日本キリスト教団置戸教会 主日礼拝説教
日時 2015年2月22日(日)午前10時30分(礼拝開始)
場所 日本基督教団置戸教会 北海道登呂郡置戸町置戸37-1
説教 「主に望みをおく人は鷲のように翼を張って上る」関口 康(松戸小金原教会牧師)
聖書 イザヤ書40:27-31
2007年4月1日日曜日
苦難の僕
イザヤ書53・1~12
今日は、旧約聖書のイザヤ書53章を開いていただきました。この個所の中で「この人」とか「彼」と呼ばれている人のことを、わたしたちは、救い主イエス・キリストのことであると信じてきました。イエス・キリストがわたしたちの身代わりに十字架の上で死んでくださったあの苦難の姿を、預言者イザヤが預言しているのだ、と信じてきました。
そのように信じるに足る内容がここにあると、わたしも考えています。イザヤが描いているこの人は、わたしたちの病を担い、わたしたちの痛みを負ってくださることによって苦しみを体験し、神の手によって命ある者の地から断たれた、と書かれているからです。その姿は、まさにイエス・キリストです。
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」
「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」という翻訳は、一つの可能性にすぎません。原文を直訳しますと、「形も輝きもほとんどない」です。この人には形がない。そのように、イザヤは書いているのです。
形がない人間などいるのだろうかと思わざるをえません。まるで幽霊みたいではないかと。しかし、ここに記されているのが、ただの人間のことではなく、神の御子なる救い主のことであるとするならば、納得は行かないかもしれませんが、一つの話として、理解はできるようになるように思います。
神の御子には、本来、形がなかったのです。なぜなら、神の御子は神御自身だからです。神には形がありません。神は霊なのです。このように言うことは、神を冒涜することではなく、むしろ尊重することです。イザヤの「この人には形がない」という預言は、この人が霊なる神の御子である、ということを示していると考えることができるのです。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」
軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っているこの人の姿は、まさに救い主イエス・キリストのお姿です。
それはまた、神御自身のお姿でもあると言わなくてはなりません。神は、人間の歴史の中で、軽蔑され続けてきました。わたしたちの時代の中でも、軽蔑され続けています。
わたしたち自身は、神を重んじているでしょうか。神のために命をささげる覚悟や決意があるでしょうか。そのあたりが、実際には、怪しいのです。
神は、この世界のすべてを創造された、この世界の支配者です。わたしたちは、本当にそう思っているでしょうか。実際には、すべての世界は、このわたしの周りを回っていると、いまだに思っているのではないでしょうか。そのような態度をとっているのではないでしょうか。
神を軽蔑し、救い主イエス・キリストを軽蔑し、そして、キリストの体なる教会を軽蔑する。それは、他のだれかの話ではなく、わたしたち自身の姿かもしれないと疑ってみる必要があると思います。
「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。」
救い主イエス・キリストがゴルゴタの丘の十字架の上で担ってくださったのは、わたしたち人間の罪であり、愚かさであり、病です。
しかし、そのことは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰がなければ、決して理解することも、受け入れることもできないでしょう。十字架にかけられる人は、呪われた人であり、自業自得であると、普通の人は見るでしょう。
イエス・キリストを信じる信仰があれば、このお方の死の意味を正しく理解することができます。それは、まさに、イザヤが預言しているとおりです。
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためです!
彼が打ち砕かれたのは、わたしたちのとがのためです!
イエス・キリストを裏切って死に追いやったのは、イエス・キリストの弟子たちでした。最も愛していた弟子たちに、イエスさまは裏切られたのです。
しかし、その裏切りを、イエスさまは、すべてご存じであり、すべてを受け入れておられました。愛するとは人の弱さを理解し、受け入れることです。強い人が弱い人をかばい、助けることです。それが愛です。
イエスさまは、弟子たちを十字架のうえでも愛しておられたのです。御自身が十字架について、弟子たちをかばってくださったのです。
わたしたちも、イエスさまを裏切ることがあるでしょう。洗礼を受けるとき、神と会衆の前で行ったあの約束の言葉を覚えておられますか。「救い主イエス・キリストのみを信じ、彼にのみより頼みますか」。
わたしたちは、今でも、救い主イエス・キリストのみを信じ、彼にのみより頼んでいるでしょうか。適当なところで誤魔化してはいないでしょうか。
わたしたちの裏切りをも、イエスさまは、ご存じです。すべてを理解し、すべてを受け入れておられます。イエスさまはわたしたちを愛しておられます。わたしたちをかばってくださるのです。
だからこそ、次のように告白できるのではないでしょうか。
「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
他の誰かが受けた傷によって、わたしたちがいやされるというのは、話としては奇妙なことのように思えます。しかし、これもまた、救い主イエス・キリストがお受けになったあの傷と苦しみのことであると信じるならば、理解できる話になります。
イエス・キリストの十字架上の死は、全世界の人々の身代わりの死です。本来ならば、罪に対する神の罰を受けるのは罪人自身です。わたしたち罪人こそが、十字架の罰を受けなければなりません。ところが、わたしたち自身が受けなければならない罪に対する神の罰を、イエスさまが身代わりに受けてくださったのです。これが、イエスさまの死の深い意味です。これを代理刑罰の教理と言います。
そして、イエスさまがその罰を身代わりに受けてくださったことによって、神と人間との間の和解が成立し、真の平和がもたらされたのです。この平和の喜び、深い心の平安が、わたしたち人間の傷をいやす薬になるのです。
わたしたちは、罪深い生活をしている間は、平気でそうしている面と、実際には様々な場面で傷ついている、という面があるはずです。罪悪感というのも、立派な心の傷です。小さな盗みを自覚的に働いた人は、そのことを、いつまでも覚えているものです。犯罪は、相手を傷つけるだけではなく、それを犯した人自身をも、深く傷つけます。
そしてまた、そうであることが分かっていてもやめられないのも、罪の性質です。この泥沼、この連鎖、この罪の奴隷状態から、どうかわたしを救い出してください、と叫び声をあげることができた人は、すでにほとんど救われていると言ってよいほどです。自分の心の中には深い傷がある、ということに気づき、その痛みを感じて、魂の医者、救い主に助けを求めることができた人は、もうあとわずかで、いやされるでしょう。
罪はまた、人を孤独にします。行いの罪だけではなく、言葉の罪もあります。人を傷つけるようなことを平気で言うような人に近づきたいと思う人は、いません。しかし、孤独のままで生きていくのは、つらいものです。
孤独もまた、立派な心の傷になります。この傷をいやしてほしい。このさびしさから、なんとかして逃れたい。その願いを強く持ち、助けを求めることができた人は、ほとんど救われています。
その人は自分の罪を悔い改め、神の御心に従って生きるべきです。そのとき、深い平安を味わうことができるでしょう。
「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。
彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」
イエス・キリストを信じましょう!
このお方を心から信じるならば、わたしたちは、必ず救われます。
(2007年4月1日、松戸小金原教会主日礼拝)
2005年12月25日日曜日
主に望みをおく人は鷲のように翼を張って上る
イザヤ書40・27~31、ヨハネによる福音書1・16~18
クリスマスおめでとうございます。今日は二人の方の加入式を行うことができましたことも感謝いたします。
今年のアドベントは、旧約聖書のイザヤ書40章と新約聖書のヨハネによる福音書1章を続けて学んできました。今日も、少しずつ学んでいきたいと思います。
「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。」
残念ながら、この訳では、何のことか、ほとんど意味が分かりません。
この御言は、「わたしの道は主に隠されている」というよりも、「主なる神は、わたしたちのことなど気にかけておられない。興味をもっておられない」というようなことです。
また「わたしの裁きは神に忘れられた」というよりも、「わたしたちの神は、わたしたち人間の権利主張などは無視なさる方である」というようなことです。
ここで表明されていることは要するに、わたしたち自身もしばしば体験してきたでありましょう、神に対する失望です。「わたしは神に無視されている」という告白です。
それは、考えてみれば、もしかしたら、わたしたちにとって最もきついこと、厳しいことかもしれません。「神が存在することは分かっている。神が生きて働いておられるということも分かっているつもりである。しかし、その方に、わたしたちは無視されていると感じる。」これは、最もきついことです。
とくに、自分の身に不幸が続くとき、わたしたちは、つい、そんなふうに考えてしまいます。また、そう考えることのすべてが悪いと言われても、ちょっと困ると感じます。
そして、それは、神を信じる者であるからこそ感じる思いでもあります。神の民だからこそ、信仰をもって生きている人々だからこそ、神への祈りや願いや期待に応えがないと感じる瞬間があるということは、わたしたちの身にも覚えがあることです。
初めから神の存在を信じていない人の心に「わたしは神に無視されている」という思いが起こることは、論理的には、ありえないことです。
しかし、預言者は、猛然と反論します。
「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」
「主は、とこしえにいます神」とは、もちろん、神は永遠に生きておられるということです。このお方こそが「すべてのものの造り主」であられると預言者は語っています。
主は永遠に生きる力を持っておられる、ということです。わたしたちは、永遠に生きることはできません。どこかで疲れ果ててしまいます。しかし、神さまは、疲れ果てることなく、永遠に生きる力をお持ちであり、また、天地万物をお造りになるほどの力を持っておられるのだ、ということです。
「倦むことなく、疲れることなく」とあります。「倦む」の意味は、飽きることです。物事に取り組む気力、やる気を失うことです。萎えてしまうこと、嫌になってしまうこと、投げ出してしまうことです。
ここで言われているのは、そうではなく、ということです。
神は倦まないし、疲れない、ということです。
神は、わたしたちを投げ出してしまわれない。わたしたちのことをすっかりあきらめてしまわれるとか、わたしたちのことが退屈になって、嫌になって、投げ出してしまわれる、そういう神さまではない、ということです。
わたしたちの神は、神を信じて生きるわたしたち人間一人一人のお世話に疲れない、ということです。助け、励まし、慰めることに疲れない、やめてしまわれない、ということです。
そんなことも知らないのですか、聞いたことがないのですか。神があなたがたのことを無視されるはずがないでしょう。神をもっと信頼してください、ということを、預言者は語っているのです。
「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。」
これはまさに書いてあるとおりです。付け加えるべき言葉は何もありません。ひたすらこのとおりに信じたいと願うばかりです。疲れた者に、神さまは、力を与えてくださるのです。
なぜそう信じたいのかと申しますと、それは、わたしたちがあまりにも疲れやすいからです。
わたしも、自分は本当に疲れやすい人間であると自覚しています。「今こそ力が欲しい」と感じるときが本当にあります。あとちょっと体力があれば、もうちょっとがんばれるのに、と思うことがあります。今どうしても済まさなければならない仕事があるというときに、あとちょっと力がほしい。でも、疲れてしまう。
ただし、この個所で預言者が語っていることは、単に、わたしたちのいわゆる“体力”の問題に限られることではなさそうです。続きを見てくださると、そのことが分かります。
「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが」
ここに出てくる「若者」や「勇士」の意味は、明らかに、体力的には十分な力を持っている、この点においては弱っていないはずの人々のことです。
ですから、ここで問題になっているのは、年齢のことや体力のことではないというべきです。年齢が若く体力がある人でも疲れることがありうるし、ずいぶん長く生きてきた人々でも元気であるということがありうる、ということです。
となると、ここでの問題は、年齢や体力の問題ではなく、より多く、心の問題である、と言ってよいでしょう。そして、そこにはどうもわたしたちの“信仰”ということが深くかかわっています。何を信じ、何を期待するかにかかっている、というべきです。
わたしがこれから申し上げることは、決して何か比較の意味で申し上げていることではない、ということを、あらかじめお断りしておきます。語弊が出てくるかもしれませんが、どうかあまり腹を立てないで聞いていただきたいと願っております。
それは、神を信じて生きている者たち、わたしたちは、元気である、ということです。
「比較の意味ではない」と申し上げましたのは、神を信じていない人は元気ではない、というような、裏面の事柄を強調するつもりはない、ということです。
しかし、やはり申し上げたいことは、神さまを信じて生きている人々は元気である、ということです。
そしてまた、やはりどうしても触れざるをえないと感じるのは、体力や年齢において若々しくて元気であると自他共に認めるような人々であっても、元気溌剌のスポーツマンや、体力みなぎるファイターであっても、“心が弱い”ということがありうる、ということです。人は見かけによらない、ということです。
それは、わたしたちも自覚があることです。元気そうに見えても心が弱い。心が弱っているということがありうるのです。
そういう自覚を持っている人は、あまり自分独りでがんばらないほうがよいと思います。周りの助けを求めたらよいし、SOSをどんどん出したらよいのです。黙っていないほうがよいし、我慢しないほうがよいのです。わたしたちの心は弱いから。ボロボロにしたまま放ったらかしにしておくと、元に戻らなくなります。自分をあまり追い詰めないほうがよいです。
また、ぜひ申し上げておきたいのは、良い意味での“逃げ場”を必ずどこかに確保しておくほうがよい、ということです。どこにも逃げる場所がなく、追い詰められてしまい、絶望する、というのが、いちばん悪いことです。
だからこそ、助けを求めてほしいと思います。そして、神さまを信じる信仰を持ってほしいと、本当にそう願います。
これは何か比較で言っていることではありません。そうでない人はダメだ、というようなことを言いたいわけではありません。
しかし、神さまを信じて生きている人々には、どこか心の中に余裕があり、ユーモアがある、ということは事実です。
わたしもそうなのです。わたしだって疲れてしまうときがあります。しかし、どこかにいつもあっけらかんとしているところが、ちょっと残っています。それは、わたしの家族にとっては図々しいと見えているところなのだと思います。でも、本当にそうなのです。
もちろん、全く何の悩みもない、などということは、ありえません。しかし、最終的なところで神さまに委ねることができるというのは、本当の実感です。格好をつけて言っているようなことではないのです。
そしてまた、これは、わたしたちの側の心の持ち方とか、物事の考え方とか捉え方、というようなこちら側の問題ではありません。ただし、これは、表現しにくいことです。
ともかくそれは、神さまがわたしたちに与えてくださるものです。わたしたちの信仰は、神さまが“聖霊の働き”を通して、わたしたちの心の中に与えてくださるものです。賜物(ギフトまたはプレゼント)として、神さまはわたしたちに信仰を与えてくださるのです。
しかしまた、神さまは、わたしたちに、信仰というものを、わたしたちの心や意志や理性や感情などを全く尊重してくださるという仕方で、与えてくださいます。神さまは、わたしたちを操り人形のようなものにしようとされている、ということではありません。
神さまは、聖書を通して、教会を通して、説教を通して、祈りを通して、わたしたちに信仰を与えてくださいます。わたしたちは、納得ずくで信仰をいただくことができます。もし疑問があれば教会に聞いたらよいし、牧師や長老たちに聞いたらよいのです。黙って従え、というようなものでは決してありません。
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
この御言葉も、まさに書いてあるとおりです。ただ、ちょっとだけ気になるので注意しておきたいのは、「鷲のように翼を張って上る」という点は、「上る」と書かれているからといって、これをすぐに、地上の生活をやめて、神さまのおられる天の世界に飛んでいく、というような意味で理解してはならない、ということです。
それは大きな誤解です。「鷲のように翼を張って上る」とは、「象のようにのっしのっしと歩く」というのと、いわば同じです。鷲のように上るとは、象のように歩くことであり、人間のように生きる、ということです。喜んで感謝して神さまを見上げて生きる、ということです。本来の力を発揮する、ということです。
ですから、これは、体力や年齢の問題ではありません。また、どうか“飛び上が”らないでください。歩いてください。前進してください。生きてください。
そして、わたしたちが元気に生きていくためには、信仰の問題、すなわち「主に望みをおくこと」を、どうしても無視することができません。これはわたしが牧師だから言っていることだろうと思われるのは仕方がないことです。しかし、公平に見て、わたしたちが元気に生きていくためには信仰が必要であると、申し上げておきます。
ヨハネによる福音書(1・16〜18)には、次のように書かれていました。
「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
とくに注目していただきたいのは、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」という点と、「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」という点です。
ここでヨハネが語っているのは、イエス・キリストが神を現わしたのだということです。イエス・キリストがお生まれになって以来、わたしたちは、イエス・キリストを通して神を知るという道を、神ご自身から示されたのです。神を知ることも信じることもすべて、イエス・キリストを通してです。それ以外の道はありません。
それ以外の道はない、というようなことを申しますと、それは、窮屈で、偏屈で、排他的で、面倒なものではないかと思われてしまうかもしれません。しかし、決してそうではありません。
イエス・キリストというお方が、“神の愛”を示してくださったのです。その愛に生きることができるようになる、ということです。イエス・キリストの愛を通して、神が“愛に満ちたお方”であることを知るのです。
ですから、それは、愛の道です。そして、それこそが、わたしたちが元気に生きることができる道なのだ、ということです。
「そんなことは信じられない」と思う方は、ぜひ、松戸小金原教会のみんなの顔を見ていただきたいと思います。
わたしたちが、元気に喜んで生きている姿を見ていただきたいと願います。
イエスさまが生まれてくださり、命をささげてくださったおかげです。
クリスマスおめでとうございます!
(2005年12月25日、松戸小金原教会主日礼拝)
2005年12月18日日曜日
言は肉となってわたしたちの間に宿られた
イザヤ書40・18~26、ヨハネによる福音書1・14~15
クリスマス礼拝を目前に控えて、今日もまた、待降節(たいこうせつ)の礼拝としてささげております。
イザヤ書40・18〜26に書かれていることは、先週まで学んできたことの続きです。今日の個所は、特に、わたしたちにとっては比較的理解しやすい内容であると思います。問題となっていますことは、前回とほぼ同様のことです。同じような内容が繰り返されていると言えます。どういう話題かということを、最初に申し上げておきます。
それは、一言でいいますならば、神さまと人間との大きさの比較です。神さまは大きな方である。しかし、人間は小さなものである。神さまとの比較において、神さまは大きいけれども、人間は小さい。また、この世界は小さい、ということを語ること。これが今日の個所全体の内容であり、文脈であるということです。そのように理解していただきたいと思います。
しかしまた、先週の個所との比較において、今日の個所には、特別な強調点が置かれている問題もある、ということも事実です。それは何なのか、ということを少しずつご説明していきたいと思います。
「お前たちは、神を誰に似せ、どのような像に仕立てようというのか。職人は偶像を鋳て造り、金箔を作ってかぶせ、銀の鎖を付ける。献げ物にする桑の木、えり抜きの朽ちない木を巧みな職人は捜し出し、像を造り、据え付ける。」
ここに“偶像”という言葉が、はっきりと出てきます。人間が、わたしたちが、その手でつくる像の問題です。論点は、非常にはっきりしております。いわゆる偶像礼拝の問題です。偶像を造ったり拝んだりすることの問題です。それがここに取り上げられています。旧約聖書の中に出てくるモーセの十戒、とくにその中の第二の戒め、「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」という戒めに抵触する問題です。
わたしたちは、偶像を拝んではなりません。自分のために刻んだ像をつくってはなりません。しかし、誤解は早く解いておいたほうがよいと思います。かたちあるものすべてが悪である、というようなことを言いたいわけでは、決してありません。そのようなことを言い出したら、わたしたちは、この地上で生きていくことはできません。地上のすべてのものは、かたちあるものです。それが悪いなどということを、聖書は語っておりません。
“偶像”とは、一言でいいますと、宗教的な目的に用いるために造られる像です。それ自体を拝んだり祀ったりするためにつくられる道具の総称です。また、しかも、それを、宗教教団が信者に売って、それを拝ませるというようなことをする。そういうことのためにつくられるものです。そしてまた、それは、たいていの場合、高い値段で売られます。
その偶像の具体例が、今日の個所に出てきます。それは、木や金属で作られていました。そして、その上に、金箔がかけられていました。あるいは、銀の鎖がとりつけられていました。そのような仕方で、きらびやかに飾り立てられていました。しかしまた、それは、外側のメッキがはがれると、中の木が出てくる、あるいは、何が出てくるか分からない、というふうなものでもある、ということです。ここに書かれているのは、そのような偶像があったという歴史的な事実であるというべきです。
しかし、これは、先ほども言いましたように、宗教的な目的で刻まれ、つくられる像のことです。すべてのかたちあるものは悪であるということを言いたいわけでは決してない、ということは、繰り返し申し上げておきます。
その偶像に対して、またそれをつくる人々に対して、預言者は、次のように語るのです。「お前たちは、神を誰に似せ、どのような像に仕立てようというのか」。この預言者の言葉の意図として考えられることは、いわゆる反語です。
あなたがたは偶像を造る、という。それは、神さまのお姿に似せたものを造る、という。だからこそ、神さまのかたちをしているそれを拝め、というわけだ。しかし、あなたがたは、それが神さまのかたちに似ていると言う。しかし、あなたがたは本当に、神さまの姿を見たことあるのですか、という問いであると言ってよいわけです。
見たこともない(と思われる)神さまに似ているとか、なんとか、そのこと自体、本当にそうなの?どういう理由でそんなことがいえるの?こういうふうに問いかけがなされているわけです。
ですから、これは反語です。預言者の意図は、だれひとりとして神さまのお姿を見たことがある人などいない、ということです。そして、だからこそ、神さまのかたちに似せて何かをつくるというようなことは、だれにもできないし、これはそういうものだとあなたがたが言っていることのすべてはウソである。こういうことを、はっきりと言おうとしているのです。
しかし、ここにはまた、考えていけば行くほど、わたしたちの心の中にある非常に深い落とし穴、またその中の闇のようなところに入っていくような気がする問題があります。そもそも偶像の問題というものには、まずだれかが神さまに似せて何かをつくるということがある。次に、これは神さまに似ているものだから拝め、と言われる。そして、それを信じる人々が出てくる、というような一連の問題があるわけです。
しかしまた、その中に潜んでいる問題は、そういうふうにしてつくられた、これはそういうものであると言われながら差し出される偶像は、実際に見るとたしかに、わたしたちの目には魅力的な何かであるし、わたしたちの心を魅了する何か、あるいは幻惑するような何かである。偶像とは、まさにそのようなものとしてつくられているのだと言わなければならないのです。
中身は分かりません。しかし、外側はキンキラキン。銀の鎖がかかっている。そういうものである。また、それは「神さまに似ている」と言われる。そういうものとして差し出され、受け取ったとき、それを「拝みたい」という思いにさせられるような何かでもある、ということです。そういうものでなければ、人はそれを信じようとしないし、受け取ろうとしない、ということでもあるわけです。
ですから、預言者も、またおそらくわたしたちも、偶像の問題については、実際の場面では、いろんな反論を受けるのです。「これを拝んで何が悪いのか。これはよいものだ」というふうに、人々は感じるのです。わたしたちだって、そういう気持ちにさせられることがあるかもしれません。すごくきれいなものであるとか、それが人を魅了する力を持っていることは理解できることである、など。身に覚えのあることが多いと思います。
そしてまた、あと一歩踏み込んで言いますと、それが人の心を魅了する、まさに魅力をもっているものである、ということが、はっきりするならば、それはわたしたちにとって、ある意味で役に立つものなのです。
心を奪われて、うっとりして、「いいものだ」と感じることができる、というものであるならば、それ自体が目的になる、ということです。
それがもし仮に、たとえばわたしたちが天国に行って、神さまとお会いして、そのとき自分が手にしている偶像が神さまとは似ても似つかないものであるということが、後から分かったとしても、です。それでもいいと思える何かである。それが偶像の姿でもある、ということです。
自分が手にしている偶像それ自体が美しいものであり、いいものである、ということであるならば、です。神さまと似ていなくても、それはそれでいい、ということにもなってしまいかねないのです。
今この手の中に持っている、目に見える美しいもののほうが、はるかに、わたしたちにとって役に立つ。目に見えない神さまの存在などというものは、そもそも、実はいないのではないか、というようなことまで考えはじめてしまう。役に立たない、今実際にお会いすることのできない神さまよりも、今手に持っているこの美しいものを神として拝むほうが、わたしたちにとって有益である。こういう気持ちにさせられることは十分にありうることなのです。
わたしたちだって、かつてはそうだったかもしれません。今だって、そういう思いから抜け出ることができないでいるかもしれません。手にしている、目の前の、美しいもの、よいもの。それがたとえ偶像と呼ばれるようなものであっても、一向に構わない。わたしたちがそういう思いにさせられるということは、十分にありうることなのです。
しかし、そのようなことを預言者も、おそらく分かった上で、真剣に、真正面から一つの問いを問いかけているわけです。それは、どういう問いなのかということを、見て行きたいと思います。
「お前たちは知ろうとせず聞こうとしないのか。初めから告げられてはいなかったのか。理解していなかったのか、地の基の置かれた様を。主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住む者は虫けらに等しい。主は天をベールのように広げ、天幕のように張り、その上に御座を置かれる。」
これと同じ問題が、25~26節にも出てきます。
「お前たちは、わたしをだれに似せ、だれと比べようとするのかと、聖なる神は言われる。目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。」
天地万物をお造りになった方がおられる。それは誰ですか?偶像ですか?あなたの目の前にある、あなたが手の中に持っている、その偶像ですか?その偶像がこの世界を造ることができましたか?そんなことはできないでしょう。そういう問いかけがある、と言ってよいと思います。
神さまという方がおられる。しかも、その方は、この世界を、造ったら造りっぱなし、放ったらかしにされるのではなく、お造りになったあとも、これをちゃんと守り、治め、育て、養ってくださる。そういうことを、あなたがたは知らないのか、という問いかけがある、ということです。
もちろん、そういうふうに問われたからといって、実際に偶像をつくったり拝んだりしているような人たちが、それをやめようというような気持ちになるかどうかは、分かりません。
しかし、預言者が言おうとしていることは、はっきりしています。それは、あなたのその手の中にあるその小さな偶像にこの世界をつくることができましたか、という問いです。そんなことはできないはずだ。また、そのことはあなたがたがいちばんよく分かっているはずだ。そういう問いかけがある、と言ってよいと思います。
26節の「天の万象」とは、星のことをとくに表わしています。夜空に光るあの天の星のことです。それをだれが創造されたかをあなたがたは分かっていますかという問いかけがあります。そして、「それらを数えて引き出された」とは何のことを言っているのかといいますと、一つ一つ星を呼び出して、名を呼んで、一つ一つそれをお造りになった、ということです。神さまは、あの星を、一つ一つお造りになったのです。それくらいの大きな力を持った方なのです。
ただし、ちょっと気になる言葉が出てきます。22節に出てくる「地に住むものは虫けらに等しい」という言葉です。これは、たとえ聖書の御言葉であっても、神さまの御言葉であっても、なんとなく聞き捨てならないという気持ちにさせられる、非常にびっくりする、なんとなく解せない言葉であると思います。
ただ、しかし、もちろん、ここは、預言者の意図を、正しくくみとるべきであると思います。読み方のポイントは、一つ前に出てくる文章、「主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる」にあります。この御言葉との関連で、先の御言葉は読まれなければならないのです。
“主”とは、神さまのことです。主なる神さまが、空の上の椅子に座っておられる、というのです。そのような様子を想像することができます。天高いところに神さまがおられ、そこで椅子に座っておられるのです。
そこから見て、です。そこから見て、地上に住んでいる人々が、そのように見える、という話です。
新共同訳聖書では「虫けら」と訳されています。他の訳を見ますと、「バッタ」というのがあります。「地に住む人はバッタです」と、その聖書翻訳には訳されていました。
つまり、ここで語られていることは、高いところにおられる神さまの目から見て、地上に住む人々はバッタのように見える、ということだけです。
これは、ある意味で、事実です。
高いところならばどこでもよいわけですが、たとえて言うならば、東京タワーとか、観覧車とか、富士山とか、飛行機の中など。わたしも、飛行機にはもちろん何度か乗ったことがあるのですが、初めて乗ったときにやっぱりそう思いました。昇っていくと、下が見え、人間の姿がだんだん小さく見えます。バッタに見えたかどうかは別問題ですけれども、まあだいたい、なるほど、そんなようなものに見えます。そのように見える、ということは事実です。
そして、そのときに、やっぱり思ったわけです。「ああ、あんなに人間って小さいのか」と、です。そういうふうに、おそらくみんな思うのです。そして、わたしたちが日常生活を送っているあの生活の場所、自分の家とか町なども、非常に小さいものだと感じます。上から見ると、そう見えます。
日常的にわたしたちが悩んだり苦しんだりしていること、兄弟げんかとか夫婦げんかとか、そういうふうなことも、ああ、あんなに小さいところで行われている小さな問題なのか、というふうに感じる。
高いところから見ますと、そういうことが、わたしたちには、なんとなく分かるのです。そして、それは事実です。
それは、しかも、それほど悪い意味でもなく、ある種の解放感として、わたしには感じとられたわけです。いつも自分を支配している苦しみや悩みは小さいものなのだと感じられて、解放感を味わった、ということを、今、思い起こします。みなさんもおそらくそういうことを感じられたことがあるのではないかと思うのです。
しかし、しかし、です。
これは、わたしにとっては一瞬のことでした。最初にわたしが飛行機に乗りましたのは高知県にいたときで、高知空港から飛び立ったものですが、羽田空港に降りるのは一時間後です。昇ったら、はい降ります、という案内があります。すぐに降ります。
降りたら、また人間の姿が大きく見えてきます。町が大きく見えてきます。わたしたちが毎日悩んでいる事柄や問題が、やっぱり大きく感じられるようになってきます。
ですから、上から見ていたときにはちょっと解放感を味わいましたけれども、また現実に引き戻されたなあ、という思いにさせられたわけです。
それでいいと思います。はっと我に返らされます。
ですから、そういうことを実際に感じた者として申し上げておきたいことは、以下のことです。
第一に、人間を“虫けら”呼ばわりすることは、やっぱり、あまりよろしくないと思います、ということです。それがたとえ聖書に出てくる言葉であるとしても、わたしたちがそれを何か人間の尊厳を冒すような仕方で、わたしたち自身の言葉として語ることはよいことではないだろう、ということです。
実際の人間は、虫けらではありません。人間は人間です。人間はバッタでもありません。人間は人間です。この点は、一歩も譲ることはできません。
しかし、第二のこととして申し上げておきたいことは、神さまの目から見たら、また、高いところから見たら、人間はバッタのように見える、という事実が、ただその事実だけが、ここに述べられているのだ、ということです。人間を見くだしたりバカにしたりするような意味では、決してありません。差別的な意図ではありません。
訳としては「虫けら」よりは「バッタ」のほうがよいと思います。「バッタ」も、神さまの立派な創造作品です。わたしたち人間と同じくらい大切な、創造の作品です。
語られているのは、ただ、大きさの問題です。上から見ると、人間は、バッタくらいの大きさに見えます、ということです。そういうふうに、この個所を理解していただきたいと思います。
ただ、同時に、23節以下に書かれていることを見ますと、そこに書かれているこの預言者が語っている言葉は、たしかに、一つの批判的な要素を含んだ言葉である、ということも事実です。
「主は諸侯を無に等しいものとし、地を治める者をうつろなものとされる。彼らは植えられる間もなく、種蒔かれる間もなく、地に根を張る間もなく、風が吹きつけてこれを枯らす。嵐がわらのように巻き上げる。」
要するに、一つの国を治める国家権力者、あるいは、国の指導者、リーダーと呼ばれるような人々、そういう人々に対して、一つの強い規制が、ここに働いている、と理解することができます。
そういう人々がもしかしたら抱くことがある、ある種の全能感もしくは万能感、「わたしは何でもできる」という思い、この力を用いて、この地位と権力を用いて、何でもできるのだ、というふうに思い込むこと。そういう人間の思いに対する強い批判がある、ということです。そのことも事実です。
高いところにおられる、そこからすべてを見ておられる、神さまの目から見たら、どんなに偉ぶっている人であっても、「バッタ」にすぎない。ただの人にすぎないし、小さな人にすぎない。そういうふうに言われているのです。
まして、です。その権力者が、良い政治家ならばともかく、圧政や暴政を強いる政治家であるならば、なおさらです。そういう者を恐れることはない、ということです。その相手もまた、わたしたちと同じ人間であり、神さまの目から見たら「虫」にすぎないと言われているのです。だからこそ、わたしたちは、恐れることなくそのような相手に立ち向かうこともできるのです。
今日も、最初にヨハネによる福音書を読みました。次のように書かれていました。
「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
これは、ヨハネのクリスマスメッセージです。「言(ことば)」すなわち、神さまの永遠の御言であられ、また神の御子であられるイエス・キリストというお方が、「肉となった」と語られています。
「肉」とは、人間のことです。わたしたち人間の、この肉体のことです。神の御言が、この肉体をまとって、人間になられた、ということです。
神の御子が、神が、人間になられた。これがクリスマスの出来事です。しかし、このことも、先ほどまでお話ししてきました、イザヤ書40章の内容と呼応するかたちで理解していただきたいと願っております。
とくに注意していただきたい点は、決して神さまは、何か悪い意味で、上からこの世界とわたしたち人間を“見おろされて”、あいつらは悪いと言い、世界は邪悪であり、人間は邪悪であるなら、だから、あいつらを助けてあげよう、救ってあげよう。何かそういう仕方で、上から来てくださった、というふうに、もしわたしたちがこの事柄を理解しているとしたら、考え直してみなければならないだろう、ということです。
つまり、ここで問題にしたいことは、なんとなく押し付けがましい感じで、助けてあげよう、救ってあげよう、というような仕方で、神の御子が人間になられ、上から下へと降(くだ)って来てくださった、というふうに、御子のご降誕の意義をとらえることが本当に正しいかどうか、ということです。
そのようなとらえ方は正しくないと、わたしは申し上げたいわけです。むしろ、事実は全く逆であると言ってよいでしょう。
ヨハネによる福音書3・16に出てくる次の御言葉は、たいへん有名です。
「神は独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)。
わたしたちの神さまは、“この世を愛される方”です。この地上の世界、わたしたちが生きている現実、人間そのものを、愛してくださる神です。そのことの意味は何なのか、ということを、わたしたちは、よくよく考えてみる必要があると思います。
「あれは悪いやつだから、矯正してやりたい」とか、上から見おろして「問題を片付けてあげましょう」とか、そのような意味ではないように思います。
神さまは、この世を見くだしてはおられない、ということを申し上げておきたいと思います。むしろ、心から愛しておられるのです。
このようなことは、わたしたちにとっては、言わずもがなのことかもしれません。しかし、現実には、非常にうさんくさい“救い主”は、たくさん出回るわけです。それこそが、まさにわたしたちにとっての偶像です。偽物です。しかし、それは、人の目にはまことに美しく見え、人をだますものでもあります。きらびやかで、人の心を魅了する力を持っているものです。
お金の力、地位や名誉の力、高いビル。それさえあれば何でもできる、と言い張る人々がいます。わたしたちの目の前に登場します。
しかし、わたしたちの現実は、どうでしょうか。そのことによく気づく必要があります。神さまの目から見れば、人間は「バッタ」です。わたしたちは、もっと謙遜になるべきなのです。
ですから、このことから言えば、「言が肉となった」すなわち、神の御子イエス・キリストが人間になってくださった、ということは、イエス・キリストが、神さまの目から見た「バッタ」の一匹になってくださった、ということでもある、ということです。
イエス・キリストは、わたしたちと同じ、地上に生きる存在となってくださり、わたしたちを助け、寄り添ってくださる救い主となってくださいました。
そこに、真の「謙遜」の模範が示されているのです。
(2005年12月18日、松戸小金原教会主日礼拝)
2005年12月11日日曜日
国々は革袋からこぼれる一滴のしずく
イザヤ書40・12~17、ヨハネによる福音書1・10~13
今日もイザヤ書40章とヨハネによる福音書1章を開いていただきました。イザヤ書の、先週学んだ個所の続きには、次のように書かれています。
「手のひらにすくって海を量り、手の幅をもって天を計る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし、山々を秤にかけ、丘を天秤にかける者があろうか。」
海、天、地の塵、山々、丘。これらは、わたしたちが生きている世界と宇宙を構成している諸要素です。
神さまがお造りになった天地万物の大きさや広さや高さや深さや重さ、それらすべてをはかりつくすことができる人がいるでしょうか、そんな人はいません、ということです。そのようなことは人間には不可能であると、預言者は語ろうとしています。
しかし、わたしたちは、ここで預言者が語ろうとしていることの意図を、よく考える必要があります。
ここで預言者は、わたしたちにはかりつくすことができないのは、この天地万物である、と語っているように見えます。しかし、本当にはかりつくすことができないのは、この大きな世界をお造りになった神さまのほうです。それこそが、預言者の言葉の真意です。神さまは、はかりつくすことのできない、とても大きいお方なのです。
「主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え、知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。」
「主の霊」とか「主の企て」と書かれていることを、もう少しわたしたちにとって身近な言葉で言い直すとすれば、神さまの御心、思い、計画、予定というあたりのことです。改革派神学の用語で言うところの「神の聖定」(God’s Counsel)という表現が、最も近いと思われます。
ですから、この個所で預言者が語ろうとしていることは、はっきりしています。わたしたち人間には、神の御心をすべてはかりつくすことなどはできません、ということです。なぜなら、神さまは大きな方だからです。
しかも、ここには、明言されてはいませんが、明らかに比較があります。何と何が比較されているかと言いますと、神の御心と人間の心です。神さまの大きさが、人間との比較においてはかられていると言えるかもしれません。神さまの大きさと人間の大きさの違いは、あまりにも明白である、ということです。
「主の霊を測る」とは、わたしたち人間が、神さまの御心の中身を「だいたいこの程度だろう」とあらかじめ見積もることです。そして、それ以上の期待を持たないことです。
しかし、そのように神さまがしてくださることの“程度”をはかることができる人間がいるのでしょうかと、預言者は問うています。神さまの御心とみわざは、わたしたち人間の想像を絶するものではないでしょうか、と訴えているのです。
「見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく、天秤の上の塵と見なされる。島々は埃ほどの重さも持ちえない。レバノンの森も薪に足りず、その獣もいけにえに値しない。主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる。」
ここにも明らかに、神さまと地上の物事や人間のわざとの間の比較があります。神さまは大きい。しかし、地上の物事や人間のわざは、神さまと比べると、小さい、ということです。
「国々」とは、人間の・人間による・人間のための“国家”のことです。政治において司られる国です。政治とは、まさに人間のわざです。人間の・人間的なるわざです。
しかし、その“国家”のことを、聖書はあるいはこの預言者は「革袋からこぼれる一滴のしずく」にすぎないと語っています。あるいは「天秤の上の塵」にすぎない、としています。
「天秤」とは、あるものの重さと他のものの重さを比較する道具です。国家は天秤の上の塵である、ということは、神と国家は比較にならない、ということでしょう。片方に神さまがお乗りになっている天秤のもう片方に“塵”を乗せても、その天秤は全く動かないわけです。
「島は埃(ほこり)」。とても軽い、ということでしょう。
「森は薪(たきぎ)」。燃やしてしまえば灰になる、ということでしょう。
ここで明らかに語りうることは、この預言者は、国家というもの、あるいは、この世界の大自然というものを、それはとても小さいものであり、軽いものである、というふうに言い切ってしまっている、ということです。その意図は何なのであろうかと、考えざるをえません。
なぜ“考えざるをえない”のかと言いますと、少なくともわたし自身の感覚からすれば、とてもじゃないが、こんなことは言えない、と感じるからです。
国が小さいでしょうか。そんなふうに言われると、ぎょっとします。国は、ものすごく大きなものです。そのような感覚が、少なくともわたしには、あります。
あるいは、島が埃でしょうか。森が薪でしょうか。そんなふうに言われると、わたしには、全くついていくことができません。わたしにとっては、ものすごく大きなものです。非常に重いものです。
ですから、そのわたしの観点から言わせていただきますならば、国が小さいとか軽いとか、取るに足らないどうでもよいものだ、というふうに感じているようなときは、わたしたちは、表の空気をよく吸うべきであると思います。自分の家から出て、いろんな人の顔を見て、その人々の語っていること、考えていることに、よく耳を傾けてみるべきです。
都会にいる人は、満員電車に乗ったり、人ごみの中に出かけたりしてみるべきです。そうするほうがよいと思います。この世界が軽いとか、人間が小さいとか、そのようなことをもし感じているならば、そうしてみるべきです。
そうしてみると、おそらく、何か圧倒されるものがあります。そして、そこでおそらく気づかされることは、「この世界は小さい」ということではなく、逆に「わたしは小さい」ということなのです。電車の中ですし詰めになってつぶされているのは、このわたしです。世界が小さいのではなく、このわたしが小さいのです。そのことを感じるはずです。
「いや、わたしは、そのようなことを、まだ少しも感じない」ということであるならば、それを感じられるようになるまで、家の中に入るべきではないかもしれません。徹底的に世界の大きさを味わい尽くす必要があると、わたしは思います。
この世界に対する、あるいはこの地上の現実に対する過小な評価は、非常に危険な結果をもたらすことがありうるからです。
それは、牧師たちが、説教の中で、時々やってしまうことです。牧師たちはしばしば、世界は小さいと語ります。「わたしたち人間はウジ虫のような存在である」などと語ります。しかし、それは、非常に危険な言葉づかいです。
たとえ、それに類するような言葉が聖書に出てくることがあったとしても、です。それはいわば神さまだけが語りうる言葉なのであって、わたしが語るべき言葉ではない、ということです。
世界は小さくありません。人間は小さくありません。そのことを、わたしたちは、わきまえ知るべきです。
しかし、です。ここで預言者がたしかに語っていることは、神さまとの比較においてではありますが、世界は小さい、人間は軽い、ということです。そのことも、わたしたちは、認めなければなりません。
だからこそ、です。わたしたちは、この預言者がこのように語っている意図は何か、ということに、関心をもつべきです。
その理由に関して考えうることについては、先週と先々週の説教の中で、すでに触れました。一言でいえば、この預言者の発言は、明らかに歴史的に特別な背景をもっている、ということです。
それは、紀元前6世紀のイスラエルの民に起こった“バビロン捕囚”という出来事です。要するに、彼らは、自分の国を領土もろとも失ったのです。戦争に負けたのです。そして、捕虜として連れて行かれました。
彼らが長年にわたって自分自身で築き上げてきた町も、文化も、お城も、共同体の秩序も、宗教も、です。それらすべてを、彼らは失ったのです。彼らにとって、自分の財産と言いうるものは、すべて無くなってしまったのです。
このことを前提として考えていった先に、思い至ることがあります。それは何か。
国は小さい、世界と人類は軽い、神の存在の大きさ、神の御心の大きさと比べるならば、それらのものは取るに足りないとか、それは「革袋からもれる一滴のしずく」だなど、このように語られているときに思い描かれている“国”の第一の意味として考えられるのは、他ならぬ彼ら自身がかつては持っていたが、しかし、たしかにそのすべてを失ったものである、ということです。
また第二の意味として考えられるのは、今申し上げた同じことの裏面にあることです。この“国”の中には、彼らから国家とその財産を奪い取った敵国のことも含まれているのではないかということです。彼らが失った国が“国”であるとするならば、彼らから国を奪った国も“国”なのだ、ということです。
ですから、ここで考えられることは、この御言葉を語る者にも、聴く者にも、初めから分かっていたことは、彼らにとっての“国”は、小さいはずがないものであった、ということです。ものすごく大きなものです。彼らが命をかけても守ろうとしたものです。喉から手が出るくらい欲しいものだったです。それが彼らにとっての“国”です。国家であり、国土です。
しかし、だからこそ、と言いうる面もあるわけです。彼らにとっては、まさに、喉から手が出るほどに欲しい、命をかけても取り戻したい国家と国土であったからこそ、神さまは、あえて「軽い」と言われている。「無に等しい」とさえ言われている。そのように、わたしたちは、この箇所を読むことができるのです。
わたしたちにも、かつて自分で持っていた、ものすごく大切なものが何かあるかもしれません。しかし、無くなってしまった。奪われた、あるいは、失ってしまった。そういうとき、わたしたちは、何を考えるのでしょうか。そして、そのようなものを、神さまから、それは小さいものだとか、軽いものだと言われたときに、わたしたちは、何を感じるのでしょうか。そのようなことを、いろいろと考えてみることが大切です。
彼らにとって“国”は、決して小さいものではありませんでした。そのことは彼ら自身がいちばんよく分かっていることでした。しかし、それを神さまは、あえて軽いと言われ、小さいと言われているのです。その理由として思い当たるのは、以下のようなことです。それは、わたしたち自身の問題として考えてみれば、何となく分かることです。
わたしたちは、この世界の現実に向き合わなければなりません。いろいろな問題に立ち向かって行かなければなりません。そのときに、です。しかし、それらのものが、わたしたちにとって、あまりにも大きすぎると感じてしまう。とても面倒くさいし、何かとても恐ろしいものである、というふうに感じてしまうとき、わたしたちは、思わずひるんでしまう。前に進んで行けなくなるのです。
そのようなときに、です。
わたしたちに、神さまから「世界は小さい。人間は軽い」と言ってもらえるならば、そのとき、わたしたちは、慰めを得ることがありえます。「取るに足りない」とまで言われることには、なお抵抗があります。しかし、それらのものは、神さまの目から見れば、小さいものですよ、と言ってもらえることは、なるほど有り難いことです。
あなたがたは、その程度の小さな現実、小さな問題にならば、立ち向かっていくことができるのではないですか。そういうメッセージとして、この個所を受けとることができるように思われます。
もうひとつ、逆のケースについても考えておきます。わたしたちが世界の大きさに圧倒されてしまう、という場合、恐怖心のほうではなく、むしろ反対に、そのあまりの大きさにうっとりと魅了されてしまうことがある、ということです。
そして、そのときしばしば起こることは、神を忘れる、ということです。この世界がまさにわたしのすべてであって、神さまは何か小さいものだ、と感じる。教会のやっているようなことは、全く取るに足らない。この世のやっていることのほうが大切だと感じる。
これはわたしたちが陥りやすい罠です。わたしたちがこの世の中でうまく行っているときにこそ陥りやすい罠です。
この罠から逃れるためにこそ、この世界は小さい、ということを、神さまから教えていただく必要があるのです。
ヨハネによる福音書には、次のように書かれています。
「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
ここで「世」とは何でしょうか。神の御子であられ、また神の永遠の御言そのものであられるイエス・キリストというお方が来てくださったその場所のことをヨハネは「世」と呼んでいます。その「世」の中に先ほどの預言者イザヤの語っていた「国々」や「島々」も含まれると考えてよいでしょう。そういうものを含んだ一切が「世」です。
ヨハネの語る「世」の意味は、決して“人間”だけではありません。神さまがお造りになった、文字どおりの“世界”全体、すなわち、天地万物が含まれています。わたしたちが生きているこの世界、この現実の中に、永遠の御言である神の御子、救い主イエス・キリストが来てくださったのです。
それが、ヨハネのクリスマスメッセージです。
「世は言を認めなかった」とあります。この世の人々、世界の現実は、神の御子イエス・キリストを“わたしの救い主”として受け入れようとはしません。簡単には受け入れません。むしろ明確に拒絶します。
しかし、それにもかかわらず、イエス・キリストは、あえて、この世に来てくださいました。
イエスさまという方は、福音書を読んでいけばすぐに分かりますように、ご自分のことをちやほやしてくれる相手のところだけに出向いていく、というような方では、全くありません。
むしろ、反対する人の中にも、堂々と割って入られる方です。どんな反対があっても、拒絶があっても、おそれることなく、ひるむことなく、堂々と割って入られる方です。それこそが、聖書の語る、福音書の描く、主イエス・キリストのお姿です。
また、マタイによる福音書には、イエスさまのご降誕の際にユダヤの王ヘロデがそのことをかぎつけ、その救い主とやらを殺してしまえと思い立ち、二歳以下の幼子を探し回り、それを殺したことが記されています(マタイ2・1〜15)。国家権力の横暴さというものが、そのような仕方で示されています。
しかし、神の力と比べれば、国家権力などおそれるに足りない。そのように信じなければ、乗り越えていけない壁があり、成し遂げられないわざがある、ということも、聖書が語っている真実です。
救い主は、力をもって、来てくださいました。そして、この世界の中に、救い主に反対するこの世の中に、堂々と割って入ってくださり、イエス・キリストを信じて生きる人々を、呼び起こしてくださいました。
それこそが、神の御子イエス・キリストがこの地上の世界に来てくださったことの意味なのです。
(2005年12月11日、松戸小金原教会主日礼拝)
2005年12月4日日曜日
声をあげよ、良き知らせを伝える者よ
イザヤ書40・9~11、ヨハネによる福音書1・6~9
「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。」
今日もまた、イザヤ書40章とヨハネによる福音書1章を開いていただきました。いずれも先週学んだ個所の続きです。
この御言葉の意味をお話しする前に、先週お話ししましたことを一点だけ繰り返します。それは、イザヤ書についてのさまざまな解釈の中で、わたし自身が選んでいる立場はどういうものかという点です。
それは、このイザヤ書40章以下を書いたのは、紀元前6世紀の預言者であるとする解釈の立場である、ということです。
紀元前6世紀は、神の民イスラエルに「バビロン捕囚」という大きな出来事が起こった時代です。彼らは、バビロンという国に神の民(当時の南ユダ王国の人々)が捕虜として連れて行かれました。捕囚の期間は、約七十年に及んだと言われます。しかし、その人々が解放され、祖国に帰ることができました。それが一連の出来事です。
そのバビロンの捕囚の出来事、そして捕囚からの解放という出来事こそがこの個所の歴史的な背景であるとする解釈の立場を、わたしは選んでいます。これは広く受け入れられている立場です。
ですから、わたしは、今日の個所も、まさにそのようなことが書かれているという前提に立って読んでいきたいと願っております。捕囚からの解放、またその解放の喜びが表現されている個所である、ということです。
それは、イスラエルの民にとって、まさに「良い知らせ」でした。また、それは「喜びの知らせ」でした。喜びの知らせ、良い知らせのことを、わたしたちは「福音」と呼んでよいはずです。日本語の「福音」の意味は、喜びの知らせ、よい知らせです。グッドニュースです。
また、主なる神があなたがたを奴隷状態から解放してくださるというこの良き知らせを宣べ伝えること、告げ知らせることを、わたしたちは「福音宣教」と呼んでよいはずです。「宣教」の意味は、神の救いを宣べ伝えること、告げ知らせることです。
その喜びの知らせ(福音)をイスラエルの人々に告げ知らせる「荒れ野に呼ばわる声」が来た。王のもとから走ってきた伝令役が叫んでいる。それがイザヤ書40章の状況です。
ここでわたしは、皆さんに考えていただきたい問題を、二つ出したいと思います。
第一の問題は、もしわたしたちが喜びの知らせ、良い知らせを、できるだけ多くの人々に広く、また効果的に伝えるとしたら、そのためにはどうしたらよいでしょうか、ということです。
今ならば、光の速さと同じ速度を持つ通信手段があります。インターネットやテレビやラジオなどがあります。また、昔からのやり方としては、チラシを配るとか、本を書いて出版することなどが考えられます。
しかし、いわばもっと単純で、手っ取り早い方法があります。それが、ここに出てくる「高い山に登る」という方法である、ということです。みんなのことを見渡すことができ、一度にみんなに声を届けることができる場所です。そこに立って大きな声で叫ぶ、という方法です。
ただし、ここで注意しておきたいことは、この9節の「高い山」という言葉には、先週学んだ個所に出てきた「荒れ野」(40・3)の場合に申し上げたことが再び当てはまるように思われます。
それは、ここで預言者が語っていることの中には、多分に象徴的な意味合いを含まれているに違いない、ということです。
字義どおりの地理的・物理的な「高い山」の意味だけではない。むしろ、もっと広い意味で、とにかく、できるだけ多くの人々のことを、一度に見渡すことができ、声を届かせることができる場所のことを指しているのではないか、ということです。
たとえば、わたしが今立っているこの講壇は、皆さんのことが最もよく見える場所です。松戸小金原教会の講壇は少し高い位置にあります。ここも、まさに「高い山」なのです。そのように考えることができるのです。
しかし、どうか誤解がありませぬように。講壇の高さは、人間の位(くらい)の高さを示しているわけではありません。それは完全な誤解です。
大切なことは、その高い場所がその目的にかなって効果的であるか、機能的であるかどうか、ただそれだけです。みんなの顔が見えて、一度に声を届かせることができるかどうか、です。
皆さんに考えていただきたい第二の問題を、これから申し上げます。それは、「高い山に登る」のは、誰でしょうか、という問題です。
9節に「良い知らせをシオンに伝える者」と書いてあります。高い山に登る者、登らなければならない者とは、すなわち、「神の民イスラエルに向かって良い知らせを伝える者」である、ということです。これは誰のことですか、という問題です。そのことは、この個所には必ずしも明らかにされていません。
一つの解釈の可能性は、高い山に登って、すべての民に福音を告げ知らせなければならないのは、王のもとから走ってきた伝令役自身です。
たとえば、新約聖書は、荒れ野に呼ばわる声の主は、イエス・キリストの道備えをしたバプテスマのヨハネであると解釈しています。今日お読みしましたヨハネによる福音書1・6〜9にもバプテスマのヨハネのことが紹介されています。
「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
ここで大切なことは、ヨハネは一人であるということです。高い山に登って良き知らせを告げ知らせるのも一人であるという解釈の可能性には否定しきれないものがあります。
しかし、これ以外の解釈の可能性もあります。わたし自身は、これから申し上げる解釈を採りたいと願っております。
それは、高い山に登って、すべての民に福音を告げ知らせなければならないのは、その知らせを王の伝令役から聞いた神の民のすべてである、という解釈の可能性です。みんなで高い山に登るのだ、ということです。
それは、先週もご紹介しました別の聖書翻訳の場合に言いうることです。その聖書翻訳には、この9節は、以下のように訳されています。
「エルサレムよ、高い山に登って、福音を宣べ伝えなさい。福音を告げ知らせなさい。力の限りに叫びなさい。ユダの町に言いなさい。」
この翻訳によりますと、福音を宣べ伝える人が「エルサレム」と呼ばれています。これは、神の民イスラエル自身のことです。彼らが山に登るのです。
このほうが、わたしたちには、よく分かる話ではないかと思われます。だって、そうでしょう。王の伝令役の声だけなら、あまりにも小さな声です。大勢の人々が騒いでいる中では、全く聴こえません。
しかし、そうではなく、解放の喜びの知らせを聞いた人々全員が高い山に登り、みんなで大声を上げることであるとしたら、どうでしょうか。そのほうが、わずか数人の小さな声よりも、はるかによく響きわたります。遠くにいる人々にも聞こえます。
一人で声をあげるよりも、みんなで声をあげるほうが、はるかに効果的です。たとえば、みんなで声を合わせて讃美歌を歌うことも、ものすごく効果的です。
ですから、ここではっきりと申し上げておきたいことは、「高い山」とは、この松戸小金原教会の講壇だけではない、ということです。また、「高い山」に登るのは、福音の説教者たち、あるいは教会の牧師たちだけではない、ということです。
そうではなく、みんなで登るのです。みんなで、この福音を宣べ伝えるのです。
わたしたちの教会が、イエス・キリストの福音を、この町とこの国の人々に宣べ伝える方法も、まさにそれである、ということです。
「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」
この段落でまず最初に注意すべき言葉は「見よ」です。「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神」。何を見ればよいのでしょうか。
考えられることは、ひとつです。もうすでに、主なる神が、すぐそこまで、彼らの近くまで来てくださっている、ということです。ただし、まだ到着してはおられない。だからこそ、目を上げて、そのお方の到着を注意しつつ待ちなさいと、彼らは命ぜられているのです。
そして、この個所において次に注意していただきたいことは、彼らの前に登場されようとしている主なる神の特徴は、どのようなものであるか、ということです。
ここに記されている、主なる神の特徴は、大きく分けて二つあります。
第一の特徴は、「彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」という点に表わされていることです。すなわち、ここで主なる神は、権力をもって支配する王の姿に描かれている、ということです。
第二の特徴は、「群れを養う羊飼い」です。そのお方は、「小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」、とても親切で、優しくて、憐れみ深い、弱い者の味方であるような、良い羊飼いです。
後者の特徴は、前者の特徴とは、まるで百八十度違うものであるかのようです。権力をもった存在であると共に、憐れみ深い存在でもある、というのですから。
しかし、ここに明らかにされている主なる神は、まさにそのようなお方なのであって、まことの王であられると同時に、まことの羊飼いでもあられる、と言われているのです。
わたしたちは、このお方こそが、わたしたちの救い主イエス・キリストであると信じております。イエス・キリストは、“王でも羊飼いでもあられるお方”として、父なる神のもとから、わたしたちのこの世界に来てくださったのです。
ただ、ちょっと気になることがあります。それは、次の点です。
優しくて親切で弱い者を受け入れてくださる羊飼いとしてのイエス・キリストというほうは、よく分かる話であるし、納得もできる。
しかし、権力をもって支配する王としてのイエス・キリストなどと言われると、なんとなくぞっとするし、そんなのは納得できない。
こんなふうにお感じになる方もおられるのではないでしょうか、という点です。
このことについて詳しくお話しする時間は、今日は、もうありません。しかし、この点は、ぜひ理解しておきたいことです。
それは、イエス・キリストは、ただ優しいだけのお方ではない、ということです。ふにゃふにゃではない、ということです。そうではなくて、強い方でもある。力を持った方でもある、ということです。
救い主は、力をもって、わたしたちを、まさに罪の奴隷状態から救い出してくださるのです。
力がなければ、“連れ出す”ことはできません。そのことも、事実です。
まことの力を持ったお方だけが、ひとを救うことができるのです。
そのことを覚えていただきたいと思います。
(2005年12月4日、松戸小金原教会主日礼拝)
2005年11月27日日曜日
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ
イザヤ書40・1~8、ヨハネによる福音書1・1~5
今日から教会の暦で言いますところのアドベントに入ります。イエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマスの準備をはじめる季節になりました。
そのために、今日、聖書を二個所開いていただきました。旧約聖書のイザヤ書40章と、新約聖書のヨハネによる福音書1章です。このところを、アドベントの期間に学んでいきたいと願っております。
イザヤ書40章のほうを、まずご覧いただきたいと思います。とても印象的な言葉をもって始められています。
「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」
イザヤ書というこの書物には、いろいろな非常に異なる解釈の立場があります。その中で、わたしたちはどの立場かを選ぶべきか、という問いを避けて通ることは、できません。
しかしそのようなことについて詳しく述べる時間は、今日はありません。一つのことだけを述べておきたいと思います。わたしが選んでいる解釈の立場は何か、ということだけを申し上げておきます。
わたしが選んでいる立場は、イザヤ書の40章以下は、紀元前6世紀の時代に生きた預言者が書いたと理解する立場です。それ以上のことは、今日は申し上げません。
そのように考える場合に語りうることは、紀元前6世紀に起こったバビロン捕囚という出来事が、この個所の記述の歴史的背景である、ということです。
それではバビロン捕囚とは何かということについても、お話ししなければなりませんが、詳しく説明している時間はありません。
ごく簡単に言うならば、神の民イスラエルが南北の二つの国に分裂した後、エルサレムを首都とする南ユダ王国が隣国バビロンとの戦争に負け、エルサレム神殿は焼き払われ、城壁は破壊され、国民の多くが捕虜としてバビロンに連れて行かれ、七十年もの間、強制労働の苦役を強いられたという出来事です。
ただし、誤解がありませぬように。わたしたちが旧約聖書を読んでいくうちに分かってくることは、そのような出来事は、彼らを不意に襲った不幸、予期せぬ災難というようなことではなかった、ということです。
そうではなく、聖書が証ししていることは、明らかに、この出来事は、彼ら自身が神の前で犯した罪に対する神御自身の裁きであり、刑罰として起こったことである、ということです。そのように、聖書には、はっきりと書かれています。
しかも、それは、いわゆる彼らの自業自得であるとか因果応報であるというような意味ではありません。それはむしろ、彼ら自身が、明確に、自覚的に犯した罪に対する正当な裁きです。
それでは彼らはどういう罪を犯したのか、という点も重要です。しかし、そのことも、今日は触れないでおきます。
そのことではなく、今日、皆さんに考えてみていただきたいと願っております第一のことは、次のようなことです。
七十年という時間の長さは、どれくらいのものだろうか、ということです。
皆さんの中には、その長さがどれくらいのものであるか、そこで何が起こるのかということについては、体験的にご存じの方がたくさんおられます。みなさんは、七十年待ちました、ということを、何か持っておられるでしょうか。七十年忍耐しましたと。わたしには無理だろうなあと感じます。それほどの長さです。
神の民イスラエルは、七十年間のバビロン捕囚を忍耐することができたのでしょうか。苦しくなかったのでしょうか。そんなことはありえないでしょう。途中で嫌になり、やけくそにならなかったのでしょうか。そんなことはありえないでしょう。
しかし、その捕囚期間が終わりました。あなたの苦役の期間は終わりました。あなたの罪は許されました。あなたは故郷に帰ることができます。
そのことをわたしの民に伝えてください。そして、そのことによってわたしの民を十分に慰めてくださいと、主なる神が、紀元前6世紀に生きたこの預言者に命じたのだということです。それが、まず最初の段落に書かれていることです。
第二に考えてみていただきたいことは、この預言者の言葉を聞いた人々の心は、どのように動いただろうか、ということです。
うれしかったのではないでしょうか。しかしまた、反面、いろいろと複雑な心境ということもあったのではないでしょうか。七十年の間に体験したこと、これもまたこのわたしの人生そのものであって、今さら否定することができない、それはそれで受け入れるほかはないものであるという意味で、いま以上に新しいものを求める気が起こらない、今さら故郷に帰る理由が分からない、という人々もいたのではないでしょうか。
「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」
「呼びかける声がある」と訳されています。もちろん、これでも構いません。しかし、もう少し身近に感じられる訳はないものかと思わされます。わたしが参考にした聖書翻訳では、「ねえちょっと聞いて。だれかが叫んでいますよ!」というふうなニュアンスで訳されていました。
想像しうるのは、王のもとから伝令役を命ぜられた人物が走ってきた場面です。その人が大勢集まっている人々に大声で何かを伝えようとした。その声にその大勢の中のある人が気づいた。そして他の人々に「しっ、ちょっと静かにして。何か声が聞こえます。騒いでいると、何を言っているか聞こえないじゃない」と注意している様子が思い浮かびます。
その声の主である伝令役が伝えようとしていることは、わたしたちの主なる神のために砂漠の真ん中に道を作りましょう、ということです。彼らの故郷にもとあったエルサレム神殿に通じる道を作りましょう、という意味かもしれません。そのような解釈が可能です。
ただし、「荒れ野」と訳されている砂漠という言葉には、字義通りの地理的な砂漠のことだけではなく、多分に象徴的な意味も含まれている、と考えられます。つまり、この言葉には「人生の荒れ野」、「人生の砂漠」という意味も含まれていると思われます。
そのような、人生と心の問題、すなわち、わたしたちのまさに“砂漠のように荒れ果てた人生と心”の問題を、この御言葉の中に読み取ることは許されているでしょう。
「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」とありますが、この訳はかなり疑問です。谷や山や丘が、自分自身で身を起こしたり、身を低くしたりできるかのようです。
しかし、ここはおそらくそういう意味ではなく、人間のなすべき仕事を指しています。つまりこれは、谷の部分に土を入れて高くしたり、山や丘を削って低くしたり、でこぼこ道はなめらかに、狭い道は広くする。そのような、わたしたち人間が汗水流して取り組むべき土木作業のことです。
そのようにして、一つのまっすぐな道を作りましょう。そういう道をわたしたち自身が作りましょう、という意味ではないかと思われるのです。
それは何のための道か。主のための、わたしたちの神のための道です。主なる神の栄光を「肉なる者」、すなわち全人類が、またわたしたち一人一人が、仰ぎ見るための道です。つまり、それは、主なる神がそこをお通りになり、わたしたち一人一人のところまで来てくださるための道です。そのようにしてわたしたちと主なる神とが出会うための道です。
そういう道を、ある意味で、わたしたち自身が作らなければならない、ということは、本当のことです。すべて備えられている。道はだれかが勝手に作ってくれる。その道を、わたしたちは、ただ勝手に通るだけだ、というようなことでは、決して済ますことができない何かがある、ということは、本当のことです。
この「荒れ野に道を作ろう」と呼びかける“声”を、新約聖書は、イエス・キリストの道備えをした洗礼者ヨハネのことを指していると解釈しています。大切なことは、ヨハネは人間である、ということです。人間の働きが、何らかの仕方で、評価されるべきです。
わたしの人生は荒れ野であり、砂漠であると、今まさに自覚している人が、そこにただ座り込んでしまってよいでしょうか。道を作ろう、一緒に作ろうという声が聴こえてきたときには、耳を傾けなければならないのではないでしょうか。そして立ち上がって、その事業に参加することが求められているのではないでしょうか。
「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
この段落に書かれていることは一つの会話であると考えられます。「呼びかけよ、と声は言う」とありますが、これもまた別の聖書翻訳には「ねえちょっと聞いて。だれかが何か話しているよ」というようなニュアンスで訳されています。だいぶ違う感じがします。
その聖書翻訳によりますと、その会話の内容は、こんな感じです。
「みなさんにお話ししておきたいことがあります。」
「それは何ですか。」
そして、この人の話が始まります。
「人は草だ、ということです。人間を信じることは、野の花を信頼するようなものです。しかし、草は枯れ、花はしぼむではありませんか。」
そのようなものを信頼することができるでしょうか、できないのではないでしょうか、という意味です。「肉なる者」とは人間のことです。人間は、草に等しいものである。草は枯れる。花はしぼむ。人間も枯れる、人間もしぼむ、と言っているのです。
ですから、これは、やや皮肉っぽく見るならば、ある意味で、人間というものに対する不信感を煽るような言葉である、というような読み方が、可能かもしれません。
わたしたちも人間です。わたしも人間です。わたしは草でしょうか。「あなたは草にすぎない」などと言われると、だんだん嫌な気持ちがしてきます。腹が立ってきます。
しかし、腹を立てる前に考えてみたいことがあります。それは最初から申し上げていることです。この個所の歴史的背景として想定することができる、バビロン捕囚の現実とはどのようなものであったか、という点です。
過酷な労働を強いられること、七十年。自由の利かない、何ものかに束縛された生活が延々と続く。そのような中で、人間を信じることができなくなるのは、無理もないことでしょう。人間を信じなさいということのほうが、無理な話です。
人は草である。草は枯れる、花はしぼむ。このことは、長年にわたって、他の人間からひどい目に遭わされてきた人にとっては、ある意味で、慰めの言葉になりうるものかもしれません。人間を信じるということを強制されることには、もはや堪えられないと感じるであろう人は、じつは、たくさんいるのです。
しかし、それにもかかわらず、です。最も恐ろしいことは、だれのことも、何のことも信じられなくなることです。この世の中にあるもの、生きている人間すべてに絶望することです。それは、現実にはしばしば起こることであるだけに、恐ろしいことです。
だからこそ、でしょう。だれのことも、何のことも「信じられない」と告白せざるをえない状況に置かれ続けた人々に向かってこそ、預言者は、神の御言葉に信頼を置くことの確かさ、大切さ、力強さ、そしてその永続性を語っているのです。
「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。すべての人があなたを裏切っても、です。だれも信用できない、人間を信じることができない、という思いの中に沈み込んでしまったときにこそ、です。神さまの言葉は、それだけは、信用できます、あなたを決して裏切ることはありません、ということです。
そのように、わたしたちも、信じてよいのです。
今日、もう一つの個所として読みました、ヨハネによる福音書に、次のように書かれていました。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」
なんとなく難解で、謎めいた言葉です。しかし、これは、よく知られていますように、神の御子イエス・キリストのご降誕の奥義を表現しているものである、ということです。
ここに出てくる「言(コトバ)」が、神の永遠の御子イエス・キリストを表わしています。イエス・キリストは、“初めにあった言”であり、“父なる神と共にあった言”であり、“神”御自身であられる言である、ということです。
人間を見限ったり、みくびったり、見下げたりすることは、もちろん、できるならば、しないほうがよいことです。すべきではないことです。
しかし、そうは言っても、です。長年にわたってだれかに裏切られてきた人、だれかに踏みにじられてきた人にとって、だれのことも、何のことも信じられない、という不信感のとりこになってしまうことは、ありうることです。無理もないことです。
だからこそ、そのときに、です。信頼できるものが“一つでも残っている”ということが、ありがたいではありませんか!
神の言葉は、それだけは、信頼できるのです。わたしたちがそういうものにすがりたいという気持ちを持つことは、よいことではないでしょうか。
イエス・キリストは、わたしたちが永遠に信頼し続けてもよい、永遠の神の言葉です。わたしたちが人間不信の泥沼の中で、世界に絶望してしまうときにも、わたしたちの命と心を、しっかりと支え続けてくださいます。
イエス・キリストは、そのために、来てくださったのです。
(2005年11月27日、松戸小金原教会主日礼拝)
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