忘れた頃の「超訳聖書」です。
するどいツッコミには耐えられませんので、悪しからず。
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ローマの信徒への手紙8章18~25節
使徒パウロ著/関口 康「超訳」
そりゃもちろんね、苦しいですよ、ぼくらだって。
だけど、今ぼくらが味わってる苦しみなんてね、
ぼくに言わせてもらえば、どうっちゅことないんですよ。
だって、この苦しみを耐えた向こう側に、明るい明日が待ってるんだからね。
ただただ、その夢だけ見て生きてますよ、ぼくは。
全世界がぼくらに期待してくれてるんです、はっきり言って。
人生は空しいとか、生きる意味ないとかね、そういうことばっか言ってる世界が、ね。
そういうこと言ってる人たちだって、自分でそうなりたくてなったわけじゃないんだよ。
じゃあ、だれがそうしたのって話になるわけだけど、
もうそれは神さまだとしか言いようがないね。
ぼくらに空しさとかを味わわせる神さまって、どんなだよと、
つい言いたくもなるけどね。
だけど、だからこそ、世界には希望があるんですよ。
だって、空しいままでいたい人なんて、いないんだから。
あとは死ぬしかないとか、どうせ世界は終わるんだからとか、
そういう思いにとらわれてしまってどうしようもなくなっているときでも、
なんとかそこから這い出したいと、だれでも思っているんですよ。
その出口なしの堂々めぐり状態から自由になって、
キャッキャ言って遊んでる子どもたちの笑顔のような輝きの中で
神さまとぼくらが仲良く生きていけるときが来るんですよ。
それってやっぱりスゴイことなんです。
ぼくらが生きてる世界は神さまが造ったものですよ、それは信じてほしいです。
この世界がぼくらのことを期待してくれててね、
「早く生まれろ~、早く生まれろ~、う~ん、う~ん」てね、
「ひっ、ひっ、ふー」でもいいや、
さあ、これから赤ちゃんがお腹から出てこようとしているときのお母さんみたいに、必死にね、
ぼくらを産むために、全世界がふんばってくれてるんですよ。
産まれてくるぼくらのほうも、サボってるわけじゃないですよ。
ぼくらも必死ですよ。お母さんのお腹の中から自力で這い出しちゃうくらいの勢いあるぜ。
赤ちゃんは出てくるときは、ひーひーとかは言わないけどね、
出てきてから「どぎゃあ」と泣くまではね。
だけど、心の中で、っていうか、口には出せないけど、
赤ちゃんだって必死で泣いてるんですよ。狭いしね。
「こんなところから出てやる~」みたいな感じでね。
いま言ってるのは、もちろんたとえですよ。
何を言いたいのかって?
ぼくらがさ、教会とか信仰とか、何が悲しくてそんなものを守ったりしてるのか。
そんなものを守ろうとするから苦しむことがあるとかね。
そんなことにまるで興味を持ってくれない人たちが圧倒多数の中でね。
「なにそれ?」とか「宗教オタク」とか言われたりもしながらね。
自分でも何やってるのか分からなくなるとき、あるかもしれないよね、はっきり言って。
だけど、ぼくらは教会続けますよ。
信仰とか捨てられないですよ。
そういうことがなんでできるのか、ですよ、ぼくが言いたいことは。
それはやっぱり、さっき言ったことですよ、
全世界がぼくらに期待してるんだってば。
だって、空しいままでいたい人なんか、ひとりもいないんだから。
神さまとか、人生の意味とか、やっぱり知りたいんですよ。
そんなの知らなくていい、なんて人はいないですよ。
全世界がぼくらに期待してくれていると信じることが、ぼくらの希望だし、
そういう希望を持てること自体が、ぼくらの救いそのものですよ。
全世界が教会に期待してくれているかどうか、証拠見せてみろとか言われてもね、
そんなもん見せられませんよ。「期待」って見えるものなのか。逆に聞きたいよね。
だけど、目に見えないけど、本当にそうなんだよ。
信じろとか言っても無理かもしれないけど、信じるしかないじゃん。
目に見えないものだから、ぼくらは信じるんだよ。
もう見えてるものは、信じる必要ないじゃん。だって、目の前にあるんだから、
ぼくはね、自分で言うのもなんだけど、我慢強い人間です。
いつまでも待ちますよ。
ぼくは教会をあきらめない。