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2024年11月23日土曜日

神の計画の確かさ

愛恵まちづくり記念館(東京都足立区関原1-21-9)

(※以下は、当教会と歴史的に深い関係にある「愛恵学園」(1930-1990)の関係者の集い(2024年11月23日、愛恵まちづくり記念館にて開催)の開会礼拝での説教(要旨)です)


説教「神の計画の確かさ」

ローマの信徒への手紙8章26~30節

関口 康

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)

開会礼拝のために選ばせていただきました聖書の箇所は、使徒パウロのローマの信徒への手紙8章26節から30節までです。

「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(26節)。

この「霊」は聖霊です。西暦1世紀に「三位一体」という言葉はありませんでした。しかし、西暦1世紀には「聖霊」はまだ神ではなかったということではありません。26節の意味は、「神が弱いわたしたちを助けてくださる」ということです。

そして「わたしたち」は人間です。パウロによると、わたしたち人間の弱さは「どう祈るべきかを知らない」ことにあります。しかしこれは、人間は祈る言葉を全く知らないとか、祈ることは不可能であるとか、祈りは無意味であるということではありません。

そのようなことよりも、「言葉がない」という日本語表現のほうに近いです。私も牧師の末席を汚しています。教会員のご家族の不幸。教会員ご自身の事故や病気。大規模な自然災害。人為的な犯罪や破壊行為。そして戦争。何か言わなければ、言葉にしなければ、と思いながら「言葉がない」。祈る言葉も見つからない。神に何を言えばいいか分からない。

そのようなとき「霊(なる神)がわたしたちを助けてくださる」とパウロは言います。しかし、そのとき神は「あなた、どうせ何も言えないんでしょ。それなら黙っていなさいよ。私が代わりにしゃべってあげるわよ」という調子で、神ひとりが饒舌にお語りになるわけではありません。むしろ神も沈黙されます。なぜでしょうか。

わたしたちが「言葉がない」とうつむくのは、傷つき苦しむ当事者のことを「知っているふりをしたくない」からでしょう。その人に苦しみの意味を説明してあげて、解決方法まで教えてあげれば事が足りるなどとはとても思えないから「言葉がない」わけでしょう。

神はそのようなわたしたちの気持ちに寄り添ってくださる仕方で沈黙なさるのです。わたしたちと一緒にうめいてくださるのです。神もまた「知っているふり」をなさらないのです。説明もなさいません。

この「わたしたちはどう祈るべきかを知らない」(26節)について、16世紀のドイツの宗教改革者マルティン・ルターが『ローマ書講義』(1515年 / 1516年)で次のように解説しています(松尾喜代司訳。英語版はAmerican Edition)。

「たとい、一見われわれの祈願に反することが生じても、それは決して悪いしるしではなく、むしろ最もよいしるしである。それは、われわれの祈願に対して、すべてが全くねがいどおりに与えられたならば、決してよいしるしではないのと同様である」

“It is not a bad sign, but a very good one, if things seem to turn out contrary to our request. Just as it is not a good sign if everything turns out favorably for our request.”

その意味は、「神の計画とご意志は人間の計画と意志をはるかに超えたものである」ということです。ルターは次のように続けています。

「神は、その賜物を賜う前に、まずわれわれのうちに有るものを破砕し・撃滅するのが神の性質である」

“It is the nature of God first to destroy and tear down whatever is in us before He gives us His good things.”

ルターの言うとおりです。もしすべてがわたしたちの祈りどおり、わたしたちのリクエストどおりになるというなら、その祈りは魔法使いの魔法杖です。その杖を振れば、どんな夢でも叶えられる。

ルターによると、わたしたちのリクエストどおりになることはバッドサインであり、リクエストどおりにならないほうがベリーグッドサインであり、そもそも祈る前にわたしたちが抱いているリクエストそのものを神はデストロイなさるというわけです。

ルターはずいぶん激しいことを言います。しかし、説得力があります。

それでパウロは言います。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)。

ここで「わたしたちは知っています」とパウロが書いていることの意味は、ユダヤ教の伝統や初期キリスト教の教えと合致しているということです。だれでも知っている普遍的真理であるとか一般論ではありません。パウロはあくまで「神を愛する者たち」に語りかけています。

しかも、前後の文脈を考えれば、パウロが言う「万事が益となる」の「万事」の内容の大半は「苦しみ」です。「言葉がない」と音を上げるほどの苦しみの日々が、パウロの言う「万事」です。世の中で、社会の中で、人生そのものの中で、「楽しい」と感じることはほとんどなく、「苦しいことだらけだ」と絶望しかけている信仰者にとっての「万事」です。

しかし、その苦しみもまた、いや、その苦しみこそをわたしたちの「益」にしてくださるのが、わたしたちの神であり、神の計画である、ということをパウロが記しています。

「お前が言うな」と、どうかお怒りにならないでください。大先輩の皆さまはきっと、「パウロの言うとおりだ」と受けとめてくださると思います。

「日本の教会がピンチである」と多くの人が嘆きます。そういう言葉をよく聞くでしょう。しかし、私は全く同意できません。

ルターの言うとおりです。わたしたちのリクエストどおりにならないことのほうがベリーグッドサインです。「日本の教会がピンチである」と言う人たちは、自分のリクエスト通りにならないことに苛立っているだけです。わたしたちのリクエストは神がデストロイなさるのです。

しかし、気を付けなくてはならないことがあります。26節に戻りますが、「霊が弱いわたしたちを助けてくださる」と言われている場合の、神がわたしたちを助けてくださる方法は、《神が100%働いてくださって、人間の働きは0%になる》のではありません。

「言葉が無い」だの「どう祈るべきかを知らない」だのと言い訳ばかりして役に立たない人間はクビにして「お前はもう黙っていろ。何もするな。わたしが全部するから見ているだけでいい。わたしの邪魔をするな」と、人間の代わりに神がすべてしてくださるわけではありません。

あるいはまた、《人間が99%働いて、神が1%付け加えてくださる》というのでもありません。

教団とか教派とかの文脈に身を置くと、イヤな話を繰り返し耳にします。「自立できないような小さな教会を維持したがるのは人間の願望にすぎない。そういう教会は解散するほうが神の御心である。一般企業と同じように、教会においても『選択と集中』を推し進めるべきである」などと言い出す人たちがいます。ひどいと思いませんか。

私は足立梅田教会に来させていただいたことを幸せに思っています。皆さん「やる気満々」ですから。わたしたちの神は「やる気満々」の人々を見捨てる神でしょうか。そんなことありえないですよ。

「聖霊なる神」が弱いわたしたちを助けてくださる方法は《神100%、人間100%》です。どんなことがあっても心が折れず、希望を捨てない人々を、神は決して見捨てません。

今日お集まりの皆さんの教会も同じです。「小さな教会を畳むことが神の御心である」などと、どうかおっしゃらないでください。心が折れそうなときは足立梅田教会を思い出してください。私もぜひ、皆様のお仲間に加えていただきたくお願いいたします。

(2024年11月23日 野比の会(愛恵学園の会)開会礼拝、於 愛恵まちづくり記念館)

2024年7月22日月曜日

信念はあるか

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「信念はあるか」

ローマの信徒への手紙14章13~23節

関口 康

「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」(13節)

今日の説教のタイトルは「信念はあるか」です。一般的な意味です。「信仰はあるか」と問うていません。私の意図にいちばん近いのは「ポリシー」です。

説明は不要でしょう。「有言実行」「首尾一貫」「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」(岡山県出身の彫刻家・平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)氏の言葉)などに言い表された人間の意志や感情です。

「いつ、どこで、だれが」をさらすのは控えますが、最近の事例です。「引っ越して何か月か経ちました。借家にひとりでいるとコトコト音がします」と始まる。私なら「それはネズミか地震ですね」とすぐ答えてしまいますが、「もしかして幽霊が」と悩みはじめる方々がおられます。

方角、日にち、場所、食べ物などの迷信もそうです。「迷信」と呼ぶ時点で価値判断が入っています。それを信じている人にとっては、迷信どころか真理そのものです。

「土用の丑(うし)の日にウナギを食べる」というのも迷信です。なぜ「丑の日」なのでしょうか。子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥。だから何なのでしょう。厄年、還暦、星座、血液型などもそうです。聖書の教えからすると、どれもこれも異教です。

目くじらを立てる意味で申し上げていません。私は自分が「へび年のさそり座生まれ」であることは知っています。テレビや雑誌の占いをじっと見てしまいます。学校でこの話をすると生徒に怪訝な顔をされます。真に受ける子がいて申し訳ないです。

今日の箇所は、14章の最初から始まっている話題の結論部分です。そのテーマは「信仰の弱い人を受け入れなさい」というものです。

「信仰の弱い人」を受け入れるのは「信仰の強い人」の側です。弱い人が強い人を受け入れることは不可能です。体重の問題に少し通じます。通常は、体重の重い人のほうが、軽い人を背負ったり抱えたりするはずです。その逆は難しいでしょう。筋肉の強さの問題は別です。

しかし、そこに「強い」か「弱い」かという力関係を表わす区別が持ち込まれると混乱が起こる危険があります。「弱い」と言われただけで、見下げられている気分になる人が出てきます。

パウロが言おうとしている「信仰の強い人」の意味は、神以外のすべての存在から自由であり、何ものにも束縛されない人のことです。「信仰の弱い人」はその逆です。いろんな束縛から自由でない人です。

その具体例がいくつか14章以下で取り上げられています。「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べている」(2節)。動物を屠殺してその肉を食べるようなことはしないし、できない人がいます。

別の例も挙げられています。「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます」(5節)。

私の話をすることをお許しください。私は「すべての日は同じ」です。牧師34年目、盆・暮れ・正月と全く無縁の人生を送ってきたことと間違いなく関係あります。

「教会暦」に関してすら、私は「すべての日は同じ」です。レント(受難節)の断食なども、私自身はしたことがないし、だれかに勧めたこともありません。

しかし、ローマの信徒への手紙14章でパウロが問題にしているのは、わたしたちが自分はそうであると思っているからと言って、自分の立場を、特に教会の中で、自分の近くにいる人たちに強制してはいけない、ということです。

よく分かる話です。納得できます。しかし、この文脈に「強い」か「弱い」かというような混乱を招く価値観が割り込んで来て、しかも明らかにパウロ自身は「強い人」の側に立って語り続けるのでややこしくなるのですが、「信仰の弱い人」には他の人に自分の立場を押し付けがたる傾向がある、というのがパウロの言い分の前提です。

「すべてが同じ」である人にとっては、だれかに何かを押し付ける具体的なものがそもそも何もありません。「制限はない」と言っている人のほうが、「制限がある」と言っている人よりも「許容範囲が広い」とは言えるでしょう。

「強い人」か「弱い人」かという区分よりは「広い人」か「狭い人」かのほうが、争いが少なくなるでしょうか。ますます混乱するでしょうか。

「弱い人」が自分の立場を周りに押し付けたがるのは、孤立を恐れるからではないでしょうか。自分の考えに自信を持てないので、周りを巻き込んで多数派になろうとする。「強い人」は強い確信があるので孤立が怖くない。しかし、それはそれで人を傷つけるものがあるので、話は単純ではない。

結論は「もう互いに裁き合わないようにしよう」(13節)です。そして「つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないようにしよう」(同上節)です。

日本の教会で昔から問題にされてきたのが禁酒禁煙の問題です。賀川豊彦先生のような方が禁酒運動に熱心に取り組みました。私の父の受洗のきっかけは「賀川伝道」でした。だからかどうかは分かりませんが、私の両親も禁酒禁煙主義者でした。私の出身教会の牧師もそうでした。

私が東京神学大学に入学したとき「禁酒禁煙」の誓約書を書かされました。1984年4月です。今どうなっているかは知りません。教会で問題にされるときは健康問題だけではありません。神の前での生き方の問題にされます。

私は禁酒禁煙に関して自分がどうしているかについて、人前で言ったり書いたりしたことはありません。「人前で言ったり書いたりしたことがない」だけです。私の両親はすでに二人とも亡くなりましたが、親の前で一度も、私がどうしているかを話したことがありません。

そうしてきたことをずるいと思っていません。嫌がる人がいると知りながら、からかいや冷笑を伴う挑発的な態度をとるのを控えて来ただけです。私の話を先にしてから言うのは順序が逆ですが、パウロの意図はいま私が申し上げたことと同じです。

「信念はあるか」と問わせていただきました。肉や酒やたばこなどをすべて断つという誓いを一生貫きますかと問うていません。あるいは、早寝早起き、ジョギング、英会話の勉強などを毎日欠かさずすること、など。多くの人は守り切れないでしょう。

もし誓うなら、一生守れそうなことを誓おうではありませんか。それは「嫌がる人がいることを知りながら、故意に嫌がらせするようなことは決してしない」という誓いです。これなら守れるでしょう。成熟した人間(おとな)らしい態度だと言えます。

パウロはここまではっきり言っています、「キリストは、その兄弟のために死んでくださったのです」(15節)と。

「その兄弟」とは、宗教的な理由で動物の肉を食べず、野菜だけを食べる人です。キリストがその兄弟のために、ご自身の貴い命を差し出して死んでくださったのだから、せめてその兄弟の前で肉料理を食べるのを我慢することぐらいできるでしょうという意味です。冗談でも言っているかのような気分になりがちですが、これは真剣かつ深刻な話です。

食事、方角、日にち、場所などの問題は先祖代々受け継いできたものであったり、地域の歴史や風土に関係していたりします。それを重んじている人たちにとっては感性の問題です。生理的な、肌感覚の、きわめてデリケートな問題です。ずけずけ物を言い、ずかずか土足で踏み込んで良いようなことではありません。

だからこそ、「デリケートな問題に対してはデリカシーを持つべきである」というのが今日の箇所の教えの意味であると申し上げておきます。

これをわたしたちの「ポリシー」にする。それは不可能な話ではなく、可能な話です。互いの感性を重んじ合うことが、互いの存在を重んじ合うために大事です。

(2024年7月21日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)

2019年8月18日日曜日

隣人を自分のように愛しなさい(行田教会)

日本キリスト教団行田教会(埼玉県行田市)

ローマの信徒への手紙12章9~21節

関口 康

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」

みなさま、おはようございます。今日は行田教会の特別伝道礼拝の説教者として初めてお招きいただき、ありがとうございます。

今日の聖書箇所は日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』の今日の箇所です。なぜわざわざこのことを言うのかといえば、私の心の中に、行田教会の皆さんにこういうことを言ってやろうと企むものがあらかじめあって、それに合う聖書の箇所を選んだというような事情ではない、と申し上げたいからです。そのような企みも下心も、私にはありません。

そして、初対面の皆さまですので、距離を縮めるために自己紹介のようなことをお話ししたい気持ちが起こってこないわけではありません。しかし、今日の午後、ごちそうをいただきながらの懇談の時間が設けられているとのことですので、自己紹介は午後にします。すぐに聖書のお話に入らせていただきます。

しかし、ひとつ、西川晃充先生が今日の週報に書いてくださった私の略歴の中に、現在の私が教会の牧師をしながら中学と高校で聖書を教えているという点がありますので、そこだけは触れさせていただきます。

今の学校で教えるようになったのは、今年4月からです。夏休み前の4か月がやっと終わっただけです。1学期の中学の授業で取り上げたテーマが「キリスト教の隣人愛」でした。それが今日の聖書の箇所のテーマと共通していますので、私の中で結びつくものがあります。

多感な生徒たちが実にいろんな反応をしてくれました。学期末レポートを書いてもらいました。そのレポートを読むのが私の夏休みの宿題です。今それに取り組んでいる最中です。その影響が今日の説教にも出るかもしれません。そのことをご了解いただきたいと思いました。

さて、今日開いていただいた聖書の箇所は、新約聖書のローマの信徒への手紙の12章9節から21節までです。私はこの箇所を開くたびに思い出すことがあります。それがいつだったのかも、そのように教えてくださったのがどなたであるかも覚えていませんので、あやしい耳学問で申し訳ないのですが、とても印象に残っています。

それは、今日の箇所の冒頭の「愛には偽りがあってはなりません」(9節)から始まり、13章10節の「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのです」まで続く一連の記事は「愛」というテーマで貫かれている。これを「愛の鎖」と呼ぶ、という説明です。

ラブ・チェーンでしょうか、チェーン・オブ・ラブでしょうか、どちらでもいいと思いますが、鎖のようにすべてがつながっているというわけです。「愛の数珠つなぎ」のほうが分かりやすいかもしれませんが、数珠(じゅず)というより鎖(くさり)。

そして、この箇所を「愛の鎖」と呼ぶと説明してくださった方が教えてくださったと私は記憶していますが、途中に挟まる形で別の話題が出てきているようでもある13章1節から7節までの「支配者への従順」という段落も、やはり同じ「愛の鎖」の文脈の中で理解すべきであると説明されました。そのことも私にとっては驚くべきことだったので、記憶に残っています。

13章1節から7節までに書かれているのは、国家権力との関係の問題です。使徒パウロは国家権力に対して従順であれと教えています。そのこと自体は隣人愛の問題と何の関係もないことのように感じられます。

しかし、かつて私に、この箇所を「愛の鎖」と呼ぶと教えてくださった先生は、13章1節以下も関係があるとおっしゃいました。どのように関係しているのかを説明してくださったかどうかまでは覚えていません。ですから、ここから先に申し上げるのは、その方から教えていただいたことではなく、私の考えです。

隣人愛の問題と国家権力の問題が結びつくかもしれないと思えるのは、12章19節以下に出てくる「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」という言葉です。「隣人を愛する」ということは、何をされても自分で復讐しないことを意味する。悪は神が裁いてくださるのだ、というわけです。しかし、「神が悪を裁く」とは、具体的に何がどうなることでしょうか。その具体性を考える必要があると思います。

たとえば、わらで人形を作って釘で打つようなことをすれば、直接手を下さなくても、祟りや呪いなどの形で相手に災いが降り注ぐというようなことなのか。そのような呪術的な話なのか。それとも、悪に対しては国家権力や法秩序が厳正に対処するので個人的な復讐はしてはならない、という意味なのか。もし後者だとすれば、隣人愛の問題と国家権力の問題は、なるほど結びつくところが出てきます。

いまお話ししているのは、今日の箇所に記されている事柄からすれば脱線しています。しかし、今日の箇所の12章9節から21節までよりもさらに広がる13章10節までの全体を「愛の鎖」としてひとまとめにして見ることが大切だということを、まずお話ししたいと思いました。

そして、その全体を通して読むと、だんだん分かってくることがあります。それは、隣人愛についてパウロが書いていることは、どちらかというと動きが少ないということです。「隣人愛とは具体的に何をすることなのか」という問いをもって読んでも、その答えに具体性がほとんどないということです。

1節ずつ見ていくと、いま私が申し上げていることの意味をご理解いただけると思います。

今日の箇所に記されていることの中で、能動的な行為であると言いうるのは、「たゆまず祈りなさい」(12節)と、「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」(13節)と、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」(14節)と、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(15節)と、「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」(16節)、そして先ほど触れた「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(19節)です。

なんだ、「すること」は、たくさんあるではないか、具体性もあるではないかとお思いになるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。この箇所でパウロが勧めている隣人愛の行為は「祈ること」と「助けること」と「もてなすこと」と「交わること」です。しかも、それらの内容について、具体的なことは何も書かれていません。

もちろん、それらがすべて能動的な行為であることは間違いありません。しかし、それでは、それは具体的に何をすることでしょうか。どのような祈り方、どのような助け方やもてなし方、どのような交わり方が、キリスト教に基づく隣人愛の具体的なあり方でしょうかと問われると、答えるのが急に難しくなると思います。

とても印象的な言葉として「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(15節)と記されていますが、これは何をすることでしょうか。俳優が演技や芝居として笑ったり泣いたりするのとは違うことでなければならないはずです。

「よし、ここは笑う場面だ」「よし、ここは泣く場面だ」と自分の感情を意図的にコントロールして喜んだり泣いたりしなさいと言われているわけではないはずです。作為的に喜んであげるとか、作為的に泣いてあげる、というようなことではないはずです。そんな芝居はすぐにばれますし。ここで言われているのは、もっと自然なことでしょう。

もしそうだとすれば、今日の箇所でパウロが勧めている「隣人愛」とは、具体的に言って何をすることでしょうか。パウロは「何をしなさい」「何をしなさい」と多くのことを書いているようでもありますが、そのひとつひとつの勧めの具体性を探しても、ほとんど何も見当たりません。

これで分かるのは、少なくとも今日の箇所で使徒パウロが勧めている「隣人愛」の形は、能動的というより受動的であるということです。

積極的というより消極的です。動的(ダイナミック)というより静的(スタティック)です。隣人愛のためにこれこれこういう何かをするというより、どちらかというとじっとしていることのほうが多く、見て感じて受けとめる姿勢です。前に出ていくのではなく、「悪に悪を返さない」「自分で復讐しない」「自分を賢い者とうぬぼれない」と、後ろに引き下がる方向です。

私はそれでいいと思っていますので、パウロを擁護します。「あなたの擁護は要らない」と断られるかもしれませんが。それは、もしかしたら、相手に伝わりにくい愛の形です。激しい怒りを買うかもしれないほどに。

わたしたちに求められている「愛」の形は、そういうのとは全く違うかもしれません。高価なプレゼントをあげる。あなたの長年の夢を実現してあげる。行きたければ月でも火星でも連れて行ってあげる。大きな家を建ててあげる、それが「愛」だと。能動的で、積極的で、ダイナミックな隣人愛には、具体的に目に見える形があるはずだと。しかし、パウロが書いているのは、その正反対であるということです。

私はパウロが書いていることのほうが、今のわたしたちにとっての慰めになり、希望になると思う次第です。

教会も、社会も、個人も、みんな貧しくなってしまいました。昔はもっと羽振りが良かったのに。今は、お金もないし、してあげられることは何もない。そのように多くの人が感じている、今はそのような時代です。

プレゼントしたくても、できない。何かしてあげようと思っても、できない。持っていたものは、何もかも失った。

それでも、あなたを愛している。大切に思っている。祈っている。そんなのは何の足しにも助けにもならないかもしれないけれども、それでもあなたを愛している。

今日の箇所に記されていることを、もしそのように理解してよいなら、多くの人が救われると思います。私も救われます。お金や生活のことで毎日苦労していますので。

救われるような、救われないような話になって、ごめんなさい。

(2019年8月18日、日本キリスト教団行田教会 特別伝道礼拝)

2019年3月10日日曜日

神の愛


ローマの信徒への手紙8章31~39節

関口 康

「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

今日は、昭島教会のみなさまに対する特別な感謝の思いをもってこの場に立たせていただいています。

私が東京都昭島市に引っ越ししてきたのがちょうど1年前の今日です。2018年3月10日。土曜日でした。正確に言えば、私の荷物だけは2日前の3月8日木曜日に到着しました。牧師館の改修工事をする予定になっていて、まだ入居できない状態でしたので、代わりの仮牧師館として昭島市内の一室で単身赴任生活を始めさせていただきました。

そういうわけで、今日は私の昭島生活1周年の記念日です。引っ越しの日から今日までの1年間、大変お世話になりましてありがとうございます。

しかし、翌日の3月11日日曜日は昭島教会の礼拝に出席しませんでした。私が千葉英和高等学校の常勤講師として日本キリスト教団の教務教師だった1年間と、翌年の無任所教師としての1年間、合計2年間、家族と共に住んでいた借家から最も近かった日本キリスト教団小金教会の礼拝に、他の教会から説教を依頼されていない日曜日のほとんどに出席していました。その小金教会のみなさんにお別れの挨拶をするために、3月11日は小金教会の礼拝に出席しました。

そして、その後すぐに、昭島市内の仮牧師館に戻りました。滝澤操一さんが冷蔵庫と洗濯機と電子レンジを持ってきてくださいましたので、それを据え付けました。滝澤操一さんにこの場をお借りして個人的な感謝を申し上げます。ありがとうございます。

いまご紹介しましたのは、昨年3月11日日曜日のことです。前日の3月10日土曜日の日記も確認しました。その日に私が何をしたかを思い出しました。すっかり忘れていました。

日本キリスト教団の無任所教師であった1年間、何もしないわけに行かなくてお手伝いしていた建築会社の社長はイスラム教徒のイラン人の方(モハマッド・バニジャマリさん)でしたが、その社長さんが朝8時半にご自分の大型トラックで私の家まで来てくださり、いわゆる引っ越しごみを千葉県柏市の3か所のクリーンセンターまで運び、ごみを捨てました。

それが全部終わったのが午後5時でした。そして、レンタカー(カーシェア)で千葉県柏市から昭島市まで来ました。昭島市に到着したのが、夜10時でした。

「目まぐるしい」という言葉を辞書で調べると「目の前にあるものが次から次へと移ったり動いたりするので目が回るようだ」という意味であると書かれています。1年前の今日と明日の私は、まさに目まぐるしい状態だったことを、日記を見て思い出しました。

なぜこの話をしているかと言いますと、ちょうど1年前の今日の私の心境はどのようなものだったのかをお話ししたいと思っているからです。それを言い表すためにそのままぴったり当てはまる言葉を、パウロが書いています。コリントの信徒への手紙一2章3節です。「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れにとりつかれ、ひどく不安でした」。

「衰弱していた」というわりには丸々と太っていたとは思いますが、心理的・精神的な面での衰弱です。「無任所教師」と言っても、私は完全な失業者でした。2人の子どもたちがまだ学業の途中であったその最中に父親である私が失業してしまい、家族に大きな迷惑をかけました。

私にできることといえば、教会の牧師の仕事、すなわち「伝道」しかないのですが、伝道はお金儲けの手段ではありません。牧師とその家族は教会のみなさんに生活を助けていただいているだけです。

前に所属していた教派と、最後の教会をなぜ辞めたかについては、みなさんにきちんとお話ししていません。「何があったのですか」と尋ねないでいてくださることを感謝しています。そのうちいつかお話しできる日が来るかもしれませんし、来ないかもしれません。

パウロが「私は衰弱していた」と書いているのは、コリントに行く直前にいたギリシアのアテネの伝道が失敗したことを指していると言われることがあります。「伝道に失敗も成功もない」という見方もあるとは思いますが、自分の主観において、あるいは他者から客観的に見て「あれは失敗だった」と評価されざるをえない伝道は、実際にはありうると思います。

そのようなことを私も体験しました。何よりも悲しく、そして申し訳ない気持ちでいるのは、私の家族を苦しめてしまったことです。その苦しみは今も続いています。

しかし、今の私の心の内にあるのは、今日までの1年間、温かく助けてくださった昭島教会のみなさまへの感謝です。そして、伝道へのさらなる意欲と、明日への希望です。

幸か不幸か、私は自分が「神に召された伝道者」であるということを自分で否定することができません。自分の思い込みではないかと、何度も何度も疑います。しかし、具体的な教会から牧師として招聘していただき、さらにこのたび都内のミッションスクールで聖書を教える教員としての仕事を再び与えられる運びになりました。

昭島教会のみなさまとも、また来月から働かせていただくミッションスクールとも、過去に何のつながりもなく、お互いに全く知らない関係でした。その私に「御言葉を宣べ伝えなさい」と伝道の場所と機会を与え続けてくださっているのは神であるとしか言いようがありません。すべてが奇跡であるとしか言いようがありません。私は伝道をやめないし、やめることができません。神がそうするように私に命じておられるからです。

先週申し上げましたとおり、来月からミッションスクールで働かせていただくことが決まったのが、先週日曜日の前日の3月2日土曜日でした。面接試験が行われたのが3月2日土曜日でした。面接試験の様子は牧師招聘委員会さながらだったことをお伝えしておきます。一般的な教員採用試験とは性質が違いました。

面接で私が答えたのは今日みなさんにお話ししていることと同じです。「もともと私は学校の教員になるつもりはなかった。教会の牧師であることしか考えたことがなかった」と言いました。教員免許は20年以上、書斎のごみの山の中に放置したままでした。その話も面接のときはっきりしました。そのうえで採用していただきましたので、隠すような内容ではないと思います。

ほとんどすべて自分の話だけになってしまい、申し訳ありません。今日開いていただいた聖書の箇所に記されている御言葉は、今の私の思いと全く同じであると確信できるものがあります。

「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(31節)。

ここにパウロが書いているのは、誤解されやすい言葉かもしれません。パウロは、だれが自分の敵で、だれが自分の味方かという「敵・味方」の話をしたがっているのではありません。「敵はいない」という意味での「無敵」であると言っているだけです。だって神が共にいてくださるのだから。

そして、その神が大切なひとり子イエス・キリストの命さえも惜しまずに差し出してくださったのだから、イエス・キリスト以上に大切な存在は他にないのだから、そのイエス・キリストの命を差し出してくださったその神がすべてのものをわたしたちに与えてくださらないわけがないでしょうと言っているだけです。

そして、その神が「御計画に従って召された」神を愛する者たち(28節)を愛してくださるその愛からわたしたちを引き離す力はどこにもあるはずがないでしょうと言っているだけです。わたしたちは神に愛されて、神を愛する者へと造りかえられました。互いに愛し合うことが始まれば、プロポーズはどちらが先だったかは問題でなくなります。

私は自分で自分が「神に選ばれた人間である」と言い張るつもりはありません。しかし、これまで生きてきた人生の中で「神がわたしを愛してくださっている」ということを十分に信じるだけの十分な根拠を何度も繰り返し与えてくださいました。そのことだけは言えます。

これは私だけの話ではないと思うのです。みなさんも同じだと思うのです。「私が神に愛されていると思えたためしは、いまだかつて一度もありません」とおっしゃる方が、あるいはおられるかもしれませんし、実際にそのような叫び声を聴いたことがあります。最も身近なところで。

その叫び声に私はどのように答えればよいかが分かりません。私に申し上げることができるのは、私自身も決して順風満帆で生きてきたわけではないということです。何もかもすべて良いことばかりで、悩みも苦しみもない人生を生きてきたわけではありません。

しかし、苦労も含めて、嘆きも悲しみも含めて、「神がわたしを愛してくださっている」ということを信じる根拠として十分すぎるほどでした。

(2019年3月10日、日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)

2018年12月30日日曜日

将来の輝きを待ち望む(2018年歳末礼拝)


ローマの信徒への手紙8章18~28節

関口 康

「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

今日は2018年最後の礼拝です。今年の教会活動をふりかえって総括するようなことは、私は全く考えていません。そういうのは主任牧師の仕事です。

私にできるのはせいぜい自分自身の1年をふりかえることです。しかし、それはあくまでも個人的なことですので、礼拝の中で申し上げるようなことではありません。

そうではなく、今日お話しするのは神学の話です。聖書と教会の伝統に基づくモノの考え方です。難しい話ではありません。

神学に終末論と呼ばれる教科があります。耳で聞くと同じになるウィークエンドの「週末」ではありません。事物の終わりを意味する「終末」です。

恐ろしい話ではありません。神に造られたものが、造られたスタート時点から出発してゴールをめざす。そのゴール(目標)が終末です。

その終末論が扱う議論は大別すると二つあります。その二つは、いろんな呼び方がありますが、比較的分かりやすいのは「個人的終末」と「一般的終末」という呼び方です。

「個人的終末」とは、個人としてのわたしたち人間の命の終わりとしての死です。そして死後に与えられる永遠の命です。他方、「一般的終末」は世界の終わり、または宇宙の終わりです。一般的終末は「宇宙的終末」とも呼ばれます。

なぜ「一般的」なのかというと「個人的でない」という意味です。そして個人の死と世界の終わりが全く無関係であるということはありません。しかし両者をとにかく区別しなければならないというのが神学の共通理解です。

しかし、この区別は、わたしたちにとてつもない落胆や失望を与える可能性があります。考えれば考えるほど、とりあえず一度、あるいは何度も繰り返し、わたしたちを打ちのめします。しかしまた、しばらく忍耐してもう少し先まで考えると急に安心感に満たされます。それでいいのだと思えるようになります。

何の話をしているのか。「個人的終末」と「一般的終末」の区別、その意味は「個人の死と世界の終わりは区別されなければならない」ということです。

別の言葉で言い直せば、私が死んでも世界が終わるわけではない、ということです。私がいなくなっても世界は相も変わらず存続し続ける、ということです。世界の存立にとって私の存在に必然性はない、ということです。私がいてもいなくてもこの世界に大差はない、ということです。

最後に申し上げたことまで言うと、腹が立つ方がおられるかもしれません。先ほど申し上げた、とてつもない落胆や失望が襲いかかる可能性があるのはこのあたりです。「そうか、私はいなくてもいいのか」と気づかされる瞬間です。しかし問題になっている事柄をはっきりさせるためには、そこまで言う必要があります。

それは世界が個人を犠牲にしてもよいとか、個人は世界のために犠牲になれという意味ではありません。とくに近代社会は個人の集合体が世界であるという基本思想の上に立っています。それに反することを神学が考えているわけではありません。

それでは何を考えているのかというと、まさに個人の集合体が世界であるならば、世界を構成する一個人の死が世界の終わりを意味するとしたら、恐怖以外の何ものでもない、ということです。

一国の政治を強権的に支配する独裁者のような人が、自分の命が終わった後に世界が存続するようなことがあってはならないと妄想を抱き、世界を終わらせるスイッチを押すようなことがあってはならない、ということです。どれほど偉大な個人であれ、世界の存続を終わらせる責任を負っていないし、負うべきではない、ということです。

そして、個人の集合体が世界であるならば、世界は個人が地味に地道に積み上げてきた努力の上に立っている汗と涙の結晶ですから、圧倒的な力を持つ一個人の暴力的な力で破壊してよいようなものではありえない、ということです。

みんなの汗と涙の結晶としての世界を次の世代に遺し、これから何百年、何千年先の歴史に遺すためにどうするかを考える必要があります。そのためならば個人が犠牲になってもよいという意味ではありません。しかし、エゴイスティックな個人が自分の死と共に世界を巻き添えにする権利はない、と語ることはできます。

「自分がいなくても世界は存続する」という事実は、考えるとやっぱり寂しくなるようなことではあるのです。先ほど「個人の死と世界の終わりは全く無関係ではない」と申し上げたのは、その寂しさを無視できないからです。少なくとも個人の主体性においては、自分の死と共に自分の世界は確かに終わるのです。その気持ちは、すべての人に理解できることです。

しかし、冷静に考えれば、自分が生まれる前にも世界は存続してきたことに気づきます。そもそも自分は世界の初めに対しても終わりに対しても責任を持っていないし、持つ必要がないことを認識できるようになりますので、それが慰めになるはずです。

先週、久しぶりに家族で食事をしました。品川で豪勢に。子どもたちがそれぞれの学業を卒えて就職して頼もしくなってくれました。親の責任が終わったとはまだ言えない状態ですが、親の助けがなくても生きて行ってくれるであろうと期待できる状態まで何とか漕ぎつけたと感じました。

たとえて言えば、「個人的終末」と「一般的終末」の区別の意味は、まさにそのようなことです。その程度のことです。

自分の人生の終わりと世界の終わりが同一であるような人生は、恐怖と絶望以外の何ものでもありません。何のために努力し、苦労してきたかが分かりません。次の世代、将来の世界を担う人々の成長を、目を細めて喜び、愛で、祝うためにこそ、わたしたちは日々努力しているのではないでしょうか。

「自分のいない将来の世界に責任を持てない。そんなものの責任は負えない」と、どうか言わないでください。同じことを昔の人々が全く考えなかったとは思いません。しかし、本気で世界を終わらせることを実行に移していたら、わたしたちもいません。

今わたしたちが生きているのは、将来の世界の輝きを待ち望みつつ努力し、個人の汗と涙の結晶としての世界を我々の世代に託してくれた先人たちのおかげです。だとしたら、わたしたちも次の世代の人々の輝きを待ち望み、わたしたちの汗と涙の結晶を将来の人々のために遺すべきです。

今日開いていただいた聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙の8章18節以下です。私が今年1年かけて取り上げると最初に約束して、途中で放棄したままになっているローマの信徒への手紙です。

今日の箇所に記されているのは、三つの存在が世界の将来を待ち望んでいるという話です。

第一の存在は「被造物」(19節)です。

第二は「霊の初穂をいただいているわたしたち」(23節)です。これは、イエス・キリストを信じる信仰をもって生きているわたしたち信者であり、同時に教会を指していると考えることができます。

第三は「霊」(26節)、すなわち聖霊です。教会の信仰によれば、聖霊は父・子・聖霊なる三位一体の神の霊です。聖霊は端的に神です。

パウロが書いている順でいえば「被造物とわたしたちと神」、逆の順でいえば「神とわたしたちと被造物」が世界の将来を待ち望んでいるとパウロは信じています。

旧約聖書と新約聖書は区別されなければなりませんが、無関係ではありません。旧約聖書は時間の次元としての歴史を重んじます。それは新約聖書にも当てはまります。

世界に将来があると信じている人は、自分の世代で世界が終わると思っていません。人が死んでも、自分が死んでも、世界が滅びても、永遠の次元において存続する霊の人がおり、霊の世界がありさえすれば、それでよいとも思っていません。

少なくともパウロはそういう考えを持っていません。もし持っていたなら世界伝道旅行などする必要はありません。

パウロが多くの人に福音を宣べ伝え、世界中に教会を作ったのは、自分の世代で世界が終わるのでそのための葬儀場を作りたかったからではありません。時間の次元としての将来の世界において、信仰と忍耐をもって生き延び続ける人々をひとりでも多く得るために、パウロは伝道したのです。

この教会が幼稚園と共に歩んでこられたことを、本当に素晴らしいことだと思っています。教会学校が重んじられてきた教会であるのも素晴らしいことです。

子どもたちはいつまでも子どもではありません。必ず大人になります。世界の歴史の担い手になります。それは永遠の次元だけではとらえることができません。

わたしたちの新しい年が希望に満ちたものとなりますよう、お祈りしましょう。

(2018年12月30日)

2018年7月29日日曜日

感謝の生活

ローマの信徒への手紙6章15~23節

関口 康

「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」

今日は7月最後の日曜日です。「私事で恐縮ですが」という言い方は当てはまらないかもしれませんが、私を担任教師にしていただいて4か月になります。1年の3分の1が経過しました。残り3分の2です。

4月の最初に私がお約束したのは「主日礼拝で1年間かけてローマの信徒への手紙を取り上げます」ということでした。しかしそれは、私がまだ皆さんのことを何も存じ上げない段階でのお約束でした。つまり、私から皆さんへの一方的なお約束でした。

しかし、「お約束」と申し上げていますが、「約束」というのは一方的なものであってはいけません。お互いに納得することが大切です。一方的に言うだけなら脅迫です。

なぜこのようなことを申し上げているか。お名前は伏せますし、今日ここにおられる方かどうかも伏せますが、ある方からご意見をいただきました。それは「たまにはイエスさまのお話を伺いたい」というご意見です。

それもそうだと思い直すところがありました。ここは猛然とアピールしますが、私は教会の皆さんからそういうご意見をいただくと、すぐ動きます。何のこだわりもありません。自分が立てた計画とか目標だとかいくら言っても、もしそれが一方的なものなら何の意味もないと思っています。ご意見をいただけたことに感謝しています。

来月から計画を変更いたします。具体的にどうするかは考えさせてください。1年間の説教予定表を自分で作りましたが、それを皆さんにお配りしているわけではありませんので、「どうぞご自由に」と思われるかもしれませんが。

こういうところも私の自己紹介の一面であると受けとめていただけますと助かります。私には何のこだわりもありません。そういう人間だと思っていただきたいです。

私がかつて働きを得た教会で、自分の立場や自分の考えで教会を変えてやろうなどと考えたことは一度もありません。それで叱られることが何度もあったほどです。あなたは優柔不断であるとか、自分のポリシーがないのかとか、さんざんです。

しかし、お叱りを受けるたびに私が思うのは、私よりもはるかに前から教会はあるということです。大げさではなく事実として2千年前から教会はあります。自分のやり方や考えで教会をどうにかしてやろうと考えること自体が傲慢の極みです。

強いて言えばそれが私のポリシーです。「自分のポリシーで教会をどうにかしてやろうという考えを一切持たない」というポリシーです。

だんだん何を言っているか分からない感じになってきましたので、このあたりでストップします。しかし、今日までは先週の週報で予告したとおりにさせていただきます。ローマの信徒への手紙の6章15節から23節までの箇所を、司会者の方に朗読していただきました。

この箇所にパウロが書いていることは何か。彼自身が書いているとおり「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明している」(19節)ところであると言えそうです。しかしそれはあくまでも当時の人々にとっての「分かりやすさ」ですので、今のわたしたちにとって分かりやすいかどうかは別問題であると言う他はありません。

この段落でパウロが言おうとしていることを私なりに要約してみます。パウロが最も言いたがっているのは、いわゆる信仰義認の教理についての疑問に答えることです。

わたしたちが義とされる(すなわち「救われる」)のは、自分の行いや業績、功績、功徳を積むことによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によるというのが、いわゆる信仰義認の教理です。

そして、その場合の「信仰」が「働きなし」(4章5節)であるということをパウロが強調しています。要するにわたしたちは「何もしなくても救われる」のです。

その意味は、何か良いことをし、良い仕事をした人だけに報酬もしくは給料として「救い」が与えられるわけではないということです。「救い」とはそういうものではなく神の恵みなのだということです。乱暴な言い方をしてしまえば、神の恵みとしての「救い」は、何もしていない人にもばらまかれるものです。

しかしこのようなことを言いますと、おそらく多くの人が疑問を抱き始めます。もしパウロの言うとおりだとすれば、何もしないどころか、「積極的に悪いことをしようではないか」とか「どんどん罪を犯そうではないか」などと言い出す人が出てくるに違いないし、実際に出てくるではないかという疑問です。

もしそうだとすれば、真面目に生きること、正直に生きることがまるで愚かなことであるかのようになってしまいます。真面目な生き方は窮屈でつまらないものかもしれません。悪事を働き、罪を犯すほうが、よほど面白い生き方かもしれません。

しかし、各個人がそのような考えで行動しはじめると社会はどうなるでしょうか。神を信じることが犯罪の抑止力になるどころか、推進力になってしまうでしょう。宗教が道徳の土台になるどころか、破壊力になってしまうでしょう。まるで教会こそが犯罪の温床であるかのように。それで社会的信頼を得られるでしょうか。

そんなことになるわけがない、というのがパウロの結論です。その結論をめざしていろんなことを言っていますが、そのためにパウロが用いているたとえそのものが、わたしたちにとって納得できるものかどうかは別問題です。これで納得できるなら、それはそれで問題はありませんが、何を言いたいのかさっぱり分からないと思う方がおられるかもしれません。その気持ちも私には少し分かります。

パウロが用いているのは、奴隷のたとえです。わたしたちは罪の奴隷になるか、神の奴隷になるか、そのどちらかであると言っています。わたしたちが救われるとは、わたしたちを奴隷にしてきた罪のもとから解放されて、神の奴隷になることだというのです。

「救い」とは「罪から救い出される」ことです。わざわざ「罪から」と記されていなくても、「救い」という字を見るたびに「罪からの」という字をいちいち補って読むことが大切です。

しかし、わたしたちは「世の中から救い出される」のではありません。それは誤解です。てこの原理(支点、力点、作用点)で「世の中から」取り外されてしまうことが救いだというなら、救われた者はどこに行くのでしょうか。まるで救いとは世の外で生きることであるかのようになってしまいます。それは死ぬことを意味するでしょう。救いは「世の中で罪から救われること」でなければ意味がないでしょう。

そして「神の奴隷になる」とは、神の義の奴隷になることを意味しています。それは、わたしたちは正しい神に服従することによって正しい生活ができるようになる、ということです。そうである以上、信仰義認の教理が教会を犯罪の温床にすることになるなどありえないのだと、かなり噛み砕いていえば、要するにパウロはそういうことを言っています。

しかし、どうでしょうか。この説明でわたしたちが納得できるでしょうか。昔のことは分かりませんが、現代社会においては「どちらも嫌だ」と思う人のほうが多いのではないかと私には感じられます。「罪の奴隷」であるのも嫌なことだが、「神の奴隷」になるのはもっと嫌だ。そういう抑圧的なことを言い出すから宗教は苦手なのだと反発する人が圧倒的に多いのではないでしょうか。

よりによって、なぜ「奴隷」なのか。神の奴隷になることが救いであるなどと言われれば言われるほど絶望的な気持ちになる。神は我々を自由にしてくれるのではないのか。なぜ絶対服従を求めるのか。窮屈で仕方がない。

いま申し上げているのは、私がそうだと思っているという意味ではないです。宗教が嫌いだ、教会が嫌いだとおっしゃる方々の心の中にあるかもしれないことを想像しているだけです。外れているかもしれません。

しかし、私の考えを言わせていただけば、パウロの言い分を弁護したい気持ちです。パウロはなぜ「罪の奴隷」のほうだけでなく「神の奴隷」のほうまで言っているのでしょうか、真意が何であるかはパウロ本人に聞いてみるしかありません。ですからここから先は私の想像です。しかし、パウロが用いている奴隷のたとえは私には納得できるものです。

それは、わたしたちは「神の奴隷」にしてもらわなければならないほどまでに「罪」がわたしたちを支配し、拘束する力は強いということです。両方に二股をかけて、神にも罪にも自由に行き来しようとするのは甘いということです。「罪」という会社でどれだけこき使われても、もらえるボーナスは「死」しかないよと。

やや本筋から外れることを申しますが、この箇所にパウロが「悪の奴隷」ないし「悪魔(サタン)の奴隷」と書いていないのは、私にとっては興味深いことです。そのほうが話としては分かりやすいかもしれません。しかし、パウロはそのように書いていません。書いていないことが重要だと思います。

なぜそう思うかといえば、そもそも「悪魔(サタン)」とは何者かという根本的な謎があるからです。聖書に登場します。神でも人間でもない超自然的な存在であると長いあいだ、教会で信じられてきた存在です。そうではなく「悪魔」は人間であると理解するようになった人々もいると思います。あるいは、ただの比喩で、実際には存在しないと考える人もいると思います。

私はそのあたりはどちらでもいいと思っています。ここでも私の優柔不断ぶりをいかんなく発揮します。しかし、悪魔はわたしたちにとって信仰の対象ではありませんので「悪魔(サタン)の存在を信じる」必要はありません。

それよりも罪の問題のほうが重大です。罪の存在を信じるか信じないかなどと愚かな議論をする人はいないと思います。これほどまでに罪があふれている世界に生きているわたしたちの中に。

聖書が語る「罪」と一般的な「罪」の意味内容が異なることは私も分かっていますが、両者は無関係ではないし、完全に別のことを言っているのでもありません。わたしたちは、神にしっかりつかまえてもらわないかぎり罪の奴隷のままです。神だけがわたしたちを罪の強い拘束力から解放してくれます。

これがパウロなりの「分かりやすい説明」です。神への感謝の生活が、神のもとで始まります。

(2018年7月29日)

2018年7月15日日曜日

生命がみなぎる

ローマの信徒への手紙6章1~14節

関口 康

「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」

今日の聖書の箇所の内容に入る前にお話ししておきたいことが二つあります。どちらも先週の役員会で話し合われたことです。私は役員会の議長でも書記でもありませんので、その立場からの報告ではありません。私との個人的なかかわりがあることだけを私個人の立場からお伝えしたいだけです。

第一は、教会の応接室のテレビを、牧師館でお借りすることになりました。これは感謝でもあり、お詫びでもあります。先週の説教の冒頭で「うちにテレビがない」とお話ししたのがきっかけです。「私にテレビをください」という意味で申し上げたつもりは全くありません。国内を揺るがす大きな事件や災害を知らない牧師の状態を懸念していただきました。ちゃんとテレビを観てくださいという話になりました。ありがとうございます。

第二は、今日の週報の表紙をご覧いただくとお分かりになりますが、「協力牧師」としてS先生のお名前を記載しないことになりました。事の詳細を申し上げる立場に私は全くありません。それはS先生ご自身がお話しになることです。

「くれぐれも誤解がないように」とS先生がおっしゃったのは、この教会への協力をやめるという意味ではないということです。週報に「協力牧師」として名前を載せるのをやめるだけです。この点はぜひご理解いただきたく、と言う立場に私はありませんので「ご安心いただきたく」と言うべきですが、よろしくお願いいたします。

この機会にS先生に対して私の個人的な感謝を述べさせていただきます。ご承知のとおり私をこの教会にご紹介くださったのはS先生です。しかし、S先生と私が最初にお会いしたのは昨年の11月14日です。わずか7か月前です。それまで全く面識がありませんでした。文字通り見ず知らずの私に関心をお寄せいただき、この教会の皆さまにご紹介くださったS先生に、私は感謝しかありません。ありがとうございました。

S先生に私を紹介してくださった方がおられます。それはM先生です。M先生は私の東京神学大学の先輩です。寮生活を共にしました。と言いましても、M先生が東京神学大学大学院を卒業なさって以来、一度もお会いしていませんでしたので、M先生と私も31年ぶりの再会でした。そのつながりの中で私がこの教会にたどり着きました。ありがとうございます。

そろそろ今日の聖書の箇所に向き合いたいと思います。しつこいほど申し上げてきたことを最初に再び繰り返します。今させていただいているのは「ローマの信徒への手紙を読みながらわたしたちが共有すべきキリスト教信仰の内容を確認すること」です。

この点を強調する私の意図は、わたしたちはパウロの考え方に悪い意味で縛られる必要はないということです。それは特に考え方の順序や角度の問題であると申し上げておきます。わたしたちはいろんな考え方ができます。古代人であるパウロと現代人であるわたしたちの考え方に差があることは明白です。わたしたちはパウロが考えた順序や角度どおりに必ずしも考えなくて構いません。

ローマの信徒への手紙でパウロが最初に強調していたのは、すべての人間は生まれながらに罪人であるということでした。それが出発点でした。しかし、その出発点だけでなく、人間が本質的に善であることを出発点にして考えることもできることをお話ししたつもりです。

そして、罪人であるわたしたち人間が真の救い主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという話が次に来ました。そのように言う場合の「信仰」が「働きなしの信仰」であることに触れました。「私が信じる」というわたしたちの行為がわたしたちを救うという意味ではないということが明らかにされました。

もしそうだとすれば、熱心に信じる人は救われるが、熱心でない信仰の持ち主は救われないというような話になってしまうでしょう。あるいは、もしそうだとすれば、自分が救われるかどうかの鍵は自分自身の手の中にしっかり握られていることになるでしょう。

「救い」に関してすべての主導権を自分自身が握っていると思い込むのは危険です。天国に行くのも地獄に行くのもすべては自分次第であるというなら、果たしてわたしたちが本当に救われていると言えるかどうかが分かりません。究極的なエゴイズムを意味するからです。

そういうことをパウロはよく分かっています。だからこそパウロは「働きなしの信仰」という点を強調しています。信仰という自分の行為によって自分が救われるというのであれば、自己救済です。それは間違った考えです。その間違いを退けるためにこそ、信仰が神の恵みであり、神からの贈り物であることをパウロが述べています。

しかしここで申し上げておきたいのは、わたしたちは、パウロが言っているからそれは真実であると問答無用で受け容れなければならないわけではないということです。

いや違う、ローマの信徒への手紙であれ、他の手紙であれ、パウロが書いた手紙という次元はもはや超えている。聖書の御言葉になっている。聖書は「神の霊感によって書かれた」言葉である。そうである以上、問答無用で絶対的に受け容れなければならないとする考え方の人がいないわけではありません。しかし、わたしたちは必ずしもそういうふうに考える必要はないと私は申し上げたいのです。

聖書は「神の霊感によって書かれた」と言いますが、日本のイタコ、世界のシャーマニズムとして知られる意味での「憑依」がパウロを含む聖書の著者たちに起こったかのように信じる必要はありません。自分の意志も感情も人格も主体性も失って神に「書かされた」のが聖書であるという考え方をわたしたちが採る必要はないし、非常に危険です。「書かされた」とか言い出すのは、人間の無責任に通じます。

今申し上げているのは聖書のことですが、同じことがそのまま信仰にも当てはまります。どの点が最も当てはまるかといえば、信仰もまた自分の意志や感情や人格や主体性を失う意味の「憑依」ではないということです。

神の恵みは人間の中身を排除しません。信仰は神から与えられるものです。その意味で神の恵みとしての信仰によってわたしたちは救われます。しかし、それは「働きなしの信仰」として、それ自体には功績的な意味など全くありえないものです。そうであることと、信仰が与えられた人間の中から意志や感情や人格や主体性が失われることはないということは矛盾しません。

もっと単純で分かりやすい言葉で今申し上げていることを説明したいと願っていますが、思うように行きません。この点は非常に重要なので正確に理解する必要があります。

ある程度理解しやすいかもしれないのはオウム真理教のことです。教祖に帰依することは自分の主体性や人格さえ放棄することを意味していました。外部からコントロールを受けやすい無防備な状態になりました。わたしたちはそうであってはいけないと言いたいのです。

今日開いていただいている箇所にパウロが書いているのは、新共同訳聖書が付けている小見出しに従えば「罪に死に、キリストに生きること」です。この小見出しは正しいし、安心できるものです。

書かれている内容は、わたしたちが洗礼を受ける意義は何かです。印象的な言葉は「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」(5節)です。またその言い換えとしての「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(8節)です。

「洗礼を受ける」とは、客観的な宗教学的な見方から言えば、教会の入会式です。教会の交わりに参加し、仲間になることを指します。それ以上でもそれ以下でもありません。そのことと現実の教会活動に直接的に参加できるかどうかという問題は別の次元のことになります。しかし、教会との関係を前提しない洗礼はありえません。教会の存在を度外視し、無関係であるような洗礼は無意味です。

その洗礼についてパウロが語る中で彼が強調していることは一つではなく二つです。一つではないと申し上げる意味は、洗礼の意味は「死ぬこと」だけではないということです。もう一方の「生きること」も、洗礼の重要な意味です。キリストと共に十字架につけられ、キリストと共に葬られることが重要でないわけではありませんが、もう一つの側面として、キリストと共に生き、キリストと共に復活することも重要です。

乱暴な言い方かもしれませんが、死ぬことばかり考えないほうがよいということです。生きることを考えてよいということです。キリストと共に生き、キリストと共に復活することこそが洗礼の意味であり、目標です。

死ぬ死ぬと、そればかりが強調されますと、洗礼のイメージはひたすら暗いものになります。まるで自分の意志を押し殺すことが信仰であるかのようです。まるで人間であるのをやめることが救いであるかのようです。

そのようなことをパウロは言っていません。わたしたちが洗礼によって死ぬとは「罪に死ぬこと」です。罪は、それを犯された被害者の生命だけでなく、犯した加害者の生命を脅かします。罪悪感、隠ぺい、逃亡生活、実際の刑罰など、罪は加害者にもダメージを与えます。その罪の中から救われ、罪との関係において死ぬことによって生命がマイナスからゼロへ、ゼロからプラスへと転じます。

そのことと、洗礼を受けて教会の仲間に加わることがどういう関係にあるのか、教会生活によってわたしたちの生命がみなぎり、元気になるというのはどういう仕組みなのかということを説明しなければならないと考えましたが、やめます。そのことをお話しする時間が残っていないのでやめるのではなく、私の態度決定としてやめます。

それより「この私を見てください」と言えるようでありたいと思いました。「私を見てください。いつも元気でしょ。生命がみなぎっているでしょ。それは洗礼を受けて教会の仲間になっているからですよ」と。

「この私」は、私だけでなく、すべてのキリスト者のことでもあります。そのことをいくら巧みな言葉で説明できたとしても、実際の教会生活が重苦しいもので、暗い顔でよろよろしているようでは説得力がありませんし、何の意味もありません。

(2018年7月15日)

2018年7月8日日曜日

恵みが溢れる

ローマの信徒への手紙5章12~21節

関口 康

「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

今日の私は、いろんな意味で気後れしています。皆さんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいです。原因は「うちにテレビがないこと」だと、テレビのせいにしておきます。

なぜでしょうか、先週集中的に日本国内で起こった、いくつかの大きな出来事をほとんど知らずにいます。サッカーのことも、西日本豪雨被害のことも、オウム真理教のことも、いろいろあったようだと、なんとなく知っていますが、詳しいことは全く知りません。

先週木曜日、教会の方から「教会にちゃんと映るテレビがありますよ」と初めて教えていただいたのですが、結局観ることができませんでした。テレビを観る習慣がないわけではありません。むしろ好きなほうですが、まだ状況が整いません。

「そんなことも知らないのか」と言われても仕方がない状態です。情報の最先端を走っておられる皆さんから大きく遅れをとった状態で、著しい情報格差を感じつつ、今ここに立たせていただいていることをお許しいただきたく願っております。

聖書についてはどうなのかということも申し上げておく必要がありそうです。聖書は毎日読んでいます。今日の箇所も、穴が開くほど読みました。しかし、今日の箇所はとても難しいです。何が難しいのかというと、ここに書かれていることをわたしたちの現実に結びつけて理解できる言葉にするのが難しいです。

これも「うちにテレビがない」という話に戻っていくところがあります。今のわたしたちが置かれている現実をよく知ることなしに、今のわたしたちに理解できる言葉で語ることは難しい。そのことを痛感する一週間でした。

しかし、開き直るつもりはありませんが、言いたいこともあります。テレビで報道されていることはあくまでもひとつの見方にすぎないということは、ご承知の通りです。テレビこそ嘘をつくということもありえます。テレビが全く言わないことも当然あります。

ひとつだけご紹介します。オウム真理教で教団ナンバーツーと言われた人は、私の中学と高校の先輩です。彼のほうが3学年上なので面識はありませんが、彼がどのような学校教育を受けてあのような宗教に走ったかの背景が私なりに分かります。中学でも高校でも成績優秀で、医者になりました。

一方、死刑を執行した法務大臣のもとで現在働いている法務省ナンバースリーの法務大臣政務官は、これまた私の中学の同級生です。高校は違いますが、私の高校のライバル校の卒業生です。私は彼を覚えているし、彼も私を覚えてくれています。東大卒業、米国留学、検察庁検事になり、東京地検特捜部や在米日本大使館で働いた後、政治家になり衆議院議員になりました。

私は彼が次の法務大臣ではないかと思っているほどですが、学校教育という観点だけからいえば、オウム真理教ナンバーツーも法務省ナンバースリーも出発点は同じだということです。そして私も同じです。私は中学でも高校でも成績不良者のナンバーワンでしたが。

オウム真理教の問題は、これまでさまざまな角度から論じられてきましたし、今なお謎の要素が多いですが、今の学校教育のあり方が関係しているのではないかという話を聞くと、腹が立つことはありませんが、何とも言えない気持ちになります。

余談が過ぎました。今日開いていただきました、私にとっては「難しい」と感じる聖書の箇所と向き合いたいと思います。

この箇所に何が書かれているかを一言でいえば、聖書に最初の人間として登場するアダムと、イエス・キリストが比較されているということです。そのこと自体、今のわたしたちにとって訳が分からないことだと言っても過言でないと思います。「最初の人間がアダムであると聖書に書いてあるかもしれないが、学校の教科書にそんなことは書いていない。科学的根拠がない」と言われれば、そのとおりです。

あるいは、全く異なる観点から、「教会の信仰において、イエス・キリストは神である。神であるイエス・キリストと人間であるアダムとを比較すること自体が間違っている」という見方もできるかもしれません。どんどん謎の深みにはまっていく箇所のひとつだと、私には思えてなりません。

しかし、パウロが言おうとしていることは、私が今申し上げたような、アダムが歴史的に実在したかどうかとか、イエス・キリストが神であるかどうかというような次元の話から完全に切り離すことはできないとしても、いくらか区別することが可能かもしれません。どう言えばいいのか、それが難しくて分からないのですが。

今日の箇所に記されていることの中でパウロが言おうとしていることが最も分かるのは、18節です。「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」。

お分かりでしょうか。こういう話だと思います。「一人の罪によって」の「一人」はアダムです。「一人の正しい行為によって」の「一人」はイエス・キリストです。そのアダムとそのキリストをパウロが比較しています。なぜ比較するのかというと、両者に共通点があることを浮き彫りにしたいからです。

具体的な話をしはじめると、いろいろ語弊が生じる気がしますので、なるべく避けたいですが、だれかと自分を比較するとか、自分以外のだれかとだれかを比較することは、わたしたちが日常的に行っていることだと思います。この人とあの人の共通点は、とりあえず人間であることだというあたりから始まって、あといろいろ。

やはりすぐ語弊が出てきそうなので具体的な話はやめておきます。「あの人は背が高い」と言うだけで問題になることがありえますので。ある人と他の人を比較するというのは、実際にそれをしない人はいないと思うくらいですが、たいてい嫌な話になります。楽しい話になることは、まずありません。最初に私の中学の先輩と同級生の比較のような話をしましたが、楽しい話ではなく嫌な話です。

私がこの教会で最初に説教をさせていただいたときに申し上げたことですが、「学校の教員ほど嫌な仕事はない。なぜなら、生徒の答案に点数をつけなければならないからだ」と申しました。「生徒に点数をつけること」は不可能ですが、「生徒の答案に点数をつけること」は可能ですし、それをするのが学校教員の仕事です。

評価することと比較することは切り離すことができません。学校だけでなく、どこに行っても比較と評価は必ずつきまといます。その点でパウロがしているアダムとキリストの比較も同じです。楽しい比較ではなく嫌な比較です。

アダムは最初の人間だったのに、彼が罪を犯したので、アダムから生まれた全人類がアダムの罪を受け継いでいるとパウロは考えています。アダムの罪を全人類が受け継ぐとはどういう意味なのか。いわゆるDNAだのという生物学的な遺伝子レベルの話なのか、というようなことを問題にしはじめると、ただ混乱するだけです。わたしたちは現代人ですので、どうしてもそういう次元のことを考えざるをえないわけですが、パウロはそういう話をしているわけではないと思っていただくほうがいいです。

それならばどういう話なのかといいますと、パウロが注目しているのは数字の問題です。アダムは最初の人間だったということは、アダムはひとりだったということです。つまりアダムの数字は1(いち)です。その1(いち)であるアダムからすべての人に罪が及んだ。「すべて」の数字は何でしょうか。満点を100点にするとすれば、100(ひゃく)を「すべて」と仮に決めることができるかもしれません。

そのアダムとキリストは同じだとパウロは言おうとしています。どこが同じなのかというと、キリストもひとりだったという点です。ひとりのアダムの罪によって始まった全人類の罪からの救いという神の恵みのみわざが、ひとりのキリストから始まったということです。

アダムの罪がアダムひとりから人類全体に広がったように、神の恵みもひとりのキリストから人類全体に広がっていくのです。1から出発して100に到達するという点で、アダムとキリストは数字的に一致しているというわけです。図式的で、ある意味で抽象的でもある話です。

しかし、それだけではありません。「恵みの賜物は罪とは比較になりません」(15節)とパウロが記しています。比較しながら「比較になりません」と面白いことを言っています。どこが比較にならないかというと、「罪が溢れる」ことがあるかどうかは分かりませんが、神の恵みはあまりにも豊かすぎて溢れるものだ、こぼれおちるほどだというわけです。机の上からばしゃばしゃと。そこに両者の違いがあるとパウロは考えています。

数字でいえば、アダムの罪は1からスタートして100に到達したが、キリストの恵みは100以上であるということです。学校の先生が時々上機嫌で、よく書けている生徒の答案に「はなまる」を付けたりするのと似ているかもしれません。

こんなふうに考えていくと、パウロが書いているのはずいぶん楽しい話のように思えてきます。不謹慎な言い方は慎むべきですが、「神の恵みはすごいんだぞ」と言いたいだけかもしれません。

教会のことを考えさせられます。教会も最初はひとりから始まります。イエス・キリストが最初。最初の弟子はペトロ。現在は世界70億人の3分の1がキリストの弟子です。

開拓伝道の教会も、最初はひとりです。次第に人が増え、長い時間をかけて成長していきます。あるいは、家庭や職場や社会の中で、最初のキリスト者はひとりです。

ひとりであることは孤独であることを意味します。寂しさが伴います。しかし、そのときこそ今日の御言葉を思い起こしましょう。

「孤独に負けてはいけない。キリストもひとり。ひとりのキリストから、救いの恵みが全人類に及び、その恵みは豊かに溢れているのだから」とパウロが励ましてくれています。

(2018年7月8日)

2018年6月24日日曜日

希望が与えられる

ローマの信徒への手紙5章1~11節

関口 康

「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

今日はできるだけ聖書に張り付いたお話をします。今朝開いていただきましたのは、ローマの信徒への手紙の5章の冒頭です。他にも例がありますが「このように」という接続詞と共にパウロがこれまで書いてきたことをひとまとめにしたうえで、結論的なことを述べている箇所です。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとします。」

「本当にそうだろうか」と疑問符を付けて、これを書いているパウロに対しても、これを読んでいる自分自身に対しても厳しく問いかけながら読むことが許されているし、そういう読み方でないかぎり意味がないとさえ私は思います。

「わたしたちは信仰によって義とされた」と書かれています。「義とされた」は救われたという意味で理解してもよいと繰り返し申し上げてきました。「わたしたちは信仰によって救われた」。過去形で書かれていますが、救いは過去に一度限り起こった出来事ではなく、それが始まった過去から現在まで継続し、未来へと続く出来事です。その意図をくめば「わたしたちは信仰によって救われている」。

本当にそうだろうか。信仰など持たなければよかったと強く後悔し、今すぐにでもこれを捨てたいと願ったことがかつてなかっただろうか、実は今まさにそういう思いにとらわれていないだろうか。信仰こそ我が身を導く杖だなんて冗談でない。信仰こそ私を躓かせてきたのではないだろうか。人生を破壊し、人間関係を失う原因だったのではないだろうか。この私が「信仰によって救われている」と本当に言えるだろうか。このようにわたしたちは自らに厳しく問いかけてみるべきです。

「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」。これこそ冗談ではない。いいかげんにしてくれと、大きな声でわめきたくなる。何が「神との平和」だ。なぜこのようなことをパウロはさらさら書けるのだろうか。私がこれだけ神と教会のために尽くしても、まるで神は無視だ。いっそ無視してくれるほうがましだ。まるで神が私を標的にして攻撃しているのではないかと感じる。平和どころか戦争だ。神に憎まれ、呪われているとしか感じない。その証拠に私の人生は破滅の一途。

「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。いや逆でしょうと言いたくなる。「キリストのお陰で人生めちゃくちゃだ。夢も希望も誇りもずたずただ」と言うほうが、よほど現実味がある。

いま申し上げていることが私自身の心の叫びであるかどうかは、ご想像にお任せします。そうだと思っていただくのも自由、違うと思っていただくのも自由です。そのことよりはるかに大切なことは、現実問題としてわたしたちが知らずにいるわけには行かないし、実際に知っている事柄である、多くの人々がいったん教会の門を叩き、決して短くない教会生活をしたうえで教会と信仰に背を向けて離れているという現実です。

教会に踏みとどまった人々だけが信仰の強い人で、そうでない人はそうでないと、単純に片づけることはできません。教会自身が人をつまずかせる原因になることが十分ありうるし、実際にあることは無視できないし、それはわたしたち自身の心の痛みとして覚え続けるべきことでもあります。

そのひとりひとりの心の奥底まで分け入って踏み込み、躓きの理由は何かを尋ねることは限りなく不可能に近いし、それこそ神とその方ご本人の一対一の関係の中でのみ知られうる事柄です。だれも触れるべきではない。しかし、そこで実際に起こっているのは激しい葛藤であり、神との格闘であるということは、ここにいるわたしたちは大なり小なり体験的に知っていることです。

その意味でならば、私ももちろん知っています。牧師をしながら毎日神さまと大喧嘩です。「全く冗談じゃありませんよ、もう勘弁してくださいよ」と。

私の話になっていくのは、これ以上は自主規制します。それよりも大事な問いがあります。それは、パウロが書いているのは、きれいごとなのかという問いです。彼は悩みもなく生きていたでしょうか。信仰によってあらゆる問題がすっきり見事に解決したと言えるような人生を送っていたでしょうか。だからこういうことを臆面もなく書けたのでしょうか。いろいろ調べてみると、全くそうでない事実が見えてきます。パウロの生涯の詳細について今ここで、いちいち述べることはしませんが。

しかし、もしそうであるなら、ますます疑問がわいてくる。パウロはいったい何者なのか。「わたしたちは信仰によって救われている」とか「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」とか、まるで何事もなかったかのように、しゃあしゃあと書くことができる。

なるほどそうか、この人は宗教をなりわいにしている宗教商売人なので、自分の商売道具について悪く書くことができないと思っているのではないか。自分がどれほど苦労しようとおくびにも出さず、厚かましいきれいごとを平気で書けるのではないか。こういう人の口馬に乗せられるととんでもないことになる、くわばら、くわばら。

私はいま余計なことを言っているようでもありますが、この程度のことは高校生くらいにもなれば躊躇なく書いてくる、だれでも考えることですので、あえて口に出しています。そして、これらひとつひとつの問いは、冷笑されたり無視されたりしてはならないと私は考えます。紙一重の面がないとは言い切れません。パウロもひとりの人間である以上、彼だけを特別扱いすることもできません。

しかし、ここから少しずつですが、彼をかばうような言い方になっていくことをお許しください。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」(3節)とパウロが書いていることに、私は彼の本音を見出します。それこそきれいごとだなどと私は思いません。

「そればかりでなく」と書かれると、本筋から少し外れたことが付け加えられているような言い方に見えますが、実際にはパウロはこのことこそ言いたかったのではないかと私には思えます。「苦難をも誇りとする」。私はこの箇所を読むたびに「苦しいですけどね、それも神の恵みですから堪えますよ」と、笑っているのか泣いているのか分からないようなパウロの顔が思い浮かぶような気がします。

そしてこの続きに、この手紙の中でも最も有名な言葉のひとつが登場します。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。

この言葉の意味を考える前に申し上げておきたいことがあります。これは信仰の問題を言っているのであり、神との関係について言っているのであって、それ以外のいろんなことに当てはめて一般論にしてしまわないほうがよい、ということです。

これを一般論にしてしまいますと、だれでもよく分かる話になる面と、一般的には全く理解できない話になる面とが出てくると思います。

だれでもよく分かる話になるのは、スポーツのたとえです。厳しいトレーニングをがんばって受けて体と心を鍛えれば、強くなり、いつの日かトップレベルのアスリートになることができる、かもしれないという希望が与えられる、かもしれない。そもそも最初の厳しいトレーニングを受けなければ、目標としてのトップアスリートの実現もありえない。だからがんばれがんばれ。

たとえばこういう話と、パウロが書いていることは、よく似ているといえばよく似ているかもしれません。あるいは受験勉強のたとえでも同じようなことが言えます。分かりやすいといえば、これほど分かりやすい話は他にないと思えるほどです。

しかし、よく考えるとこれはおかしいです。わたしたちが救われるのは、イエス・キリストを信じる信仰によるのであって、行いによるのではない。それは分かった。しかし、信仰もまたひとつの行為である。そうだとすれば、「わたしたちは自分自身の信仰という行為によって救われる」と考えなければならないのかというと、決してそうではなく、パウロははっきり「働きによらない信仰による救い」を述べています。そのことはすでに学びました。

もしそうだとすれば、わたしたちが信仰生活のために何かトレーニングをしなければならないことがあるのでしょうか。その訓練を受けて「強くなる」必要があるのは、わたしたちのどの部分でしょうか。そして、それによってわたしたちは本当に「強くなる」のでしょうか。かえって傲慢さや頑なさが強くなるだけではないでしょうか。「私は強い信仰の持ち主になった。私と比べてあの人たちの信仰はけしからん」と。それは強くなったと言えることでしょうか。

パウロは繰り返し「イエス・キリストによって」と書いています。「神との平和を得ること」(1節)も「神の怒りから救われること」(9節)も、パウロにとっては、イエス・キリストによることです。それは具体的にどういう意味かを考えるときに重要なのは、イエス・キリストの十字架上の死による贖いによることが6節以降に記されています。

わたしたちにとって大事なことは、イエス・キリストの十字架上の死による贖いと、わたしたちが苦難を忍耐して得られる練達によって生まれる希望との関係は何か、ということです。それは要するにスポーツにおけるトレーニングと同じような意味で強くなることが目的なのか、ということです。

そうではないと、私は言いたいのです。イエス・キリストは十字架上で、世にも稀なる強い人の姿を現されたでしょうか。十字架の釘の痛みの極みの中で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と祈ることができた強い信仰の持ち主としての姿を。

たしかにそのようにもおっしゃいましたが、それだけではありません。最期の最期に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びをあげる完全に無力な人としてのお姿も描かれています。

わたしたちの「希望」は、トレーニングによってつかみとるものではありません。それは「神の恵み」として与えられるものです。しかもそれは十字架上のイエス・キリストの無力な姿に似た者にされるという希望です。

私はなるべく使いたくない言葉ですが、キリスト教の救いが「逆説」の性格を持っていることは明らかです。それを「負け惜しみ」と言わないでください。勝ってもいませんが、負けてもいません。まだ終わっていませんので。

(2018年6月24日)

2018年6月17日日曜日

約束が与えられる

ローマの信徒への手紙4章13~25節

関口 康

「恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼るだけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

すでに何度かお話ししましたが、私の両親がキリスト者で、二人とも教会学校の教師をしていたこともあり、私は生まれたときから教会に通っていました。

その影響で、と言いますか、その環境の中で、と言うほうがぴったり当てはまりますが、子どもの頃から実は今日に至るまで拭いきれずにいる「教会」というものに対する私の中でのイメージは「連れて行かれる」ところだったりします。否でも応でも。

それは間違ったイメージであるということは、一方では分かっているつもりです。「連れて行かれる」を漢字の熟語にすると「連行」です。国語辞典で調べてみると、連行とは「本人の意思にかかわらず、連れて行くこと。特に警察官が犯人・容疑者などを警察署へ連れて行くこと」だと書かれていました。お前の主体性はどこに行ったのかと叱られるかもしれません。

しかし他方で、私は牧師の仕事を始めて28年目ですが、今に至ってもそのイメージを拭いきれずにいます。かえってますますその感覚が強まっているとも感じています。私が牧師だからこそそのように感じるのだと言える要素があるかもしれません。

ここで申し上げたいのは、私が教会に抱くイメージのそれは、キリスト者として果たすべき「義務」だからとか、「責任」だからとか、「神の命令」だから、というような言葉で表現できることではないということです。

そうではなく、まさに「恵み」です。「神の恵み」です。それ以外に表現しようがありません、少なくとも私には。ただし、その中に強制の要素がある。「強いられた恵み」というのは矛盾に満ちた言い方かもしれませんが、まさにそれが当てはまる。そのように思うのです。

教会は日曜日だけ存在する存在ではありません。教会は建物や組織の意味だけでなく、キリスト者の存在そのものが教会です。ふだんひとりひとりが別々にいるときは教会の姿は見えにくく、日曜日に集まると、よりはっきりと姿を現します。

しかし、それはそうとしても、日曜日に集まることが教会のほとんどすべてを集中的に現していると言えないわけではありません。その中で牧師に与えられている責任は説教の準備をすることです。日曜日は7日ごとに巡ってくる。ある意味で「襲い掛かってくる」。否応なしに。体調や状況如何にかかわらず。

感謝の気持ちはもちろんあります。感謝の気持ちしかありません。しかし、これは私の考えですが、教会は牧師にとって居心地の良い場所だけであってはならないと思っています。それは悪い意味での自己満足です。教会の私物化に通じます。教会は牧師の職場でもあるからです。

15年前に出版された『バカの壁』(2003年)が一世を風靡した養老孟司氏が何冊かの本に繰り返し書いていたのは、正確な引用ではありませんが、こういうことでした。「仕事して給料をもらえるのは仕事が苦しいものだからだ。仕事が楽しいというのはおかしい。職場は遊園地ではない。仕事が楽しいなら、職場に入園料を払わなくてはならないだろう」。すべてが教会に当てはまるとは思いませんが、痛いところは突いていると思います。

何の話をしているかといいますと、牧師はつらいよという話ではないし、教会はつらいよという話でもありません。わたしたちは「神の恵み」について語ります。「恵み」と言うかぎり、神から一方的に「与えられるもの」であることを意味します。それは、わたしたち人間の意志や願いにかかわらず、まさに「与えられるもの」であるという性格を持っています。

場合によってはそれは、わたしたち人間の意志や願いに反して与えられることもあります。自分が欲しいものだけ自分で選ぶことができるわけではない。欲しくないものまで押し付けられる。そのため、わたしたち人間の側からすると、強制的な要素があると感じるところが出てくるのではないかと思うのです。

今申し上げていることの文脈で、わたしたちには信教の自由があるので、いかなる意味でも強制があってはならないという話を持ち出すのは全く間違っています。信教の自由の理念は正しいものです。しかし、それとこれとは全く違う話です。今申し上げているのは、わたしたちが生まれたことも、人間として生きていることも、自分の願いや祈りの実現であるとは言えないという意味で強いられたものであると言っているのに近いことです。

わたしたちのうちのだれが「生まれたい」という明確な意志をもって生まれたでしょうか。DNAとかそのあたりの謎のレベルで「私は生まれたがっていた」と主張する人がいるかどうかは知りませんが、そういう話とは区別して考えていただきたいです。そういう話ではありません。

少なからぬ少年少女が、あるいは大人になってからも、私はなぜ生まれたのか、私はなぜ生きているのかという悩みを解決できずにいます。私は生まれたかったわけではない、生きていたいと思わないと。

実際そのとおりだとしか言いようがない面があります。身も蓋もない言い方をしてしまえば、親にとって子どもは、子どもの意志とは全く無関係であるという意味で「勝手に」産んだものです。だからこそ親の責任は重大であると言わなければならないことは事実です。

いま、うちにテレビがありませんし、仮牧師館から牧師館に引っ越してから私用のインターネットがまだつながっていませんので、最近のニュースが全く分かりません。親が子どもを殺したとか、親子関係が悪かった人が人を殺したとか、そういう痛ましい話がいろいろあるようですが、どれも噂話のようなこととして間接的に聞いているだけで、具体的な中身がさっぱり分かりません。

ですから、いま申し上げているのは時事の出来事についてのコメントではありません。聖書的・キリスト教的な意味での一般論をお話ししているにすぎません。

先週は「信仰が与えられる」という題でお話ししました。今日は「約束が与えられる」という題です。来週は「希望が与えられる」という題であることを週報で予告しました。「信仰」も「約束」も「希望」も未来に属する事柄です。6月の関口牧師の説教は「与えられる未来シリーズ三部作」であると覚えていただくとよさそうです。

この「与えられる」に私がこめた意味が、ある意味で「強いられる」でもあると申し上げたいのです。私は二人の子どもの父親です。私は子どもたちに「ごめんなさい」と謝らなくてはならないかもしれません。「こんな目に合わせて、ごめんなさい。こんな時代に、こんな苦しい世界に立たせてしまって。もっと良い時代に生まれたかったよねえ」と。そう言うと、人のせいですが。

そこで私が「でもね、それはぼくも同じだよ」とか言い出すのは無責任な言い逃れかもしれませんが、そういう連鎖のようなところが人生にあります。人は面倒な時代の中に生まれ、その人自身が面倒の原因を作り出す。それぞれの時代に、それぞれ異なる悩みがある。大げさに言えば、人類の歴史は、そのような連鎖によって作り出されてきたものでもあります。

今日の箇所にパウロがアブラハムの生涯について、とくにイサク誕生の経緯に触れて書いています。イサクの側の視点は全く考慮されません。すべてあくまでも親であるアブラハムの側からの視点だけです。「あなたに星の数ほど多くの子孫を与える」と神が約束してくださったにもかかわらず100歳になるまで一人の子どもも与えられなかったアブラハムに、やっとイサクが与えられました。

子どもが与えられるかどうかということ自体の問題ではありません。神の約束が実現するかどうかの問題でした。アブラハムは、その約束がいつになっても実現しないので、約束そのものを疑ったことも全くなかったわけではありません。神の約束の内容とは違う方法で子どもをもうけたことまで聖書に記されています。しかし、最終的にアブラハムは神の約束に立ち戻り、それを信じ続け、ついにその約束の実現を見ることができました。

アブラハムがしたことは「あきらめなかった」ということだけです。子どもを産むことができる身体的な能力という意味での限界を超えてもなお、「神の約束は必ず実現する」と、神とその約束を信頼し続けました。

私は、100歳のアブラハムと90歳のサラに初めての子どもとしてイサクが与えられたという創世記の物語を「奇跡物語」としては受けとめていません。超自然という意味での奇跡の要素は全くありません。夫婦に子どもが与えられることに超自然の要素はありません。強いて「奇跡」だと言いうるところがあるとしたら、100歳のアブラハムが自分に子どもが与えられると信じることができた、そのことです。その信仰が奇跡です。

当時の年齢の数え方と今の年齢の数え方が違っていたのだ、というような合理的な解釈の可能性があるかもしれませんが、そういうのは私にとってはどうでもいいことです。重要なことはアブラハムもサラも「高齢者」であったということです。

そして彼らがイサクに託したのは信仰の継承でした。その信仰はアブラハムに与えられた「あなたに星のような多くの子孫を与える」という神の約束を信頼することであり、同時に未来において信仰の民が多く与えられることへの希望を持つことを意味していました。このあたりで、アブラハムの話とわたしたちの教会の話が結びついてくるものがあると私には思えます。

もうずいぶん前からですが、「日本の教会の未来がない」と嘆く声を教会の中で繰り返し聞いてきました。やれ少子高齢化だ、やれ教会に高齢者しかいない、やれ子どもや若者がいない、だから我々には未来がないと、絶望の三段論法を教会自身が言い続けるのです。

あと10年で多くの教会が消滅するそうです。すでにそれは始まっています。毎年いくつもの教会が閉鎖や合併を余儀なくされています。それはすべて事実です。

しかし、その話を聞くたびに何とも言えない気持ちになります。少子高齢化が「問題」であると言われると拒絶反応すら抱きます。だからどうしたのかと言いたくなります。教会は、恵みによって信仰によって受け継がれるものです。年齢は関係ありません。

パウロが取り組んだ「異邦人伝道」とは具体的に言うと何でしょうか。人生の多くの時間ないしほとんどの時間を異教徒ないし無神論者として過ごしてきた人を神の子どもにすることです。その仕事をわたしたちはパウロから受け継いでいます。

(2018年6月17日)

2018年6月10日日曜日

信仰が与えられる

ローマの信徒への手紙4章1~12節

関口 康

「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

個人的なことでもありますが、教会の事柄でもありますので最初に申し上げます。私は昨日、JR東中神駅前の仮牧師館から牧師館に引っ越してきました。ダンボール箱80箱の本と7つの本棚は引越業者に運んでいただきました。布団とパソコンはNさんの車で、冷蔵庫と洗濯機と電子レンジはTさんの車で運んでいただきました。Nさん、Tさんありがとうございました。

残ったものはすべて、私が自転車で運びました。梱包しにくいものを自転車の前のかごにそのまま乗せて、20往復しました。距離は片道700メートルですので、それほど時間はかかりませんでしたが、疲れました。

それで昨晩から牧師館で休ませていただいています。今朝は鶏の鳴き声で目を覚ましました。コケコッコーと、ちゃんと言いました。幼稚園の鶏です。悪い意味ではありませんが、不慣れな点がまだ多く、これのスイッチはどこにあるのか、これの置き場所はどこかと探し回る感じですが、すぐに慣れるだろうと思っています。まだ若いので。

ローマの信徒への手紙は4章まで来ました。この手紙は全部で16章まであります。来年3月にすべて読み終わるように計画しています。なるべく分かりやすい話をしたいと願っております。最後までお付き合いいただけますと幸いです。

今日の箇所に書かれていることは難しいという印象をお持ちになる方が多いかもしれません。アブラハムが出てきたりダビデが出てきたりします。語られている内容もなんとなく理屈っぽい。分かるようで分からない。しかし、パウロが言おうとしている事柄の内容そのものは比較的単純なことであると申し上げておきます。

もうばれていると思いますが、私は理系の知識がほとんど全くないという意味の典型的な文系人間です。理系の知識に関しては相当でたらめなことを言いますので、そのあたりは理系の方々にお助けいただきたいと願っております。

パウロが言おうとしているのは、昔から多くの人たちが頭を悩ませてきた「卵が先か鶏が先か」という話に近いことです。鶏卵論争(けいらんろんそう)という言い方もします。鶏が卵を産み、その卵から鶏が生まれる。最初はどちらが先だったのかという話です。突き詰めていけばどちらが先かが分からなくなる。だから論争になるわけです。

今申し上げたのは、あくまでたとえです。パウロが「鶏が先か卵が先か」と問うているわけではありません。わたしたちが教えられてきたのは、わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのであって、わたしたちの行いや努力、業績や功徳を積み重ねることによって救われるのではないということです。しかし、この話も突き詰めて考えていくと分からなくなる点が必ず出てきます。

「信仰によって救われる」ということは、単純にひっくり返せば「信仰のない人は救われない」ということになります。それはそのとおりのことなので、やむを得ないことだと言って済ましてしまうのは非常に危険です。そういう言葉で切って捨てられて、ものすごく深い心の傷を負う人々が必ず出てきます。

そして、そこでわいてくる疑問は、その場合の「信仰」とは何を意味するのかということです。信じることも人間の行為ではないかと言われれば、そのとおりです。もしそうだとしたら、結局わたしたちは「信仰という行為によって救われる」のだろうかと問わざるをえません。

そもそもわたしたちが頭を悩ませること、すなわち「考えること」も人間の重要な行為です。また少し余談になりますが、今回の引っ越しに私は一週間かかりきりでした。他の約束をすべてキャンセルして引っ越しだけに集中しました。一週間と言っても日曜日は礼拝があり、木曜日は聖書に学び祈る会がありますので、実質5日です。それで最初の3日間は何をしていたかというと、ただ考えていただけでした。

物を箱に詰める作業も、運ぶ作業も、始まってしまえばすぐに終わることです。しかし、それよりもはるかに大事なことは、教会の働きを止めないでそれを行うにはどうすればいいかということですので、それを考える必要がありました。それを考えることをしないで、ただ物を動かすことだけをしてしまいますと、すべてがめちゃくちゃになってしまいます。

しかし、人が考えている姿というのは、はたから見ると何もしないでサボっているだけのように見えるものです。考えるのをやめて働け、と言われてしまいます。しかし、考えることは人間の重要な行為です。「人間は考える葦(thinking reed)である」とブレーズ・パスカルが言ったということは最新の高校倫理の教科書にも載っています。私は一昨年、高校生たちにこういう話を一生懸命していました。

「考えること」が人間の重要な行為であるなら、「信じること」はもっとそうではないかと言えなくもないわけです。「信じること」はどこまでも私の行為です。信仰は動詞です。主語は私です。「私が信じる」のです。もしそうだとしたら、わたしたちが救われるのは信仰によるのであって行いによるのではないという教えはおかしいのではないかと疑問が生じるのは当然です。信仰も行為であり、しかも、人間の重要な行為であるならば。

実際に教会の中でそういうことが問題になることがありうるわけです。あの人は熱心な信者であると言われる人は必ずいます。「熱心な人がいる」ということは、これも単純にひっくり返せば「熱心でない人もいる」ということになります。

そうしますと、その違いは何なのかが必ず問題になります。信仰が人間の重要な行為であるならば、わたしたちが救われるのは「熱心な信仰」によるのであって「熱心でない信仰」では救われないということになるのかということが現実の問題になります。そして、そういう言葉で傷つき、嫌な思いをする人々が必ず出てきます。

これはとても深刻な問題です。わたしたちが元気なときはこういうことは問題にならないかもしれません。体も心も自由に動き、なんでもできるときは。しかし、信仰は一生ものですので、途中に紆余曲折が必ずあります。年齢だけの問題ではありません。いろいろなきっかけや事情で、教会の礼拝や奉仕に参加できなくなるときが必ずあります。あれほど熱心だった人が。

わたしたちが救われるのは熱心な信仰によるのであって、熱心でない信仰では救われないのでしょうか。そういうことをパウロが言っているでしょうか。そうではないと、今日私ははっきりと申し上げたいのです。

今日の箇所に書かれていることの中でいわゆる鶏卵論争に最も似ていると私に思えるのは5節の言葉です。「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義とされます」。

これがどういう意味かお分かりでしょうか。「不信心な者」というのは訳者が遠慮し、躊躇した形跡がにじみ出ている訳であるように思えます。もっとはっきり「不信仰な者」と訳しても全く問題ありません。そういう意味のことをパウロが書いています。「信仰など全くない者」と。そして「義とされる(義とする)」は「救われる(救う)」という意味です。つまり、パウロがこの箇所に書いているのは「信仰など全くない者を救う神」のことです。

しかし、「を信じる人は」とも書いてありますので一筋縄では行きません。「信仰など全くない者を救う神を信じる人は救われる」のであれば、結局は信仰が求められているではないかという疑問がまた浮かんでくるでしょう。しかし、「働きがなくても」とはっきり書かれています。「働き」とは行為です。信仰も働きの一種、行為の一種であるならば、その行為としての信仰がなくても救われると、パウロがはっきり書いています。

それはいったい何なのか、何を意味するのかということを、わたしたちは何度も考える必要があります。考えれば考えるほど堂々巡りに陥る面がありますが、それでも考えることが重要です。

いずれにせよはっきりしているのは、神がわたしたちを救ってくださるときに、行為としての信仰は求められないということを、パウロがはっきり書いているということです。「お前はおれを信じるのか。もし信じるなら救ってやる」と神は言わない。「信仰など全くない者を神は救う」と。しかし、パウロはそのことを述べたうえで「その神を信じる者は救われる」と言っています。

その場合の「信仰」とは、具体的に言うとどのようなものでしょうか。それを考える必要があります。

人生のほとんどすべての時間を信仰など全くなしに生きてきた人が、最期の最期の局面で、遠のく意識の中で問われた問いに対してうなずく。否、うなずいたかどうかも分からないほどの、かすかな意思表示をする。否、意思表示があったかどうかすらはっきりとは分からない「信仰」。たとえそうであっても「そんなのは信仰とは言えない」などと熱心な人たちから見下げられる筋合いにはない「信仰」。

もうひとつ。今日は花の日子どもの日の礼拝として、わたしたちの前に美しいお花がたくさん飾られています。この花を見て「美しい」と言う。あるいは、口に出さなくても、心の中で思う。美しいと思うかどうかは主観的な問題でもあります。

「信仰など全くない者を救う神を信じる信仰によってわたしたちは救われる」と言われる場合の「信仰」とは、そのようなものではないかと私には思えます。熱心な活動もできないし、具体的な行為もできないけれども、「へえ、神さまってそういう方なのか」と、ただ思い、ただ感じ、ただ受け容れるだけの「信仰」。

「救いが先か信仰が先か」の鶏卵論争は、パウロの中では決着がついています。救いが先です。信仰は後です。信仰というわたしたちの行為がわたしたちを救うのではありません。神の一方的な恩恵によって与えられた信仰によって、わたしたちは救われるのです。

(2018年6月10日、日本基督教団昭島教会 主日礼拝)

2018年5月27日日曜日

救いを求める

ローマの信徒への手紙3章27~31節

関口 康

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」

同じことを何度も言うと嫌われますのでそろそろやめますが、毎回冒頭で申し上げていることを今日も繰り返します。今させていただいているのはローマの信徒への手紙を読みながらわたしたちが共有すべきキリスト教信仰とは何なのかを確認する作業です。しかし、それはどういう意味なのかについての説明が足りていないかもしれません。

うまく行っているかどうかはともかく、私がずっと意識していることをたとえていえば、もしパウロが今の時代に生きていたら、あるいは「よみがえったら」、彼は何を考え、どのように語るだろうかということです。

反対の方向で考えることもできるでしょう。もしわたしたちがパウロの時代に生きていたら、わたしたちは何を考え、何を語るでしょうか。わたしたちが何らかの方法でパウロの時代に行き、パウロの説教を聴いたら、その説教にわたしたちが納得することができるでしょうか。

どちらにしても難しいことです。しかし、どちらかといえば前者のほうが、パウロがひとりであるという点で、想像のしやすさがあります。それはパウロの言葉、ひいては聖書の言葉全体の「現代的解釈」であると言ってしまえばそれまでです。しかし、現代的解釈とは何を意味するのだろうかと、さらに深く考えなければなりません。

その問いに対して私は、わたしたちがパウロの時代に行くことではなく、パウロにわたしたちの時代に来てもらうことのほうを考えています。

別の言い方をすれば、驚かれるかもしれませんが、今のわたしたちがパウロの言葉をそのまま鸚鵡(おうむ)返ししさえすれば、それがキリスト教信仰であるとは言えない、ということです。なぜなら、パウロはパウロで、彼の時代の中で特定の問題に取り組み、その答えを求めて葛藤し、格闘したからです。それは彼の問いと答えであっても、わたしたちの問いと答えではありません。

もちろん、そのパウロ自身の葛藤と格闘の中で見出された普遍的な真理があるからこそ、それを今のわたしたちが学ぶことに意味があります。しかしそれは、パウロの言葉を鸚鵡返しすればよいということを意味しません。似ても似つかない全く別の言葉になっていきます。

それでいいのです。わたしたちはパウロの言葉を最大限に尊重します。神の言葉であると信じてもいます。しかし、悪い意味で縛られるべきではありません。わたしたちは、わたしたち自身の言葉で語るべきです。

今日朗読していただきましたのは、3章27節から31節までです。前回までの箇所の続きです。特に前回の箇所に記されていた「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべて神の義が与えられること」と「イエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされること」、すなわち「贖罪の教理」と「信仰義認の教理」という、いわば二つの教えでもあり、ひとつにつながっているようでもある教えを念頭にして書かれているのが今日の箇所です。

いま「贖罪の教理」とか「信仰義認の教理」とか難しい言い方をしました。しかし、その内容の詳しい解説は、前回もしませんでしたが、今日もしません。どうでもいいことだとは思いませんが、とにかく今日はやめておきます。

それより今日お話ししたいのは、今日の箇所の最初に書かれていることです。「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」(27節)。

これでパウロが言おうとしていることを言い換えれば、「贖罪の教理」にせよ「信仰義認の教理」にせよ、そのめざすところの目標は「人間の誇りを取り除くことにある」ということです。「誇り」の対義語は「恥」ですから、もっと大胆に言い換えるとしたら、「キリスト教信仰の目標は、人に恥をかかせることにある」ということになるかもしれません。プライドをもって生きている人の鼻をへし折ることにある。

このように言われますと嫌な気持ちになるかもしれません。私もこういうことを言いながら、自分でなんだか気持ちが悪いです。ぞっとする要素があることは確かです。そして、激しく問い詰めたくなるかもしれないのは「なぜそんなことを必要があるのか」ということです。

「人の誇りを取り除く」というのは、人間の尊厳に対する侮辱ではないか。人を貶め、辱める。「あなたがたは何をしたいのか」と抗議の電話が教会にかかってくるかもしれません。それほどのことをパウロが書いていると考えることは不可能ではありません。

しかし、もう少し我慢して、次の言葉を読んでみましょう。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです」(29~30節)と書かれています。パウロが言おうとしていることは、はっきりしています。神は特定の宗教を信じる人々だけを依怙贔屓なさらない方であるということです。

なぜそう言えるのかといえば、繰り返し申し上げてきたことですが、パウロが「ユダヤ人」と書いているのは民族の意味ではないからです。ユダヤ教徒という意味です。しかもそれは、現代の宗教学者が世界のいろんな宗教を分類し、他の宗教と区別して言うような意味ではありません。パウロが書いているのは「聖書の神を信じる人々」というくらいのずっと広い意味です。

そうしますと、パウロの言っていることの意味は「聖書の神を信じる人々だけを創造し、救済する神は存在しない」というようなことになります。それは「神は異教徒をも創造し、救済する」ということです。「神が唯一である」とは、そういうことです。ユダヤ教の神とイスラム教の神とキリスト教の神がいるわけではないのです。そういうことを言い出すこと自体が多神教です。

これもわたしたちにとっては相当ぞっとする言葉ではあります。特定の宗教を信じる人を依怙贔屓なさらない神は、キリスト教を信じる人々に対しても同様の態度をおとりになるでしょう。ここで話を終わりにすれば「ならば、なぜ教会に通う必要があるか」と疑問に思う人が出てくるかもしれません。こんなに一生懸命に教会に通っているのに特別扱いしてもらえないのであれば。

しかし、私はあえて「依怙贔屓(えこひいき)」という言葉を使っていますが、もちろん、その意味をよく考える必要があると思っているからです。依怙贔屓することがよく問題になるのは、学校でしょう。学校の先生が、自分の担任するクラスの中のある特定のお気に入りの生徒を特別扱いし、他の生徒を無視したり邪険に扱ったりすること。こういうことを神はなさらないと私は言っているだけです。

この先生はどの生徒も同じように大事にしてくださいます。しかしすべての生徒が先生の公平な眼差しと態度を認めてくれるかというと、話が別です。今の学校には「授業評価」というのがあり、生徒が先生に点数をつける時代です。生徒の見方は歪んでいるとか言い出すのは間違っています。しかし、ひとりの先生を生徒が評価する場合、評価の内容が違うことは十分ありえます。

今申し上げたのは、あくまでもたとえです。神と人間の関係は、先生と生徒の関係と合致するわけではありません。わたしたちが理解すべきことは、神はどの人のことも依怙贔屓なさらない方であり、どの宗教の人に対しても、宗教を持たない人に対しても、宗教を憎む人に対してさえも、同様の態度をお示しになる方であるということです。

そういう先生こそ生徒から信頼される存在ではないでしょうか。それは甘い考え方でしょうか。私は今の学校の事情を正確に把握していませんので、深入りはしません。ただ、いま申し上げた意味の「信頼」と、キリスト教の「信仰」が合致します。そのことを言いたいだけです。

そしてそれはどういう意味かといえば、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義を与えること」(信仰義認の教理)も「イエス・キリストによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とすること」(贖罪の教理)も同じおひとりの神の働きですが、その神をわたしたちが信じるという場合の「信仰」は、「どの生徒も依怙贔屓しないゆえに多くの生徒から信頼される先生がいる」という場合の「信頼」と合致する、ということです。

そのように考えることができるようになれば、いわばそのとき初めて、ひとつ前に申し上げた「キリスト教信仰のめざすところの目標は、人に恥をかかせることにある」という、ひどい言葉の意味が理解できるようになると思うのです。

パウロが取り組んだ問題はユダヤ人の強すぎる宗教的なプライドの問題でした。それが至る所で災いをもたらしました。教会分裂の原因になりました。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が教会内部で対立しあうのです。ユダヤ教徒によるキリスト教徒迫害の理由でもありました。

「自分たちだけが救われて他の人々は救われない」ということを徹底的に信じることのどこに問題があるかといえば、他の宗教を信じる人々に対して排他的で攻撃的な態度を持つようになるということで間違っていませんが、問題の底はもっと深いところにあるように思えます。

私が思うのは、他の宗教に対する排他的で攻撃的な態度は、本来どの人に対しても依怙贔屓をなさらない神への「信頼」を多くの人から奪う結果を生むだろうということです。依怙贔屓するような神なら信じたくないと、多くの人に思わせてしまうのです。自分だけ依怙贔屓してもらいたい人の鼻はへし折られるかもしれません。しかし、そんな鼻はへし折られたほうがいいのです。

依怙贔屓なさらない神に「私はこれだけのことをしました。できました」と自分の業績自慢をしても無駄です。「よしよし、よくがんばった」とほめてはいただけるでしょう。しかし、だからといって、他の生徒よりも先生に寵愛される生徒に自分がなれると思わないほうがいいです。

先生によりますが、「だめな子ほどかわいい」ということが十分ありえます。「だめとは何か」と叱られるかもしれませんが、いつまでも記憶に残るのは、そういう生徒です。下駄を履かせて(救済!)あげないと及第できない生徒のほうが。

神の愛と憐れみによる罪人の救いとは、そのようなことです。罪人でない人はひとりもいないので、救いの御手(下駄!)はすべての人に差し伸べられます。

(2018年5月27日)

2018年5月13日日曜日

福音を味わう

ローマの信徒への手紙3章21~26節

関口 康

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

毎回申し上げていますが、私が説教を担当させていただくときにしているのは、ローマの信徒への手紙を読みながら、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の要点を押さえていくことです。

その中で私がいちばん最初に申し上げたのは、ローマの信徒への手紙は、そのほとんど最初の部分から「わたしたち人間は罪人である」ということを、まるで機関銃のようにこれでもかこれでもかの勢いで書いている書物ではありますが、だからといってパウロは、あるいは聖書全体の教えは、神が人間を罪人として創造されたと信じていないし、教えてもいないということです。

神は人間を「きわめて善い」存在として創造されました(創世記1章31節)。人間性の本質は善です。人間を初めから罪人として創造するような神を、少なくとも私は真面目に信じることができません。人生の悩みと世界の混乱の原因としての罪を自分で作っておいて、その罪の中からあなたを救ってあげましょうと言い出すような神は、マッチポンプ(自作自演)の神です。

そうではありません。火をつけたのはあなたです。わたしたち人間です。理屈を言いたい人は、もし神が人間を初めから罪を犯すことができない存在へと創造してくれていたならば、世界に罪など起こりようがなかったのに、神が人間に罪を犯すこともできる自由を与えたばかりにとんでもない結果を生み出してしまった。そうであれば罪の原因も責任もすべて神にあると言います。

そして、そのように考える人は、罪は神のせいであり、永遠の定めであり、逃れがたい宿命であり、「人が罪を犯すのは当然である」などと言い出して、罪に市民権を与えはじめます。

しかし、神はわたしたち人間を、命令通りに動く機械仕掛けの存在にしたくなかったのです。神を信じることも、神の戒めを守ることも、神御自身がそれを人間に強制なさりたくなかったのです。神の願いは、強制ではなく自由のうちに神を愛する人間であってほしいということです。そもそも自由でなければ愛ではないのです。強制された愛は偽装です。これが、神が人間に自由をお与えになった理由です。

もちろん、神から与えられたその自由を、神を愛することに用いるのではなく、神に背くことにこそ用いるようになってしまった人間を、聖書が描いていることは事実です。しかし、だからといって神は、わたしたち人間から神に背くことができる自由を奪おうとなさいません。それは神が罪を放置しておられるからではありませんし、人間に無関心だからでもありません。

正反対です。神は人間をはらはらしながら見守っておられます。御自身のもとに帰ってくるのを待っておられます。それは、放蕩息子の帰りを待つ父親の姿そのものです(ルカ15章)。

あの放蕩息子の父親は、非難を受けやすい存在です。親のくせに自分の子どもを、なぜ捜しに行かないのか。なぜ待っているだけなのか。自分の子どもへの愛があるなら、あらゆる手を尽くして捜せばいいではないか。そうしないのは愛がないからだ、冷たい親だと、さんざんです。

その反対の存在として神を描いているように見えるのが、99匹の羊を野原に残してでも1匹の迷子の羊を捜しに行く羊飼いを描く、イエス・キリストのたとえです。ここで疑問を持つことは許されるかもしれません。なぜ神は、1匹の迷子の羊のことは捜しに行くのに、放蕩息子は捜しに行かなかったのかと。

その答えを私は知りません。迷子の羊は動物だけど、放蕩息子は人間だからでしょうか。羊は持っていないが放蕩息子は持っている「人間としての意志」を尊重するというテーマが隠されているからでしょうか。いろいろ想像したくなります。

しかし、二つのたとえに共通しているのは、迷子の羊を捜しに行く羊飼いも、放蕩息子の帰りを待っている父親も、愛を失ったわけでも関心を失ったわけでもないことです。羊飼いは迷子の羊を全力で捜す。父親は放蕩息子を全力で待つ。

「全力で待つ」というのは言葉の矛盾か、捜しに行かない怠慢の言い訳だ、詭弁だと言われてしまうかもしれません。しかし、子どもは、親の所有物ではありません。自分の意志を持つ存在です。たとえ親であっても自分の思い通りになりようがない、それが子どもです。どれほど非難を受けようと、自分の子どもの帰りを「全力で待つ」という態度を貫くのが、父親としての神のお姿であると言えるかもしれません。

今日開いていただいたのは、ローマの信徒への手紙3章21節から26節です。ここに記されているのは、この手紙の1章18節から3章20節までに記されている「人間の罪」の問題に対する神の態度決定の内容であると申し上げておきます。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21節)と記されています。「律法とは関係なく」と訳すのは誤解を生みかねません。

原文には「律法なしに」という意味の言葉が記されているだけです。これは直前の「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(20節)を受けていますので、もし敷衍するとしたら、「律法を実行するという方法ではなく別の方法で得られる神の義が示されました」というあたりです。

「律法とは関係なく」と言いながら「しかも律法と預言者によって立証されて」と言うのは、何を言っているのか分からない感じですが(関係ないものが立証する?)、ここで「律法と預言者」はひとつの熟語であると考えるべきです。

厳密な話ではありませんが、いわゆるユダヤ教の聖書はキリスト教会の「旧約聖書」と内容は同じですが、「律法」(トーラー)と「預言者」(ネビーム)、「諸書」(ケスビーム)という三部構成になっていることと関係あります。「トーラーとネビームの内容と矛盾していない神の義が示されました」という意味であると理解できます。

別の言い方をすれば、そもそも「トーラーとネビーム」、キリスト教会にとっての「旧約聖書」が教えているのは「律法を実行することによって神の義を得る」という道ではないというパウロの信仰が表明されています。旧約時代はそうだったが、新約時代はそうではなくなったわけではありません。変化が起こったのではありません。

神の義を得る道に変化はありません。「神の義」という言葉が分かりにくければ「神の救い」と言い換えても構いません。「神の義」ないし「神の救い」は、わたしたち人間がこれこれこれだけの条件を満たしたから得ることができるというような、要するに自分の努力によって獲得するものではなく、神が与えてくださるものだと、パウロは言っているのです。

しかもそれは、「律法と預言者」(ネビームとケスビーム)においてはそうでなかったわけではないと言っているのです。そのときから今日に至るまで、神の態度は全く変わっていないのです。

「神の義」ないし「神の救い」は、神の戒めをどれだけ忠実に守ったか、それをどれだけ破らなかったかによって評価され、点数と成績をつけられて、その面で秀でた人たちだけに与えられる賞状や勲章のようなものではありません。そういうのは典型的な功績主義です。行為義認主義です。しかし、神の義(救い)はそういうものではありません。

しかもそれは旧約聖書の頃はそうだったというわけではありません。神は最初からずっと変わりません。神は御自分に背く罪深い存在になってしまった人間をご覧になって、だから見捨てるとか、愛するのをやめるとか、関心を失うことは、いまだかつて一度もありません。

しかし、今日の箇所に記されていることのいわばもうひとつの中心点は、神に背く罪深い存在になってしまった人間を罪の中から救い出す方法として「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義が与えられる」という方法が、いわば新たに加わったということです。しかしまた、それは究極的な方法であるために、過去の方法が不要になったということです。

「イエス・キリストの贖いの業を信じることによる神の義」(23~26節)について今日は詳細に説明できません。その機会は必ずありますので、今日は簡単な説明だけでお許しください。

ここにパウロが書いていること自体は、わたしたちの「旧約聖書」、ユダヤ教の「律法と預言者」(トーラーとネビーム)をユダヤ教がそのように理解した贖罪の儀式と関係づけて説明する必要があります。

神は「人間の罪を無視する、ごまかす、記録を改竄する」というような意味で「人間の罪を見逃す」のではありません。罪は罪として厳正に裁き、必ず処罰するのが神です。しかし、人間の罪はあまりにも重すぎるため、もし人間の罪の全責任を人間自身に負わせるとしたら、全人類を滅ぼさざるをえないほどです。しかし、そうなさることを神が惜しまれるのです。

それで、いわば人間の代わりに動物に死んでもらうことによって、本来は人間が受けるべき罰を代わりに動物に受けてもらうのがユダヤ教の動物犠牲の趣旨です。しかし、それでは足りないほど人間の罪は重い。「人をあやめた人にいくら賠償金を支払ってもらっても死んだ人の命は返ってこない」と言われることに通じます。動物の命も、あるいはお金も、罪の償いとしてそれで十分だということはありえません。

そこで、究極的で完璧な犠牲として、神の御子イエス・キリストが人間の身代わりに殺されることによって人間自身が神の罰を受けずに見逃される道が開かれました。それが、23節から26節にパウロが記している教えの趣旨です。贖罪の教理です。

しかし、このような説明を聞いても、ぼんやりするだけではないでしょうか。難しい理屈を聞かされたという気持ちになるだけかもしれません。その感覚は正常です。福音は理屈で納得するものではありません。福音は「味わうもの」です。体験するものです。

神の方法は人間の予想を超えるものです(「予想を超えること」を現代用語で「斜め上」と言うそうです)。イエス・キリストの十字架の死がなぜわたしたちの救いになるのかを、わたしたちが完全に理解することはできません。

それで全く構わないと私は思います。要するにわたしたちは、イエス・キリストの十字架の死によって、神の救いを得ているのだ。罪の中にとどまったままではないのだ。神の罰を受けないで永遠の命に至る約束を得ているのだ。そのことを信じ、感謝し、喜ぶことが求められています。

(2018年5月13日)

2018年4月29日日曜日

事実を見る

ローマの信徒への手紙3章1~20節

関口 康

「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです。」

今日もローマの信徒への手紙を開いていただきました。今していることの狙いは、ローマの信徒への手紙を共に読みながら、それを狭い意味の聖書研究の時間にするのではなく、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の大切なポイントを押さえていく時間とすることです。

二千年前のパウロがどのように考え、信じていたかはどうでもいいなどと申し上げるつもりはありません。しかし、もっと大切なことは、今のわたしたちがどのように考え、信じるかです。

二千年前のパウロが考え、信じたとおりに、今のわたしたちも考え、信じればいいではないかと思われるかもしれません。しかし事態はそれほど単純ではありません。わたしたちは二千年前のパレスチナとは全く異なる状況を生きています。それが悪いわけではありません。

わたしたちは現代人です。現代人が現代的な考え方をし、現代的な信じ方をするのは当然です。そもそも、わたしたちにはそれ以外にどうすることもできません。

だからこそ、古代と現代をつなぐ橋渡しが必要です。教会と説教の役割は、古代と現代の橋渡しです。橋渡しの必要がないのであれば、聖書を朗読するだけで事が足ります。しかし、それだけでは済まないので、教会と説教が必要です。

パウロとわたしたちの共通する要素はもちろんあります。全くないなら、わたしたちが聖書を読む意味がありません。共通点は、パウロもわたしたちも同じ生身の人間であることです。パウロもわたしたちと同じように、空気を吸い、食べ物を食べました。うれしいことがあれば笑い、悲しいことがあれば涙を流しました。孤独なときは寂しいと感じました。

人間としての本質、そして感性や肌感覚において、パウロとわたしたちは完全に共通しています。だからこそわたしたちはパウロの手紙を、たとえ全部ではなく部分的であっても理解できるのです。それで十分だと私は思います。

今日の箇所の最初に出てくるのは、「ユダヤ人の優れた点は何か」(1節)という問題です。「優れた点」とは「長所」のことです。「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」(2節)と続いています。そしてその「あらゆる面からいろいろ」の最初に挙げられているのが「まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」という点です。

「まず」の意味は「第一に」です。ここで面白いのは、パウロがユダヤ人の長所について実際に挙げているのはひとつだけだということです。第一はあっても第二も第三以下もありません。おそらくパウロは、ユダヤ人の長所を箇条書きしようとしたのです。しかし、第一に挙げたことを深く考え、詳しく述べているうちに箇条書きするのを忘れたか、意図的に放棄したのです。

なぜパウロは箇条書きをやめたのか、その理由は何かという問題を深く追及するつもりはありません。ひとつだけ言いたいのは、パウロはこの手紙を、生きた会話として書いたのであって、学術論文を書いたのではないということです。思いつきでべらべらしゃべっているとまで言うのは言いすぎですが、あらかじめ整えた原稿を読んだわけではなかった様子が分かります。

しかし、今の点はあまり重要ではありません。はるかに重要なことは、パウロが「ユダヤ人の長所」を「神の言葉をゆだねられたこと」だと言っていることです。これは逆の順序で考えることができます。「神の言葉をゆだねられた人」が「ユダヤ人」です。そう考えることができるとしたら、そのとき初めて、ここに書かれていることと今のわたしたちとの関係ができます。

わたしたちは「教会」です。「教会」は「神の言葉をゆだねられた」存在です。つまり教会は、パウロが書いている意味の「ユダヤ人」です。パウロが挙げている「ユダヤ人の長所」は、そのままわたしたち教会の長所です。長所があれば必ず短所もあります。パウロが「ユダヤ人」について書いているとおりのことが、わたしたち教会に当てはまります。

今申し上げたことは、この続きに書かれていることを読むときにも当てはまります。「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか」(3節)。

この「彼らの中に」を、わたしたちが「教会の中に」と読み替えて考えることが可能です。「教会の中に不誠実な人がいる」と言われると、わたしたちはドキッとします。そういうことがないとは言えません。

しかし、そのとき重要なことは、「それはあの人のことだ」と自分以外の人を真っ先に思い浮かべるのをやめましょうということです。それは先週申し上げたことです。なぜ自分のことを真っ先に考えないのでしょうか。なぜ自分自身に当てはめないのでしょうか。「教会の中に不誠実な人がいる」と言われたときドキッとするほうがはるかに正解です。

しかし、そういう人が教会の中にいるとしても、だからといって、教会は信用できないとか、あんな信用できない人たちが信じている神は信用できないとか言い出すのはおかしな話であると、パウロが言おうとしていると考えることが可能です。

実際にはそういうことをよく言われます。高校で教えていたときも、よく言われました。よく勉強ができる生徒が世界史を学んで、キリスト教は歴史の中で戦争や差別を引き起こしてきた諸悪の根源だというようなことを言いました。歴史そのものは否定できません。しかし、だからといって、教会は信用できない、神は信用できないとまで言うのは、飛躍しすぎです。

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」(4節)と書かれています。「真実」の意味は約束を守ることにおいて首尾一貫しているということです。神はご自分が立てた約束を絶対に裏切ることができません。それが「真実」の意味です。

しかし、だからといって「牧師もうそをつきます」だの「牧師も約束を破ります」だのと牧師である者たち自身が、声を大にして言うのは不適切です。開き直っているようです。そのこと自体で信頼を失うこともあります。

ここでパウロは、話を一歩先に進めます。「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない」(5~6節)。

特に重要な言葉は「わたしたちの不義が神の義を明らかにする」です。仮定の話ではなく事実です。しかし強いて言えば、教会に通っているわたしたちにはよく分かる話ですが、そうでない方々には何を言っているかが分からない、難しい話かもしれません。

それはどういうことかといえば、牧師が信用できないとか、教会が信用できないというような嫌な経験をしたことがある人には分かる話だ、ということです。そういう経験をしたのに、それでも教会生活を続けてきた人には。もう少し一般的な言い方をすれば、家族や友人など最も近い関係の人に完全に裏切られたことがある人にもきっと分かります。それでも生きてきた人には。

あなたはなぜ、今でも教会生活を続けることができているのでしょうか。信用できない教会、信用できない牧師から逃げ出すことができて、信用できる教会、信用できる牧師のもとに移ることができたからでしょうか。

あなたはなぜ、今でも生きることができているのでしょうか。あなたを裏切った家族や友人のもとから離れることができて、絶対に裏切らない人たちのもとに保護されたからでしょうか。

そのような教会があったでしょうか、そのような人がいたでしょうか。もしあったなら、いたなら幸せなことです。しかし、本当にそうでしょうか。理由は違うのではないでしょうか。

信用する対象が変わったからではないでしょうか。言い方は極端かもしれませんが、人間を信じるのをやめた。人間ではなく神を信じるようになったからではないでしょうか。

ひどい経験はしないほうがいいに決まっています。しかし、すべての人に裏切られ、教会にまで裏切られたときにこそ「神」を信じることへと初めて次元が移行することが実際にあります。神の存在が現実味を帯び、真剣なものになる。それは、人間に裏切られたときにこそ起こることである、ということは実際にあります。

だから教会は信用できない団体であり続けてよいし、牧師はうそばかりついてよいという話ではありません。そういうばかげた言い方は「『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか」(8節)というパウロの指摘に通じます。教会と牧師が積極的に悪さを働けば働くほど神が正しいお方であることの証明になるので、どんどん悪いことをしましょう、などというのは、全く恐るべき冒涜です。

しかし、「わたしたちの不義が神の義を明らかにする」は、わたしたちの体験的な事実です。それは人を煙に巻く神学議論ではなく、ふざけた話でもありません。そういうきっかけでもなければ人が真剣に神を信じようとすることはないという事実そのものは、何とも言えない気持ちにさせられることではあるのですが。

最後に書かれているのは、箇条書きしようとしてひとつしか書かなかった「ユダヤ人の長所」の裏面です。「神の言葉をゆだねられたユダヤ人」がなぜ罪人なのかという問いの答えです。

「すべて律法の言うところは律法の下にいる人々に向けられている」(19節)からです。聖書の教えを、他人ではなく、自分自身に当てはめましょう。それができるとき初めて分かるのは、自分の存在が神の御心からいかに遠く離れた罪人であるかという事実です。「神の言葉をゆだねられた人」(わたしたち教会!)の長所が、そのまま短所です。

聖書を読んで「自分は罪人だ罪人だ」と自分を責めるだけの出口のない堂々巡りの中に閉じこもってしまうのは、きわめて危険です。小さな針穴でいいので風穴を開けましょう。そこが出口になります。

しかし、聖書に照らし合わせると自分は罪人であるということをはっきり自覚できることが聖書を読むことの恵みです。自分の弱さや欠けを自覚できるのは、まだ「伸びしろ」が残っていると知ることに通じますので、前向きな生き方です。

事実を直視するために、わたしたちは聖書を読みます。聖書は眼鏡です(カルヴァン)。

(2018年4月29日)

2018年4月22日日曜日

聖書を読む

ローマの信徒への手紙2章17~29節

関口 康

「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

今日の箇所は、ローマの信徒への手紙2章17節から29節までです。この手紙の「本文」が始まる1章18節以下から話し始めて3回目になります。この手紙のパウロの書き方が螺旋階段になっていますので、私の説教の内容も「またその話か」と思うほど同じことを繰り返しつつ、少しずつ前進しているような感じになっていると思います。とにかく前進していますので、我慢していただきつつ、お聞きいただけますと幸いです。

今日の箇所の内容に入る前に、この箇所の読み方について私が思うところの注意点を一点だけ申し上げます。それは、パウロがこの箇所を、まるでパウロ自身には全く当てはまらないことであるかのように自分を棚に上げたうえで、自分以外の他の人々に対する批判や皮肉や当てこすりを書いているのではないということです。もしほんの少しでもパウロがそのような意図で書いているとすれば、この箇所でパウロが厳しく批判している相手と彼自身が同じことをしていることになります。しかし、パウロの意図はそういうのとは違います。

「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」(17~20節)と記されています。

ここでパウロは、自分を棚に上げて、自分以外の「ユダヤ人と名乗る」人々のことを批判しているのではありません。パウロが言おうとしているのは、今日の箇所の最後のほうに出てくる「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、内面がユダヤ人である者こそユダヤ人である」(28~29節)という話につながります。民族や国籍の話をしているのではありません。その意味での「ユダヤ人」が「ユダヤ人を名乗る」こと自体には問題ありません。しかし、この問題は後回しにします。

「律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」と書かれているのも、批判でも皮肉でもなく、すべて良い意味です。「律法」は今の「聖書」です。パウロが「律法」と書いている箇所のすべてを「聖書」と読み替えることが可能です。

「また、律法の中に」以下に書かれていることも同様です。「自負しています」(20節)にも「彼らはこういう偉そうなことを言っています」という意味はありません。パウロが挙げているすべてのことは「ユダヤ人の長所」です。それが悪いと言われなければならない点は、ひとつもありません。

私が繰り返し強調させていただいているのは、この手紙の中でパウロが「ユダヤ人」と呼んでいるのは、民族や国籍の話ではないということです。もちろん歴史的な意味での「当時のユダヤ教徒」を指していると言えないわけではありません。しかし、そう言ってしまいますと、わたしたちとは関係がない話になります。ですから私は、パウロが言う意味での「ユダヤ人」は、幼いころから聖書に親しんできた人のことだと申しています。私がそのようにこじつけているのではなく、パウロ自身がその意味で言っています。

私が申し上げたいのは、パウロが挙げている「ユダヤ人の長所」が、わたしたちにとっての「何」に当てはまるかをよく考えながらこの箇所を読む必要があるということです。まだ抽象的すぎるかもしれませんので、もう少し具体的な話をします。

本日礼拝後、私にとってはこの教会で初めての教会総会が行われます。私はこの教会のことを何も存じませんので、皆さんのお話を聴かせていただく立場にあります。しかし、それだけでは無責任だと思い、過去の教会総会の議事録をかなり前のものから順に読ませていただきました。

時期や状況は皆さんのほうがよく覚えておられることでしょうから、そこはぼかしておきます。しかし居住まいを正されたところがあります。それは自由討論の記録でした。どなたのご発言であるかは記されていませんでしたが、「牧師の働きの80パーセントは説教である」というご発言がありました。とても重いお言葉として受けとめました。

なぜ今このような話をしているのかと言えば、今日の箇所でパウロが挙げている「ユダヤ人の長所」は今のわたしたちの「何」を意味するかを具体的に例示する必要があると思うからです。それはたとえば「牧師にとっての説教」です。「キリスト者にとっての教会生活」です。それは祈りであり、賛美です。聖書に忠実に従って生きる堅実な生活であり、献身的な社会奉仕です。

説教や教会生活そのものについて、それを営むこと自体が悪いと言われてもわたしたちは困るだけです。しかし、パウロが言っているのが「ユダヤ人の長所」そのものが「ユダヤ人の短所」であるということだと私は指摘せざるをえません。「ユダヤ人」としての「営み」自体をやめるべきだと言っているのではありません。ここは理解が難しいところです。

「それならば、あなたは他人に教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と教えながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」(21~23節)と記されているのがそれです。

ここでパウロが極端なことを書いていると考えることは許されるでしょう。「教える」とか「説く」と言われているのは、説教者である私にとっては他人事ではありえません。しかし説教者全員が窃盗を働き、姦淫を犯し、教会の施設を破壊していると言われるのは、いくらなんでも言い過ぎです。

おそらくパウロ自身も、ここは極端なことを書いているという自覚を持っていただろうと私は信じます。しかし、パウロが言おうとしているのは、各論ではなく総論です。「あなたは他人に教えながら自分には教えないのか」という点です。自分の目の中の丸太を取り除くことをしないで、他人の目の中のおが屑を取り除こうとすることです。

そしてこれは決して、狭い意味での説教者だけに限定される問題にしてはならないことです。「聖書を読むこと」が「聖書を教えること」の大前提です。聖書を読むことはすべてのキリスト者が取り組んでいることであり、例外はありません。その意味でいえば、パウロの指摘は自分には全く無関係であると言える人は、教会にはひとりもいません。

今日の箇所でパウロが問題にしていることも、「聖書の教え方」の問題というよりは「聖書の読み方」の問題であるといえます。少なくとも事柄の順序は「教えること」よりも「読むこと」のほうが常に先です。逆の順序はありえません。

しかし、パウロがここで問うている「聖書の読み方」は、聖書に書かれていることについてのたとえば「歴史的・文献学的な知識の」正しさを問うているのではありません。パウロが問うているのは「あなたが教えているその聖書の御言葉を、他のだれよりも先に自分自身に当てはめていますか。そのうえで教えていますか」ということに尽きます。

そしてその場合の「自分自身への当てはめ」を考える際に、先ほど「後回しにする」とお約束した「外見上のユダヤ人」と「内面のユダヤ人」の区別の問題が関係します。聖書の御言葉を当てはめるべきは、わたしたちの「外見」ではなく「内面」であるということです。聖書の御言葉に外見的・形式的に従うだけなら、悪い意味の律法主義者と同じです。私たちの内面に、わたしたちの心の奥底に、聖書の御言葉をしっかり当てはめることが求められています。

そのことをしっかり行ったうえで教えられると、どのような教え方になるかを最後に申し上げます。聖書の言葉を自分に当てはめずに自分以外の人に当てはめて裁きの説教をすれば、もしかしたら説教者自身はスカッと爽やかな気分になれるかもしれません。「言ってやった」と。その説教者の個人的な支援者も同じかもしれません。「よくぞ言ってくださった」と。あるいは聖書に出てくる「悪役」を「これはあの人のことだ」と自分以外の人に当てはめるのも同じです。

しかし、真っ先に自分に当てはめたうえで聖書を教える人の言葉は、自分の心が痛くて辛くてたまらない状態で「この痛みをあの人にもこの人にも味わわせなければならないのか」と躊躇や葛藤を覚えながらのなんとなく歯切れの悪い説教になるかもしれません。それはもしかしたら、曖昧で優柔不断な説教です。肯定的に言い換えれば、説教者自身がクッションもしくは防波堤になっていて、人当たりの柔らかい説教です。

重要なことは、その聖書の言葉で説教者自身がどれほど傷ついているかです。人を慰める言葉になっているか、人を傷つけるだけの言葉になっているかです。家族に対しても、友人に対しても、わたしたちがふだん「キリスト者として」何を語っているかをよく吟味すべきです。

(2018年4月22日)

2018年4月15日日曜日

神を知る

ローマの信徒への手紙2章1~16節

関口 康

「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」

先週申し上げたとおり、今年度1年間、私が説教を担当する礼拝ではローマの信徒への手紙を続けて読みます。ちょうど1年で終わるように、聖書箇所の割り振りと説教題と、その日に歌う讃美歌まで、もう決めました。それは私のメモとして自分で持っておきます。

しかしそれは、ローマの信徒への手紙そのものを歴史的・文献学的に研究した成果を披露するというようなことではありません。私の意図は、この手紙の構造に基づいて、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の中身を分かりやすく解説することにあります。

それはある意味で、皆さんに対する私自身の自己紹介であると考えています。この牧師はどういう筋道でキリスト教信仰をとらえているのか、どういう立場に立っているかをお話しすることが、最も意味のある私の自己紹介になるだろうと期待しています。

それこそが、パウロがローマの信徒への手紙を書いた意図でした。なぜパウロはこの手紙をまだ行ったことがない、これからあなたがたに会いたいと願っているローマのキリスト者たちに宛てて書いたのでしょうか。それは自己紹介をするためでした。

「私はこういう信仰を持っています。こういう福音理解を持っています。この福音をあなたがたと一緒に宣べ伝えたいのです」と言おうとしています。私はパウロではありませんが、パウロの弟子ではあります。パウロ先生のやり方を真似することは許されているでしょう。

それで、今日は2章に入ります。先週お話ししたのは1章18節から32節までの箇所でした。それはローマの信徒への手紙の本文の最初といえる箇所ですが、そこにパウロがいきなり人間は「罪人だ、罪人だ」とまるで機関銃のように書き連ねていることに多くの人が驚き、また多くの人がつまずきを覚える、そういう箇所でした。

しかし私は申し上げました。パウロは決して、天地創造の初めから神が人間を「罪人として」創造されたという信仰を持っていたわけではありません。初めに神は人間を「極めて良い」存在として創造なさったことが創世記1章31節に書かれています。それをパウロが知らないわけがありません。

だからこそパウロは先週の箇所に、罪を「堕落」として描いています。「変わった、堕ちた、逆らった」状態が「罪」であるということは「本来、人間は罪人ではなかった」という大前提なしには、決して成立しえない話です。

わたしたちがよく知っている、多くの人に愛されているイエス・キリストの説教のひとつに、ルカによる福音書15章11節以下の「放蕩息子のたとえ」があります。このたとえ話が記されているルカによる福音書の直前の箇所に、99匹の羊を残してでも1匹の迷子の羊を探しに行く羊飼いのたとえがあります。さらに、見失った銀貨を捜して見つけて喜ぶ人のたとえもあります。

語られていることの趣旨はどれもみな同じです。たとえられているのは、人間が「罪人」であるとは何を意味するのかです。それは本来「極めて良きもの」に創造されたにもかかわらず、そこから「変わり、堕ち、逆らう」存在になりました。それが「罪」です。

もしそうだとしたら「罪から救われる」とは何を意味するかということも、おのずから分かることです。放蕩息子が父の家に帰ることです。迷子の羊が飼い主に抱かれることです。見失った銀貨が持ち主のもとに戻ることです。本来の場所に戻り、本来の姿へと回復されることです。

ですから、私はそれを「救われるとは人間が人間になることを意味する」と申しました。本来の姿へ回復すること以上のことは起こりません。何がどうなろうと、わたしたちは「人間以上の存在」になりません。人間は「神」にも「天使」にもなりません。そうなる必要がありません。

ここまでが先週のおさらいです。今日は2章を開いていただいています。今日の箇所にはいろんなことが書かれていますが、主旨ははっきりしています。ユダヤ人もギリシア人も神の前では同じ人間であるということです。そしてその場合の「ユダヤ人」と「ギリシア人」の意味は、今のわたしたちの常識とは全くかけ離れたものです。

パウロにとって全世界は「ユダヤ人」と「ギリシア人」の二種類だけで構成されていました。両者の違いは「律法を持っているかどうか」です。当時の「律法」は今の「聖書」です。聖書を物心つくころから知っているのがパウロの言う「ユダヤ人」であり、そうではないすべての人が「ギリシア人」です。民族の違いや国の違いを話しているのではありません。

ここで、先週宿題にした点に触れます。それならば、なぜパウロはローマの信徒への手紙を「人類の罪」から書き始めたのかという問題です。それを一言でいえば、この手紙は、主として今申し上げている意味の「ギリシア人」すなわち「異邦人」に宛てて書かれたものだからです。

「異邦人」(「ギリシア人」)は「ユダヤ人」とは違って、天地創造の初めから罪人として創造されたという意味ではありません。異邦人も「極めて良き存在」として創造されました。しかし異邦人はユダヤ人ほど「本来の状態」を自覚しにくい面があります。異邦人は、罪からの救いを「回復モチーフ」でとらえるのが難しい。自分を「放蕩息子」としてとらえるのが難しい。

たとえば、伝道集会の説教や証しの中でよく聞く話があります。「私はもともと信者の家庭で生まれ育ちました。途中、反抗して教会から出て行きましたが、また戻ってきました」という話を聞いてピンと来る人と来ない人がいます。ピンと来るのは、パウロの言う意味の「ユダヤ人」です。ピンと来ない人は「ギリシア人」(「異邦人」)です。

あるいは、ヨーロッパのような十数世紀も前からのキリスト教国や、そこから派生してできたアメリカで「リバイバル」(信仰復興)を訴えることでピンと来る人は、きっといるでしょう。しかし、日本で「リバイバル」と言われてもお困りになる人が多いでしょう。

そのことと、この手紙が「異邦人に宛てられたゆえに人類の罪から書き始められたこと」が関係していると思われます。断言はできません。十分な答えでないことをお許しください。

しかし、その「ギリシア人」も「ユダヤ人」も神の前では全く同じ人間であると、パウロは主張しています。どちらが「上」であり、どちらが「下」であるということはありません。神は両者を差別なさいません。「神は人を分け隔てなさいません」(11節)と書かれているとおりです。

「ユダヤ人」のほうはどれほど罪を犯しても、神がその人々を特別扱いして見逃してくださるが、「ギリシア人」(「異邦人」)のほうはそうではなく、神の厳しい裁きにあうということはありません。同じ罪を犯せば、どちらも同じ扱いです。そのような依怙贔屓を神はなさいません。

しかし問題はその先です。パウロの言う意味の「ユダヤ人」は傲慢になりやすいとパウロは考えています。

物心つくころから聖書を知り、「神の教え」を知っている。その者たちがまるで自分が神になったかのように、神の戒めは自分には当てはまらないかのように、自分の罪を棚に上げて、自分自身を神の立場に置いて、神の視点から人を裁きはじめるのです。教会の窓から外を見ながら「あの人々を悔い改めに導いてあげなければならない」などと言いはじめるのです。

パウロ自身は「ユダヤ人」ですから、それが自分自身の姿でもあることを強く自覚しています。しかしそのうえでパウロはそのような態度がいかに傲慢であり、根本的に間違っているかを強く訴えています。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」(1節)と記されているのは、まさにその意味です。

この「あなた」がパウロの言う意味の「ユダヤ人」です。物心つくころから聖書を知り、神の教えを知っている人々。その人々が「神の教え」をひたすら自分に当てはめ、自分自身の反省と悔い改めの機会にし、常に謙遜に生きようとするのであれば、問題はないかもしれません。

しかし、自分に当てはめることを忘れ、あるいは意図的に拒絶し、「神の教え」を傘に着て、自分以外のだれかを裁く。そういうことをする「あなた」自身も、そのこと自体で神の前で重大な罪を犯していることを自覚せよと、パウロは厳しく警告しています。

しかし、続きに書かれていることを見てください。「神はこのようなことを行うものを正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをするものを裁きながら、自分も同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」(2節)。

ここで分からないのは「このようなこと」の意味です。文脈を考えれば、神の教えを傘に着て他人を断罪することを指しています。そういうことをするのは、たいてい牧師です。教会の説教者です。「このようなこと」をすること自体が罪であるとするパウロの言葉は、教会の信徒の方々から歓迎されるかもしれません。「牧師こそが神の裁きにあう」「そうだそうだ」と。

しかし、それはそれで、人を裁く罪として全く同じことをしていることになるとパウロは言っています。「喧嘩両成敗」を言いたいわけではありませんが、「お互いさま」の面があるかもしれません。

「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」(3節)と記されています。この意味は、人が自分の罪を認めて悔い改めるのは、神の憐れみによる、ということです。

これこそ、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の真髄です。教会が「世の人」を断罪しても、そのこと自体で人が悔い改めるわけではありません。心が頑なになるだけです。叱られれば萎縮します。見下げられれば恨みを抱きます。教会の場合は「二度と行かない」と決意する人々を生み出します。

「神の憐れみ」のみが、人を造りかえます。「神の豊かな慈愛と寛容と忍耐」が、人を罪から救います。人間は神ではありません。神になれませんし、なる必要がありません。神になろうとすること自体が罪です。わたしたちは、人間とは全く別の「神」がおられることをよく知る必要があります。

(2018年4月15日)

2018年4月8日日曜日

人間を知る

ローマの信徒への手紙1章18~25節

関口 康

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」

今日からこの教会の副牧師として、毎月第1日曜以外の説教を担当させていただきます。よろしくお願いいたします。

1年間の説教計画を私なりに立てました。いろいろ考えた結果、1年かけてローマの信徒への手紙を最初から最後まで取り上げることにしました。しかし、ローマの信徒への手紙を学ぶというよりも、ローマの信徒への手紙の構造に従って、我々が共有すべきキリスト教信仰の内容を分かりやすく解説させていただこうと考えました。

難しいことをお勉強しましょうと言いたいのではありません。「ローマの信徒への手紙は難しい」とよく言われます。何を言っているのかさっぱり分からないと。いろんな解釈があってどれが正しいかが分からないと。そうであることは私も分かります。

キリスト教の教理のお勉強をしましょうと言いたいのでもありません。「キリスト教の教理は難しい」とよく言われます。それも分かります。

私はいろんな話し方をします。教会が違えば違う話し方をしますし、同じ教会でも場面や状況が違えば違う話し方をします。学校での話し方も教会とは違います。当然と言えば当然です。とにかく心がけたいのは「分かりやすい話をしたい」ということです。

先ほど朗読していただきました箇所は、1章冒頭の挨拶文が終わり、前回取り上げた「私は福音を恥としない」と書かれた直後の部分です。そこにパウロが書いているのは、新共同訳聖書の小見出しどおり「人類の罪」についてです。人間とはいかに罪深い存在であるか、ということです。

しかし、ここでさっそく誤解が生じます。パウロという人は、人間をはなから「罪人だ、罪人だ」と決めつける人だと。何はさておいても、ひとつの手紙の初めから「人間は罪深い、人間は罪深い」と書く人ですから。まるで機関銃のように、徹底的に人間に弾を打ち込み、痛めつけ、人間を抹殺する人だと。

パウロが普遍的な人間愛に満ち満ちた人だったかどうかは分かりません。もしかしたら、いくらか人間嫌いだったところがあるかもしれません。しかし、人間嫌いであるということは自分嫌いであるということでもあります。自分自身も人間ですから。

もちろん、自分以外のすべての人間が嫌いだという人がいないとは限りません。しかし、そういう人に私からお願いしたいのは「ぜひあなた自身も人間の中に加えてください」ということです。そうすれば人間を完全に否定することは難しくなるでしょう。もっと自分を愛しましょう。自分を愛するように、もっと人間を愛しましょう。

しかし、今申し上げているのは、パウロにお願いしたいことではありません。それは誤解だからです。ローマの信徒への手紙の本文を、パウロが「人類の罪」について書くことから始めたことには、パウロなりの理由がありました。そのことには今日は触れません。

私が今日申し上げたいのは、だからといってパウロは「人間は天地創造の初めから罪人として創造された」と考えているわけではないということです。そのような考えはパウロにはないし、聖書全体にもありません。

もしそういう考えが正しいのであれば、人間が犯す罪の責任は、人間自身には全くありません。「もし神が天地創造の初めから全人類を罪人として創造されたのであれば」、人類の罪の責任も、世界の悪の責任も、百パーセント神御自身にあります。そうとしか言いようがありません。

しかし、聖書全体の教えも、パウロの信仰も、そのようなものではありえません。ここでわたしたちが思い起こさなければならないのは創世記1章31節の言葉です。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とはっきり記されています。

この「お造りになったすべてのもの」に「人間」が含まれています。神は「人間」を「極めて良い」存在として創造されました。神が人間を初めから極めて悪い、極めて罪深い存在として創造されたわけではないということを創世記1章が強く主張しています。

ですから本当はパウロも、ローマの信徒への手紙の本文を「人類の罪」から書き始めるのでなく「極めて良い存在としての人類」という点から書き始めれば良かったのです。そのほうが誤解されなくて済んだでしょう。

「パウロが嫌い」とおっしゃる方がいます。何はさておき「人間は罪深い、罪深い」と言う。そう言ったうえで「その罪深いわたしたちを神がイエス・キリストにおいて罪から救い出してくださった」と言う。相手を「下げて上げる」。そういうパウロのやり方が嫌いだ。

疑問の感じ方はそれぞれ違うかもしれませんが、「パウロが嫌い」とおっしゃる方の話を聞くと、だいたい今申し上げたようなところに原因があるように私には思えます。

しかし、違うのです。神は人間を初めから罪人として創造なさったのではありません。初めに神は人間を「極めて良い」存在としてお造りになったのです。それが聖書全体の教えでありパウロの信仰です。「そんなことはもう分かっている」と思われる方は、ぜひもう一度自分の信仰を見直すきっかけにしていただきたいですし、驚きをお感じになる方は心にとめていただきたいです。

人間だけでなく「天地万物」も同じです。

私は子どもの頃から海が好きでした。私が生まれ育ったのは岡山県岡山市南端の岡山港のすぐ近くです。岡山県は瀬戸内海に面していますが、岡山市は瀬戸内海の一部の児島湾に面しています。

岡山港に面する海は、波もなければ風もない、見てもつまらない何も起こらない海です。しかし私は、そういう海を見に、学校帰りに自転車で毎日のように行き、日が沈むまでじっと佇んでいたような少年でした。

しかしそんな私が、海が怖くなりました。7年前(2011年)の東日本大震災以来です。しばらくは海に近づくことも見ることもできない状態でした。

しかし神は、空も海も陸も、山も川も動物も、初めから「恐ろしい」存在として創造されたのではありません。「極めて良い」存在として創造されました。今申し上げていることで、聖書についての正しい知識を問題にしているのではありません。私が申し上げたいのは、わたしたちが人間と世界を見るときの根本的な姿勢の問題です。

「人を見たら泥棒と思え」という諺があります。その意味は「他人は信用できないものなので、人は軽々しく信用しないで疑ってかかれ」ということです。リアルで説得力がある教えです。

しかし、聖書の教えもパウロの信仰も要するにそういうことなのかというと、全くそうではありません。「神は泥棒を御覧になった。見よ、すべては極めて悪かった」と創世記1章31節に書かれていません。

言い換えれば「罪は第一のものではなく、第二のものである」ということです。話が急に難しくなったかもしれません。

今申し上げたのは有名な神学者の言葉です。典拠を明示しておきます。戦後の日本の国際基督教大学で教えたことでも知られる神学者エーミル・ブルンナーの言葉です。

「罪は第一のものではなく、第二のものである」(教文館『ブルンナー著作集』第3巻、108頁)。ブルンナーがそのように書いていることの意味は、第一のものは「神の創造」であり、第二のものである「罪」は「創造への反逆」であるということです。

「極めて良かったものが悪くなった」状態が「罪」であり、「罪」は「堕落の結果」です。「堕落」とは良い状態から堕ちた状態です。今日の箇所に描かれている「変わった、堕ちた、逆らった」人間の状態は「堕落」もしくは「倒錯」としての「罪」です。

なぜ私はこのようなことを強調しているのかといえば、このことを受け入れることこそがキリスト教信仰にとって重要であると私が信じているからです。最も関係してくるのは、神がイエス・キリストにおいてわたしたちを罪から救い出してくださった、その「救い」とは何かという問題です。

その答えは単純です。人間は本来ないし元来、良い存在でした。しかし、その良い存在としての人間が、堕ちて悪くなりました。それが「罪」です。

もしそうであれば、「救い」とは人間の本来の「良い状態」へと戻されることです。人間の本来性の回復が「救い」です。

それは「人間が真に人間らしくなること」です。それ以上にはなりません。救われた人は「人間以上の存在」になりません。たとえイエス・キリストの十字架の力によっても、熱心な祈りによっても、わたしたちが「本来の人間性」へと回復されること以上に高められることはありません。

だから教会は絶対に傲慢になることはできません。教会の窓から外を見て「我々はあの人々よりも高い位置にある」などと考えることは絶対にできません。「分からず屋のあの人たちに、わたしたちが伝道してあげる」などと。わたしたちは「人間以上」になることはできませんし、なる必要がありません。

私はよく「人間的な牧師である」と言われます。それは、ある人々にとってはもしかしたら悪い意味です。もしかしたら私は厳しく批判されているのかもしれません。しかし、私はうれしくて仕方がありません。「人間」だと認めてもらえたことへの感謝以外ありません。「救われる」とは「人間が人間になること」を意味するからです。

誤解がないように言いますが、今申し上げたことをそのままひっくり返して「救われていない人は人間ではない」とか「人間未満である」などと言いたいのではありません。それはとんでもない誤解です。それこそ傲慢の極みです。

パウロが「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任がある」(1章14節)と書いていることも、パウロが福音を告げ知らせたいと願っている相手に対して自分が「上」に立ち、相手を「下」に見ているという意味ではありません。

「未開の人にも知恵のない人にも福音を宣べ伝えてあげる責任がある」と言っているのではありません。そのような態度で伝道が進むわけがありません。「見下げられた」と腹を立てられるだけです。

教会と世界の関係は垂直の関係ではなく、水平の関係にあります。両者は同じ地平に立っています。

そのことをわたしたち自身がすっきり自覚できるようになるとき初めて、教会の伝道が力強く進んでいきます。福音が前進します。

(2018年4月8日)

2018年3月18日日曜日

私は福音を恥としない

ローマの信徒への手紙1章16~17節

関口 康

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

おはようございます。関口康です。この教会で3度目の説教をさせていただきます。「3度目の正直」と言います。賭け事や勝負事に関する諺です。1度や2度は当てにならないが、3度目があれば確実であるという意味です。「まぐれではない」ということでしょうか。

これからお話しすることはどうでしょうか。3度目のチャンスを皆さまから与えていただきました。今日もどうかよろしくお願いいたします。

聖書のどの箇所についてお話しするかは、2度目に説教をさせていただいたときに決めていました。3度目があるかどうかは分からなかったわけですが、神が道を開いてくださるならこの箇所にしようと決めていました。

「わたしは福音を恥としない」(16節)とパウロが書いています。しかし、この一文にも、原文では「なぜなら」(γαρ)と記されています。それが新共同訳聖書では訳されていません。原文通りに訳せば「なぜなら私は福音を恥としないからである」となります。

この訳されていない「なぜなら」の意味はすぐにお分かりになるでしょう。前の文章の内容を受けているということです。どこからの内容を受けているかといえば、14節と15節です。

なぜこのようなことを申し上げるかといえば、今日の箇所に書かれていることの意味を正確に把握したいと思うからです。「わたしは福音を恥としない」を言い換えれば「私にとって福音は恥ではない」ということでしょう。

しかし、疑問を感じる方がおられませんでしょうか。なぜパウロはこのようなことをわざわざ言わなくてはならないのかと。福音というのは恥ずかしいものなのかと。

ここに記されている意味の「福音」は、いわば聖書の教え全体を指しています。もちろん「福音」は狭い意味では救い主イエス・キリストに関する教えです。しかしイエス・キリストの教えは旧約聖書の教えとの関係の中で成立するものですので、旧約聖書を含む聖書全体の教えが「福音」です。

そして「福音」と「説教(宣教)」は区別しなければなりません。ですから、ここでパウロが書いていないのは「私は説教(宣教)を恥としない」または「私にとって説教(宣教)は恥ではない」ということです。

しかし、そういう話ならば理解できるという方がおられるかもしれません。「説教(宣教)」はいわば教会の教師である者の仕事です。説教者にとっての自分の職業です。「私は自分の仕事を恥としない」ということであれば、そのまま裏返せば「自分の仕事に誇りを持っている」という意味になります。

「そういう話であればよく分かる。自分の職業にプライドを持って生きるのは当然のことである」というふうに受け入れることができる、分かりやすい話になるかもしれません。

しかし、パウロがここに書いているのはそういう話ではありません。「わたしは福音を恥としない」というのはそういう意味ではありません。それならば、これはどういう話なのでしょうか。

そのことを正確に把握するために、先ほど申し上げたことが関係してきます。新共同訳聖書では訳されていない「なぜなら」の存在です。それが直前の14節と15節の内容を受けていると申し上げたことです。

それは具体的に言えば「ギリシア人」にも「未開の人」にも「知恵のある人」にも「知恵のない人」にもパウロには「果たすべき責任」があると述べていることです。さらに「ローマにいるあなたがた」にも「ぜひ福音を告げ知らせたい」とパウロは願っています。

これで分かることは、パウロが人間をいくつかの区分に分けているということです。現代社会の中でこういう言い方をするとすぐに大きな問題になりますので、よくよく気を付けなければなりません。しかし、とにかくパウロが挙げているのは「ギリシア人」と「未開人」と「知恵のある人」と「知恵のない人」、そして「ローマにいるあなたがた」です。ここで「知恵」とは「教養」のことです。

ただし、最後の「ローマにいるあなたがた」は他の区分に属する人々と区別しなくてはなりません。と言いますのは、「ローマにいるあなたがた」とパウロが書いているのは地域の話だからです。

いわば「東京都民」と言っているのと同じです。東京都民の中にいろんな人がいるわけです。私のように岡山県の出身者もいれば全国各地の出身者もいます。外国の方々もたくさんいます。東京に住んでいれば、みんな東京都民です。いわばそれだけのことです。

しかしパウロが「ギリシア人」と「未開人」と「教養人」とそうでない人を挙げているのは、地域の話ではありません。ここでわたしたちは普通の常識とは全く違うことを考えなくてはなりませんが、パウロが「ギリシア人」と言っているのは「ユダヤ人ではないすべての人々」です。それが西暦1世紀のパウロの人間観・世界観です。「ユダヤ人」と「ギリシア人」の2種類で全人類が構成されています。

そして、パウロにとって「ユダヤ人」とはユダヤ教徒のことです。つまり、ここで「ギリシア人」はユダヤ教徒ではない人すべてを指しています。そしてもちろん、それはあくまでも当時の話です。

当時の「ユダヤ人」の意味は、幼い頃から聖書に親しみ、その教えに基づく倫理観や生活感覚を身に着けていた。あるいは実際には聖書の教えからかけ離れた生活をしているとしても、知識として知っていた。それがパウロにとって「ユダヤ人」です。そして、それ以外のすべての人が「ギリシア人」です。そういう意味でパウロが書いているということを理解しないかぎり、ここでパウロが何を書いているのかがさっぱり分からないということになるでしょう。

その「ギリシア人」にパウロは福音を告げ知らせたいと願っています。つまり、その意味は、聖書の教えに接したり親しんだりした経験が全くなく、その教えに基づく生活などいまだかつて一度もしたことがないし、そんなことをしようと思ったこともないような人々にこそ福音を告げ知らせたいし、その責任があるとパウロは言っているのだ、ということです。

そしてパウロは、そのためにローマに行きたいと願いました。その人々の生活領域の只中へと突入することを願いました。この点はとても重要です。

聖書の教えをよく知り、忠実に実践している人々の中にもっぱらとどまり、その人々とだけ人生を共にし、他の人々とは一切付き合わないというような生き方のほうが、パウロにとっては楽な生き方だったはずです。

なぜなら、今申し上げた意味での「ギリシア人」にとって「福音」は、自分が実際に長年生きてきた生活領域においては未知のものであり、違和感しかなく、非常識で現実離れしていると認識する対象になりやすいからです。「間違っているとまでは言わないが、我々の常識とは違う」というような理由ではねのけられたりします。

しかし、そのような自分が実際の生活を営んでいる範囲の人々から「非常識」と言われてしまうようなことを、それでも続けていくのは、恐ろしくもあり、恥ずかしくもあるというのは、わたしたちにも理解できることでしょう。このあたりに「恥」の問題が浮上してくると私は考えます。

しかし、パウロは、だからこそ「なぜなら、私は福音を恥としないからである」と公に宣言します。「恥としない」というギリシア語の言葉は「告白する(公に宣言する)」という別のギリシア語の言葉の言い換えであると言われます。つまりパウロは、聖書の教えとしての「福音」を非常識とする人々を念頭に置いたうえで「私にとって福音は恥ではない」と宣言しています。

しかし、これこそが大事なことだと私が申し上げたいのは、パウロがそのことを、その人々の中へと入って言おうとする点です。その人々から距離を置き、遠くから言っているという態度とは違います。パウロはローマに到着した後も「福音を恥としない」点は変わりなかったはずです。

文明が進んでいる「ギリシア人」にも、そうでない「未開人」にも、「教養ある人」にも、はっきりいえば「教養がない人」にも、とパウロが書いている点にも、ある意味で同じことが当てはまります。知恵や知識、教育や教養については、生まれつきの要素や本人の努力の要素が全く関係ないということは考えにくいでしょう。しかし、だからといって社会や政治によって強いられる要素が全くないということは、昔も今もありえません。

パウロが「教養人」と書いているのは当時の支配階級のエリートのことです。そして、その支配階級から閉め出された人々が「教養のない人」です。つまり、この区別は当時の社会と政治が意図的に作り出したものです。「努力した人」と「努力しなかった人」の区別ではありません。

言っておきますが、パウロは「教養ある人」には伝道しないと言っているのではありません。また、「ギリシア人にも」と言っているときも、ユダヤ人のことは全く見向きもしないと言っているのではありません。

パウロは常に一方だけを選んで他方は必ず切り捨てるという思考も態度も採りません。常に往復運動(Back-and-forth movement)をし続けた人です。「あれか、これか」ではなく「あれも、これも」抱え込んで生きようとした人です。この点は重要です。

しかし、だからこそパウロは「ギリシア人」だけではなく「未開人」にも福音を告げ知らせたいし、その責任があると考えました。「教養人」だけでなく「教養のない人にも」と。しかも、その人々の中にパウロ自身が入っていきます。自分の体と心はしっかり文明人と教養人の中にとどめ、未開人や教養のない人を遠目で見て哀れんでいるというようなこととパウロの生き方は異なります。

しかも、パウロにとっての「未開人」は、今のわたしたちが現代の科学文明の進み具合が遅いという意味でとらえる存在とは違います。それは西暦1世紀と21世紀の混同です。パウロの関心は、言葉が通じるかどうかです。もっといえば聖書を理解できる力があるかどうかです。

一を聞いて十を知る人に聖書の話をするのは簡単です。そうでない人々にこそ福音を告げ知らせることのほうが大変です。言葉が通じない相手には言葉を教えることから始めるのです。その言葉を用いて聖書を教えるのです。そのために、その人々の中へと自ら入っていくのです。自分の教養をひけらかすためではありません。同じ次元に立ち、同じ次元で生き、その人々に「伝わる言葉」で福音を伝えるためです。

未開人や教養のない人の中へと自ら入っていくことの中に「恥」の要素が姿を現すかもしれません。なぜ私が行かなければならないのか、もっと若い人に行ってもらえばいいではないか、など。しかし、「福音」を告げ知らせるためなら、わたしはどんなことでもする。そう言い切ることができ、実践することができたのがパウロです。

わたしたちはどうか、教会はどうか、私自身はどうかと、繰り返し問い返すことが大切です。

(2018年3月18日 日本基督教団昭島教会 主日礼拝)

2018年2月18日日曜日

信仰の力

ローマの信徒への手紙1章8~15節

関口 康

「わたしはギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも果たすべき責任があります」

皆さま、おはようございます。日本キリスト教団教師の関口康です。1月28日に続き、再びお招きいただきましたことを感謝いたします。今日もどうかよろしくお願いいたします。

前回はマタイによる福音書20章1節以下の「ぶどう園の労働者のたとえ」についてお話しいたしました。天国とは、9時から働いた人々にも、12時から働いた人々にも、15時から働いた人々にも、17時から働いた人々にも、全く同じ賃金をもらえるところであるとイエス・キリストがおっしゃったことについてお話ししました。

このたとえ話はわたしたちが教会を考えるときの材料になります、と申し上げたつもりです。教会そのものは天国そのものではありません。しかし、教会は天国を目指す人々の集まりではあるはずでしょう。もしそうだとしたら、17時から来た人々にぶどう園の園主が9時から来た人々と同じ支払いをしたことに、9時から来た人々が腹を立てるようであってはならないはずです。

教会生活が長くて教会への貢献度が高い人々は、天国の中の特別ルームに迎え入れていただけるというような考えは、イエス・キリストの教えの中にはありません。どの人も全く同じです。最近教会に来はじめたばかりの人たちも、子どもたちも、教会生活が長い人々と同じように扱っていただけるのが天国です。もしそうだとしたら、天国を目指す人々の集まりとしての教会もそうでなければならないでしょう。

それで、このたび二度目のお招きをいただきましたとき、聖書のどの箇所についてお話しするかを考えました。内容が前回から完全に続いていなくてもよいだろうとは思いましたが、全くちぐはぐでないほうがよいとも考えました。それで今日の箇所を選ばせていただきました。使徒パウロのローマの信徒への手紙の冒頭の挨拶が終わった直後の、本文の書き出しの部分です。

使徒パウロは新約聖書に登場する、イエス・キリストの福音を宣べ伝える伝道者として最大の人物です。私はいま「伝道者」と言いました。教会で「伝道者」といえば狭い意味での教職者を指す場合が少なくありません。私も「伝道者」という言葉をその意味で用いることがよくあります。

しかし、これは気を付けなければならないといつも思っているのは、狭い意味での教職者だけを「伝道者」と呼んでしまいますと、教職者以外の人々は伝道しなくてもよいというような誤解を与えてしまうかもしれないということです。伝道は教会全体のわざです。すべての信徒が伝道者です。

しかしその一方で、「伝道」とは何かという問いに対する答えが必ずしも明確でないというのが、わたしたちの実際の状況ではないでしょうか。「伝道」とは「何をすること」でしょうか。そのことにわたしたちははっきり答えることができるでしょうか。

言葉の定義の問題を申し上げたいのではありません。教会の信徒すべてが「伝道者」であると言われた場合、わたしたちひとりひとりが「伝道」しなければならないと言われた場合、それは具体的に「何をすること」なのかをはっきり認識できているでしょうかと申し上げています。

そこがぼんやりしているようであれば、教会の存立危機事態に至っていると言わざるをえません。何のために教会が存在するのかを教会自身が認識できていない状態なのですから。しかし、それは何なのか、「伝道」とは何を意味するのかということについて、わたしたちが頭をひねって各自の考えを出し合うだけでは問題は解決しないことも事実です。

その答えを得るために、何よりもまず、聖書を開かなければなりません。聖書は「伝道」について何を教えているかについて、わたしたちは聖書から学ぶ必要があります。そういうことを考えた結論として今日の箇所を選ばせていただきました。

使徒パウロはローマに行きたがっています。「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(10節)とパウロ自身が書いています。

もっとも、ここで「何とかして」と訳されているギリシア語には「いろいろ努力や工夫をこらして」という意味はありません。そうではなく、幸運、ラッキーを待ち望む意味です。「何とかする」のはパウロではなく神です。「神の御心によって」と書かれているとおりです。人間の努力の可能性の話ではなく、神の奇跡の可能性の話です。

つまりパウロが書いているのは、客観的な可能性としては断念せざるをえない状況だが、もし神が奇跡を起こしてくださるならば行くことができるでしょうというような意味です。もしわたしたちがそのような状況の中に立たされたときに「それは大いに可能性があるぞ」ととらえるか、「ほとんど可能性がないぞ」ととらえるかで判断が全く異なるでしょう。そこで問われるのは信仰です。そこで求められるのは信仰の力です。

しかしそれはパウロに海外旅行の趣味があって、ローマの美しい景色を見たいという関心に基づく願いだったわけではありません。何のためにローマに行きたいのかといえば、それが「伝道」です。

しかし先ほども申し上げたとおり、私は言葉の定義の問題を申し上げたいのではありません。伝道を「宣教」を呼んでも構いませんし、他のどんな言葉でも構いません。しかし、もしパウロがローマに行きたがっている理由を「伝道」と呼ぶとすれば、その具体的な内容は何なのか、つまりパウロは「何をしに」ローマに行きたがっているかが今日の箇所に書かれていますので、それをお話しさせていただこうと願った次第です。

その「伝道」について、私の読み方では3つのことを、パウロが書いています。もっと細かく分析することが可能かもしれませんので、「大きく分けて」3つであると申し上げておきます。

パウロがローマに行きたいと願っている第一の理由は、「あなたがたに会うこと」によって「霊の賜物をいくらかでも分け与えて力になること」です。それがパウロにとっての「伝道」の第一の意味です。この場合の「あなたがた」の直接的な意味はローマのキリスト者ですが、それは要するに教会を指しています。

つまり、パウロにとって「伝道」の第一の意味は「教会の人々と出会い、霊の賜物をシェアしあうことによって教会の人々を力づける」を指しています。「力づける」と訳されているギリシア語には「固める」という意味もあります。

「それは伝道ではない。伝道とは教会の外に出て行き、まだキリスト者でない人々と出会うことを意味するのではないか。そうでないかぎり新しい魂を獲得することはできないのではないか」というご意見があるかもしれません。それはかなり鋭いご指摘なので尊重されるべきです、しかし、そこでわたしたちはよく考える必要があります。

最初のほうで申し上げましたが、「伝道者」という言葉を聞くと多くの場合、狭い意味での教職者のことを思い出すというのは、わたしたちの悪い癖です。伝道は教会全体のわざです。逆の言い方をすれば、狭い意味での教職者ばかりが何人集まったところで伝道は進みません。はっきりいえば何もできません。

教区や支区で牧師会を何回開こうと、牧師ばかり集まる有志の勉強会を何回開こうと、それは伝道ではありませんし、伝道になりません。伝道に備えての訓練の意味はあるかもしれませんが、伝道そのものではありえません。伝道は、教会全体の助け合いの中でしか成立しません。伝道のためには教会の皆さんに動いていただく必要があります。

パウロは伝道するためにこそ、教会のみんなを励ましました。教会が元気にならないと伝道は進みません。その理由は、新しい魂を獲得して連れてくる先はどこなのかということを考えていただけばすぐにお分かりになるはずです。それは教会です。

「教会に来てください」とお誘いしたはいいけれど、その教会にちっとも元気がない。教会に来るとその人はきっと躓いてしまうだろうということが目に見えているようであれば、伝道は進みません。

第二の理由を申し上げます。それは「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合うこと」(12節)です。これは第一の理由と同じことを別の言葉で言い換えただけにも見えますが、ここで重要な言葉は「信仰によって互いに励ましあうこと」です。

それは第一の理由の中の「霊の賜物をシェアしあうこと」と内容において重なる部分もありますが、全くイコールとも言いがたいところがあります。「霊の賜物」のほうが「信仰」よりも広い内容を持ちます。「信仰」は「霊の賜物」の一つです。

パウロが「霊の賜物」について書いている有名な箇所はコリントの信徒への手紙一12章から14章にかけてです。その中でとくに有名なのは「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13章13節)という御言葉です。その中に「信仰」があります。いつまでも残るのが「信仰」です。

パウロが「信仰によって互いに励まし合うこと」を第二の理由として挙げていることの意味は重大であると私は思います。「互いに励まし合う」(συμπαρακαλεω)はギリシア語では一つの単語です。「共に(シュン)傍らに(パラ)呼ぶ(カレオー)」です。

パウロはローマのキリスト者と同じ信仰をもって共に立っているという意識を持っていました。しかしそれだけでなく、ローマに直接行って物理的な意味でローマのキリスト者と同じ場所に立って共に励まし合いたいと願いました。手紙だけでは伝えきれない溢れる思いを直接会って伝えたいと願っていました。それも「伝道」です。

そしてパウロは第三の理由として「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があること」そして「ローマにいるあなたがたにも福音を告げ知らせること」を挙げています。順序が最初でないから重要でないとは言えません。しかし、この順序には何の意味もないとも思いません。

教会を励まし、教会をしっかり固めることが先決問題です。そのために求められるのが信仰です。わたしたちは「神を信じる」必要があります。「信仰は問いません」というのは教会ではありません。教会は「信じるか信じないか」を問います。教会は信仰共同体です。それが新しい魂の獲得の土台作りになります。

「新しい魂の獲得が先か、教会形成が先か」は鶏卵論争になるかもしれません。しかし、全く新規の開拓伝道でないかぎり、教会は新しい魂の獲得より先に存在するのですから、教会形成を優先することは間違っていません。パウロにとって「伝道」とは単独プレイではなく、常に教会全体との共同作業であったことが記憶されるべきです。

(2018年2月18日)

2017年10月16日月曜日

どうすれば人を好きになれるか(関西学院大学)

理工学部チャペルアワー(2017年10月16日、関西学院大学三田キャンパス)

ローマの信徒への手紙7章19~20節

関口 康(日本基督教団教師)

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」

関西学院大学のみなさん、はじめまして。関口康と申します。今日はよろしくお願いいたします。

私は千葉県に住んでいます。昨日電車で三田(さんだ)まで来ました。しかし、私は生まれも育ちも岡山です。岡山朝日高校の卒業生です。みなさんの中に岡山の方はおられませんか。

岡山の高校生にとって関西学院大学は憧れ中の憧れの大学です。その関西学院大学でこのようにしてお話しさせていただく機会を与えられましたことは、私にとっては光栄の極みです。ありがとうございます。

私が今日選ばせていただいたテーマは「どうすれば人を好きになれるか」というものです。しかしこれからお話しするのは、大学生のみなさんへの恋愛指南のような話ではありません。私はそういう話ができるタイプの人間ではありません。

そうではなく、聖書やキリスト教についてのよくある誤解に関することです。しかも、どちらかといえば真面目な人や熱心な人が抱きやすい誤解です。しかもそれは、聖書の中途半端な読み方に起因する誤解です。

それは何かといえば、学校であれ教会であれ、聖書とキリスト教を学びはじめ、その学びが次第に面白くなり、聖書に出てくる神さまのことが好きになってきた人々の中に、極度の「人間嫌い」になる人々が出てくる、という問題です。

もともと人間嫌いだった人が宗教にハマり、現実逃避に走るようになったという図式に当てはまる場合がないとは言えません。しかし、その順序だけでなく、もともとは人間愛に満ち満ちていたような人が、聖書を読みはじめ、聖書に出てくる神さまを知るようになると、だんだん人間嫌いになっていくという順序の場合もあります。

その人々が口を開いて「人間」もしくは「人間的」という言葉を発すると、それは常にネガティヴな意味です。「あの人は人間だ」という言葉がなぜか常に悪い意味です。「あの人は人間的な人だ」と言えば、その相手に対する最大限の侮辱の言葉です。

しかし、考えてみればおかしな話です。人間とは人間であると言っているだけです。人間と人間を等号で結んでいるだけです。ただの同語反復です。それがなぜかいつも悪い意味なのです。

その原因は比較的単純です。「あの人は人間だ」とか「あの人は人間的な人だ」という言葉を常にネガティヴな意味でしか言わなくなる人々は、人間を神と比較しているのです。その人々は神と人間を対比し、両者を対立関係でとらえています。だから「人間」は常に悪い意味になります。

神は完璧で偉大な存在である。その神と比べると人間は不完全で失敗だらけ。ひどく愚かで罪を犯す。そんな人間を愛することなど私には不可能である。存在の価値すらないゴミのような存在であるとしか認識できない。もはや憎しみと軽蔑しか感じない。このようなことを真顔で言い出す人々がいます。

私は、それはとてもまずいことだと思っています。そもそも神と人間と比較すること自体が問題です。次元の違う存在同士をどうすれば比較できるのでしょうか。

しかし他方で、これは一筋縄で片づけることができるような単純な問題ではないとも考えています。なぜでしょうか。「それでは人間は全面的に肯定できる存在なのか」という深刻な問いが必ず残り続けることになるだろうと思えてならないからです。

自然という自然をめちゃくちゃに破壊してきたのは人間です。人が2人いればすぐにケンカになる。3人いれば収拾がつかなくなる。常に争い合い、憎しみ合い、傷つけ合うのが人間です。こんな存在を無条件に全面的に肯定することができるでしょうか。そんなことをしてよいでしょうか。それもそれでまずいことのような気がしてなりません。

しかし、その場合の問題は、人間を相対化する方法は何かということです。神を信じない人は神の存在を前提にして考えることはできませんので、神以外の何ものか、しかも人間よりも大きな存在と人間を比較して、人間を相対化するしかないと思われます。

たとえば宇宙や地球と人間を比較すれば、人間がいかに小さく無力で無能であるかを少しくらいは思い知ることができるかもしれません。

しかしそれだけでは生ぬるいのではないでしょうか。その話には深みが全くありません。その方法では人間の罪の問題を指摘することができません。人間はもっと責められる必要があるのではないでしょうか。

先ほど朗読していただいたのは、使徒パウロのローマの信徒への手紙7章19節と20節の言葉です。ここに書かれていることを一言で言えば、人間とはいかに矛盾し、内面的に葛藤する存在であるかということを、ある意味でパウロ自身の告白として、しかしまたすべての人間の普遍的な現実として、嘆き悲しんでいる言葉です。

「わたしは望んでいる善を行わず、望まない悪を行っている」(19節)と書かれています。善いことをしたいという願いはある。悪いことをしたくないという願いもある。しかしその願いに反して自分は悪いことをしてしまう。自分の意志を自分でコントロールできない状態です。

それでパウロはとんでもないことを言います。「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(20節)。

こんな言い訳が通用するでしょうか。「私がしたのではなく、私にとりついたバルタン星人がしたことです。だから私は悪くありません。信じてください」と言っているようなものです。こんな話をだれが信じてくれるでしょうか。

しかし、こうとでも言わないかぎり到底説明できないほどまでに人間とは激しく矛盾に満ちた存在であるということについては、全く理解できない話ではありません。この箇所に描かれているのは、自分の罪の問題を抱えて葛藤し、苦しむ人間の姿です。

さて、そろそろ結論を急ぎます。今日のテーマである「どうすれば人を好きになれるのか」という問いの答えです。二つの可能性を申し上げておきます。ただし、あくまでも「論理的な」可能性です。考え方の筋道としてありうるというだけです。

第一の可能性は、聖書を読むのをやめることです。そうすれば極度の人間嫌いに陥らなくて済むかもしれません。私は牧師ですのでこういうことを言ったということだけで問題になるかもしれませんが、ひとつの可能性として否定することはできません。

聖書を読むのをやめるとは、人間以上の存在としての神を知ることをやめることです。神や宗教のようなことを考える思考回路を完全に取り外してしまうことです。そうすれば、神と比較して人間をおとしめるようなことを考えなくて済むようになるでしょう。

そしてそうなれば、人間を上の方から抑えつけて批判し非難する存在はもはやどこにもいません。人間はすべてのプレッシャーから解放され、世界最強のルールとなります。誰も人間を裁くことはできません。まさに人間最強説です。

しかし、もう一つの可能性があります。それは、もっと深く聖書を読むことです。聖書の真意を理解することです。そうすれば、人を好きになれるかもしれません。

「聖書を読むと人間嫌いになる」というのは、実は聖書の誤解であり、中途半端な聖書の読み方です。

たしかに聖書は人間の罪深さ、愚かさ、惨めさを容赦なく描いています。人間がいかに激しい自己矛盾を抱えて悶々と葛藤し続ける存在であるかを聖書は知っています。読めば読むほど自分が人間であることが嫌になるようなことが聖書に書かれているのは事実です。しかし聖書に書かれているのはそれだけではありません。

小さく愚かで惨めなわたしたち人間を、神はイエス・キリストにおいて無条件に愛してくださり、受け容れてくださっているということを、聖書は確かに記しています。今日の聖書の箇所の続きにパウロが書いているのも、そのようなことです。

聖書をもっと深く読めば分かるのは、そういう神がおられるということです。神が人間を愛してくださっている。そしてわたしたち人間は神に愛されている存在であるということです。

もし神が人間を愛してくださっているなら、そんな人間を私も好きになってみようかと、もしそのように考えることができるようになれば、今よりもっと人を好きになることができるようになるかもしれません。

(2017年10月16日、関西学院大学理工学部チャペルトーク)

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