ヨハネの黙示録21・1~4
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(1節)。
この御言の中で聖書的・キリスト教的・改革派的に最も重要な意味を持っているのは「新しい地」という表現です。ヨハネが見た新しい世界には、「天」だけではなく「地」もあったのです!ここで「天国」という言葉を持ち出すなら、天国には地面があると、ヨハネは書いているのです。
私たちが「天国の人」と聞いて思い浮かべる内容はしばしば、地上から離れた場所、空中に浮き上がった場所に住んでいる人ではないでしょうか。ヨハネが見たものは、明らかに違います。たしかに、「最初の地は去って行った」と書かれていますが、「地」は去りっぱなしではありません。「新しい地」がもう一度、私たちのために取り戻されるのです。私たちキリスト者の希望は、現在においてだけではなく、将来においても、また永遠においても、地上に生き続けること、地に足をつけて生きることにあるのです。
神の国を意味する「新しいエルサレム」は、「神の許を離れ、天から降ってくる」とあります。そのとおり、まさに神の国は天におられる神の側に実現するのではなく、地上に生きる人間の側に実現するのです。
「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり」とあります。この出来事が起こるのは、新しい地に打ち立てられる「新しいエルサレム」、つまり「神の国」においてです。神にお会いするために、宇宙ロケットは必要ありません。私たちが「上」に昇っていくのではなく、神が「下」に降りてきてくださるのです。
そして、そのとき神が「彼らの目の涙をことごとく拭いとってくださる」。いつ、どこで流した涙でしょうか?もちろんこの人生の中で私たちが幾度となく流し続けてきた涙です!厄介な問題、苦労、挫折。心も体もボロボロに傷つく中で、これまでに流してきたし、これからも流し続けるであろうこの涙です。
この涙を主なる神御自身がぬぐい去ってくださる日が訪れます。それは、すべての人に「死」と共に自動的に訪れるものではありません。神と共に生きる喜びは、神を信じる者たちの中でこそ実現するでしょう。その喜びは私たちにとっては現在においてすでに、いくらか体験済みのことなのです。
(2002年12月29日、松戸小金原教会)
2002年10月1日火曜日
今なぜファン・ルーラーか(2002年)
関口 康
1999年2月、私たちは「ファン・ルーラー研究会」というメーリングリストを結成しました[a]。その目的は、20世紀中葉のオランダで活躍した改革派神学者、アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー[1908-1970]の神学論文や説教など、さらにファン・ルーラーを主題に取り上げた博士論文などを日本語に翻訳して紹介することです。メーリングリストでは、現代の教会と神学に関する各種情報交換も行っています。
現在のメンバーは60名強。全くの超教派グループです。また未信者の大学院生も参加しています。また、ユトレヒト大学のF. G. イミンク教授と、米国ニュージャージー州ニューブランズウィック神学校のP. R. フリーズ教授のお二人には、時々、メールを通してご指導いただいています。フリーズ教授は、1979年ユトレヒトでファン・ルーラーとシュライエルマッハーについての博士論文を書かれた方です。
メンバー同士はふだん、メールだけでやりとりしていますが、2001年9月3日日本キリスト改革派園田教会(尼崎市)で、初の公開シンポジウムを開催し、25名の参加を得ました。本誌主筆の深井智朗牧師も、友情をこめて参加してくださいました。講演・発題は、牧田吉和(神戸改革派神学校校長)、田上雅徳(慶應義塾大学助教授)、清弘剛生(教団大阪のぞみ教会牧師)、関口の4名が担当{b]。その内容は、近く創刊を予定している研究誌『ファン・ルーラー研究』(仮称)を通して世に問いたいと願っています。
研究会の最終目標は、日本語版『ファン・ルーラー著作集』の出版です。
さてここで、私たちが取り組んでいる神学者の生涯を、A. ド・フロート著「A. A. ファン・ルーラー教授略伝」の記述を中心に、手短にご紹介いたします。
ファン・ルーラーがその生涯において活動の主な拠点にした場所は、5箇所です(アーペルドールン、フローニンゲン、クバート、ヒルファースム、ユトレヒト)。
生誕の地はアーペルドールン(1908年)。両親は国教会系のオランダ改革教会(Nederlandse Hervormde Kerk)における「体験主義」の伝統を受け継ぐ家系で、父親はパン配達車を運転する人でした。貧しい家庭で、長男アルベルトが幼い頃から頭脳明晰であると知った両親は、小学校以上の進学をやめさせるつもりだったとか。最初職業学校に入学しますが、牧師になりたいという夢を実現するために、ギムナジウムに転校します。
フローニンゲン大学神学部に入学(1927年)。そこで、オランダ最初のバルト主義者T. ハイチェマの影響下にカール・バルトの教義学を学びますが、やがてバルトの神学が「信頼しうる実体をわずかしか持たない、冷たいもの」と知り、バルト批判に転じます。W. アールダースの指導下に書かれた卒業論文はヘーゲル、キルケゴール、トレルチの「歴史哲学」に関するものです。
大学卒業後、クバートの改革教会の牧師としての活動を始めます(1933年)。この時代のファン・ルーラーを有名にしているのは、学界デビュー作となる『カイパーのキリスト教的文化の理念』です。オランダの最も有力な改革派神学者アブラハム・カイパーの『一般恩恵論』を激烈に批判するものです。
その後、ヒルファースムの改革教会に転任(1940年)。第二次大戦に巻き込まれ、ナチス・ドイツ占領下のオランダにおいて、「セオクラシー」の理念に基づく反ナチ闘争を展開。1946年『宗教と政治』にはその時代の論文が収められています。第二次大戦後、「プロテスタント同盟」という政党の幹部となり、1946年総選挙用の党綱領や緊急政策を起草するなど活躍しますが、下院に議席を獲得できず惨敗。それを機に、彼は現実政治の舞台から退きます。1947年ハイチェマの指導下に神学博士号請求論文『律法の成就』を書き上げ、「最優秀賞」(cum laude)を受賞します。
同年、ユトレヒト大学神学部からの招聘を受け、神学教授としての活動を開始します。初めは聖書神学、国内教会史、国内・外国宣教学を担当。G. ブロミリーの英訳で有名な『キリスト教会と旧約聖書』は、この時期の聖書神学講義の成果です。1952年以降は教義学、キリスト教倫理学、国内改革教会史、信条と典礼文書、教会規則などの講義を担当します。1956年頃ドイツ各地で講演会を行ったとき、当時ヴッパータール神学校講師であった若きR. ボーレンとJ. モルトマンとの出会いがあり、「バルト後」の現代神学者に甚大な影響を与えたことは、有名です。
牧師・神学者としてのファン・ルーラーは、人気が高いラジオ説教者としても頭角を現わします。彼が亡くなる日まで二週に一度、朝の礼拝番組で説教を担当。放送後出版される説教集は、多大な読者を得ています。ラジオ局の調べでは、彼の説教を楽しみにしていたリスナーは、1245万人以上[c]。昨年日本で出版された使徒信条講解(『キリスト者は何を信じているか――昨日・今日・明日の使徒信条――』近藤・相賀訳、教文館、2000年)もラジオから生まれたものです。
1970年ファン・ルーラーは、62才で夭折します。妻J. A. ファン・ルーラー・ハーメリンクは、第一巻のみ夫自身の手で出版された『神学著作集』の続刊(第二巻から第六巻まで)や遺構集の編集を担当。彼女は5人の子育ての傍ら、教会法研究で法学博士号を取得するなど、多彩な人でした。
こうした彼の生涯は、少なくとも現代神学に関心を持つ人々にとってじつに興味深いものに違いないと、私は確信しています。
さて、私の知るところによりますと、現在日本国内でも海外でも多くの人々がファン・ルーラーの神学に強い関心を抱いています。今なぜファン・ルーラーなのでしょうか。
この問いに対して私は、ごく個人的な感想を語ることができるだけです。
私の確信によりますと、ファン・ルーラーの神学が持つ魅力は、その中において、一方で伝統的かつ古典的な「改革派教義学」なる契機があり、他方で「現代社会の世俗化」への強い肯定的評価に基づく斬新かつ通俗的な(!)提言の契機があり、その両契機が緊密に結び合っている点にあります。後者の契機にこの神学者固有の「アンガージュマン」を見ている研究者(J. レベル)がいます。
実際、彼の書物を読み始めると、その至る所に、きわめて厳密な神学的根拠を伴うユーモアやギャグ(!)が見つかり、度肝を抜かれること、しばしばです。
しかし、それは実にさわやかであり、教会と世界を明るくする言葉です。「世間」や「人間」の営みを極端に低く評価する高慢さから、キリスト者を解放する言葉です。罪と悪に対する楽観主義的態度に少しも陥ることなしに、神の創造としての人間と世界を全面的に肯定し受容しつつ、喜びと勇気をもって人が生きるための道を教える言葉です。これこそがキリスト教というものであり、神学というものではないでしょうか。多くの人々が、ファン・ルーラーの神学において、「喜びの神学」を見出して、魅了されているのです。
(小論、『形成』第372号、日本基督教団滝野川教会椎の樹会「形成」委員会、2002年、15-16頁)
編注(関口康)
[a] 「ファン・ルーラー研究会」は、2014年10月27日に解散した。
[b] 肩書きはすべて2002年時点。
[c] この数字は訂正する必要がある。再調査中。
1999年2月、私たちは「ファン・ルーラー研究会」というメーリングリストを結成しました[a]。その目的は、20世紀中葉のオランダで活躍した改革派神学者、アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー[1908-1970]の神学論文や説教など、さらにファン・ルーラーを主題に取り上げた博士論文などを日本語に翻訳して紹介することです。メーリングリストでは、現代の教会と神学に関する各種情報交換も行っています。
現在のメンバーは60名強。全くの超教派グループです。また未信者の大学院生も参加しています。また、ユトレヒト大学のF. G. イミンク教授と、米国ニュージャージー州ニューブランズウィック神学校のP. R. フリーズ教授のお二人には、時々、メールを通してご指導いただいています。フリーズ教授は、1979年ユトレヒトでファン・ルーラーとシュライエルマッハーについての博士論文を書かれた方です。
メンバー同士はふだん、メールだけでやりとりしていますが、2001年9月3日日本キリスト改革派園田教会(尼崎市)で、初の公開シンポジウムを開催し、25名の参加を得ました。本誌主筆の深井智朗牧師も、友情をこめて参加してくださいました。講演・発題は、牧田吉和(神戸改革派神学校校長)、田上雅徳(慶應義塾大学助教授)、清弘剛生(教団大阪のぞみ教会牧師)、関口の4名が担当{b]。その内容は、近く創刊を予定している研究誌『ファン・ルーラー研究』(仮称)を通して世に問いたいと願っています。
研究会の最終目標は、日本語版『ファン・ルーラー著作集』の出版です。
さてここで、私たちが取り組んでいる神学者の生涯を、A. ド・フロート著「A. A. ファン・ルーラー教授略伝」の記述を中心に、手短にご紹介いたします。
ファン・ルーラーがその生涯において活動の主な拠点にした場所は、5箇所です(アーペルドールン、フローニンゲン、クバート、ヒルファースム、ユトレヒト)。
生誕の地はアーペルドールン(1908年)。両親は国教会系のオランダ改革教会(Nederlandse Hervormde Kerk)における「体験主義」の伝統を受け継ぐ家系で、父親はパン配達車を運転する人でした。貧しい家庭で、長男アルベルトが幼い頃から頭脳明晰であると知った両親は、小学校以上の進学をやめさせるつもりだったとか。最初職業学校に入学しますが、牧師になりたいという夢を実現するために、ギムナジウムに転校します。
フローニンゲン大学神学部に入学(1927年)。そこで、オランダ最初のバルト主義者T. ハイチェマの影響下にカール・バルトの教義学を学びますが、やがてバルトの神学が「信頼しうる実体をわずかしか持たない、冷たいもの」と知り、バルト批判に転じます。W. アールダースの指導下に書かれた卒業論文はヘーゲル、キルケゴール、トレルチの「歴史哲学」に関するものです。
大学卒業後、クバートの改革教会の牧師としての活動を始めます(1933年)。この時代のファン・ルーラーを有名にしているのは、学界デビュー作となる『カイパーのキリスト教的文化の理念』です。オランダの最も有力な改革派神学者アブラハム・カイパーの『一般恩恵論』を激烈に批判するものです。
その後、ヒルファースムの改革教会に転任(1940年)。第二次大戦に巻き込まれ、ナチス・ドイツ占領下のオランダにおいて、「セオクラシー」の理念に基づく反ナチ闘争を展開。1946年『宗教と政治』にはその時代の論文が収められています。第二次大戦後、「プロテスタント同盟」という政党の幹部となり、1946年総選挙用の党綱領や緊急政策を起草するなど活躍しますが、下院に議席を獲得できず惨敗。それを機に、彼は現実政治の舞台から退きます。1947年ハイチェマの指導下に神学博士号請求論文『律法の成就』を書き上げ、「最優秀賞」(cum laude)を受賞します。
同年、ユトレヒト大学神学部からの招聘を受け、神学教授としての活動を開始します。初めは聖書神学、国内教会史、国内・外国宣教学を担当。G. ブロミリーの英訳で有名な『キリスト教会と旧約聖書』は、この時期の聖書神学講義の成果です。1952年以降は教義学、キリスト教倫理学、国内改革教会史、信条と典礼文書、教会規則などの講義を担当します。1956年頃ドイツ各地で講演会を行ったとき、当時ヴッパータール神学校講師であった若きR. ボーレンとJ. モルトマンとの出会いがあり、「バルト後」の現代神学者に甚大な影響を与えたことは、有名です。
牧師・神学者としてのファン・ルーラーは、人気が高いラジオ説教者としても頭角を現わします。彼が亡くなる日まで二週に一度、朝の礼拝番組で説教を担当。放送後出版される説教集は、多大な読者を得ています。ラジオ局の調べでは、彼の説教を楽しみにしていたリスナーは、1245万人以上[c]。昨年日本で出版された使徒信条講解(『キリスト者は何を信じているか――昨日・今日・明日の使徒信条――』近藤・相賀訳、教文館、2000年)もラジオから生まれたものです。
1970年ファン・ルーラーは、62才で夭折します。妻J. A. ファン・ルーラー・ハーメリンクは、第一巻のみ夫自身の手で出版された『神学著作集』の続刊(第二巻から第六巻まで)や遺構集の編集を担当。彼女は5人の子育ての傍ら、教会法研究で法学博士号を取得するなど、多彩な人でした。
こうした彼の生涯は、少なくとも現代神学に関心を持つ人々にとってじつに興味深いものに違いないと、私は確信しています。
さて、私の知るところによりますと、現在日本国内でも海外でも多くの人々がファン・ルーラーの神学に強い関心を抱いています。今なぜファン・ルーラーなのでしょうか。
この問いに対して私は、ごく個人的な感想を語ることができるだけです。
私の確信によりますと、ファン・ルーラーの神学が持つ魅力は、その中において、一方で伝統的かつ古典的な「改革派教義学」なる契機があり、他方で「現代社会の世俗化」への強い肯定的評価に基づく斬新かつ通俗的な(!)提言の契機があり、その両契機が緊密に結び合っている点にあります。後者の契機にこの神学者固有の「アンガージュマン」を見ている研究者(J. レベル)がいます。
実際、彼の書物を読み始めると、その至る所に、きわめて厳密な神学的根拠を伴うユーモアやギャグ(!)が見つかり、度肝を抜かれること、しばしばです。
しかし、それは実にさわやかであり、教会と世界を明るくする言葉です。「世間」や「人間」の営みを極端に低く評価する高慢さから、キリスト者を解放する言葉です。罪と悪に対する楽観主義的態度に少しも陥ることなしに、神の創造としての人間と世界を全面的に肯定し受容しつつ、喜びと勇気をもって人が生きるための道を教える言葉です。これこそがキリスト教というものであり、神学というものではないでしょうか。多くの人々が、ファン・ルーラーの神学において、「喜びの神学」を見出して、魅了されているのです。
(小論、『形成』第372号、日本基督教団滝野川教会椎の樹会「形成」委員会、2002年、15-16頁)
編注(関口康)
[a] 「ファン・ルーラー研究会」は、2014年10月27日に解散した。
[b] 肩書きはすべて2002年時点。
[c] この数字は訂正する必要がある。再調査中。
2002年9月1日日曜日
オランダ改革派の伝統と日本の教会(2002年)
関口 康
季刊『教会』編集部からご依頼いただきました小論のテーマは、「オランダ改革派の伝統に関する事なら何でも」というものでした。「エッセイ風に書いてください」との指示をいただいています。
私は1990年3月に東京神学大学大学院修了、97年まで日本キリスト教団教師でしたが、97年から98年まで神戸改革派神学校在学、現在は日本キリスト改革派教会の教師です。
移動に際し、神戸滞在中の私に与えられたテーマが「オランダ改革派の伝統と日本の教会」というものでした。
神戸改革派神学校の図書館には、世界の改革派神学・教会に関する多くの文献が収められています。オランダ語文献も豊富です。
残念に思ったこともありました。改革派神学校の図書館の中でさえオランダ改革派の文献の多くが、ほこりをかぶったまま眠っているように見えたのです。
眠らせたままでよいのだろうかという疑問を持ちました。そしてやや不遜ながら、眠らせておく位なら、私が読ませていただこうと思い立ち、オランダ留学の経験者である牧田吉和教授の指導の下、A. ファン・ルーラー(1908-70年)から学びはじめました。
私が教団時代から感じていたことは、現在の日本の神学と教会は、「オランダ改革派の伝統」を余りにも無視しすぎではないかということでした。
もちろん「改革派」はオランダだけに固有なものではありません。しかし、(日本キリスト改革派教会を含む)とくに旧日本基督教会の伝統を受け継ぐ諸教会は、歴史的に見て明らかに、「オランダ改革派の伝統」に負うものを持っているのです。
例えば、日本史上初のプロテスタント教団の「日本基督公会」を創立し、かつ日本のキリスト教的教育機関の先駆けとなるブラウン塾を作ったS. R. ブラウンは「米国オランダ改革派教会」の宣教師ではなかったのでしょうか。「公会主義」を受け継ぐ日本キリスト教団の皆様は、根本においてすでに「オランダ改革派の伝統」を受け継いでいるのです。
あるいは、日本キリスト教団の内部でさえ、「カルヴァン主義か、アルミニウス主義か」という議論がなされていたことをなつかしく思い起こしますが、アルミニウス自身は「オランダ改革派」の神学者であり、論争の本質はきわめてオランダ的な文脈の中でのみ理解しうるものではないのでしょうか。
それにもかかわらず、ブラウン塾の伝統を受け継ぐ東京神学大学にさえオランダ語講座、オランダ語神学書原典講読などの時間が、全く無い。最近では近藤勝彦教授がこの方面の講義をしておられると伺っていますが、私の記憶するかぎり、少なくとも十数年前の東神大において、バルトとの関係でG. ベルカウワーの名前が僅かに紹介されること以外、オランダ改革派神学者の名前や著作が本格的に紹介されることは、ほとんどありませんでした。
もちろん個人で学んでいる方々は、少なからずおられるでしょう。しかし、大学という公的機関の営みにならないかぎり組織的・継続的動きになりにくいのではないでしょうか。
現に、日本のキリスト教書店の書棚に、現代のオランダ改革派神学者の書物は皆無に等しい。まるで現代のオランダには偉大な神学者が一人も居ないかのようです。しかしそれは事実に反することであり、私たちの多くが知らない(知らされていない)だけです。
試しに一度でも現代のオランダ改革派神学者たちの書物を開いていただけば、その豊かさや学問的厳密さ、敬虔さを実感していただけることでしょう。これらが日本語で紹介されるなら、日本のキリスト者は大きな恩恵を受け取ることができると私は確信しています。
もっとも、今の私が思い描いている「オランダ改革派の伝統」とは、神学とりわけ組織神学と実践神学の分野に限定されるものです。
例えばファン・ルーラーのことを考えています。彼はユトレヒト大学神学部の教授として、国教会系の改革教会(Hervormde Kerk)を代表する教義学者でした。
ファン・ルーラー以前の国教会系内の代表的神学者には、フローニンゲン大学のT. ハイチェマ教授や、生涯牧師として働いたO. ノールトマンスがいました。
またファン・ルーラーの同時代人にはレイデン大学のH. ベルコフ教授やフローニンゲン大学のA. レケルカーカー教授がいました。レケルカーカーには教義学や礼拝学に関する著書の他、オランダ聖書学が総力を結集した注解シリーズ『新約聖書の説教』(De prediking van het nieuwe testament)の中の「ローマ書」全二巻があります。
ところで現在国教会系に属する神学者で私が最も尊敬するのは、先年二度も来日されたユトレヒト大学神学部G. イミンク教授です。同教授は、実践神学部門におけるファン・ルーラーの神学的後継者です。教授からのメールによると、ユトレヒトの教義学者でファン・ルーラーを継承している人は残念ながら皆無であるとのことでした。
また19世紀中に国教会系から分離して創立された改革派教会(Gereformeerde Kerken)においてはA. カイパー、H. バーフィンク、G. ベルカウワーと続くアムステルダム自由大学の神学的伝統があります。
バーフィンクの金字塔である『改革派教義学』全四巻は、米国の改革派神学者らを中心に結成されている「オランダ改革派神学刊行会」(Dutch Reformed Translation Society)によって英訳されているところです。
しかし、この伝統は1960年代に大きな変革の時期があり、新しい歩みを始めています。現在のアムステルダムグループの実践神学者であるG. ヘイティンク教授によると、この変革の意義は「ファンダメンタリズムからの解放」にあったとのことです。同教授の『実践神学』(1993年)は近・現代の思想史を踏まえて書かれた好著です。
同じく国教会系に属していない教派としてキリスト改革派教会(Christelijke Gereformeerde Kerken)があります。同教派と日本キリスト改革派教会との間には正式な連絡関係があります。
彼らが経営するアーペルドールン改革派神学大学は、J. ファン・ヘンデレン、W. H. フェレーマといった教義学者、またカルヴァン学者として国際的に有名な教会史家ファン・トゥ・スペイカー教授らの名前で知られています。ファン・ヘンデレンとフェレーマ共著の『改革派教義学概論』(初版1992年)は英語圏やドイツ語圏の現代神学者の成果を豊かに踏まえて書かれた最新・最良の教義学教科書です。
最後に、前記二者と同じ非国教会系として最も新しい歴史を持つオランダ改革派教会・解放派(Gereformeerde Kerken in Nederlands Vrijgemaakt)があります。彼らと日本キリスト改革派教会との間にも連絡関係があります。邦訳書もある教義学者K. スキルダーのリーダーシップによって生み出された教派として知られています。
私の見方では、現時点においてオランダ改革派の諸伝統の特徴や相違点を説明する際に「より保守的」とか「より聖書的」といったたぐいの区分表示を持ち出すことは、全く無意味とは言いませんが、有効な説明になっていないと感じます。
それどころか、日本の教会的状況からすれば、ほとんど一つの伝統に見えるはずです。
今や彼らは、再一致・再合同に向かって産みの苦しみを味わっているのです。
(日本基督教団改革長老教会協議会『季刊 教会』第48号、2002年、掲載)
季刊『教会』編集部からご依頼いただきました小論のテーマは、「オランダ改革派の伝統に関する事なら何でも」というものでした。「エッセイ風に書いてください」との指示をいただいています。
私は1990年3月に東京神学大学大学院修了、97年まで日本キリスト教団教師でしたが、97年から98年まで神戸改革派神学校在学、現在は日本キリスト改革派教会の教師です。
移動に際し、神戸滞在中の私に与えられたテーマが「オランダ改革派の伝統と日本の教会」というものでした。
神戸改革派神学校の図書館には、世界の改革派神学・教会に関する多くの文献が収められています。オランダ語文献も豊富です。
残念に思ったこともありました。改革派神学校の図書館の中でさえオランダ改革派の文献の多くが、ほこりをかぶったまま眠っているように見えたのです。
眠らせたままでよいのだろうかという疑問を持ちました。そしてやや不遜ながら、眠らせておく位なら、私が読ませていただこうと思い立ち、オランダ留学の経験者である牧田吉和教授の指導の下、A. ファン・ルーラー(1908-70年)から学びはじめました。
私が教団時代から感じていたことは、現在の日本の神学と教会は、「オランダ改革派の伝統」を余りにも無視しすぎではないかということでした。
もちろん「改革派」はオランダだけに固有なものではありません。しかし、(日本キリスト改革派教会を含む)とくに旧日本基督教会の伝統を受け継ぐ諸教会は、歴史的に見て明らかに、「オランダ改革派の伝統」に負うものを持っているのです。
例えば、日本史上初のプロテスタント教団の「日本基督公会」を創立し、かつ日本のキリスト教的教育機関の先駆けとなるブラウン塾を作ったS. R. ブラウンは「米国オランダ改革派教会」の宣教師ではなかったのでしょうか。「公会主義」を受け継ぐ日本キリスト教団の皆様は、根本においてすでに「オランダ改革派の伝統」を受け継いでいるのです。
あるいは、日本キリスト教団の内部でさえ、「カルヴァン主義か、アルミニウス主義か」という議論がなされていたことをなつかしく思い起こしますが、アルミニウス自身は「オランダ改革派」の神学者であり、論争の本質はきわめてオランダ的な文脈の中でのみ理解しうるものではないのでしょうか。
それにもかかわらず、ブラウン塾の伝統を受け継ぐ東京神学大学にさえオランダ語講座、オランダ語神学書原典講読などの時間が、全く無い。最近では近藤勝彦教授がこの方面の講義をしておられると伺っていますが、私の記憶するかぎり、少なくとも十数年前の東神大において、バルトとの関係でG. ベルカウワーの名前が僅かに紹介されること以外、オランダ改革派神学者の名前や著作が本格的に紹介されることは、ほとんどありませんでした。
もちろん個人で学んでいる方々は、少なからずおられるでしょう。しかし、大学という公的機関の営みにならないかぎり組織的・継続的動きになりにくいのではないでしょうか。
現に、日本のキリスト教書店の書棚に、現代のオランダ改革派神学者の書物は皆無に等しい。まるで現代のオランダには偉大な神学者が一人も居ないかのようです。しかしそれは事実に反することであり、私たちの多くが知らない(知らされていない)だけです。
試しに一度でも現代のオランダ改革派神学者たちの書物を開いていただけば、その豊かさや学問的厳密さ、敬虔さを実感していただけることでしょう。これらが日本語で紹介されるなら、日本のキリスト者は大きな恩恵を受け取ることができると私は確信しています。
もっとも、今の私が思い描いている「オランダ改革派の伝統」とは、神学とりわけ組織神学と実践神学の分野に限定されるものです。
例えばファン・ルーラーのことを考えています。彼はユトレヒト大学神学部の教授として、国教会系の改革教会(Hervormde Kerk)を代表する教義学者でした。
ファン・ルーラー以前の国教会系内の代表的神学者には、フローニンゲン大学のT. ハイチェマ教授や、生涯牧師として働いたO. ノールトマンスがいました。
またファン・ルーラーの同時代人にはレイデン大学のH. ベルコフ教授やフローニンゲン大学のA. レケルカーカー教授がいました。レケルカーカーには教義学や礼拝学に関する著書の他、オランダ聖書学が総力を結集した注解シリーズ『新約聖書の説教』(De prediking van het nieuwe testament)の中の「ローマ書」全二巻があります。
ところで現在国教会系に属する神学者で私が最も尊敬するのは、先年二度も来日されたユトレヒト大学神学部G. イミンク教授です。同教授は、実践神学部門におけるファン・ルーラーの神学的後継者です。教授からのメールによると、ユトレヒトの教義学者でファン・ルーラーを継承している人は残念ながら皆無であるとのことでした。
また19世紀中に国教会系から分離して創立された改革派教会(Gereformeerde Kerken)においてはA. カイパー、H. バーフィンク、G. ベルカウワーと続くアムステルダム自由大学の神学的伝統があります。
バーフィンクの金字塔である『改革派教義学』全四巻は、米国の改革派神学者らを中心に結成されている「オランダ改革派神学刊行会」(Dutch Reformed Translation Society)によって英訳されているところです。
しかし、この伝統は1960年代に大きな変革の時期があり、新しい歩みを始めています。現在のアムステルダムグループの実践神学者であるG. ヘイティンク教授によると、この変革の意義は「ファンダメンタリズムからの解放」にあったとのことです。同教授の『実践神学』(1993年)は近・現代の思想史を踏まえて書かれた好著です。
同じく国教会系に属していない教派としてキリスト改革派教会(Christelijke Gereformeerde Kerken)があります。同教派と日本キリスト改革派教会との間には正式な連絡関係があります。
彼らが経営するアーペルドールン改革派神学大学は、J. ファン・ヘンデレン、W. H. フェレーマといった教義学者、またカルヴァン学者として国際的に有名な教会史家ファン・トゥ・スペイカー教授らの名前で知られています。ファン・ヘンデレンとフェレーマ共著の『改革派教義学概論』(初版1992年)は英語圏やドイツ語圏の現代神学者の成果を豊かに踏まえて書かれた最新・最良の教義学教科書です。
最後に、前記二者と同じ非国教会系として最も新しい歴史を持つオランダ改革派教会・解放派(Gereformeerde Kerken in Nederlands Vrijgemaakt)があります。彼らと日本キリスト改革派教会との間にも連絡関係があります。邦訳書もある教義学者K. スキルダーのリーダーシップによって生み出された教派として知られています。
私の見方では、現時点においてオランダ改革派の諸伝統の特徴や相違点を説明する際に「より保守的」とか「より聖書的」といったたぐいの区分表示を持ち出すことは、全く無意味とは言いませんが、有効な説明になっていないと感じます。
それどころか、日本の教会的状況からすれば、ほとんど一つの伝統に見えるはずです。
今や彼らは、再一致・再合同に向かって産みの苦しみを味わっているのです。
(日本基督教団改革長老教会協議会『季刊 教会』第48号、2002年、掲載)
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