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2025年8月21日木曜日

教会が好きなので教会が嫌いになりそうになる

「東京スカイツリーが見える」と言いたがっている 2024年10月24日撮影

【教会が好きなので教会が嫌いになりそうになる】

日本で創立以来100年越えのプロテスタント教会が少ないとも言えなくなってきた昨今の状況はうれしいかぎり。しかし、「歴史的建造物だから」「我々の『格』ならこれくらいは」などの理由で数百名収容可能規模の礼拝堂を維持しているものの、空席が目立つ「さびしい」礼拝の教会の苦しさは、私なりに理解している。

苦しみを感じている個人や集団についての言説に必要なのはデリカシー。また、私個人は現時点で「数百名収容可能規模の礼拝堂を維持している教会」の牧師ではないが、教団・教区・支分区などのつながりがあるため「部外者」とも言いがたい立ち位置にいるので、ずけずけ言うつもりはない。

逆転発想と言えるほど逆ではないが、最近よく考えるのは、どれほど広い礼拝堂で空席が目立つような気がするとしても、果たしてそれは「空席」なのかと、その教会自身が自問自答することが大切かもしれないということ。古めかしい横長のベンチにぎゅうぎゅう詰めで座りたいと思う人は、もういないだろう。

それと、「数百名収容可能規模の礼拝堂を維持している教会」の牧師がたが、教団・教区・支分区や対外的な仕事で忙しいからか、原稿なしのアドリブトークライブかと思える、ずいぶん雑駁な説教をしておられる気がして心配している。説教準備しかすることがない牧師の説教のほうが聞きごたえがある場合があると思う。

足を引っ張る意図は無い。日本のキリスト教宣教の進展だけが私の願い。1990年春、日本基督教団東中国教区の常置員会だったかで補教師受験資格にかかわる面接を受けたとき「日本の」を言うと「アジアの視点が欠落している」と私を非難したどなたか(不明)の言葉を忘れたことは無い。私が気に入らなかったらしい。

昨日出席した会合で初めて知った。教団総会に出された重要な議案が「時間切れ審議未了廃案」になることを願った人たちが総会閉会時刻直前に「カウントダウン」をして提案者を侮辱したという話。私が教団を離れていた間(1997年1月から2015年12月まで)らしい。私は詫びる立場にないが、申し訳なく思う。

2025年8月20日水曜日

外国語の神学書をどんどん読んでくれるエーアイ

キリスト教神学資料室(牧師館内) 2024年10月24日撮影

【外国の神学書をどんどん読んでくれるエーアイ】

人工知能の使い道の話に私の出る幕は無いと思っているが、個人的に期待しているというかすでにフル稼働中の分野は、大量に譲り受けた外国語の神学書の乱読。古くて忘れ去られたものばかりで、翻訳出版の話などありえず、プロ翻訳家の出版物を待っても無駄。「正確な訳」かどうかより「読むこと」が重要。

来春、研究発表してくれと言われている日本の昔の神学者の背景を調査する中、その人が留学先で指導を受けた可能性があるアメリカの組織神学者が書いた教科書が私の書斎にある。そういうのをざっくり読むために人工知能の翻訳能力は大いに頼れる。積(つ)ん読(どく)が読(よ)ん読(どく)になる。

語学が得意な人たちがときどきSNS等で、自慢の語学で暗号のように何かつぶやくのを見かける。ボタンひとつで何を言っているかほぼ分かる。あいさつ程度の場合が多い。ドイツ語のひげ文字も、ヘブライ語も、ペルシア語なども同じ。くさび形文字はどうかは知らないが、たぶんボタンひとつで訳してくれそう。

人工知能のせいで「語学を学ばない人が増えるかもしれない」ことを危惧する向きがあるかもしれないが、別の考え方もできるだろう。死蔵する他なかった諸外国の文献の思想世界に突入できるようになった。出版に値するかどうかを「正しい訳」というなら別の話になっている。読むか読まないかだけが問題。

神学書の翻訳出版は今後も期待したいが、私個人は新刊書籍を定価どおり買えたためしがない。図書館という空間に馴染めない人間なので、自分で本を所有したいが、わが書斎の本はどれもこれも初めから20年30年経て安くなってから買ったものばかり。最近は某オクに出品された遺品と思われるもの。

自分で買ったものではなく無償で譲り受けた大量の本の中に外国語のものが多い。ルターの英語版全集。大量のカルヴァン研究書(英語、ドイツ語、オランダ語)。数十年分の米国カルヴァン神学校の紀要。これまた大量の現代の組織神学。カール・バルト、ボンヘッファー、ユンゲル、パネンベルク、ハンス・キュンク。

日本語版を新刊の定価で買うお金が無いので、人工知能に読んでもらっている。それを私が出版するわけではないので「正しい訳」かどうかは、さほど問題ではない。そこで何が話題になっているか、どういう解決策が提案されているか、その提案が日本のキリスト教宣教にとって有益かどうかが分かればよい。

「出版」の概念も昔とは大きく変わっただろう。ブログやSNSの記事は訂正や削除や改変が容易すぎるので、学術論文などの土台にするのはいまだに難しそうだと私も思う。しかしネット記事の可変性や流動性は長所でもある。「正しい訳」よりも「いま必要な言葉」を得ることのほうが重要な場面がある。

2025年8月18日月曜日

博士の従者ではない

キリスト教歴史資料室(牧師館内) 2024年10月24日撮影

【博士の従者ではない】

宗教法人うんぬんの話ではないし、教団・教派の「構造」の話に近いが同じではない。自分の属するグループのようなものがあり、その中に博士(Th. D.)の学位を持つ神学者がいて、その人の判断がグループを拘束するほどの力を持っていれば、自分で考えなくて済む教師(牧師)が増えて、私なども助かる。

そういう「構造」になっていない場合や、そもそも何のグループにも属していない教師(牧師)たちは、すべてを自分で考えなくてはならない。あえて大げさに言うが、キリスト教史2000年分をカバーするだけの規模の本の自己所有が必要。それができない場合は、だれかのコピー、または従属関係に置かれる。

極端な言い方なのは自覚している。買って持っているというだけで1ページすら読めていない本がかなりあることを隠すつもりはない。すべての教師(牧師)がTh. D.である必要は当然ない。自分で考え、自分で判断できる自由を得るためのコストはけっこう重いということを認識してもらいたくて書いている。

今これを書きながら福沢諭吉さんの『学問のすゝめ』を思い出していることも隠さないでおく。基本的なことは何でも自分でできるようになるために学問がある、自分にできないことがあってそれを学ぶ気がなければ誰かに従属する立場に置かれざるをえない、というわけだろう。教師(牧師)も同じだと思う。

2025年8月16日土曜日

普通自動二輪車免許取得2周年

2025年4月16日撮影


【普通自動二輪車免許取得2周年】

一昨日8月14日は「普自二」(ふじに)2周年。10月24日が「大自二」(だいじに)2周年。パニアとかつけて250キロほどの取り回しは慣れた。完こけしたとき起こせるかどうかの問題もあるが、発進時エンストで「あっ」てとき、250キロが200キロでも支えられないと思う。同じなので、ニンジャ1000おすすめ。

「大自二」が2周年ということはSHAKENなのだ。分かっていたこととはいえ重い。ぜいたくのつもりはないけれど。あっという間の2年だった。まあでも、この巨体をあれだけの速度(法定速度内)で走らせている立場としては車検なしだと逆に怖い。今回通れば次は2年後なので、しっかり診てもらおうと思う。

そもそも私の「大自二」取得の目的が「高速道路(特に首都高)を安心して走るため」だったので、PA・SA以外ノンストップ走行が前提。途中で分解とかされると困る前提(それは高速でなくても)。タイヤのバースト経験はまだ無い、いや待て、四輪時代はあったかも。四輪なら転倒はしないが二輪はこける。

20年ほども前から、ちょうど20歳若い牧師が私のことを「20年早い」と言ってくれていて、うれしいのか悲しいのか分からない。20年後の牧師は大型バイクに乗っているのだろう。紙の本は無しで、オールデジタル。そうすれば転任のたびにダンボール100箱とかにならずに済む。良い将来と言えない気がする。

2025年8月14日木曜日

世代論から見た宣教の課題

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【世代論から見た宣教の課題】

いわゆる世代論で「バブル世代」「オタク第一世代」など言われるのがちょうど私あたり。教会の文脈ではいまだ若手だが、10歳年上くらいの教師(牧師)の隠退者や逝去者が増えている。教会員も然り。ためしに説教で90年代トレンディドラマや昔のアニメの話題を出して眉をひそめられることが減っている。

宣べ伝える者は「宣べる(述べる)」で済まず「伝える(伝わる)こと」まで責任を負う。学校で聖書の授業をした常勤1年、非常勤5年で知ったのは、聖書に興味がわくのは自分たちが見ているアニメや、しているゲームの用語や場面と結びつくとき。しかし私はゼロ年代以降のアニメやゲームを知らなかった。

常勤講師として教壇に立ったのが2016年。高1と高2で聖書の授業をした。彼らはゼロ年代生まれ。私の子どものころのマンガやアニメを知る生徒はほぼ皆無。私の息子も娘も前世紀末生まれ。彼らの横で親として見たコンテンツは、私が教えた生徒たちとは世代がずれるので話が合わない。「知らない」と反応される。

私が自分のブログを作ったのが2005年。アニメの話題を書いたら某キリスト教メディアが関心を寄せてくださり、その後少し仕事をいただけたりしたが、長続きしなかった。それは私はあくまで親として子どもたちの観ているアニメやマンガを横から見ていただけだったから。私自身はオタクではなかったから。

「自然神学論争」のような大げさな話をするつもりはないが、説教に「聞く耳」を求める努力は必要。それはドストエフスキーやトルストイでなければならないか。私は一向に理解できない。ワンピースはオハラ編までで挫折。共通話題を探すことは説教者の責任。遊んでいるだけのように見えるかもしれない。

私と同世代か近い前後の説教者がテレビドラマ(特に朝ドラ)、映画、プロ野球などスポーツ(Eスポーツ除く)、選挙と政治、環境問題、国際紛争あたりに「聞く耳」を求めがちなように見えることについては共感半分、不満半分。教養主義の名残りに見える。「遊んでいるだけ」と思われたくないのは同じ。

自分がしていることを過大評価しがちなのはお互いさまなので、お許しいただきたい。「バイク」と「アニメ」と「自炊」は、説教を「聞く耳」になる可能性があると思っている。教会内の教養主義っぽい人たちが眉をひそめて軽蔑してきたように見えたあたり。その軽蔑をまずは取り下げてもらう必要がある。

2025年8月11日月曜日

「木に竹は接げない」を巡る断想

お台場(撮影日不明)。記事とは関係ありません。


【「木に竹は接げない」を巡る断想】

映画やテレビドラマやアニメをジャンル問わずたくさん観ることを最近は「雑食」というらしいことをGrokが教えてくれた。別の言い換えは無いかと尋ね返したら「博覧」はどうかと提案してくれた。「ペダンチックだね」と返したら「観まくり」を再提案してくれた。近いことは近いが、まくるのかと思った。

私の中の権威主義が発動。そういうのをなんかちらつかせている気がする自分が嫌い。卒業した2つの神学校の卒論・修論の指導教授(近藤勝彦氏、牧田吉和氏)の名を拙ブログの自己紹介で公開。寝た子は起こさないほうが無難。私の恩師はファン・ルーラーなので。

私個人は「ご冥福を」とはどの相手にも言わないが、キリスト教的な表現をそうではない相手に使うこともない。厳密なことを言うつもりはないが、遺族の心境をおもんぱかって「言葉にならない」ことをかろうじて少ない言葉で弔意を伝えることが、したいこと。宗教中立的な共通表現があれば助かる気がする。

牧師である者は、転任するたびに新たに出会う(各個)教会の、①創立以来のあり方を基本的に踏襲すること、②歴代牧師の存在と教説を尊重すること、③数世紀前の外国教会の伝統などにいきなりさかのぼって「超越的」批判などしようと思わないことが大事。木に竹は接げない。いつか必ず切断の日が来る。

2025年8月7日木曜日

嫉妬

2025年4月17日 ChatGPTに
石ノ森章太郎風に描いてもらった自画像

【嫉妬】

以前はもっと多かった。私は現在、4つのブログを管理している。自分の日記現在の教会カルヴァン学会拙訳ファン・ルーラー著作集。各記事のアクセス数が分かるので、嫉妬心が生まれる。最多アクセス獲得記事がどれも有名人に関係する。私ではない。承認欲求という言葉は苦手だが、それが高まる。

カルヴァン学会のブログならカルヴァン、ファン・ルーラー著作集のブログならファン・ルーラーがそれぞれの最多アクセスを得るかというと、それほど単純ではない。講演会に来ていただいた講師の知名度や、記事の有用性の高さによる。「〇〇大学教授」の肩書きがモノを言う。記事の有用性の件は別の話。

赤裸々に書いておく。拙訳ファン・ルーラー著作集ブログの過去最多アクセスページは「神学用語」。オランダ語の文献に基づいて作成したラテン語とオランダ語と日本語の対訳。多くの方にご活用いただけるのはうれしいこと。神学用語に嫉妬している私。「神学用語め、人気を集めちゃって」と思っている。

私の日記と現在の教会のブログで過去最多アクセスを獲得したのは北村慈郎先生のお名前を拝借しているページ。私が北村先生に嫉妬するのがおかしいことは承知している。足元にも及ばない。関連しているかもしれないのは、次にアクセスが多いのが私の自己紹介ページ。「何者だ」と反応されているようだ。

2025年8月6日水曜日

ヘドラの記憶

2024年6月4日、伊豆大島で撮影。青い海を守りたいですね!


【ヘドラの記憶】

「ゴジラ対ヘドラ」(1971年)を昨夜初めて観た。私は5歳で幼稚園の年長組だったが、実は岡山で祖母と映画館まで行き、チケットを買って席に座ったが、冒頭3分で直視に堪えなくなって帰ったことをはっきり覚えている。祖母には申し訳ないことをした。それ以来ヘドラはトラウマで、54年間逃げてきた。

何がそんなに怖かったのかがやっと分かった。なんとなく覚えていたが、そのとおりだった。東京湾のヘドロに埋まりながら浮かぶマネキン、古時計、そしてヘドラの赤い目。子どもの頃から目が怖い。実家にあった海外童話シリーズの「ヘンゼルとグレーテル」の挿絵の目が怖くて、あの巻だけ開かなかった。

3分で逃げ出した映画だったので、ストーリーを知らなかった。意外なほど明るかった。若き社会運動家たちが「ゴーゴー喫茶」や富士山麓で「公害反対ゴーゴー」を歌って踊る。なかなかシュール。5歳児には社会派すぎた。その年のクリスマスに洗礼を受けた私だが、ヘドラの恐怖には勝てなかった。

「ゴジラ対ヘドラ」が私のトラウマになった理由は、冒頭の東京湾の描写のせいだけではない。祖母に申し訳ないことをしたという思いが残り続けた。私に手こずったからか、帰り道で祖母が転んで怪我をした。私のせいではないと言ってくれたが、罪悪感がいつまでも抜けなかった。そのヘドラとやっと向き合えた。

それにしても、今年の夏の恐怖すべき異常な暑さは何。もしみんなでゴーゴー喫茶や富士山麓で「公害反対ゴーゴー」を歌って踊れば異常気象が緩和されるなら、ありがたいことだ。そういうのを冷笑したくはない。でも、私は教会で讃美歌をうたうほうがいいと思っている。

2025年8月1日金曜日

試行錯誤 ①メーリングリスト

2011年1月29日、千葉県松戸市で撮影


【試行錯誤 ①メーリングリスト】

「インターネットの歴史」を客観的に描くような話は、その筋の専門家が大勢いるように見えるので任せる他はないが、私個人がどうしてきたかは覚えているし、私の人生がなぜこんなふうになったかという話と密接な関係があったりする。断片的に書いて来た気がするが、通史で書くのは初めてかもしれない。

1990年から1996年まで高知県内の教会にいた頃、早い人はすでに「礼拝説教ウェブサイト」の取り組みを始めていたが、私はネットにつながるパソコンを持っておらず、「NEC文豪ミニ」などのワープロで仕事をしていた。1996年から10か月だけ働かせていただいた福岡県内の教会で「パソコン通信」を始めた。

「パソコン通信」だかなんだかよく分からないなりに、そういうのが必要だと痛感したのは高知にいた頃だった。当時の教団は激しい論争の最中だったが(今そうでないというわけでもない)、何が起こっているのかが高知にいるかぎり分からない。情報格差が激しすぎた。私が求めていたのは「情報」だった。

福岡で1996年の夏に「パソコン通信」をやっと手に入れたが、私の知りたい領域に入ってみたら、すでに荒れていた。牧歌的な要素は無いと思えた。「なんだこれは」の世界だった。しかし、文字のやりとりだけだったので、これからいろいろ発展するかもしれないので、それに期待しようという気持ちだった。

1997年から1998年まで神戸の神学校にいた頃、イミンク先生が講演に来てくださった。講演レジュメにメールアドレスが書かれていた。私のパソコンはネットにつながっていなかったはずなので、誰かのを借りたかもしれないが、オランダに戻られたイミンク先生にメールしたらすぐお返事をくださって驚いた。

1998年7月から山梨の改革派教会で働き始めた。そこでも情報格差を痛感した。着任早々、同年発売「ウィンドウズ98」搭載の巨体デスクトップを買い、ピーヒャラ言うダイアルアップでネットにつなぎ、1999年2月には牧師4名を発起人として「ファン・ルーラー研究会」というメーリングリストを立ち上げた。

しかし、そこからがきつかった。私は単純かつ純粋に「情報格差」を少しでも解消し、教会の言説に対して責任的な応答ができるようでありたかっただけだが、誤解する人々が現れた。私に名誉欲があると見えたらしい。そんなわけないがな。それと、情報がネットに「奪われる」と感じた人もいたようだった。

私はオランダ語辞典を1997年に神戸で買い、首っ引きでパッチワークのような翻訳を始めた翌年の1998年に山梨に移ったので、教えを乞いたいだけだった。しかし、国内の研究者はネットでは情報は一切くださらなかった。情報防衛をお始めになった。それで私はやむをえずネット上で試行錯誤の公開を始めた。

具体的に言えば「私は何も知りませんので教えてください」というスタンスでメーリングリストに投稿しはじめた。パッチワーク式にオランダ語1単語に対して日本語1単語を貼り合わせる「翻訳」で、日本語になっていないままの文章をメーリングリストに流して「これってどういう意味でしょうかね」と問う。

そういう私のやり方に不快感を抱いた方々が実際におられ、直接的にも間接的にも反発された。「人前で試行錯誤なんて恥ずかしいことをするものではない。我々が欲しい情報は完成された訳文なり論文なりだけであって、あなたの試行錯誤とかどうでもいい」と思われたようだった。その気持ちは理解できる。

それともうひとつ、メーリングリストの「管理」もほとんどメールでの連絡という方法を採ったので、メンバーが増えるにつれて(最終的に登録者が100名を超えた)、「翻訳と研究」にかかる労力よりも「管理」の労力のほうが重くなり、自分が何をしたいのか、何をすべきなのかが分からなくなっていった。

「ファン・ルーラー研究会」のメーリングリストは1999年から2014年まで15年続いたことになっているが、良かったのは最初の5年ぐらいで、あとはほぼ休眠状態。私の管理能力が無かったことをお詫びするしかない。個人的な試行錯誤はせいぜい2、3人の前でするものであって100人強の前でするものではない。

私のネット利用の経緯をもっとコンパクトに書けると思ったが、いろいろ思い出して長くなったので、ここでいったん終わる。

2025年7月31日木曜日

孤独

2012年8月15日、千葉県松戸市で撮影。記事とは関係ありません。


【孤独】

孤独を言うなら、子どもの頃から孤独だった。自分の宗教を言えなかったことがすべて。誰とも話が合わないと思って、意図的に話題をずらした。同級生には恵まれたし、一緒に悪さしたし(すみません)、いじめられた覚えはない。いじめたつもりが効いていなかっただけかどうかは不明。タフだった可能性はある。

しかし、それはそれでおかしいと思っていた。教会で聖書の話を聞いて讃美歌をうたってお祈りするだけのことを白眼視されている気がする。被害妄想だと言われればそれまでだが、宗教全般やキリスト教への露骨な冷笑と、何か言えばかかってこられそうな空気はあったと思う。1970年代から80年代にかけて。

教会には友達はいなかった。実家から距離が遠い教会に通っていたし、お楽しみの要素を避けるタイプの教会でヨコのつながりが無かった。役員だった父親の教会奉仕で連れて行かれたときの暇つぶしは、教会の押し入れにあった、たぶん牧師のご子女が読んだ後の「週刊マーガレット」を読むことだった。

私が教会の押し入れの「週刊マーガレット」を読んだのは、小学生だった1972年から1978年まで。物語には興味を持てず絵を見ていただけだが、絵の質感を今でも思い出せるのは「エースをねらえ!」「エリート狂騒曲」「つる姫じゃ~っ!」「ベルサイユのばら」。とても真似できないが、影響を受けた。

中学も高校も県内ではそこ以上がないことになっていた進学校にいたはずだが、受験勉強をした記憶がない。そんなのどうでもよかった。ずっと感じ続けた孤独感と関係あったと思う。聖書とキリスト教と教会は心の支えになっていなかった。どちらかというと、それらを自分が支えなくてはならない気がした。

2025年7月30日水曜日

空白

構造上は「居間」だが、くつろぎの空間とは程遠い

 【空白】

自分以外の誰のせいでもないが、教団を出たり戻ったりしたのが関係して、妻子以外に「半生」と言えるほど長い年数に及ぶ共通記憶を共有していると思える方が、私には存在しない。両親は亡くなった。恩師の多くも亡くなられた。単身赴任が長くなって来ていて、妻子との共有記憶にも空白部分が増えてきた。

SNSつながりの中には、最古で私の小学生時代を覚えてくださっている方もおられるし、中高大の同級生もいるが、10年から30年ほどまで空白部分がある。風のうわさはあれど事実かどうかは分からない。「言わなくても分かる」記憶を共有している密な関係が続いている方々が羨ましいと少しぐらいは感じる。

今書いた「自分以外の人々との共有記憶の空白期間」の多さのゆえに「孤独」を感じている今の私だが、悪いことだけではない。青少年時代からの親しい関係が30年、40年と続くうちに教団のヒエラルキーまで決定してしまう可能性が無いとは言えない。そういう組織票的な関係性の中に組み込まれずに済んでいる。

年齢の近い牧師たちは私に付き合いにくさを感じていそうに思える。教団から19年抜けていた間も牧師は続けていたので経験値は同じだが、ヒエラルキー的には私はリセット扱いだろうから。私は小学生にも敬語で話すタイプだが、少しでも下に見えると「お前」とか言いたいタイプの人には面倒くさいだろう。

2025年7月29日火曜日

転々としてきた牧師

カワサキニンジャ1000(2012年式)。記事とは関係ありません。


【「転々としてきた牧師」てんてんてん】

東京神学大学の卒業生の初任地を学長が決める伝統が今も続いているかどうかは知らないが、私の頃はそうだった。私の初任地は自分で選んでいない。夏期伝道実習先ですらなかった。完全な初対面。赴任時24歳。35歳年上の主任牧師の下で働き始めた。24+35=59。そうか、主任牧師は今の私の年齢だったか。

東神大在学中の奉仕教会は、出身教会の牧師から命じられた旧ホーリネス教会に2年半、東神大から斡旋された旧メソジスト教会に3年半。私の初任地を決めた学長は左近淑先生。私の卒業年の1990年の秋に59歳で突然亡くなられた。私は後ろ盾を失う形で「改革派・長老派」を打ち出す初任地での働きを開始した。

私が初任地に赴任したのが1990年4月。その教会の主任牧師のお連れ合いが岡田稔先生のご長女だったことから、私と改革派教会のつながりが生まれた。岡田稔先生(1902-1992)は、神戸改革派神学校初代校長で、戦後最も早く日本基督教団から離脱して日本キリスト改革派教会を創立した人々の神学的牽引役。

しかし今書いていることに改革派教会は関係ない。私の初任地の主任牧師は「弟子訓練」の影響を受けて「7つの燭台計画」という論文を書き、これから6つの教会を開拓し、相互関係を維持するために改革派教会のウェストミンスター信仰規準(信仰告白、大・小教理問答)を用いるという幻を抱いておられた。

こだわるべき主義主張は私に無かったし、初めて赴任した教会で59歳の主任牧師の下で24歳の伝道師にできるのは「助けること」と「仕えること」だけだと思ったので、教会内外から多くの批判を受けていた(その事情も赴任後に認識した)「7つの燭台計画」を面白がって、どうしたら実現できるかを考えた。

私なりの結論は「無理」だった。日本基督教団の内部でウェストミンスター信仰規準と長老主義の理念を具体的な形にするのは無理。しかし、私はまだ20代の駆け出しの牧師。初任地の教会や主任牧師が私の人生の責任を取ってくれるとは思えなかった。それで、改革派教会に個人的にお世話になることにした。

これが、1997年に私が日本基督教団から日本キリスト改革派教会に移籍した理由の1つ。私が考えたわけでない「7つの燭台計画」なる幻の実現の道すじを考える中で、長老主義の意味での「中会ないし連合長老会(プレスビテリ)」の意義を知ったこと。その実現の場は日本基督教団の中には無いと悟ったこと。

その私を使えると神さまが思ってくださったようだった。1998年7月に日本キリスト改革派教会で最初に赴任した教会が「東部中会」所属。その4年後の2006年に東部中会から「東関東中会」が分離・新設。その分離作業を管理する委員会の書記に私が任命された。2004年には私が「新しい中会」側の教会に転任。

私が神学研究に没頭しはじめたのも「新中会設立」の流れに巻き込まれたことと関係ある。「改革派教会の《中会》は(日本基督教団の《教区》などと違って)神学的一致が必要だが、神学力が不足しているあなたがたに新中会設立は無理」と罵倒する人々がいて、黙ってもらうために神学せざるをえなかった。

こういうことを時々書きたくなるのは、悔しい思いを持っているからである。私の経歴が「転々としている」という印象になることは分かっている。「新しい教会」を生み出すことと「新しいプレスビテリ」を生み出すことのために努力した、つもりだった。私の名前や働きを思い出してもらいたいのではない。

2025年7月26日土曜日

原付は高速に乗れない

ニンジャ400Rとジョグ50のコラボ(2023年9月12日撮影)

【原付は高速に乗れない】

2018年3月から単身赴任。四輪を廃車。転居先で譲り受けた自転車に3年半。2021年10月原付ヤマハジョグ50を譲り受けて2年乗る。2023年8月普通二輪免許取得、ニンジャ400R購入。同年10月大型二輪免許取得、ニンジャ1000購入、今秋2周年。「自転車→原付→中型→大型」とステップを踏んでいる(言い方)。

趣味でステップアップしたつもりはない。副業との関係とコロナの影響。副業先が片道5キロのアマゾン倉庫だったときは自転車。次の副業先が片道10キロになりしばらく電車、コロナ始まり密を避けたく原付。副業先が片道60キロになっても電車と原付。原付の往復120キロはきつく、二輪免許が欲しくなった。

当たり前だが、原付は高速に乗れない。片道60キロは、東京の多摩地区から茅ヶ崎への通勤だったので、圏央道を使えば苦も無く行ける。スマホのナビもしきりと高速に誘導しようとする(やめてくれ)。原付は30キロ制限で、二段階右折で、車体が軽くて大型トラックの風圧でちょっと浮く(勘弁してくれ)。

逆に言えば、片道60キロ原付通勤を経験しなかったら、二輪免許を取ろうとは思わなかった。こういう経緯を知らない人から「いい歳してニンジャ1000か」的な目を向けられる。言い分は理解できる。「分かってくれとは言わないが、そんなにおれが悪いのか」(チェッカーズ)と心の中で歌っている。以上。

2025年7月23日水曜日

1965年生まれのサブカル遍歴


【1965年生まれのサブカル遍歴】

4つ上の兄との2人兄弟で、マンガやアニメや音楽などは、ある意味当然、兄の影響を強く受けた。ウルトラセブン1話の音声が入ったソノラマシートを聞かせてもらった。「ウィンダム戻れ!」とカプセル怪獣を呼び戻すモロボシダンのセリフが好きで何度も聞いた。松本零士の『男おいどん』も兄のを読んだ。

とはいえ、兄との4歳の差は、体力が違いすぎて一緒に遊べた時期は少なかったし、関心の差も大きくなった。宇宙戦艦ヤマトが再放送でヒットした1975年に私は小4、兄は中2。同年のグレンダイザーがマジンガーZ、グレートマジンガーよりカッコよく思えることを当時兄に話したらあまり興味なさそうだった。

私がリアタイで観て好きになった最初のアニメは、1968年(私3歳)の巨人の星、サイボーグ009、サスケだと思う。同年のゲゲゲの鬼太郎や妖怪人間ベムは、観るには観たが、好きになれなかった。翌1969年(私4歳)のハクション大魔王は好きだったが、ルパン3世、タイガーマスクは4歳児には不向きだった。

1970年(私5歳)のみなしごハッチは観るたびに私が泣いたと母が覚えていた。同年いなかっぺ大将、翌1971年天才バカボンが幼稚園。小1(1972年)でガッチャマン、マジンガーZ、ド根性ガエル。小2(1973年)のアニメはピンと来ず、ウルトラマンタロウに行った。小3(1974年)はゲッターロボとロボコン。

そこからの1975年のヤマト再放送とグレンダイザー。その頃から私の左目の視力が右目と比べて極端に落ちたことに両親が対応。家からテレビが撤去され、私が高校を卒業するまでテレビが無かった。ダイアポロン(1976年)、ザンボット(1977年)などは全部観ておらず、友人の家や祖母の家で断片的に観た。

小6(1978年)の999とハーロックも祖母宅で断片的に観た。映画は観た。アニメージュ創刊号(1978年)をリアタイで買った。1979年(中1)のガンダムも祖母宅で断片視聴。1980年以降アニメを観なくなった。視聴再開は20年の空白後、2000年のワンピースとデジモン。私の子どもが関心を持ち、一緒に観た。

20年の空白期間を経てアニメ視聴再開、と言っても、実際にはほとんど観ていない。子どもたちが観ているテレビの音声が私の書斎まで聴こえて来て、たまに気まぐれな興味をもつ程度。覚えているのは、ケロロ軍曹、コナン、けいおん!ぐらい。エヴァンゲリオンあたりは10年ほど前にネットで観ただけ。

2025年7月8日火曜日

この人を見よ

ニーチェとボンヘッファーの『この人を見よ』

【この人を見よ】

ボンヘッファーのドイツ語版の編者註に「LBでボンヘッファーが下線を引いた箇所は…」と出て来て「LB何?」になった。ボンヘッファーがリビングバイブル(The Living Bible)を愛読していた可能性があるかとよぎったが、すぐ打ち消した。ルター訳聖書をLBと略すのね。ドイツ神学知らなくてすみません。

加齢で目が弱る前に勉強しとけよと30年前の自分に言いたいが、当時はネットが無かったので今ほど調べられなかった。元気なうちは勉強より楽しいことに誘惑されて身も心も費やすだろう。くたびれた頃に追い詰められて、自分の体を打ち叩いて勉強することになる。これからの人の反面教師だけにはなれる。

蔵書を減らそうとしているほどでキルケゴールは買わないことにしてきたが、ボンヘッファーがキルケゴールのドイツ語版から引用していることが分かり、引用元テキストのネット公開版を読むも、原著のどの文献に基づくものかが分からない。情報が欲しくて日本語版の著作集が欲しくなっている。やめとけ。

国籍問わず昔の本にありがちだったと認識しているが、訳書なのに(なのに)原著についての情報が「訳者序文」に見当たらず、自分の言いたいことだけ言う訳者がいたと思う。キリスト教会に舌端火を吐くキルケゴールの言葉に自分の思いを託したいのは理解できなくないが、少し冷静になってねと言いたい。

何をしているのかといえば、ヨハネ19章5節の釈義。ラテン語訳ecce homoがタイトルのニーチェの自伝と、ボンヘッファー『倫理』(Ethik, 1949)の一節がある。後者抜粋版が新教新書『この人を見よ』。後者ドイツ語版編者註にキルケゴールもecce homoを用いているとあり、引用元の確認を完了したところ。

ボンヘッファー『倫理』の新訳が出ているのは知っているが、高くて手が出ない。旧訳とドイツ語版でなんとかする。「この人を見よ」と歌う旧讃美歌121番(21-280番)もecce homo。視野が広がるのはありがたいが、沼の中にいるようだ。朝からまだ何も食べていない。冷蔵庫もカラ。買い物に行かなくては。

2025年7月3日木曜日

片思い

 【片思い】

片思いかもしれないが、昨年3月に転任してきたばかりながら、足立梅田教会に来てよかったと思っている。初代牧師は生涯「補教師」だったためご自身で聖礼典を執行なさったことがない。青山学院高等部の聖書科教員としてご勤務されながらご自宅を教会になさった。教会創立は1953年9月。今秋創立72周年。

初代牧師の在任期間はトータルで35年。創立72周年の教会の歩みの半分。その間にしっかり土台が据えられた。それでいて前記の理由から初代牧師は教会のどなたにも洗礼をお授けにならなかった。それと教会として戦前の教団合同前のどの旧教派の系譜にもない。どの教団内旧教派グループの傘下にもいない。

私の出身教会も、私が過去に働いた教会のうち1つを除いてすべても戦後開拓教会だった。旧教派縛りに馴染みがない。私には日本基督教団の教師であること以外の標識は無い。どことでも誰とでも協力関係を結べる。何の妨げもない。こういう教会が珍しいかどうかは分からないが、私にはたぶん合っている。

ファン・ルーラーは改革派神学者だが、全キリスト教の一部ではなく全キリスト教を継承する「改革された公同教会」(ecclesia catholica reformata)に属していると考えていたので、古代教父から現代神学者までのだれからでもどこからでも引用できた。スイカの細切りではなく丸ごと一個抱えるから強い。

何度となく書いたが、私にはこの人の教えを受け継いでいると言える先生がいない。指導教授は2つの神学校でそれぞれ1人ずつお世話になったし、あからさまに反抗したことはないが、ファン・ルーラーの言うことのほうが正しいと思うので距離がある。おふたりとも80代になられた。敬意を忘れたことは無い。

2025年7月2日水曜日

教理説教の副産物

『ファン・ルーラー著作集』翻訳中


【教理説教の副産物】

教理説教が助かるのは、聖書と今を教理史でつなげること。「聖書はこう。我々はどう」と途中2千年分を無視する話し方をせずに済む。教派性を加味して「聖書はこう。宗教改革者はこう。我々はどう」と言ったところで、500年ほど無視している。哲学や心理学でつなぐのは、わざわざ教会で聞く話かどうか。

教理説教の準備として『ファン・ルーラー著作集』をまず読むようにしている。ファン・ルーラーがすごいのは、古代教父から現代神学まで引き出しが多いこと。衒学的につまみ食いで名前を挙げているだけのようなのと全く違う。どの教父、どの神学者についても、長文なのに平易で的確な解説をしてくれる。

この先私が何をどれだけ学んでも、アウトプット先は日曜日の礼拝説教とブログだけ。かつて「ファン・ルーラー研究会」でしていたように、キャッキャ言いながら面白がってファン・ルーラーを読む会を再開できるといいが、そこまでの気力がまだ戻っていない。当時は合宿研修や公開講演会までしていた。

言うだけ番長でないところをたまには見せないと信頼してもらえないので、今撮った。「ファン・ルーラー著作集」を急ピッチ翻訳中。出版は夢のまた夢。私の仕事ではない。もっと売れる人の名前でないと。私は教会の役に立てばいい。翻訳はごく限られた専門家向けになるだろう。リソグラフで間に合う。

2025年6月25日水曜日

ジークアクス全話視聴完了

 


【ジークアクス全話視聴完了】

ジークアクス最終回を昨夜から4回観ました。関連があるようなので初ガンダム全話、Z(ゼータ)ガンダム全話を当時は1話すらまともに観ていませんが、ジークアクス最終回直前5分前までに視聴完了。正史(というそうで)で、まだZZ(ダブルゼータ)と逆シャアがあるそうですね。近日中に観終えたい所存。

かれこれ半世紀前のアニメファン(オタクだとかは私は断じて言わない。後代の加筆っぽい)を見下げる思いは私は無い。スリム&スマートなバスケ部員(限定)と応援者がたか、大学受験のことしか関心がなかった方々以外は、大なり小なりアニメファンだったのではないかと思うし、私も例外ではなかった。

「ガンダム」はリアタイで観ていない。私だけでないかもしれないが、私だけかもしれない。私がテレビの観すぎで左目だけ仮性近視になったことに両親が対応して1972年から1984年まで家からテレビが撤去された。1984年大学入学と同時に実家にテレビが再導入されたので、私が理由であることは間違いない。

「ガンダム」は正直どうでもよかったが、ジークアクスを全話観た感想として意外なほど面白かったのかもしれないと思わされた。「向こう側のキラキラ」とかは、私個人とは微妙にずれる数年から十数年あとの後輩(と言わせていただく)の感覚かもしれないが、私は知らない。メタ視点で観ることができた。

亡き両親に感謝すべきかもしれない。たぶん観たかったのだろうテレビを、私の左眼視力減退を理由に家から取っ払った。そうかどうか必然性の証明はできそうにないが、私はテレビ漬けの洗脳から解放されている。今の私はかれこれ10年以上、テレビ漬けの生活をしていない。中毒性を回避できていると思う。

(別に反応を求めていませんよ)

2025年6月20日金曜日

「教会の外に救いなし」のキプリアヌスの生涯を調べる

私の書斎のキプリアヌスについて書かれた本


【「教会の外に救いなし」のキプリアヌスの生涯を調べる】

手持ち資料を頼りにキプリアヌスについてまだ調べている。あるのは『偉大なる忍耐・書簡抄』日本語版(初版1965年)、F. L. クロス『教父学概説』(1969年)、E. ファーガソン編『初期キリスト教辞典』(1990年)、「聖なるキュプリアヌスの行伝」『殉教者行伝 キリスト教教父著作集22』(1990年)。

西暦200年頃生まれ。誕生日不明。アフリカのカルタゴの比較的裕福な家庭出身。学者として名声を得た後、45歳頃キリスト教入信。私財を売り払って施し、教会の長老になる。48歳か49歳の頃カルタゴの司教に選ばれる。入信からの期間が短すぎたため反対者が多かったが、教会員からの厚い支持を得ていた。

50歳(西暦250年)のとき、ローマ皇帝デキウスがローマ古来の宗教を再興するための政策として大規模なキリスト教迫害開始。自分は目立つ人間だと自覚していたキプリアヌスは、身をさらすと教会員が危険な目に遭うと考えて潜伏。書簡を用いて牧会しようとした。このあたりは評価が分かれそうなところ。

多くの教会員が帝国軍の迫害に堪えられず、数週間で棄教。後日、教会への復帰を求める人たちにキプリアヌスは、最初は厳しい態度を取るが、やがて方向を改める。自分も潜伏したことと態度の軟化が関係あったかどうかはまだ分からない。「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ」と言える状況だったかどうか。

キプリアヌスは55歳から2年間、異端や分派で洗礼を受けた人が教会復帰する場合には「再洗礼」を授けるべきかどうかでローマ司教ステファノ1世と論争。キプリアヌスは「授けるべき」、ステファノは「授ける必要はない」。論争中ローマ総督に逮捕され、斬首。F. L. クロスによると「258年9月14日」死去。

ここから先は私の想像を多く含む。キプリアヌスにとって洗礼において大事なことは、水そのものの効力でなく、三位一体の神への信仰告白が伴っているかどうか。「偽りの水を恐れるな!」と喝破する線。私はこういう人は嫌いではない。『行伝』に描かれているキプリアヌスの殉教前のやりとりも意志の人。

「なぜなら教会の外に救いはないからである」の一文を含む「第73書簡」は西暦256年の半ばに書かれたものとされる。この内容も「洗礼」の問題。三位一体の神への信仰を伴わない入会儀礼は「洗礼ではない」ので、異端や分派から「教会」に来た人に「洗礼」を授けるべきであるという論理。整合性がある。

キプリアヌスの生涯は実に興味深い。ロドニー・スターク『キリスト教とローマ帝国』(新教出版社、2014年)で取り上げられていた西暦2世紀から3世紀にかけてローマ帝国で大流行した疫病の罹患者への献身的対応とキリスト教宣教の進展との関係の件は、キプリアヌスとの関係が重要であることに気づいた。

2025年6月19日木曜日

キプリアヌスの「教会の外に救いなし」の意味を調べる

キプリアヌス『偉大なる忍耐・書簡抄』(創文社)


【キプリアヌスの「教会の外に救いなし」の意味を調べる】

昨日(6月18日)、キプリアヌス『偉大なる忍耐・書簡抄』(創文社)が古書店から届く。第73書簡の「なぜなら教会の外に救いはないからである」(quia salus extra ecclesiam non est)の意味を調べたかったが、本『書簡抄』には全81書簡中5、8、52、54、56、57、77の計7書簡しかないことが分かった。

今日(6月19日)、キプリアヌスの「教会の外に救いなし」のテキストをドイツ語版でやっと見つけた。ドイツ語は責任を持てないが、要は「異端の洗礼もどきは洗礼ではないので、異端から教会への入会者に対して洗礼式を執行すべき」という話のようで、現代でも受け入れられているルールのように読める。

キプリアヌス『書簡集』第73書簡21(ドイツ語版)
https://bkv.unifr.ch/de/works/cpl-50/versions/briefe-bkv-8/divisions/421

初見の印象にすぎないが、この箇所にキプリアヌスが「教会の外に救いはないからである」(ドイツ語版 weil es außerhalb der Kirche kein Heil gibt)と書いているときの「教会」(der Kirche)は、父・子・聖霊なる三位一体の神への信仰を共有していない「異端」(der Ketzerei)の対義語である。

そして、この箇所全体(第73書簡21)でキプリアヌスが最も言おうとしていることが「異端から教会に来た方々には洗礼を受けていただかなくてはなりません」(Und darum müssen sich diejenigen taufen lassen, die von der Ketzerei zur Kirche kommen)であることは、ドイツ語が苦手な私でも分かる。

言い換えれば、キプリアヌスは「異端の洗礼の無効性」を語っているだけである。異端にだまされた人々にきっぱり手を切ることをすすめる流れといえる。それと、もしかして当時「教会の外に救いなし」という標語かことわざのようなものがすでにあって、それをひょいと持ち出しただけのような印象もある。

キプリアヌスの意図がかろうじて判明して、私は安堵している。西暦3世紀(200頃-259頃)の人が書いた「教会の外に救いはないからである」(quia salus extra ecclesiam non est)という一言が、文脈から切り離されて独り歩きし、時空のはざまを漂流し、1800年後の我々の心をざわつかせる。いろいろすごい。