ファン・ルーラーが幼少期に通ったアペルドールン改革派教会 (2008年12月9日 関口康撮影) |
講演「伝道の神学 喜びの人生をめざす旅人の力」
関口 康
Ⅰ 「伝道の神学」の主体としての「地域性密着型中会」
この改革派神学研修所東北教室は、厳密に言えば東北中会とのダイレクトな関係にはない、あくまでも有志のグループであるという事情はよく理解しているつもりです。しかしまた、このグループが 日本キリスト改革派教会東北中会に所属する教会・伝道所との緊密な関係の中で営まれて来たものであるということは明言してよいはずです。
私は以前、東関東中会議長書記団を代表して東北中会の定期会を問安させていただいたことがあります。そのときが東北中会の皆さまとの正式な形での初顔合わせでした。そのときの会場も、今日と同じ東仙台教会でした。その日を含めると、東関東中会のメンバーになって以来二回目の「東北中会訪問」ということになります。
私は、東北地方とは縁もゆかりもない岡山県岡山市の出身者です。しかしそのような私でも、日本キリスト改革派教会の教師にしていただいて以来、東北中会の諸教会のために祈らなかった日はありません。伝道の戦いにおいては同志であり、同労者であると信じています。伝道に伴う苦しみや悩みは、それに携わったことがある者にしか分かりません。私も今、毎日のように涙を流していますので、皆さんの思いは痛いほど理解しているつもりです。
「おやおや、東関東中会は東北中会よりもラクチンではないのですか」と思われてしまうかもしれませんが、決してそんなことはありません。都会には都会なりの悩みがあり、独特の誘惑や罠が手ぐすね引いて待ち受けています。伝道がラクチンな地域など、地上には存在しないのです。
しかしまた、この日本の国土環境や経済状況などを考えますと、首都圏の伝道と地方都市や農村部の伝道とを全く一緒くたに丸めてしまうような議論や、各地の個性や固有性や特色を完全に無視してアイロンやローラーのようなもので均してしまうようなやり方がきわめて乱暴であることも事実です。
イエス・キリストの福音を宣べ伝えることを本旨とする「伝道」においても「地域性」(locality)というものが最大限に尊重される必要があると信じています。象徴的な言い方をお許しいただくなら、 伝道とは、飛行機の上から種をまき散らすような(大雑把で当てずっぽうな)仕事ではなく、ミミズの目を探すような(緻密で繊細な)仕事であると考えております。
東関東中会をわたしたちが 2006年7月に設立したときに掲げた、自己紹介のための理念は「地域性密着型中会」(locality-oriented presbytery)というものでした。この理念を考えたのは私ですが、 初代中会議長になられた横田隆先生が、大会向けにお書きになった文章に採用してくださいました。
この「地域性密着」という表現は、私の中では、一般的な意味での「地域密着」とは異なる概念です。しかし、このことについては中会設立時点の私にはきちんと説明する場も立場も与えられていませんでしたので、一緒くたにされたまま誤解されています。
現に、たとえば「地域性密着型中会としての東関東中会」という言葉を見た他中会の人々の中に、「東関東中会のような地域癒着型で利益誘導型の中会では、日本キリスト改革派教会としてのアイデンティティを保つことができない」という理由で批判している人がおられるということを後で知りました。その話を最初に聞いたとき、私は心底がっかりしたのです。人間の耳と心というものは、かくも歪んでいるのかと。
そして、もう一つのことを考えさせられました。それは「それでは改革派教会のアイデンティティとは何なのか」ということでした。
改革派教会のアイデンティティとは何なのでしょうか。大会決議を守ることでしょうか。それならそれでも結構です。しかしそれでは大会決議とは何なのでしょうか。それは、都会の有力教会の多数意見を力任せに押し通すことであってはならないでしょう。そもそも大会決議なるものは、地方の教会の現実が反映されていないようなものであってはならないでしょう。「地域性密着型中会」が無いようであっては、健全な大会決議もありえないでしょう。
突き詰めていえば、「地域性」(locality)というものに関心を払わないような教会、すなわち、各中会の意見を反映することを怠る大会のもとにある一全体としての教派は、真の意味での「改革派教会」ではありえないでしょう。我々の大切な教派が、そのようなものになっては、あるいは「しては」なるまいと、私は考えました。
「地域性密着型中会」という東関東中会の理念を「地域癒着型中会」だとか「利益誘導型中会」などと聞きまちがえた人たちを責めたい気持ちは、私にはありません。故意や悪意であるとも思っていません。ただひたすら、ぜひ正しく理解していただきたいと願っているだけです。
しかしまた、私は今日ここに、東関東中会を代表して来ているのではなく、あくまでも個人的な奉仕として来ています。これから申し上げることはすべて、私の個人的見解にすぎません。誰とも相談していません。発言の責任もすべて関口個人にあります。
しかしまた、そうであるという事情をあらかじめしっかりと確認したうえで、私が掲げた「伝道の神学」というテーマの中には、私自身の眼前に常に現実に存在する「東関東中会」の存在が念頭にあるのだということも否定できない事実であると明言しておきます。
そしてもし可能でしたら、定期大会記録に明記されている東関東中会が掲げた「地域性密着型中会」という理念を思い起こしていただきたいと願っています。この理念の本当の意味は何なのかということを正しく理解していただくことが、今日の講演の第一の目標であると申し上げておきます。
そして、この講演の第二の目標として考えておりますのが、講演のタイトルとして掲げた「喜びの人生をめざす旅人の力」としての「伝道の神学」とは何かということを理解していただきたいということです。
もちろん第一の目標と第二の目標は直接つながっている関係にあると私は信じています。すなわち、第一の目標である「地域性密着型中会」とは何かを理解していただくことと、第二の目標である「伝道の神学」とは何かを理解していただくこととが、私の中ではっきりとつながっています。
第一のつながりは、「伝道の神学」なるものを展開していく具体的な場は、大会でも神学校でもなく、「中会」であるということです。「いや、それは各個教会ではないのか」と思われるかもしれませんが、各個教会が単独で「神学」を営むことにはちょっと荷が重すぎる面があります。もちろん、伝道そのものの主体は各個教会であると言わなければなりません。しかし、「伝道の神学」を構築し、展開していくための場ないし主体は「中会」でなければなりません。
ですから、私の思いからすれば、各中会に「神学委員会」のようなものが設置されることが理想です。しかし、それが叶わなくても、せめて各中会に(東北中会にあるような)「改革派神学研修所○○教室」のようなものが置かれるべきです。
しかも、その場合の中会とは「地域性密着型中会」、すなわち、その中会が置かれている地域の地域性 (locality)を最大限に尊重すべきことを自覚し、かつ実践する人々の集まりでなければなりません。
同じ一つの日本キリスト改革派教会に属する同志であっても、たとえば「東北中会の伝道の神学」と「東関東中会の伝道の神学」と「東部中会の伝道の神学」とその他の中会の「伝道の神学」との間には(一致点や共通点とともに)相違点があって然るべきです。
すべてが同じでなければならないと、自分たちの「伝道の神学」を押し付け合うことは問題を抽象化することであり、妄想に通じるとさえ言わざるをえません。
第二のつながりは、第一に申し上げたことのほとんど繰り返しであり、同じことの別の観点からの言い換えです。それは、そもそも「神学」とは個人のわざではなく、共同体のわざであるということです。それは信仰共同体としての教会のわざであり、教団・教派のわざでなければなりません。
神学とは個人的な思想・信条ではありません。ですから、はっきりいえば「中会なしに神学なし」です。そして逆も然りです。「神学なしに中会なし」でもあります。
まとめていえば、「中会の第一義は神学共同体である」ということです。神学を放棄した中会は、本来の意味での「中会」ではありえません。「中会」とは神学、とくに「伝道の神学」を共有する場なのです。
そして、中会には教師だけがいるのではなく、少なくとも(「教会の会議において、教師と同等の権威を有する」)長老がおり、そして すべての教会員が属しています。
もしそうであるならば、「地域性密着型中会の神学」としての「伝道の神学」は、(何らかの学位や留学経験をもった)神学教授職にある人の専売特許ではなく、すべての 教会員のものでなければならないのです。
Ⅱ ファン・ルーラーの「伝道の神学」
さて、序論的な話をひとまず終えて、次の話に進めます。以下の主題は伝道の神学とは何かという ことです。この件に関して私は一つのモデルをご紹介したいと願っています。
それは〝国教会系〟等 と称された、歴史的に古いほうの「オランダ改革派教会」(Nederlandse Hervormde Kerk)の中で、1950 年代に考案された「伝道の神学」の例です。
発案者は、アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])です。私はこの神学者についての研究を10年ほど続けてきました。この神学者はオランダ改革派教会 (NHK)の牧師であり、ユトレヒト大学神学部において「オランダ改革派教会担当教授」の職務に 就いた人でもあります。
このように紹介しますと、先ほど申しあげた、「伝道の神学とは神学教授職にある人の専売特許ではない」という話と矛盾するとお感じになるかもしれません。しかし、この点で申し上げておきたいことは、ファン・ルーラーが「伝道の神学」を考案した動機は、その時代に実施されていたオランダ改革派教会の『教会規程』の全面的な改定作業という歴史的大事業に寄与することであったという点です。
改定以前の古い版の同教会の『教会規程』は、なんとナポレオン統治時代のものでした。そのような古文書(こもんじょ)を改訂する委員会における主要なメンバーの一人がファン・ルーラーでした。
つまり、ファン・ルーラーの「伝道の神学」は、抽象的な机上の空論などではありえず、きわめてリアルなプレゼンスを持つ一つの「オランダ改革派教会」をそれに基づいて動かすこと、さらに「カルヴァン主義の国」とまで呼ばれたオランダの歴史と伝統そのものを動かすことを目標にした、きわめて具体的で現実的で実際的な提案であったということです。
そのファン・ルーラーの「伝道の神学」とはどのようなものだったのでしょうか。その概要をこれからご説明していきたいと思います。
しかし、まずそのテキストについて申し上げておくべきことがあります。ご存じの方もおられると思いますが、ファン・ルーラーの「伝道の神学」(Theologie van het Apostolaat)の日本語版が 2003年に教文館から出版されました。しかし、非常に残念なことに、これがものすごく読みにくい訳でした。はっきりいえば、ちんぷんかんぷんの、ひどいものでした。
私はこれを訳した人を個人的に知っていますので、悪口のようなことはなるべく言いたくないのですが、このようなひどい訳を流通させたままではファン・ルーラー先生に申し訳ないという思いさえ持っています。
ファン・ルーラーのこの書物は、国際的に高い評価を得ている、非常に優れた「伝道の神学」のモデルなのです。これを私は日本の教会の多くの人々に読んでいただきたいと願っています。そのために私は、今の訳本が早く絶版にされ、一刻も早く新訳で紹介し直されることを願っています。
ファン・ルーラーは「伝道の神学」を順序立てて考えて行くために、次の五つの教義学的な視点を設定しました。第一は終末論の視点であり、第二は聖定論の視点であり、第三は聖霊論の視点であり、第四は人間論の視点であり、第五は教会論の視点です。
これらすべての内容をご紹介する時間はありませんし、ファン・ルーラーの説明そのものを詳細に紹介することもできません。
そのため私は、わたしたち日本の教会的文脈の中で比較的理解しやすいと思われる視点をいくつかピックアップして私なりの言葉で解説していくことにします。それは最初の「終末論の視点」です。もう一つ挙げておきたいのが第四の「人間論の視点」です。
Ⅲ 終末論の視点から見た「伝道」
終末論から話を始めるというのは、人によっては奇妙な見方であると感じるものでもあるでしょう。なぜなら、ファン・ルーラーが登場するよりも前の時代の教義学において、終末論が置かれる位置は、「巻末付録」とまでは言われないにしても、ほとんど例外なくいちばん最後のほうの数ページの部分に割り当てられることになっていたからです。
実際、ファン・ルーラーの神学は「終末からの思惟」 (thinking from the End/ Denken vanuit einde)などと評せられるものであり、終末論からすべての神学を出発することが、彼の神学の特徴であるとさえ考えられています。
しかし、このファン・ルーラーの終末からの思惟は、「伝道の神学」を考えて行くためには、わたしたちにとって非常に有益であると思われます。なぜなら、間違いなくわたしたちの多くは、「終末」(the End)という言葉には「目的」(purpose)ないし「目標」(goal)という意味があるということを知っているからです。
なぜわたしたちの多くがそのことを知っているかといえば、わたしたちが常日頃から慣れ親しんでいるウェストミンスター信仰規準(とくに、ウェストミンスター小教理問答の第一問答)に何が書かれているかを知っているからです。
「問 ひとの主な目的(end)は何であるか。
答 人の主な目的(end)は神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶことである。」
そうです。わたしたちがウェストミンスター小教理問答の第一問において「目的」と訳してきた言葉こそがendなのです。
つまり、この問い(ウ小教理1)の趣旨を考えますと、これは endを問うている問いである以上、そのままで「終末論的な」問いかけでもあるのだということを、わたしたちは知っているのです。
すると、どうなるでしょうか。たった今申し上げたことからお分かりいただけることは、ファン・ルーラーの伝道の神学の特徴である「終末からの思惟」とは、将来においてわたしたちが実現すべき目的、ないし到達すべき目標のほうから現在のあり方を考えるということを意味するのだということです。
この点がわたしたち自身の「伝道の神学」を考える際に非常に役立ちます。なぜなら、「目的」ないし「目標」を定めることが、伝道にはどうしても必要不可欠だからです。
ただし、問題は、わたしたちはそれをどのようなものと定めるかです。ここから先はファン・ルーラーが言っていることではなくて、私が申し上げたいことです。
伝道の目標とは、たくさんの人数を集めることでしょうか。伝道の目的とは、大きな教会堂を立てることでしょうか。もちろん、それらのことも重要であるとは思います。しかし、あえて問いたいことは、それだけでしょうかということです。
いみじくもわたしたちは、ウェストミンスター信仰規準(とりわけウェストミンスター小教理問答の第一問答)と共に、わたしたちの人生の目標とは「神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶこと」であると、声を大にして告白し続けてきたのです。
このことは、伝道の目標にも通じるはずです。ただし、「神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶこと」を伝道の目標にすると私が言いますと、この人は問題を抽象化していると感じられてしまうかもしれません。しかし、これは決して問題の抽象化ではないと申し上げておきます。
考えていただきたいのは、 このウェストミンスター小教理問答における最も重要な点は「わたしが喜ぶこと」にあるということです。この答えを短く言い直せば、「わたしの目標ないしわたしの人生の目的は、このわたしが喜ぶことである」と言っているのと同じであるということです。
このことを伝道の神学に当てはめて言えば、こうなります。「伝道の目標もまた、このわたしが喜びの人生をめざすことにある」ということです。「喜び」とは、もちろん人間的・主観的・感情的・生理的な要素です。私が申し上げたいのは「伝道の神学」からそのような要素(人間的・主観的・感情的・生理的な要素)を切り落としてはならないということです。
わたしたちは、そのような要素を非常に強く抑制してきた面があります。「人間的な考えをやめよ」、「主観に陥るな」、「感情に走るな」、「生理的なことを教会に持ち込むな」。このような考えは、まさに悪い意味での禁欲主義なのだと思います。
しかし、わたしたちの教派においては、ウェストミンスター小教理問答第一問が「わたしが(神を)喜ぶこと」を人生の目標に定めていることにおいて、悪い意味での禁欲主義というものが禁止されているのだと読むことが可能です。そしてわたしたちは次のように考えることができます。
「伝道の目標とは、このわたしの喜びにこそある。このことを終末論的に考え直すならば、わたしの喜びを究極的に実現するための伝道とはどのようなものであるのかということこそが重要な問題なのである」。このような順序で、わたしたちは、伝道の神学を考えて行くことができるのです。
この文脈でファン・ルーラーが主張するもう一つの重要な点は、伝道のキリスト論的位置づけです。 彼によると、伝道は「キリストの昇天」と「キリストの再臨」の中間時(ちゅうかんじ)になされるものであり、かつ両者の間をつなぐ要素はローマ・カトリック教会が考えたような連続性(キリストの受肉の継続としての教会など)や自然的要素(血縁、血統、遺伝など)ではなく「飛躍」(sprong)であると言っています。
いま、私は二つのことを申し上げました。第一は、「伝道とは中間時の事柄である」ということです。 第二は、「キリストの昇天と再臨をつなぐ要素は飛躍である」ということです。
前者の「伝道とは中間時の事柄である」という命題から引き出される帰結は、伝道の未完結性です。伝道が未完結であるということは、わたしたち自身の信仰も、信仰者としての実存も、そして教会の存在や活動も、すべては未完結のままであるということです。
この点は、牧会的にいえば非常に大きな意味を持つはずです。とくに日本の教会には、家族揃ってあるいは夫婦揃って教会に通っているという方々は少なく、家族の中で一人だけ通っているという方々が非常に多いことを、私はもちろん知っています。その場合にわたしたちが関心を持たざるをえない問題は、家族の救いということです。
そして、この文脈の中で、わたしたちが「伝道の未完結性」という点から考えていくことができるのは、いわゆる「未信者」とは、まさに読んで字のごとく「未だ信仰に至っていない人」のことであり、しかしまたそれは「今は未だ信仰に至っていないが、これから信仰に至るであろう人」のことでもあるという、希望の告白をなすこともできるということです。
さて、ファン・ルーラーが書いているもう一つの点としての「伝道とはキリストの昇天と再臨との中間時を橋渡しする飛躍である」という言葉の意味は何でしょうか。あらかじめ申しあげておきたいのは、これもわたしたちにとっての希望のメッセージになりうるものであるということです。先ほど少しだけ触れましたように、ファン・ルーラーは、この「飛躍」の意味を連続性や自然というものとは反対の意味を持つ言葉としてとらえました。その場合のとくに「自然」とは、血のつながりや民族的一致のことなどを意味しています。
しかし、「伝道」とは、なるほど「飛躍」であるかぎり、「自然的な連続性」という概念では決してとらえることができないものです。この点でわたしたちが知っている現実は、信仰こそは血縁あるいは遺伝によって自動的(オートマティック)に継承されるものではありえないということです。
もしそういうことが現実に起こるであれば、わたしたちが伝道のために死に物狂いで戦うことなど全く無駄で無意味なことになります。子どもたちを苦労して日曜学校に通わせる必要もありません。もし信仰というものが、血から血へと、自動的に、遺伝的に継承されるものであるとするならば、です。
しかし、そのようなことは起こりえないということを、わたしたちは知識の上でも体験の上でも知っています。信仰の継承には、伝道というプロセスがどうしても必要不可欠です。そこに、洗礼を受けた信仰者としての「人間」の存在が必要不可欠であり、かつ信仰者の共同体としての「教会」が必要不可欠なのです。
なぜこのことが、ここにいるわたしたちにとっての希望のメッセージになるのかといえば、「伝道」の意味を考えるときにこそ、わたしたちが教会に集まる理由がはっきりと分かり、さらに教会の存在理由(レゾンデートル)そのものがはっきりと分かるからです。
わたしたちは、日曜日のたびごとに無駄で空しいことをしているわけではありません。神がこの地上で「伝道」のみわざをお進めになるための「道具」として、わたしたち、キリスト者としての個々人と教会とが選ばれ、用いられているのです。
これらの議論が、ファン・ルーラーの『伝道の神学』における第二点の「聖定論的視点」と 第五点の「教会論的視点」の項で扱われています。
Ⅳ 人間論的視点から見た「伝道」
次に見ていきますのは、「伝道の神学」を構築していくためにファン・ルーラーが設定した「人間論の視点」とは何なのかということです。
ファン・ルーラーが「人間論」(anthropologie)という概念を用いる場合の意味は、言うまでもなく「神学的人間論」のことであり、とくに改革派神学、あるいは改革派教義学におけるそれのことを指しています。そのことが分かるのは、彼が「人間論的視点」において重要であるとする概念が「神との契約のもとにある人間」、そして「神のかたちとしての人間」の二つであることです。
ファン・ルーラーは、「神との契約」という概念は「人間とは生ける神が御自身の歴史的なみわざに おいて御自身の周りに創出される共同体にはめこまれ受容された、神の協力者(パートナー)である」 ということを我々に理解させるものであるとしています。
また、「神のかたち」という概念は「人間と は神と向き合う位置にある者であり、神は人間においてこそ御自身の本質を表され、映し出してくださる」ということを理解させるものであると言っています。ファン・ルーラーによると、「神のかたち」 という概念のほうが「神との契約」という概念よりも広い範囲を包括している、とも言っています。
そして、このあたりからファン・ルーラーならではの独特の議論が開始されるのですが、彼は「神のかたちとしての人間」という命題の中の「神」を、とくに「聖霊なる神」と結び合わせてとらえています。すると、どうなるか。
「聖霊(なる神)は終始一貫、人間的な姿をおとりになる。聖霊の判断は、人間の判断という形態をとる。聖霊のみわざは人間の体験の中に具体性を持つ。聖霊(プネウマ) 全体は、人間的なるものの中で形態を獲得するのである。」
この個所でファン・ルーラーが描いているのは、伝統的な神学的概念を用いて言えば「聖霊の内住」 (inhabitatio Spiritus sancti)の事態です。つまり、それは、聖霊(なる神)が人間存在の内側に 「住む」ないし「宿る」という事態です。
そして、この「聖霊の内住」という事態は 17世紀の改革派神学者ヨードクス・ファン・ローデンステインの言葉を借りて言うと「三位一体の内住」(inhabitatio Dei trinitatis)でもあるのだと、ファン・ルーラーは他の書物の中で書いています。
つまり、彼に言わせると、「聖霊なる神が人間の中に住んでくださる」ゆえに、結局は、父・子・聖霊なる三位一体の神御自身の判断とわたしたち人間自身の判断とは重なり合うものになっていくのであり、そのようにして、「神御自身のみわざは・わたしたち人間の体験の中で・地上的な形態を獲得するのである」と語ることができるようになるのです。
そして、ファン・ルーラーは次のような衝撃的な命題に至ります。「キリスト教とは啓示と異教主義の混合(アマルガム)である」。
この命題によって彼が何を問いたいのかといえば、たとえば、芸術や科学、また「異教的本性をもつ生の衝動や霊性から生まれる文化」といったものが神の御前に有する価値は何なのかという問いです。たとえば、わたしたちキリスト者は、芸術や科学のすべてを「それは虚偽である」とか「それは偶像礼拝である」などとそっけなく拒否することができるのだろうかという問いです。あるいは、「キリスト教的芸術」や「キリスト教的文化」とは結局何を意味しているのかという問いでもあります。
そのようなものは成り立ちうるのか。わたしたちは何をもってそれらが「キリスト教的」であると判断しうるのかという問いです。この文脈においてファン・ルーラーは、「我々は広範な人間関係の土台をもたず、いかなる具体的な形ももたず、常に狭い稜線を歩くような仕方で、ひたすら潔癖な信仰生活を送らなければならないのだろうか」と書いています。
このファン・ルーラーの問いは、わたしたちの伝道にとって根本的な意義を持っていると思います。 伝道が異教主義に飲み込まれてしまうようなことは決してあってはならないことであるということは よく分かる話です。
この異教の国日本の中で徹底的に非妥協主義の線をとることこそが伝道であるという理解は、ある意味で正しいし、正しすぎるほど正しいものです。しかし、その次にすぐに間違い なく起こる問いは、「それでは、わたしたちは、どこに生きればよいのでしょうか」ということです。
もし異教の要素というものが全く存在しない、いわば「真空領域」というようなものがもはや地上のどこにも無いのだとしたら、わたしたちは「生きる場を失った」、つまり「死ぬしかない」と考えなければならないのでしょうか。
わたしたちの信仰的確信によると、異教とは罪です。しかし、文化そのものは罪でしょうか、芸術は罪でしょうか。いわゆる「俗世間」と呼ばれる何かに対してわたしたちがポジティヴにかかわることは決して許されてはならないことなのでしょうか。キリスト者はそれらのものと常に対立し続ける存在でなければならないのでしょうか。
そうではないはずだということを、ファン・ルーラーは訴えています。この神学者に聞くべきことは多いと、私は信じています。
Ⅴ 具体的な提案
最後に、各個教会の伝道の実践に寄与するための具体的な提案をさせていただきます。何の具体性も持たないような「伝道の神学」は概念矛盾です。
しかしまた、これから私が申し上げることの中に、目新しいことはほとんどありません。伝道の新しい方策を私が知っているようなら、松戸小金原教会は今よりもっと成長しているでしょうし、自らの成功例をひっさげて日本キリスト改革派教会と日本の教会全体に向かって大いにアピールしていることでしょう。しかし、そのようなことを私はできていませんし、できません。
第一の提案は、「とにかく〝教会〟を重んじましょう」ということです。わたしたちの主なる神は、「教会を用いて」御自身のみわざを行ってくださるのです。わたしたちが教会において、また教会として行っている奉仕の働きは、それ自体が「神のみわざ」なのです。
第二の提案は、「教会においてこそ、とにかく〝人間〟を重んじましょう」ということです。これを言うと、つまずきを感じるという方がおられるかもしれません。「教会とは、人間を重んじる場所ではなく、神を重んじる場所である」と語るほうが、その方々には納得していただけるかもしれません。しかし、ここでこそ、もう一度思い起こしていただきたいことは、たった今申し上げた「教会は神のみわざである」ということです。
教会においては、神御自身が人間を重んじてくださるのです。神は教会において、教会を通して、わたしたち人間を、神御自身のみわざを推進するための道具として、尊く用いてくださるのです。神がわたしたち人間と「このわたし」を重んじてくださるのですから、神と共に判断すべきわたしたちもまた、〝人間〟 を重んじなければならないのです。
ただし、いま申し上げていることは、わたしたちは「教会に通っている人」だけを重んじるべきであって、それ以外の人々は軽んじるべきであるというような意味ではありません。そのようなことを神がお考えになるだろうかと考えてみるべきです。
そもそも伝道とは、誰に向かってすることでしょうか。わたしたちは、通常の理解によれば、すでに洗礼を受けている人々、すなわち、すでに教会の内側にいる人々に対して「伝道」はしないのです。わたしたちは、いまだに洗礼を受けていない人々、すなわち、いまだ教会の外側にいる人々に対してこそ「伝道」するのです。
事の真相がそうであるという場合に、わたしたちが繰り返し自分自身に問い続けなければならないことは「伝道は嫌味や皮肉や喧嘩腰で可能だろうか」ということです。「俗世間」を一方的に批判し、攻撃するばかりの、常にワサビと辛子を練り合わせたような、辛辣でネガティヴな言葉を重ねることが「伝道」でしょうか。
私には、そのようなやり方で「伝道」は無理だと思われてなりませんので、このことを一つの問いとして、皆さんの前に置いておきます。
第三の提案は、「伝道においてこそ、とにかく〝ノーマルであること〟を重んじましょう」ということです。
ファン・ルーラーの有名な言葉に「我々はキリスト者になるために人間なのではない。人間になるためにキリスト者なのだ」(英訳We are not human in order to become Christian, but we are Christian in order to become human.)というのがあります。これを別の言葉で言い換えるとしたら、 伝道の目的とは「特殊な人間」を生み出すことではなく、わたしたちが「普通の人間」になることにこそある、ということです。
私は、このファン・ルーラーの命題は非常に正しいものであると信じています。どう間違えても、傲慢の高みに立って「俗世間」を見くだすことが、わたしたちの伝道の目的ではありえないからです。
(2009年10月25日、改革派神学研修所東北教室神学講演会、日本キリスト改革派東仙台教会)