前稿の続き。
「教会を動かす」の含意は、もちろん「教会をよくする」です。
歴史が証明するとおり、巨悪がはびこるのは社会だけでなく教会も然りです。
ぼくは悪人かもしれませんが(だとしたら、すいません)、ぼくは巨大ではないので「巨悪」ではありえません。ぼくが片付けば済むならいつでも退場しますけど、何の変化もありません。
ぼくのことはともかく、社会だけでなく教会にも巣食う巨悪の根源を正当な手続きで排斥し、かつ教会をよくすることが「動かす」です。
でも、教会は簡単に動かせません。
教会を利用してビジネスをしようと思いついた人は、たいていあきらめて出て行きます。営利目的で教会を乗っ取るのは容易ではないというか、全く不可能だからです。
教会はカネにはなりません。特定政党や特定企業に利用されることも断固拒否します。
それは教会の保守性(「この世で最も保守的な存在としての教会」トレルチ)の良い面だと、ぼくは思います。
しかし、悪い面もあります。
健全な批判精神を持っている人たちが、多くの場合、教会の周辺においやられてしまいます。
何も変えたくない、変わらないでほしいと願っている人たちが、ど真ん中に居座る。
ど真ん中に居座って、それで何かを懸命にしてくれるならいいけど、何もしない。
偏執的にミクロ的な一真理に固執し、不毛な同語反復を続け、さまざまな可能性に目を向けず、自派の存続を揺るがす人たちを組織票で抹殺する、といったやり方を好む。
これも「教会」ですよね。だけど、動かさなくてならないと思う。