テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節
関口 康(日本基督教団教師)
「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、
神があなたがたに望んでおられることです。」
青戸教会の皆さま、おはようございます。
この教会で2回目の説教をさせていただきます。日本基督教団教師の関口康です。前回は5月14日(日)でした。早1か月が経過しました。今日もどうかよろしくお願いいたします。
今日開いていただきましたのは、聖書の中でも大変有名な箇所です。多くの人を励まし、力づけてきた言葉です。私もこの箇所の説教はこれまで何度もしました。主日礼拝でも、伝道集会でも、クリスマス礼拝でも、結婚式でも、葬式でもしました。
そのたびにこれはどのような場面にもふさわしい慰めと力に満ちた言葉であると感じてきました。この箇所を自分の愛唱聖句にしている方は大勢おられると思います。
今日は最初にこれらの言葉の辞書的な意味の説明をさせていただきます。そしてその後、これが現代に生きるわたしたちにとってどのような意味を持つかを申し上げたいと願っています。
第一の言葉は「いつも喜んでいなさい」(パントーテ・カイレーテ)です。書いてあるとおりの意味ですが、大事なことがあります。それは、「喜んでいなさい」と訳されているカイレーテは二人称複数の命令形で書かれているということです。
ですから、これを直訳すれば「あなたがたは常に喜べ」です。「喜んでもよいし、喜ばなくてもよい。どうぞご自由に」というニュアンスはありません。喜ぶことが命令されています。喜ばないと叱られます。
命令という言葉を聞くだけで反発されてしまうかもしれません。「私に命令するな。指図するな。あなたに何の権限があるのか。内容は何であれ命令されることに耐えられない」という反発がありえます。しかし今申し上げているのはとにかくここに書かれている言葉の辞書的意味です。反発や葛藤は必ずあると思いますが、すべて後回しにします。
第二の言葉は「絶えず祈りなさい」(アディアレイプトース・プロセウケスセ)です。これも書いてあるとおりの意味です。しかし大事なことがあります。
それは、「絶えず」と訳されているアディアレイプトースは「中断する」を意味するディアレイポーを、否定を意味する「ア」を最初に付けて否定している言葉であるということです。「中断する」の否定形で「中断しない」となり、それが「絶えず」とか「いつも」という意味になります。
大事なことはまだあります。「祈りなさい」と訳されているプロセウケスセも「喜んでいなさい」と同じく二人称複数の命令形で書かれています。「あなたがたは祈れ」です。先ほどと同じ言い方をしますが、「祈ってもよいし、祈らなくてもよい。どうぞご自由に」というニュアンスはありません。祈ることが命令されています。祈らないと叱られます。
しかし問題は、何を叱られるのかです。「祈らないこと」が叱られます。それはそのとおりです。しかし、ここで「絶えず」の意味は「中断しない」であると先ほど申し上げたことが重要です。その意味を生かして直訳すれば「中断しないで祈りなさい」です。つまりこの言葉で命令されているのは「祈ること」だけでなく「中断しないこと」です。
しかも、「祈り」を「中断する」とか「中断しない」とかいうのは、たとえば教会の礼拝や諸集会、あるいは家庭や職場などで目を閉じ、手を組み、祈りの姿勢をとり、祈りの言葉を唱えるのを途中でやめるとかやめないとかいうのとは全く次元が違うことです。それは常識的に考えれば分かることです。
たとえばわたしたちが自動車の運転中や家で料理をしているときに目を閉じ、手を組み、祈りの姿勢をとり、祈りの言葉を唱え続けることを「中断してはならない」などと言われますと事故を起こすか、やけどするか、包丁で手を痛めます。日常生活に支障が出ます。
もっとも、学校の授業中や教会の礼拝中に居眠りをしているときに「私は絶えず祈っています」と言い逃れるのは、ありかもしれません。
しかしそういうことではなく、「祈り」の意味は神に期待することです。神に訴えることです。神に求めることです。それをやめてしまうことが「祈りを中断すること」です。それは神との関係を自分の側から一方的に断つことです。
ですからそれは「信仰を捨てること」とほとんど同じ意味であるとさえ言えます。かなり厳しい言い方ですが、はっきり言えばそうなります。つまり「絶えず祈りなさい」という言葉は「信仰を捨ててはならない」というのとほとんど同じ意味であるということです。
第三の言葉は「どんなことにも感謝しなさい」(エン・パンティ・ユーカリステイテ)です。これも「ハードルが高い。困った、どうしよう」と、おそらくわたしたちがしばしば感じる言葉です。
なぜなら、「感謝しなさい」と訳されているユーカリステイテも二人称複数の命令形で書かれているからです。「あなたがたは感謝しろ」です。同じ言い方をまた繰り返しておきます。この言葉には「感謝してもよいし、感謝しなくてもよい。どうぞご自由に」というニュアンスはありません。感謝することが命令されています。感謝しないと叱られます。
しかし、この第三の言葉にはもしかしたら翻訳の問題があります。「どんなことにも」と訳されているエン・パンティの「エン」は英語のinであり、「パンティ」は英語のall thingsであるということを本当はよく考えて訳さなければならないはずですが、新共同訳はそのあたりが表現できていません。
英語のinを意味する「エン」を生かして直訳すれば「あなたがたはどんなことにおいても(エン)感謝しなさい」、あるいは「すべてのことの中で(エン)感謝しなさい」という感じになるはずです。そして、もしそうだとすれば、この言葉の意味合いは変わってくるはずです。
感謝できないこともある。いやいや、とんでもない。ほとんど何ひとつ感謝できない。ひどすぎる事実が世界を埋め尽くしている。わたしたちの心は怒りと悲しみと嘆きで満ちている。そう思っている人は多いです。ヨブが「自分の生まれた日」を呪い、自分の人生のすべてを否定しようとしたように。
しかし、そのような「すべてのことの中で」(エン・パンティ)、それにもかかわらず(notwithstanding)「あなたがたは感謝しろ」と命令されています。つまりこれは逆説的(パラドキシカル)な言葉なのです。
その場合の問題は「感謝」の対象はだれかです。この文脈では明確に「神」です。神への感謝です。
「こんな私に誰がした。こんな世界に誰がした。責任者出てこい。もし神が存在するなら、なぜ世界がこれほどまでにひどいのか。なぜ私の人生はこれほどまでに不幸なのか」と叫びたくなるすべての現実の中で(エン・パンティ)、それにもかかわらず(notwithstanding)、この世界と人類を創造し、愛してくださっている神へ感謝することが求められています。
そして、これら3つの言葉をまとめて言われているのが「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」です。これで間違いではありませんが、原文を直訳すると「イエス・キリストにおいてあなたがたに示された神の意志である」と訳すことができます。
今「神の意志である」と言いました。新共同訳は「神が望んでおられることです」と訳しています。原文はセレマ・セウーです。セレマは「御心」とも「定め」とも「計画」とも訳すことができます。
つまりセレマ・セウーは「神の御心」であり「神の定め」であり「神の計画」です。ですからここでわたしたちが考えなければならないのは、パウロが書いている三つの命令はどれも、わたしたち人間の側に主導権があるのではなく、すべては神の側に主導権があるということです。
その意味は、喜びについても、祈りについても、感謝についても、そうすることがわたしたちにできるように神がしてくださっているということです。神はわたしたちをなんとかして喜ばせようとしてくださっていますし、わたしたちがなんとかして祈り続け、なんとかして感謝し続けることができるように、神がわたしたちの信仰をしっかりと支えてくださっています。
同じことを別の言葉で言い換えておきます。
喜びについても、祈りについても、感謝についても、それらすべての根拠はわたしたち人間の側にもこの世界の側にもありません。それはそのとおりです。しかし、ここから先の理屈を説明するのが難しい。人間の側にも世界の側にも根拠はないのですが、しかしその根拠を神が人間と世界に何とかして与えようとしてくださっているので、喜び、祈り、感謝するための根拠がわたしたちの側に次第に生み出されていくのだということです。
しかし、新共同訳のように「神が望んでおられることです」と訳してしまいますと、私の感覚がひねくれているだけかもしれませんが、まるで神と我々との間に距離があって、神が遠くから、喜びもせず祈りもせず感謝もしないわたしたち人間に対していつも不満を抱いておられるかのようです。「お前たちに期待して、せっかく大きな愛と恵みをくれてやっているのに、お前たちは一向に私の望みをかなえてくれない」と言いたそうに。
私が申し上げたいのは「決してそういう意味ではありません」ということです。わたしたちはすでに喜んでいます、祈っています、感謝しています。そういう人生を、すでに歩んでいます、続けています。その歩みはすでに始まっているのです。
それをこれからも長く続けていくことができるように、イエス・キリストにおいて神が、わたしたちの存在をしっかりと支えてくださることを信じようではないかという、未来をめざす希望のメッセージがここに記されているのです。
以上が今日の御言葉の辞書的な意味の説明です。これからお話しするのは現代に生きるわたしたちにとってこれらの言葉がどのような意味を持っているのかということです。二つ申し上げます。
第一は、これらすべてはキリスト教会に宛てて書かれた言葉であるという意味で「教会のための言葉」であるということです。「教会を見つめる視点」を失うとほとんど意味不明な言葉であるということです。
その場合の「教会」は個人にとどまらない人間集団としての共同体を指します。喜びも祈りも感謝も、それをいつもする、絶えずする、いかなる状況の中でもするというのは、個人には不可能です。個人的に解決できる問題ではありません。
そうではないでしょうか。皆さんはおできになりますか。私は無理です。「牧師のくせに何を言う」と思われそうですが、私は無理です。不可能です。個人では無理です。私などはほとんど毎日怒っています。感謝を忘れて愚痴だらけ不満だらけです。社会に対しても家族に対しても教会に対しても、言いたいことは山ほどあります。
しかしそういうのは孤立を深める道です。言いたいことを言ってしまう。それで周りの人がみんな傷ついて離れていく。まるでこの世界に自分だけがいるかのようです。その自分はいつも被害者意識、劣等感、怒りを抱えて孤立し、絶望しています。そのような出口のない固い殻の中に引きこもった状態から解放される道が「教会」です。
教会に集まるとすぐ分かるのは、みんな同じだということです。みんな不満だらけです。だからこそ、みんなで知恵を出し合って「どうしたらいつも喜んでいられるのか、どうしたら祈れるのか、どうしたら感謝できるのか」を真剣に考えるのが教会です。
そして、そういうことを教会のみんなで一緒に考えることができる、そのこと自体が喜びです。こんな低レベルのことまで(!)一緒に考えてくれる仲間がいると思える、そのこと自体が喜びです。
第二は、だからこそ、わたしたちは「教会」において互いに赦し合わなければならないし、何より「教会を赦す」必要があるということです。私も含めてわたしたちは、たぶん「教会」に不満だらけです。しかしそういうときに「教会には喜びがない。祈りも感謝も足りない」と、まさに今日の箇所の言葉を、教会を裁くための言葉として用いてしまうことがあります。
しかしそれではだめです。それ「だけ」ではだめです。もちろんお互いに対する厳しさが必要な場面もあります。「教会に言いたいことが山ほどある」と私も先ほど言いました。しかしそのほとんどは、よく見ると鏡に映した自分の姿です。
つまりそれはわたしたちが自分自身を受け容れることができていないということです。自分を赦せていない。自分を愛せていない。その赦すことも愛することもできていない自分の姿が「教会」の中に見えてしまうときに、わたしたちは「教会」を裁きはじめます。
しかし、「イエス・キリストにおいて示された神の意志」は、わたしたちが喜び、祈り、感謝することです。そのためにわたしたちが一番最初にすべきことは、自分自身を愛することからです。自分を愛し、自分を赦すところからです。
そして次にしなければならないことは、わたしたち自身が「教会を赦すこと」です。教会はいつも責められてばかりです。文句しか言われたことがありません。そのように感じている牧師や役員はたくさんいます。すべて放り投げて逃げ出したいと何度思ったか分からないほどです。
わたしたちは「教会を赦す」必要があります。そして「教会において互いに赦し合う」必要があります。「教会」をどうか赦してください。
神は「教会」を愛してくださっています。わたしたち自身は、なんだか毎週毎週集まって礼拝して、こんなことに何の意味があるのか、世のため人のために役立っているのかがさっぱり分からなくなっているようなときも、神は「わたしたち教会の存在」を喜んでくださっています。
青戸教会の皆さまのためにこれからもお祈りさせていただきます。2度にわたり説教の機会を与えていただき、本当にありがとうございました!
(2017年6月18日、日本基督教団青戸教会 主日礼拝)
2017年5月14日日曜日
新しい時代に伝道を(青戸教会)
| 日本基督教団青戸教会(東京都葛飾区青戸3-31-2) |
関口 康(日本基督教団教師)
「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」
青戸教会の皆さま、おはようございます。日本基督教団教師の関口康です。深沢教会の齋藤篤先生のご紹介により、青戸教会の主日礼拝で初めて説教させていただきます。よろしくお願いいたします。
初めてお会いする皆さまにどんなお話をしようかと考えましたが、すぐに心が定まりました。日本の教会が今こそ考えなければならないことは、一に伝道、二に伝道です。伝道についてお話しします。皆さんが元気になるような話をします。
それで開いていただきましたのが新約聖書のコリントの信徒への手紙二10章1節から6節までです。使徒パウロの手紙です。ここに書かれていることをわたしたちはよく読んで理解する必要があります。この箇所に書かれていることが、わたしたちの伝道の重要な突破口になるだろうと信じます。
本当にそれほどのことが書かれているでしょうか。そうであるかどうかを、これから見ていきます。1節に次のように記されています。
「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います」。
新共同訳聖書はこのように訳されていますが、原文を読みますと、もう少し違った感じに訳すほうがよさそうです。この新共同訳聖書の文章は、原文の言葉の順序をかなり組み替えて訳しているからです。原文の順序に戻すと次のようになります。
「このわたしパウロが、あなたがたに願います。キリストの優しさと心の広さとをもって。あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強固な態度に出ると思われている」。
しかしこの訳はだいぶ硬い感じです。実際のパウロはもっと柔らかい優しい言い方をしています。そのように言える理由をこれから申し上げます。
原文では最初になっているのは「このわたしパウロが、あなたがたに願います」です。わたしたちがここで考えなければならないのは、いきなり難しい話になって申し訳ありませんが、ギリシア語の文法の話です。
神学校でギリシア語を勉強すると最初に必ず学ぶのは、ギリシア語の動詞は人称ごとに格変化するので、主語を省略しても文意は十分伝わる。だから、「わたし」とわざわざ書いている場合は強調があると考えなさい、ということです。
それはどういうことかといえば、今日の箇所にパウロが「このわたしパウロが」と書いているときに読者が考えるべきことは、著者パウロは「わたし」を強調しているということです。「他の誰でもなく、このわたしが」言っています。俺さま口調が入っているということです。
しかし、ここでパウロは「俺の言うことを聞け」と上から目線で押し付けるようなことを言いたいのではありません。むしろ逆です。正反対です。
ここでパウロが「このわたしパウロが、あなたがたに願います」と言っていることの意図は、自分が書いているのは、神の権威においてでもキリストの権威においてでもなく、あくまでもただのひとりの人間である私の個人的な意見にすぎない、という謙遜の意味です。
つまり、ここでパウロが「このわたし」をわざわざ強調して書いているのは、神とキリストの権威に基づく絶対的な命令ではありませんということです。押し付けられているなどと決して思わないでくださいという呼びかけでもあるということです。
そのことを言うために付け加えられているのが、原文では二番目の文章である「キリストの優しさと心の広さとをもって」です。その意味は、救い主イエス・キリストが優しい方であり心が広い方であることを思い起こしつつ、ということです。つまり「優しい」のはキリストです。「心が広い」のもキリストです。パウロが「俺さまは優しい」とか「俺さまは心が広い」と言っているわけではありません。
しかし、このあたりもわたしたちがよく考えなければならないところです。パウロが書いているのは「キリストの優しさ」であり「キリストの心の広さ」であって、パウロ自身の優しさでも心の広さでもありません。しかしだからといってパウロは、私自身は優しくもないし心が広くもないと言っているのかというと、それもなんだかおかしな言い方です。
私が愛用している聖書注解の中にオランダ語で書かれたものがあります。その著者の訳は「キリストの謙遜(zachtmoedigheid)と友情(vriendlijkheid)をもって」です(F. J. Pop, De tweede brief van Paulus aan de Corinthiers, De prediking van het Nieuwe Testament, 1962, 277)。
「謙遜」も「友情」も、キリストはそうであるが私はそうではないなどと言って済ませてよいことではなく、キリストを信じる者たちも学ぶべきだし、真似るべきことです。
そのことはパウロもよく分かっていました。だからこそパウロは、これはあくまでもわたしパウロがお願いしていることではあるが、「俺さまの言うことを聞け」と言いたいのではなく、キリストが示してくださった「優しさ」と「心の広さ」、あるいは「謙遜」と「友情」に自分自身も常に学び、真似しようとしている者のひとりとして、謹んで申し上げたい、と言っているのです。
そしてそれに続くのが、原文では三番目の文章である「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている」です。これは私はいかにもパウロらしい彼の真骨頂を表す極めつけの一文だと思っています。
なぜ私はそう思うのでしょうか。この文章の中で誰もが目を引かれる衝撃の事実は「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが」とパウロが書いていることでしょう。
ここで最も重要な言葉は「弱腰」(タペイノス)です。この言葉をギリシア語辞典で調べるといろいろ面白い訳が出てきます。単純に「弱い」という意味もありますが、「卑屈」とか「へつらう」とか「腰抜け」という意味もあります。ここでパウロが書いているのはどうやら後者の意味です。
そして、いずれにせよはっきりしているのは、これは人を軽蔑する言葉であるということです。ほめているのではありません。パウロは明らかに、貶されているのです。
しかも、誰から貶されているのかというと、これが大問題なのですが、悲しいことに教会の人々からです。キリスト教や教会のことが大嫌いな人々からではありません。教会に通っている人々です。キリスト者です。その人々からパウロは「弱い」だの「卑屈」だのと、あからさまに侮辱され、軽蔑されていたのです。
わたしたちならどうだろうかと、考えるほうがよさそうです。教会の牧師をつかまえて「弱い」だの「卑屈」だのさんざん言う方が皆さんの中におられるでしょうか。言っても構わないと思いますが。
しかし、立場を逆にして、軽蔑する側ではなく軽蔑される側になったときはどうでしょうか。皆さんはそれに耐えられるでしょうか。そういうことをよく考えてみる必要がありそうです。
ここでパウロが書いている「弱腰」と訳されているタペイノスという言葉の意味として「卑屈」とか「へつらう」とか「腰抜け」というのがあると申し上げました。それは肯定的な言い方をすれば、平身低頭を貫く謙遜な態度であるということです。
「平身低頭」とは、ひれ伏して頭を下げ、恐れ入ることです。それは良いことでしょう。しかし、それと全く同じ姿がパウロに対して批判的な人々の目から見れば「卑屈だ」「へつらっている」「へこへこしている」「腰抜けだ」「慇懃無礼だ」という否定的な評価にもなるということです。
ですから、今申し上げたように考えることができるなら、もしわたしたちがパウロと同じ立場なら、無視するのが最良の対応かもしれません。だって、人の評価というのは勝手気ままなものですから。謙遜な人をつかまえて卑屈だ腰抜けだと言いたい人には言わせておけばよい。そういう対応の仕方も十分ありえます。
しかし、パウロは無視しません。言い返してしまいます。炎上するタイプです。しかし問題はその返し方です。「やられたらやり返す。倍返しだ」というのもあるでしょう。パウロはどうでしょうか。
ここで大きく脱線するのをお許しいただきたいです。「腰抜け」という言葉で私が思い出すのは、30年前に世界的に大ヒットし、3部作になった映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」です。ご覧になっていない方には分からない話で申し訳ありません。
あの映画の主人公の名前がマーティー・マクフライと言ってマイケル・J. フォックスが演じましたが、その主人公の弱点が「腰抜け(チキン)」と人から言われることでした。
この言葉を聞くと頭に血が上り、冷静さを失って、自分が今しなければならないことを忘れ、それを言った相手を思いっ切りぶん殴ってしまい、取り返しのつかないことになって後悔するという、あの3部作の映画全体のキーワードでもありました。それが「腰抜け」でした。
その主人公のセリフとして有名になったのが、Nobody calls me chickenでした。日本語版の字幕や吹き替えは「だれもぼくを腰抜けと呼ばせない」でした。このセリフを言ってからマーティーは相手を思い切りぶん殴るというのが、ひとつのパターンでした。
パウロはどうだったでしょうか。今日は映画の話をしに来たわけではなく、聖書の話をしに来ました。今日の箇所にはっきりと書かれているのは、パウロは教会の人々から「あいつはチキンだ」と罵られていた、ということです。
このように言われると、どこかのスイッチが入って、頭に血が上り、相手をぶん殴ったでしょうか。どうもそうではなさそうです。むしろパウロは「腰抜け」呼ばわりされるのを喜んでいたようでさえあります。
本当にそうでしょうか。そうではない。2節以下を見なさい。「勇敢に立ち向かうつもりです」とか「そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています」とか、ずいぶんと強そうな言い方をしているではないか。彼はすっかり腹を立て、仕返しする気まんまんでいたのだという読み方もありうるかもしれません。
しかし、私にはそういうふうに読めません。もう時間がありませんので詳しい話はできませんが、ここでパウロが「勇敢に立ち向かう」と言っているのは、パウロは「肉に従って」(カタ・サルキ)生きていると誤解する人々に対してです。そうではなく私は「肉において」(エン・サルキ)生きているだけだと言っているだけです。
「肉に従って」生きるとは、肉の欲望のままに生きることです。それに対して「肉において」生きるとは、「肉体の中で」あるいは「肉体をまとって」生きる人間として、ありのままに生きることです。全く異なる2つのことを一緒くたにしないでほしい、と言っているだけです。
パウロは人間でした。「人間臭い」人でした。ある見方をすれば「腰抜け」でした。そう言われて無視するのではなくしっかり受けとめたうえで、腹を立てずに受け容れる人でした。自分が貶されることには大らかでした。自分の評価やプライドなどどうでもいいことでした。
パウロは神とキリストの権威に立っても語りました。そのことを否定するつもりはありません。しかしパウロは彼自身の言葉でも語りました。人間らしい、人間的な言葉でも語りました。その両面があったということです。それが大事です。こういうのを格闘技の用語で「二枚腰」と言います。
こういう人はどうでしょうか。私はこのような人こそ今の教会に求められていると思っています。
私は昨年度1年間、高等学校で聖書を教える常勤講師(代用教員)でした。その経験の中ではっきり分かったことですが、今の高校生たちは居丈高に振る舞う教師などは心の底から毛嫌いします。一方的に押し付ける言葉などには全く聞く耳を持ちません。
まして宗教や聖書に関してはなおさらです。神の権威もキリストの権威も教会の権威も全く通用しません。
かろうじて彼らが自分の心を開く相手は「人間として信頼できる大人」だけです。自分も将来そういう大人になりたいという願いを持っています。しかし「信頼できる大人がどこにもいない!」と彼らは嘆いています。そこに彼らの切なる求めもあります。
教会はどうでしょう。わたしたちはどうでしょう。権威的な存在でなければならないでしょうか。今はもうそういう時代ではないし、宗教と教会に権威がある時代は二度と戻ってこないし、戻ってこなくていいのではないでしょうか。
そういうのではなく「弱くて優しい大人の集まり」であることが教会に求められているのではないでしょうか。
今日皆さんに考えていただきたいのは、このことです。
(2017年5月14日、日本基督教団青戸教会 主日礼拝)
登録:
コメント (Atom)
