言い訳は見苦しいかぎりですが、
ファン・ルーラーの翻訳がなかなか進まない理由。
ファン・ルーラーは深い人なんです。
徹底的にどこまでも掘り下げようとする人です。
そのファン・ルーラー先生にすっかり触発されて、
ぼくまで掘り下げたくなってしまうんです。
書き方がけっこうアフォリズムで、
短くて鋭い言葉をパッパッパッと提示していくところは読むたびにうなるのですが、
説明も注釈もなしにパッパッパッとテンポよく来るもんだから、
日本人読者、というのはぼくのことですが、ぜんっぜん分かんないことだらけなんです。
とくに歴史上の人名とか、過去の神学概念。
それが注釈なしに出てくるもんですから、イチイチ調べなくちゃならない。
調べなくちゃならないって言っても、ぼくも怠慢なのが悪いんですが、
いろんな図書館を探し回るほどの機動力があればいいんですが、
それよりもネットで探して買っちゃう。
だけど、お金もかかるし、外国の書店から本が届くまでに時間がかかる。
今は子どもたちの教育費にお金がかかる時期なので、新しい本は全く買えない。
たとえば、この写真の本ですが、
左から
コクツェーユス『契約論』(現代オランダ語版)
ファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)
『リュースブルク全集』全四巻
ファン・ニーウェンホーフェ『リュースブルク研究』
シュレーダー『ファン・ローデンステイン研究』
ファン・ヘンデレン他編『第二次宗教改革研究』
みたいなものを集めてきましたが、これらの本は、
ファン・ルーラーの論文の中に「コクツェーユスは」とか「リュースブルクによると」とか「ファン・ローデンステインの言葉で言えば」とか「第二次宗教改革」の話がパッパッパッと出てくるので、
仕方なく購入したものです。
だって、訳書だって責任は重大ですよね。
訳者には意味も内容も分からないけど原著者が書いているから、そのまま「横のものを縦にしました」というわけには行かない。
ぼくは自分のブログには「そんなの知らねーよ」くらいの乱暴な言葉はいくらでも書いてきましたが、
もし将来、自分の訳した本が出版される日が来て、それを買ってくださる方がいて、その方から質問を受けたときに「そんなの知らねーよ」とお答えしたりは、ぜったいしません。そんな感じになるくらいだったら、出版しないほうがいいんです。
だけど、コクツェーユスも、リュースブルクも、ファン・ローデンステインも、第二次宗教改革も、一つ一つがものすごく深い思想世界を持っていますので、
そこにも引き込まれながら、それでもなお「本題の」ファン・ルーラーにぼくの集中力を戻していくというのが一苦労なんです。
たとえば、ぼくが持っている『リュースブルク全集』(写真中央の四巻本)は、とても美しい状態で保存されていた古書なのですが、
それは1940年代に出版された古い全集だったことが購入後に分かり(だから購入を後悔しているという話ではありません)、
今ではもっと新しい全集が出版されている、とか、
そういう情報を得ると、ファン・ルーラーとは全く無関係の問題なのですが、それはそれで興味がわいてきますし。
左から二番目のファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)についても、
この本の原著オランダ語版の原題はAmicitia Deiというのですが、
このラテン語の読み方をぼくらはアミキティア・デイだと思っていたら、
5年前に石原知弘先生と一緒にファン・アッセルト先生ご自身から「いやいや、その発音はアミシティア・デイだ」と教えていただいたり。
それで、また調べ直したら、同じラテン語でもキリスト教用語限定の発音方法があり、その場合はciはキではなくシだということが分かるとか。
もう、それはそれで面白くて仕方ないのですが、「本題の」ファン・ルーラーはそっちのけになってしまいます。
出版関係の方々にとっては、ぼくのような人間のすることは、利益には全くつながらないものなので、もうどうしようもないですね。
ぼくはスピードとか成功とか成果とか、そういうものとは全く無縁な人生です。マッドですね。松戸のマッド。