2004年8月29日日曜日

献身の意味 ~何のための人生か~


マタイによる福音書9・35~10・15

松戸小金原教会の関口です。今朝、新浦安伝道所の皆さんと共に礼拝をささげることができます幸いに心より感謝しております。よろしくお願いいたします。

今朝開いていただきました聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書9・35〜10・15です。少し長めに三つの段落を続けて読んでいただきました。まず最初に、この個所に何が書かれているかを申し上げたいと思います。

まず第一番目の段落に書かれていることは、わたしたちの救い主イエス・キリストが飼い主のいない羊のように弱り果てている群集の姿をご覧になったとき、深く憐れまれたということです。

続く第二番目の段落に書かれていることは、イエスさまがそのように困っている人々を何とかして助けるために十二人の弟子たちを特別にお選びになり、お遣わしになったということです。

そして第三番目の段落に書かれていることは、イエスさまがその十二人の弟子たちを派遣するに際し、非常に具体的な内容のアドバイスをお与えになったということです。ここにはイエスさまの弟子としての生き方が記されていると言えます。

しかし、今朝わたしがまず最初に申し上げたいことがあります。それは、この三つの段落に書かれている内容は、いわば当然のことながら、互いに深い関係を持っているということです。そして、この三つの段落の関係をよく理解することが、今日読んでいただきましたこの個所全体の内容を正しく理解するために重要であるということです。

それはどういうことかについてもう少し説明が必要であると思います。たとえば、今日の第二番目と三番目の段落にはイエスさまの十二人の弟子たちの派遣という出来事が記されているわけですが、その派遣の意味と目的は何かということを正しく理解するためには、第一番目の段落の内容をよく見る必要があるということです。

そして、その場合わたしたちがよく見る必要があるのは、「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」というこの御言です。

このことは何を意味するのでしょうか。おそらくすぐにお分かりかと思います。弟子たちの派遣の意味と目的は、まさに彼らの目の前に「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」群集がおり、その人々には具体的な救いと助けとが必要であったというその事実そのものであるということです。

逆に言い直せば、もう少し分かりやすくなるかもしれません。ただし少し言葉が過激になってしまうかもしれません。しかし、あえて言葉に出して言うならばこうなります。もしそこに「弱り果て、打ちひしがれている」人々が一人もいなかったとしたら、イエスさまによる弟子たちの派遣は不必要であったということです。

ところが事実はそうではありませんでした。そこには実際に困っている人々、実際に弱っている人々、実際に打ちひしがれている人々がいたのです。だからこそイエスさまは彼らのことを憐れに思い、特別な十二人の弟子たちをお選びになり、その弟子たちを人々の中にお遣わしになったのです。

しかもここには「群集」と書かれています。一人や二人では「群集」とは言いません。一つの町や村の人口に当たるような規模の人々を「群集」と呼ぶのだと思います。

また「打ちひしがれている」とあります。この意味は何でしょうか。広辞苑を見ますと「打ちひしがれる」の意味は「強い衝撃で意気・意欲を完全になくすこと」です。ここでマタイが書いている意味も、まさにそのようなことです。

彼らの身に何が起こったというのでしょうか。とにかく彼らはおそらく生きる気力さえ失っていた。がっくりと肩を落とし、背中が曲がり、暗い顔で佇んでいた。そのような姿が思い浮かぶのです。

しかしこれはどういうことでしょうか。思わず考え込んでしまうような内容があると感じます。

私自身、ここで思わず考え込んでしまうことがあります。それは「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」そのような状態の人々にイエスさまが出会われた場所はどのようなところであったのだろうかという点です。

それはもちろん書かれているとおりです。イエスさまは「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」とあります。ここで「会堂」とは明らかに、当時のユダヤ教の礼拝堂のことです。シナゴーグのことです。イエスさまが回られた町や村には、イエスさまが行かれる前からユダヤ教の礼拝堂が存在したということです。

しかも、イエスさまが御国の福音を宣べ伝えられたのも、まさにそのユダヤ教の会堂(シナゴーグ)においてであったということです。

しかし、考えてみてください。そこにユダヤ教の会堂があったということは、いわば当然のこととしてユダヤ教の祭司や律法学者や長老たちもいたということを意味するのです。シナゴーグが建てられている町や村にはそのシナゴーグを仕事場にして働いている宗教の専門家たちもいたということです。建物だけがあったわけではないのです。

しかしそうなりますと事態はますます深刻なものに思われます。イエスさまが回られた町や村にはユダヤ教の会堂(シナゴーグ)は存在した。これは明言されています。そして、それならば、そこで働く祭司や律法学者や長老たちもまた存在したということも当然考えられるのです。

しかし、それにもかかわらず、です!その町や村の中に「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」群集、すなわち大勢の人々がいたと言われているわけです。

その町には教会の建物がある。伝統のある古い建物である。またそこには牧師も長老もいる。「いない」わけではないのです。それなのにそこには「飼い主がいない」と言われる。これはなんだかものすごく深刻な状況ではないでしょうか。

少なくとも私自身は、このような個所を読みますと、とても激しく胸が痛くなるものを感じます。

私は、今年で牧師という仕事を始めて14年目になります。そういう者として、ここで「群衆」と呼ばれている人々の立場や状況はよく分かるつもりです。しかしそれと同時に、ここで「会堂」と呼ばれている場所に住んでいる住人の気持ちも分かってしまうのです。

その町には「会堂」がある。牧師や長老もいる。もちろん信徒もいる。それなのに会堂の外側にも内側にも「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群集」がいると言われる。これは会堂が、牧師や長老が、教会が、少しも人々の霊的なニード(必要)に応えていないということの何よりの証拠ではありませんか!

しかしそれが現実です。イエスさまの目は節穴ではありません。イエスさまの周りに集まってきた群集は、心の底から飢え渇き、助けを求めていた。ところが会堂の住人たちはこの群集の霊的ニードに少しも応えていなかった。そのことを鋭く見抜かれたイエスさまが十二人の弟子たちを、この群衆の中へと遣わされたのです。

だからこそイエスさまは、十二人を派遣するにあたり次のように命じられたのです。

「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」

「イスラエルの家」の中にはユダヤ教の会堂も含まれています。会堂の中に「失われた羊」がいるというのです。その人々のところに行きなさいとイエスさまは弟子たちに命じられました。

そしてイエスさまは言われました。

「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」

先ほども一度、仮定の話として、しかし、現実にはありえない話として申しました。もしそこに「弱り果て、打ちひしがれている」人々が一人もいなかったとしたらイエスさまによる弟子たちの派遣は不必要なことでした。しかし実際には一人もいないどころか大勢いました。だからこそ弟子たちの派遣が必要でした。

そのように考えますと、弟子たちが果たすべき役割ははっきりしたものになります。

イエスさまの弟子たちの仕事は、彼らの目の前にいる、現実に助けを求めている人々の(霊的)ニードに応えることです。病気の人がいればその病気をいやすことです。死者がいれば生き返らせることだと言われます。重い皮膚病を患っている人がいれば清くすることです。悪霊にとりつかれている人がいればその悪霊を追い払うことです。

このことも、逆の言い方をすればもっとはっきりするでしょう。

病気で苦しんでいる人々が求めていることは、間違いなく「その病気がいやされること」です。しかしそのとき、もしイエスさまの弟子たちが、その人々が少しも求めていないものを一生懸命に与えようとするなら、彼らは何を感じるでしょうか。

「そんなものはどうでもよい。わたしが今求めているものを与えてほしい」と思うでしょう。そして、それを与えてくれるところに出かけていくでしょう。自分のニードに応えてくれない人々には何も期待しないでしょう。それが現実なのです。

イエスさまは弟子たちに対し、続けてこうも言われました。

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。」

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」わたしたちは、これを文字通りのこととして理解すべきです。ここでイエスさまがお語りになっていることと同じようなことをユダヤ教も教えていたと言われます。ただしユダヤ教ではこんなふうに言いました。

「律法学者たちが律法の知識を私利私欲のために用いることは間違いである。なぜなら律法は金儲けの道具ではないからである。」

わたしたちの場合は「律法学者」という部分を「牧師」や「長老」あるいは「神学者」、そして「律法」という部分を「聖書」と読み替えることができると思います。

「牧師や神学者たちが聖書の知識を私利私欲のために用いることは間違いである。なぜなら聖書は金儲けの道具ではないからである。」

おそらくこれがイエスさまのお語りになる「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」の意味です。

ここで考えさせられることは、イエスさまが弟子たちになぜこのようなことを言わなければならなかったのかということです。その理由については、ここでは何も書かれていません。しかし、思い当たることがないわけではありません。

それは、繰り返しになりますが、イエスさまの周りに集まってきた群集がなぜあれほどまでに飢え乾いていたのかという点です。

彼らの町や村には会堂が存在しなかったわけではなく、祭司や律法学者や長老たちがいなかったわけでもありませんでした。ですから、もちろん彼らが聖書の御言の説教を耳にする機会が無かったわけではありませんでした。

それなのに、です。彼らは非常に飢え乾いていました。会堂で語られる説教、会堂の住人たちが提供する宗教的な行事や行為によって彼らの霊的ニードが満たされることは無かったのです。

その原因は何だったのでしょうか。少なくともその一つとして思い当たることがあります。

それがまさに、律法の知識を私利私欲のために用いる律法学者があまりにも多すぎたのではないかという点です。律法を悪い意味での金儲けの道具にしていた人があまりにも多すぎたのではないかという点です。

どうでしょうか。わたしたちの目も節穴ではありません。聖書の知識を私利私欲のために用いる教師、聖書を金儲けの道具にする教師の説教がどんなものであるかをわたしたちはすぐに見抜くことができるはずです。

そのような説教には人を救う力がないのです。それは助けを求めている人々に何も与えず、ただ奪うだけです。力を与えるどころか力が抜けていくのです。

イエスさまがおっしゃっていることは、助けを求めている人々には与えなければならないのであって、奪ってはならないということです。

イエスさまの弟子となり、またとくにイエスさまの御言葉を宣べ伝える者になることをわたしたちは、特別な意味で「献身」と呼びます。「献身」の一般的な意味を、これも広辞苑で調べてみました。「一身を捧げて尽くすこと。自己の利益を顧みないで力を尽くすこと。自己犠牲」と書かれていました。

意味はこのとおりで良いと思います。この意味のままわたしたちは、とくにイエスさまの弟子たちであるわたしたち自身に当てはめるのです。わたしも「ただで」救われたのだから、「ただで」与える人生を送るということです。

こんなふうに真剣に考え、生きていた人がイエスさまの時代にはいなかったのではないでしょうか。誰も彼もが自分の利益のために生きている。宗教家たちでさえそうである。だからこそ、さまよう人々も後を立たない。

わたしたちの時代はどうでしょうか。「飼い主のいない羊のように弱り果てている人々」はどこにいるでしょうか。わたしたち自身がそうでしょうか。

わたしたちの一度しかないこの人生をイエスさまの弟子として生きること、そして目の前にいる困っている人々を助けること、すなわち「献身」のために用いることができる人は幸いです。

新浦安伝道所のこれからの歩みのためにお祈りさせていただきます。

(2004年8月29日、新浦安伝道所主日礼拝、東関東伝道協議会講壇交換)