リアルのぼくをご存じの方は、
「○○依存者」というようなものとぼくはかけ離れているということを、
どなたもご存じです。
ぼくは「依存」しないし、してないです。
ネットを多用していることは認めますが、
どのみちパソコンで作成している文書を、オフラインで書いて、
そのままオンラインでネット上に公開しているだけです。
しかも、ぼくがネットに公開していることといえば、
説教原稿、外国神学書の私訳・超訳、自作料理の写真、時事の話題、
くらいです。
つまり、ですね、
ぼくがネットに書いていることは、
戦後の教会で流行してきた「説教黙想(メディテーション)」と、
本質的に同じだと思っているのです。
伝統的な神学用語で言えば「信仰の適用」(application of fath)です。
戦後の「黙想運動」の方々がいま生きておられたら、
ぼくが考えていることに、きっと同意してくださると思います。
ファン・ルーラーも「黙想集(メディテーション)」を多く出版しました。
「黙想」ってね、目つぶってうーんて唸ってるだけじゃ意味ナイですよ。
むしろ目を開けて、世界の現実を凝視しなくちゃ。
教会員一人一人の顔と願いを思い浮かべる「だけ」でも意味ナイです。
それだけだと、「伝道する気ない牧師だ」と責められても仕方ない。
だって「伝道」とは教会の外にいる人たちを教会の内へと招待すること。
そうだとしたら、「黙想」にとって不可欠なことは、
(今はまだ)教会の外にいる人たちの関心を徹底的に知り、
その「関心」と、聖書のみことばとの関係を徹底的に考え抜くことです。
その「黙想」のプロセスをすっ飛ばしてしまったら、
伝道の熱心は「空を打つような拳闘」(Ⅰコリ9:26)に浪費するばかりです。
平たく言えば、教会の声は世間に届かない。
「届ける気がないんでしょ」と、すぐに見抜かれてしまいます。
おっと、
(Ⅰコリ9:26)というのも暗号っぽかったですね。すみません。
新約聖書のコリントの信徒への手紙一9章26節のことです。