2013年11月7日木曜日

「現代人に納得できる教義学」を求めて(3)

「現代神学」という四文字熟語を使用することにぼくは心理的抵抗があります。なぜなら、神学が現代において営まれているかぎり、それは「現代神学」だからです。たとえテキストが過去の神学者の著作であっても、それを現代人が読み、現代人に理解できる言葉を用いて解釈している時点で「現代化」が起こっています。

「現代神学の元祖はシュライアマハーである」というシナリオは、いつ誰が書いたのでしょうか。おそらくそれを書いた人の「現代」は今の我々の「大昔」です。タイムラグというのは、時間の微妙なずれを指す言葉ではないでしょうか。「現代神学」という語のずれまくり感は、ハンパないレベルです。

神学エンチュクロペディーを学んだ人は、神学に聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学の四部門あり、組織神学は「現在」にかかわる部門であるという事情をご存じでしょう。そして言わずもがなですが、論者の「現在」が論者の「現代」です。つまり「組織神学」が「現代神学」であるとも言えるのです。

しかし「組織神学」は現代的な学問であるというようなことを仮にぼくがどこかで語ったとして、それをどなたがまともに聞いてくださるだろうかと考えるだけで頭が痛い。そもそも神学そのものが現代社会から失われている。まして「組織神学」など見る影もない。意図的に看板を下げる大学が増えている。

そんなこんなを考えているとき、ずっと前に買い集めたまま、ほとんど全く読まずに放置していた数冊の本に目がとまりました。新教出版社の「現代神学の焦点」シリーズです。ぼくが持っているのは9冊だけです。このシリーズが完結したのかどうかさえ知りません。

巻数順に並べた「現代神学の焦点」シリーズ

ぼくは「現代神学の焦点」シリーズの価値が分かりませんでした。とりあえず買いました。しかし、どう読んだらいいのかが見えませんでした。十巻を超えるシリーズのわりに、テーマの並べ方がランダムで、全体の統一性が全くない気がして読みづらかったです。

しかし、わりと最近(時期の特定はできないです)、「現代神学の焦点」シリーズの並べ方の順序を、何気なく変えてみたのです。あくまでも一つの可能性としてではありますが、伝統的な教義学ロキの順序を真似て、本棚上で並べ変えただけです。

ぼくがやったことは、「現代神学の焦点」シリーズの並べる順序を変えてみたことだけです。巻数順なら「理性、復活、未来、人間、新約聖書、平和、神、苦しみ、旧約聖書」の順ですが、「理性、旧約聖書、新約聖書、神、人間、苦しみ、復活、平和、未来」の順にしてみました。

伝統的な教義学の順序に並べ変えた「現代神学の焦点」シリーズ

すると、どうでしょう。ただシリーズ本の並べ方を変えてみただけなのに、これまでは買ったはいいけど本棚の埋め草になっているだけで何の興味もわいてこなかったこの新教出版社「現代神学の焦点」シリーズが、急に生き生きと立ちあがった気がしました。「ああ、これは一線級の教義学だ」と思いました。

もちろんぼくは、このシリーズの複数の著者のうち何人かは、自分の著作を「教義学呼ばわり」されることを快しとしないであろうことを分かっているつもりです。「ぼく/あたしの本はヴィッセンシャフト(学問)だよ。ドグマティーク(教義学すなわち独断論)ではないよ」と猛然と反発するに違いない。

でも、それは「組織神学」ないし「教義学」の本質を根本的に誤解しているゆえに生じる反発なのだと、ぼくには思えてなりません。今は「組織神学」と「教義学」を交換可能な同義の概念として用いますが、その意味の「教義学」は本質的に、本の並べ方を学ぶ学問であると言ってよいようなものなのです。

「教義学とは本の並べ方を学ぶ学問であると言ってよいようなものである」と書いた点について、これ以上広げる予定はない。ネガティヴな意味で書いたわけではないし、皮肉でも自虐でもないです。「本の並べ方」を軽んじるなかれ。それは今や「図書館情報学」等の名称で自立した一大学問になっています。

「図書館情報学」の中身をぼくは知らないので、クマンバチの巣に手をつっこむのはやめておきます。くわばらくわばら。ただ、「組織神学」と同義語として用いる意味の「教義学」は、知の全体系をトータルに把握しうるキャパシティをもつ巨大図書館の「本の並べ方」を研究することに似ています。