2013年12月17日火曜日

「黙想」ってね、目つぶってうーんて唸ってるだけじゃ意味ナイですよ

リアルのぼくをご存じの方は、

「○○依存者」というようなものとぼくはかけ離れているということを、

どなたもご存じです。

ぼくは「依存」しないし、してないです。

ネットを多用していることは認めますが、

どのみちパソコンで作成している文書を、オフラインで書いて、

そのままオンラインでネット上に公開しているだけです。

しかも、ぼくがネットに公開していることといえば、

説教原稿、外国神学書の私訳・超訳、自作料理の写真、時事の話題、

くらいです。

つまり、ですね、

ぼくがネットに書いていることは、

戦後の教会で流行してきた「説教黙想(メディテーション)」と、

本質的に同じだと思っているのです。

伝統的な神学用語で言えば「信仰の適用」(application of fath)です。

戦後の「黙想運動」の方々がいま生きておられたら、

ぼくが考えていることに、きっと同意してくださると思います。

ファン・ルーラーも「黙想集(メディテーション)」を多く出版しました。

「黙想」ってね、目つぶってうーんて唸ってるだけじゃ意味ナイですよ。

むしろ目を開けて、世界の現実を凝視しなくちゃ。

教会員一人一人の顔と願いを思い浮かべる「だけ」でも意味ナイです。

それだけだと、「伝道する気ない牧師だ」と責められても仕方ない。

だって「伝道」とは教会の外にいる人たちを教会の内へと招待すること。

そうだとしたら、「黙想」にとって不可欠なことは、

(今はまだ)教会の外にいる人たちの関心を徹底的に知り、

その「関心」と、聖書のみことばとの関係を徹底的に考え抜くことです。

その「黙想」のプロセスをすっ飛ばしてしまったら、

伝道の熱心は「空を打つような拳闘」(Ⅰコリ9:26)に浪費するばかりです。

平たく言えば、教会の声は世間に届かない。

「届ける気がないんでしょ」と、すぐに見抜かれてしまいます。

おっと、

(Ⅰコリ9:26)というのも暗号っぽかったですね。すみません。

新約聖書のコリントの信徒への手紙一9章26節のことです。