ふいに思い出したのは、学生時代の先輩の言葉です。
三鷹の学生寮のぼくの部屋の本棚を見て
「きみは揃いものが好きなんだね」
と言われたことがあります。
その先輩が誰だったのかは覚えていません。その人の顔が思い浮かびません。
でも、先輩のおっしゃったこと、当たっていました。
ぼくは揃えたくなる人間です。「収集癖」のようなものが、たぶんあります。
なぜ揃えたくなるのかは分かりません。その理由を知りたいわけではありません。
ただ、分かったことがあります。
それは、どんなに偉大な先生でも 一生の間にできる仕事は限られている、ということです。
当たり前のことですが、揃えてみて納得できました。
この写真の上の段は、ベルカウワー(1903-1996)の本とベルカウワーについて書かれた本です。
下の段は、ファン・ルーラー(1908-1970)の本とファン・ルーラーについて書かれた本です。
いずれもパーフェクトなコレクションではありませんが、かなり網羅できていると思います。
ベルカウワーとファン・ルーラーは二人ともオランダの改革派神学者でした。
ほぼ同時代に活躍しましたが、所属教団が異なるため、主張に違いはありました。
二人の関係を研究することは、大きな意義があります。
それよりぼくがいま言いたいことは、二人の著作の量です。
「すごくたくさんある。だけど、この程度のものだ」
ということです。
どれほど偉大な神学者でもバケモノではありません。人間です。
人ひとりの一生の間に書き残しうる言葉には、限界があります。
「揃えて」みて初めて、そのことが分かりました。
それでぼくは、ほっとしたのです。
神学をなめてはいけません。しかし、むやみに恐れることもありません。
何を言ってるのか分からなくなってきましたので、このへんで終わります。