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2017年2月12日日曜日

神が情熱的にあなたを守る(豊島岡教会南花島集会所)

ローマの信徒への手紙8章31~36節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。この教会の礼拝で説教させていただくのは3回目です。貴重な機会を与えていただき、ありがとうございます。

今日お話ししますのは過去2回の説教の続きです。ローマの信徒への手紙8章26節から36節までを3回に分けてお話しすることを計画しました。第1回(2016年11月13日)が26節から27節まで。第2回(2017年1月8日)が28節から30節まで。そして今日、第3回(2017年2月12日)が31節から36節までです。

過去2回、私の自己紹介が長すぎたきらいがあったことを申し訳なく思っています。自分の宣伝をしたかったのではありません。前回の箇所でパウロが記していたのは、彼自身のキリスト者としての体験です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)。これは信仰をもって生きていくすべての人が現実に味わう体験と共通する要素です。

「パウロはこのように書いているが、現実は甘くない」という話をしようと思えばできなくはありません。わたしたちは信仰生活にはもうひとつの側面があることをよく知っています。しかし、「ここに書かれているとおりのことは我々の身に現実に起こります。私にもこういうことがありました」という話をするほうが前向きな話になるのではないかと考えて、自分の話をさせていただいた次第です。

どんなことでもわたしたちの益となる。ポジティヴな要素だけではなく、むしろネガティヴな要素こそが益になる。そのように神が導いてくださっているのだということをわたしたちは知っています。わたしたちはそのような体験を長年の信仰生活の中で味わってきました。

しかし今日はもう繰り返しません。聖書の御言葉に集中いたします。31節以下に描かれているのは、勝利者としてのキリスト者の姿です。

「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(31節)とパウロは記しています。これは反語表現です。神がわたしたちの味方なのだから、わたしたちは無敵であるということを強調して言っていることです。なぜそのように言えるのかをよく考える必要があります。この点はあとで触れます。とにかくパウロはそのような意味のことを記しています。

32節も同じく反語表現です。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(32節)。最も尊い存在であるたったひとりの御子であるイエスの命さえ惜しまなかった神があらゆるものをわたしたちに与えてくださらないことはありえない、という意味です。

33節も反語表現です。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(33~34節)。

わたしたちを最後に審くのは神であり、神の右に座しておられる御子イエス・キリストなのだから、最後の審判における無罪宣告をわたしたちキリスト者が勝ち取ることは確実であるという意味のことが記されています。

しかし、わたしたちはここでいったん立ち止まる必要があります。そして、もし可能でしたら私が第1回目の説教のときにお話ししたことを思い起こしていただきたいと願っています。そのとき私が申し上げたのは、聖書の神は《弱い神》であるということでした。

「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(26節)と記されていました。この「“霊”」とは聖霊であり、聖霊とはイエス・キリストの霊であるだけでなく、父なる神の霊でもあると申しました。

そして、わたしたちが祈りの言葉さえ失ってしまうほどの悲しみや嘆き、苦しみや弱さの中にあるとき、父・子・聖霊なる神は、弱いわたしたちを大声で怒鳴りつけて強制的に従わせるような強大な権力を行使する存在ではないと申しました。弱いわたしたちに弱く優しく寄り添ってくださり、言葉にならないうめき声を一緒に上げてくださる《弱い神》であると申しました。

そのような《弱い神》がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できるのかと、もしパウロがそのような意味で書いているとすれば、今日の箇所の読み方を変えなくてはならないかもしれないではありませんか。単純に、神は強い方なので弱いわたしたちを助けることができるし、強い味方を得たわたしたちは無敵になるという意味でパウロが書いていないとすれば、どうなるでしょうか。

論理的に考えれば、弱いわたしたちの味方になってくださるのが《弱い神》ならば、わたしたちは勝利するどころか敗北するはずです。しかしパウロは今日の箇所に確かに、勝利者としてのキリスト者を描いています。37節には「勝利」という言葉がはっきり出てきます。

「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(37~39節)。

ここまで読むと分かることがあります。パウロが言う「勝利」とは、わたしたちが常識的に考える「勝利」とは全く違う次元の話ではないかということです。ともかく今ここで分かるのは、パウロにとって「勝利」とは、キリスト・イエスによって示された「神の愛」から引き離されずに、そのうちにとどまっていることを指しているということです。

しかし、その意味での「神の愛」も、話の流れとしては「《弱い神》の愛」を意味せざるをえません。それは理解できない話ではありません。御子イエス・キリストの命をさえ惜しまない父なる神の愛は、自分の大切なひとり子の命さえ守れない弱い愛であるとどうして言えないでしょうか。

自分の子どもが死に晒されても守ろうともしない。なぜでしょうか。殺害されたとき、殺害した人々に抗議も復讐もしない。なぜでしょうか。自分の子どもが十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫しているとき、何の助けもせずに黙っている。なぜでしょうか。

そのような神がわたしたちの「味方」になってくれているとして、それのどこが心強いのでしょうか。全く頼りにならないではありませんか。このようなことをパウロが真顔で書いているとしたら、どこかおかしい人だとしか思えないと言う人がいても不思議ではありません。

なぜ神は黙っているのでしょうか。なぜ何もしてくれないのでしょうか。全く不可解です。神など存在しないのでしょうか。そのように考えるほうが、よほどすっきりするかもしれません。

35節の内容にまだ触れていません。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです」(36節)。

これもまた「キリストの愛」あるいは「キリストにおける神の愛」との関係が語られているところです。その愛から引き離されないでいることがキリスト者の「勝利」です。しかし、いかなるものも障害にならないという意味で並べられた艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣は、すべてパウロ自身の体験です。「屠られる羊のように見られている」のもパウロ自身の姿です。

これらの苦しみや痛みに堂々と立ち向かい、困難な状況を耐え抜くことができる強靭な肉体と精神がわたしたちキリスト者には与えられているので、強くたくましく生きることができるという意味でしょうか。結論として申し上げたいのは、決してそういう意味ではないということです。

だって、それだと話がおかしいです。わたしたち自身がキリスト者であり、教会です。キリスト者と教会の話は、わたしたちにとって他人事ではありません。最終的に問われているのはわたしたち自身です。自分自身と教会の姿を見つめながら、果たしてわたしたちは、どんなことにも動じない強靭な精神と肉体をもって堂々と力強く立ってきただろうかと考えれば、答えはすぐに出ると思います。

結論としては、そのようなことはいまだかつて一度もなかったし、これからもないということです。わたしたちは弱いままです。日本の教会は小さい群れのままです。神は沈黙したままです。牧師は説教はしますが、神の声が小さすぎてよく聞き取れないので、「たぶんこうだろう」という曖昧な話しかできません。イエス・キリストは十字架につけられたままです。聖霊は言葉にならない小さなうめき声をささやいてるだけです。

これが救いのない話か、これこそが救いなのかは受けとめ方かもしれません。パウロがわたしたちに問いかけているのは、「強さ」とは一体何なのか、「勝利」とは一体何なのかです。そして「神が共にいます」(インマヌエル)とは何を意味するのかです。おそらくそれは世間の常識とは正反対の意味です。「わたしは弱いときにこそ強い」(コリントの信徒への手紙二12章10節)と語られているのと同じ、逆説的な意味での「強さ」です。

常識的な意味での「強さ」は人と人との関係を破壊しがちです。そのことは家庭、教会、社会に当てはまります。なかには制度や建物ばかりが立派で、その頑丈な外枠の内部で多くの人が傷ついているケースもあります。しかし、パウロが教える「強さ」とは「弱さ」です。その強さは、優しく柔らかく人と人を包み込む愛の関係を築くことができます。

私はこれまでいくつかの教会の牧師をしてきました。いろんな教会の礼拝に出席し、かかわってきました。比較するような話はしたくありません。今申し上げられるのは、南花島集会所の皆さまの姿が私の目にはまさに「勝利者」に見えるということです。お世辞ではありません。「神が共にいてくださる」ことがはっきり分かります。神が優しく柔らかく、情熱的にこの教会を愛しておられます。そのことがはっきり分かります。

(2017年2月12日、日本基督教団豊島岡教会南花島集会所 主日礼拝)

礼拝後 愛餐会

2017年1月8日日曜日

神があなたの行く道を教える(豊島岡教会南花島集会所)

ローマの信徒への手紙8章28~30節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

おはようございます。日本基督教団教務教師の関口康です。今日もよろしくお願いいたします。

豊島岡教会南花島集会所で前回説教させていただいたのが昨年11月13日ですので、2ヶ月前です。そのあいだに日曜日は7回ありました。それぞれ私がどこにいたかを明かします。

まず千葉市の日本バプテスト連盟の教会に3回。そのうち2回は私が説教しました。先週1月1日は千葉県いすみ市の日本基督教団上総大原教会で説教しました。元日の朝に片道200キロ離れた教会に車で行きました。残り3回は松戸市の日本基督教団小金教会、新松戸幸谷教会、そして千葉市の西千葉教会の主日礼拝に出席しました。

本来でしたら、どこかひとつの教会に落ち着いて、続けて礼拝に出席すべきであることは分かっています。ふらふらしているように思われるのは、よいことではありません。しかし、少しわがままな言い方をお許しください。今のような教会生活は、私にとって生まれて初めての貴重な経験なのです。

私は昨年11月に51歳になりました。51年、教会に通ってきました。前回申し上げたとおり、私の父は日本基督教団松戸教会で60年前に洗礼を受けました。母は岡山市内の日本基督教団の教会で洗礼を受けました。その両親の二男として生まれ、その後ずっと教会に通ってきました。そして高等学校を卒業してすぐに東京神学大学に入学し、大学院を卒えてすぐに日本基督教団の教師になりました。それが27年前です。当時は24歳でした。

それ以降はずっと教会で説教する立場にいました。それは他の牧師の日曜日の礼拝説教を聴く機会がほとんどなくなったことを意味します。しかし、今は違います。自分が説教を担当させていただく日曜日以外は、毎週違う教会に行き、他の牧師の礼拝説教を聴かせていただいています。それは私にとって大きな恵みです。そして私にとって貴重な学びの機会でもあります。

大きな声では言えないことですが、と言いながら大きな声で言っていますが、高校を卒業するまで18年も通った教会の牧師の説教は全く理解できませんでした。

それは単に私が子どもだったからだという面ももちろんあるとは思いますが、それだけではありません。そんなふうにだけ言うと、子どもをばかにしていることになります。中学生、高校生には聖書についても、あらゆるものごとについても十分な理解力があります。それは私がいま高校生を相手にしながら思うことでもあります。

その教会に18年も通いました。生まれたときから。私はその教会の附属幼稚園の卒園生でもあるのです。それでも全く理解できませんでした。何を言っているのかが分からなかったのではありません。納得できませんでした。内容を受け容れることができませんでした。教会に行くたびに「違う、違う、そうじゃない」と首を横にふり続けていました。

だから、自分が牧師になろうと決心しました。高校を卒業してすぐに東京神学大学に入学することを決心した理由は、自分の眼前のこの牧師の代わりに私が説教すべきであると本気で思ったからです。そういうことを考える高校生もいるのです。

ですから私は、教会の説教が理解できないことで苦しんでいる人の気持ちがとてもよく分かります。深く同情します。

はっきり言っておきますが、説教が理解できないのは、聴く側の人の聴き方の問題ではありません。勉強不足だから、自分の知識が足りないから理解できないというのでもありません。100パーセント、説教者の側の問題です。これは感情に任せて言っていることではなく、厳密に考えて申し上げていることです。

どうしてそうだと言えるのでしょうか。それは、私の先生でもある加藤常昭先生が、私が東京神学大学の学生だった30年前から言っておられたし、その後もずっと加藤先生の十八番になっている話と関係しています。東京神学大学の先生たちの話は、私の心に深く刻まれています。

加藤先生が繰り返しおっしゃるのは、ゲアハルト・エーベリンクというドイツの神学者が、日本語版も出版されている『キリスト教信仰の本質』(飯峯明訳、新教出版社、第一版1963年、第二版1983年)という本の冒頭に書いていることです。

そこにエーベリンクが書いているのは「興味」という言葉の意味の説明です。英語のインタレスト、ドイツ語でもインタレッセです。それはラテン語のinter-esseである。そして、その文字通りの意味は「~の間にあること、そのそばにいること、その事柄のもとにあること、その事柄にかかわること」であると書いています(同上書11ページ)。

そのうえでエーベリンクが続けていることを加藤先生がまとめておっしゃいます。それは、何かに興味や関心を持つことができるかどうかは、結局のところ「自分に関係があるかどうか」に尽きるということです。

高校で授業をしていると、てきめんに分かります。生徒は「自分に関係ある」と感じているところでは目を覚ましています。「自分に関係ない」と感じた瞬間から居眠りを始めます。教壇から見ていると、とてもよく分かります。全員が目を覚ますときがあります。それは「これはテストに出ます」と言うときです。テストと無関係な生徒は、学校にはひとりもいないからです。

エーベリンクの言葉を一箇所だけ引用させていただきます。愛とは何か、死とは何かなどのことが問題になっているときに、人の心の中に起こる反応について書いているところです。

「このような問いを取り扱うとき、たといわたし自身があらわに話題になっていないときでも、事実的にはわたし自身が話題になっているのと全く同じことが、語られていることになる。つまり、そこでかかわってくる問いは、わたし自身につき当たっている問題であるからであり、わたし自身がそれらの問いの中で現われてき、そこでわたし自身が問われているからである」(同上書、12ページ)。

この中に出てくる「わたし自身につき当たっている問題」というのは、今の若者ことばの「刺さる」です。べつに若者だけが使っていることばでもないのですが、若者たちが使う場合は「グッと来る」というような意味です。グッと来る言葉や、グッと来る音楽が「刺さる」と言います。

それは「自分に関係ある」ということです。「私の話をしてくれていると感じる」ということです。そのときに興味がわく、関心を抱く。興味や関心とは、それ以上でもそれ以下でもないのです。

私が高校生のときに考えたことと、エーベリンクの話がストレートに結びつくわけではありません。しかし18年聴き続けても理解も納得もできなかった説教は、私の心には「刺さり」ませんでした。

そういうわけで、私はいま教えている高校生の中からぜひ私と同じ志を持つ生徒が出てきてくれることを願っています。いまお笑いになった方は、私が言おうとしていることがお分かりになったからでしょう。

そうです。私がワケの分からない授業とワケの分からない説教を続ければ、「あの教師を教壇から引きずり下ろして自分が聖書の授業をする。チャペルの講壇から引きずり下ろして自分が説教をする」と言い出す生徒が出てきてくれるのではないかと期待しています。

しかし、今日はこのままずっと私の話だけしてこの説教を終わらせようとしているわけではありません。先ほど朗読していただいた聖書の箇所と今までお話ししたことが深い次元で関係していると思っているので、かなり長く自分のことを話させていただきました。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)と書かれています。

この箇所は時々誤解されるところがあるので、気をつけなくてはなりません。「御計画に従って召された者たち」とはキリスト者のことです。教会のことです。狭い意味で牧師、説教者になった者たちだけのことではありません。

その者たち、すなわちキリスト者のことを、神は「前もって知っておられ」、「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められ」(29節)、そして「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになった」(30節)とまで書かれています。

これだけを読むと、なんだかまるでベルトコンベアに載せられて自動的にキリスト者が製造される工場のようなものを思い浮かべる人が出てくるとも限りません。

すべては神の御計画。人間の側の意思も決断も一切関係なし。我々の悩みも苦しみもすべて神のたなごころ。手のひらの上でころころと転がされているだけ。我々が苦しんでいる姿を、山のあなたの空遠くから、神がニヤニヤ笑いながら見おろしておられる。そういうふうなイメージでとらえる人が出てくるかもしれません。

しかし、それは全く違いますから。そのような話ではありませんから。完全な誤解ですから。どうかご安心いただきたいし、もし誤解しておられるようでしたら考えを改めていただきたいです。

どう言えば理解していただけるのかは難しいところではあります。あまり説得力はありませんが、ひとつの点を言えば「神を愛する者」と書かれていることは重要です。

ベルトコンベア式で考えれば、我々は「神を愛する者」ではなく「神を愛させられている者」(?)と奇妙な受動形を使って言わなくてはならないでしょう。もしキリスト者の存在を、自分の意思が働く要素はなく、100パーセント完全に神のコントロール下で動かされているようにとらえるのであれば。

しかし、それは違いますから。全くの誤解ですから。そこに人の意思は必ずあります。決断も当然あります。我々自身の主体性があります。そこにはまた必ず葛藤があり、悩みがあります。

「万事が益となる」の「万事」に、それら一切が含まれます。「あの牧師を講壇から引きずり下ろさなければならない」という苦渋に満ちた決心が含まれます。その後の長年にわたる苦闘がすべて含まれます。

神がすべての道を備えてくださいます。わたしたちの行く道を教えてくださいます。しかし、その道の上を歩いていくのは、あくまでも私自身です。それらすべてが「共に働く」のです。

ローマの信徒への手紙8章28節は、私が高校を卒業して東京神学大学に入学することになったときに、私の母が送ってくれた言葉です。「この御言葉を大事にしなさい」と教えてくれました。

(2017年1月8日、日本基督教団豊島岡教会南花島集会所 主日礼拝)

2016年11月13日日曜日

神があなたと共に苦悶する(豊島岡教会南花島集会所)

ローマの信徒への手紙8章26~27節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」

おはようございます。今日初めて南花島集会所の主日礼拝で説教させていただきます。日本基督教団教務教師の関口康です。高等学校で聖書を教える教員として働かせていただいています。よろしくお願いいたします。

カレンダーに書き残したメモを確認しましたところ、私が南花島集会所の礼拝に初めて出席させていただいたのは今年6月26日日曜日であったことが分かりました。わずか5ヶ月前です。当時の状況を忘れていましたが、これもまたカレンダーで確認しましたところ、その前々日の6月24日金曜日とその翌日の6月25日土曜日の二日間が、私の勤務校の文化祭でした。

他の学校でも同じだと思いますが、勤務校の文化祭は、生徒の自主性を重んじて行っています。その意味では、文化祭の期間は、生徒会担当の先生がたはともかく、それ以外の先生にとっては気楽な面があると思います。しかしそれでも、いろいろと気疲れするところはありました。文化祭が終わった翌日の日曜日の朝の私は「ああ疲れた」という気分でした。

隠すほどのことではありませんので、正直に言います。あの日の朝、私は教会の礼拝を休もうかと、家でぎりぎりまで迷っていました。文化祭との関係だけではありません。教会の牧師の仕事をやめて学校の教員になったのが今年4月ですから、6月26日はようやく3ヶ月を経たばかりの頃でした。

まさに文字通り、右も左も分からない。生徒からも先生からも学校のことについて何を尋ねられても答えられない。自分のなすべきこと語るべきことを把握できない。実際にいろいろと失敗して迷惑をかけてしまう。そういう状態でした。今もその状態が続いているとも言えますが、当時よりは少し慣れました。

それでも私は、何のプライドなのでしょうか、その日、かなり無理やり自分の体を打ちたたいて、とにかく車に乗り込み、エンジンをスタートさせ、車を動かしました。私はキリスト者であり、牧師である。その私が日曜日に教会に行かないことはありえない。どんなに疲れていようと、なにがなんでも、どこかの教会に行かなくてはならないという気持ちでした。しかしその日どこの教会に行くかが決まっていませんでした。

そういうときは地図を開いてコンパスを使って物理的な距離が最も近い教会に行けばいいと、私は長年いろんな人にそのように助言してきました。人にそう教えてきたのだから私もそうしようと思いました。しかしふと気づく。家からの距離が最短の教会の礼拝開始時刻は「午前10時15分」。もう間に合わないと思いました。私が車を動かしたときが午前10時過ぎになっていましたので。牧師である私が教会の礼拝に遅刻して行くことなどありえない。そう思って、遅刻しそうな教会に行くのはあきらめました。

しかしその後、行く宛てもなく松戸市内を20分ほどぐるぐる回っていました。それで私の目に飛び込んできたのが、国道6号沿いに大きく張り出されている「日本キリスト教団豊島岡教会南花島集会所」の看板でした。

松戸市で生活した11年9ヶ月の間、国道6号は、毎日のように(というのはやや大げさですが)車で走っていましたので、この看板の前を通るたびに拝見していました。しかし、よほどのことでもないかぎり、中に入るきっかけはありませんでした。昨年末までは他教派の人間でしたし。

しかし、なんとか教会にたどり着きました。礼拝開始時刻「10時30分」。私が着いたのが10時28分。2分前でした。遅刻しないで出席できる礼拝は、その日はここだけでした。選択肢がなくなりました。受付で「新来者カード」を書かせていただき、礼拝堂に飛び込んだとき、ちょうど礼拝が始まりました。

その日の説教者は、安増幸子先生でした。全くの初対面ではありませんでした。その前に2回、松戸朝祷会でお目にかかったことがありました。しかし、申し訳ないことに、私はその日まで安増先生を牧師であるとは認識していませんでした。どこかの教会の役員の方かなと思っていました。他教派の人間でしたので、日本基督教団の教師がどなたであるかを知らなかったという意味です。

あの日、安増先生はとても力強い説教をしてくださいました。そのことに感動しました。そして、礼拝後の愛餐会のとき、皆さまからこの教会がどのようにしてできたかを教えていただいて、とても驚きました。

この南花島集会所の皆さまは、私の父が千葉大学園芸学部の学生だったとき、賀川豊彦先生の伝道集会に参加して初めてキリスト教を知り、その後洗礼を受けた日本基督教団松戸教会と強く深い関係にある教会であるということを、あの日初めて知りました。私の信仰のルーツにたどり着くことができました。そのことを知って腰が抜けました。

私の個人的な話をだらだら続けてしまいましたことをお許しください。いまお話ししていることの趣旨は、私は今日なぜこの教会で説教壇に立たせていただいているかの説明のつもりです。

今の私は、高等学校で聖書を教える仕事をしています。教会の牧師の仕事はしていません。日曜日がフリーです。だから私に説教を依頼していただけたという面があることはもちろん分かります。それ以上のことを私は、声を大にして自己主張するつもりはありません。しかし、100パーセント私の主観だけから言わせていただくのをお許しいただけば、私が今ここに立っているのは「神の導き」であるとしか表現のしようがありません。他の言葉が見つかりません。

さて、今日を含めて3回、皆さまから説教のご依頼をいただきました。1回めが今日、11月13日。2回目は来年1月8日。3回目は2月12日。どのような説教をさせていただくかをいろいろと考えて至った結論は、3回に分けてローマの信徒への手紙8章の26節から36節までを学ばせていただきましょうということでした。

なぜこの箇所なのかということは、説明できないわけではありませんが、次回お話しします。ただこの箇所は、聖書全体においても新約聖書においても最も有名な箇所のひとつであることは、間違いありません。なかでも28節の御言葉が有名です。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)。

さらっと書かれていますが、考えれば考えるほど深みにはまる謎めいた言葉です。「神を愛する人」と「神の計画に基づいて集められた人」がどうつながるのかは謎めいています。人が神を愛することのほうが先なのか、それとも神の計画が先なのかと考えていくと、「卵が先か、鶏が先か」を争う鶏卵論争にも似た様相の議論になっていきます。

さて、ここからやっと今日の箇所の解説にたどり着きます。しかし今日はすでにだいぶ長くお話ししましたので、もうすぐ終わりにします。学校の授業の場合はチャイムが鳴りますので、長い授業はできません。話が途中でも強制終了。教会の礼拝にもチャイムがあるほうがいいと思います。説教の途中でも強制終了。

それでは今から、今日の聖書の箇所に書かれていることの主旨を手短に申し上げます。

「霊」の意味は端的に「神」です。新共同訳聖書の凡例の「三(2)」に次のような断り書きがあります。「新約聖書において、底本の字義どおり『霊』と訳した箇所のうち、『聖霊』あるいは『神の霊』『主の霊』が意味されていると思われる場合には前後に””(ダブルクオーテーション)を付けた」。

「聖霊」は、わたしたちにとって端的に「神」です。「三位一体の教義が教会で定められたのは、パウロがこの手紙を書いたときよりずっと後の時代である」という言い逃れは通用しません。歴史的事実はそのとおりです。しかし、三位一体の教義を定めた教会が考えたのは聖書の読み方です。わたしたち教会はその教義を受け継ぐ責任がありますし、そのように聖書を読む必要があります。

そういうわけですので、今日の箇所に「”霊”」と書かれているところはすべて「聖霊」、そして端的に「神」と言い換えることができます。

それでは今からすべてをそのように言い換えてみます。

「『神』も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、『神』自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、『神』の思いが何であるかを知っておられます。『神』は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」

もちろん、ただ単純に言い換えただけでは意味不明のところが出てきます。しかし、この言い換えだけで分かることがあります。

「わたしたちはどう祈るべきかを知らない」という場合の「わたしたち」は「人間」です。人間は弱いので、何かひどい目にあったり混乱したりしていると絶句します。言葉を失います。祈りの言葉さえ失ってしまいます。それはそのとおりです。

しかしそれでは、その弱い人間であるわたしたちを助けてくださる「神」である「霊」は、わたしたち人間とは違ってとても強い方なので、祈りの言葉を失うどころか力強く明確な言葉を雄弁に語る、そのような方であるとパウロが書いているかというと、全くそうではないということです。

先ほど「霊」を「神」と言い換えました。「『神』自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」と。「言葉に表せないうめき」というのは、痛みや苦しみをこらえているときに出てくる苦悶の声です。場合によっては絶叫を伴います。妊産婦が出産のときに上げる声がそれです。それは、力強く明確な言葉を雄弁に語ることの正反対です。

「霊」がそのようなうめき声を上げると、パウロは書いています。この「霊」は神です。そしてここから先は私の考えです。他の牧師は言わないことかもしれません。

この「霊」は「聖霊」です。その「聖霊」は「キリストの霊」であるだけでなく「父なる神の霊」でもあることを無視してはなりません。「父、子、聖霊なる三位一体の神」ですから。「聖霊は御父と御子から発出」しますから。

別の言い方をすれば、わたしたちを執り成してくださる「神」のうめき声は、イエス・キリストの十字架上の絶叫だけではないということです。それは、父なる神御自身のうめき声でもあります。

聖書の神は《弱い神》です。祈りの言葉さえ失うほど悩み苦しんでいる人々に向かって力強く明確な言葉を雄弁に語る神ではない。全くそうではなく、むしろその反対に、わたしたちと一緒に言葉を失い、うめく神です。弱くて情けない神です。「もっとしっかりしてくださいよ!」と文句を言いたくなるほど、まるで弱い神です。

しかし、その《弱い神》にこそ、わたしたちは深い慰めを得てきました。神は弱い人間を大声で怒鳴りつけて、強制的にひとつの方向性に導こうとしません。神はそのような強引な専制君主ではありません。弱いのはイエス・キリストだけではなく、父なる神も弱いのです。わたしたちの父は、弱く優しく寄り添ってくださり、わたしたちと共に苦悶してくださる神です。

(2016年11月13日、日本基督教団豊島岡教会南花島集会所 主日礼拝)