教会のあるべき姿を定めるのが改革派教会の教会形成の基本的な姿勢」であり、「これらの条文は教会の理想を描いているのではなく、現実の教会が曖昧で不透明な道を歩むことなく、分かりやすい筋道立った手順で運営・指導されるための規律である」としています。

もう少し続けます。「日本のプロテスタント教会は当初から法的精神が希薄であったといわれる。家族的な親しみが重視される一方、情緒的な慣れあいに支配される傾向が至るところにあらわれた。規律を重んじ、法に基づく秩序ある教会を形成することは、日本基督改革派教会に課せられた大きな責任である」。

彼らが言おうとしているのは、現実の教会において「曖昧で不透明な」余地を残すと人治主義を招来しやすいので、よろしくない。法治主義の教会を築くためには詳細で精密な条文が必要であるということです。痛いところを突いていないでしょうか。

教会の「家族的な親しみ」は大事にされるほうがよいと私は考えています。しかし、反面の「情緒的な慣れあい」が多くの弊害を生んできたことは否定できないでしょう。

ご承知のとおり、日本基督教団の諸規則は簡易なものです。改革派教会のそれとの違いを明らかにするために、戒規ルールに限定した比較対照表を作ってみました。

戒規ルールの比較対照表

 

日本基督教団

日本キリスト改革派教会

判定規準

〇教憲・教規

〇戒規施行細則

(〇「日本基督教団信仰告白」?)

(〇「戦責告白」?)

〇ウェストミンスター信仰基準(信仰告白、大・小教理問答書)

〇教会規程(政治規準、訓練規定、礼拝指針)

裁判権者

〇教団教師委員会(定数 名)構成員の 分の 以上の同意で戒規執行(戒規施行細則(「細」)条、条)

〇当該教師が所属する「中会」(「中会」とは一定地域内の全教師、無任所教師、引退教師、各教会の代表者である治会長老で構成される教会会議を指す)

〇教会会議は政治規準に従って、裁判権を有する特命委員会を設置することもできる。(訓41条 

原告

(規定なし)

〇原告は常に日本キリスト改革派教会であって、その名誉と純潔が維持されるべきである。(訓練規定(以下「訓」)21条 

訴追者

(規定なし)

〇訴追者は自発的にしても、任命によるにしても、常に日本キリスト改革派教会の代表者であって、その事件においては、同代表者としてそのあらゆる権利を持つ。(訓21条 

〇訴追者は、教会会議の一員でなければならない。(訓20条 

〇和解と違反者の矯正との手段を試みることなしに訴追者となってはならない。(訓23条 

〇内密の違反を知る人々は、まず私的な方法によってつまずきを除去する努力なしに、訴追者となってはならない。(訓233

〇被告に対して悪意をもつと知られている者、善良な性質でない者、戒規または裁判手続き中の者、被告の有罪判決と深い利害関係をもつ者、または訴訟好き、無分別もしくは極めて軽率な性質であると知られている者による告訴を受理するときには最大の注意を払うべきである。(訓261

〇訴追者が告発の根拠に蓋然性があったことを示すことに失敗した場合は、悪意または軽率による中傷者として自ら戒規を受けなければならない。(訓27条)

事情聴取

 

(規定なし)

〇小会および中会は、その管轄下の人々の信仰と行状についての好ましくない報道に接したときは相当な注意と十分な思慮分別をもって判断し、必要と認めるときはかれらに満足な釈明を求めなければならない。中傷によって侵害を受けたと思う人々が調査を要求するときは、より一層釈明を求めなければならない。(訓20条 

公判

(規定なし)

〇議長の開会宣言

〇起訴状の朗読

〇被告の答弁

〇証人尋問(訴追者側、被告側)

〇当事者の発言

(訴追者→被告→訴追者)

〇中会議員による意見表明

〇投票(有罪・無罪)

〇判決    (訓44条)

証人

(規定なし)

〇被告は証言することは許されるが強制されない。(訓64条)

〇夫または妻は、いかなる会議においても、配偶者に不利な証言を強制されてはならない。(訓65条)

上告

〇不服なるときは教団総会議長に之を上告することを得。教団総会議長前項の上告を受けたるときは通告を受けたる日より14日以内に常議員会の議を経て審判委員会若干名を挙げ之を審判させるものとする。(細 条)

〇上訴とは、下級会議で判決が下された裁判事件を上級会議に移管することである。上訴は不利な判決を受けた当事者にのみ許される。(訓110条)

(教師に関する裁判権は中会にあるので、教師の裁判に関する「上級会議」は必ず「大会」を指す)


私の意見

繰り返しますが、私は今日、改革派教会の宣伝に来たのではありません。改革派教会の存在と彼らの訓練規定を理想化する思いは、加入前は少しありましたが、今は全くありません。彼らの用語を借りて言えば「被告に対して悪意をもつと知られている者」や「被告の有罪判決と深い利害関係をもつ者」や「訴訟好き」による告訴で苦しむ人々もいました。「なぜそんなことで」と耳を疑うような不可解な理由で戒規を受けた教師や信徒に接して来ました。

日本基督教団と日本キリスト改革派教会を往復し、体験的比較が可能になったからこそ、教団の「簡易な」ルールの利点がよく分かります。「抜け道が多くて都合が良い」と言葉にすると邪悪な響きを帯びるでしょうが、「ゆるさ」ゆえにブラック企業や家庭内でパワハラを受けて傷ついた人々の逃れの場になっているケースもあるはずです。「情緒的な慣れあい」と言われてしまうと返す言葉がありませんが、教会の「ゆるさ」や「家族的な親しみ」は保護されるべきです。

いずれにしても、精密な条文をどれほど整備しても、そのこと自体で「盗むなと説きながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫を行い、偶像を忌み嫌いながら神殿を荒らし、律法を誇りとしながら律法に背く」(ローマ 2 章21~23節)教師の問題は解決しません。「人が義とされるのは」〝精密な条文の厳守〟によるのではなく「信仰による」(ローマ 3 章28節)のです。しかし、この件は私に与えられた宿題の範囲を超えます。

それよりも、第43回教団総会において 2 教区から提案された北村牧師関連議案を「上程しない」とする趣旨説明の中で雲然俊美教団議長が「教憲・教規に再検討を可能とする規定がないこと、再検討をした場合、教師委員会での決定を最終決定とする施行細則と齟齬を来すこと、上程した場合、前例となり、教団の活動の混乱が予想される等」(『通信』35号の小海基先生の証言)と発言したことは、きわめて重大です。

もし教団議長の答弁内容が事実ならば、現行の教憲・教規ならびに戒規施行細則は、教師委員会(定数 7 名)が一教師の生活基盤を剥奪する決定を一度したら最後、二度と取り消すことも再検討することもできず、仮にたとえ冤罪であっても覆らないことになっていると言っているのと同じです。教師委員会の決定は〝無謬〟でしょうか。これほどプロテスタント教会にそぐわない議長答弁を、私は寡聞にして知りません。

しかも、それは今に始まったことではなく、北村先生に免職戒規が執行された2010年時点も同じ状態だったはずです。もしそうであるならば、北村先生の免職は、少なくともプロテスタント教会とは異質な思考が働いて執行されたものであるとしか私には考えようがありません。これは真剣な問いです。私たちは〝教団教師委員会無謬説〟を信じなくてはならないでしょうか。

もし教団議長の答弁通り「教憲・教規に再検討を可能とする規定がないこと」が事実なら「再検討を可能とする規定」を速やかに新設して北村牧師関連議案を正式な議題として取り上げるべきです。それが最もまっとうで、プロテスタント教会らしい対応であると私は考えます。

北村慈郎牧師のご健康が守られ、福音が力強く前進しますようお祈りいたします。

(2025年 4 月12日、講演レジュメ、北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会、日本基督教団紅葉坂教会)

2017年10月11日水曜日

講演「イエス・キリストを模範とすること」

国際基督教大学高等学校キリスト教講演会(2017年10月11日)

講演会の様子が「ICU高校 スクール・ナウ!」に画像付きで紹介されています!

ICU高校 スクール・ナウ!(画像をクリックするとサイトが表示されます)

関口 康(日本基督教団牧師)

はじめに


国際基督教大学(ICU)高等学校のみなさま、はじめまして。関口康です。職業は牧師です。今日は3年生向けのキリスト教講演会の講師としてお招きいただき、ありがとうございます。

キリスト教講演会です。私は牧師です。本来でしたら聖書を開いて説教すべきかもしれません。しかしこれは講演会です。これからお話しするのも「説教」ではありません。そうではなく、これからお話しするのは「お説教」です。

宗教主任の岡田朋記先生からご依頼をいただいたときに言われたのは、大学受験を控えた3年生の励ましになるようなお話をしてくださいということでした。

私自身は受験勉強を真面目にしなかった人間ですので偉そうなことは言えません。しかし、自分の子どもたちの高校受験や大学受験をサポートした経験はあります。とても口うるさい父親で、子どもたちからすっかり嫌われています。

私は教会では「説教」をしますが、家では「お説教」をします。これからお話しするのも「お説教」です。「うるさいなあ」と思いながら聴いていただけますと幸いです。 

Ⅰ 人助けのスキルを身につけること


私が卒業した大学は、すぐそこの東京神学大学です。「三鷹市大沢3丁目」までICUと同じ住所です。岡山の高校を卒業してストレートで入学しました。そして大学院までの6年間、大学の敷地内の学生寮に住んでいました。大学に入学したのが1984年4月、大学院を修了したのが1990年3月です。

東京神学大学に在学していたとき、ICU高校には大変お世話になりました。実は食堂をしょっちゅう使わせていただきました。東京神学大学には食堂がないのです。昼食も夕食も外で食べるのです。それでICUやICU高校の食堂を、私だけでなく東京神学大学の人はみんな使わせていただいています。最近のことは知りませんが、おそらく状況は変わっていないと思います。

ですから、この学校の食堂にちょっとダサメの服のお兄さんお姉さんおじさんおばさんがいたら、東京神学大学の学生かもしれません。ぜひ声をかけてあげてください。必ず喜んでくれます。聖書の話とか詳しく教えてくれるかもしれません。

もうひとつ忘れられない思い出があります。それは悲しい話です。みなさんの中にいつも利用している方がおられると思いますが、本校の北門を出て東京神学大学の前を通る道の突き当りのバス通りに「西野」というバス停があります。私が大学院生だったときなので1988年か1989年ですが、西野のバス停の前で本校の女子生徒が交通事故に遭いました。そのとき私もそこにいたのです。

私もバスに乗ろうと思って道路の向こう側に渡ろうとしていたとき、「どんっ!」という大きな音がしたので、音の方向を見ると女子生徒が倒れていました。私もびっくりして思わず駆け寄りましたが、どうしてあげることもできませんでした。自分の無能さを思い知りました。

ただ、加害者が逃げそうだったので、私が大きな声で「逃げるな!」と怒鳴った記憶があります。そして、携帯電話を誰も持っていなかった頃ですので、交差点の斜め向かいの酒屋の前の公衆電話の近くにいた人に大きな声で「早く警察に電話してください!」とお願いしました。

そしてごめんなさい、女の子でしたが手を握らせていただいて、「大丈夫だから、大丈夫だから」と声をかけさせていただきました。その方は苦しそうな小さな声で「ありがとうございます」と言ってくださいました。するとまもなく警察と救急車が来てくれました。その後もその方がどうなったかを心配していましたが、何か月か後に「無事です、元気です」と風の便りに聞き、ほっとしました。

ですから今日の最初にお話ししようと思ったのは、くれぐれも交通事故には気を付けてくださいということです。今日私も電車とバスで来ました。西野のバス停で下りました。ここに来るたびにその日のことを思い出します。

そしてこのようなことをお話しする理由は、みなさんの教訓にしていただきたいからです。自分の目の前に、たとえ見ず知らずの人であっても、事故に遭い、命の危険がある人がいるとき、みなさんはどうしますか、何ができますか。そのことを考えていただきたいのです。

先月終わったフジテレビの月9ドラマをご覧になりましたか。「コードブルー」。私は夢中で観ました。あのドラマの若い医師たちのように事故現場でいきなり頭にドリルで穴をあけて脳の外にたまっている血を外に出すとか、胸やお腹をメスで切って自分の手を突っ込んで心臓マッサージを始めるとか、そんなことができる人はそうそういません。

もし皆さんの中にそういうお医者さんをめざしている方がおられるなら心から応援します。しかし、私が皆さんにお願いしたいのは、もっとずっと手前のことです。自分の目の前に命の危険がある人がいる、助けを求めている人がいる、そのときみなさんはどうしますか。忙しいから無視する、自分の都合を優先する、ということでいいでしょうか。それを考えていただきたいのです。

そして、そういう人を助けることができるスキルをみなさんに身につけていただきたいと願っています。

Ⅱ 人間にもっと関心を持つこと


今申し上げたことをもう少し抽象的な別の言い方で言い直しますと、それは次のようなことです。皆さんは人間に関心がありますか。今日の私の第二のお願いは「人間にもっと関心をもってほしい」ということです。

そんなことを言われなくても、家族や学校の友達や先生たちには関心があると言いたい人は多いと思います。それと、急に遠く離れてテレビやネットの俳優さんや声優さんや歌い手さん、また政治家や有名人にも関心があると思います。問題は近い人と遠い人のあいだの中間にいる人たちです。距離的にも心理的にも近い人たちと、逆に非常に遠い人たちのあいだの中間にいる人たちのことです。

はっきりいえば、知らない人です。電車やバスでたまたま一緒にいる人たち。町を歩いているときにすれ違う人たち。行ったこともない他の国の人たち。いちいち気にしていると気が変になりそうだと思うほどたくさんいる世界中の人たちのことです。35億の2倍の70億の人です。

そんなことを言われても困ると思う人がおられるのは分かっています。電車やバスの中で知らない人に関心をもっていつもじろじろ見ていたりすると「ストーカーですか」と言われるかもしれません。私が言いたいのはそういうことではありません。

ならば何を言いたいのでしょうか。こんなふうに言われるとますます腹が立つかもしれませんが、「みなさんは自分の周りにいる人々を自分と同じ人間だとどれほど認識できていますか」というようなことです。それは、この学校の皆さんにはきっと理解していただけることだと思っています。

こんなことを部外者に言われたくないかもしれませんが、ICU高校の皆さんは全国的に見てもトップレベルの優秀な方々です。私なんか逆立ちしても入学させてもらえません。私は逆立ちできませんが。

しかし、みなさんは私からこういうことを言われると、たぶん嫌な気持ちになるのではないかと想像します。勉強を一生懸命がんばったから今の自分があるのだと、感じるのではないでしょうか。

途中の努力の部分をあなたは見たのか。何も知らない人に「あなたは優秀だ。みなさんは優秀だ」などと評価されたくないと思うのではないでしょうか。そういうことを言ってもよいのは私と同じか私以上の努力をし、苦しんだことがある人だけだと。今日初めて会ったばかりのあなたに何が分かるのか。私の、わたしたちの何を知ってるのかと。

先ほど言いました「みなさんは自分の周りにいる人をどれくらい自分と同じ人間として認識できていますか」という問いは、今申し上げたことと関係しています。

わたしたち人間にはプライドがあります。それは誇りであり、「矜持」です(「矜持」は漢検一級レベルの言葉ですので、ぜひ覚えてください)。しかし、それは他の人も同じであると私は言いたいのです。もしあなたにプライドがあるとしたら、あなたの周りにいる人々にも、あなたと同じだけあるのです。

そしてそれは、はっきり言えばしばしば屈折しています。「あなたは優秀だ。みなさんは優秀だ」という言葉は褒め言葉のはずですが、そんなふうに言われても全然うれしくない。むしろ腹が立つ。そこで起こるのは、自分のことを何も知らない人に自分の「評価」などされたくないと思う心です。よほど尊敬できる先生ならともかく、普通のおじさんのくせに知ったふうなことを言わないでほしいという思いです。

いかがでしょうか。そんなことを自分は一度も考えたことがないという方がおられるようでしたら、お許しください。しかし、その思いは大なり小なりみんな持っています。それをどこまで互いに尊重し合うことができるかが問題です。

Ⅲ 上を目指して突き進むこと


いま申し上げたことと、その前に言いました、電車やバスでたまたま一緒にいる知らない人に関心を持つこととがどう関係するのかと思われるかもしれません。その関係をこれから説明します。

先ほども言いましたが、今日はバスと電車で来ました。私はバスにも電車にもよく乗りますので、これからお話しするのは今日の話ではありません。それはたいてい夕方ですが、高校生たちが学校が終わって家に帰る電車やバスの中で繰り返し見かける光景であり、そのとき耳にする話し声です。

どこのバス停やどこの電車の駅から乗ってきたかでどこの高校の生徒かが分かってしまうのですが、そのバスや電車に乗ってきたときから下りるまで、とにかくずっと、大きな声で大学受験の話をしている生徒たちがたくさんいます。

しかも、それはたいてい大学そのものの話ではなく、大学の偏差値の話です。この偏差値だと自分は入れるか入れないかと、いつまでも言い続けている。そういう話を他のお客さんが大勢いるところで、電車に乗ってきたときから下りるまでずっとしている。他に話題がないのかと言いたくなるほど。

その高校生たちの気持ちは私にも分かるのです。しかし残念な気持ちになります。特に私が気になるのは、その高校生たちにとって楽勝だと思っているほうの大学の話をしているときです。「あそこは偏差値が低いので誰でも入れる」とか「あいつはあの大学程度だろう」とか、そういう話。

失礼だと思いませんか。同じ車内にその大学を受験しようとしている高校生がいるかもしれません。その大学の学生や卒業生がいるかもしれません。むかし自分が受験しようとして失敗した大学の話だと思って聴いている大人の人もいるかもしれません。大学受験とか進路の話というのはすべての人に関係することなので、みんな黙っていますが、耳をそばだてて興味津々で聴いています。そして、その話を聴いて傷ついている人々がいます。

そういうことまで考えたことがありますかと、皆さんにお尋ねしたいのです。そして、そういう考え方や価値観を持ち続けているかぎり、大学生になっても、会社に勤めるようになっても、同じようなことをいつまでも繰り返すことになると思います。

厳しい言い方になりますが、中途半端な人がいちばん人を見くだします。本当に勉強している人は人を見くだしたりしません。上を目指している人は「上には上がある」ことを知っています。自分はまだまだこれからだということが分かっているので謙遜です。

しかし、中途半端な人は自分の下を見て安心しようとします。自分の下の人を見くだし続けることにおいてしか自分の位置を確認することができないし、安心できないのです。しかし、そういうのは本当にみっともない、見苦しい考え方や価値観であると言わざるをえません。

ですから、私は皆さんにはぜひ遠慮なく上を目指して突き進んでいただきたいと願っています。自分の下との比較なんかどうでもいいです。上だけ見てください。上を目指してください。そのほうが謙遜な生き方ができます。人を見くだすよりも、はるかにましです。

Ⅳ イエス・キリストを模範とすること


以上、どこがキリスト教講演会なのか分からないような内容で申し訳ありません。三点述べました。第一は「人助けのスキルを身につけること」、第二は「人間にもっと関心を持つこと」、第三は「上を目指して突き進むこと」。

しかし、最後はやはりキリスト教講演会にふさわしい内容にしなければならないと思っています。そこで申し上げたいのは、みなさんがこの高校で3年間学んだ聖書の教え、特にイエス・キリストの生き方がみなさんの生き方のモデルであるということです。

イエス・キリストは、困っている人なら知らない人でも助けてくださいました。そして、誰よりも謙遜に生きられました。そのお姿こそが、みなさんの人生の模範であり、モデルです。

しかし、それだけ言っても抽象的すぎて何のことか分からないかもしれませんので、具体的な提案を二点させていただきます。二つともカタカナの言葉です。第一は「ノブレス・オブリージュ」、第二は「ハイブリッド・シナジー」です。

第一の「ノブレス・オブリージュ」はフランス語です。英語で言えばnoble obligationです。その意味を噛み砕いていえば、身分や地位が高い人であればあるほど、その身分や地位にふさわしい人間でありうるために果たさなければならない義務や責任がある、ということです。それは、上の人が下の人々を見くだして偉そうにすることの反対です。偉い人ほどへりくだって、人に仕える人間になることです。

それはイエス・キリストの生き方そのものです。神の御子であられる方が人間になられました。父なる神のみもとで何不自由なく暮らせたお方が面倒くさい地上の世界に来てくださいました。そして、十字架にかかってわたしたち罪人のために死んでくださいました。イエス・キリストの上から下へおりてこられたその道に私たちも従うべきです。私たちも謙遜にならなければなりません。

第二の「ハイブリッド・シナジー」は最近の自動車のトレンドです。ガソリンエンジンと電動式モーターの両方を搭載した自動車の仕組みのことです。それがいまお話ししていることに関係します。

みなさんはこの学校で聖書とキリスト教を学びました。しかしここは学校です。学校とは「学問」(サイエンス)を教える場所です。それは可能でした。聖書科の先生がたは全員、宗教の教員免許を持っています。それは日本の文部科学省と各都道府県の教育委員会が「宗教を学校で教えること」を認めていることを意味しています。日本のミッションスクールの「聖書科」は他のすべての教科と全く対等な「学問」(サイエンス)であるということを、我々が持っている宗教の教員免許が証明してくれています。

しかし、おそらくみなさんが感じておられるのは、聖書科の授業や学校礼拝の説教は他の教科と性質が違うということでしょう。それは私もそのとおりだと認めます。しかし、性質が違うからこそ「ハイブリッド・シナジー」の生き方が皆さんに可能になっていると、私は信じています。

それは何のことかといえば、他の教科で学んだ徹底的な現代的科学的な考え方と、聖書とキリスト教の教えに基づく考え方とを「ハイブリッド・シナジー」の関係で両立させることが皆さんには可能になっている、ということです。「イエス・キリストの生き方に学びながら、徹底的に科学的に考えて生きること」が、ICU高校を卒業する皆さんには可能である、ということです。

どの学問も決して完璧ではありません。宇宙は謎だらけ、世界は謎だらけ、人間は謎だらけです。将来みなさんが何を勉強し、どのような働きに就くのかは、私には分かりません。しかし、私に分かるのは、みなさんがどの道を行くにせよ必ず行き詰まるときがくる、ということです。

宗教が完璧だと言いたいのではありません。宗教も謎だらけ、聖書もキリスト教も謎だらけです。だからこそ科学と宗教はタイアップしなければならないと私は考えています。そうすれば、どちらかが行き詰ったとき、もう一方のエンジンが力強く皆さんを前に運んでくれます。

皆さんのこれからの歩みのためにお祈りさせていただきます。

ご清聴ありがとうございました!

(2017年10月11日、国際基督教大学高等学校 キリスト教講演会)

2009年10月25日日曜日

伝道の神学 喜びの人生をめざす旅人の力

ファン・ルーラーが幼少期に通ったアペルドールン改革派教会
(2008年12月9日 関口康撮影)

講演「伝道の神学 喜びの人生をめざす旅人の力」

関口 康

Ⅰ 「伝道の神学」の主体としての「地域性密着型中会」

この改革派神学研修所東北教室は、厳密に言えば東北中会とのダイレクトな関係にはない、あくまでも有志のグループであるという事情はよく理解しているつもりです。しかしまた、このグループが 日本キリスト改革派教会東北中会に所属する教会・伝道所との緊密な関係の中で営まれて来たものであるということは明言してよいはずです。

私は以前、東関東中会議長書記団を代表して東北中会の定期会を問安させていただいたことがあります。そのときが東北中会の皆さまとの正式な形での初顔合わせでした。そのときの会場も、今日と同じ東仙台教会でした。その日を含めると、東関東中会のメンバーになって以来二回目の「東北中会訪問」ということになります。

私は、東北地方とは縁もゆかりもない岡山県岡山市の出身者です。しかしそのような私でも、日本キリスト改革派教会の教師にしていただいて以来、東北中会の諸教会のために祈らなかった日はありません。伝道の戦いにおいては同志であり、同労者であると信じています。伝道に伴う苦しみや悩みは、それに携わったことがある者にしか分かりません。私も今、毎日のように涙を流していますので、皆さんの思いは痛いほど理解しているつもりです。

「おやおや、東関東中会は東北中会よりもラクチンではないのですか」と思われてしまうかもしれませんが、決してそんなことはありません。都会には都会なりの悩みがあり、独特の誘惑や罠が手ぐすね引いて待ち受けています。伝道がラクチンな地域など、地上には存在しないのです。

しかしまた、この日本の国土環境や経済状況などを考えますと、首都圏の伝道と地方都市や農村部の伝道とを全く一緒くたに丸めてしまうような議論や、各地の個性や固有性や特色を完全に無視してアイロンやローラーのようなもので均してしまうようなやり方がきわめて乱暴であることも事実です。

イエス・キリストの福音を宣べ伝えることを本旨とする「伝道」においても「地域性」(locality)というものが最大限に尊重される必要があると信じています。象徴的な言い方をお許しいただくなら、 伝道とは、飛行機の上から種をまき散らすような(大雑把で当てずっぽうな)仕事ではなく、ミミズの目を探すような(緻密で繊細な)仕事であると考えております。

東関東中会をわたしたちが 2006年7月に設立したときに掲げた、自己紹介のための理念は「地域性密着型中会」(locality-oriented presbytery)というものでした。この理念を考えたのは私ですが、 初代中会議長になられた横田隆先生が、大会向けにお書きになった文章に採用してくださいました。

この「地域性密着」という表現は、私の中では、一般的な意味での「地域密着」とは異なる概念です。しかし、このことについては中会設立時点の私にはきちんと説明する場も立場も与えられていませんでしたので、一緒くたにされたまま誤解されています。

現に、たとえば「地域性密着型中会としての東関東中会」という言葉を見た他中会の人々の中に、「東関東中会のような地域癒着型で利益誘導型の中会では、日本キリスト改革派教会としてのアイデンティティを保つことができない」という理由で批判している人がおられるということを後で知りました。その話を最初に聞いたとき、私は心底がっかりしたのです。人間の耳と心というものは、かくも歪んでいるのかと。

そして、もう一つのことを考えさせられました。それは「それでは改革派教会のアイデンティティとは何なのか」ということでした。

改革派教会のアイデンティティとは何なのでしょうか。大会決議を守ることでしょうか。それならそれでも結構です。しかしそれでは大会決議とは何なのでしょうか。それは、都会の有力教会の多数意見を力任せに押し通すことであってはならないでしょう。そもそも大会決議なるものは、地方の教会の現実が反映されていないようなものであってはならないでしょう。「地域性密着型中会」が無いようであっては、健全な大会決議もありえないでしょう。

突き詰めていえば、「地域性」(locality)というものに関心を払わないような教会、すなわち、各中会の意見を反映することを怠る大会のもとにある一全体としての教派は、真の意味での「改革派教会」ではありえないでしょう。我々の大切な教派が、そのようなものになっては、あるいは「しては」なるまいと、私は考えました。

「地域性密着型中会」という東関東中会の理念を「地域癒着型中会」だとか「利益誘導型中会」などと聞きまちがえた人たちを責めたい気持ちは、私にはありません。故意や悪意であるとも思っていません。ただひたすら、ぜひ正しく理解していただきたいと願っているだけです。

しかしまた、私は今日ここに、東関東中会を代表して来ているのではなく、あくまでも個人的な奉仕として来ています。これから申し上げることはすべて、私の個人的見解にすぎません。誰とも相談していません。発言の責任もすべて関口個人にあります。

しかしまた、そうであるという事情をあらかじめしっかりと確認したうえで、私が掲げた「伝道の神学」というテーマの中には、私自身の眼前に常に現実に存在する「東関東中会」の存在が念頭にあるのだということも否定できない事実であると明言しておきます。

そしてもし可能でしたら、定期大会記録に明記されている東関東中会が掲げた「地域性密着型中会」という理念を思い起こしていただきたいと願っています。この理念の本当の意味は何なのかということを正しく理解していただくことが、今日の講演の第一の目標であると申し上げておきます。

そして、この講演の第二の目標として考えておりますのが、講演のタイトルとして掲げた「喜びの人生をめざす旅人の力」としての「伝道の神学」とは何かということを理解していただきたいということです。

もちろん第一の目標と第二の目標は直接つながっている関係にあると私は信じています。すなわち、第一の目標である「地域性密着型中会」とは何かを理解していただくことと、第二の目標である「伝道の神学」とは何かを理解していただくこととが、私の中ではっきりとつながっています。

第一のつながりは、「伝道の神学」なるものを展開していく具体的な場は、大会でも神学校でもなく、「中会」であるということです。「いや、それは各個教会ではないのか」と思われるかもしれませんが、各個教会が単独で「神学」を営むことにはちょっと荷が重すぎる面があります。もちろん、伝道そのものの主体は各個教会であると言わなければなりません。しかし、「伝道の神学」を構築し、展開していくための場ないし主体は「中会」でなければなりません。

ですから、私の思いからすれば、各中会に「神学委員会」のようなものが設置されることが理想です。しかし、それが叶わなくても、せめて各中会に(東北中会にあるような)「改革派神学研修所○○教室」のようなものが置かれるべきです。

しかも、その場合の中会とは「地域性密着型中会」、すなわち、その中会が置かれている地域の地域性 (locality)を最大限に尊重すべきことを自覚し、かつ実践する人々の集まりでなければなりません。

 同じ一つの日本キリスト改革派教会に属する同志であっても、たとえば「東北中会の伝道の神学」と「東関東中会の伝道の神学」と「東部中会の伝道の神学」とその他の中会の「伝道の神学」との間には(一致点や共通点とともに)相違点があって然るべきです。

すべてが同じでなければならないと、自分たちの「伝道の神学」を押し付け合うことは問題を抽象化することであり、妄想に通じるとさえ言わざるをえません。

第二のつながりは、第一に申し上げたことのほとんど繰り返しであり、同じことの別の観点からの言い換えです。それは、そもそも「神学」とは個人のわざではなく、共同体のわざであるということです。それは信仰共同体としての教会のわざであり、教団・教派のわざでなければなりません。

神学とは個人的な思想・信条ではありません。ですから、はっきりいえば「中会なしに神学なし」です。そして逆も然りです。「神学なしに中会なし」でもあります。

まとめていえば、「中会の第一義は神学共同体である」ということです。神学を放棄した中会は、本来の意味での「中会」ではありえません。「中会」とは神学、とくに「伝道の神学」を共有する場なのです。

そして、中会には教師だけがいるのではなく、少なくとも(「教会の会議において、教師と同等の権威を有する」)長老がおり、そして すべての教会員が属しています。

もしそうであるならば、「地域性密着型中会の神学」としての「伝道の神学」は、(何らかの学位や留学経験をもった)神学教授職にある人の専売特許ではなく、すべての 教会員のものでなければならないのです。

Ⅱ ファン・ルーラーの「伝道の神学」

さて、序論的な話をひとまず終えて、次の話に進めます。以下の主題は伝道の神学とは何かという ことです。この件に関して私は一つのモデルをご紹介したいと願っています。

それは〝国教会系〟等 と称された、歴史的に古いほうの「オランダ改革派教会」(Nederlandse Hervormde Kerk)の中で、1950 年代に考案された「伝道の神学」の例です。

発案者は、アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])です。私はこの神学者についての研究を10年ほど続けてきました。この神学者はオランダ改革派教会 (NHK)の牧師であり、ユトレヒト大学神学部において「オランダ改革派教会担当教授」の職務に 就いた人でもあります。

このように紹介しますと、先ほど申しあげた、「伝道の神学とは神学教授職にある人の専売特許ではない」という話と矛盾するとお感じになるかもしれません。しかし、この点で申し上げておきたいことは、ファン・ルーラーが「伝道の神学」を考案した動機は、その時代に実施されていたオランダ改革派教会の『教会規程』の全面的な改定作業という歴史的大事業に寄与することであったという点です。

改定以前の古い版の同教会の『教会規程』は、なんとナポレオン統治時代のものでした。そのような古文書(こもんじょ)を改訂する委員会における主要なメンバーの一人がファン・ルーラーでした。

つまり、ファン・ルーラーの「伝道の神学」は、抽象的な机上の空論などではありえず、きわめてリアルなプレゼンスを持つ一つの「オランダ改革派教会」をそれに基づいて動かすこと、さらに「カルヴァン主義の国」とまで呼ばれたオランダの歴史と伝統そのものを動かすことを目標にした、きわめて具体的で現実的で実際的な提案であったということです。

そのファン・ルーラーの「伝道の神学」とはどのようなものだったのでしょうか。その概要をこれからご説明していきたいと思います。

しかし、まずそのテキストについて申し上げておくべきことがあります。ご存じの方もおられると思いますが、ファン・ルーラーの「伝道の神学」(Theologie van het Apostolaat)の日本語版が 2003年に教文館から出版されました。しかし、非常に残念なことに、これがものすごく読みにくい訳でした。はっきりいえば、ちんぷんかんぷんの、ひどいものでした。

私はこれを訳した人を個人的に知っていますので、悪口のようなことはなるべく言いたくないのですが、このようなひどい訳を流通させたままではファン・ルーラー先生に申し訳ないという思いさえ持っています。

ファン・ルーラーのこの書物は、国際的に高い評価を得ている、非常に優れた「伝道の神学」のモデルなのです。これを私は日本の教会の多くの人々に読んでいただきたいと願っています。そのために私は、今の訳本が早く絶版にされ、一刻も早く新訳で紹介し直されることを願っています。

ファン・ルーラーは「伝道の神学」を順序立てて考えて行くために、次の五つの教義学的な視点を設定しました。第一は終末論の視点であり、第二は聖定論の視点であり、第三は聖霊論の視点であり、第四は人間論の視点であり、第五は教会論の視点です。

これらすべての内容をご紹介する時間はありませんし、ファン・ルーラーの説明そのものを詳細に紹介することもできません。

そのため私は、わたしたち日本の教会的文脈の中で比較的理解しやすいと思われる視点をいくつかピックアップして私なりの言葉で解説していくことにします。それは最初の「終末論の視点」です。もう一つ挙げておきたいのが第四の「人間論の視点」です。

Ⅲ 終末論の視点から見た「伝道」

終末論から話を始めるというのは、人によっては奇妙な見方であると感じるものでもあるでしょう。なぜなら、ファン・ルーラーが登場するよりも前の時代の教義学において、終末論が置かれる位置は、「巻末付録」とまでは言われないにしても、ほとんど例外なくいちばん最後のほうの数ページの部分に割り当てられることになっていたからです。

実際、ファン・ルーラーの神学は「終末からの思惟」 (thinking from the End/ Denken vanuit einde)などと評せられるものであり、終末論からすべての神学を出発することが、彼の神学の特徴であるとさえ考えられています。

しかし、このファン・ルーラーの終末からの思惟は、「伝道の神学」を考えて行くためには、わたしたちにとって非常に有益であると思われます。なぜなら、間違いなくわたしたちの多くは、「終末」(the End)という言葉には「目的」(purpose)ないし「目標」(goal)という意味があるということを知っているからです。

なぜわたしたちの多くがそのことを知っているかといえば、わたしたちが常日頃から慣れ親しんでいるウェストミンスター信仰規準(とくに、ウェストミンスター小教理問答の第一問答)に何が書かれているかを知っているからです。

「問 ひとの主な目的(end)は何であるか。

 答 人の主な目的(end)は神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶことである。」 

そうです。わたしたちがウェストミンスター小教理問答の第一問において「目的」と訳してきた言葉こそがendなのです。

つまり、この問い(ウ小教理1)の趣旨を考えますと、これは endを問うている問いである以上、そのままで「終末論的な」問いかけでもあるのだということを、わたしたちは知っているのです。

すると、どうなるでしょうか。たった今申し上げたことからお分かりいただけることは、ファン・ルーラーの伝道の神学の特徴である「終末からの思惟」とは、将来においてわたしたちが実現すべき目的、ないし到達すべき目標のほうから現在のあり方を考えるということを意味するのだということです。

この点がわたしたち自身の「伝道の神学」を考える際に非常に役立ちます。なぜなら、「目的」ないし「目標」を定めることが、伝道にはどうしても必要不可欠だからです。

ただし、問題は、わたしたちはそれをどのようなものと定めるかです。ここから先はファン・ルーラーが言っていることではなくて、私が申し上げたいことです。

伝道の目標とは、たくさんの人数を集めることでしょうか。伝道の目的とは、大きな教会堂を立てることでしょうか。もちろん、それらのことも重要であるとは思います。しかし、あえて問いたいことは、それだけでしょうかということです。

いみじくもわたしたちは、ウェストミンスター信仰規準(とりわけウェストミンスター小教理問答の第一問答)と共に、わたしたちの人生の目標とは「神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶこと」であると、声を大にして告白し続けてきたのです。

このことは、伝道の目標にも通じるはずです。ただし、「神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶこと」を伝道の目標にすると私が言いますと、この人は問題を抽象化していると感じられてしまうかもしれません。しかし、これは決して問題の抽象化ではないと申し上げておきます。

考えていただきたいのは、 このウェストミンスター小教理問答における最も重要な点は「わたしが喜ぶこと」にあるということです。この答えを短く言い直せば、「わたしの目標ないしわたしの人生の目的は、このわたしが喜ぶことである」と言っているのと同じであるということです。

このことを伝道の神学に当てはめて言えば、こうなります。「伝道の目標もまた、このわたしが喜びの人生をめざすことにある」ということです。「喜び」とは、もちろん人間的・主観的・感情的・生理的な要素です。私が申し上げたいのは「伝道の神学」からそのような要素(人間的・主観的・感情的・生理的な要素)を切り落としてはならないということです。

わたしたちは、そのような要素を非常に強く抑制してきた面があります。「人間的な考えをやめよ」、「主観に陥るな」、「感情に走るな」、「生理的なことを教会に持ち込むな」。このような考えは、まさに悪い意味での禁欲主義なのだと思います。

しかし、わたしたちの教派においては、ウェストミンスター小教理問答第一問が「わたしが(神を)喜ぶこと」を人生の目標に定めていることにおいて、悪い意味での禁欲主義というものが禁止されているのだと読むことが可能です。そしてわたしたちは次のように考えることができます。

「伝道の目標とは、このわたしの喜びにこそある。このことを終末論的に考え直すならば、わたしの喜びを究極的に実現するための伝道とはどのようなものであるのかということこそが重要な問題なのである」。このような順序で、わたしたちは、伝道の神学を考えて行くことができるのです。

この文脈でファン・ルーラーが主張するもう一つの重要な点は、伝道のキリスト論的位置づけです。 彼によると、伝道は「キリストの昇天」と「キリストの再臨」の中間時(ちゅうかんじ)になされるものであり、かつ両者の間をつなぐ要素はローマ・カトリック教会が考えたような連続性(キリストの受肉の継続としての教会など)や自然的要素(血縁、血統、遺伝など)ではなく「飛躍」(sprong)であると言っています。

いま、私は二つのことを申し上げました。第一は、「伝道とは中間時の事柄である」ということです。 第二は、「キリストの昇天と再臨をつなぐ要素は飛躍である」ということです。

前者の「伝道とは中間時の事柄である」という命題から引き出される帰結は、伝道の未完結性です。伝道が未完結であるということは、わたしたち自身の信仰も、信仰者としての実存も、そして教会の存在や活動も、すべては未完結のままであるということです。

この点は、牧会的にいえば非常に大きな意味を持つはずです。とくに日本の教会には、家族揃ってあるいは夫婦揃って教会に通っているという方々は少なく、家族の中で一人だけ通っているという方々が非常に多いことを、私はもちろん知っています。その場合にわたしたちが関心を持たざるをえない問題は、家族の救いということです。

そして、この文脈の中で、わたしたちが「伝道の未完結性」という点から考えていくことができるのは、いわゆる「未信者」とは、まさに読んで字のごとく「未だ信仰に至っていない人」のことであり、しかしまたそれは「今は未だ信仰に至っていないが、これから信仰に至るであろう人」のことでもあるという、希望の告白をなすこともできるということです。

さて、ファン・ルーラーが書いているもう一つの点としての「伝道とはキリストの昇天と再臨との中間時を橋渡しする飛躍である」という言葉の意味は何でしょうか。あらかじめ申しあげておきたいのは、これもわたしたちにとっての希望のメッセージになりうるものであるということです。先ほど少しだけ触れましたように、ファン・ルーラーは、この「飛躍」の意味を連続性や自然というものとは反対の意味を持つ言葉としてとらえました。その場合のとくに「自然」とは、血のつながりや民族的一致のことなどを意味しています。

しかし、「伝道」とは、なるほど「飛躍」であるかぎり、「自然的な連続性」という概念では決してとらえることができないものです。この点でわたしたちが知っている現実は、信仰こそは血縁あるいは遺伝によって自動的(オートマティック)に継承されるものではありえないということです。

もしそういうことが現実に起こるであれば、わたしたちが伝道のために死に物狂いで戦うことなど全く無駄で無意味なことになります。子どもたちを苦労して日曜学校に通わせる必要もありません。もし信仰というものが、血から血へと、自動的に、遺伝的に継承されるものであるとするならば、です。

しかし、そのようなことは起こりえないということを、わたしたちは知識の上でも体験の上でも知っています。信仰の継承には、伝道というプロセスがどうしても必要不可欠です。そこに、洗礼を受けた信仰者としての「人間」の存在が必要不可欠であり、かつ信仰者の共同体としての「教会」が必要不可欠なのです。

なぜこのことが、ここにいるわたしたちにとっての希望のメッセージになるのかといえば、「伝道」の意味を考えるときにこそ、わたしたちが教会に集まる理由がはっきりと分かり、さらに教会の存在理由(レゾンデートル)そのものがはっきりと分かるからです。

わたしたちは、日曜日のたびごとに無駄で空しいことをしているわけではありません。神がこの地上で「伝道」のみわざをお進めになるための「道具」として、わたしたち、キリスト者としての個々人と教会とが選ばれ、用いられているのです。

これらの議論が、ファン・ルーラーの『伝道の神学』における第二点の「聖定論的視点」と 第五点の「教会論的視点」の項で扱われています。

人間論的視点から見た「伝道」

次に見ていきますのは、「伝道の神学」を構築していくためにファン・ルーラーが設定した「人間論の視点」とは何なのかということです。

ファン・ルーラーが「人間論」(anthropologie)という概念を用いる場合の意味は、言うまでもなく「神学的人間論」のことであり、とくに改革派神学、あるいは改革派教義学におけるそれのことを指しています。そのことが分かるのは、彼が「人間論的視点」において重要であるとする概念が「神との契約のもとにある人間」、そして「神のかたちとしての人間」の二つであることです。

ファン・ルーラーは、「神との契約」という概念は「人間とは生ける神が御自身の歴史的なみわざに おいて御自身の周りに創出される共同体にはめこまれ受容された、神の協力者(パートナー)である」 ということを我々に理解させるものであるとしています。

また、「神のかたち」という概念は「人間と は神と向き合う位置にある者であり、神は人間においてこそ御自身の本質を表され、映し出してくださる」ということを理解させるものであると言っています。ファン・ルーラーによると、「神のかたち」 という概念のほうが「神との契約」という概念よりも広い範囲を包括している、とも言っています。

そして、このあたりからファン・ルーラーならではの独特の議論が開始されるのですが、彼は「神のかたちとしての人間」という命題の中の「神」を、とくに「聖霊なる神」と結び合わせてとらえています。すると、どうなるか。

「聖霊(なる神)は終始一貫、人間的な姿をおとりになる。聖霊の判断は、人間の判断という形態をとる。聖霊のみわざは人間の体験の中に具体性を持つ。聖霊(プネウマ) 全体は、人間的なるものの中で形態を獲得するのである。」

この個所でファン・ルーラーが描いているのは、伝統的な神学的概念を用いて言えば「聖霊の内住」 (inhabitatio Spiritus sancti)の事態です。つまり、それは、聖霊(なる神)が人間存在の内側に 「住む」ないし「宿る」という事態です。

そして、この「聖霊の内住」という事態は 17世紀の改革派神学者ヨードクス・ファン・ローデンステインの言葉を借りて言うと「三位一体の内住」(inhabitatio Dei trinitatis)でもあるのだと、ファン・ルーラーは他の書物の中で書いています。

つまり、彼に言わせると、「聖霊なる神が人間の中に住んでくださる」ゆえに、結局は、父・子・聖霊なる三位一体の神御自身の判断とわたしたち人間自身の判断とは重なり合うものになっていくのであり、そのようにして、「神御自身のみわざは・わたしたち人間の体験の中で・地上的な形態を獲得するのである」と語ることができるようになるのです。

そして、ファン・ルーラーは次のような衝撃的な命題に至ります。「キリスト教とは啓示と異教主義の混合(アマルガム)である」。

この命題によって彼が何を問いたいのかといえば、たとえば、芸術や科学、また「異教的本性をもつ生の衝動や霊性から生まれる文化」といったものが神の御前に有する価値は何なのかという問いです。たとえば、わたしたちキリスト者は、芸術や科学のすべてを「それは虚偽である」とか「それは偶像礼拝である」などとそっけなく拒否することができるのだろうかという問いです。あるいは、「キリスト教的芸術」や「キリスト教的文化」とは結局何を意味しているのかという問いでもあります。

そのようなものは成り立ちうるのか。わたしたちは何をもってそれらが「キリスト教的」であると判断しうるのかという問いです。この文脈においてファン・ルーラーは、「我々は広範な人間関係の土台をもたず、いかなる具体的な形ももたず、常に狭い稜線を歩くような仕方で、ひたすら潔癖な信仰生活を送らなければならないのだろうか」と書いています。

このファン・ルーラーの問いは、わたしたちの伝道にとって根本的な意義を持っていると思います。 伝道が異教主義に飲み込まれてしまうようなことは決してあってはならないことであるということは よく分かる話です。

この異教の国日本の中で徹底的に非妥協主義の線をとることこそが伝道であるという理解は、ある意味で正しいし、正しすぎるほど正しいものです。しかし、その次にすぐに間違い なく起こる問いは、「それでは、わたしたちは、どこに生きればよいのでしょうか」ということです。

もし異教の要素というものが全く存在しない、いわば「真空領域」というようなものがもはや地上のどこにも無いのだとしたら、わたしたちは「生きる場を失った」、つまり「死ぬしかない」と考えなければならないのでしょうか。

わたしたちの信仰的確信によると、異教とは罪です。しかし、文化そのものは罪でしょうか、芸術は罪でしょうか。いわゆる「俗世間」と呼ばれる何かに対してわたしたちがポジティヴにかかわることは決して許されてはならないことなのでしょうか。キリスト者はそれらのものと常に対立し続ける存在でなければならないのでしょうか。

そうではないはずだということを、ファン・ルーラーは訴えています。この神学者に聞くべきことは多いと、私は信じています。

具体的な提案

最後に、各個教会の伝道の実践に寄与するための具体的な提案をさせていただきます。何の具体性も持たないような「伝道の神学」は概念矛盾です。

しかしまた、これから私が申し上げることの中に、目新しいことはほとんどありません。伝道の新しい方策を私が知っているようなら、松戸小金原教会は今よりもっと成長しているでしょうし、自らの成功例をひっさげて日本キリスト改革派教会と日本の教会全体に向かって大いにアピールしていることでしょう。しかし、そのようなことを私はできていませんし、できません。

第一の提案は、「とにかく〝教会〟を重んじましょう」ということです。わたしたちの主なる神は、「教会を用いて」御自身のみわざを行ってくださるのです。わたしたちが教会において、また教会として行っている奉仕の働きは、それ自体が「神のみわざ」なのです。

第二の提案は、「教会においてこそ、とにかく〝人間〟を重んじましょう」ということです。これを言うと、つまずきを感じるという方がおられるかもしれません。「教会とは、人間を重んじる場所ではなく、神を重んじる場所である」と語るほうが、その方々には納得していただけるかもしれません。しかし、ここでこそ、もう一度思い起こしていただきたいことは、たった今申し上げた「教会は神のみわざである」ということです。

教会においては、神御自身が人間を重んじてくださるのです。神は教会において、教会を通して、わたしたち人間を、神御自身のみわざを推進するための道具として、尊く用いてくださるのです。神がわたしたち人間と「このわたし」を重んじてくださるのですから、神と共に判断すべきわたしたちもまた、〝人間〟 を重んじなければならないのです。

ただし、いま申し上げていることは、わたしたちは「教会に通っている人」だけを重んじるべきであって、それ以外の人々は軽んじるべきであるというような意味ではありません。そのようなことを神がお考えになるだろうかと考えてみるべきです。

そもそも伝道とは、誰に向かってすることでしょうか。わたしたちは、通常の理解によれば、すでに洗礼を受けている人々、すなわち、すでに教会の内側にいる人々に対して「伝道」はしないのです。わたしたちは、いまだに洗礼を受けていない人々、すなわち、いまだ教会の外側にいる人々に対してこそ「伝道」するのです。

事の真相がそうであるという場合に、わたしたちが繰り返し自分自身に問い続けなければならないことは「伝道は嫌味や皮肉や喧嘩腰で可能だろうか」ということです。「俗世間」を一方的に批判し、攻撃するばかりの、常にワサビと辛子を練り合わせたような、辛辣でネガティヴな言葉を重ねることが「伝道」でしょうか。

私には、そのようなやり方で「伝道」は無理だと思われてなりませんので、このことを一つの問いとして、皆さんの前に置いておきます。

第三の提案は、「伝道においてこそ、とにかく〝ノーマルであること〟を重んじましょう」ということです。

ファン・ルーラーの有名な言葉に「我々はキリスト者になるために人間なのではない。人間になるためにキリスト者なのだ」(英訳We are not human in order to become Christian, but we are  Christian in order to become human.)というのがあります。これを別の言葉で言い換えるとしたら、 伝道の目的とは「特殊な人間」を生み出すことではなく、わたしたちが「普通の人間」になることにこそある、ということです。

私は、このファン・ルーラーの命題は非常に正しいものであると信じています。どう間違えても、傲慢の高みに立って「俗世間」を見くだすことが、わたしたちの伝道の目的ではありえないからです。

(2009年10月25日、改革派神学研修所東北教室神学講演会、日本キリスト改革派東仙台教会)