いま、小宮山裕一先生がチャットで話しかけてくださったので、応答していました。
小宮山先生によると、
「来たるべき永遠の生への瞑想」の議論をカルヴァン自身の病弱や死期の悟りのようなものと結び付けるカルヴァン研究者がおられますよ、とのことでしたので、次のようにお応えしました。
以下、コピペ。
ぼくもそのことを全く考えなかったわけではありませんが、もしそれが事実であれば、カルヴァンという人は、自分の病気や死という彼の個人的なことを普遍的な神学命題にまで引き上げた人だという感じになってしまうと思うのですが、それでいいのでしょうかねと疑問が残ります。
「殉教」は個人の問題ではなく教会の問題であり、共同体の問題です、よね。だけど、「病気」は、個人の問題だと思うのです。
「来たるべき永遠の生への瞑想」についてのカルヴァンの綱要のテキストを何度も繰り返し読んでみていただくと、教会員への、あるいはすべてのキリスト者への呼びかけのような言葉であることが分かると思います。
自分が病気だから、自分がもうすぐ死ぬかもしれないから、教会員に対して「地上の生を軽んじろ」と勧める牧師って、なんだか変だと思いませんか。他人を巻き添えにしないで、じぶんひとりで死んでくださいと、ぼくなら言いたくなりますよ。
だけど「殉教」という理由なら、話は噛み合うような気がするんです。肉体を滅ぼすことができても魂を滅ぼすことができない者たちを恐れるな、という線で理解できるのではないかと。