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2024年8月25日日曜日

全地よ、喜びの叫びをあげよ

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「全地よ、喜びの叫びをあげよ」

詩編98編1~9節

関口 康

「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え」(4節)

今日の説教の準備は難しかったです。詩編98編について書かれた解説書がなかなか見つかりませんでした。

浅野順一先生の全11巻ある『浅野順一著作集』(創文社)の第4巻(1982年)が「詩篇研究」ですが、詩編98編の解説はありませんでした。

私が1980年代後半の東京神学大学で旧約聖書緒論を教わった左近淑先生の『詩篇研究』(新教出版社、初版1971年、復刊1984年)の中にも、詩編98編の解説はありませんでした。

ハイデルベルク大学のヴェスターマン教授(Prof. Dr. Claus Westermann [1909-2000])の『詩編選釈』(大串肇訳、教文館、2006年)にも詩編98編の解説はありませんでした。

やっと見つけたのはドイツの聖書註解シリーズ『ATD(アーテーデー)旧約聖書註解』第14巻「詩編90~150篇」です。この中に詩編98編の解説がありました。

著者はテュービンゲン大学神学部の旧約聖書学者アルトゥール・ヴァイザー教授(Prof. Dr. Artur Weiser [1893-1978])です。しかし解説はかなり古風でした。歴史的な読み方への踏み込みが足りない感じでした。

私が愛用しているオランダ語の聖書註解シリーズにも、詩編98編の解説が見つかりました。最初に調べれば良かったですが、オランダ語がすらすら読めるわけではないので、最後にしました。De Prediking van het oude testament(旧約聖書説教)というシリーズですが、学問的な聖書註解です。

詩編98編の解説を書いたのはタイス・ブーイ博士(Dr. Thijs Booij)です。1994年に出版された『詩編 第3巻(81~110編)』です。

“Thijs Booij (1933) studeerde aan de Vrije Universiteit Amsterdam theologie”(タイス・ブーイ(1933年)はアムステルダム自由大学で神学を学んだ)という記述がネットで見つかりました。1933年生まれだと思います。今も生きておられたら91歳です。

ブーイ先生の解説に私は納得できました。手元にこれ以上の材料はありませんので、ブーイ博士の解説に基づいて詩編98編について説明し、今日的意味を申し上げて今日の説教とさせていただきます。

私は学問をしたいのではありません。聖書を正確に読みたいだけです。自分が読みたいように読むことが禁じられているとは思いません。しかし、たとえば今日の箇所に「新しい歌を主に向かって歌え」と記されていますが、これはどういう意味でしょうか。「作詞家と作曲家に新しい歌を作ってもらって、みんなで歌いましょう」という意味でしょうか。

その理解で正しいとして「新しい歌」でなければならない理由は何でしょうか。「古い歌は時代遅れなので歌うのをやめましょう」ということでしょうか。この詩編が何を言いたいのかを知るために、歴史的な背景を調べる必要があるのではないでしょうか。

ブーイ博士の解説に第一に記されているのは「詩編98編は詩編 96 編と強く関連している」ということです。

「どちらも主(ヤーウェ)の王権について語り、万民の裁判官として来られる主を敬うよう被造物に呼びかける讃美歌である。主の王権については『王なる主』(6 節)として言及されている。主は王として地を裁くために来られる。詩編 98 編はティシュリ月の祝祭を念頭に置いて作曲された。

主の王権は多くの文書の中でシオンと神殿と結びついている。この曲が宗教的な目的以外の目的で作曲されたとは考えにくい。ユダヤ人の伝統では、主の王権はティシュリ月の初日の新年の祝賀と結びついている。」(Ibid.)。

「ティシュリ月」とはユダヤの伝統的なカレンダーです。太陰暦の7月であり、太陽暦の9~10月であり、農耕暦の新年の初めです。ブーイ博士の説明を要約すれば、ユダヤ人の「新年」は秋に始まり、新年祭のたびに「主(ヤーウェ)こそ王である」と宣言する儀式が太古の昔から行われていて、その儀式で歌うために作られた讃美歌のひとつが詩編98編だろう、ということです。

同じ新年祭の儀式で歌われた、時代的にもっと古い讃美歌は詩編93編であるとのことです。詩編93編は、言葉づかいやリズムの格調が高く儀式にふさわしいというのが、そうであると考える理由です。

ブーイ博士が第二に記しているのは「詩編 98 編のもうひとつの特徴は、第二イザヤとの強い親和性(verwantschap)にある」ということです。

「第二イザヤ」(Deuterojesaja; Tweede Jesaja)とは、南ユダ王国で前8世紀に活動した預言者イザヤ(イザヤ書1章から39章までの著者)とは別人です。

イザヤ書44章28節の「キュロス」が前6世紀のペルシア王の名前です。その名前を前8世紀のイザヤが知っていたとは考えにくいというのが、第一と第二を区分する、わりと決定的な理由です。

「第二イザヤ」は、40章から55章までを記した前6世紀のバビロン捕囚とそれに続く時期に活動した預言者です。「第三イザヤ」は56章から66章までの著者です。第二イザヤと同じ前6世紀の人ですが、聖書学者の目でヘブライ語の聖書を読むと文体や思想が全く違って見えるそうです。

詩編98編と第二イザヤの「親和性」についてのブーイ博士の説明に基づいて作成した表は次の通り。

第二イザヤ(イザヤ4055章)

詩編98

4210節a

新しい歌を主に向かって歌え。

1節b

新しい歌を主に向かって歌え。

5210節a

 

主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。

2節b

 

主は恵みの御業を諸国の民の目に現し

 

5210b

 

地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ

3節b

 

地の果てまですべての人はわたしたちの神の救いの御業を見た。

4423

 

天よ、喜び歌え、主のなさったことを。地の底よ、喜びの叫びをあげよ。

4

 

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。

529

 

歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。

5節b

 

琴に合わせてほめ歌え。琴に合わせ、楽の音に合わせて。

5512節b

山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い、野の木々も、手をたたく

8

潮よ、手を打ち鳴らし、山々よ、共に喜び歌え。

ブーイ博士によると「これらの類似点は、詩編98編の作者が第二イザヤの預言に精通し、そこから当時の出来事を理解していたという意味で説明しうる。詩編98編は前538年以降のイスラエルの復興を歌っている。バビロン捕囚からの解放後の初期のものと考えられる」とのことです。

「当時の出来事」とはバビロン捕囚(前597~538年)です。

ブーイ先生の解説の紹介はここまでにします。これで分かるのは、「新しい歌」の「新しさ」とは、国家滅亡という究極の喪失体験(バビロン捕囚)を経て、そこから解放されて国家再建を目指す人々に求められる、心の入れ替えを意味する、ということです。

もはや古い歌(讃美歌)で十分でないのは、主が前代未聞の奇跡を起こしてくださったからです。

わたしたちはどうでしょうか。世界はどうでしょうか、日本はどうでしょうか。足立梅田教会はどうでしょうか。

足立梅田教会に限らせていただけば、最近起こった出来事は牧師が交代したことです。以前と今と何も変わっていないでしょうか。

もし変わったとして、どのように変わったかは私が言うことではありません。もし「新しい時代の訪れ」を感じるなら「新しい歌を歌うこと」が求められています。

1954年版の讃美歌はやめて「讃美歌21」に取り換えましょう、という程度の意味ではありません。「歌は心」です(淡谷のり子さん)。根本的な心の入れ替えが必要です。

神の御業が更新されたなら、わたしたちにも「新しい思い」が必要です。喜びと感謝をもって共に前進しようではありませんか。

(2024年8月25日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)

2008年10月19日日曜日

死と葬儀 ~あなたを独りで死なせない~


詩編23編

「主は羊飼い、
わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖、
それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。」

本日は松戸小金原教会の特別伝道集会です。多くの方々にお集まりいただき心から感謝いたします。テーマは「死と葬儀」です。副題に「あなたを独りで死なせない」とつけました。このテーマを取り上げるかどうかを私はずいぶん悩みました。勇気が必要でした。しかし教会の皆さんは快く了解してくださいました。今こそ、このテーマについてみんなで考えることが大切であることを理解してくださいました。教会の皆さんのお支えをいただき、本当にうれしく思いました。

あらかじめ申し上げておきたいことがあります。それは、私はこのテーマを興味本位のような気持ちで取り上げたわけではないということです。冗談まじりにおもしろおかしく話せるようなことではありません。まさに真剣そのものです。

そしてこのテーマは、言うまでもなく、わたしたち全員にとって絶対に避けて通ることができないテーマであることは事実です。とくに今大きな苦しみの中にある人々自身が、このわたしはどうしたら希望をもって生きることができるのかを考えていくうえで避けて通ることができません。あるいはそのような方が身内におられる方々にとっては、どうしたらその方を慰め、励ますことができるのかを考えていくうえで避けて通ることができません。なぜなら、死と葬儀の問題は、それを真剣に考えて行くことが、わたしたちの人生のあり方そのものを考えて行くことを、そのまま意味しているからです。

しかし、この礼拝において私に許されている時間はごく限られたものです。「死と葬儀」というあまりにも大きすぎるテーマについて25分や30分くらいの時間で語れることは、ほんのわずかなことです。今申し上げているような前置き的な話をしているうちにも時間はどんどん過ぎ去って行きます。補いとして今日の午後予定している講演会で教会の葬儀についての具体的な話をさせていただきます。ぜひご出席いただきたいと願っています。

しかし間違いなく言えることは、先ほど申し上げましたとおり、死と葬儀の問題を真剣に考えて行くことはこのわたしがどうしたら希望をもって生きて行くことができるのかという問題にそのまま直結しているということです。重要な問題はわたしたちの死に方ではなく、生き方であるということです。逆説的かもしれませんが、私が願っていることは、死と葬儀の問題をこのようにして教会で、ここに集まっているみんなと一緒に考えることによって、わたしたちは、良い意味でこの問題を忘れて(!)しまおうではないかということでもあります。

ここから先はほんの少しだけ冗談がまじるのですが、確かに言えることは、わたしたちは、自分の葬儀を自分自身で行うことは不可能であるということです。この点だけは絶対的な真理であると言いきれます。わたしたちは自分自身の葬儀だけは誰かにまたはどこかに完全に委ねてしまわなければなりません。しかしまた、その点にこそ大きな不安があるのかもしれません。誰かにあるいはどこかに委ねてしまえと言われますと、どんなふうにされてしまうのか、想像するだけで恐ろしいと感じる人々もおられるだろうと思います。しかしこのこと――自分の葬儀は自分自身では決して行うことができないということ――だけは、わたしたちがどんなにもがこうが、あがこうが、どうすることもできない、全く動かしがたい事実なのです。

だからこそ、です。ここから先が私の申し上げたい点です。それは、わたしたちがまさに今生きている間に真剣に考えなければならないことは、このわたしの死を、そしてこのわたしの葬儀を、安心して委ねることができる、その意味で信頼することができる相手を見つけることなのだということです。

この特別伝道集会のためにこの地域に配布させていただいたチラシに「もしかしたら、教会が、あなたのお役に立てるかもしれません」と書かせていただきました。この文章を書いたのは私です。「もしかしたら」とか「かもしれません」というような、なんだか遠慮がちで弱々しい言葉をあえて用いました。押しつけがましい言い方はしたくありませんでした。「あなたの葬儀をぜひ教会で行わせてください」というような意味にとられては困るとも思いました。私が書いたことは、そういう意味ではないのです。

ならば、どういう意味なのか。私が考えているのは、次のようなことです。死と葬儀の問題には、自分独りでいくら考えても、自分で解決しようとしても、決して解決できない側面が必ずありますということです。どんなに一生懸命になって自分の遺書を書いても、それを何度も書き直しても、それによって、わたしたちの心が穏やかになることも、納得することもありえません。虚しい思いが募るばかりです。

また、わたしたちの家族の誰かが、このわたしのために葬式の準備を始めたとします。そのことを嬉しいと思うとか安心するということがありうるでしょうか。私は牧師ですが、私の家族が、私の生きている間に、私の葬儀の準備を始めたとしたら、私はやっぱり嫌だと思うでしょう。いつ死んでくれるのかと、待たれているような気がするだけです。準備などしないでほしいです。

たしか今から10年くらい前のことだと記憶していますが、岡山県にある実家に帰省したとき、両親から「お墓を買うかどうか迷っている」と言われて複雑な気持ちになりました。そういうことは考えないでほしいと思いましたし、そのように言いました。どうでもいいことだとは思いませんでしたが、お父さん、お母さん、それはお二人自身が悩むことではないはずだと言いました。死ぬことの準備とか、死んだあとの準備なんかするヒマがあるのなら、生きることに集中してほしいと、そのようなことまで口走った記憶があります。その種のことは自分自身で解決しなければならないような問題ではないはずだという確信が、私の中にあったからです。

死の問題はともかく、自分の葬儀の問題あるいは自分のお墓の問題について、どうしてわたしたち自身が悩まなければならないのでしょうか。私には未だに全く理解できません。あなたはまだ若いからだと言われてしまうかもしれませんが、私の関心はとにかく生きることだけです。死んだあとのことは、どうにでもして、という気持ちです。そこから先はどんなに手を伸ばしても、自分の思い通りにしようとしても、決して届かない、どうにもならない部分だからです。

しかし、それは私にとっては、あきらめではありません。私には先ほど申し上げた意味での信頼できる仲間がいるからです。「ここから先はお願いします」とすべてを委ねることができる、そうです、「教会」があるからです!

ここで私の両親の名誉のためにつけくわえておきますと、先ほどご紹介した墓の話は、実際にはちょっと考えてみたという程度のことでした。困り果てているとか夜も眠れないほど悩んでいるというほどのことではありませんでした。私の両親も教会のメンバーです。神を信頼し、神にすべてを委ねることを知っているキリスト者です。

今日、私が皆さんにお勧めしたいことは、まさに今申し上げた点にかかわっています。自分自身ではもはやどうすることもできないこと、すなわち、自分の死と葬儀に関することについて一切を委ねることができる「教会」を、皆さんの生涯をかけて捜し求めていただきたいということです。そのことが皆さんの心に本当に大きな安心をもたらしますし、良い意味でこの問題を忘れる(!)ことができる根拠にもなります。

実際問題として、教会が死と葬儀の問題を扱うときには、わたしたちの家族のだれかがこそこそと、あるいは大っぴらに、このわたしの葬儀の準備をするようなこととは全く別次元で扱うことができます。教会はこの件について「扱い慣れている」というような言い方はあまり適切なものではないかもしれません。しかし、いずれにせよ教会は多くの人々の死をみとり、遺族に対する慰めを語り、傷ついた人々に立ち直っていただくための努力を何年も何十年も、いや何百年も何千年も続けてきた経験とスキルをもっているのです。

何度も言うようですが、死と葬儀の問題は、自分独りで悩んでも、抱えこんでも決して解決しません。また、家族や友人たちが悩んだり、考えたりすることでもないと思います。はっきり申しますと、それは「教会」の仕事です。あるいは、もう少し広く言えば「宗教」の仕事です。

考えてもみてください。実際の葬儀の場面に立ち会ったことがある人なら誰でも知っていることですが、家族や友人たちは、その場面でたしかに一生懸命に立ち働いてはいますが、本当のところを言えば、他の誰よりも傷つき悲しみ、今にも倒れそうな思いでいるのです。人前に出られるような精神状態ではないのです。しかし責任があるから、誰かがやらねばならないから、無理やり立っているのです。

そして、です。あまりこのようなことを言うべきではないかもしれませんが、親しい人の葬儀の場面においてはこのわたし、司式をする牧師自身もまた、本当のところを言えば泣いていたい場面なのです。教会員の方々の中に「わたしの葬儀はぜひ関口先生にお願いしたいです」とおっしゃる方がおられるのですが答えに困ります。心の中で悲鳴があがります。「あなたほど大切な人の葬儀を、私にしろと言うのですか。誰よりも泣いていたいのは私なのに」と。正直勘弁してもらいたいです。しかし、牧師がそのようなことを言ってはいけません。葬儀がすべて終わってから泣くことにします。牧師もまた無理やり立っているのです。

この点から言えば、わたしたちの死と葬儀の問題は、最終的に言えば「教会に委ねる」ということだけでは不十分かもしれません。教会は人間だからです。牧師はもちろん人間です。だからこそ、私が最終的に申し上げたいことは、あなたの死と葬儀を、「教会」でも「牧師」でもなく、「神」に委ねてくださいということです。生きているときも、死ぬときも、いつもあなたと共にいてくださる「神」を信じてくださいということです。

最初にお読みしました聖書のみことばは詩編23編です。今から三千年前のイスラエル王ダビデの詩として知られてきたものです。「主」とは神です。主なる神が「羊飼い」であり、ダビデは「羊」です。「神」という信頼できる羊飼いに守られている「羊」は「何も欠けることがない」。「死の陰の谷」を行くときも「災いを恐れない」。「あなた(神)が、わたしと共にいてくださる」からであると告白されています。このダビデの信仰をわたしたちのものとすることができるなら、死を恐れない力を手に入れることができるのです。

今日教会に初めて来てくださった方々にお伝えしたいことは、まさにこの点です。

神を信じてください。神があなたを独りで死なせることはありません!

安心してすべてを神に委ねてください!大丈夫ですから!

(2008年10月19日、松戸小金原教会主日礼拝)