以下、思いつくままに書きます。
注意していただきたいのは、これはぼく自身の直接的な体験ではないという点です。あくまでも可能性であり、一種のフィクションです。悪しからず。
(1)教会関係とネット関係
毎週日曜日に教会に集まる同士(とくに牧師と教会員)と、牧師自身のネット関係の仲間は、別々のほうがいいような気がします。
なぜなら、教会の中にはネットを使わない人がいますので、いわば必然的に、教会員「の一部」と牧師がネット関係にあることになるからです。
そうなりますと、牧師の言葉や牧師経由の情報が「伝わっている人」と「伝わっていない人」が教会の中に併存する格好になることは、必然的です。
それは、教会の中に不信感、不和、対立を引き起こす遠因ないし直接の原因になりかねません。
(2)ネット経由の情報は「パソコン(モバイル含む)の前」でしか得られない
ネット時代の牧師は、(ぼくら日本キリスト改革派教会でいえば)大会や中会の委員会や、その他ありとあらゆる方面からの情報が、今やメールはじめネット経由で送られてきています。
「ネット経由で送られる情報」を入手するための「唯一の」方法は、「パソコンの前に座ること」です。他にどうすることもできません。
しかし、「パソコンの前に座る牧師」の姿が、見る人によっては、非常に「不愉快な存在」に見えてしまうらしいのです。その感情たるや、「人間を相手にするのではなく、パソコンを相手にしている不埒な牧師」だ、みたいな感じのようです。
イヤ、違うんですが。「大昔の」手旗信号とか、モールス信号とか、交換電話とか、わりと最近のファックスとかと、ネットは、基本何も変わらないんですが。
「パソコンの画面を見つめるだけで、ぼく/あたしの顔を見てくれない」とか文句言いたい気持ちも、まあ分からないでもないですが、それ、毎日通っておられる病院のお医者さんへの不満ですよね。そのお医者さんたちに文句言ってくださいね。
(3)ネット時代の「忙しい」牧師は、ハタから見ると、「何もしていない」ように見える
教会は、いますでに、あらゆる情報をネット経由でやりとりしはじめています。
たとえば、ぼくら日本キリスト改革派教会の「東関東中会」では、
中会の会議や各委員会の開催通知、議案書、会議録略報、あるいは緊急連絡や訃報などはPDFやワード文書形式でメールに添付されて送られてきます。プリントアウトやファイリングは各人に任されています。
他にも、多くの委員会が各自のメーリングリストなどを設けて日常的に議論が交わされていますし、最近はfacebookなども積極的に利用されるようになりました。
あるいは、これは大会や中会のケースではありませんが、個人的なグループなどでは、スカイプやハングアウトなどのビデオ通話で、会議や勉強会が行われるようになりました。
このような動きはネットコミュニケーションの発達に連動しているものでもありますが、同時にそれは「教会の伝道不振」という時代的背景を持っています。
それはどういうことかといえば、早い話、各個教会も中会も大会も献金収入が減る一方で、経済的に追い詰められているため、会議や委員会のたびに支出される「日当、交通費、食事代、宿泊費」といったものを切り詰めることに必死です。
その中でのネットコミュニケーションの活用は、きわめて危機的な財政難にある各個教会、中会、大会を「助ける」意義もあるのです。
ところが、ここに大きな問題が発生します。
上記のような多岐にわたるネットコミュニケーションは、すべてパソコン(モバイル含む)の前で行われます。
そして、その姿を「客観的に見れば」、
牧師が書斎にひとりで引きこもり、パソコンの前に座って、目と指を不断に動かし続け、独りごとを言い、時々爆笑したり、大きな声でしゃべっている、
というふうな絵になります。
しかも、多くの牧師は、教会に近接した場所に自宅(牧師館)があり、長時間の通勤などをしていません。
そのため、「ネット時代の忙しい牧師」は、ハタから見ると、「自室に引きこもってパソコンをいじっているだけのヒマな人」に見えてしまうのです。
すると、どうなるか。
「ヒマそうな牧師」は、教会からの尊敬の対象にはなりにくくなります。
「ぼくたち/あたしたちは、毎日毎日、汗水たらして長時間の通勤を耐え、
ひどい人間関係の中でもみくちゃにされ、イヤな仕事をこなしている。
それなのに、うちの牧師は、自室にこもってパソコンをいじっているだけ。
冗談じゃないわ。あんな牧師に耐えられるか」
というような話になりかねません。
イヤイヤ、そんなことないから。
めっちゃ忙しいですよ、まあたしかに「パソコンをいじっている」だけですが。