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2016年5月5日木曜日

今春受験した日本基督教団教師転入試験の回答内容を公開しました

試験回答を書いたのは岡山の実家でした(2016年2月6日~13日帰省)
「連休なのに何やってるんだ」と言われることを覚悟しながらも、連休にしかできないことだとも思いましたので、今春(2016年度春季)受験した「日本基督教団教師転入試験」の提出(郵送)分の回答内容をブログで公開しました。「課題論文」は非公開とします。

なお、試験回答を最も集中して書いた場所は、2016年2月6日(土)から13日(土)まで帰省した岡山の実家でした。

加えて、「教憲教規および諸規則・宗教法人法」の筆記試験が2016年2月23日(火)、面接試験が2月25日(木)、いずれも日本基督教団信濃町教会(東京都新宿区信濃町)で行われました。

日本基督教団教師転入は、2016年3月22日(火)に完了しました。教務教師登録は4月12日(火)に完了しました。

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日本基督教団教師転入試験提出(郵送)分の回答内容

「旧約聖書説教」
ゼカリヤ書14章1~9節についての説教(提出期限2016年2月15日)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/02/0215PAT.html

「旧約聖書釈義」
ゼカリヤ書14章1~9節についての釈義(提出期限2016年2月15日)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/02/0215EAT.html

「新約聖書説教」
テトスへの手紙2章11~15節についての説教(提出期限2016年2月15日)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/02/0215PNT.html

「新約聖書釈義」
テトスへの手紙2章11~15節についての釈義(提出期限2016年2月15日)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/02/0215ENT.html

「教憲教規および諸規則・宗教法人法」
追試レポート(提出期限2016年3月9日)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2016/03/0309.html

「課題論文」
(非公開、提出期限2016年2月15日)

2016年3月9日水曜日

日本基督教団教師転入試験「教憲教規および諸規則・宗教法人法」追試レポート

(以下は日本基督教団教師転入試験「教憲教規および諸規則・宗教法人法」追試レポートとして私が回答した内容です。提出期限が2016年3月9日でした)

設問1の回答

「教憲教規および諸規則」に定められている会議制について「論じて」くださいという設問で、どれほど深遠な回答をすれば設問者各位の意に沿うのかは図りかねるところがありますが、千字程度とのご指定がありましたので、その範囲内で回答させていただきます。「なぜ教団が会議制をとっているのか」の理由を「明確に」書けばよろしいのでしょうか。

教会は「イエス・キリストの体」です。また三位一体論的にいえば、父なる神が、御子イエス・キリストにおいて、聖霊を通して、人間に信仰という恵みを与えてくださり、その恵みによって選ばれた人々の群れとしての「教会」は、地上において神の御心を実現していくための器として用いられる存在です。

そうであるかぎり、教会は一個人で存在することはありえず、必ず信仰者の群れとして存在します。その場合の教会とは、各個教会でもあり、かつ一全体としての「教団」の意味を含みます。その群れの意志決定は、神の御言葉としての聖書(ノルマ・ノルマンス)の啓示に基づき、かつ聖霊の導きによる教会会議の決議を経て定められた諸信仰告白(ノルマ・ノルマータ)に基づきつつ、多数決ないしそれぞれの群れが定めた意思決定のルールに則って行われます。

その教会会議の意志決定を、教会は「神の御心」と信じます。そのため、厳粛な姿勢で、祈りをもってその意志決定の場に臨み、父なる神が御子イエス・キリストにおいて、聖霊を通して、信じる人の心に表してくださる御心が何であるかを探りつつ、熟慮のうえ決議に参加しなくてはなりません。

各個教会の中で、役員会等の会議を経ないで個人で決めたことを「神の御心」と考えることは、我々キリスト者には不可能です。なぜなら、聖霊なる神は特定の個人だけにお働きになる方ではなく、イエス・キリストにおいて父なる神を信じるすべての人に働いてくださるからです。

教会において、ある特定の人の意見だけを重んじ、他の人の意見を重んじないことは、聖霊の導きに反します。ある人の意見と他の人の意見とが異なり、ぶつかり合っているときは、神の御言葉である聖書を開き、学びつつ、信仰による一致を祈り求めていかなくてはなりません。

また、教区や教団の中で、単独の教会だけが主張していることが、他の多くの教会が主張していることとどれほど食い違っていようと、その単独の教会の規模が大きいとか歴史や伝統が古いからとかいう理由だけで、それをもって「神の御心」と考えることも、我々キリスト者には不可能です。

教団や教区の中には、大きな群れもあれば小さな群れもあります。それぞれの群れはそれぞれ異なる状況の中で福音宣教の使命に懸命に携わっているのですから、小さな群れだからといってその意見が軽視されるようなことがあってはなりません。だからこそ、教団や教区にそれぞれの最高議決機関としての「総会」を設けて、互いに祈り合いつつ、教団や教区の「総会」において示される神の御心を問うことが重要です。

設問2の回答

設問2に関しても設問の意図を図りかねるところがありますが、要するに「明確に」書くことが求められているのでしょうか。千字程度で、とのご指示の範囲内で書かせていただきます。

どのあたりを議論の出発点にすべきかにもよりますが、そもそも規則を変更することは、教会を含むあらゆる団体にとって重大な事態であることを意味するのは確実ですので、そうしなければならない明確な理由や原因がないかぎり、規則の変更自体を行うべきではありません。

しかしまた、規則そのものは聖書(ノルマ・ノルマンス)でも信仰告白(ノルマ・ノルマータ)でもないため、軽々な変更は慎まなくてはならないとしても、変更不可能であるとはいえません。状況に応じて変更することが可能であり、また必要でもあります。

とはいえ、前記のとおり、規則変更は教会を含むすべての団体にとっての重大な事態を意味しますので、各個教会の規則変更の場合は、最高議決機関である教会総会を開いて、祈りと熟慮をもって協議を重ねたうえで、その規則変更によって教会員の中に躓く人が起こらないよう、細心の注意を払いつつ、信仰による一致をもった変更を行わなくてはなりません。

そのためには、たとえ教会総会が各個教会の最高議決機関であるとはいえ、教会全体に対する事前の告知や全体協議なしに、牧師や一部の役員だけで相談して、いきなり教会総会の場に提案を行い、多数派工作や強行採決などで強引に規則変更を行うようなことは断じて許されません。

宗教法人規則は「少なくとも二ヶ月前」の教会会議の公告を定めていますが、その公示の日に、あるいは教会会議の場で変更案を初めて見たという教会員がいるようでは遅きに失した感があるのを否定できません。もっと前から、せめて一年以上前から教会全体に対して規則変更の内容と理由と意義について丁寧に説明し、周知徹底するよう牧師と役員は配慮しなくてはなりません。

とりわけ各個教会の宗教法人規則の重要な目的は、教会の境内地や建物等の不動産等、教会が所有する物理的財産の管理運営に関することを、国の法律との関係の中で扱うことにあります。それは教会の霊的財産である聖書や信仰告白や説教や牧会などの面と比較しても決して軽んじることはできない重要な事柄であることは確実です。

教会の物理的財産の管理という面において教会がルーズであれば、教会員や関係者、さらには周辺地域の人々まで教会に対して失望し、躓くことになり、その地域での伝道の継続がきわめて困難になるでしょう。きわめて悪質ではありますが、教会の財産の名義を牧師の個人名義に勝手に変更し、牧師個人の借金の抵当にしていたというような事例まであります。そのようなことが断じて起こらないように、宗教法人規則についても厳重に取り扱うことが重要です。

従って、各個教会の宗教法人規則の変更手続きは、以下のような手続きを要します。

(1)規則変更を提案する者は、教会全体に対してできるだけ早期に規則変更の趣旨説明を行い、複数回の勉強会等を開催して、その趣旨の周知徹底を図る。

(2)少なくとも二ヶ月前に、教会総会の公示を行う。その時点においては変更案の詳細が明示されていることが望ましい。具体的には、現行規則と変更案を併記し、容易に比較検討することができる形の提案がなされるべきである。

(3)教会総会において多数の議決を得た変更後の規則は、宗教法人規則の場合は所轄庁による認証が必要ですので、その手続きをすみやかに行います。

2016年2月15日月曜日

テトスへの手紙2章11~15節についての説教(日本基督教団教師転入試験回答)

(以下は日本基督教団教師転入試験「新約聖書説教」に私が回答した内容です。提出期限が2016年2月15日でした)

「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。」

今お読みしましたのは、使徒パウロが伝道者仲間であるテトスに宛てて書いたとされる手紙の一節です。

テトスはクレタ島にいました。世界で最も美しい海として知られるエーゲ海にある最も美しい島です。そこでテトスは大切な仕事をしていました。まだそこにキリスト教の教会が存在していない地域という意味での「伝道未開拓」の地域に新しく教会を生み出す仕事です。開拓伝道と呼ばれます。

そのことが分かるように書いているのが次の言葉です。「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです」(5節)。

どこかの町に教会が新しく生まれるとは、どういうことでしょうか。「教会が新しく生まれる」という言葉を聞いて多くの人々が思い浮かべることといえば、やはりなんといっても新しい教会の建物が立つことでしょう。新しい教会の建物ができるということも、大切なことです。しかし、実はもっと大切なことがあります。

そこに教師ではないという意味での信徒の中から教会役員となる人々が選ばれることが重要です。今お読みしました個所で「長老」と呼ばれている教会役員(教会の伝統の違いによって教会役員の呼称が異なる場合があります)が選ばれる必要があります。教師と役員が一人ずつというのでは、けんかになったときに収拾がつきませんので、なるべくなら役員は2名以上いることが望ましいです。

もちろん教会役員が選ばれ、役員会が組織されさえすれば、はい、それで終わり、教会ひとつ出来上がり、というわけではありません。さらに教会全体が組織化され、現実的・実際的に運営されていく必要があります。

なぜなら、「教会」とは建物ではなく、人(ひと)だからです。救い主イエス・キリストを信じる信仰によって心から喜びつつ、礼拝と奉仕をささげている人々が、集まっている。それが教会です。

当時のクレタ島は、ほとんどの島民にとってはキリスト教との接点がなかった頃です。それでも、その中の一握りの人々が、新しく宣べ伝えられた信仰を受け入れ、パウロたちが主宰する諸集会に定期的に出席してくれるようになったのでしょう。

しかも、いくつかの町ごとに分かれた複数の集会が生まれていました。そこで、パウロが去ったあと、テトスに残された仕事は、複数の集会の中から役員となるべき人を選ぶこと、そしてその人々を推進力とする教会組織を作り上げて行くことでした。

そのような状況の中でパウロはテトスにこの手紙を書き送りました。そして、この手紙の中で特に強調していることは、新しい信仰としてのキリスト教信仰を受け入れた人々はやはり、それまでとは異なる「生き方」をしなければならないということです。

「教会」というところに通いはじめた。最初は、おそるおそる近づいてきた。何となく敷居が高いと感じていた。しかし、そこで教えられている信仰に、次第に目が開かされてきた。そして、やがて信仰を受け入れ、キリスト教の洗礼を受け、ついに「キリスト者」と公に名乗って生きるようになった。

そのような変化が、人生の中にもたらされた。そのときに起こらなければならないことは何か。考え方、物の見方、価値観などが変わるにすぎないのか。それとも、生き方そのもの、生活態度にも変化が起こるのか。そこで起こるのは、頭の中だけの変化にすぎないのか。体全体の変化も伴うのか。

パウロが書いている勧めの内容は、それほど特殊なことではないと思います。見方にもよりますが、ごく普通のテーブルマナーや、一般常識程度のことです。あまりお酒を飲みすぎてはなりませんとか、思慮深く振る舞いなさいとか、良い行いの模範になりなさい、など。

「そんなの、どうでもよいことではないか。たとえそれが教会であっても、たとえそれが聖書に基づいている言葉であるといっても、私個人の生き方や立ち居振る舞いまで干渉され、こうしろ、ああしろと、とやかく言われるのは、勘弁してもらいたい」と即刻反発されるかもしれません。

あるいは、「私は大酒を飲むのをやめられないし、思慮深い人間にもなれません。まして、誰かの模範になることなど絶対にできません。そのようなことを求められるようであれば、私は教会に近づくことすらできません」と言われてしまう理由になるかもしれません。

そのようないろいろな反応を、わたしたちは、いろんな機会に何度も聞いてきましたので、よく知っています。しかし、だからといって、わたしたちは、その先の言葉を語ることができないわけではありません。

パウロも書いています。「十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません」(15節)。

キリスト教の信仰をもって生きるようになった人々には、体全体の変化、存在そのものの変化がそこに必ず伴うのだ、ということを語ることにおいて、わたしたちは、だれにも侮られてはならないのです。

その意味での「わたしたちの人生における変化」を、パウロは「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」という言葉で表現しています。そこで起こるのは、神の恵みによって救われた人々の人生がそのことにふさわしいものへと作りかえられるという出来事です。

また、今申し上げたこととの関連でぜひ注目していただきたいのは、今お読みしました個所にひとこと出てくる「この世で」という言葉です。

教会が宣べ伝えている内容が宗教であることは間違いありませんが、宗教といえばこの世のことではなく、この世とは次元の異なる天国のことを教えるものではないかと、どうしても考えられがちです。しかし、今開いていただいている個所に記されている「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」は、本質的にこの世のものです。生きている間に味わうことができるものです。地上の人生を終えて天国に行かなければ決して味わうことができないというようなものではないのです。

実際問題として、神の恵みによって生活の変化が起こりますよという話は、生きている間に聴かなければ意味がありません。「現世的な欲望を捨てる」のは「この世」ですることです。死ねば自動的に欲望がなくなるかもしれません。しかし、わたしたちは、その日そのときまでは欲望に任せて傍若無人に生きてもよいわけではないのです。

そして、もう一つ言えることは、生活の変化ということでわたしたちが思い描いてよいことは、この手紙の文脈を考えてみると明らかに、教会の組織とか制度というような次元の事柄と、決して無関係ではありえないということです。

パウロが書いているのは、教会の「長老」や「執事」や「監督」(この文脈では「牧師」の意味です)としてふさわしいのはどういう人々であるかとか、教会の交わりを大切にしていくためには、どのような生き方をすべきか、ということです。

ここで問われていることは、地上の教会に集まる人々の姿です。毎週の礼拝や諸集会に定期的に出席するようになるとか、役員として奉仕することなどです。このような、教会の具体的・実際的な活動に参加していく中で、わたしたちの生活が次第に作りかえられて行くのです。

もっとはっきり言えば、教会の行事に、わたしたちの生活を重ね合わせていこうとするときに、それが起こるのです。わたしたち自身が教会になるのです。それは、わたしたち自身がイエス・キリストの体になることを意味しています。

日曜日は朝早く出かけ、教会の礼拝に出席する。それでは、土曜日のお酒は少し控え目にしましょうとか、できるだけ早く眠りましょうといった感じのことです。言ってみれば、その程度のことにすぎません。しかし、そのようなことが、場合によっては人生の大問題になりうるのです。

「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは」という意味は、キリストが十字架の上で御自身の命をささげてくださったことだけではありません。それに加えて、フィリピの信徒への手紙2・6〜7に書かれているとおり、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました」ということまでのすべてを含んでいます。神の御子が人間となられたこと自体が、わたしたちのために御自身をささげてくださることなのです。

それは、「わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだった」とパウロは言います。「良い行いに熱心な民」、これが教会です。神の御子が地上の人間としてお生まれになったのは、キリストの体なる教会をこの地上にお立てになるためです。

イエス・キリストを通して神の恵みが現れたことの目的は、地上に教会を生み出すためです。それは、教会に連なる人々が「良い行いに熱心な民」となり、教会の中で良い行いを行い、良い人生を生きることができるようになるためです。

教会には、高級ホテルのようなディナーも、豪華な飾りも、美味しいお酒もありません。しかし、ここには、わたしたちの心を真に満たしてくれるものがあります。「神の恵み」があります。そのことを、すべての人々に分かっていただきたいのです。

ゼカリヤ書14章1~9節についての説教(日本基督教団教師転入試験回答)

(以下は日本基督教団教師転入試験「旧約聖書説教」に私が回答した内容です。提出期限が2016年2月15日でした)

「見よ、主の日が来る。かすめ取られたあなたのものが、あなたの中で分けられる日が。わたしは諸国の民をことごとく集め、エルサレムに戦いを挑ませる。都は陥落し、家は略奪され、女たちは犯され、都の半ばは捕囚となって行く。しかし、民の残りの者が都から全く断たれることはない。戦いの日が来て、戦わねばならぬとき、主は進み出て、これらの国々と戦われる。その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。あなたたちはわが山の谷を通って逃げよ。山あいの谷はアツァルにまで達している。ユダの王ウジヤの時代に地震を避けて逃れたように逃げるがよい。わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に、あなたのもとに来られる。その日には光がなく、冷えて、凍てつくばかりである。しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出て、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。」

いまお読みしましたのは、みなさんのうちの多くの方々にとって、おそらくは必ずしも馴染み深いとは言いがたいと思われる旧約聖書のゼカリヤ書の一節です。内容的に決して平易であるとは言えませんので、どのようにお話しすればよいか迷うばかりです。しかし、じっくり読んでいくと味わい深い内容が記されていることが分かりますので、お付き合いいただきたくお願いいたします。

この個所に記されていることをひとことでまとめて言えば、「世界の終わり」を意味する終末の時にエルサレムがどうなるかということです。つまり、これは過去の歴史の出来事を描写しているものではなく、将来起こるであろうことについての預言です。そのことについて預言者ゼカリヤが、まさに預言しています。

しかも、この預言は、実在する地名で知られる、現在のイスラエル国の首都エルサレムがどうなるのかという関心事に終始するものではなく、もっと広い視野を持っています。まさに「世界の終わり」について語られている個所であり、その関心事は世界がどうなるのかということにあります。その意味では、語弊を恐れずいえば、この個所に言及されるエルサレムという地名は一種の比喩であると考えるほうがこの個所の理解としては正しいと思われます。

つまり、重要な問題は「世界はどうなるのか」です。その結論については、わたしたちキリスト教会は、ある意味でよく知っています。神が創造されたこの世界は、いつの日か必ず終わりの日を迎えるというのが聖書の教えであり、かつキリスト教信仰における重要なポイントでもあります。恐怖心を煽る意図から申し上げるのではありませんが、わたしたちの人生がいつか必ず終わりを迎えるのと同じように、わたしたちが今生きているこの世界もまた、いつか必ず終わるのです。それは命あるものの定めです。

しかしそれは、神を信じる者たちにとっては恐ろしいことではありません。先ほどから私は世界が終わる終わると申しておりますが、それは、たとえていえば、長く苦しい旅を続けてきた人が目標としてきたゴールにたどり着くことを意味します。あるいは、一つの大きな作品をゼロから苦労して作り上げていくアーチストのような人々にとって、その作品がやっと完成したと、喜び、感謝する日を迎えることを意味します。

わたしたちの人生も、わたしたちが生きているこの世界も、神がお造りになった創造物です。わたしたちは自分で自分の命を造ることはできませんし、この世界を私がひとりで造りましたと言える人はいません。言うのは自由かもしれませんが、それは事実ではありません。

もしかしたら、ふだんのわたしたちはそういうことを考えもしないようなことかもしれませんが、今日はぜひお付き合いいただきたいのは、わたしたち自身の人生とこの世界を、これを造ってくださり、わたしたちに与えてくださった神御自身の視点に立って見つめてみることです。そういうことが実際にできるかどうかはともかく、みなさんの意識を少し変えていただき、自分の側の視点、あるいは、もっと厳しい言い方をお許しいただけば、わたしたちの自己中心的な視点から自由になって、神の視点に立って考えればどのようなことになるのかを思い巡らしながら、先ほどお読みしましたゼカリヤ書の個所を見つめていただきたいのです。

逆の言い方をすれば、今申し上げたようなことを強く意識してでもなければ、この個所に書かれていることの意味を理解することはほとんど不可能だと言えるとも私には感じられます。ここに書かれていることは、何を言っているのかが分からないということもさることながら、これをそのまま信じろと言われても、とてもではないが受け容れがたいと、多くの人が感じるかもしれないことなのです。しかしそれは、あらかじめやや結論めいたことを申しておきますが、わたしたちが自己中心的な視点から自由になれていない証拠かもしれません。以上、前置きが長くなりましたが、このあたりから内容に入っていきたいと思います。

預言者ゼカリヤがこの個所に書いていることの要点は、世界を創造された主なる神が、世界の終わりの日に、全世界の支配者になられるということに尽きます。

「見よ、主の日が来る」の「見よ」は、これからまもなく起こる出来事を予測しつつ、一緒に期待して待とうではないかという呼びかけを意味しています。「主の日」とは、これがまさに世界の終わりの日です。

教会では毎週日曜日を「主の日」と呼ぶならわしがありますが、ゼカリヤが描いている「主の日」は、七日ごとに定期的に訪れる日曜日のことではありません。むしろ、それはたった一度だけ世界に訪れる日です。それは繰り返されません。そしてまた、それはまだ来ていません。まだ誰も体験したことがない将来の出来事です。主なる神御自身が全世界の支配者になられる日です。それはすでにそのとおりのことが実現しているのではないかとお考えになる方もおられるかもしれませんが、今申し上げている意味で主なる神が全世界の支配者になられるとは、全世界の人々がそのことを認め、信じ、告白することを含んでいなくてはなりません。なぜなら、聖書に登場するわたしたちの神は、一方的な支配者ではないからです。悪い意味での専制君主ではありません。わたしたち人間の信仰と信頼をお求めになる方です。

しかし、主なる神御自身が良い意味での全世界の支配者になられるために、驚くべきことが行われることをゼカリヤは預言します。「わたしは諸国の民をことごとく集め、エルサレムに戦いを挑ませる」というのです。この「わたし」は主なる神御自身です。そして、先ほど私は、語弊を恐れず言えばとお断りしながらやや語弊を恐れていますが、この個所に登場する「エルサレム」という地名はある意味で比喩であると申し上げたわけですが、何の比喩であるかといえば、神を信じる人々をたとえていると、考えることができます。その人々に対して、「わたし」と称される神御自身が、諸国の民をことごとく集めて戦いを挑ませるというのです。

何のことかお分かりでしょうか。ここで言われていることの趣旨は、神が、神を信じる人々の側ではなく、その正反対の人々の側に立って、その人々を集めて、神を信じる人々と戦わせるということです。そんなことがあってよいのでしょうか。神は、神を信じる人々の常に味方になってくださるのではないのでしょうか。そうではないということがここで語られているのです。

なぜ神がそのようなことをなさるのか、その理由や動機については、何も記されていませんが、なんとなく想像はつきます。「しかし、民の残りの者が、都から全く断たれることはない」と記されています。その戦いの中で、厳しい言い方かもしれませんが、民の中に残ることができる人と残ることができない人が出てくるということです。つまり、ふるいにかけられるのです。それを「試練」と表現することができるかもしれません。

その意味では、神は厳しい方であるというべきです。神を信じる者たちをこそ、厳しい試練にあわせる方です。あなたの信仰は本物ですか偽物ですかと試される方です。

しかし、神は冷たい方ではありません。神を信じる者をお見捨てになりません。戦いに敗れたかのように、神の民のシンボルであるエルサレムが陥落した後に、主なる神御自身がいわば姿を現してくださり、「進み出てくださり」、民の先頭に立って戦ってくださる方です。そのことをゼカリヤは預言しています。

他人事のような言い方をすべきではないかもしれませんが、わたしたちは、戦いに負けなければ自分自身の限界や弱さを自覚することができないところがあります。自分自身の限界や弱さを自覚できないということは、自分のほんとうの姿を知らないということです。そして、それと同時に言えることは、わたしたち人間は、神の助けなしには生きることも立つこともできない存在であることを知らないということです。そのことをわたしたちに自覚させることが、神がわたしたちに厳しい試練を与えることの理由ではないでしょうか。その意味では、わたしたちは負けてもいいのです。いえ、負けるべきなのです。逃げてもよいのです。いえ、逃げるべきなのです。

そのことをゼカリヤは熟知しています。「その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。あなたたちはわが山の谷を通って逃げよ。山あいの他にはアツァルにまで達している。ユダヤの王ウジヤの時代に地震を避けて逃れたように逃げるがよい。わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に、あなたのもとに来られる」と書いてあるとおりです。神がオリーブ山を真っ二つに引き裂いて、神を信じる者たちの逃げ道を造ってくださる。そのようなとんでもないことをなさる神の姿が描かれています。

このような描写を荒唐無稽だと言ってしまえばそれまでです。しかし、わたしたちは、ここに書かれていることの意味は何なのかをよく考えなくてはなりません。

今日開いていただいている個所でもう一つ重要な点としては、終わりの日に主なる神が世界に対してなさることとして、地上の大自然を大きく変化させてくださるということがあります。「その日には、光がなく、冷えて、凍てつくばかりである」と記されています。ただし、この「光」は、ゼファニア書3章5節、ヨブ記24章13節などで用いられているのと同じ言葉が用いられています。それらの個所を見ると自然的・物理的な「光」という意味というよりも心理的・内面的な事柄を描写する比喩的表現としての「光」であることが分かります。ゼカリヤが述べている「光」も、それと同じかもしれません。

またゼカリヤによると、終わりの日には泉としてのエルサレムから命の水が湧き出ます。その水が二つの川に分かれ、東と西に流れます。これも比喩であると考えるべきではありますが、しかしまた、単なる空想や想像の産物だと言うだけで片付けることができない、むしろ、きわめて具体的で現実的な情景を思い描くことができる描写でもあります。

世界地図というのは、それを作る国によって中心地が異なる場合が多々あります。日本で作られる世界地図の真ん中には日本列島が描かれます。他の国の場合もそれと同じです。エルサレムで作られた世界地図を私は見たことがありませんが、真ん中に描かれるのは、おそらくエルサレムではないでしょうか。

こういうことを言いますと各国のエゴイズムだというような批判が飛び交うことになるのかもしれません。しかし、ゼカリヤが描いているのは、まさにそのような世界地図です。エルサレムが中心です。しかし今申し上げたことは正確ではありません。ゼカリヤの描く世界地図の中心は神御自身です。神が全世界の支配者になられる日が来る。それは、神が全世界の頭を押さえつけて恐怖政治を行う日ではありません。神の救いの恵みが全世界に満ちあふれる日です。

2015年3月9日月曜日

ファン・ルーラー研究の過去・現在・未来(2015年)

講演「ファン・ルーラー研究の過去・現在・未来」

PDF版はここをクリックしてください

(2015年3月9日、アジア・カルヴァン学会、日本カルヴァン研究会合同講演会、青山学院大学)

関口 康



このたびは、ファン・ルーラーについての講演の機会を与えていただき、感謝いたします。

私はこれまでに、日本カルヴァン研究会[1]では「新約聖書は旧約聖書の巻末語句索引か――ファン・ルーラーがカルヴァンから学んだこと」[2]という研究発表をしました。アジア・カルヴァン学会[3]では、「ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義」[4]という研究発表をしました。

日本基督教学会関東支部会[5]で「A. A. ファン・ルーラーの『差異論』の動機:キリスト論と聖霊論の関係」という研究発表をしました。2013年と2014年、鈴木昇司先生が、担当しておられる立教大学の全学共通カリキュラムの宗教改革史講義[6]に、ゲストスピーカーとして私を招いてくださいました 。講義のテーマは「現代プロテスタント神学の一断面」でした。神学全体(聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学)における組織神学の位置を説明する中でカール・バルトとファン・ルーラーの関係を扱いました。2013年度の聴講生は約170名でした。

しかし、講演の経験はほとんどないです。日本基督教団改革長老教会協議会教会研究会[7]で「ファン・ルーラーにおける人間的なるものの評価」[8]という講演をしました。先月、思想とキリスト教研究会の講演会[9]で「ファン・ルーラー研究の意義」という講演をしました。

雑誌やブログに書いてきたことを含めて、講義であれ、研究発表であれ、講演であれ、その内容は私の中ではすべてつながっていることですので、そのうち本にしなければという思いがないわけではありません。しかし、それは容易なことではありません。

1999年2月20日に友人数名と共に結成したインターネットグループ「ファン・ルーラー研究会」は2014年10月27日に解散しました。解散時の会員数は108名でした。15年半で得た成果は、日本語で読めるファン・ルーラーの研究文献が増え、彼の知名度が日本で高まったことです[10]。研究会の解散は研究の終わりを意味しません。我々はこれまでの成果を発展させる形でこれからも研究を継続します。

本講演の目標は、日本でファン・ルーラー研究を志す人(もしそういう人がいれば)にとって有益な情報を提供することに絞ります。とくに主眼をおきたいのは「日本において」という点です。

Ⅰ 世界のファン・ルーラー研究の「過去」

本講演のテーマ「ファン・ルーラー研究の過去・現在・未来」は野村信先生のご指示に従ったものです。しかし、「日本において」を主眼点に置くにしても、ファン・ルーラー研究の出発点は日本国内ではありませんので、まずは世界の流れから見ていきます。

世界のファン・ルーラー研究の流れを知るための必携書は、ユトレヒト大学図書館発行『ファン・ルーラー教授文庫総目録』(1997年)[11]です。ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が遺した全著作(論文、説教、エッセイなど)および過去のファン・ルーラー研究のタイトル、初出年月日、掲載個所、原稿形式(手稿、タイプ稿など)を記した全297頁の目録です。

『総目録』の巻頭付録に「ファン・ルーラー教授略伝」があります。それによると、アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラーは、1908年12月10日、オランダのアペルドールンに生まれました。パン配達業の父の長男として生まれ、家族と共に幼少期から地元のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)に通い、地元のギムナジウムを卒業後、フローニンゲン大学神学部で学びました。

大学卒業後、オランダ改革派教会の二つの教会(クバート、ヒルファーサム)の牧会経験を経て、ユトレヒト大学神学部の「オランダ改革派教会担当教授」に任命されたのは1947年です。神学博士号請求論文『律法の成就』のサブタイトルが「啓示と存在の関係についての教義学的研究」[12]であるように彼の主専攻は教義学ですが、ユトレヒト大学神学部で教えたのは、教義学だけでなく、キリスト教倫理、オランダ教会史、信条学、礼拝学、教会規程など幅広いものでした。

政治に対する著作や発言も多く、キリスト教政党「プロテスタント同盟」(Protestantse Unie)の結党趣意書を起草する役割を担いました。1970年12月15日に62歳で現職のまま心臓発作で突然死去するまでの23年間、教会、大学、ラジオ、書斎、家庭内から、オランダ国内外の教会と社会に大きな影響を及ぼしました。

著作を通しての影響力は、今日に至るまで持続しています。2007年からオランダで新しい『ファン・ルーラー著作集』(dr. A. A. van Ruler Verzameld Werk)の刊行が始まりました。彼の存在と神学が決して忘れ去られていないことを物語る巨大な規模の著作集です。現在第4巻まで配本されています。全巻揃えば、おそらくカール・バルトの『教会教義学』と同規模かそれ以上の頁数になりそうです。

ファン・ルーラーについての博士論文は、1960年代から書かれ始めました。『総目録』(1997年)に記載されているのは9作ですが[13]、1997年以降も書かれています[14]。博士論文の著者の国籍はオランダ、ドイツ、アメリカ、南アフリカ、ナミビアと広範囲です。その中には自国で神学教授として活躍した人が多くいます。組織神学の観点からだけでなく、宣教学や牧会学や礼拝学の観点からの取り組みが多くあります。あるいは他の著名な神学者(F. D. E. シュライアマッハー、アブラハム・カイパー、パウル・ティリッヒ、ユルゲン・モルトマンなど)との比較においてファン・ルーラーの神学の特質を明らかにしているものがいくつかあります。カトリック神学者による博士論文もあります。

博士論文以外にも多くの研究書がファン・ルーラーの神学のために献げられました。またユルゲン・モルトマンやルードルフ・ボーレン、最近はアブラハム・ファン・ド・ベークやヘリット・イミンクら世界的に著名な神学者が、自身の著作の中でファン・ルーラーの存在と神学を高く評価しています。2008年12月10日、ファン・ルーラー生誕100年を記念してアムステルダム自由大学で「国際ファン・ルーラー学会」が開催され、約200名の研究者が集結しました[15]。日本人3名が出席しました。

Ⅱ 日本のファン・ルーラー研究の「過去」

しかし、日本の状況は全く異なります。日本の「過去」にファン・ルーラー研究と呼べるものは、ほとんどありません。かろうじてあったのは、ファン・ルーラー言及です。多いとは言えませんが、時々言及されました。しかし、残念なことに、そのいくつかはファン・ルーラーのテキストを読んでいないことがはっきり分かるファン・ルーラー批判です。以下、二つの例を挙げておきます。

第一の例は、岡田稔著『改革派教理学教本』(新教出版社、1969年)です。これは日本の教義学書としては初めてファン・ルーラーの存在と神学に言及された記念すべき一書です。岡田先生はキリストの昇天についてのファン・ルーラーの教説へのG. C. ベルカウワーの批判を、ベルカウワーの教義学研究シリーズ『キリストのみわざ』(1953年)[16]英語版(1965年)に基づいて紹介しています。しかし、ファン・ルーラーのテキストへの言及は、見当たりません。

「ベルカワーは、バン・ルーラーがキリストの昇天を改革派神学者はキリストの地上教会からの分離として考えると説くことに対して、必ずしもそれのみを高調してはいない。たとえば、カルヴィンはキリストが去られたことは留まっておられる以上にわれらのためにより大きな祝福だと言っている(…)。彼らは世を去った後決して教会を淋しさの中に捨て置かず、慰め主を送ることを約束された。使徒行伝1章9節の注釈では、ローマ教会の説を反駁して、昇天による分離を主張しつつも、身体で一緒にいなくなっても、交わりは続けると言っておられると説明している。ハイデルベルク信仰問答も同じことを語っている(46、47)。だから改革派神学がアクセントを分離の方へ置くとは言えぬという。…しかしバン・ルーラーの見解はやはりバルト、クルマン、ドッドらの考えに近いところがある。キリストの再臨と共に開始される本当の終末界と、キリストの昇天によって始まるペンテコステ的聖霊活動によるキリストの王国とを二つの円としてとらえると、昇天の真の意味は弱められる。聖霊の救済活動は上げられたキリストが父と共に地上に送られたものと見るコンスタンティノープル信条の追加句(フィリオクエ)の線で理解されねばならぬ」[17]。

この点についてベルカウワーがファン・ルーラーを批判したことは事実です。しかし、言うまでもないことですが、ベルカウワーはファン・ルーラーの論文を読んでいます。ファン・ルーラーが自説の論拠として挙げた聖書やカルヴァンやハイデルベルク信仰問答や他の神学者の発言をすべて調べ、ファン・ルーラーの主張を打ち崩そうとしています。その手続きを経た上でベルカウワーが指摘しているのは、ファン・ルーラーには「フィリオクェ」に対する躊躇(aarzeling)があるという点です[18]。

このベルカウワーの姿勢は尊敬できます。しかも、ここで重要であると思われるのはベルカウワーとファン・ルーラーは所属教派が異なる関係であり、はっきりいえばライバル関係であったことです。年齢も近く、ベルカウワー(1903年6月8日生まれ)とファン・ルーラー(1908年12月10日生まれ)は5歳差です。ベルカウワーはGereformeerde Kerken in Nederlands(訳せば「オランダ改革派教会」)の教師であり、アムステルダム自由大学神学部の組織神学教授でした。

そのベルカウワーが「キリストの昇天」についてのファン・ルーラーの主張を強く批判し、さらに「フォリオクェ」への躊躇を指摘するために、自身の主著である教義学研究シリーズの一冊のなんと11頁分を献げています。ベルカウワーの当該書『キリストのみわざ』出版年が1953年であることから推察できるのは、当時50歳のベルカウワーが、45歳のユトレヒト大学神学部教授ファン・ルーラーの影響力に強い警戒心を持っていたのではないかということです。

しかし、仮に百歩譲ってファン・ルーラーが「フィリオクェ」に「躊躇」を持っていたことは否定できないとしても、だからといってベルカウワーの側の意見だけを紹介して済ませるのは、フェアではありません。しかも、岡田先生がしているのは、ベルカウワーの著作の英語版からの孫引きです。ベルカウワーが「躊躇」(aarzeling)という表現でファン・ルーラーに敬意を表している(と私には読める)ニュアンスが汲み取られていません。

しかし、岡田先生の読者にとってファン・ルーラーは、ニカイア・コンスタンティノーポリス信条とカルヴァンとハイデルベルク信仰問答から逸脱し、バルト、クルマン、ドッドの考えに近い人です。

第二の例は、佐藤敏夫著『救済の神学』(新教出版社、1987年)です。これは日本の教義学書としては初めてファン・ルーラーについての独立したパラグラフが設けられた記念すべき一書です。しかし、そのパラグラフのタイトルは「ヴァン・ルーラーの行き過ぎ」[19]でした。

「こういう問題との関係において、一つの問題提起をしているとみられるのは、ヴァン・ルーラーである。彼にとって終末は創造の完成ではなく、原初的完全の回復にすぎない。この原初的完全は罪によって失われている。キリストはこの原初的完全を回復するために来たのである。…しかし、ヴァン・ルーラーにとって、キリストにおける神という特殊な形態は、あくまで罪という事態に対する緊急措置(Notmaßnahme)である。キリスト教もまた同様に緊急措置である。文化にキリスト教の刻印が押されていることが問題ではなく、原初的完全の回復としての栄光の王国が問題である。したがって、終末と共にキリストの役割は終わるのである。…さしあたりそれは個人主義的な偏向とは反対のもう一つの極端であることを、指摘しなければならない。ここでは、キリストの十字架は神の国の陰にかくれてしまっていると言ってよい。そして神の国、永遠の王国、フマニテートという概念が前面に出る。たしかに福音の主題は神の国とされているが、キリストの到来は罪のための緊急措置にすぎなくなっている」[20]。

佐藤先生はかろうじてファン・ルーラーのドイツ語版の論文から引用した一文を添え、当該論文のタイトルを第2章注8に記しています。この点はファン・ルーラーのテキストに全く触れないで批判する岡田先生よりは、まだましです。しかし、その文章の引用個所の頁番号の明示はなく、代わりに「ヴァン・ルーラーの著作の多くはオランダ語で、ドイツ語版は多くはない。なお、これについてのモルトマン、H. ベルコフらのコメントがある」[21]と書いておられます。しかし、佐藤先生は「これについてのコメント」をモルトマンやヘンドリクス・ベルコフがどこに書いているのかを明示していませんので、検証のしようがありません。容易に推測できるのは、佐藤先生のファン・ルーラー批判はモルトマンやベルコフからの(引用元不明の)孫引きだろうということです。

しかも、佐藤先生が書いておられることは正確ではありません。ファン・ルーラーが主張したのは「終末と共にキリストの役割は終わる」ではなく「終末においてキリストの受肉は解消されるだろう」ということです。それは異なる命題です。こういうこともファン・ルーラーのテキストに取り組めば分かることです。あるいは逆に、もし二つの命題を同一視しなければならないとしたら、キリストの役割は受肉だけなのかという問いが残ります。しかし、佐藤先生の読者にとってファン・ルーラーは「行き過ぎた神学者」のラベルが貼りついたままです。

いま申し上げていることを、私はずっと前から考えてきました。どうして日本の神学者はファン・ルーラーを、読みもしないで批判するのかが疑問でした。そしてその疑問を抱いていた頃に(それは1993年です)、近藤勝彦先生の『歴史の神学の行方』(教文館、1993年)を読みました。

「彼(ファン・ルーラー)の神学思想についての研究書や学位論文がオランダではすでに幾つかあるようであるが、それらも多くは手にいれるに困難な状況である。そこで、ここでは敢えて限られた文献によって論ずることにならざるを得ない。本格的なファン・リューラーの研究、あるいはさらに本格的なオランダ神学の研究が、将来に起きることを期待したい。本論文は、そのための一つの刺激となり得れば、大変幸いなことであると思っている」[22]。

私は当時、この近藤先生の提案に心から賛同しました。新しい神学的ミッションの遂行が必要だと思いました。そして近藤先生が「将来に起きることを期待」している「本格的なファン・リューラー研究、あるいはさらに本格的なオランダ神学の研究」に、もし可能なら、私が取り組まなければならないと考えました。それが1993年です。また、別ルートで、やはり同じ1993年に高崎毅志先生から「ファン・ルーラーの神学を勉強しろ。神戸の牧田吉和先生から教えてもらえ」と励まされました。しかし、近藤先生が「困難」を訴えておられるほどのことをすぐに実現できるとは思いませんでした。

1997年4月から1998年6月までの1年3ヶ月間、私は神戸改革派神学校に入学し、牧田吉和先生と市川康則先生から「改革派教義学」のすべて(序論、神論、キリスト論、救済論、教会論、終末論)を学びながら[23]、牧田先生のご指導のもとファン・ルーラーについての卒業論文を書きました。そして上記の新しい神学的ミッションに取り組むことを決心した1993年の6年後、1999年2月に「ファン・ルーラー研究会」が生まれました。オランダ語のテキストを読むことにこだわり抜いた研究会でした。

語弊を恐れず言えば、日本における「本格的な」ファン・ルーラー研究は、1999年の研究会結成と共に始まりました。上に縷々述べたことも、岡田先生や佐藤先生への個人的な苦言ではありません。私の意図は、神学研究におけるフェアネスはどうすれば確保しうるのか、テキストを読まないで批判する人々のアンフェアな姿勢をどうすれば正すことができるのかについてのささやかな問題提起です。

Ⅲ ファン・ルーラー研究の「現在」と「未来」

「現在」と「未来」の話をする時間がほとんど無くなりましたので、一括してお話しいたします。しかし、正直に言えば、話すことがないのです。とくに「日本において」は、ファン・ルーラー研究の「現在」も「未来」も、だれからもどこからも与えてくれはしないということです。「未来」があるかどうかの一切はファン・ルーラーのテキストを読むことにかかっています。そして、それが日本語に訳されるなり、日本語の研究書が多く出版されるなりすることが必須の前提条件です。

しかし、彼の文章を日本語に翻訳するためにはオランダ語の知識があるということだけでは済まず、神学の基礎を学び、さらに改革派教義学や信条学やオランダ教会史などを学ぶ必要があります。そうでないかぎり、彼のテキストは全く理解できません。それはオランダ語のハードル以上です。

私が最も期待しているのは、オランダのアペルドールン神学大学に2008年から2013年まで留学し、ファン・ルーラーとノールトマンスについてオランダ語で書いた修士論文で「最優秀賞」(Cum laude)を受賞して(これは日本史的快挙です)帰国した石原知弘先生の存在です。石原先生(1973年、岡山生まれ)は現在、日本キリスト改革派園田教会牧師で、神戸改革派神学校の組織神学(改革派教義学)非常勤講師です。石原先生にもっと研究に集中できる時間を差し上げることができれば、石原先生を軸にして日本のファン・ルーラー研究は大きく回転し、飛躍的に前進していくでしょう。

青山学院大学 青山キャンパス(東京都渋谷区渋谷)


[1] 第21回例会、2012年6月25日、青山学院大学青山キャンパス。

[2] この講演を基にして書いたのが、関口康「新約聖書は旧約聖書の『巻末用語小辞典』か―旧約聖書と新約聖書の関係についてのA. A. ファン・ルーラーの理解」『改革派神学』第39号、神戸改革派神学校、2012年、95頁~109頁です。

[3] 第9回講演会、2013年3月11日、立教大学池袋キャンパス。

[4] 2014年度例会、2014年3月14日、東京女子大学。

[5] 2013年度「キリスト教の歩み」、2014年度「キリスト教と思想」。

[6] 2013年6月27日、7月4日、池袋キャンパス。2014年6月26日、新座キャンパス。

[7] 第8回研究会、2008年6月30日、日本基督教団洗足教会。

[8] この講演を基にして書いたのが、関口康「ファン・ルーラーにおける人間的なるものの評価」『季刊教会』第73号、日本基督教団改革長老教会協議会、2008年、10~18頁です。

[9] 2015年2月16日、日本キリスト改革派東京恩寵教会。

[10] 別紙「日本語で読めるファン・ルーラー研究文献リスト」を参照してください。ファン・ルーラー研究会を結成した1999年頃は、日本語で読める研究文献はほとんどありませんでした。

[11] Inventaris van het archief van prof. dr. Arnold Albert van Ruler [1908-1970], Utrecht Universiteitsbibliotheek, 1997.

[12] A. A. van Ruler, De vervulling van de wet: Een dogmatische studie over de verhouding van openbaring en existentie, Nijkerk, 1947.

[13] 『ファン・ルーラー教授文庫総目録』(1997年)に記載されている「博士論文」は以下の9作です。

Bernd Päschke, Die dialogische Struktur der Theokratie bei A. A. van Ruler, Göttingen, 1961.

Benjamin Engelbrecht, Agtergronde en grondlyne van die teokratiese visioen: ’n Inleiding tot die teokratiese teologie van prof. A. A. van Ruler, 1963.

J. H. P. van Rooyen, Kerk en staat: een vergelijking tussen Kuyper en Van Ruler, 1964.

A. N. Hendriks, Kerk en ambt in de theologie van A. A. van Ruler, 1977.

Paul Roy Fries, Religion and the Hope for a truly human existence: an inquiry into the theology of F. D. E. Schleiermacher and A. A. van Ruler with questions for America, 1979.

P. W. J. van Hoof, Intermezzo: kontinuiteit en diskontinuiteit in de theologie van A. A. van Ruler: Eschatologie en kultuur, 1974.

J. J. Rebel, Pastoraat in pneumatologisch perspectief: een theologische verantwoording vanuit het denken van A. A. van Ruler, 1981.

L. Westland, Eredienst en maatschappij: een onderzoek naar de visies van A. A. van Ruler, de Prof. Dr. G. van der Leeuw-stichting en de beweging Christenen voor het socialisme, 1985.

Christo Lombard, Adama, thora en dogma: die samehang van de aardse lewe, skrif en dogma in die teologie van A. A. van Ruler, 1996.

[14] 1997年以降に書かれた「博士論文」には次のような作品があります(すべては把握できていません)。

J. M. van ’t Kruis, De Geest als missionaire beweging: een onderzoek naar de functie en toereikendheid van gereformeerde theologie in de huidige missiologische discussie, 1997.

Garth Hodnett, Ontology and the New Being: The Relationship between Creation and Redemption in the Theology of Paul Tillich and A. A. van Ruler, 2000.

Allan J. Janssen, Kingdom, Office, and Church, A Study of A. A. van Ruler’s Doctrine of Ecclesiastical Office, 2006.など。

[15] 「国際ファン・ルーラー学会」(Internationale Van Ruler congres)の講演集が出版されています。

Dirk van Keulen, George Harinck, Gijsbert van den Brink (red), Men moet telkens opnieuw de reuzenzwaai aan de rekstok maken: Verder met Van Ruler, Boekencentrum, Zoetermeer, 2009.

掲載順に、ファン・ド・ベーク、ロンバルト、ファン・デン・ブロム、ファン・デア・コーイ、ド・フリース、ファン・ケウレン、ファン・アセルト、モルトマン、イミンク、ファン・デン・ブリンク、ファン・デン・ヒューベル、オプ・トホフ、ブリンクマン、ジャンセンが寄稿しています。

[16] G. C. Berkouwer, Studies In Dogmatics, The Work of Christ, Eerdmans, 1965, p. 213-222. 原著オランダ語版の当該箇所はG. C. Berkouwer, Dogmatische Studien, Het werk van Christus, J. H. Kok, Kampen, 1953, p. 231-242.

[17] 岡田 稔『改革派教理学教本』新教出版社、1969年、244~245頁。

[18] G. C. Berkouwer, Het werk van Christus, p. 239.

[19] 佐藤敏夫『救済の神学』新教出版社、1987年、53~55頁。

[20] 佐藤敏夫、同上書、同上頁。

[21] 佐藤敏夫、同上書、55頁。

[22] 近藤勝彦『歴史の神学の行方 ティリッヒ、バルト、パネンベルク、ファン・リューラー』教文館、1993年、238~239頁。

[23] 現在刊行中の牧田吉和・市川康則共著『改革派教義学』(一麦出版社)の全内容を、私を含む当時の学生たちは、共著者のお二人から、生で講義していただきました。

2015年2月16日月曜日

ファン・ルーラー研究の意義(2015年)

講演「ファン・ルーラー研究の意義」

PDF版はここをクリックしてください

(2015年2月16日、思想とキリスト教研究会講演会、日本キリスト改革派東京恩寵教会)

関口 康



本日は講演の機会を与えていただき、感謝いたします。自己紹介を兼ねてはじめにお話しするのは、私がファン・ルーラー研究を開始した経緯です。

私が初めてファン・ルーラーの著作に接したのは1997年4月です。18年前です。インターネット上に「ファン・ルーラー研究会」を数名の友人と共に作ったのが、1999年2月20日です。2014年10月27日に解散するまでの15年半、私が研究会の代表でした。会員数は、最後は108名でした。

私をファン・ルーラーへと導いてくださったのは三人の教師です。近藤勝彦先生、高崎毅志先生、牧田吉和先生です。この三人はファン・ルーラーの神学を日本で初めて本格的に紹介した方々です。

近藤勝彦先生は、私の東京神学大学の卒業論文(1988年)と修士論文(1990年)の指導教授です。日本基督教団教師であり、東京神学大学教授であり、学長でした。近藤先生は東神大の大学院生の頃、ヘッセリンクの論文「現代オランダプロテスタント神学」[1]を翻訳する中でファン・ルーラーの神学の重要性を認識しました。テュービンゲン大学神学部に留学したとき、指導教授であったモルトマンにもファン・ルーラー研究の意義を教えられました。モルトマンはファン・ルーラーとヴッパータールで1957年に出会っています。近藤先生のファン・ルーラー研究は『歴史の神学の行方』(1993年)[2]にまとめられました。『二十世紀の主要な神学者たち』(2011年)[3]にも「伝統的でファンタスティックな神学者ファン・リューラー」と題する一章があります。私は『歴史の神学の行方』を出版直後に購入して読み(当時は高知県南国市にいました)、ファン・ルーラーの神学の重要性を初めて知りました。

高崎毅志先生は、東京神学大学の先輩です。日本キリスト教会、また日本基督教団の教師でした。ウェスタン神学大学に留学しました。帰国後、ウェスタン神学大学オスターヘーベン教授の『教会の信仰』(1991年)[4]を共訳しました。オスターヘーベンはファン・ルーラーと知己がありました[5]。『教会の信仰』にもファン・ルーラーの神学が紹介されています。私は1993年に高崎先生とお会いしたとき、「ファン・ルーラーの神学を勉強しろ。神戸の牧田先生に教えてもらえ」と励まされました。場所は恵比寿でした。その後はお会いしていません。1999年に高崎先生は死去しました。「高崎先生のおかげでファン・ルーラーを研究しています」と報告できないままです。

牧田吉和先生は、私の神戸改革派神学校の卒業論文(ファン・ルーラー研究、1998年)の指導教授です。日本キリスト改革派教会の教師であり、神戸改革派神学校教授であり、校長でした。ドイツとオランダに計5年留学しました。留学中はファン・ルーラーには無関心だったが、帰国後、神学校で学生と共に読んだルードルフ・ボーレンの『説教学』の「第4章 聖霊」[6]を通してファン・ルーラー研究の意義を認識したと、牧田先生から伺いました。ボーレンもファン・ルーラーと面識があります。出会いの場所はモルトマンと同じくヴッパータールでした[7]。牧田先生は神戸改革派神学校組織神学教授就職記念講演「改革派教義学と聖霊論」(1988年)[8]の中でファン・ルーラーの神学を紹介しました。1997年4月から数年間、ファン・ルーラー英語版論文集の講読会を神学校で行いました。1999年以降は「ファン・ルーラー研究会」の顧問でした。研究会主催の講演会やセミナーの講義は『改革派神学』にまとめられています。

本論

さて本論です。ファン・ルーラー研究には意義があるのでしょうか。もしあるとすれば、どのような意義がどのあたりにあるでしょうか。私はファン・ルーラーの神学の役割は今後大きくなっていくだろうと信じています。なぜそのように考えることができるのか。ヒントを二つお話しします。

 Ⅰ

第一のヒントはタイムリーな話題です。本日から明日まで(2015年2月16~17日)日本基督教団の連合長老会主催「第61回宣教協議会」が富士見町教会で行われています。講師は日本キリスト教会の小坂宣雄先生です。その案内状に小坂先生ご自身の言葉として、次のように記されています。

「今回お受けした講演も、そういう意味で、講演というよりも、問題提起です。問題提起の根底にあるのは、ハインリッヒ・フォーゲルの『ニカイア信条講解』の中で指摘している『キリスト論におけるように、教会に関して仮現論(docetism)が起こっていないか』という意識です。キリストの体である教会は、聖霊の現臨と働きによって形成(建設)されます。しかし、聖霊の受肉といったことは考えられないわけです。聖霊は御子の受肉において働くのです。その限り、教会の形成は、キリストがとられた人性と、切り離されてはならず、深く結びついています。聖霊は単に霊的(spiritual)なもの・観念的なものではなく、身体的・物象的リアリティを伴うのです。その点から、これまで『聖霊による教会形成』を志しながら、軽視されていることはないか、その幾つかをご一緒に考える機会となればと思います」。

「今」行われている小坂先生の講演の内容は、もちろん分かりません。ハインリッヒ・フォーゲル(Heinrich Vogel [1902-1989])の著作を読んだこともありません。しかし、すぐに分かることは、フォーゲルがファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])と同世代の人であること、そして、カール・バルトの「キリスト論的集中の神学」の圧倒的な影響を受け、その思想世界の功罪を熟知しつつ、その中で論理の袋小路に陥り、苦しんでいたのではないかということです。

「教会に関して仮現論(docetism)が起こっていないか」とはどういう意味でしょうか。思いつくままを言えば、教会のdivinitas(神的であること)とhumanitas(人間的であること)とのバランスが崩れ、もっぱらdivinitasが強調され、humanitasは軽んじられている状態を指しての懸念表明ではないかと考えられます。まるで教会には生身の人間は存在しないかのように、人間の働きや努力は、虚無であり、罪悪ですらあるかのように、軽視され、無視されている。たとえば聖書、説教、聖礼典、教会会議などについて、それは実際に起こります。教会の現実を知る者には身に覚えのあることです。

目をひかれたのは、小坂先生が記しておられる「聖霊の受肉といったことは考えられないわけです」という言葉です。これはファン・ルーラーの見解と一致します。それで考えさせられたのは、「教会に関して仮現論が起こっていないか」というハインリッヒ・フォーゲルの問いかけに対して、ファン・ルーラーならばどのように答えるだろうかということでした。

ファン・ルーラーも「聖霊の受肉」はありえないと考えた人です。「受肉」(assumptio carnis)は「永遠のロゴス」のみに起こったことであり、反復も再現も不可能な、歴史的一回性の出来事でした。そしてその場合、それ自体においては自立したperson(格)を有しないnature(性)としての「人性」としての「サルクス(肉)」を永遠のロゴスがマリアから「摂取した」と言わないかぎり、キリストにおける二性一人格(two natures, one person)の秘義は崩壊すると、ファン・ルーラーは考えました。

しかし「聖霊」はキリスト論のカテゴリーと同じ意味での「受肉」はしません。「聖霊」との関係で用いられるべき関係概念は「内住」(inhabitatio)です。論理的に許される表現は「聖霊の内住」(inhabitatio Spiritus sancti)です。それは同時に、17世紀の改革派神学者ローデンシュテインの表現を借りれば「三位一体すべての神の内住」(de drieenige God zelf, de gehele triniteit, welke in ons inwoont; inhabitatio Dei trinitatis)を語ることが許される事態です。

しかも、「聖霊」(なる「神」)が「内住」するのは、人間存在の内部です。人間の「心」(hart)や「感情」(gevoel)と共に「体」(lichaam)にも聖霊が内住します。聖霊なる神が、ひいては三位一体すべての神が、人間存在に内住し、人間において、人間と共に、人間を用いて神のみわざを行います。

これがファン・ルーラーの聖霊論の核心部分であり、教会論の核心部分です[9]。そしてこれが「身体的・物象的リアリティを伴う」聖霊による教会形成のあり方です。しかし、ファン・ルーラーの場合の「身体的・物象的リアリティ」とはヒューマンなものであり、ほとんどマテリアリズムのそれです。裃(かみしも)を着ていない、オープンな身体性・物象性です。そのことをファン・ルーラーの論理はたしかに許す面があります。全面的な人間肯定、全面的な世界肯定、全面的な自己肯定の論理です。

しかし、そういうのを日本の(とりわけ改革派・長老派の)教会は嫌ってきた面があります。嫌忌の理由や原因もだいたい分かります。カルヴァンもユマニスト時代はポジティヴな意味で用いていた「人間的なるもの」(humanum)という語を、回心後はかなりの頻度でネガティヴな意味で用いました[10]。

小坂先生の文章には「(教会の)身体的・物象的リアリティ」を確保することとの関係で「キリストの人性」(?)に注目するようにとの示唆があります。おそらくそこが(キリストの人性が!)我々に残された唯一の問題解決の道であると考えられているように見えます。

しかし、果たしてそれは本当に可能でしょうか。「キリストの人性」との取り組みが教会を仮現論の罠から救い出すことになるでしょうか。ファン・ルーラーならば別の道を行くでしょう。三位一体論的・聖霊論的に熟考した上で、罪に対してはいささかも譲歩しないで、裃を着ない「人間の人間性」(humanitas)を堂々と語るでしょう。

 Ⅱ

第二のヒントは、近藤勝彦先生の『二十世紀の主要な神学者たち』(2011年)からの引用です。

「それにしてもファン・リューラーの神学も大きな問題を抱えています。それはとりわけそのキリストの『受肉』の理解にあるでしょう。彼はキリストの受肉を人間の堕落ゆえの『緊急対策』と見なしました。『受肉』は神の永遠の決意にあると理解されてはいません。それゆえ最後には緊急対策の役割を果たし終えたとき、キリストの人性放棄があることになります。しかしそれでは終末は、再びもとの創造の回復にすぎず、それ以上の完成として理解されないのではないでしょうか。さらに言えば、イエス・キリストの受肉がただ人間の堕落ゆえの緊急対策で、過渡的なものとして理解され、終にはキリストの人性放棄が起きるというのであれば、回復した創造は再び人間の堕落によって歪曲され、再度、そこからの緊急避難が必要になり、キリストの再受肉がなければならなくなるのではないでしょうか。そうなれば、救済史は一回限りの進行ではなく、永遠回帰の思想に落ち込むことになるのではないかと危ぶまれます」[11]。

この点について近藤先生はファン・ルーラーを批判し続けてきました。その長さは40年以上です。出発点は近藤先生が翻訳したヘッセリンクの「現代オランダプロテスタント神学」です。近藤先生はヘッセリンクのファン・ルーラー批判を忠実に継承しておられます。ヘッセリンクはバーゼル大学のバルトのもとでカルヴァンの律法論についての博士論文(1961年)[12]を書きました。遠慮せずに言えば、ヘッセリンクのファン・ルーラー批判はバルト主義のバイアスを帯びています。しかし近藤先生ほどの方が長年主張してこられたのですから、ヘッセリンクの手は離れていると考えるべきでしょう。

そのことを確認した上で申し上げたいことは、近藤先生のファン・ルーラー批判は取り越し苦労に終わるだろうということです。ファン・ルーラーが主張したのは「終末におけるキリストの人性」の「放棄」というよりは「解消」でした。しかも彼は、この教説をコリントの信徒への手紙一15・24~28に基づいて主張しました。それは「肉の摂取」(assumptio carnis)とはちょうど正反対のベクトルを指していますので、私は半分冗談で「キリストの脱肉」と呼んでいます(不謹慎をお許しください)。肉をまとった永遠の神の御子が地上における救いのすべてのみわざを終えて、肉をお脱ぎになる日が来るという意味です。実際のファン・ルーラーの文章を一例挙げておきます。

「神が人間になられたのは、目的ではなく、一つの手段であった。すなわちそれは、人間の罪によって生み出されたありとあらゆる問題に対処するために神の側で用意してくださった緊急措置であった。そのため我々が『神が人間になられた』(God mens is geworden)と語ることはあまり適切な言い方ではない。我々が述べていることをより明確に表現するとしたら、『神の御言が肉になった』(het Woord vlees is geworden)のほうがよい。それは、人類の罪に対する神の怒りという重荷を担ってくださるためであった。それゆえ最終的に起こることは、御子がその肉を再び脱ぐことができる日が訪れることである。そのとき人間は再び人間になることができる。天地万物の究極的目標とは何か。それは純粋なる人間性(pure humaniteit)と地上世界の居住可能性(bewoonbaarheid van de aarde)が保持され続けることである」(拙訳)[13]。

ファン・ルーラーは「キリストの受肉の解消」については、いろんな場所でいろんな意味で語っていますので、定義するのは困難です。しかし、私が感じるのは清々しさです。すべてのわざを完了し、重責の職務から勇退するメシアの姿が浮かんできます。

それは勝手なイメージであると言われれば、それまでです。しかし、近藤先生が懸念しておられる「受肉は神の永遠の決意にあると理解されていない」とか「回復した創造は再び人間の堕落によって歪曲される」とか「キリストの再受肉がなければならなくなる」とか「永遠回帰の思想に落ち込む」とかいう危険な状態になっていくとは全く思えません。

むしろ逆に、私には疑問があります。もし永遠の神の御子が肉を脱ぐならば「回復した創造は再び人間の堕落によって歪曲される」ことになる(?)という論理は、意図の有無にかかわらず、人間の罪の問題は永遠に解決しえないものだと決めつけることになっていないでしょうか。終末に至っても、永遠の神の国に至っても、あいかわらず肉をまとった神の御子が睨みを利かし続けていないかぎり、我々は罪から逃れられないのでしょうか。それは罪の永遠化や絶対化に道を開いていないでしょうか。

こういう議論に参加できるようになることが、私が考える「ファン・ルーラー研究の意義」です。ファン・ルーラーの神学を近藤先生のように「ファンタスティック」だのと評されると、うんざりします。裃を着ていないだけです。リアリスティックでマテリアリスティックな感性の鋭い神学です。

ダブル講師の水垣渉先生(左)と関口康(右)




[1] I. John Hesselink, Contemporary Protestant Dutch Theology, Reformed Review, Winter 1973, Vol. 26/No. 2, P. 67-89. これの日本語版(近藤勝彦訳)が『キリスト教組織神学事典(増補版)』東京神学大学神学会、教文館、1983年、109~128頁にあります。

[2] 近藤勝彦『歴史の神学の行方 ティリッヒ、バルト、パネンベルク、ファン・リューラー』教文館、1993年。

[3] 近藤勝彦『二十世紀の主要な神学者たち 私は彼らからどのように学び、何を批判しているのか』教文館、2011年。

[4] M. ユージン・オスターヘーベン『教会の信仰 プロテスタント・キリスト教の歴史的展望』石田学、伊藤勝啓、高崎毅志共訳、すぐ書房、1991年。

[5] M. ユージン・オスターヘーベン、同上書、8頁。

[6] ボーレン『説教学Ⅰ』加藤常昭訳、日本基督教団出版局、1977年、101~143頁。

[7]ボーレン『説教学Ⅱ』加藤常昭訳、日本基督教団出版局、1978年、410頁。ルードルフ・ボーレンがヴッパータール神学校の実践神学教授に招聘されたのは「1958年」であり(「ルードルフ・ボーレン略歴」説教塾HP、2015年2月13日確認。http://www.sekkyou.com/jp/special7/00.php)、モルトマンが証言している「1957年」(モルトマン『十字架と革命』大庭健訳、新教出版社、1974年、5頁)とは食い違います。しかし、ボーレンが証言したのは「ヴッパータールでファン・ルーラーに出会った」ことだけです。

[8] 牧田吉和「改革派教義学と聖霊論 改革派神学の新しい可能性を求めて」『改革派神学』第19輯、神戸改革派神学校、1988年、27~73頁。

[9] ファン・ルーラーの聖霊論については日本でも研究が進んでいます。以下の論文をお勧めしま
す。

栗田英昭「ファン・ルーラーの聖霊論における鍵となるいくつかの概念について
      ―キリスト論の教理と関連して―」
      『教会の神学』第13号、日本キリスト教会神学校、2006年
栗田英昭「ファン・ルーラーの聖霊論におけるキリストとの神秘的合一
      ―カルヴァン、ルターおよびバルトの理解と関連して―」
      『教会の神学』第14号、日本キリスト教会神学校、2007年
栗田英昭「十分に展開された聖霊論の必要性について
      ―ファン・ルーラーによる相対的に独立した聖霊論の意義―」
      『教会の神学』第15号、日本キリスト教会神学校、2008年
栗田英昭「神と人の関係―ファン・ルーラーの聖霊論における神律的相互関係―」
      『教会の神学』第16号、日本キリスト教会神学校、2009年
栗田英昭「聖霊の内住―人間の霊および世界において―」
      『教会の神学』第18号、日本キリスト教会神学校、2011年
栗田英昭「ファン・ルーラーの聖霊論と場所的理解」
      『教会の神学』第19号、日本キリスト教会神学校、2012年
栗田英昭「ファン・ルーラーの聖霊論の説教および信仰への適用」
      『教会の神学』第20号、日本キリスト教会神学校、2013年
栗田英昭「キリスト論と聖霊論における神と人の関係」
      『場所』第12号、西田哲学研究会、2013年
牧田吉和「ファン・ルーラーにおける三位一体論的・終末論的神の国神学と聖霊論―」
      『改革派神学』第32号、神戸改革派神学校、2005年

[10] 関口 康「カルヴァンにおける人間的なるものの評価」『新たな一歩を カルヴァン生誕500年記念論集』久米あつみ監修、アジア・カルヴァン学会日本支部編、キリスト新聞社、2009年、135~156頁。

[11] 近藤勝彦『二十世紀の主要な神学者たち』、165頁。

[12] I. John Hesselink, Calvin’s Concept of the Law, Pickwick, 1992. ヘッセリンクが1961年にバーゼル大学神学部に提出した博士論文の原題はCalvin’s Concept and Use of the Lawでした。

[13] A. A. van Ruler, God is mens geworden (1955), in: Verzameld Werk Deel 4A, Uitgeverij Boekencentrum, Zoetermeer, 2011, p. 182-193.


2014年10月28日火曜日

アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(1908-1970)


アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler)

略歴

1908年12月10日  オランダ・アペルドールンに生まれる
1933年11月     フローニンゲン大学神学部卒業
1933年11月     オランダ改革派クバート教会牧師
1940年 2 月     オランダ改革派ヒルファーサム教会牧師
1947年 1 月     ユトレヒト大学神学部教授
1970年12月15日  死去

著書

『カイパーのキリスト教的文化の理念』 Kuypers idee eener christelijke cultuur (1939年)
『宗教と政治』 Religie en politiek (1945年)
『政治は聖なる事柄である』 Politiek is een heilige zaak (1946年)
『よみがえれ喜びに』 Sta op tot de vreugde (1947年)
『ヴィジョンと展望』 Visie en Vaart (1947年)
『国家と啓示』 Staat en openbaring プロテスタント同盟のための講演(1947年)
『律法の成就』 De vervulling van de wet フローニンゲン大学神学博士号請求論文(1947年)
『夢と形』 Droom en gestalte (1947年)
『神の国と歴史』 Het Koninkrijk Gods en de geschiedenis ユトレヒト大学教授就任講演(1947年、英語版あり)
『新しい教会規程における告白教会』 De belijdende kerk in de nieuwe kerkorde (1948年)
『教会の宣教(アポストラート)と教会規程草案』 Het apostolaat der kerk en het ontwerp-kerkorde (1948年)
『被われた存在』 Verhuld bestaan (1949年)
『現代における執事職の基礎と視座』 Fundamenten en perspectiefen van het Diaconaat in onze tijd (1952年)
『特別職と一般職』 Bijzonder en algemeen ambt (1952年)
『百年後の司教杖』 Na 100 jaar Kromstaf (1953年)
『宣教(アポストラート)の神学』 Theologie van het Apostolaat (1953年、ドイツ語版・英語版・日本語版あり)
『われらの父よ』 Het Onze Vader (1953年)
『世にかかわる勇気を持て』 Heb moed voor de wereld (1953年、英語版あり)
『中高等教育のキリスト教化』 Kerstening van het Voorbereidend Hoger en Middelbaar Onderwijs (1954年)
『信仰告白はどのような役割を果たすか』 Hoe functioneert de belijdenis? (1954年)
『キリスト教会と旧約聖書』 Die Christliche Kirche und das Alte Testament (1955年、英語版・日本語版あり)
『政府とヒューマニズム』 Overheid en humanisme (1955年)
『司牧書簡の背景』 Achtergronden van het Herderlijk Schrijven (1955年)
『安心して楽しみなさい』 Vertrouw en geniet! (1955年、英語版あり)
『世界においてキリストが形を取ること』 Gestaltwerdung Christi in der Welt (1956年、英語版・日本語版あり)
『最も大いなるものは愛』 De meeste van deze is de liefde (1957年、英語版あり)
『プロテスタンティズムと動物保護』 Het protestantisme en de dierenbescherming (1957年)
『国民教会について語ることにまだ何か意味があるか』 Heeft het nog zin van "volkskerk" te spreken? (1958年)
『教会の政治的責任』 De politieke verantwoordelijkheid der kerk (1963年)
『ローマ・カトリック教会との出会いにおけるプロテスタンティズムの立場』 Reformatorische opmerkingen in de ontmoeting met Rome (1965年)
『人生の愚かさ』 Dwaasheden in het leven 上巻(1966年) 
『人生の愚かさ』 Dwaasheden in het leven 下巻(1966年)
『神学における人間性』 Menselijkheid in de theologie (1967年)
『われ信ず』 Ik geloof (1968年、ドイツ語版・日本語版あり)
『ファン・ルーラー神学論文集』全六巻 A. A. van Ruler Theologisch Werk I-VI (1969年~1973年)
『ファン・ルーラーとの対話』 In gesprek met van Ruler (1969年)
『聖書との交わりの形成』 Vormen van omgang met de bijbel (1970年)
『なぜわたしは教会に通うのか』 Waarom zou ik naar de kerk gaan? (1970年)
『使徒の権威において』 Op gezag van een apostel (1971年)
『喜びをもって信じる』 Geloven met blijschap (1971年)
『マルコ14章』 Marcus 14 (1971年)
『マルコ14章(続)・15章・16章』 Marcus 14 (vervolg), 15, 16 (1972年)
『祝祭としての人生』 Het leven een feest (1972年)
『死は打ち負かされた』 De dood wordt overwonnen (1972年)
『幼子のように喜ぶ』 Blij zijn als kinderen (1972年)
『切り口鋭く』Op het scherp van de snede (1972年)
『詩編を物語る』 Over de psalmen gesproken (1973年)
『全地よ喜びの叫びをあげよ』 Laat heel de aard' een loflied wezen (1973年)
『輪舞』 Reidans (1974年)
『マルコの歌』 Dichter bij Marcus (1974年)
『待望と成就』 Verwachting en voltooiing (1978年)
『炎のような舌』 Tongen als van vuur (1980年)
『日々の黙想』 Gedachten voor elke dag (1989年)
『ファン・ルーラー著作集』全八巻(予定) A. A. van Ruler Verzameld Werk (2007年~現在刊行中)
『創造から神の国まで』 Van schepping tot Koninkrijk (2008年)

組織神学関係の国内定期刊行物

『茨城キリスト教大学紀要』茨城キリスト教大学
『ウェスレー・メソジスト研究』日本ウェスレー・メソジスト学会
『大阪キリスト教短期大学紀要』大阪キリスト教短期大学
『改革派神学』神戸改革派神学校
『カトリック研究』上智大学
『カルヴィニズム』日本カルヴィニスト協会
『季刊教会』日本基督教団改革長老教会協議会
『キリスト教学研究室紀要』京都大学キリスト教学研究室
『教会の神学』日本キリスト教会神学校
『キリスト教学』立教大学キリスト教学会
『基督教学』北海道基督教学会
『基督教学研究』京都大学基督教学会
『基督教研究』同志社大学神学部
『キリスト教と世界』東京基督教大学
『キリスト教と文化』青山学院大学宗教センター
『キリスト教と文化研究』関西学院大学キリスト教と文化研究センター
『神学』東京神学大学神学会
『神学研究』関西学院大学神学部
『神学ダイジェスト』上智大学神学会
『神学と牧会』神学と牧会の研究所
『聖学院大学総合研究所紀要』聖学院大学総合研究所
『聖書と神学』日本聖書神学校キリスト教研究所
『セオロギア』東京神学大学学生会
『テオロギア・ディアコニア』ルーテル学院大学
『東京神学大学総合研究所紀要』東京神学大学総合研究所
『東北学院大学キリスト教文化研究所紀要』東北学院大学キリスト教文化研究所
『途上』思想とキリスト教研究会
『南山神学』南山大学人文学部キリスト教学科
『日本カトリック神学会誌』日本カトリック神学会
『日本版インタープリテイション』聖公会出版
『日本の神学』日本基督教学会
『福音主義神学』日本福音主義神学会
『福音と社会』農村伝道神学校
『福音と世界』新教出版社
『ボンヘッファー研究』日本ボンヘッファー研究会
『ヨーロッパ文化史研究』東北学院大学ヨーロッパ文化総合研究所

回顧と展望 ファン・ルーラー研究会最終セミナーに際して(2014年)

現在刊行中の『ファン・ルーラー著作集』(左)と1970年代に出版された『神学論文集』(右)

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「ファン・ルーラー研究会」の15年半の歩みを締めくくるに際し、今までお世話になった皆様に、心からの感謝を申し上げます。

私がファン・ルーラーの重要性を認識した瞬間は、高崎毅志牧師と1993年頃に交わした会話です。

高崎「きみは改革派神学に興味があるらしいな。何を読んでいるんだよ」

関口「私は日本語に訳されたものしか読めません。ウォーフィールドとかメイチェンとかカイパーとかバビンク(バーフィンク)とかですね。あとは岡田稔先生の本くらいです」

高崎「なんだ、ずいぶん古いな。今の現実に全く対応できていないものばかりだ」

関口「それでは何を読めばよろしいのでしょうか」

高崎「きみ、ファン・ルーラーだよ」

関口「ええっ!興味ありますけど、オランダ語ですよね。読めないですよ」

高崎「何言ってんだ、ばか野郎。あのな、組織神学やる人間は自分の読みたい本の語学をやるもんなんだよ。神戸(改革派神学校)の牧田くんは、ファン・ルーラーをちゃんとオランダ語で読んでるぜ。甘えるんじゃないよ」

関口「は、はい、すみません。分かりました。オランダ語、これから勉強します」

ファン・ルーラーへの関心はありました。東京神学大学の学士論文と修士論文の指導教授であった近藤勝彦教授が『神学』に書いた論文が、『歴史の神学の行方―ティリッヒ、バルト、パネンベルク、ファン・リューラー―』(教文館、1993年)にまとめられていました。しかし、近藤教授は複数の論文や個人的な会話の中で「私はオランダ語ができない。ジョン・ボルト訳のファン・ルーラーの英語版論文集しか読んでいない」と明言していました。私もオランダ語には全く接点がありませんでした。

しかし、高崎牧師との会話以来、ファン・ルーラー研究への足がかりを求めるようになりました。1997年1月に神戸改革派神学校の家族寮に入寮し、牧田吉和校長と市川康則教授の「改革派教義学」を聴講するようになったことも、高崎牧師との会話と無関係ではありません。

前史

ここから場面は神戸改革派神学校の校長室に移ります。時に1997年1月。同年4月より同神学校の二年次に編入することが決まった私が書くべき卒業論文のテーマを牧田吉和校長と相談する中で私が「ファン・ルーラーの研究をしたいです」と言いました。牧田校長の答えは「オランダ語だよ?」という一言でした。すぐに凹みました。英語版があるバーフィンク『神論』を研究することにしました。

同年3月、異変が起こりました。宮平光庸氏(西南学院大学神学部の宮平望教授の父)がジョン・ボルト訳のファン・ルーラーの論文集のコピーを抱えて神戸改革派神学校の校長室を訪ね、「この本に感動しました。ぜひ神学校でゼミを開いてください」と牧田校長に申し入れました。そのとき、私も校長室に呼ばれ、相談の結果、一緒にその本を読むことになりました。

同年4月、牧田吉和校長の指導による神学校正規の「組織神学セミナー」が開かれました。最初のメンバーは関口康、宮平光庸氏、望月信、朝岡勝、石原知弘、弓矢健児の各神学生、そして神学校で教理史を担当していた日本改革長老教会の坂井純人牧師でした。

研究方法は、学生が英語版論文集に基づいて訳文を作って配布して全員で読み、牧田校長が原著を見ながらチェックし、訂正と解説を加えていくものでした。私が神学校を卒業するまでの1年3カ月間に読んだのは、英語版論文集の最初の二つ、「三位一体論的神学の必要性」と「キリスト論的視点と聖霊論的視点との構造的差異」でした。

私は1998年5月に「A. A. ファン・ルーラーの三位一体論的神学と参加的思惟」という卒業論文を提出し、同年6月、後ろ髪引かれる思いで神戸改革派神学校を卒業しました。同年7月、山梨県甲府市の日本キリスト改革派教会の牧師になりました。

「組織神学セミナー」でゼミ生が配布しあったレジュメ

結成

私の卒業後も神学校で「組織神学セミナー」が継続されました。英語版論文集の第三論文「聖霊論の主要線」が読まれていました。しかし、私は参加できません。無念でした。悔し紛れに思いついたのがインターネットを利用することでした。

山梨の教会の初任給で、当時発売されたばかりの「ウィンドウズ98」搭載パソコンを購入しました。パソコン購入直後、東京神学大学の同級生の清弘剛生牧師にメールを送りました。インターネットの「メール」をだれかに送るのは初めてでした。

清弘牧師は最先端を走っていました。毎週の礼拝説教を配信する「ウェブチャペルウィークリー」というメールマガジンを、その数年前から発行していました。そのことを私は知っていました。清弘先生ならインターネットを神学研究に利用する方法をご存じに違いないという期待をもった久しぶりの連絡でもありました。

さすが清弘先生でした。すぐに「メーリングリストという方法があるよ」と教えてくださいました。清弘先生は東京神学大学大学院では左近淑教授のもとで旧約聖書神学の修士論文を書いた方ですが、「ファン・ルーラーを読みませんか」と持ちかけたところ、快く応じてくださいました。清弘先生は早稲田大学大学院修了後に就職した会社でオランダのハーグで研修があったことや、組織神学を勉強したいと思っていたところだったと返信してくださいました。そして「ウェブチャペルウィークリー」で得てきたノウハウを伝授してくださいました。

メーリングリストを立ち上げることにしました。最初のメンバーは、清弘先生と私の2人でした。その後、やはり東京神学大学で同級生であった土肥聡牧師と生原美典牧師を誘い、この4人で始めたメーリングリストに1999年2月20日、「ファン・ルーラー研究会」と命名しました。

その日から始めたことは勧誘でした。神戸改革派神学校で継続されていた「組織神学セミナー」のメンバーに加わっていただくことを優先しました。当時の本音をいえば、神戸から遠い山梨県にいる私としては神戸改革派神学校の「組織神学セミナー」の進捗状況を知らせてほしかったのです。訳文ができたところから送ってもらいたかったのですが、その願いはかないませんでした。

結成してまもなくの頃のメーリングリストのやりとりの内容は、清弘先生と私が交互に訳文と原文と解説を書いたメールをリストに流し、互いにチェックしあうというきわめてシンプルなものでした。その方法で全訳した論文は「地上の生の評価」、「モーセの律法の意義」、「説教の定義」の三つです。その他、長期連載になったものとしては、ゼカリヤ書説教集の清弘先生訳、ポール・フリーズ博士の学位論文の村上恵理也先生訳などが、研究会としての初期のものです。

私も清弘先生もオランダ語を全く知らないまま立ち上げたメーリングリストでしたので、「蘭学事始」さながらでした。同時進行でオランダ語、オランダ教会史、オランダ政治史などの資料を見つけては紹介しました。やりとりしたメール数は、全期間で約2600通でした。

発展

1999年2月20日の結成後、「ウィンドウズ98」以来のインターネットの爆発的普及との連動に成功しました。メンバー(メーリングリスト登録者)は、結成3周年(2002年2月)には70名、5周年(2004年2月)には90名超、6周年(2005年2月)には100名超になりました。最後は108名を数えました。メンバーの所在地として確認できたのは北海道、青森県、宮城県、栃木県、群馬県、千葉県、埼玉県、東京都、神奈川県、静岡県、山梨県、長野県、石川県、岐阜県、愛知県、奈良県、大阪府、兵庫県、岡山県、香川県、高知県、台湾、オランダ、イギリス、アメリカ、カナダです。

爆発的なメンバー増加に対応するために、研究会を運営する組織の必要性を痛感し、2000年10月に「世話人会」を立ち上げました。最初の世話人は5名。代表・関口康、書記・清弘剛生、顧問・牧田吉和、朝岡勝、石原知弘の各氏でした。その後、会計・弓矢健児、栗田英昭、田上雅徳、阿久戸光晴、横川寛の各氏が世話人に加わってくださいました。

海外のファン・ルーラー研究者との連絡関係もインターネットで作られました。やりとりがあったのはオランダのヘリット・イミンク教授、ファン・ルーラーの三女ベテッケ・ファン・ルーラー教授、J. M. ファント・クルイス博士、H. オーステンブリンク・エヴァース博士。アメリカのポール・ロイ・フリーズ教授、アラン・ジャンセン博士。ナミビアのクリスト・ロムバルド教授。そして南アフリカのガース・ホドネット博士です。

研究会の最盛期には、以下のセミナーを開きました。

2001年 9 月 3 日(月)        第 1 回セミナー(日本キリスト改革派園田教会)
2002年 9 月 2 日(月)・ 3 日(火) 第 2 回セミナー(熱海網代オーナーズビラ)
2003年 9 月 1 日(月)        第 3 回セミナー(日本キリスト改革派東京恩寵教会)
2004年 8 月23日(月)・24日(火)  第 4 回セミナー(母の家ベテル)
2007年 9 月10日(月)・11日(火)  第 5 回セミナー(日本基督教団頌栄教会)
2014年10月27日(月)         最終セミナー  (日本基督教団頌栄教会)

インターネットによって他の学会との関係も生まれました。世話人の田上雅徳氏の紹介でアジア・カルヴァン学会の野村信氏や久米あつみ氏がメーリングリストに参加してくださり、私と弓矢健児氏が同学会の運営委員会に加わることになりました。

ファン・ルーラー生誕100年を記念して2008年12月10日にアムステルダム自由大学で開催された「国際ファン・ルーラー学会」の準備委員会から私の名前と住所宛に招待状が届きました。私は日本から、またすでにオランダ留学を開始していた石原知弘氏と青木義紀氏が出席しました。国際学会のメイン講師はユルゲン・モルトマン教授でした。参加者の主な国籍はオランダ、ドイツ、アメリカ、南アフリカ、そして日本。私はモルトマンを含む200名の神学者の前で英語のスピーチをしました。

国際ファン・ルーラー学会(2008年12月10日、アムステルダム)でスピーチ


限界

しかし、「ファン・ルーラー研究会」は、メーリングリストでした。メンバーが増加するにつれて、次第にインターネット特有のトラブルが増加し、活動の限界を痛感するようになりました。

トラブルの発端は、ほとんどの場合、私の投稿でした。私との面識がない方が増えてくるにつれ、メンバーが所属する教派・教団の立場の違いなども関係して、顔の表情が見えず感情の伝わりにくいメールの活字のやりとりの中で、私のほうに悪意は全くありませんでしたが、激突が起こりました。そのたびに退会する方がおられ、私のトラウマになりました。

また、ほとんど自覚がないのですが、インターネットの特性上、情報発信者(多くの場合が私)が把握しえない範囲まで情報が拡散していく中で、私のことを「ネットおたく」だ「引きこもり」だとラベルを貼っては「牧師としての本業がおろそかになっている」などと中傷している人々がいることを知らされるたびに、落胆しました。

やがて世話人たちの本業が移動時期を迎えました。研究会結成5周年の2004年4月に、私は山梨県の教会から千葉県の教会へと移動しました。その後も、清弘牧師は大阪から東京へ、牧田教授は神学校長を退任され高知へ、石原牧師は神戸からオランダへ、田上雅徳長老はオランダへ移動しました。中心的なメンバーが多忙になり、結成11周年の2010年頃にはメーリングリストのやりとりが完全に途絶えました。

それでも私は、研究会の不振の原因は「メーリングリストの機能上の欠陥」にあるととらえ、別の方法を考えようとしました。インターネットのやりとりはすべてやめて、メンバーから会費を集めて年一回の例会を行うか。あるいは、インターネットにとどまるとしても、メーリングリストではなく、ソーシャルネットワークサービス(ミクシイやフェイスブックなど)で行うか。いろいろ考えました。しかし、どの方法もうまく行かないことを察知し、断念しました。

そして今日の「最終セミナー」をもって研究会を解散することにしました。メーリングリストから出発した「インターネットグループ」としての歩みは、今日で終わります。

展望

しかし私の心の中に後ろ向きの思いはありません。ファン・ルーラー研究会は今日で解散しますが、各個人に力がついてきたことの証しです。これからは各自の責任でファン・ルーラーの翻訳と研究を続行します。初めから言っている我々の最終目標は日本語版『ファン・ルーラー著作集』の刊行です。我々は後退するのではなく、前進します。そのことを神の前で誓おうではありませんか。

これから我々は何をすべきか、また「何をしてはいけないか」については研究会の15年半の歩みの中に多くのヒントがあります。上記の回顧はヒントを見つけるために書きました。

15年半前はほとんどなかった「日本語で読めるファン・ルーラー研究文献」が増えました。2007年にオランダで新訂版『ファン・ルーラー著作集』(Verzameld Werk)の刊行が始まったことでファン・ルーラー研究熱が再燃しています。石原知弘先生がアペルドールン神学大学での5年間の留学を終了し、2013年に帰国しました。

「日本におけるファン・ルーラー研究」は、これからが本番です。

(2014年10月27日、ファン・ルーラー研究会最終セミナー、日本基督教団頌栄教会)

2013年3月11日月曜日

ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義(2013年)

(左から 田上雅徳 芳賀力 野村信 関口康)
関口 康



事前に芳賀力先生と野村信先生の講演レジュメを読ませていただく機会を得た。何を語るべきか考えあぐねていたが、ようやく心が定まった。

カルヴァンの学会でファン・ルーラーの神学についての研究発表をすることは「欄外注」以上ではありえない。問題は、カルヴァン学会の関心とファン・ルーラーの神学の接合点はどこにあるのかということであった。

しかし、芳賀先生は「カルヴァンの中にあった被造世界の肯定という萌芽はやがて一般恩恵論という形で大規模に開花することになる」という重要な命題を提示してくださった。そして一般恩恵論の弱点を克服する鍵は「三位一体論的創造理解」にあることを示唆してくださった。

また、野村信先生は、被造世界についてカルヴァンが、必ずしも明瞭に神の栄光を見ることはできないが、それをおぼろげには映していると見ていたことを「カルヴァンの自然神学」という言葉で表現してくださった。そしてカルヴァンが被造世界を「神の栄光の劇場」(theatrum gloriae Dei)として肯定的に見ていたことを紹介してくださった。

これらの問題についてファン・ルーラーはどのように考えていたのだろうか。この問いに光を当てることで「欄外注」の務めに仕えることにした。そのうえで表題に掲げたとおり、ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義を明らかにしてみたい。

Ⅰ 一般恩恵論の問題

一般恩恵論、とくにカイパーのそれに対しては、ファン・ルーラーの見解は明確に提示されている[1]。ファン・ルーラーは1939年に『カイパーのキリスト教文化の理念』[2]を著した。これは、ファン・ルーラーがユトレヒト大学神学部教授になる前に出版した彼の学界デビュー作である。その内容はカイパーの『一般恩恵論』(De gemeene gratie)に対する痛烈な批判であった。こうして彼はカイパー批判者として広く知られるようになった。彼の問題意識は終生失われなかった。

ファン・ルーラーはカイパーの一般恩恵論の背景である彼の特別恩恵論に注目する。カイパーにとって特別恩恵とは、個人的に与えられる、直接的な「再生」(wedergeboorte)の恵みである。しかも、再生とは「人間の最も内なるものの転換」であり、信仰者の魂における永遠の命に関係し、原理的に時間的なるものの外部にある。したがって、現在という時においては、特別恩恵は「魂のより内的な、また霊的な、そして神秘的な生」として引きこもった位置にある。

カイパーのスピリテュアリスティッシュな特別恩恵理解は、彼の思想に必然的に二元論的傾向をもたらすことになった。なぜなら、特別恩恵は個人的で霊的で神秘的なものであるが、文化は個人的なものではありえず、共同的な性格を持つからである。文化は内面的なものだけではありえず、常に外面的なものに関係する。神秘主義と文化は相容れない関係にある。

したがって、カイパーの一般恩恵論にとっては、文化の評価は結果であっても動機ではない。カイパーの関心は、生の全領域において「キリスト教的な」(Christelijke)活動を展開することにあった。それを可能にするためにスピリテュアリスティッシュな内容を持つ特別恩恵が時間的世界と関係を持つ一般恩恵を必然化した。特別恩恵が現世に姿を現わす場と領域を、一般恩恵が提供する。一般恩恵とは、特別恩恵と現世の生との靱帯であり、特別恩恵と文化をつなぐ媒体(medium)である。

カイパーによると、一般恩恵には二つの目的がある。第一は「結合点」(aanknopingspunt)を提供することであり、第二は「始原的な創造の諸力」(de oorsprokelijke scheppingspotenties)を発展させることである。しかし、この第二の目的が十分に果たされるためには特別恩恵が必要である。

このようにカイパーは一般恩恵の二つの目的を示すことによって、一般恩恵と特別恩恵とを緊密に結合させた。しかし、実際に機能するところではカイパーの恩恵論はたびたび二元論的であり、結果的には一般恩恵の独り歩きに至る、とファン・ルーラーは批判する。

カイパーの一般恩恵論の問題点は、彼が教会と文化の関係をどのようにとらえたかを見れば、よく分かる。ファン・ルーラーによると、カイパーにとって制度としての教会は特別恩恵の領域なので、教会自体の中に文化が築かれることはない。文化形成のためには別の素材が必要になるのであり、その素材は教会の外なる世界としての一般恩恵の領域に存在する。

しかも、その素材がキリスト教的な文化になるためには特別恩恵を必要とする。キリスト教信仰の灯が制度としての教会の中に光り輝き、その光が窓から教会の外の世界に遠く達し、人々の生活の諸関連に影響を及ぼす。また、教会員の一般恩恵の世界での存在と活動が影響を及ぼす。そして、その影響は主の民が社会に与える「きよめ」としての倫理的意味を持っている。

しかし、そうなると、特別恩恵の一般恩恵への影響、すなわち教会が文化に与える影響の結果そのものは特別恩恵なのかそれとも一般恩恵なのかは、どのように説明できるのだろうか。この問いかけに対してカイパーは「二種類のキリスト教文化」を語らざるをえなくなる。

第一は、特別恩恵によって強化され、推進され、特別恩恵の影響のもとで全き発展に至る一般恩恵による文化である。これは広義のキリスト教文化である。第二は、一般恩恵からではなく、特別恩恵から生み出される文化であり、「再生の文化」(een cultuur der wedergeboorte)である。これは狭義のキリスト教文化である。

そしてカイパーは、特別恩恵と一般恩恵の関係とのかかわりで、世界を四つの領域に分ける。第一の領域は、特別恩恵の影響が存在しない一般恩恵の領域である。

第二の領域は、特別恩恵からだけ姿をあらわす制度的教会の領域である。

第三の領域は、特別恩恵の灯によって光を当てられる一般恩恵の領域である。

第四の領域は、一般恩恵によってもたらされたものが用いられる特別恩恵の領域である。

この四つの中の第三の領域が広義のキリスト教文化であり、第四の領域の文化は「集中化したキリスト教文化」(de geconcentreerde-christelijke cultuur)である。これは「有機体としての教会」(de kerk als organisme)が可見的に顕在する領域であり、イエスはキリストであると告白する者たちが固有な領域で啓示の原理によって一般恩恵の生を支配する領域を意味する。

そして、カイパーは狭義と広義の二種類のキリスト教文化の関係を二つの同心円で理解する。内円は集中化したキリスト教文化としての「再生の文化としてのキリスト教文化」であり、外円は一般的なキリスト教文化としての「一般恩恵の発展としてのキリスト教文化」である。

狭義の集中化したキリスト教文化の活動は、広義の一般的キリスト教文化のために必要とされる。この意味でカイパーによるアムステルダム自由大学の設立目的は、ヨーロッパ・アメリカという文化世界の再キリスト教化の中心であり、中核であり、起点を作ることにあった。

しかしファン・ルーラーにとっては、このカイパーの「二種類のキリスト教文化」という理念が問題であった。カイパーにおいては、一方では、特別恩恵の十分に発展することの目的は一般恩恵のキリスト教化にあるとされ、他方では、特別恩恵が十分に発展するために特別恩恵が必要であると考えられている。もしそうであるならば、二種類の間の質的差異は原理的に存在しないとファン・ルーラーは考えた。

広義のキリスト教文化と狭義のキリスト教文化との間に「対立」(antithese)は原理的に存在しない。特別恩恵の一般恩恵に対する働きの意義は一般恩恵の発展における倫理的・信仰的堕落を矯正することにあるというにすぎない。

アムステルダム自由大学が必要とされたのは、不信仰な諸大学の営みによって倫理的・信仰的な点で世論やキリスト教的諸活動までも致命的な影響を受けてしまわないようにするためという点にあった。つまり倫理的・信仰的な堕落の矯正という役割である。

しかし、この意味でのキリスト教文化は非常に狭い場所で特別恩恵であることを求めることになる。矯正という点からは、なんら固有の文化は成立しえないからである。

アムステルダム自由大学の存在意義は矯正だけにあるのではなく、キリスト者としての彼らの学問的営為を護るという実際的な必要性があったと言える。さらに「信仰的確信のプロパガンダの手段」でもあった。それによって一般恩恵の世界に対して影響力を行使する。

しかし、その場合でも結局問われることは「集中化したキリスト教文化」とは何を意味するのかという点にある。それは「文化」(cultuur)なのかそれとも「伝道」(zending)なのかという問いが残る。ファン・ルーラーは、これらの議論を経て、「アムステルダム自由大学は、孤立したキリスト教的ゲットーで秘教学(esoterische wetenschap)を営む学府になり終わる」と結論づける。

ファン・ルーラーの問題意識は、カイパーのスピリテュアリスティッシュな特別恩恵理解が、キリスト教文化の問題に関して、結果的に二元論的構造をもたらすことになるという点にある。この二元論的構造が一方で教会を宗教的ゲットーに押しこみ、他方でこの世界はそれ自体で自立した世界であるとみなすことになる。それがこの世界を世俗化に導くことになる[3]。

ファン・ルーラーは一般恩恵と特別恩恵を区別しない。特別恩恵が直接的に、文化が営まれる生のすべての現実にかかわることになる。それを彼は「セオクラシー」(theocratie)と呼ぶ[4]。

牧田吉和先生によると、「特殊」から「一般」に向かう点で、ファン・ルーラーは、カール・バルトの神学的道筋の上にある。

Ⅱ 三位一体論的神学

しかし、ファン・ルーラーはカール・バルトの神学を克服することに人生をかけた人である[5]。彼はバルトの著書を徹底的に読み、心酔することから自らの神学を始めた。「私は純血のバルト主義者(spur sang Bartiaan)として出発した」[6]と述べたことがある。

しかしその後、バルトを批判しはじめた。「三位一体論的神学」とはファン・ルーラー自身が用いた表現である。その最も中心的な意図は、カール・バルトの「キリスト論的集中の神学」への批判であった。ファン・ルーラーによると、バルトの神学は「キリスト一元論」(christomonisme)である。

ファン・ルーラーの「三位一体論的神学」の根本命題は「正しく考えられた三位一体論的思考様式の内部に二重の運動がある」[7]というものである。「二重の運動」とは、複数の異なる神学的諸視点を「互いに引き寄せ合う」(op-elkaar-betrekken)運動と「互いに引き離し合う」(uit- elkaar-houden)運動である。「三位一体の教義はこの二重の運動を神学的につなぎあわせる方法によって我々の思考を鍛えてくれる」[8]と彼は述べている。

この二重の運動は内在的三位一体(immanent triniteit)の思考様式の中にもあるし、経綸的三位一体(economische triniteit)の思考様式の中にもある。内在的三位一体の教説の根本命題は、「三位一体の神の内なるみわざは区別される」(opera Dei trinitatis ad intra sunt divisa)である。

父なる神と子なる神と聖霊なる神は、ひとりの神の内部で互いに引き寄せ合い、永遠に交流している。それが「神的位格の相互交流」(communio personarum divinarum)である。しかし、この教説を保持するためには、神的位格の区別性(distinctio personarum divinarum)を確保する必要がある。

三つの位格は、互いに区別されているからこそ、互いに交流することができる。三つの位格の区別性は「論理的な(logische)区別以上」のものである。それは「本体論的な(ontologische)区別」であり、「神的・本体論的(goddelijk-ontlogische)な区別」である。

父なる神は、子なる神ではないし、聖霊なる神でもない。父なる神のみわざは「子を産み、聖霊を発出すること」である。しかし、子なる神に「子を産むこと」は不可能である。子なる神のみわざについては、主語と述語を入れ替えて(換位して)「父から産まれること」と言わなければならない。そして子なる神もまた「聖霊を発出する」。聖霊なる神のみわざは「父と子から発出されること」である。

このように、父なる神の視点と子なる神の視点と聖霊なる神の視点は区別されなければならない。そして異なる各視点は「思考の技法」(denktecnische)としてではなく、最も根源的な次元において引き寄せ合っている。

経綸的三位一体の教説を支える根本命題は、「三位一体の神の外なるみわざは区別されない(opera Dei trinitatis ad extra sunt indivisa)である。経綸的三位一体とは、神の外なるみわざとしての創造(creatio)・贖い(redemptio)・聖化と完成(sanctificatio et perfectio)の関係を扱う教説である。ファン・ルーラーは次のように述べている。

「神のみわざは、父・子・聖霊のいずれかひとつの位格(persona, zijnswijze)だけで行われるのではなく、三つの位格がそれぞれの役割を分担する仕方で、三位一体的に行われる。それゆえ我々は、神の外なるみわざ(創造・贖い・聖化と完成)の一つ一つを、父なる神の視点からも、子なる神の視点からも、聖霊なる神の視点からも見つめなければならない。それによって、互いに引き寄せ合う運動と互いに引き離し合う運動という二重の運動を、相互関係的に形成していかなければならない」[9]。

ハイデルベルク信仰問答の問24とその答えを見ると、「父なる神」と「創造」の関係、「子なる神」と「贖い」の関係、「聖霊なる神」と「聖化」の関係が見える[10]。これで3本の線を引くことができる。しかし、ファン・ルーラーの理解に立てば、線はもっと多く引かなくてはならない。

内在的三位一体の三つの位格(父・子・聖霊)と経綸的三位一体(創造・贖い・聖化と完成)の三つのみわざを掛ければ(3x3)、線は9本である。創造のみわざは父なる神の視点からだけではなく、子なる神の視点からも、聖霊なる神の視点からも見つめなくてはならないからである。

贖いのみわざは、子なる神の視点からだけではなく、父なる神の視点からも、聖霊なる神の視点からも見つめなくてはならない。聖化(と完成)のみわざは聖霊なる神の視点からだけではなく、父なる神の視点からも、子なる神の視点からも見つめなくてはならない。

しかし、引くべき線はまだある。「聖化」と「完成(または終末)」を区別して、三つの位格と4つのみわざを掛ければ(3x4)、線は12本になる。また、三つの位格どうしの関係や三つもしくは4つの経綸どうしの関係も加わる。「父なる神」と「子なる神」の関係、「父なる神」と「聖霊なる神」の関係、「子なる神」と「聖霊なる神」の関係についての議論は、従来の教義学も扱ってきた。これで3本加わる。

しかし、まだある。ファン・ルーラーは「聖化」と「完成」を区別した上で、「創造」と「贖い」の関係、「創造」と「聖化」の関係、「創造」と「完成」の関係、「贖い」と「聖化」の関係、「贖い」と「完成」の関係、「聖化」と「完成」の関係についてそれぞれ興味深い命題を提示している。これでさらに線は6本加わる。以上で21本の線が見えてくる。

しかも、それら21本の線(まだあるかもしれない)は、どれも静止していない。すべての線は、一つの視点と他の視点との「互いに引き寄せ合う運動」と「互いに引き離し合う運動」との両面を持っているので、各線上にあって我々の思考は、主語と述語を入れ替えながら不断の往復運動を続けている。このように、「神の内部の運動」(beweging in God)[11]を徹底的に考え抜くことが「三位一体論的神学」の本質である。

ファン・ルーラーは、その神学の完成形を「全面的に展開された三位一体論的神学」(een ten volle ontwikkelde trinitarische theologie)[12]と呼ぶ。

このような構造を持つ神学は、最終的にはあらゆる問題を「子なる神」と「贖い」との関連へと集中させていく「キリスト論的集中の神学」が見落としてしまう問題に目を向けることになる。「父なる神」と「創造」の問題が視野にあるかぎり、そして「聖化と完成」の問題が三位一体論的・聖霊論的にとらえられているかぎり、教会の外なる世界の問題、存在の問題、自然の問題、科学の問題、一般の問題、社会の問題、政治の問題、文化の問題が必ず神学の課題になる。

特に、キリスト論から(相対的に)自立した聖霊論が、創造の問題(私の存在の根拠は何かを問うこと)と贖いの問題(私の救いの根拠は何かを問うこと)を統合する鍵となる。

Ⅲ 創造論の意義

このようなファン・ルーラーの神学思想において「創造論」はどのような意義を持っていたのだろうか。

彼は一巻の組織神学や教義学を遺さなかった。神学体系の一章としての「創造論」(De creatione)が見当たらない。そのため、彼が遺した無数の論文や説教の中から彼の未刊の教義学を構成することになったであろう素材を拾い上げていくしかない。

しかし、この関連で最も重要な論文の一つが、1960年に発表された「地上の生の評価」[13]であることは確実である。

その冒頭でファン・ルーラーは「地上の生」を構成する七つの要素について説明する。第一は物質性、第二は身体性、第三は個別性、第四はセクシュアリティ、第五は時間性、第六は共同性、第七は歴史性である。これらの構成要素を持つ「地上の生」を我々はどのように評価しうるのかを、彼は問うている。

次に、評価の可能性を八つ挙げている。

第一は「地上の生は存在しない(実体がない)」(色即是空)という評価である。

第二は「それは悪しき仮象であり、幻想である」という評価である。

第三は「それは悪くはないが、ヴェール(被膜)であり、真の存在の上に覆い広げられている」という評価である。

第四は「地上の生とは真実で永遠の存在のイメージ(像)であり、影であり、反映であると理解する」評価である。

ファン・ルーラーによると、それは「我々自身は真実な存在に対して背を向けて立っているが、その我々が地上の生という鏡のなかに不完全で漠然としたイメージを見る」というような評価の仕方である。それは地上の生を「段階的手段」としてとらえることでもある。

第五は「地上の生とは刑罰である」というオリゲネスの評価である。

第六は「地上の生は浄化である」という評価である。

そして第七の評価は「地上の生とは通過点であり、表面的なものであり、目標に至るための単なる手段に過ぎない。それは訓練であり、序章であり、準備である」というイレナエウスの評価である。

この評価は「我々にとって馴染み深いもの」であると彼は述べる。それは、地上の生を「暫定的な何かとして見ること」である。そのような神学体系と生活感覚が「キリスト教の路線を長きにわたって決定づけてきた」と彼は指摘する。

第八の可能性は「地上の生は本質的かつ唯一のものである」という評価である。

人生は一度であり、かつ不可解なものであり続ける。私は人生を考えつくすことはできないし、生き尽すこともできない。「私はそれをただ生きることができるだけだ」。ファン・ルーラー自身はこの立場に立っている。

彼はこのことをキリスト教信仰に基づいて語ることを試みる。地上の生は本質的で唯一のものであると語るためのキリスト教的根拠として、六つの点を挙げている。

その第一から第三までが創造論に関する教説である。厳密にいえば第一は三位一体論に関することであり、第三は予定論に関することであるが、広義の創造論の枠組みの中でとらえることもできる。第四はキリスト教的歴史哲学であり、第五はキリスト論であり、第六は終末論である。

彼が挙げている第一の根拠は、可視的・可触的な現実としての地上の生は「不必要であるが、善きものである(niet noodzakelijk, maar wel goed is)」という教説である。

これは善き創造(erant valde bona)の教理と呼ばれる。ファン・ルーラーによると、キリスト教信仰の範囲内では厳密な意味での世界の存在の必要性(noodzakelijkheid)を主張することはできない。「神は御自身の愛の対象として世界を必要とされている」という思想は、三位一体の教義によって行く手を遮られている。父と子と聖霊は御自身において最も完璧な愛の交わりであるゆえに、世界を必要とされるわけではないからである。

そしてファン・ルーラーにとって「世界は不必要である」と語ることは愉快なことである。「なぜならそれは、我々は存在しないこともありうるということを意味するからである。宇宙と世界史には不足もありうるのだ」[14]。

しかし、世界は不必要であるにもかかわらず、無ではなく、存在している。その理由は何か。そこに神の喜びに満ちた御心(het welbehagen van God)がある。神は自分の喜びのために世界を創造したのだ。

第二の根拠は、この世界自体はなんら神的なものではないということである。

また同時に世界そのものの本質が悪魔的であるわけでもない。創造者と被造物の区別性が明確に保持されているところでは、この主張の正当性は明白である。被造物は、創造者なる神の本質の放射でも流出でもない。すべての存在は、無から有へと呼び出された。これは無からの創造(creatio ex nihilo)の教理と呼ばれる。

人間は天から舞い降りたものではなく、別次元から出現したものでもなく、神の本質の流出や派生でもなく、あくまでも地に属するものである。我々は、神によって地から採られたものである。

第三の根拠は、世界と人類の存在は、地上の生において十分に現実的な存在であるということである。

我々は創造者なる神によって造られた被造物として、十分に真実な存在であり、その意味で「本物」である。神は影絵遊びをしておられるわけではない。

色即是空、仮象、ヴェール、イメージなど。それらの概念は「キリスト教的生活感覚の中に一瞬たりとも入りこむ余地はない」とファン・ルーラーは主張する。「キリスト者とは、いわばマテリアリストである。神が創造した世界の物質性をそのすべての個別性と共に真剣に受けとめることにおいて、我々は唯物論者なのである」[15]。

次のようにも述べている。

「キリスト教は存在の本質や、キリスト教の構造の中にもしかしたら輝いているかもしれない永遠の合理性などに決して満足することはなかった。キリスト教は常に実存に魅了されてきた。実存主義などが現れるずっと以前から、キリスト教は、実存において、存在する物事の現実の事柄において根本的な合理性が見いだされることはありえないと、公然と語って来た。存在の不条理を嘆くからといって我々が未熟であるということにはならない。存在の不条理などは、神の御心の中にいくらでも見つかる。それらの問題のすべては予定論の教義に集約される」[16]。

評価

このような創造論に立つファン・ルーラーの神学思想は、我々にとてどのような意義があるだろうか。さまざまな評価を下すことができるだろう。

牧田吉和先生はファン・ルーラーの神学の中にアブラハム・カイパーや他のオランダ改革派神学の伝統を継承する人々との共通点を見出す。それは「グノーシス的・アナバプティスト的二元論の克服」という特色である[17]。

この牧田先生の評価に対して私は特に異存があるわけではない。そのとおりだと思っている。しかしまた、もう少し我々自身の現実、日本の教会の現実に引き寄せて考えてみるのも悪くないだろう。

ファン・ルーラーの「地上の生の評価」は私にとっては思い出深い論文である。これは1999年2月に結成したファン・ルーラー研究会のメーリングリストで、清弘剛生先生と私の二人で最初に訳読したものである。当時私は33歳になったばかりであった。オランダ語の辞書と首っ引きで読んだファン・ルーラーの言葉の一つ一つに驚き、興奮し、感動した。

しかし、ちょっと待て。なぜ私はファン・ルーラーの言葉に驚き、興奮し、感動したのだろうか。当時33歳の私は、33年間、教会に通い続けた。両親が信徒の家庭に生まれ、高校卒業直後に東京神学大学に進学し、25歳で日本基督教団の教師になり、その後、日本キリスト改革派教会に加入し、神戸改革派神学校を卒業し、1999年2月には山梨県の日本キリスト改革派教会の牧師だった。

その私がファン・ルーラーの言葉に驚いた。その日そのときまで聞いたことも読んだこともなかったような新鮮で解放的な言葉を目の当たりにしたからだった。

それでは、いったい私は、その日そのときまで、何を学び、何を聞いてきたのだろうか。私は日本の教会を悪く言うようなことを、なるべくしたくない。しかし、黙っているわけにいかないこともある。

聞けば聞くほど自分の命の力を刈り取られていくのが分かるような説教やキリスト教的言説を耳にすることがある。「救いの喜び」や「天国の喜び」を強調する勢いで、人間的なるもの(humanum)をあまりにも否定的に語りすぎることや、地上の生をあまりにも暫定的なものとして語りすぎることが、人を絶望に追いやることがある。“敬虔な”言葉であればあるほど、人の心を傷つけることがある。

それはレトリックや話法の問題だろうか。説教分析のような方法で改善しうることだろうか。私にはそのように思えなかった。

だからファン・ルーラーを読み続けることにした。「キリスト論的集中の神学」の上位互換(backward compatibility)としての「全面的に展開された三位一体論的神学」が日本の教会に広く知られる日を待ち望むようになった。

アメリカ改革派教会の教師であり、ファン・ルーラー研究者であるアラン・ジャンセン博士が同教会の機関紙『パースペクティヴ』に、「改革派神学の多くの部分にバルト主義の支配力が残存しているかぎり、ファン・ルーラーの声が聞かれる必要がある」[18]と書いている。「改革派神学の」を「日本の神学の」に置き換えると、ちょうど私の意見になる。それはいつまで続くのだろうか。

(アジアカルヴァン学会・日本カルヴァン研究会合同講演会、於 立教大学、2013年3月11日)



[1] 牧田吉和「A.ファン・ルーラーの神学的文化論の中心点――文化論におけるカイパー批判に関連して――」『改革派神学』第29号(神戸改革派神学校、2002年)、3~27ページ。本研究の「Ⅰ」の論述に関しては、多くの部分を牧田先生のこの論文に負っている。

[2] A. A. van Ruler, Kuypers idee eener christelijke cultuur, Nummer 12 en 13 uit serie “Onze Tijd” onder redactir van ds. J. P. van Bruggen, dr. J. Eijkman en dr. K. H. Miskotte, G. F. Callenbach N. V. – Nijkerk, 1939.

[3] 牧田吉和、前掲書、12ページ。

[4] ファン・ルーラーは「セオクラシー」を次のように定義している。「セオクラシーとはキリストと福音と神の言葉に基づく国民生活の秩序であり形態である。セオクラシー、より厳密にいえばプロテスタント的セオクラシー(reformatorischen Theokratie)においては、聖書が国家の霊的土台である。その意味は、我々が聖書に基づくセオクラティックな国家論を生み出すことではないし、そのような政治綱領を生み出すことですらない。しかしそれは、なるほどたしかに我々が統治機構全体(立法・行政・司法)の中で仕事と社会と人生を聖書の存在理解に基づいて理解することを意味している」(A. A. van Ruler, Gestaltung Christi in der Welt, über das Verhältnis von Kirche und Kultuur. Bekennen uns Bekenntnis, Anregungen aus ökumenischen Gesprek, Heft 3, Verlag der Buchhandlung des Erziehungsvereins, Neukirchen Kr. Moers, 1956, S. 24.)

[5] ファン・ルーラーとカール・バルトの神学の関係については、ディルク・ファン・ケウレンの下記の論文(拙訳)を参照していただきたい。ファン・ケウレン「『主人の声』から敬意を込めた批判へ(上・下)」関口康訳、『季刊 教会』日本基督教団改革長老教会協議会、第79号(2010年夏季号)、58~64ページ、第81号(2010年冬季号)、31~38ページ。

[6] A. A. van Ruler, ‘Kritisch commentaar op de K. D.’, in: Van Ruler Archief, inventarisnummer I, 684, 1. ファン・ルーラーのこの文書は現時点では未公開であるが、新訂版『ファン・ルーラー著作集』(Verzameld Werk)第7巻(未刊)に収録予定。1965年から1967年まで、という日付がある。

[7] A. A. van Ruler, ‘De noodzakelijkheid van een trinitarische theologie (1956)’, in: Verzameld Werk 1, Boekencentrum, 2007, p. 262. “een echt trinitarische denkwijze gekenmerkt zal zijn door twee bewegingen.”

[8] Ibid.

[9] Ibid.

[10] 『ハイデルベルク信仰問答』吉田隆訳、新教新書252、新教出版社、25~26ページ。

[11] 「神は、御自身において、その本質において運動である」(Hij is in zichzelf, in zijn wezen beweging.)という名言もある。Vgl. A. A. van Ruler, ‘De leer van de drie-eenheid (1956)’, in: Verzameld Werk, deel 3, Boekencentrum, 2009, p. 69.

[12] A. A. van Ruler, Ibid.

[13] A. A. van Ruler, ‘De waardering van het aardse leven (1957-1960)’, in: Verzameld Werk deel 3, Uitgeverij Boekencentrum, Zoetermeer, p. 406-424.

[14] Ibid. p. 411.

[15] Ibid.

[16] Ibid.

[17] 牧田吉和、前掲書、24ページ。これ以外にも次の論文において同様の主張をしている。
牧田吉和「終末と事物性――A. ファン・ルーラーの終末論の一つの神学的意図――」
『改革派神学』第30号特別号、2003年、3~27ページ。
牧田吉和「ファン・ルーラーにおける三位一体論的・終末論的神の国神学と聖霊論」
『改革派神学』第32号、2005年、3~31ページ。

[18] Allan Janssen, ‘Joyful Theology’, Perspectives, The Journal of Reformed Thought, Reformed Church in America, December 2009. Internet Version.
(http://www.rca.org/page.aspx?pid=6184)

2012年6月19日火曜日

カール・バルトにおける根拠(ratio)の問題(1990年)

関口 康 (東京神学大学大学院2年)



今日なお存続するキリスト教文化圏における保守勢力にとって、いわゆるコルプス・クリスチアヌムの伝統とは、たとえそれが歴史的崩壊の危機に晒されているとしても、なお継続されるべきキリスト教形成の歴史経験的規範である。事情がそうであるならば、「なぜわれわれはキリスト者であって、そうでないものではないのか」というキリスト教的実存の「根拠」(ratio)をめぐる議論のなかにも、歴史経験の契機としての「伝統」に関する何らかの価値評価が位置を持たざるを得なくなるであろう。

しかし、そのような価値評価に対して、神学者カール・バルトは、自らの神学的根本態度を「伝統否定」というラディカリズムの上に措いた。バルトの関心事は、コルプス・クリスチアヌムの崩壊という現実をラディカルに対象化し、それに対して究極的終末論的に神学的態度決定を下すことであった。大木教授の表現をお借りすれば、「バルトの思想は、可視的・不可視的に今日に至るまで存続しているコルプス・クリスチアヌムを最後決定的に破壊するという革命的な本質と迫力とをもっており、そこに何よりもバルトの思想史的位置の鮮烈さがあると言わねばならない」。

そのようなバルトの根本態度の全貌は、主著『教会教義学』において明らかにされるが、彼のラディカリズムの最たる表現はその最終巻、第四巻和解論の「召命論」において、次のような表現としてあらわれている。「キリスト教的に規定された一個の伝統の中から生まれ担いでいかなければならない一個のキリスト教的実存という表象の前提は、実は一度も存在しなかった。そしてそのような前提は(それと共にそのような表象も)今日不可能なもの(unmöglich)になっている」。すなわち、端的に言って、これは「伝統否定」の論理である。

われわれはまずここで、バルトのラディカリズムを鮮明化することが肝要である。そこで引き合いにだすべきは、コルプス・クリスチアヌムの崩壊という対象と生涯真剣に取り組んだもう一人の神学者、エルンスト・トレルチの根本態度である。トレルチは第一次大戦後の1922年、ベルリン大学教授時代に、主著『歴史主義とその諸問題』を著したが、そのなかでヨーロッパの文化的伝統の崩壊とその「野蛮化」について嘆くのである。しかしわれわれはトレルチのなかに明らかにバルトとは異なる、よりリアリスティックな響きを聴き取ることができるであろう。

「野蛮化は古くなってしまった文化の痛ましい終焉、それも限りなく長びく終焉であって、力強さと新鮮さに向かう喜ばしき解放ではない。われわれはいまとなっては、われわれの荷物をさらに先へと担っていかざるを得ない。われわれはこの荷物を整理したり、別の肩に背負ったりすることはできる。しかしこの荷物の中にわれわれのすべての持ち物と生きていくための一切の道具とがあるので、われわれはこれを単純に投げ棄てることはできない」。

トレルチの学問的前提は、確かにコルプス・クリスチアヌムの存続ではなかった。しかしながら、トレルチにとってキリスト教的文化の「伝統継承」は不可避であり当為であって、バルトのような仕方で「不可能」として止揚されたりすることはあり得なかったのである。

バルトの「伝統否定」論の究極的表現は、いうまでもなくかの幼児洗礼否定論ならびに洗礼のサクラメント性の否定についての倫理学的問題提起である。1943年の『教会の洗礼論』においてバルトは、宗教改革者による幼児洗礼擁護論の根幹に、中世的なコルプス・クリスチアヌムの伝統継承という仕掛が隠されていることを以下のように指摘している。「人々は当時、どのような場合、またどのような犠牲を払ってでも、コンスタンティヌス以来のコルプス・クリスチアヌムにおける福音主義教会の存在を断念したくなかったのであり……現在の国民教会(Volkskirche)の形態を放棄したがらなかった」。「もしも教会が幼児洗礼と訣別すべきだとしたら、教会はもはや容易に……国教会にはなり得ないであろう。ココニ、ココニ、ソノ悲哀ガアル!」。

われわれは、こうしたバルトの「伝統否定」論の秘密が彼の召命論の中に典型的に表現されているものと考える。「伝統」を否定した上で彼は何をもってキリスト教的実存の「根拠」を考え得たのであろうか。その模索の杣径を探ることによって、われわれはバルト神学における、ある大きなアポリアと出会うことになるであろう。つまりそれは「伝統」概念の対極に措かれるものとして唯一考えられるところの永遠、すなわち無時間性の世界についての表象であり、宗教的ないし神学的な最高表現としての神秘主義の問題なのである。

Ⅰ 召命論の基礎構造

われわれはまず、バルトの提示する召命に関する次のテーゼの特質を分析することからはじめなければならない。バルトの召命論の構造を示すことは、彼の図式主義的傾向からして、ある程度単純化することができる。「召命とは、神の恵みの業と啓示によって定められ支配された人間の時間の中での、活ける神の特別な行為である。……それはイエス・キリストの行為である」。

バルトにおけるBerufungとしての召命とは、特に彼の神論における「行為における神の存在」(Gottes Sein in der Tat)というテーゼにあらわれている神の存在の行為主義に基づく用語法であり、召命とは、神による「召す行為」として捉えられている。そして、バルトはこのテーゼによって、プロテスタンティズムにおける二つの異なった召命論に対する批判を考えている。

その第一は、当時の神学的傾向を支配していた実存主義神学者、ルドルフ・ブルトマンの召命論である。むろんバルトが『教会教義学』第四巻のはしがきに触れている内容からして、そもそも和解論全体がブルトマン批判をめざしていたと断言することもできるであろう。そして、ブルトマン神学の特色であるpro me(わたしのために)的構造は、ドイッチェ・ルタートゥムにおいて継承されているメランヒトンのテーゼ、すなわち「キリストを識ることはキリストの恵み(beneficia christi)を識ることである」の継承であると考えることができるが、バルトによるとこれは「人間中心主義的」または「キリスト者中心主義的」(christianozentrisch)であって、結局は「キリストなし」という全く主観主義的な召命理解を示す結果となるというのである。

バルトが批判する第二の召命論は、改革派正統主義において「救済の秩序」(ordo salutis)の一段階として説明された召命論、すなわち「人間に対してまた人間において行なわれる救済の歴史の様々な活動の、論理的・時間的に区別された継続」という見方、そのなかにのみ位置を持つような召命論である。バルトによると、そのような非歴史的かつ客観主義的な時間区分の方法は「生きたキリスト者なし」の召命論を示すことになるのである。しかし召命とは「すべての人間と同じ時間に生きる方」(Zeitgenosse)の行為としての「時間的な出来事」(zeitliches Ereignis)なのである。

以上のようにバルトは、プロテスタンティズムの伝統的かつ代表的な召命論に満足しない。彼は近代のプロテスタント神学史の全体傾向を鑑みながら、そこでは召命の出来事の孤立化が起こり、その超歴史的前提は排除され、「キリスト者中心主義」の傾向にあったことを指摘する。その神学的系譜は、古くは中世神秘家あるいは宗教改革時代のスピリチュアリステンにさかのぼり、シュライエルマッハーを通ってキルケゴールと結びつく現代の神学的実存主義およびブルトマンにつながるものである。それはイエス・キリストの行為から切り離された「孤立したpro me」を語るものであり、召命の出来事の抽象化であった。つまり、ルター派的pro meは主観主義的な体験主義にして孤立的・抽象的傾向を持ち、またその対極にある改革派正統主義のordo salutisは「召命抜き」の「召命の歴史的および超歴史的前提」を神学的主題にまで高める客観主義であるということができるのである。

ここで注目すべきことは、かつてはエーミル・ブルンナーがバルト神学の客観主義的傾向を批判したが、いまやバルト自ら客観主義の批判者となり、ブルンナー神学の鍵語としての「出会い」(Begegnung)を主張していることである。バルトの行為主義的召命論は、まさに「出会い」をその根本契機としながら、主観主義と客観主義の総合を目指している。そこでは、召命の出来事において「誰が呼び給うのであるのか」ということこそが第一の関心事なのである。

こうしてバルトは、自らの召命論の焦点を、人間の時間=歴史の中にいかにして神の行為=召命が現実化するか、ということに措く。したがって召命論において、人間の時間=歴史についての教説(時間論)と、神の霊的行為=イエス・キリストの霊についての教説(聖霊論)とは構造的関係を持つのである。

Ⅱ 時間論と聖霊論の関係

バルトの召命論は、時間論と聖霊論の関係措定によって展開されるが、それは、まず第一に時間の聖霊論的性格について、第二に聖霊の時間論的性格について、それぞれ論じることによって、双方向からの関係が説明されている。

まずバルトの時間論であるが、彼の否定的伝統理解との関連の下に構成されていると考える時、理解の糸口を見出すことができよう。バルトは時間論を次のように要約する。「元々、時間と歴史は、時間の何か中立的な生の形式ではなく、イエス・キリストにおける神の恵みの御業と啓示によって支配され規定された生の形式である。すべての時間は、潜在的に恵みの時間であり、すべての歴史は、潜在的に救済史である」。

バルトによると、召命の出来事において時間は満たされ、新しい歴史が始まる。しかも「すべての時間と歴史は、それが彼イエス・キリスト御自身の時間と歴史である時に、御霊の約束という形態における彼の来臨(パルーシア)にその意味を持つ時に、まず第一に何よりも、満たされた時間であり、満たされた歴史である」。つまり、御霊の約束という形態をもった来臨(パルーシア)によって満たされた中間時という「霊的な」(geistlich)時間が考えられており、まさにそのことにおいて召命の時間論的契機は聖霊と不可分離の関係を持つのである。

バルトの時間論の特殊な鍵語としての「イエス・キリスト御自身の歴史」の意味は、イエス・キリストが時間の主であること、主イエスの馬小屋から十字架への道は、勝利へと向かう途上性を示している。しかもそれは、和解の出来事(Gott mit uns)によってわれわれの時間との同時性を併せ持つことになる。したがって時間論は、途上性と同時性の二つの性格を持つ。それによって召命論は、目的的・目標論的となり、倫理的特性を示すことになる。

この途上性と同時性との組み合わせは、時間の客観性と主観性との相互関係をめざすが、そもそもバルトの時間論が本質的に救済史的であることは、彼が救済の潜在性ないし召命の予定を指し示すテルトゥリアヌスのテーゼ、「人間の魂は自然的にキリスト教的である」(anima humana naturaliter Christiana)を不用意に持ち込んでいることにあらわれている。

こうして時間の主観・客観構造の均衡関係は崩れ、より主観主義的に傾斜しているといわざるを得ない。とくにバルトが、「イエス・キリスト御自身の歴史」における勝利宣言をもって救済史を基礎づけるとき、人間の救済の途上性は消失する。なぜなら、途上性なき「勝利主義」ないし「宣言主義」は救済のリアリティの喪失を招き、抽象化による自己閉塞の危険に陥るのである。

そのことがよくあらわれているのは、「この出来事(召命の出来事)において起こるプロセス(Vorgang)そのもの」、すなわち召命のプロセス論においてである。「われわれがここで接するのは、決定的・圧倒的に霊的(geistlich)なプロセスであり、それゆえにただgeistlichにだけ認められ、説明され、記述されうるプロセスである」とバルトがいうとき、そこにはキリスト論的な響きよりも聖霊論的な響きのほうが強い。彼は、geistlichを新約聖書のpneumatischとのアナロギアから抽出し、その概念が「(最高度の具体性をもって)、時間的・歴史的プロセスを意味する」と述べることによって聖霊の時間論的性格を説明している。「つまりgeistlichとはgeschichtlichである」。

バルトが時間論と聖霊論とを関係づけることの射程には、第一に、ブルトマンへの批判がある。彼が召命のプロセス論と聖霊論とを関係づけて論じる仕方はブルトマンの方法との相違を先鋭化する。ブルトマンは聖霊の「非神話化」によって召命のプロセス論を論じ、聖霊論を実存論的に改訂する。逆にバルトはpro meを聖霊論において捉える。つまり、神が主体的に働き給うことによって起こる出来事を霊的な歴史とみなすことにおいて、キリストからpro meをとらえることができるようになる。しかし、この展開はきわめて不十分かつ未熟なものと思われ、ブルトマンにおいて精密に展開されているハイデッガー的な実存論に対する説得力を持つ批判とはなり得ないであろう。

また第二に、バルトは、ordo salutisに対する批判を考えている。召命とは「ただひとりのイエス・キリストがそこで行為し働く主体であり給う限り、人間に関しての唯一で全面的な(ein einziges, eintotales)出来事」なのであってordo salutisの出発点でも一段階でもない。むしろわれわれはバルトにおいて、召命のプロセスにおける「変化」に関して、ordo的ではなくpro me的傾向を強く見出すことができる。

こうしてバルトは、召命論においてその時間論的歴史的契機よりも聖霊論的契機に傾斜することによって、時間を止揚する垂直次元からの神の行為としてだけ召命を捉えようとするのである。

Ⅲ 伝統か啓蒙か

さて、次にわれわれは、バルトの召命論の内容構成にしたがって、「人間の身に起こる変化の目標(Telos)」について考察することにしたい。「召命の目標」に関する教説は、『教会教義学』におけるまさに絶頂点を示すものであり、彼の究極的態度決定の表現がここにあると言うことができる。

ここで彼は、「召命の出来事の目標(Telos)」を問うわれわれの問いに対する「正しい」「根本的にきわめて単純な答え」とは、「人間の召命における意図は、人間がキリスト者になること(ein homo christianus werden)」、すなわち「キリスト者の創造」ないし「キリスト者の保持と形成」なのだという極めて単純な帰結を引き出すのである。

キリスト教的実存の「根拠」を召命に措くバルトの見解は、神学的合意事項ではなく、キリスト教的伝統をキリスト教的実存の「根拠」として措くヨーロッパの伝統主義者たちの立場がこれに対立する。すなわち「この命題が提示され主張される時、心をひどく傷つけられるのは、世そのものではなくて、コルプス・クリスチアヌムであり、ヨーロッパの人間である」。

つまりバルトにとってコルプス・クリスチアヌムなるものは、もはや終わってしまっていて、すでに存在しないようなものなのである。そして「近代ヨーロッパ」とは、コンスタンティヌス以来のコルプス・クリスチアヌムを基礎づけてきた「大胆であるが少しも熟していない総合」からくる「軋轢の勃発の時代」、そしてそこにおける「自明理を拒否する時代」、すなわち「キリスト教的実存の独立の時代」(Zeit der Verselbständigung der christlichen Existenz)である。

ここで興味深いことは、バルトが、その時代区分の規準として、カント主義的な「啓蒙」理念を用いていることである。そのことは「キリスト者」という名と「召命」概念との教義学的関係についての詳論のなかにかいま見られる。バルトは「キリスト者」を「特別な仕方でイエス・キリストに属する者」と意義づける。ここで「特別な仕方」とは、実存が「信仰」によって規定されていることを指しており、「イエス・キリストへの信仰の行為的(tätige)知識」によって、やがてすべての人々のものとなるべきキリスト教的実存の形を先取りすることである。それは平たく言えば、よく啓蒙された自由で自覚的で能動的な信仰者である。そして、「キリストへの信従」とは、「人間が屈従させられ蹂躙されることではなく、人間の目が開け、カントが真の『啓蒙』の本質として称賛した、自分の悟性を用いる勇気を持ち、自分自身の足で立ち、自分自身の歩き方・走り方をさせられること」である。

バルトがこのようなカント主義に学ぶようになったのは、マールブルク大学の学生時代の恩師ヴィルヘルム・ヘルマンの影響によることはよく知られているが、その影響が生涯彼を捉えて離さなかったということになる。そしてそのカント=ヘルマン主義の特徴は、トレルチに従うならば、主観主義的倫理主義ならびにキリスト中心主義の傾向において説明されるべきものなのである。

まさにこの点でバルトの行為主義の全貌が明らかにされる。すなわち、イエス・キリストの呼びかけとしての召命という行為主義が、キリスト者の「信仰の行為的知識」という行為主義を導き出し、さらにそれが主体的応答としての「洗礼」の能動的行為主義を導き出していくのである。

そして、キリスト者のイエス・キリストへの「帰属」の関係は、決して「強制的権力」によってではなく「イエス・キリストの御言の力」によるのである。バルトにとってキリスト教的実存の根拠としての伝統とその継承手段としての幼児洗礼とは信仰の強制に他ならない。そしてバルトはその強制からの解放を、カント主義的「啓蒙」理念に求めているのである。

Ⅳ 根拠としての合一

そうであるとすれば、召命の目標としてのキリスト教的実存とはいったい何であろうか。福音は人間にどのように具体化し、現実化するのであろうか。その問いに対してバルトは、それは「キリストとの合一」であると答えている。

つまり、バルトの召命論において「啓蒙」概念よりもさらに重要な役割を果たしている概念的モチーフは「神秘主義」(決してバルトは積極的にこの概念を語りたがらないが)である。それゆえ、マクグラスのように「バルトは啓蒙主義者の精神的子孫である」というような短絡的なテーゼを提出することは危険である。バルトは、誤解されがちないわゆる「キリスト神秘主義」という用語法を意識的に回避しつつ、なおも、キリストとの合一とは、「すべてのキリスト者をキリスト者たらしめるものの究極的で最も正確な定式化である」と結論づけている。

バルトにとってキリスト教的実存とは「キリストとの合一」の実現を頂点とするordo salutis的な段階性や過程性ではないことは、すでに確認済みである。すなわち、ここで、召命において「合一」(unio)が「秩序」(ordo)に対置され、キリスト教的実存の「根拠」(ratio)とは「キリストとの合一」であると言われるとき、それは「キリスト者において在すキリスト」と「キリストにおいて在すキリスト者」という二つの契機の循環関係によって示される。キリストとキリスト者とは、相互関係的、相互浸透的である。これをバルトは、オリエント的神秘宗教からではなく、新約聖書的「神の子」概念やパウロ的用語法としてのεν χριστωの釈義等によって説明している。また「キリストとの合一」を語ることにおいて、召命を聖霊論的性格づけのもとに考えている。

まさにこのことが、彼の召命論を構成している聖霊論的契機と時間論的契機との緊張関係をめぐって、それがより聖霊論的に傾斜していることの理由である。聖霊なしの合一はありえない。バルトの洗礼論において、ほとんど異様なまでに「聖霊のバプテスマ」が強調されるのは、彼の神秘主義のゆえである。

むろん、バルトにおける神秘主義に対する評価は、実はここに初めてというわけではない。それは、初期のバルトがシュライエルマッハー神学に対して与えたある正当な評価のなかにすでに見られるのである。シュライエルマッハー神学における神秘主義的要件をアナテマとみなしたことにおいて、初期の弁証法神学の陣営において注目された神学者はブルンナーであった。ブルンナーはシュライエルマッハー的神秘主義への批判論文『神秘主義と言葉』を書いた。弁証法神学は「神の言葉の神学」と呼ばれるごとく、理性主義的傾向をもち、総じて感情論中心主義的な神秘主義に対しては批判的、否定的であったという意味で、ブルンナーの神学は、問題性を含めて弁証法神学の特色をよく表わしたものであった。しかし、そのブルンナーのシュライエルマッハー批判を他の誰よりも好まず、ブルンナーに対する批判を込めて、『ブルンナーのシュライエルマッハー書』と『シュライエルマッハーのクリスマスの祝い』という書を著したのはカール・バルトその人であった。

それゆえ、バルト神学にはそのはじめから「神秘主義」に対する(積極的とはいえないかもしれないが)評価があったということができる。カトリック陣営のバルト学者ハンス・ウルス・フォン・バルタザールは、バルト神学を「キリスト教的同一性の神学」(Theologie der christlichen Identität)であるとし、そのことにおいてバルトの神学的発展の「根源的同一性」とヘーゲル哲学との「同質性」を見ているが、大崎節郎はそのバルタザールの見解を「根拠ある誤解」として退けている。むろん、バルトにヘーゲルとの同質性があるというフォン・バルタザールの見解に支持を与えることには、十分注意を払う必要がある。しかしバルトにおいて「同一性」(Identität)概念の神学的契機が最後決定的に作用しているということは、とくに召命論的「合一」論を鑑みて積極的に承認すべきことであろう。なぜならバルトは、初期から後期にいたるまで一貫して「コルプス・クリスチアヌムの崩壊」を問題としていたのであり、その現実のなかを臆せず生き抜く新しい人間存在、すなわち新しいキリスト教的実存の根拠(ratio)の再構成を目指していたのであり、まさにそのために、古い共同体に別れを告げてもなお確かに生きており、神との交わりにおける真の自由のもとで実存しているという「キリスト教的同一性」が、バルト神学の鍵概念となることは必然的であると思われるからである。そういう意味において、たしかに「神秘主義」は人間の現実に対するより高次のリアリスティックな認識であり、歴史超越的根拠である。われわれは、バルトの召命論において弁証法神学の神秘主義批判に対するすぐれた修正があると見ることができるであろう。

しかしわれわれは、以上のような仕方で展開された根拠問題のバルト的解決に満足しうるだろうか。いったいこのようにして、キリスト者の過程性としての「秩序」(ordo)を表現するロジックが失われるべきかというと、甚だ疑問である。これがなければ、無節操で虚偽的な普遍救済説(Universalismus)となってしまう。われわれが世界におけるキリスト者の創造について考察する場合、要するに人間の救済の問題を取り扱うことになるが、しかしその過程性を無視するならば、あらゆる歴史性は消失し、無時間的な「閉じた円環」に閉じこもってしまうのである。少なくともたとえば、「たいていの人はある程度の年数と経験を経て本当のキリスト教が分かるようになるということは、正しくしかもしばしば十分に強調されていることである」(トレルチ)といった人間経験に即したもっともらしい主張は完全に意味を持たない無駄話とみなされることになるであろう。

人間は「頂点」に向かって歩むという仕方において、そのとき初めて「合一」の境地に達することができるのではないであろうか。しかしバルトのうちは「秩序」(ordo)の契機に対する正統な評価が見当たらない。このような一種の直接主義では、一切の客観性は破壊されてしまうであろう。



以上われわれは、バルトの「根拠」問題をめぐって、とくに召命論におけるラディカリズムに問題の端緒を見ながら考察してきた。一人のプロテスタントとして、ヨーロッパ社会のうちに旧態依然として伏在するコルプス・クリスチアヌムの残滓を除去するために生涯闘い続けた孤独な神学者、カール・バルト。彼は『教会教義学』の神学的方法論を確立した1931年の『知解を求める信仰』におけるアンセルムス的「根拠」(ratio)についての思索を継続した。そしてバルトはコルプス・クリスチアヌムの「伝統継承」の可能性を否定し、究極的に神秘主義的「合一」理念に基礎づけられた召命理解によって、新しき時代のキリスト教的実存の歴史超越的「根拠」を提示した。しかし同時に、すでに見てきたように、神学的には根本的にアポリアとみなされるべき問題に満ちた諸契機が彼の召命論とその「根拠」理念を基礎づけ、またそれによって洗礼論の非客観主義を説いていることも明らかになった。

それはおそらく、バルトのキリスト論の構造そのものに由来しているに違いない。ヴォルフハルト・パネンベルクは、バルトのキリスト論を「下降と帰還よりなる円環」とみなし、それが啓蒙主義に属する古プロテスタント神学の両性論に由来すること、さらにそれが天からの救済者の下降と帰還という「グノーシス的救済神話の基本線」により接近していることを批判的に述べている。こうしたバルトのキリスト論的円環構造は、結局、救済者の自己救済という絶対者の無時間的自己閉塞に終わってしまい、人間の歴史経験には何の関係も持ち得ない永遠の救済を語ってしまうことになるのである。かくして、おおよそバルト的「根拠」における「伝統否定」とその歴史破壊の契機がまさに「伝統放棄」を意味するものであることが明らかとなった。

しかし、もしわが国のキリスト教事情において、このような議論を無批判に導入するとどうなるか。確かに、いまだかつてわが国の歴史のなかにはコルプス・クリスチアヌム形成の経験も、その伝統も存在しない。しかし、それゆえに、わが国にキリスト教的文化形成も社会倫理の建設も不可能かつ無用であると言うことはできない。宗教は文化とその伝統を創造し、その倫理は宗教によってのみ支えられるのである。しかし、日本史においてキリスト教的伝統形成のための規範が存在しないとすると、バルト的「神秘主義」だけでは実質的なキリスト教形成は決して望めないのである。

むしろわれわれが歩むべき道は、わが国にキリスト教を伝えた人々の「伝統」からこそ、その規範を学びつつ、「キリスト教的文化総合」(christliche Kultursynthese)へと向かっていくことなのである。

(東京神学大学学生会『Theologia (セオロギア)』第37号(1990年)掲載)

2011年5月6日金曜日

イラク戦争についての「クリスチャン同盟」(オランダ)の公式見解

2003年3月20日木曜日

武力手段を伴うイラクに対する強制的武装解除が、今夜開始されました。外交的努力は失敗に終わり、サダム・フセイン自ら、究極的最後通告を下に置いたため、残念ながら、戦争は明らかに回避不可能になりました。

この時点でのわれわれの思いは、特にイラクの国民に対して向けられています。クリスチャン同盟(ChristenUnie)は、一般市民の犠牲者をできるだけ出さないこと、また、この行為がすみやかに終結されることを望み、かつ祈ります。

われわれは頭と心をもって共に生きており、この軍事行動にかかわる兵士たちとその家族と共に生きています。

もちろんわれわれは、国際的テロリズムとの戦闘に寄与したアフガニスタンにおけるオランダ人兵士たちや、その国民をイラクの不測のロケット攻撃から防御しなければならなかったトルコにおけるオランダ人兵士たちのことも思い起こします。

この武装解除行為をもってイラク国民が自由にされること、そこに真の平和と安定が訪れ、国際正義が開花することこそが、われわれの切なる望みであり、祈りです。クリスチャン同盟は、オランダがイラク難民の救助活動を支援し、かつ戦後の国家再建に寄与することこそが非常に重要である、と考えています。

クリスチャン同盟下院議員団

2003年3月19日水曜日

「われわれは、誰も望んでいない戦争の前夜に立っている」。そのようにブッシュ大統領は演説しました。

まさしくそのとおりです。同時にわれわれは、サダム・フセインのような独裁者がその中で思いのままに振舞うことができないような安全な国際社会を望んでいます。

これらのことは、常に調和するものではありません。キリスト教同盟は、奇跡が起こることを祈っています。しかし、戦争は、残念ながら回避できないものになったようです。

米英によるイラク攻撃は、正当化されるものでしょうか。クリスチャン同盟は、この難しい問いについて、3月18日の火曜日に一つの答えを出さなければなりませんでした。

それは容易ではありませんでした。それどころか、非常に難しいものでした。

戦争は恐ろしいものです。サダム・フセインは12年にわたってイラクを平和的なやり方で武装解除すべきでしたが、この時までそのことを拒んできました。イラクは中東ならびに全世界の平和にとっての危険です。

そのため、われわれの考えでは、国連第 1441号決議が最終手段としての軍事的介入の法的根拠です。アンドレ・ルーフート党議員団長は、下院での議論の中で、クリスチャン同盟の立場をまとめて説明しています。

原文はクリスチャン同盟(CU)ホームページ掲載

(関口 康訳)

イラク戦争についての「キリスト教民主同盟」(オランダ)の公式見解

バルケネンデ首相が2003年3月20日の対イラク戦闘行為開始後に発表した談話

関口 康訳

今夜、米国、英国、オーストラリアは、サダム・フセイン政権に対する戦闘行為を開始しました。それはわれわれが非常に長い間できるだけ防ぎたいと願ってきたことです。この戦争については、国際的にも、我が国の中でも、異なる思いがあります。オランダに住む非常に多くの人々はサダム・フセインに対して武器をとることを擁護すべきかどうかという問いと格闘しています。戦争は激しい感情を呼び起こします。わたしはそのことを理解しています。

だれもが平和で安全な世界を求めています。人々は、政治においても社会においても、平和で安全な世界のために労し、またそのために祈っています。

平和とは傷つきやすいものです。一つの政権が長期にわたって脅迫と恐怖政治の道を選んできたことは明白です。国際社会は、国際協定に我慢と忍耐を要求し、脅迫を取り除くことを試みているのです。

我慢強いことは立派なことでありえます。しかし、限度が無いわけではありません。なぜなら、そのとき、正義と平和の根拠が危機に瀕するからです。

サダム・フセインは、正義と平和にとって大きな危険です。この点では、世界のほとんどすべての国が一致しています。

彼は二度にわたって隣国を襲撃しました。彼は隣国に対して 、また自国に住むクルド人たちに対して、化学兵器を使用しました。非常に多くの人々が、彼の恐怖政治の犠牲者になりました。そして彼は、国際社会が繰り返し彼とかわしてきた協定を真剣に受け止めませんでした。

国際連合は、12年もの間サダム・フセインに対し、何よりまず、自ら武装解除することを呼びかけてきました。国際社会は、12年間の長きにわたる我慢と根気強さとをもって、その解決のために働きかけてきました。国連の安全保障理事会は、彼に協力してもらうために17の決議を採択しました。

昨年11月には、第1441号決議をもって、最後のチャンスを彼に提供しました。その決議は直接的な協力を求めるものであり、それ以外の場合は深刻な結果がもたらされるであろうというものでした。そしてサダムは、耳を傾けることを再び拒否しました。彼は今なお、大量の生物化学兵器が備蓄されている場所を申告していないのです。

われわれは、国際連合という方法によって解決を見出すために、あらゆることをしてきました。しかし、その方法は―12年間付き合った後―今週で終わりを迎えました。

これまでに多くの人々が国際法秩序の重要性について指摘してきました。そして、その指摘は正当なものです。しかし、その法秩序にとってふさわしいことは、正義を長年にわたって堂々と踏みにじってきた人々が際限なく無罪放免されるわけではない、ということでもあるのです。

そのため、オランダは、サダム・フセインに対抗すべく開始された戦闘行為に政治的支援を与えます。自由と安全こそが最高の目的なのです(そして、それはイラク国民自身にとっての自由と安全でもあります)。

オランダに軍事協力を行う意思はありません。オランダ人男女を戦場に投入するとすれば、それは議会や社会の中に幅広い支持があった場合に限られます。

今や戦闘行為は開始されました。しかし(願わくば即座に)武器の音が鳴り止む時が来ます。そのときわれわれは、イラクに住む人々を彼らの国の再建をもって助けるために、われわれの資力をみんなで用いていかねばなりません。

今日起こった出来事は、われわれすべての者たちに強い印象を与えました。われわれの心と頭は、このことで一杯です。誰もがそれを、それぞれの仕方で注視しました。われわれが自らの見方や意見を互いに分かち合うことが大切です。それが効果的でありえます。感情的にもなりえます。しかし、他者の意見を尊重することが常に大切です。なぜなら、この尊重こそが、われわれの民主主義の根拠だからです。

われわれは島国ではなく低地(ネーデルラント)で生活しています。国際的な緊張の時代には用心が必要です。政府は人々の安全のために予防措置を講じ、打ち立て、オランダにおける予測をできるかぎり確かなものにしてきました。絶対的な確かさを確保することは、われわれのような開かれた社会においては不可能です。しかし、可能な限りの措置は取りました。

今やわれわれの思いは、何よりもまず、イラク国内と周囲にいる人々の傍らにあります。そして、もちろん、この戦争行為にかかわる人々の家族の傍らにもあります。わたしは、武力行使についてはすみやかに終わりを迎えてほしいと、全身全霊から望んでいます。罪なき人の命を大切にすること。そして、危害を限定することです。

平和と安全、それと共に、われわれにとってより良き未来がもたらされることだけを、わたしは望んでいます。

キリスト教民主同盟(CDA)ホームページ掲載


ニューブランズウィック神学校教授会の「四旬節にあたってのジョージ=ブッシュ大統領への書簡」

(これは、2003年3月20日イラク戦争勃発の直後に米国ニューブランズウィック神学校教授会が発表したブッシュ大統領宛の書簡です。市川康則氏(神戸改革派神学校教授)と田上雅徳氏(慶應義塾大学法学部助教授)の共訳で、キリスト新聞2003年4月14日付に掲載されました。)



大統領閣下



大統領閣下、わたくしどもは閣下がキリスト者としての信念を堅く持っていらっしゃることを、よく存じ上げております。それゆえわたくしどもは閣下を、アメリカ大統領としてだけでなく、信仰と洗礼と希望においてわたくしどもと結ばれたひとりの兄弟(エフェソ4:5)としても思い浮かべながら、以下、謹んで申し上げることにいたします。わたくしどもは良きアメリカ国民として、同胞の安全および世界の諸国民の解放について、深い関心を閣下と共にするものであります。わが国が安全と平和を達成し、世界中の人々が男であれ女であれ人権を享受するに至る最も確かな道は、わたくしどもキリスト者が諸国民の主にして平和の君と恭しく呼ぶお方によって示されている、キリスト者としてわたくしどもはそう確信しております。閣下、閣下は神によって強大な権力を委ねられており、それはおそらく、人類がこれまで誰一人として知ることのなかったものでありましょう。それゆえわたくしどもはこの四旬節にあたり祈ります。わたくしどもの主がより大いなる力を行使したもうこと、そのことを閣下が思い起こされますように。そしてまた、ここで想起されたことが、御自身の掌中にある権力を閣下が行使なさるときの指針となりますように。



閣下はご自身が、平和を追求することにかけては平和主義者であると、事ある毎に言明してこられました。そしてわたくしどもは、閣下のお言葉が嘘偽りのないことを認めるのにやぶさかではありません。また第2次世界大戦が例証するごとく、その名に値する平和に至るためには武力衝突が不可避となる状況もありうるのだということを、わたくしどもは理解しております。不幸なことですが、二つの悪を目の前にしたとき、戦争がより小さな悪となることもあり得ましょう。



しかし現在のイラクとの紛争は1940年代のそれと比較できるものではありませんし、また、当時効果のあった対策も現在の状況には適用不可能です。戦争は平和を招来いたしません。米国がイラク侵攻によって残すであろう恐るべき負の遺産は、ほぼ間違いなく、侵攻以前の状況よりも悪いものに違いありません。この戦争の結果見込まれ得るものがあるとすれば、それは、アメリカとその同盟国に対する激しい憎悪、テロリスト組織のネットワーク拡大、不安定で一触即発の中東情勢、イスラエル・パレスチナ間の紛争解決の泥沼化、国連の機能不全ないし崩壊の可能性、我々の子・孫・ともすれば曾孫の世代にまで及ぶ過重な負債であります。当面の事柄を考えてみましても、アメリカの戦争テクノロジーを突きつけられている現状の中で、イラク国民がいま被っているこの世の終わりを思わせるような恐怖は測り知れず、また不当なものです。このイラクとの戦争は、公正で持続可能な平和を約束するものではありません。この戦争は決して正当化され得ないのです。それは主によって祝福されることはなく、むしろ裁かれるでありましょう。



わたくしどもはサダム=フセインの野蛮な専制政治を遺憾に思いますし、閣下と同じく、イラクにおける体制の変革を望んでおります。それゆえわたくしどもは閣下に強く訴えるのです。どうか閣下が直ちに戦闘を終結させ、いま体制変革を実現可能ならしめる他の方針のいずれかを採用し、そしてイラク国民に自由をもたらしてくださいますように。閣下のなされた選択は誤りであるとわたくしどもは堅く信じておりますが、にもかかわらず、閣下と同胞、そしてわが軍隊のために引き続きお祈り申し上げることは誓約いたします。と同時にわたくしどもは、主に命じられておりますように、わたくしどもの「敵」のために祈り続けることでしょう。そしてまた、閣下と閣下の政府とが戦争を中止なさるよう、わたくしどもは引き続き強く訴えていく所存です。わたくしどもはキリストへの信仰に駆り立てられて、まさにかく為すものであります。



ニューブランズウィック神学校教授会
ニュージャージー州ニューブランズウィック



ジョン・コークリー         ハックジュン・リー
ポール・R・フリーズ        リチャード・E・スターン
ルネ・S・ハウス          ベス・ラニールタナー
ノーマン・J・キャンスフィールド デーヴィッド・W・ワーンダー
マーク・クラーイ          ヴァージニア・ワイルズ



ご案内:ニューブランズウィック神学校教授会は、読者がこの声明書に署名してくださるようお願い申し上げます。お名前を裏面にご記入ください。写しをブッシュ大統領に送付いたします。



私たちはニューブランズウィック神学校の声明書に同意します:
[以下、名前を書く欄]



最後の署名なさった方はこの署名用紙をニューブランズ神学校、ポール・R・フリーズ教授にご返送ください。(神学校所在地:17 Seminary Place / New Bruswick, NJ 08901 / U. S. A.)



ファン・ルーラーの言葉:「主なる神は、まさにヨハン・クライフである」

1999年4月28日 C. ファン・リムプト

1951年に改定されたオランダ改革派教会『教会規程』作成の最も重要な立役者であったA. A. ファン・ルーラー(1908〜1970年)は、神学者としては、ほとんど評価されてきませんでした。バルトとミスコッテが、ユトレヒトの教義学者〔ファン・ルーラー〕を、てっとりばやく、神学競技場の周辺へと、追い払ってしまったからです。

しかし、そのことは、ファン・ルーラーの諸見解が、何の影響力も持っていなかった、ということを物語るものではありません。フローニンゲン大学で教義学と倫理学を教えているL. J. ファン・デン・ブロム教授は、この「地上的実在の神学者」〔ファン・ルーラー〕から講義を受けることができるたびに、教科〔の内容〕を変更していたほどです。

「ファン・ルーラーは、信仰というものを、日常生活の中に引き入れました。彼のヴィジョンは、人生においてあなたの心が動かされうるものになるために、あなたの信仰と信仰的体験とが相互に関係づけられなければならない、というものでした。ある日、彼は、その手に一本のバラを持って、講義室に入ってきました。彼は、鼻を近づけて匂いをかぎ、そしてこう言いました。『神の国の香りがする』。日常的な現実に接近する方法や、創造と神の国についての語り方は、非常に驚かされるものであり、独創的なものでした。彼は、ベーテュウェ地方の花開く果樹園など、実在におけるあらゆる美しいものを、神の臨在として、見ていました。創造者の表現としての創造を、彼は体験しました。彼はそこで、何に逆らうことがあるのでしょうか?」。

ファン・ルーラーは、自らの神学思想におけるこの地上性(aardsheid)という点を、生のあらゆる側面において、矛盾無く貫き通しました。そのように、物質的な実在というものが肯定的に評価されなければならないことを、非常に強調しました。ファン・ルーラーは、次のように語りました。「物質とは、超越性に対峙するところの被造的実在の、基礎構造である。だからこそ、それは、鼻であしらうことができないものである」。

ファン・デン・ブロムは、ファン・ルーラーの諸見解が、より正統主義的な学生たちに対して、時おりどれほどショックを与えるものであったかを、今も懐かしく思い起こすそうです。

「たとえば、ファン・ルーラーは、セックスに関する事柄について、全くオープンかつ正直に語りました。地上的存在は楽しむためにある、と語りました。あなたは人間として、あなたの望むとおりにすればよいのです、と。あなたはセックスにおいても充分に楽しめばよいのです、と。セックスをするときには、まさにあなたが『真っ裸で神の御前に立つ』あの瞬間と同じように、互いに開けっぴろげの真っ裸になり、まさにあなたの素っ裸を与えればよいのです、と。ですから、ファン・ルーラーは、性体験こそ結婚の本質である、とも語りました。彼の見方では、残りの部分である教会での結婚式や、市役所に出す婚姻届は、事務的な処理以上の何ものでもありませんでした」。

確かな意味で、ファン・ルーラーは、一人のセオクラット(神政主義者)でした。とはいえ、その理念によって彼は、聖書の独裁によって統治される社会を目指していたわけではありません。ファン・デン・ブロムは、次のように証言しています。

「ファン・ルーラーは――キリスト教主義学校を除いても―― そこで文化が聖書によって形成されているような公共の国家というものを擁護したいと願っていました。彼は、聖書の目指すところや、正義と公平などに関する聖書的概念が、社会において再び議論可能なものにならなければならない、と考えていました。全ヨーロッパにとって、聖書は再び、文化を形成するための重要な要素にならなければなりませんでした。私見によれば、ファン・ルーラーは、事実上の『政治神学』に取り組んだのです。彼は『政治とは聖なる事柄』であり、『政治的行為は信仰の頂点』であるとさえ呼びました。信仰とは、まさに政治のようなすべての人間的な現実と共にあるものだ。それゆえ、政治は十字架よりも重要なのだ、とさえ語りました」。

「多くの神学書は、十字架のところで終わっています。これについて、ファン・ルーラーは、とりわけキリスト論が中心に置かれていた(バルト主義的な)一時代の只中で、彼の聖書理解をもって、また神が三位一体であることについての強調をもって、全く異なることを考えなければなりませんでした。ファン・ルーラーは、旧約聖書というものを高く評価し、新約聖書のほうは単なる巻末語句解説に過ぎないものと呼びました。そのことによって、彼は、新約聖書のほうは単に個々人や諸グループにとって重要なものに過ぎないが、旧約聖書のほうはすべての生にとって、すなわち、トータルな現実にとって重要である、と言いたかったのです。そこで、あなたは、正義と不義についての概念、また政治や人間の所産についての概念を見出すのです、と」。

「この視座において、ファン・ルーラーは、イエスの十字架の死を、本来的には必ずしも必然的ではないという意味で、一つの『緊急措置』に過ぎないと呼びました。それは一枚のスナップショットである、と。その次に、聖霊が、われわれを再び旧約聖書へと連れ戻し、そこでわれわれは広漠とした生に遭遇するのである、と。ファン・ルーラーは、人間を最も責任ある存在として、見ていました。十字架は、〔人間が神によって〕受容されていることの確証として、その背後から見ることさえ許されているのだ、と。しかし、それは、とりわけ前を見ること、すなわち、可視的な創造において形成されるべき神の国というものを、見るのでなければならない、と見ていました」。

神を三位一体として語ることによって、神の内なる位格的関係の一要素がそこに生じます。ファン・ルーラーにとって全く重要であったことは、次のことです。彼によると、われわれ人間について語るときにも、神との相互関係において語らなければなりません。そのように、天においても、地においても語らなければならない、とファン・ルーラーは考えたのです。

御父が御子と共に何かを持っているように、御子が御父と共にあり、御父と御子が御霊と共にあります。逆に言えば、そのとき三位一体の神もまた人間と共に働くべきであり、人間は神と共に働くべきであり、人間は互いに共に働くべきなのです。

このイラストのために、ファン・ルーラーが当時用いた実際的なメタファー(比喩)は、再び正統主義者たちの度肝を抜くものです。ファン・ルーラーは、次のように語りました。

「主なる神は、まさしくヨハン・クライフです。クライフがプレイするためには、21人の他の人間が必要です。そのように、神もまた、人間を必要としており、そのとき彼は、良いプレイを行うのです。一人の者が他の者たちから信頼されつつ、誰もが自分自身の役割を果たすのです」。

そのような相互プレイにおいて、人間存在の固有の役割が過小評価されてはならない、とファン・ルーラーは見ていました。全知全能の神は、最も重要である。しかし、「このわたし」としての人間も、依然として存在するのであり、「わたし」は、このわたし自身を擁護しなければならないのです。

そのようにして、(御子だけではなく)三位一体の神は、このわたしと共に何かをしてくださるが、神がこのわたしの罪を大きなブラシで洗い落としてくださるわけではないのです。それは、第一に、このわたしが責任を取らなければならないことを意味します。このわたしはまさに責任をもって生きなければならず、またそのとき、このわたしは、生を一新することを意図してくださる聖霊の助けと共に、生における働きに就かねばならないのです。

ファン・ルーラーの見解において、キリスト教信仰とは、あなたはあなたが望むように生きてよいと語る、まさに一つの自尊心の表現です。ファン・デン・ブロムによると、それは、実存主義と虚無主義とが興隆を極めていた時代(1960年代)においては、非常にすがすがしい考え方でした。

存在が灰色の悲惨な出来事になるという体験に対峙して、ファン・ルーラーは、あなたの存在はすでに一つの奇跡と呼ばれてもよいものであり、あなたはなお望むように生きてよい、というヴィジョンを語りました。

人生を充分に楽しむために、また「神の物語に形態を与える意図を持つ現実において」何かを生み出すために、ファン・ルーラーは、もっと多くの理由を見出すのです。

ファン・ルーラーはまた、その視座において、教会の役割についても語りました。

彼は教会をここ、すなわち、地上において神の国が打ち立てられるために、人間の現実へと向かってくる、神の遠大な運動の下部として見ていました。彼は次のように語りました。

「内側にいなければならないのはわれわれのほうではなく、むしろ、世界のほうこそが内側にいなければなりません。教会は――われわれが神から授かる――われわれのアイデンティティではなく、また終着点でもありません。教会は、神の国へと至る途上における、単なる一手段であることのほうが望ましいのです」。


2010年4月1日木曜日

書評 渡辺信夫著『カルヴァンの教会論』増補改訂版(2010年)

関口 康

「これこそが神学だ。」読了直後そう思った。晒す必要もない恥ではあるが、評者は大した読書家でも蔵書家でもない。渡辺信夫氏については、カルヴァン『キリスト教綱要』とニーゼル『カルヴァンの神学』の各日本語版訳者であられる他、数点の「小さな」著訳書を物してこられた方であると思い込んできた。『カルヴァンの教会論』(改革社、初版1976年)が渡辺氏の「主著」であるということを、このたび「増補改訂版」の帯を見て初めて知った。これほど分厚い書物とは全く知らなかった。初版には触ったこともない(ある古書店ではかなり高額で取り引きされているようだ)。しかし開き直ったことを言わせていただけば、評者とよく似た思いを抱いた方々は少なくないのではないか。非礼をお詫びしつつあえて字にすれば「埋もれた名著」。それが本書だと思う。

翻訳ではなく初めから日本語で考え抜いて書かれたものゆえに読みやすく筋が通っている。評者などが断片的に学んできたような知識が見事なまでに美しく整理されている。硬質の語調には半可通な読者を寄せつけない凄味がないわけではないが、学術的には国際水準を保ちつつ日本の信徒に語りかける努力をしておられるところは絶賛に値する。「『カルヴァンの教会論』と題しているが、これは私の教会論でもある」(325ページ)と明言しておられるように、著者のスタンスには確固たるものがある。この価値ある一書を21世紀の日本の教会と神学の真ん中に復活させてくださった渡辺氏と一麦出版社に感謝する。

ところで、評者はどこに「これこそが神学だ」と感じたかを申し上げたい。この思いは(必要以上の)称賛ではなかったし批判でもなかった。「神学とはかくあるべし」ではなかったし、「神学とは所詮このようなものだ」でもなかった。この微妙なニュアンスには説明が必要である。

言いにくいことであるが、おそらく著者はこの「増補改訂版」をもってしても本書に満足しておられないはずだ。その思いが端々から伝わってくる。本論は全20章で構成されているが、第2章から第6章までと第8章はいずれも梗概のみで終わっている。もっと詳論なさりたかったのではないか。増補改訂版のあとがきに「初版を書き始める際の最も強い動機」として武藤一雄氏や久山康氏から学位論文を書くようにとの懇篤な勧めをお受けになったときの思い出が縷々つづられている。渡辺氏は「自分は牧師のつとめに召された者である。学位はこのつとめにとって無関係と思う」という意味の返事をなさったが、熱心な勧めは已まなかったため、「その勧めに従うことになった」とある。このような経緯で書き始められたのが本書であるというわけだ。ところが本書のどこにも「これは学位論文である」とは記されていない。口幅ったい言い方であるが、要するにこれは「未完成の学位論文」ではないか。そのように明言されてはいないが、「察して頂けると思う」(331ページ)とある。

この場面で「神学の途上性」とか「断片性」とか「旅人性」というような議論を持ち出すのは、かえって失礼だろう。再録された第一版あとがきに正直な思いが吐露されている。「牧師が研究をすることには社会的には何の評価も援助もないから、心ある牧師たちは自己の生活を切り詰めることによって辛うじて研究費を捻出する。私もそのような牧師の一人であった。このことを今では幸いであると思う。なぜなら、教会に密着して生きることによって、教会というものが深く理解できたし、民間の研究者として、権力や時流から自由な立場でものを考えることができたからである」(324ページ)。

「これこそが神学だ」と私は思った。牧師でなくても神学はできる。牧師でないほうが完成できそうな作品も確かにある。しかし「教会に密着して生きること」なしに「教会を神学的に論じること」が可能だろうか。答えは否である。「神学すること」自体が不可能である。この事実を教えていただける本書を多くの人々に推薦したい。渡辺氏が据えた土台の上にレンガを積み上げて巨大なゴシック建築を完成させるのは誰なのか。それを知りたくて、うずうずしている。

(一麦出版社)

(書評、『本のひろば』2010年4月号、財団法人キリスト教文書センター、28-29頁)

2009年3月17日火曜日

ファン・ルーラーの喜びの神学(1)

先週金曜日に「五つのお知らせ」をしたばかりですが、一昨日と昨日で、二つ終わりました。どちらも楽しかったです。出席してくださった方々にも喜んでいただけたと思います。肩の荷物を少しおろすことができて、ほっとしました。残りはあと三つ。まだまだがんばるぞ。

「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」

(改革派神学研修所 東関東教室「信徒講座 生き生きクリスチャンライフ(1)」、日本キリスト改革派勝田台教会、2009年3月14日)

「聖書をどう語るか―牧師は説教をどのように準備しているか―」

(松戸小金原教会2009年度第1回教会勉強会、2009年3月15日)


2007年1月2日火曜日

W. フェアボーム著『壊れた教会の信仰告白 ドルト教理規準の前史と神学』(Boekencentrum、2005年)

Aart Nederveen (関口 康訳)

別の結末もありえた。それがファン・デュールセンの歴史小説『多幸な重荷』(De last van veel geluk)の読了後、私に与えられた印象だった。オランダの歴史においては、そのとき歴史が別の方向に転がることもありえた多くの瞬間があると思える。フェアボームが著したドルト教理規準についての書物を読んだときにも同じことを感じた。

後にエスカレートしていくことになる、アルミニウスとホマルスというライデン大学教授同士の予定論についての論争は、はじめは些細なものだった。彼らの見解の相違はライデン大学内に限定されたものだった。1605年にホマルスとアルミニウスは和解した。教理の土台においては両者の間に見解の相違はないことを認め合った(p. 51)。

ところがその後、間違いが起こった。教会と政府が教説上の見解の相違に干渉した。国論が二分し、ホマルスとアルミニウスの仲もうまく行かなくなった。フェアボームはこの論争がドルト大会の会期中にどのように解決されたかを広い歴史的視野の中で見る。レモンストラント派は解雇され、彼らの教説は糾弾された。

ところが反レモンストラント派の勝利は、自明のことではなかった。顕著な事実は、1606年にはすでに国民大会(nationale synode)の組織化が話題になっていたことである。フェアボームは、もしその国民大会が先に行われたとしたらこの論争には別の結末もありえたことを示唆している(p. 255)。

さらにオランダ政府とその強力な法律顧問であったファン・オルデンバルネフェルトがレモンストラント派の味方であったという事実がある。1615年頃には、四つの中会(ホラント、ユトレヒト、オーフェルエイセル、ヘルダーラント)までもが、レモンストラント派に味方していた。ドルト大会の会期中にマウリッツの干渉によって反レモンストラント派に有利な流れが起こった。しかし、それでもなお、いろんな国の代表議員たちが、レモンストラント派の立場にしばしば接近したのである(p. 206)。

フェアボームがこれまでに出版してきた信仰告白に関する書物の注意深い読者たちは、フェアボームがドルト教理規準の内容に困難を覚えていることに気づくであろう。しかし、それは、本書を書くことについてのフェアボームの勇気を示している。彼は、現代の読者たちがドルト教理規準に抱いているいろんな疑問に答えを与えようとしているのである。

この点は必要である。なぜなら、われわれの改革派の父祖たちの論争は簡単に結論を出せるようなものではないからである。 宗教改革的諸信仰告白を信頼している人々であっても、ある部分については、繰り返して読まなければならない。フェアボームは読者たちが初期や後期の論争騒ぎの中のさまざまな微妙なニュアンスや細部の事柄を全く安易に見失っていることを知っている。

フェアボームは、ドルト教理規準は選びと遺棄をシンメトリーなものとしては見ていないことを確信している (p. 218)。神は選びの原因ではある。しかし遺棄においては神と同時に人間も役割を果たすのである。神はある人々を、彼ら自身が自らをその中に投げ込んだ悲惨の中に放置し、この人々を彼らの不信仰ゆえに呪うのである(第一命題15)。ドルト教理規準は、ここかしこで他の信仰告白諸文書よりも「より広い」立場を採っていることさえ明白である。たとえば、ハイデルベルク信仰問答が人間について「どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いている」(問8)と語っているところで、ドルト教理規準は「人間とはどのような祝福に満ちた善に対しても無能で、悪を好む」と、より微妙な言い方をしているのである。

フェアボームは、ドルト教理規準が語る永遠の遺棄に関する点については、距離を置いている(p. 221)。もし神の人が永遠に遺棄されるならば、人が信仰に至る現実的可能性は存在しないことになる。そのような永遠の決定を人類の歴史は真面目に受け取ることができるだろうか。フェアボームはこの点に疑いを持っている。

また、永遠の遺棄は聖書からストレートに読み出すことはできないと感じている。フェアボームは時間における遺棄、すなわち「神は神を遺棄した者たちのみを遺棄する」ということのみを語りたいと願っている。フェアボームは永遠の遺棄についてのこのような拒否を宗教改革者ブリンガー、またコールブルッヘ、ヴェールデリンク、フラーフラントなど後期の改革派神学者たちの足跡の中に見ている。

フェアボーム自身の良い意図を疑うつもりはない。しかし、わたしはこの神学的選択は本当に必要かと自問する。永遠の遺棄は聖書の中には見いだされないというフェアボームの反論は、なるほどたしかに影響力の大きい発言ではある。しかしそうであると決めつけることもできない。もしそれを言うならば、二重予定論も、また教会の他のいくつかの教義も、聖書的基本線において正しい判断を行うための思想的枠組みを提供しうるものではあるが、聖書の中に文字どおり出てくるわけではないという点で同じでありうるだろう。

『真理の友』(Waarheidvriend)誌の書評において、ドルト教理規準のなかでは運命決定論は全く話題になっていないと主張しているのは、ユトレヒト大学の教会史教授ファン・アッセルトである。神の予定(と遺棄)は、人間の自由や責任の面と同時に主張することができる事柄である。ファン・アッセルトは、そのことについての哲学的な分析が必要であると見ている。この点は、ホマルスと彼の支持者たちも考えたことである。ファン・アッセルトが多くの科学的な正しさを彼の側にもっているとしても、私は驚きはしないだろう。

しかし、ファン・アッセルトが主張していることは、フェアボームが二重予定論に関して主張している反論とは全く別の点である。私の印象では、フェアボームは予定論が過去数百年間の信仰生活において果たしてきた役割に困難を覚えているのである。フラーフラントは、改革派敬虔主義の歴史における予定論の悲劇を無駄に語ったのではないのである。

フェアボームは「重い影」(p. 271)について語る。フラーフラントは、二重予定論によって引き起こされうる信仰の確かさの類型化を目指した。真剣に問いたいことは、このような二重予定論の不毛な影響史(Wirkungsgeschichte)をドルト教理規準の神学的内容と関係づける必要があるのだろうか、ということである。

この問いへの答えを見いだそうとするとき、フェアボームは、ファン・ルーラーが予定論について有名な論文「ウルトラ改革派とリベラル派」(Ultra-gereformeerd en vrijzinnig)の中に書いたことを、今なお考慮に加えることができるであろう。実際、本書においてフェアボームは最近の神学者たちがドルト教理規準について書いていることを―これまでの著作よりも―ほとんど取り上げていない。

ファン・ルーラーは、二重予定を経験的なものと呼ぶことを恐れない。ある人々は聖書的証言に固く留まることにおいて急いでよりよく知る者になり、他の人々は子供の頃から何も語ろうとしないということを、他に何と言いうるのだろうか。この問いに対する改革派の答えは、信仰も不信仰も神の外側で生じるものではないということである。しかし、ファン・ルーラーは二重予定論を論理体系の土台にすることに対しては警告を発する。教義学においては、一つの主題が固有の出発点として機能するということは、ありえないことである。

さらにファン・ルーラーは、教義学が人生を決定するわけではない、とも述べている。予定は「生ける存在と宣べ伝えられた福音」の現実において実行される。ファン・ルーラーがノールドマンスと頓着なく付き合えるのは、神が御自身の永遠の御心を決意されるのはいちばん最後の瞬間である、ということに賛成する点である。それは内容的にはフェアボームが「神は神を棄てた者を棄てる」と述べていることに近い。ファン・ルーラーの論法は緊張を強いるものであり、批判を受けやすいものである。しかし、ファン・ルーラーの線は、フェアボームの論法よりは神学的に力強さがあるように、私には思われる。

これらの問いは、フェアボームが新しく美しい書物に書いたのとは別の話である。 しかし、本書は第二巻を要求している。第一巻においてフェアボームは、どの主題の場合も、彼が信仰告白と彼独自の立場への反応とに傾聴したことに対する最も新しい神学的な立場と素描の展望を与えている。これらはドルト教理規準の核心的テーマを扱うのにふさわしい方法である。

原文は以下URL
http://www.wapenveldonline.nl/viewArt.php?art=644


2006年12月2日土曜日

『カルヴァン説教集一 命の登録台帳 エフェソ書第一章(上)』(アジア・カルヴァン学会編訳、キリスト新聞社、2006年)

現在私はアジア・カルヴァン学会の末席を汚している。しかし本書の翻訳時には参加していなかった。現時点では第三者的に書評を述べることができよう。本誌編集者の許可をいただけたので、翻訳会リーダー野村信先生と私の考え方の違いを公表しておきたい。

同じことを本年九月二二日「カルヴァン説教集出版記念シンポジウム」(会場・富士見町教会)の壇上、発題者の野村先生と久米あつみ先生との間に挟まれた位置で指名コメンテーターとして述べた。お二人は笑って許してくださった。渡辺信夫先生はじめ多くの方々が聞いておられた。本書評がわれわれの親交を分かたぬように、声を大にして申し添えておく。

第一の問題は、要するに、「説教におけるカルヴァン」と「書斎におけるカルヴァン」との間に差があると認められる場合(差があると、私が言いたいわけではない)、どちらがカルヴァン神学の核心により近いと言いうるか、というものである。

私は牧師として、説教にはアドリブの面があることを知っている。説教には臨機応変に言葉遣いや内容を換えるなど工夫や作為をこらして語る面がある。「聖霊の導き」と呼ぶかどうかは議論があろう。私は「牧会的配慮」と呼びたい。説教の価値をおとしめる意図は皆無である。ちなみに私は、教会の礼拝の場で〝発話〟に躊躇を覚えるような思想命題は「教会の学」としての神学の命題たりえないと考えている。

カルヴァンの予定論が多くの批判を受けてきたことは周知の事実である。エフェソ書説教集の中心にカルヴァン予定論の真髄が表現されているというのが訳者の主張である。この点には異存がない。問題はその先である。

『キリスト教綱要』のカルヴァンが限定的贖罪や二重予定(遺棄の予定含む)を明瞭に語っていることは異論の余地がない。しかし、説教におけるカルヴァンはこれらについて必ずしも明瞭に語ってはいない、と訳者は読み取られた。そして、説教におけるカルヴァンのほうにカルヴァンの予定論の真意があるということを読者に対し、脚注を通してしきりと訴えておられる。

読者とすれば、カルヴァンの予定論には説教における形態と『綱要』における形態とがある、また両者の間には差があるらしいと感じさせられ、かつどちらがカルヴァン神学の核心により近いかの判断において本書の脚注は、説教のそれのほうを積極的に選択しているように見える。

しかし私はそのような判断に反対する。「説教におけるカルヴァン」と「書斎におけるカルヴァン」は同一のカルヴァンだ。両者に本質的な差はない。もし差があるとしても、どちらが「カルヴァン神学の根本思想」に近いかと問われるなら、『綱要』のカルヴァンを迷わず選択するのみである。活版印刷され、何度も改訂された『綱要』の記述は、アドリブ的要素を含む説教の言葉よりも動かしがたいからである。「説教のカルヴァン予定論」を「『綱要』のカルヴァン予定論」やドルト教理規準やウェストミンスター信仰告白の予定論から切り離すことによってカルヴァン一人を二重予定論批判の砲火から救い出そうとする資料操作は、不可能である。

第二の問題は、ad fontes(源泉復初)の評価にかかわる。野村先生の考えを突き詰めると、世界の改革派・長老派の教会を三分している予定論の問題を解決するためには、カルヴァンが説教で表現しているような(大いに留保された)予定論へと立ち帰ることが肝要であるということになろう。しかし、私はそのような考えに反対だ。

この点はA・ファン・ルーラー(一九〇八年―一九七〇年)から教えられていることである。ファン・ルーラーは、一六世紀の(第一次)宗教改革者の諸教説には限界があり、そこに立ち帰ればよいというような単純な考えは今や不可能であると教えた。

実際オランダの改革派神学にとって、英国ピューリタニズムの影響から一七世紀のオランダに始まる「第二次宗教改革」(Nadere Reformatie)の伝統を無視することは不可能だ。すなわち、アルミニウス主義者と対決したホマルスやヴォエティウスらの予定論、ドルトレヒト教会会議の決定、ベルギー信仰告白やハイデルベルク信仰問答などの神学的伝統が重要である。大陸の神学者との連携が解明されてきた英国ウェストミンスター神学者会議の決定が重要である。信者の生活や教会会議のエートスを支えた「改革派敬虔主義」(gereformeerde pietisme)の伝統が重要である。デカルト哲学やドイツ観念論や弁証法神学との葛藤や対話の問題も、改革派神学において重要である。

それらの頭上を越えてカルヴァンに復初するのは無理である。すべての改革派神学(カルヴァン主義)はカルヴァンからの頽落であるという発想には、与しえない。予定論の発展は牧会的対話や信仰的格闘の結果である。歴史の意味や牧会的対話の価値を認めないなら、カルヴァンという英雄的個人への崇拝の形態に堕するだろうし、伝統の形成も教会の存在さえも無価値となるだろう。

第三の問題は、妻との会話の中で考えたことである。妻は本書の表紙を見てすぐ「教会の婦人会のテキストになりそうだ」と喜んだ。ところが開けてびっくりだ。本書の学術的体裁は過剰である。半分が一六世紀のフランス語で埋め尽くされている。対訳形式にした理由を野村先生は「次世代に一六世紀のフランス語がどのようなものであるかを示し、それをどう翻訳したかという小さな成果を手渡していければ通常の翻訳よりも役に立つことがあるだろうと考えた」(一〇頁)と書いておられる。想定されている読者はカルヴァンの翻訳を志す人々、つまり学者である。題名から「勧進帳」を連想した。日本的響きがある。一般読者の獲得を期待した結果ではないのか。題名の一般性と対訳形式の特殊性とのアンバランスさに絶句したのは、私だけだろうか。

第四の問題は、もとより翻訳とは何かである。多くの脚注は労多かったことと拝察する。ただし脚注に翻訳者の神学が反映されすぎていることが訳書の評価を困難にしていると思われてならない。限定的贖罪論の「行き過ぎ」への批判(九六頁)やドルト教理規準の「過度の強調」への批判(一三三頁)がそれだ。

言論は自由だ。しかし、気になるのは脚注がひどく饒舌であることだ。そして、結果的にカルヴァンの読者層内の一定の人々を傷つけ、遠ざけている。ドルトやウェストミンスターの教理的立場に立っている教会人は日本に大勢いる。学問でも結果責任が問われる。翻訳書では訳者の思想的立場はなるべく背後に退いているほうがよく、原著者自身に語らしめる装丁であるほうがよい。翻訳書の読者が期待しているのは原著者の肉声(viva vox)であって、訳者の蛇足ではない。

(『形成』、日本基督教団滝野川教会、第431号、2006年12月1日発行、8~9頁掲載)