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2018年7月22日日曜日

ツルになりたかった牧師

日本基督教団王子北教会(東京都北区豊島)

コリントの信徒への手紙一1章18~25節

関口 康

「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」

みなさま、おはようございます。関口康と申します。今日は王子北教会の「特別礼拝」の説教者としてお招きいただき、ありがとうございます。

ごめんなさい。今申し上げたのは、うそです。私は王子北教会から招かれていません。私のほうから沼田和也先生に頼み込んで「王子北教会で説教させてください」とお願いしました。「謝礼は要りません」ともお伝えしています。うそをついたことをお詫びします。うそつき牧師と呼んでください。申し訳ありません。

説教を申し出た理由は、沼田先生が悩んでおられることが分かったからです。インターネットを神と教会のために役立てたいという沼田先生の願いが、必ずしもその願いどおりになっていないことが分かったからです。行く手が阻まれているようだと感じたからです。

私も沼田先生と同じように、インターネットを神と教会のためになんとか役立てたいと願っています。しかし、私もうまくいきません。特別礼拝のために配布してくださいましたチラシに私の肩書として「インターネット歴20年」と書いていただきました。そう書いてくださいと、これも私がお願いしました。



長さ自慢をしたいのではありません。「なんとか歴何年」と名乗るとすぐさま競争が始まるのが世の常です。「私のほうがもっと長い」とか言い出されます。しかし、競うつもりはありません。そんなのはどうでもいいことです。私はただ事実を述べているだけです。

とはいえ、全く意味もなく書いたのでもありません。私は1965年11月生まれの現在52歳。高校からストレートで東京神学大学に入学し、大学院まで6年間を過ごし、日本キリスト教団の教師になったのが1990年です。それ以来、牧師の仕事しかしたことがありません。牧師歴28年目です。

しかしその間、まるで他のことは何もしていなかったかのようにインターネットとのかかわりの部分だけが突出していると、はたから見ると見えたかもしれないほど、力を注いできたことを否定しないでおきます。

その私もインターネットの活用に関しては全くうまく行っていません。行く手を阻まれていると感じています。しかし、だからと言って私はインターネットから退却するつもりはありません。その理由については後でも申し上げますが、最初に短く言えば、私が過去20年インターネットでしてきたのは、字を書くことだけだったということです。それ以上でもそれ以下でもありません。

それが悪いと、私にはどうしても思えないのです。やめたほうがいいだの言われなければならないようなことだとは。それで沼田先生とスクラムを組むことにしました。同盟を組んで難局を突破することにしました。

私は昔から万年筆が身についたためしのない人間です。手書きで何かを書くときはシャーペンかボールペンで書きます。しかし、私が東京神学大学の学部4年を卒業したのは1988年ですが、卒業論文はかなり無理して万年筆で書きました。学校指定の400字詰め原稿用紙に。その2年後の1990年に提出した修士論文はワープロで書きました。その切り替えが始まった頃でした。

修士論文の主査に大木英夫先生がなってくださいました。評価は「C」。ギリギリ及第。それでも大木先生は私の修士論文をほめてくださいました。「ワープロがきれいだ」と、そこだけほめてくださいました。冗談ではなく事実です。

その翌年の1990年、私は日本キリスト教団の補教師試験を受け、高知県南国市の日本キリスト教団南国教会とその伝道所である南国教会大津伝道所の両方で伝道師として働きを始めました。そして翌年1991年に結婚しました。

結婚前の1年間は、妻は大学4年生として東京にいました。私は高知。高知に行く前に婚約式をしましたが、高知と東京の距離はあまりに遠く、会うことができないどころか、電話すらままならない状態でした。

当時の教会の雰囲気を覚えている方がおられるはずです。携帯電話が普及していなかったころ、教会の公用電話とは別に私用の電話回線を持っている牧師はほとんどいませんでした。牧師が教会の電話を使うのは当たり前でした。

しかし高知から東京に電話すると、月に5万円を超える請求書が届く。自分で使った分は自分で払えば済むことですが、なぜこんなに使ったかと言われたりするので、最愛の婚約者に電話することもできない状態でした。

いまお話ししているのはインターネット普及前夜の物語です。そして、私がなぜインターネットを使いはじめたのか、その理由の時代的背景を申し上げています。第一の理由は、最愛の婚約者に電話することに支障をきたす経験をしたからです。東京と地方の連絡にかかる経費負担をどうすれば軽くできるのか。

しかし、それだけではありません。似ていることの別の側面の問題がありました。高知にいたころに痛感したことが、東京と地方のあまりにも大きすぎる情報格差でした。当時流行していたテレビドラマに「東京ラブストーリー」などありましたが、高知の民放は2局(当時)、NHK2局でしたので、曜日も時間もかなり遅れているのを観たりして、話題についていけなかったりして。その情報格差の問題をなんとかして解決したかった。それが私がインターネットを利用することにした第二の理由です。

そのような経緯を経て、私はまず「パソコン通信」を1996年に始めました。福岡県北九州市の教会にいたころです。そして、正確な意味の「インターネット」を始めたのが1998年です。その年、山梨県の教会の牧師になりました。そこで新たな動機が加わりました。

その山梨県の教会は、日本キリスト教団の教会ではありませんでした。私は日本キリスト教団立の東京神学大学を卒業し、日本キリスト教団の教師になり、日本キリスト教団の教会の牧師になりましたが、1997年から2015年までの19年間は、日本キリスト改革派教会の教師でした。しかし、その私が日本キリスト教団に戻ってきてしまいました。なぜ出て行ったのか、なぜ戻ってきたのかについては、話すと長くなりますので、今は割愛します。

そのことよりも、今はっきり申し上げたいのは、1997年に日本キリスト教団を離脱したとき、日本キリスト教団に対する敵意はなかったということです。恨みも憎しみも敵意もありませんでした。しかし、そのことを伝える手段がありませんでした、インターネット以外には。

私の思いをどうすれば日本キリスト教団のせめて元同僚に伝えることができるかで悶々としていたころ、暑中見舞いだったか年賀状だったかを忘れましたが、東京神学大学の同級生(年齢は5つほど私よりも上です)の清弘剛生牧師が送ってくださり、その中に一言「お元気ですか?」と手書きで書いてくれていました。それを見て「そうだ、清弘先生にメールを書こう。私は日本キリスト教団を離脱したが、教団への敵意がないことをメールで伝えよう」と思いました。

清弘先生は天才級の理系の方で、当時からインターネットを駆使しておられました。1990年代に「ウェブチャペルウィークリー」なるウェブサイトを立ち上げ、毎週の説教を公開し、メールマガジンで数百人の読者に配信しておられました。清弘先生がインターネットの私の師匠です。

その後、清弘先生と私とで1999年2月にオランダのプロテスタント神学者ファン・ルーラーの翻訳と研究をする「ファン・ルーラー研究会」なるメーリングリストを立ち上げました。1年後には100人を超え、その後もメンバーが増え続けました。そのせいで、関口康といえばインターネットで悪さをしている人間だと批判的な目を向ける人が増えました。

しかし、私はインターネットで何をしてきたかといえば、ただ字を書いてきただけです。それ以外の何もしていません。そして、強いて言えば、それ以前よりも広い範囲の人々と情報共有ができるようになったので、それを実行に移しただけです。それ以上でもそれ以下でもありません。

しかし、いまだにインターネット害悪論が教会の中に聞こえるのは、どういうわけでしょうか。インターネットには明るく健全な情報だけでなく、暗くて不健全な情報もあるからでしょうか。そういうのと教会の「聖なる」情報が一緒くたにされるのは困るというような理由でしょうか。

その感覚は私も全く理解できないと思っているわけではありません。インターネットの情報が「玉石混交」であるのは当たり前です。しかし、それを言うなら大げさなハードカバーのついた本だって同じです。そこにあるのは、ただの字です。たとえ仮にインターネットが「悪い字」で満ち満ちているとしても、そうだと思う人が「良い字」をインターネットに増やしていけば済むことです。事は意外に単純です。

今日開いていただいた聖書の箇所に「宣教」は「愚かな手段」であるとパウロが書いています。この場合の「宣教」の意味は、言葉で伝えること、広めること、事実を事実として告知すること、情報共有の範囲を広げることです。なぜそれが「愚か」なのか。思い当たる理由は、事実を事実として告知すること自体には取り立てて意味も価値もないことです。

私はよく、ツイッターやフェイスブックで「今日の自作料理」の写真を撮って公開しています。「だから何?」と言われるようなことを。第三者にとってはどうでもいいことを。

同じ次元で言うと叱られそうですが、福音書が描くイエス・キリストの十字架刑も、「イエスは十字架につけられた」と、事実を事実として淡々と告知するだけのところがあります。今の小説家ならきっと細かい心理描写や情景描写をしそうなところで、うるさい解釈抜きで事実だけを記述しています。

読者の側に「だから何?」という反応が起こるのは当然です。しかし、だからこそ、解釈は読者に任されます。そのほうがかえって想像力が刺激されます。「何の意味があるのだろう」と考え続ける人を生みます。

もう一度言います。高級な万年筆で書こうと、達筆の人が毛筆で書こうと、安いシャーペンやボールペンで書こうと、美しいワープロの字で書こうと、字は字です。本質的には何の違いもありません。大げさな装丁の本として出版しようと、ブログに書こうとツイッターに書こうと、字であることに変わりありません。

「字をバカにするな」とも言わせていただきます。それは言葉です。言葉は現実に人を救う力を持つことができます。言葉で激しく傷つけられることもあるし、あったでしょう。しかしまた、言葉でこそわたしたちは慰められ、癒されます。

「字に書いた言葉を広めること」が、究極的な意味での教会の使命であるなら、教会とその牧師がインターネットを利用することに躊躇する理由は、全くありません。

(2018年7月22日、日本キリスト教団王子北教会特別礼拝)

2017年4月30日日曜日

確かなる希望としての復活(千葉若葉教会)

コリントの信徒への手紙一15章20~21節

関口 康(日本基督教団教師)

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」

先々週の日曜日がイースター礼拝でした。私は日本基督教団下関教会(山口県下関市)から説教者としてお招きを受けて行ってきました。羽田空港から山口宇部空港までジェットに乗りました。帰りは新幹線でした。広島や岡山の実家にも立ち寄りました。そのような五泊六日の旅をしてきました。千葉若葉キリスト教会でもきっと盛大なイースター礼拝が行われたことでしょう。そういうわけで、皆さんに申し上げるのが遅くなりました。イースターおめでとうございます。

言うまでもないことですが、教会がイースターをお祝いするのはもちろん宗教的理由です。最近は日本の各地でイースターをお祝いしてくださる方々が増えているようですが、必ずしも宗教的理由ではないようです。しかし教会は間違いなく宗教団体ですので、遠慮なく宗教的理由でお祝いします。

イースターとは、イエス・キリストが死者の中から復活されたのは歴史的事実であるということを信じる人々の喜びの祝いの日です。その意味でイエス・キリストは「本当に」よみがえられたことを喜び、感謝する思いで、教会はイースター礼拝を毎年行っています。

しかし、教会がイースターをお祝いする理由は厳密に言うとそれだけではありません。少なくとももうひとつあります。それは何かといえば、イースターは「死者の中から復活したのは現時点ではイエス・キリストだけであるが、復活そのものはイエス・キリストだけで終わるものではない」ということを信じ、やがて訪れる将来において自分自身も復活するのだと信じる人々の希望の祝いの日であるということです。

私が今、やや早口で何を申し上げたのかは、きっとお分かりいただけていると信じます。それが、実は先ほど朗読していただきましたコリントの信徒への手紙一15章20節と21節に書かれている内容そのものです。それを私なりの言葉で言い換えて申し上げただけです。

まず20節を読みますと、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(20節)と書かれています。重要な言葉は「初穂」です。この「初穂」は英語の聖書ではだいたいfirst fruitと訳されています。つまり「最初の果実」です。

ここで考えなければならないことは、イエス・キリストの復活が「最初」(ファースト)であるということは、その「次」(ネクスト)の復活もあるということです。最初の1つだけで終わるのではなく、2つ目も3つ目もあるし、もっとたくさんあるということです。

何がもっとたくさんあるのかといえば、それが復活です。何と驚くべきことに、イエス・キリスト以外にも復活する存在があるのです。イエス・キリストが「初穂」(ファーストフルート)ならば、「次の果実」(ネクストフルーツ)もあるのです。それが全人類です。何と驚くべきことに全人類が復活するのです。そのようなことを誰が信じられるだろうか、冗談は休み休みに言ってくれと、多くの人に思われるに違いないのですが、パウロが書いているのはそのようなことです。

しかし、驚くべきことはまだ残っています。それは、この箇所にパウロが書いていることの趣旨は「イエス・キリストの復活」のほうではなく「全人類の復活」のほうであるということです。「全人類の復活」は本当に起こるのだということを言うために、その根拠として「イエス・キリストの復活」を持ち出しているだけです。このような書き方をしている以上、どちらに強調点があるかといえば、前者ではなく後者であることは明らかです。

しかも、「イエス・キリストの復活」と「全人類の復活」を聖書に基づいて比較してみると、両者が全く同じことの単純な反復ではないことが分かります。聖書によると、「イエス・キリストの復活」は40日間弟子たちの前で起こりましたが、その後父なる神のもとへと昇天することによって弟子たちの前から姿を消し、見えなくなりました。しかし「全人類の復活」は、わずか40日で終わるような一時的な出来事ではなく、永久に続く出来事として理解されるべきものです。

ですから、次のように考えることさえできます。「イエス・キリストの復活」は、今はまだ起こっていないが将来起こるであろう「全人類の復活」にとっての「予告編」の意味を持っていました。しかし、それはまだ「本編」ではありませんでした。「イエス・キリストの復活」においては「全人類の復活」のさわりの部分をほんの少しだけ、ちらりと見せてもらえたに過ぎません。

さらに次のように考えることもできます。「イエス・キリストの復活」は、キリスト信仰全体の目標ではなく、途中の通過点にすぎません。キリスト教信仰の目標は「イエス・キリストの復活」を信じることのほうではなく「全人類の復活」を信じることのほうにあります。このように申し上げるからと言って、「イエス・キリストの復活」を信じることが重要ではないと言っているのでは決してありません。それを信じることも重要です。しかしだからといってわたしたちは「イエス・キリストの復活」のほうだけを信じて事足れりとすることはできません。

イースターをお祝いする目的も同じです。「イエス・キリストの復活」をお祝いすることだけではなく、少なくとももうひとつあると申し上げたとおりです。それは、将来における「全人類の復活」を期待することです。イースターは、わたしたち自身の復活を待ち望む将来をめざす希望の祝いです。それは「イエス・キリストの復活」をお祝いすること以上に重要です。

私が言いたいのは次のようなことです。「イエス・キリストの復活」はありえないことだが、不合理なことであっても、理性を犠牲にして無理やりにでも信じ込むことがキリスト教信仰の本質なのだ、という仕方で、ようやくのところ「イエス・キリストの復活」を信じることができたというだけでキリスト教信仰が完結するわけではないということです。キリスト教信仰には、もっと大きな、人をつまずかせる要素があります。それが「全人類の復活」です。

歴史的な事実としては、「全人類の復活」についての思想はパウロが生み出した思想ではないし、新約聖書の著者たちが発明した思想でもありません。それは旧約聖書の時代からあり、サドカイ派を除くユダヤ教の人々に広く受け入れられていた思想でした(ヘンドリクス・ベルコフ『確かなる希望』藤本治祥訳、日本基督教団出版局、1971年、42頁)。事柄の歴史的な順序としては、「全人類の復活」を信じる信仰は「イエス・キリストの復活」を信じる信仰より古いです。

これで分かるのは、イエス・キリストの復活の事実が「全人類の復活」を信じる信仰を生み出したのではなく、順序はその逆であるということです。「全人類の復活」を信じる信仰が先にあり、それは「本当に」起こるのだということを、「イエス・キリストの復活」を目の当たりにした人々がその確証を得たと信じて受け入れたということです。

今日なぜ私がこのようなことをしつこいほど繰り返し強調するのかについても申し上げておきます。

「イエス・キリストの復活」を信じるだけならば、ある意味で簡単なことです。自分に当てはめて考えることをしなくて済むからです。イエス・キリストはわたしたちにとって他人ですから、他人事として考えるだけで済ますことができます。「へえ、そんな不思議なことがあったのですね。神さまの力はすごいですね」と言っていればいいだけです。

しかし「全人類の復活」は違います。他人事で済ますことができません。なぜなら、全人類の中にあなたも私も含まれるからです。あなたも私も復活するのです。そのようなことを本気で信じなければならなくなります。そのほうがわたしたちにとって、「イエス・キリストの復活」を信じることよりも、はるかに難しいはずです。

しかし、難しいことをわたしたちは信じかつ受け入れる必要があります。そうでないかぎり、復活がわたしたち自身の希望にならないからです。なぜ他人事で済ましてはいけないのでしょうか。そのことを最後に申し上げておきます。そのことを理解するために、今日の箇所の31節に書かれていることが重要です。

「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」(31節)と書かれています。その説明が22節にあります。「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(22節)。

論理は単純です。「死が一人の人によって来た」と言われている中の「一人の人」とは最初の人類アダムです。「アダムによって死が来た」とはアダムが罪を犯したためすべての人に死が定められたという意味です。しかし、その死の定めを打ち消すために「一人の人」イエス・キリストが来ました。イエス・キリストが来てくださったので、すべての人から死が取り除かれた、ということです。

ここで考えなければならないのは、アダムによって何が始まったのかということです。この箇所には記されていませんが、それが「罪」であることは明らかです。アダムの「罪」によって「死」が来ました。しかし「キリストによってすべての人が生かされることになる」。その意味は、キリストによって「罪」が除去されるならば「死」が除去される、ということです。

そしてそれでわたしたちが理解すべきことは、「全人類の復活」を信じることは、全人類が罪から完全に取り除かれ、罪から解放される日が来ることを信じるのと同じであるということです。つまり、わたしたちは、「罪」との関係で「死」を、そして「復活」を理解する必要があるということです。

今かなりややこしいことを言いましたが、ご理解いただきたいのは、ひとつのことです。それは、「全人類の復活」と信じることと「世界と人類からすべての罪が取り除かれること」を信じることは同じことである、ということです。そういう日が必ず来ると信じることが必要なのです。

罪は永遠の存在ではありません。罪の力に飲み込まれてはいけません。罪に市民権を与えて当然視してはいけません。「人類が罪を犯すのは当然なのだ」とか「やむをえないことなのだ」などと言って是認してはいけません。そのようなことを聖書が教えているわけではありません。

しかも、わたしたちは、自分自身は罪に対して無抵抗であり、人生の最期の最期のぎりぎりまで罪の甘い蜜を味わい尽くしながら、天国に行きさえすれば罪から自由になれるなどと考えるべきではありません。神にお委ねするだけではなく、わたしたち自身も、罪の力、悪の力に対して徹底的に抵抗しなければなりません。

わたしたちは主の祈りにおいて「御国を来たらせたまえ」と祈ります。「我らを試みにあわせず、悪よりすくいいだしたまえ」と祈ります。このように祈りつつ生きていくわたしたちの人生の将来に「復活の日」が訪れます。

罪は完全に滅ぼされ、世界と人類の中から完全に取り除かれる日が来ます。罪が取り除かれれば、わたしたちが死ぬこともなくなります。その意味での「完全な救いの日」が来ます。それが「全人類の復活」です。

(2017年4月30日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)

2017年4月23日日曜日

神の恵みによって今日の私がある(千葉本町教会)

コリントの信徒への手紙一15章9~11節

関口 康(日本基督教団教師)

「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。」

千葉本町教会のみなさま、おはようございます。日本基督教団教師の関口康です。この教会で説教させていただくのは2回目です。今日もどうかよろしくお願いいたします。

前回は2月19日でした。大きく変化したのは私の立場です。高校で聖書を教える常勤講師でしたが、代用教員でした。3月末で契約期間満了となりました。現在は日本基督教団の無任所教師です。しかし、心配はしていません。主が必ず任地を与えてくださることを信じています。みなさまにもぜひお祈りいただきたく願っています。

さて、先ほど朗読していただきましたのは、使徒パウロのコリントの信徒への手紙一15章9節から11節までです。パウロが記しているのは謙遜の言葉です。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(9節)。

しかしそのパウロが間髪入れずに続けているのは、使徒としてのプライドに満ちた言葉です。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました」(10節)。

パウロが記しているのは、使徒の中で最も小さい者である私は他のすべての使徒よりもずっと多く働いてきた、ということです。このように書いているパウロの気持ちを、私はよく理解できるつもりです。聖書の言葉を自分に引き寄せすぎる読み方は慎むべきですが、他人事とは思えません。

私は神の教会を迫害したことはありません。しかし、私はもともと日本基督教団の教師でしたが、一昨年末までの19年間は日本基督教団を離れ、他の教派の教会の牧師として働いていました。そして昨年4月、日本基督教団に教師として復帰しました。教団にとって私は昨年戻ってきたばかりの新人教師です。しかし、私のプライドに賭けて言わせていただけば、昨年1年間、教団のどの教師よりも多く働かせていただきました。この点でパウロと一致していると思っています。

しかし、このようなことを私が言いますと、おそらく日本基督教団の先生がたの心中は穏やかではないでしょう。私が申し上げているのは冗談のつもりはないし、誇張でもないつもりです。しかし、こういうことは自分で言わないほうがよさそうです。ある意味でいやらしい言い方です。

みなさんにご理解いただきたく願っているのは、今日の箇所にパウロが書いているのもそのようなことだということです。ある意味でいやらしい言い方です。それを分かっていただきたくて、私の話をしました。自分で言わないほうがよさそうなことです。他の使徒と比較して自分の働きの大きさを語れば、他の使徒から激怒を買うのは目に見えています。そういうことをパウロは書いているのです。

ですから、わたしたちがよく考えなければならないのは、なぜパウロはこのような刺激の強いことをわざわざ書いているのか、です。その理由ないし動機は何でしょうか。

私が思うのは、パウロが書いているのと同じことを、パウロ以外の別の使徒たちも大いに言うべきであり、書くべきであるということです。パウロ先生はずいぶんひどいことをお書きになっている。何をおっしゃいますやら、私のほうが多く働きましたよ。わたしたちを侮辱しないでいただきたいと、そのように他の使徒たちも大いに主張すべきです。

すべてお互いさまです。他の人よりも自分が最も多く働いている。そのように主張する権利はすべての人に保証されています。どうぞご自由に。

そこで起こるのは良い意味での一種の競争心です。もちろん悪い意味にもなるでしょう。しかし、競争心を持つことがいつでも必ず悪いわけではありません。競争心は向上心に通じますので。それは学校でも会社でも社会でも同じです。教会だけが別世界でしょうか。そんなことはありません。

パウロがここまで言うならわたしたちも負けないようにもっと多く働こうではないかと、他の使徒たちは刺激され、発奮したでしょう。彼らは大いに刺激されなければならないし、発奮しなければなりません。パウロがこのようなことを書いている理由ないし動機は、まさにこの点にあると思います。

そして、やや強めの言い方をお許しいただけば、パウロが書いているのは、他の使徒たちに対する批判ないし抗議を含んでいる言葉でもあります。それは同時に当時の教会のあり方そのものに対する批判ないし抗議を含んでいます。

あなたがたは怠けている。もっと働くべきだと言っているのです。「わたしたちにはこれ以上することがない」と思い込んでいる。いくらでもできることはあるのに。あぐらをかき、手をこまねいて、教会の中の気の置けない仲間内だけに引きこもり、世に出て行かない、伝道しない。それでいいのか、いいはずがないだろうと言っているのです。

もっと発奮せよ、もっと働け、しっかりせよ。「使徒たちの中でいちばん小さいものであり、使徒と呼ばれる値打ちのない者」である私ごときから、このような厳しいことを言われないように。パウロが言いたいのは、このようなことです。

言うまでもないことですが、パウロの時代の教会は、当時の社会の中では圧倒的な少数派でした。その少数派である教会を、かつてはパウロ自身も迫害する立場にいましたので、そのことは彼の心の重荷であり続けたでしょう。しかし、それとこれとは話が別です。

そして、パウロは他の使徒たちを軽蔑していたわけではありません。むしろ尊敬していました。だからこそ、彼らの働きが自分よりも少ないと感じられることに我慢できなかったのです。

実際はどうだったでしょう。ある程度想像できるのは、当時の教会は守りの姿勢が強かったのではないかということです。当時の教会を二分した問題として知られているのは、ユダヤ人キリスト者の一部が、これから洗礼を受けて新しく教会に加わりたいと願っている異邦人に対して「洗礼だけでは足りない。割礼を受けなければならない」と主張しはじめた問題です。

使徒言行録15章が参考になります。最初の教会会議であるエルサレム会議で、その問題が取り上げられました。

ユダヤ人キリスト者の主張は、聖書に基づく神学的主張というより教会内の主導権争いの面が強かったと思われます。なぜなら、生まれてすぐに割礼を受けるユダヤ人に割礼の痛みの記憶はないからです。そのユダヤ人が異邦人に割礼を要求しはじめたのであれば、教会の敷居を高くして、異邦人が教会の中になるべく入りにくいようにしたのではないかと疑わざるをえないのです。

教会は伝道したいのでしょうか、伝道したくないのでしょうか。それがいま考えなければならない問題です。「伝道」とは、教会に新しい仲間が加わることを求めて働きかけることのすべてを指します。教会は新しい仲間を求めているのでしょうか。それとも、そうではないのでしょうか。

教会が新しい仲間を求めているならば、新しく入ってこようとしている人々のために自らの敷居を低くする必要があります。しかし「洗礼を受けるだけでは足りない、割礼を受けなければならない」と主張し始めた人々は、彼ら自身がどう考えてそのようなことを言い始めたかはともかく、結果的に事実上、教会の敷居を高くすることを要求した、としか言いようがないのです。

敷居を高くして、新しい人にとって入りにくいところにするほうが教会にとって楽な面があるかもしれません。教会生活が長く、聖書の知識に満ちた人々ばかりの教会であれば、一を聞いて十を知る人々の集まりになりますので、教会運営のようなことも、すべて身内意識を持ちうる同士のあいだで、あうんの呼吸で維持できるようになるでしょう、ある意味で。

しかし、それが教会でしょうか。伝道はどこに行ったのでしょうか。「伝道」とは、十を聞いて一も理解できない人々を教会に受け入れることです。パウロがその後半生において取り組んだ異邦人伝道とは、まさにそれです。それは、聖書の知識も教会の経験も全くない異邦人をイエス・キリストへの信仰へと導き、イエス・キリストの体なる教会に迎え入れることです。

そしてそれは同時に、わたしたち日本の教会が全力で取り組まなくてはならない働きであると私は信じています。そのためにわたしたちが何をすればよいのかを、よく考える必要があります。

今日の箇所の中でまだ触れていない問題があります。大事な問題ですが後回しにしました。それは10節にパウロが3度も繰り返している「神の恵み」についてです。「神の恵みによって今日のわたしがある」、「わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず」、「働いたのは、実はわたしではなく、神の恵みである」とパウロはたしかに記しています。

不思議な言い方ではあります。他のすべての使徒よりもわたしのほうが多く働いたとまで豪語しているパウロが、自分が働いたのではなく、神の恵みが働いたのだと書いているのですから。

しかしこれが、わたしたちが伝道とは何かを考えるときに、とても大事な点です。パウロが書いているのは「神が働いた」ということではないし、「イエス・キリストが働いた」ということでもないし、「聖霊が働いた」ということでもありません。

わたしたちは何もできませんし、何もいたしませんが、神が「わたしたちの身代わりに」伝道してくださいました、という話をパウロはしていません。「私と共に神の恵みが働く」の意味は、私は何もしないで、働かないで、あなた任せで神に委ねるという意味ではありません。

そうでなく、パウロが記しているとおり、今日の私を存在せしめている根拠として「神の恵み」があるという意味です。私の存在と常に共にあり、かつ私の働きを通して多くの人に「神の恵み」が伝えられていくという意味です。私の存在を抜きにして、私の働きなしに「神の恵み」が働いたとパウロが記していないことが重要です。「神の恵み」を我々の怠慢や引っ込み思案の言い訳にしてはいけません。

しかしまた、「神の恵み」は人の手を離れていきます。これが最も大事な点です。私が洗礼を授けた人は、私の弟子ではなく、イエス・キリストの弟子です。その人々は私の信者ではなく、神の信者です。教会は神の教会であり、イエス・キリストの教会です。

この基本が踏まえられていさえすれば、どんな競争心を働かせてでも、私が遠慮なくどんどん伝道してもよいのです。

(2017年4月23日、日本基督教団千葉本町教会 主日礼拝)

2017年4月2日日曜日

福音を宣べ伝える喜びに生きる(上総大原教会)

コリントの信徒への手紙一9章19~23節

関口 康(日本基督教団教師)

「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも得るためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」

上総大原教会の皆さま、おはようございます。この教会で再び説教をさせていただきます。前回は今年の新年礼拝でした。今日もどうかよろしくお願いいたします。

私は一昨日3月31日付けで高等学校を退職しました。1年間の約束で引き受けた代用教員の仕事でした。次の職場はまだ決まっていません。今の私は日本基督教団の無任所教師です。ありていに言えば無職です。明後日4月4日に元職場から離職票を受け取り、その足でハローワークに行き、失業手当の受給手続きをします。その後はひたすら就職活動です。

しかし、ご心配には及びません。神が何とかしてくださるでしょう。これまでの私の歩みを支えてくださったように、これからも支えてくださるでしょう。そのような信仰が無い者に、どうして牧師が務まるでしょう。どうして伝道の仕事が務まるでしょう。

先ほど朗読したのはコリントの信徒への手紙一9章19節から23節までです。その箇所を含む9章全体に、伝道者パウロの生活苦の様子が、まさにありていに告白されています。たとえば次のように記されています。

「わたしを批判する人たちには、こう弁明します。わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか」(3~8節)。

「わたしを批判する人たち」とは、教会の外から教会を批判する人々のことではありません。教会の内部の人々です。教会に通うキリスト者たちです。

それで分かるのは、パウロが教会からサポートを求めようとすると教会内部の人々からなんだかんだと批判されていたということです。やむをえずアルバイトで食いつなぎ、ほぼ自費で生活しながら福音を宣べ伝える仕事を続け、食べるにも飲むにも困るほどの生活苦を味わっていた、ということです。

「いったいだれが自費で戦争に行きますか」(7節)と記されています。しかし、そのすぐ後に「わたしたちはこの権利を用いませんでした」(12節)とも記されています。その意味は「私は自費で伝道している」ということです。生活のサポートを十分にしてくれない教会への批判や愚痴にも読めます。

「信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」(5節)と記されています。この言葉を根拠にして、パウロには妻がいたが、その妻を置いていわば単身赴任の形で伝道していたのだという理解が古くからあります。

どれくらい古いかと言えば、西暦3世紀から4世紀にかけて活躍したギリシア教父カエサリアのエウセビオス(263年頃~339年)が、主著『教会史』の中に、西暦2世紀から3世紀にかけて活躍したギリシア教父アレクサンドリアのクレメンス(150年?~215年?)の言葉を引用する形で言及しています(エウセビオス『教会史Ⅰ』秦剛平訳、山本書店、1986年、182頁)。

単身赴任のどこが生活苦なのだろうかと疑問に思う方がおられるかもしれません。分からない方には分からないかもしれませんが、分かる方には分かると思います。なぜそうなのかを詳しく申し上げることは差し控えますが。

パウロが本当に結婚していたのか、本当にいわゆる単身赴任だったのかについては今日のこの箇所以外に根拠はないので確たることは言えません。

しかしこの箇所を読むかぎり、仮にパウロが単身赴任であったことが事実だったとしても、伝道旅行の最中もずっと妻のことが気がかりだったに違いないことが分かります。生活のことも妻のことも全く眼中になく、「そんなことなどどうでもいい」と言わんばかりの態度で伝道していたわけではないのです。そんな冷たい人間ではなかったのです。

口の悪い人はこのようなパウロの姿を指して「生活破綻者」だとか言い出すので、私は全く閉口してしまいます。そういう言葉を聴くと腹が立って腹が立って仕方がありません。私の腹が立つかどうかなどはどうでもよいことです。ある意味での客観的な観方をすれば確かにそうかもしれません。でも、それを私の前で言うなよ、と思います。

伝道者をばかにするなと言いたくなります。同時に教会をばかにするなと言いたくなります。パウロにとっては教会のサポートの少なさが不満だったかもしれません。しかし教会は教会で、できるかぎり精一杯のサポートをしていたはずです。そのこともパウロは分かっていたはずです。そういうことも分からずに一方的に文句を言っているわけではないのです。

「生活破綻者」だとか言わないでほしいと私は心から願いますが、パウロがなるほど確かに「生活破綻者」のようであったのは、伝道のためでした。福音を宣べ伝えるためでした。そして「できるだけ多くの人を得るため」(19節)でした。

どうしてそういうことになるのかは、説明の必要があるでしょう。パウロが書いているのは、伝道者である自分はユダヤ人を得るためにユダヤ人のようになり、律法に支配されている人を得るために律法に支配されている人のようになり、律法を持たない人を得るために律法を持たない人のようになり、弱い人を得るために弱い人のようになった、ということです。

パウロが言っているのは、単純に言えば、伝道したいと願っている相手に自分を「合わせる」ことです。心にもないことなのに、調子を合わせ、相手のご機嫌をとればよいという話ではありません。そんなことをすれば、すぐに魂胆を見抜かれるでしょう。かえって信頼を失うだけです。

ですから、むしろ伝道者がしなければならないのは、本気で相手に合わせることです。「何」を本気で合わせるのかといえば、語弊を恐れながらいえば、生活の「サイズ」です。あるいは、生活の「スタイル」です。そうとしか言いようがありません。

そうすることがなぜ相手を得ることになるのでしょうか。これもごく単純に言ってしまえば、そうしないかぎり伝道者が福音を宣べ伝えようとしているその相手が本当の意味で「心を開く」ことはありえないからです。

ここから先はパウロが書いていることではなく、私自身の想像の要素や読み込みの要素があることを否定しないでおきます。しかし、全くのでたらめではないつもりです。

人が福音に対してどうしたら心を開くのかという問題は、人間の心の奥底に潜む「闇」と関係があると思います。その闇とは、具体的に言えば嫉妬心です。そして、その逆の軽蔑心です。自分と他人を常に相対評価の中だけに置き続け、互いに格付けし合うことしか考えない、その発想そのものです。

嫉妬心の問題を考えるときに参考になるのは、現代のインターネットのソーシャルネットワークサービスです。そういうのにかかわることを嫌がる人がいます。その理由としてしばしば挙がるのは、ソーシャルネットワークサービスに自分の自慢話しか書かない人が多いので、そういうのを見るのが嫌だ、ということです。

「海外旅行に行きました」、「高級なレストランで食事しました」、「有名な大学に合格しました」、「結婚しました」、「子どもが生まれました」と、他人の幸せそうな話題が並ぶ。そういうのを見て一緒に喜んであげる人は少なく、不愉快に思う人が多い、ということです。

軽蔑心も、人の心の奥底に潜む深い闇です。自分より能力や知識の面で劣っていると見るや否や、その相手を徹底的に見下げ、さげすみ、おとしめる。

そういうことが日常茶飯事になっている社会や会社の中に、わたしたちは生きています。人の心の奥底に潜む闇は、すべての人が持っています。私の中にもあります。自分ではどうすることもできないまま、抱え持っています。

問題は、だからどうするのか、です。パウロが出した答えは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(23節)ということです。それは「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになる」ということです。

つまりそれは、福音を宣べ伝えたいと願っている相手の生活の「サイズ」や「スタイル」に自分を合わせることです。それは、相手より上にも下にも立たないということです。相手と同じになることです。

しかし、相手に合わせようとすると、ほとんどの場合、今よりも「生活条件が悪化する」ことや「貧しくなる」ことが多いです。それが伝道の現実です。それを恐れて、どうして伝道ができるでしょう。どうして牧師が務まるでしょう。パウロが読者に問いかけているのはこのようなことだと思います。

わたしたちに求められているのは、福音を宣べ伝えることは「喜び」であると強く確信しつつ、そのような者として「生きる」ことです。

この最後の「生きる」には強調があります。「ふりをする」ことではありません。心にもないのに相手に調子を合わせてあげるというようなことではありません。本気でそうするのです。具体的にそこに身を置くのです。そうしないかぎり伝道は不可能です。

(2017年4月2日、日本基督教団上総大原教会 主日礼拝)

2016年8月21日日曜日

神は世界を傲慢から救う(阿佐谷東教会)

日本基督教団阿佐谷東教会(東京都杉並区阿佐谷北5-13-2)
コリントの信徒への手紙一1章26~31節

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵ある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあがたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

阿佐谷東教会の皆さま、はじめまして。私はいま、千葉県八千代市にある日本基督教団関係学校である高校で聖書を教えています。日本基督教団教務教師の関口康と申します。今日はどうかよろしくお願いいたします。

なぜ私が今日、講壇に立たせていただいているのか。そのことを最初にお話しすることで自己紹介とさせていただきます。私は貴教会牧師の坂下道朗先生の東京神学大学の後輩です。いわばそれだけです。坂下先生からご連絡いただいたのは5月の半ばです。

しかし、その日から今日までの3ヶ月間、坂下先生と直接お目にかかる機会がついぞありませんでした。メールのやりとりだけでした。坂下先生とお会いしたのは27年くらい前です。それから一度もお目にかかっていません。

しかも、坂下先生は東京都内にご実家がおありで、東京神学大学にはご自宅から通っておられました。私は学生寮で6年間過ごしました。寮生と通学生は仲が悪いわけではありませんが、実はあまり接点がありません。

あともう一つ付け加えますと、私は1990年4月に日本基督教団の教師になりましたが、その7年後の1997年から昨年末(2015年12月末)までの19年間は、別の教派の教師をしていました。そして、この春に転入試験を受けて教団に戻ってきた人間です。

このことを言いますと必ず出てくる質問は、なぜ日本基督教団を出たのか、なぜ戻ってきたのかということですが、その質問にはっきり答えることができない人間です。転入試験で面接があり、その場にずらりと並んだ教師検定委員からその質問を受けましたが、そのときもはっきり答えることができませんでした。それで通してくださった教師検定委員会の皆さまに感謝しています。

日本基督教団が嫌になったから出て行ったとか、行った先の教派が嫌になったから教団に戻ってきたとか、そのようなことは考えたこともありません。自分の感情に任せて行動したつもりはありません。そのことはどうかご信頼いただきたく願っております。

私の話が長くなりました。申し訳ございません。先ほど司会者の方に朗読していただいたコリントの信徒への手紙一の1章26節から31節までを説明し、メッセージを述べさせていただきます。

最近の聖書学者たちは、新約聖書のいわゆるパウロ書簡の中のいくつかは、パウロが書いたものではなく、パウロの名前を借りた別の人が書いたものであるというようなことを盛んに議論する傾向にありますので、だんだん自信がなくなります。しかし、今日お読みしましたこの手紙のこの箇所は、使徒パウロが書きました。そのことを自信をもって堂々と宣言いたします。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい」(26節a)とあります。この訳で間違ってはいませんが、ずいぶん柔らかくなっています。「思い起こしてみなさい」は「見る」という言葉です。「召された」は「呼ばれる」です。声をかけられることです。私は坂下先生を通して神から今日の説教をするようにと命ぜられました。それと同じ意味です。何かの働きにつきなさい、この仕事をしなさいと、声をかけていただくことです。

そのときのことを「思い起こしてみなさい」と言われています。その意味は「見なさい」です。もう少し強く言えば「直視しなさい」です。直視するのは、その頃の自分自身のぶざまな姿です。なぜぶざまなのか。初めは何も知りません。どうすればよいかが分かりません。思い出すのも恥ずかしい。そのぶざまな姿です。

しかも、パウロが書いているのはキリスト者の信仰の問題であり、教会生活の問題です。「召された」は「呼ばれた」です。呼んだのは神さまです。「わたしに従いなさい」という、神の声なき声です。その神の声を、聖書を通して、教会を通して、説教を通して聴き、神に従うことを決心し、約束しました。キリスト者の過去には必ずそういう日があります。その日のことを思い起こしてみなさい。そのときの自分の姿を直視しなさい、と言われています。

それによって思い出される自分たちの姿はどのようなものでしょうか。それが次に書かれています。「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません」(26節b)。

この「人間的に見て」も直訳すれば「肉によれば」です。「肉」(サルクス)という言葉が使われています。人間存在を構成する肉体です。その「肉」が「人間」という意味になります。べつに悪い意味ではありません。肉は汚らわしいから人間も汚らわしいという意味ではありません。

パウロが言いたいことは、はっきりしています。「わたしに従いなさい」と神からお呼びがかかり、その声に従うことを決心し、約束したときの自分自身の姿を思い出しなさい。目をそらさないで直視しなさいということです。

そして、ここに時間の次元がかかわってきます。時間的な過去の自分を思い出すことが求められています。今より若かった頃の自分の姿です。当時はまだ「知恵」も「能力」もあった。そういうことを皆さんは覚えているでしょう。忘れたとは言わせません。そのようにパウロは言おうとしています。また「家柄」というのは、自分の努力で得るものというよりは、親から譲られるものです。

しかし、思い出してみてください。あなたがたが神から召されたとき、「知恵」や「能力」や「家柄」のようなことが問われましたか、そんなことは問われませんでしたよねと、パウロは言おうとしています。そういうことが入会の条件ではなかったですよねと。あなたは「知恵」があり、「能力」があり、「家柄」もいい。そういうあなたにはぜひ教会に来てください。そうでない人はお断りいたします、などとは言われませんでしたよねと。

なぜそういうことを言われなかったのかといえば、教会はそういうことを問題にする団体ではないからです。そういうことが条件で入れるか入れないかが決まるような団体は「教会」ではありません。

そして、それは神のお考えだったのだということを、次にパウロは述べています。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(27~28節)。

教会とはまさにそういう存在なのだということをパウロが言おうとしています。はっきり言いますと、世間的な目で見れば、教会は無学で、無知で、無力で、無意味な人たちがかき集められたような存在なのだと。はっきり言い過ぎでしょうか。

しかし、それこそが神の意図なのだとパウロは言おうとしています。それが神の御心であり、神のご計画です。そういう教会を作ることを、神がお求めになったのです。それは何のためでしょうか。神がなぜ教会を無学で、無知で、無力で、無意味な人の集まりにしたのでしょうか。パウロが記しているその理由は「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」(29節)です。

すなわち、その理由とは、世間的な価値判断の中で傲慢になっている人たちに対して神御自身が戦いを挑み、抗議するためです。そして傲慢な人に恥をかいてもらうためです。それによって神御自身が傲慢な人に「ちょっと、そこのあなた、もっと謙遜になってくださいよ」と言うためです。パウロが言おうとしていることは、そういうことです。

しかし、その教会も変質していきます。教会は世間から隔絶されて立っているわけではありません。たえず交流がありますので、明確な区別はできません。パウロがこのようなことを書いているのも、こういうことをわざわざ書かなければならないほどの変質がコリント教会の中に起こっていたからであると思われます。

だからといって、教会が世間と全く同じになってしまって、教会の中で、知恵や知識、能力、家柄の競争が始まってしまうなら、そういうことに欠けや引け目を感じている人々は、教会の中でも居場所を失ってしまいます。そのうち「私には生きている意味も価値もない」と言って絶望する人々が出てくることになります。

こういうことを言いますと、熾烈な競争の中に絶えず身を置いている方々から、「教会だけが特別ではない。甘えるな」と叱られてしまうかもしれません。しかし、そういう方々には申し訳ありませんが、もし教会までもがそのような「世知辛い」場所になってしまうなら、どこにも行き場がなくなるし、居場所がなくなる人々が必ず出てくるでしょう、ということは言わせていただきます。

もちろんそうは言いましても、教会が「世知辛い」ところであるかぎりは、世間と大差ありません。教会の中で競争しあっているようでは。私が過去に牧師として働いた教会で出会った人々の中には、「教会に来て本当によかったです。こんなに安心できるところは他にありません」とおっしゃる方が何人もおられました。そういう場所がわたしたちの人生の中に確保されていることが大切です。

そのような場所があることが、わたしたちにとって、たとえどんなことがあっても失望しないで生きていくことができる、希望の根拠になります。知恵も能力も家柄も、そのこと自体が問われることがない、そのこと自体で競争しあうことがない、そのような場所があるとしたら、それが「教会」です。

わたしたちの教会がこれまで以上にそのような教会になっていくにはどうしたらよいのかについては、私は何も言いません。もう時間切れです。あとのことは坂下先生にお任せいたします。

(2016年8月21日、日本基督教団阿佐谷東教会主日礼拝)

2013年1月1日火曜日

主の業に常に励みなさい


2013年 新年礼拝説教

コリントの信徒への手紙一15・56~58

「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしたちの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

あけましておめでとうございます。今年もどうかよろしくお願いいたします。

今日は2013年の新年礼拝です。最近の新年礼拝で行っているのは、松戸小金原教会が毎年「目標聖句」として掲げる聖書の御言葉の意味を解説することです。

昨年2012年に掲げた目標聖句は「キリストに結ばれて歩みなさい」(コロサイの信徒への手紙2・6)でした。その御言葉の意味を昨年の新年礼拝で解説しました。今年も同じようにします。

今年の目標聖句は、先ほど朗読しました聖書の御言葉の一部分です。「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」(コリントの信徒への手紙一15・58)。

これを今年の目標聖句にすることを12月の定期小会で決議しました。今月20日(日)の定期会員総会で承認します。そのようにして、この御言葉を教会のみんなで覚えつつ、今年一年間を過ごしたいと願っています。

この御言葉は二つの文章で成り立っています。前半は「動かされないようにしっかり立ち(なさい)」です。後半は「主の業に常に励みなさい」です。

二つの文章はつながっていますが、内容の異なることが書かれています。ですから、今日は二つの部分を分けてお話しします。

第一は「動かされないようにしっかり立ちなさい」です。

この御言葉には歴史的な文脈があります。これは使徒パウロがコリント教会に宛てて書いた手紙の一節です。

コリント教会は必ずしもしっかり立っていませんでした。ぐらぐら揺れていました。だからこそ、パウロは「しっかり立ちなさい」と呼びかけているのです。

コリント教会の問題は大きく分けると二つありました。一つは教会の中に不道徳があったということです。もう一つは教会が信じるべき信仰の内容に混乱がありました。

つまり、コリント教会は道徳面でも信仰面でもぐらついていたのです。その教会が「動かされないようにしっかり立つ」ためには、道徳・信仰の両面の立て直しが必要だったのです。

しかし、その立て直しは、どのようにして実現するものなのでしょうか。

このことについて改革派教会は、伝統的な答えを持っています。改革派教会の答えは、道徳面についてはモーセの十戒を規準にし、信仰面については使徒信条を代表とする教会の基本信条を規準にすることです。

たとえば、わたしたちが毎週の礼拝で交読しているハイデルベルク信仰問答は、使徒信条と十戒と主の祈りの解説です。それを繰り返し読むことで、改革派教会は「動かされないようにしっかり立つ」とはどういうことかを学んできたのです。

今日お話しすべき第二のことは「主の業に常に励みなさい」とはどういうことなのか、ということです。とくに考えなくてはならないことは、「主の業」という言葉をパウロがどのような意味で書いたのかという点です。

それを考えるために、パウロがこの言葉をどのような文脈の中で書いたのかを知る必要があります。とくに58節の後半の言葉が重要です。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。

「主」とはわたしたちの救い主イエス・キリストを指していることは明らかです。もしそうであるならば、「主の業」とは救い主イエス・キリストの働きを指していると考えることが可能です。

そして、パウロによると、教会は「主に結ばれている」存在です。つまり、救い主イエス・キリストの存在と教会の存在は「結ばれている」関係にあるのです。

これはどういうことでしょうか。教会にとってイエス・キリストは、大昔に死んだ過去の存在ではありません。復活して今も生きておられ、かつ天に挙げられている状態にあると教会は信じています。天に挙げられているイエス・キリストと、地上の教会が「結ばれている」関係にあるのです。

すると、どうなるか。教会の働きは、天に挙げられたイエス・キリストの働きを地上において続けることを意味すると考えることができるのです。地上の教会が天におられるイエス・キリストの働きを地上において続けているのです。それはつまり、教会自身が人を救うのだと言っているのと同じことなのです。

わたしたちが人を救うのです。わたしたちの働きが、人を救うために用いられるのです。

たとえば、教会が人に洗礼を授けるとは、そういうことです。困っている人に必要な助けの手を差し伸べることも、人を救う働きです。わたしたちが、具体的に人を救い、助ける働きに就くのです。

しかし、それはあくまでも「主に結ばれている」かぎりにおいて、という限定のある話であることを忘れてはいけません。イエス・キリストとは無関係に、わたしたちが勝手に人を救うという話ではありません。天に挙げられているイエス・キリストが、わたしたちを用いてくださるのです。

しかし、地上の教会には限界があります。わたしたちの教会の規模や能力は小さいものです。教会の規模と働きがあまりにも小さすぎてがっかりされることがあります。

しかし、わたしたちの働きは「主に結ばれているならば」無駄ではありません。教会の存在は無意味でも無価値でもありません。イエス・キリストが生きて働いてくださるからです。

そのことを信じて、今年も地味で・地道で・有意義な歩みを続けていこうではありませんか。

(2013年1月1日、松戸小金原教会新年礼拝)

2012年2月12日日曜日

なぜ愛が最も大いなるものなのか


コリントの信徒への手紙一13・13

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」

東関東中会伝道委員会が主催の「平和の集い」は、今年で四回目となりました。毎年恒例の行事となりましたことを、とてもうれしく思っています。今日の集いが祝福に満ちたものになりますようにと、お祈りしています。

さて、開会礼拝で開かせていただきましたのは、皆さんがよくご存じのみことばです。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」。このように使徒パウロが書きました。パウロはこの三つを、わたしたちの神がキリスト者に与えてくださる多くの「霊的な賜物」の中で特に大切なものであると述べています。

他の「霊的な賜物」は大切ではないと言いたいのではありません。この手紙の中でパウロが「霊的な賜物」と呼んでいるものの中には、たとえば「知恵の賜物」があり、「知識の言葉」があり、「病気をいやす力」があります。あるいは「奇跡を行う力」であるとか、「預言する力」であるとか、「霊を見分ける力」などです。

そのような賜物が大切でないはずがありません。一つだけ取り上げますと「預言」とは今のわたしたちの教会で言うところの「説教」のことです。神のみことばを預かって人に向かって語ることです。「説教」は教会の中できわめて重要なものであると、わたしたちは繰り返し教えられてきました。

しかし、パウロが書いているとおりに言えば、「預言」よりも、つまり説教よりも「愛」が重要であるという話になります。

なぜ説教よりも愛が重要なのでしょうか。パウロは「愛は決して滅びない」と断言しています。しかし「預言は廃れる」と言っています。つまり、わたしたちの説教は「廃れる」ものなのです。なぜなら、「預言は一部分だから」です。「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れる」のです。

これは終末論的な話です。終末の日が来ると、神と人間は「顔と顔とを合わせて見る」関係になるのです。そのときは神御自身が直接わたしたち人間にみことばを語ってくださいますので、説教者は用済みになるのです。終末には説教者の仕事は無くなるのです。牧師たちは全員引退しなければならないのです。

しかし、終末の日を迎えても残るものがある。それが「信仰」であり、「希望」であり、「愛」であると言われているのです。

ところがパウロは、そこで話を終わりにしません。この三つを比較した上で、順位をつけています。その第一位が「愛」であると言っています。信仰よりも、希望よりも、愛が偉大であると言っているのです。

これはやはり驚くべきことばです。わたしたちは信仰によって救われると教えられています。「信仰のみ」は宗教改革の三大原理の一つです。その「信仰」よりも偉大なものがあると言われると、びっくりしてしまうでしょう。今日の集会のテーマは「信教の自由」です。その集会の開会礼拝の説教者は「信仰こそが最も重要である」と言わなければならないのかもしれません。

しかし、わたしたちはパウロのことばを重んじるべきです。「最も大いなるものは愛である」と書いてあるとおりに受け入れるべきです。

それでは、なぜ愛は最も大いなるものなのでしょうか。これが今日、皆さんに考えていただきたい問題です。パウロは理由を書いていません。そうであると、ただ断言しているだけです。ですから、わたしたちは、その理由をわたしたちの頭でよく考えてみなければなりません。

皆さんは、それぞれの教会でこの問題の答えを聞いておられるでしょうか。なぜ愛は最も大いなるものなのでしょうか。残念ながら、私はどうも想像力に乏しい者であることが分かりました。自分の頭で考えても、その答えを見つけることができませんでした。そこで一つの解説を頼りにしました。それを読んで、なるほど、そういうことかと、納得しました。

その解説によりますと、信仰と希望は人間が持つものです。神御自身が「信仰を持つ」ということはありません。神御自身が「希望を持つ」こともありません。信仰も、また希望もわたしたちが持つものです。わたしたちが、このわたしが信じるのです。わたしたちが、このわたしが願い、望み、祈るのです。

しかし、愛は違うというのです。「愛は神のものである。愛は神が行ってくださることである。ここに違いがある」と解説されていました。

別の言い方をすれば、愛の出発点は神御自身であるということです。わたしたちが神を愛するよりも先に、神がわたしたちを愛してくださったのです。しかし、だからと言ってわたしたちはだれも愛さなくてよいというわけではありません。神が愛してくだされば人間は愛さなくてもよいということではありません。神がイエス・キリストにおいてわたしたちを愛してくださったように、わたしたちも神と隣人を愛さなければならないのです。

また、その解説には、もう一つのことが記されていました。「わたしたちが誰かを愛するとき、神に似た者になるのである」。その意味は、わたしたちが神を愛し、隣人を愛している姿は、神がわたしたちを愛してくださる姿に似ているということです。そのときわたしたちは、神に最も近づくのです。「この点こそが、パウロが信仰よりも希望よりも愛が偉大であると述べている理由である」。私はこの解説で納得できましたので、皆さんにも紹介させていただきます。

わたしたちが教会でいつも教えられていることは、神と隣人を愛しなさいということです。しかし問題は、わたしたちは神と隣人をどのように愛したらよいのかということでしょう。イエスさまのお答えを、皆さんはよくご存じです。「わたしの隣人とはだれですか」と質問してきた人に対してイエスさまがお話しになった「善いサマリア人のたとえ」(ルカによる福音書10章)を思い出してください。

「善いサマリア人」は、おいはぎに襲われて半殺しにされたまま倒れていた人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに載せ、宿屋に連れて行って解放し、翌日になるとデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡し、「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言いました。愛とはこのようなものであるとイエスさまがお話しになりました。

倒れていたその人を見過ごした祭司も、レビ人も、イエスさまにとっては愛が足りない人々でした。彼らがどれほど信仰深い人たちであったとしても、愛がないような信仰は空しいものであるということをはっきりお示しになりました。

イエスさまがお教えになった愛のあり方は、どう考えても、キリスト者同士の間だけで完結するものではありません。信仰が違う人のことは愛さなくてもよいという考えは、イエスさまにはありません。愛はもっと広いものです。教会の枠を超えていくものです。

わたしたちが神と隣人を愛しているとき、そのわたしたちの姿は神に似ているのです。

教会の対社会的活動も、神の愛の模範に従っていくことが大切です。

(2012年2月11日、第4回「東関東中会平和の集い」開会礼拝、日本キリスト改革派船橋高根教会)

2012年1月29日日曜日

愛があふれる教会をめざします


コリントの信徒への手紙一12・31b~13・7

「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

いまお読みしました個所の最初に「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(12・31b)と書かれています。「最高の」と言いますとそれ以上のものが存在する余地が無くなってしまいますが、原文にそこまでの意味はありません。「非常に優れた」とか「飛び抜けて優れた」というくらいの意味です。「非常に優れた道」、それは「愛」であるということが今日の個所に記されています。しかし、愛以上のものはどこにも存在しない、というような排他的な意味ではありません。

実は、愛にも弱点があります。愛の始まりは、また始まってから後も、かなりの面で一方通行的なものだからです。「片想い」という言葉があるではありませんか。片想いは未完成で不完全な愛です。しかし、愛であることに変わりはないのです。それは痛みを伴います。悲しみや切なさがあります。弱点だらけです。しかし、それが愛なのです。ですから、愛以上のものが存在しないというわけではないのです。パウロもそんなことを言っているのではありません。愛は「非常に優れた道」、あるいは「飛び抜けて優れた道」であると書いているのです。

しかし、今日の個所でパウロがたしかに強調していることは、愛の重要性です。しかも、私が重要だと思いますことは今日の個所が置かれている文脈です。この個所は明らかに、12章の初めから書かれてきたことの続きです。それが意味することは、今日の個所もまた、「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」(12・1)という言葉から始まっている話の流れの中で理解されなければならないということです。つまり、今日の個所でパウロが強調している「愛」は、イエス・キリストを信じる信仰をもって生きているわたしたちキリスト者に与えられる「霊的な賜物」の一つであるということです。

しかも、「霊的な賜物」とは、聖霊なる神がわたしたちの存在の内部に新しく与えてくださる性質のことです。それが意味することは、「霊的な賜物」としての「愛」は、わたしたちが生まれつき持っているものではないということです。先天的・遺伝的に「霊的な賜物」を初めから持って生まれた人はいません。すべては生まれた後に与えられるのであり、イエス・キリストを信じる信仰と共に与えられるのです。

ですから、今日の個所にパウロが書いているような意味での「愛」を今はまだ自分は持っていないというような自覚がある人でも心配することはありません。これから身につけることができるのです。

前置き的な話を、もう少しだけ続けさせていただきます。今日の個所を理解するための前提として、もう一つ重要な点があります。それは何かと言いますと、今日の個所に「人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも」(1節)とか「預言する賜物を持ち」(2節)とか「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも」(2節)とか「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも」(3節)とか「誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」(3節)とか書いていますが、これらのことはすべて、先週までに学んだ12章の内容と非常に深く関係しているということです。

もう少し具体的に言います。12章に「ある人は霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」(12・8~11)と書かれていました。この中に「知恵」「知識」「信仰」「異言」などの言葉が出てきます。これらはすべて霊的な賜物なのですが、たとえこのようなものをいくら持っているとしても、もしそこに「愛」が無いのであれば、すべては空しいかぎりだと、パウロは書いているのです。別の言い方をすれば、「知恵」や「知識」や「信仰」や「異言」などと「愛」とを比較したうえで、これらのものよりも「愛」のほうが上であると言っているのです。

重要な点はまだあります。12章にパウロが書いていた「霊的な賜物」を与えられた人々というのは、すべて教会につながっている人々のことだったわけです。そのような「霊的な賜物」を与えられた人々が教会の中でいろいろな仕事をする、という話でした。教会の中の一人の人、あるいは特定の少数の人々だけが、教会の中のすべてを何もかも一手に引き受けるのではなく、教会のみんなで役割分担をしていくのだ、という話でした。それで「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師」といった具合に、教会の中にいろいろな職務を担う人々がいる。そのようないろいろな働きをなす人々が寄り集まってひとつのキリストの体なる教会を造り上げていくのだ、という話でした。

これで分かることは、今日の個所に記されている「愛」の話も教会の話であり、教会の中での愛の話であるということです。教会の活動の話であり、あるいは教会の組織とか制度の話です。教会から切り離しても成り立つような、一般的な愛の話ではないのです。パウロがしているのは教会の話です。教会を成り立たせる根拠もしくは土台は愛であると言っているのであって、それ以上のことは語っていないのです。教会の中にたとえどれほどたくさんの人が集まっていても、どれほど活発な活動がなされていても、どれほど整った組織や制度があっても、どれほど立派な建物があっても、そこに「愛」が無いような教会は空しいかぎりだと言っているのです。教会とは無関係な、あるいはまたキリスト教信仰とは無関係な、一般的な愛の話をしているのではないのです。そのことをぜひご理解いただきたいと願っています。

しかし、もちろん、このようなことをパウロは教会を裁くためにだけ書いているのではありません。「教会よ、あなたがたには愛が無い、愛が無い、愛が無い、愛が無い」とただ責め立て、あげつらい、ぐうの音も出ないほど締めつけるために書いているわけではありません。そういうのは教会に対する拷問です。パウロという人が物腰においても、言うことにおいても、書くことにおいても厳しい人であったことは否定できません。しかし、「あなたには愛が無い」というのは、殺し文句です。パウロの意図は、教会を否定することではなく、肯定することであり、励ますことです。「愛があふれる教会をめざしましょう」という呼びかけであり、自分自身もこの愛に生きていきますからという決意表明でもあるのです。教会に向かっては「あなたがたには愛が無い」と言いながら自分自身は誰も愛そうとしないというのでは何の説得力もありません。「他人に厳しく自分に甘い」というのは最悪のパターンです。パウロはそういう人ではなかったと思います。

4節以下に、「愛」とは何なのかについて具体的に記されています。しかしこれも、くどいようですが、すべて教会の話であるということが忘れられてはなりません。教会に連なっているわたしたちに、教会の中で求められる「愛」の形はどのようなものなのか、ということが記されているのです。

しかし、もちろん、そうは言いましても、わたしたちが愛さなければならない存在は、教会の中にいる人たちだけではなく、教会に通っていない人たちも当然愛さなければなりません。キリスト者はキリスト者だけを愛すればよいのであって、キリスト者でない人たちのことは憎まなければならないというのは明らかに異常な話です。そういうことを今日私は話そうとしているのではないし、パウロもそういうことを言っているのではありません。ただ、今日の個所に書かれていることの趣旨は教会の中の話であるということを言いたいのです。一般的な愛については、この個所に書かれていることの応用で対応していくことができるでしょう。文脈がある話なのですから、その文脈を無視しないでくださいと言いたいだけです。

しかしまた、もう一回ひっくり返して考えてみますと、パウロが書いている趣旨からしても、また、わたしたち自身の教会の中で味わってきたことの実感からしても、教会の中での、キリスト者同士の愛と、一般的な愛とでは、何とも言葉に表現しづらい質的な違いというものがあるということも私は否定することができません。それは、教会というこの場所には、まるで自動給湯機のようにスイッチを入れるだけで、あとは放っておいても自動的に愛があふれているというような意味ではありません。正反対です。教会こそは非常にデリケートな場所であって、ある意味で他の場所以上に丁寧かつ慎重に愛を注ぎ、その愛を手塩にかけて育て、守っていかなければならない。そうしなければ、あっけなく壊れてしまうところなのです。

どうしてそうなのかといえば、いちばん単純なところを言えば、教会にはいろいろな人が集まっているからです。ここには、いろんな種類の心の傷を持った人がたくさんいるのです。教会は神さまがたててくださったところなのだから、どんなに乱暴なことをしても、びくともしない強いところなのだというのは誤解です。教会は神に助けを求めて集まっている弱い人間の集まりです。私自身も、他の牧師たちも、もちろんみんな弱い人間です。教会は、自分は神なしには生きていくことができない人間であることを自覚し、認め、神の助けのもとで、神と共に生きていくことを決心し、約束している者たちの集まりなのです。そのような壊れやすいデリケートな存在である教会を大切に守り、支えていくために必要な「愛」とは何なのか、ということをパウロは書いているのです。

もう時間が無くなってしまいましたので、4節以下の「愛」の説明の詳細に立ち入ることはできなくなりました。来週もう少し詳しくお話しいたしますので、今日は特に印象的な言葉を一つだけ拾っておきます。それは最初の「愛は忍耐強い」という言葉です。

それは要するに、我慢するということです。忍耐という形の愛をパウロが最初に取り上げていることは、やはり理由があることなのです。教会は自分の思いに任せてどんなに乱暴なことでも言いたい放題に言ってもいいとか、したい放題にしてもいい場所ではありません。わたしたちは教会では少し黙っていなければならないのです。教会は憂さ晴らしの場所ではないのです。そういうことをする人がいると、教会の中で必ず傷ついている人がいます。教会においてこそ、我慢が必要です。しかし、その我慢ないし忍耐がわたしたちを鍛えるのです。「忍耐は練達を生む」のです(ローマ5・4)。

(2012年1月29日、松戸小金原教会主日礼拝)

2011年10月23日日曜日

すべての点ですべての人を喜ばせるように


コリントの信徒への手紙一10・23~11・1

「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。しかし、もしだれかがあなたがたに、『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。わたしがこの場合、『良心』と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の利益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」

今日お読みしました個所に記されていることは、8章から続いてきた「真の神を信じる者たちは偶像に供えられた肉を食べてもよいか」という問いに対するパウロの答えです。結論的なことが今日の個所にまとめられています。

しかし、パウロが出した結論とはどういうものであるかといえば、非常に複雑なものです。「食べてもよいが、しかし、食べてはいけない」。もう何を言っているのか分からない、支離滅裂だと言われても仕方ないような結論です。要するにどっちなんだと問い詰めたくなります。曖昧で、煮え切らない、優柔不断な答え方であると、そうであることを認めざるをえない感じです。

しかし、私自身は、パウロの出した結論に、非常に深く共感し、同意する者です。先週の特別集会の前の週に学んだ個所で「それでも決断は必要である」と語ったばかりです。しかし、わたしたちが現実の場面で下す決断は、実際にはすっきりしたものではないし、あっさりしたものでもないのです。そのようにも言わなくてはなりません。

なぜわたしたちが現実の場面で下す決断が、すっきりしたものでも、あっさりしたものでもないのか、その理由ははっきりしていると思います。それは単純な話です。わたしたちが日々の生活の中で共に生きている仲間は、真の神を信じて生きているキリスト者だけではないということです。

わたしたちの周りにはキリスト者である人もいますが、キリスト者でない人も必ずいます。それは牧師たちも同じです。牧師たちは、教会の人とだけ付き合っているわけではなく、教会以外の人とも必ず付き合っています。かなり厳しい言い方かもしれませんが、信仰を持っていない人とは一切つき合わないと言う牧師がいるとしたら、伝道する気が無い人だと言われても仕方がありません。教会の中だけに引きこもっていて、社会の人々と一切付き合わない牧師は、伝道の仕事を放棄している職務怠慢の罪を犯していると言われても仕方がありません。

もちろん伝道とはまだ信仰を持っていない人々に信仰を持ってもらうように勧め、決断してもらうことです。しかし、その場合に重要なことは、まずは、まだ信仰を持っていない人々との付き合いを始めることです。その人々との接点を得ることです。接点も無い人々に向かって、どうしたら信仰を宣べ伝えることができるのでしょうか。一度も話したこともない、顔を見たこともない、そのような相手との間に、どうしたらコミュニケーションが成立するのでしょうか。それはありえないことです。それとも、わたしたちは、そこに誰もいない空中に向かって説教するのでしょうか。それは空しいことです。

そして、わたしたちがよく知っているもう一つの事実は、だれ一人として、生まれながらに信仰を持っている人はいないということです。信仰は、親から子へ、子から孫へと、血を通して、自動的に遺伝するものではありません。我々自身の言葉と態度を通して、汗と涙を流しながら懸命に伝えなければ決して伝わらないものです。ですから、わたしたちにできる伝道とは、まだ信仰を持っていない人々とまずは知り合いになること、まずは付き合いを始めること、まずは接点を得ることです。それ以外に伝道の可能性はありえないのです。

いま私が申し上げていることをご理解いただけるのであれば、これから申し上げることも、きっとご理解いただけるに違いありません。これから申し上げることは、もしかしたら信仰的確信をもって生きる者たちの心を乱すことになるかもしれません。しかし、そのことを私はパウロから学んできたつもりです。それはこういうことです。もしわたしたちに伝道する気があるならば、わたしたち自身の信仰的確信に基づく言葉や行いをかなりの部分で我慢したり、譲歩したりしなくてはならない面が必ず出てくるということです。それをもし「妥協」という言葉で説明するのを許していただけるなら、わたしたちの信仰生活は、日々妥協の連続であると言わなくてはならない面があるということです。

今日の個所の冒頭にパウロが書いている「すべてのことが許されている」というのは、わたしたちキリスト者の信仰的確信です。わたしたちは真の神を信じる信仰によって、あらゆる迷信や偶像礼拝やタブーから解放されています。何を食べると呪われるとか、どちらの方角に頭を向けて寝ると祟られるとか、どこに入ると汚れるとか、そのようなことは全く起こらないし、ありえません。それは、信仰を持っている人だけがそうだということではなく、信仰を持っていない人も同じです。食べ物の呪いとか方角の祟りとか場所の汚れとか、そのようなものはそもそも存在しないのですから、それが起こるかどうかは、信仰を持っているかどうかに関係ないのです。はっきり言えば、そういうことがあると思い込んでいる人たちは、だれかに騙されているとしか言いようがないのです。

しかし、わたしたちが知っている事実は、次のようなことです。わたしたちが自分の信仰的確信に基づいて、このようなことをいくら語っても、訴えても、全く耳を傾けてくれない人がいるということです。取りつく島が無い人がいるのです。

しかし、それでは、わたしたちはそのような人たちにはもう何もできないのでしょうか。取りつく島が無いのだから、放っておくか距離を置くかしか選択肢はないのでしょうか。ある意味でそのとおりと言わざるをえない面もあります。そのことも事実です。しかし、放っておくことも距離を置くこともできない人がわたしたちの周りには必ずいるということも事実です。それはたとえば家族です。あるいは親しい友人です。わたしたちの人生の中には、「もうこの人とは付き合わない」と言ってしまえば、その後の関係を断ち切ることができるという相手も、いると言えば確かにいます。しかし、みんながみんなそうではありません。たとえ信仰が違い、立場が違うとしても、死ぬまで付き合わなければならない相手も、わたしたちには必ずいるのです。死ぬまで付き合うと言っても、いろんなレベルがあることも事実です。家族ならば、あるいは親しい友人ならば、「付き合う」どころか「愛する」ことが求められているのです。

今日私は二つくらいのことを言っています。第一に言っていることは、伝道とは、まだ神を信じていない人々との付き合いを始めることなしにはありえないということです。第二に言っていることは、神を信じて生きる者たちもまた、まだ神を信じていない人々と付き合うことを避けて通ることができないということです。「付き合うことを避けて通ることができない」どころか、その人々をわたしたちは「愛さなければならない」ということです。

そして、もしそうであるならば、わたしたちの信仰生活は同じ信仰をもって生きている人たちだけが集まって営むものではなく、異なる信仰や宗教や思想を持って生きている人々の中に混ざりながら営むものであるということは明白です。信仰を持たない人々を憎んで、呪って、切って捨てて、軽蔑しながら生きることが、わたしたちの信仰生活ではない。すべて正反対である。このように言わなくてはならないのです。

しかし、私は今日、まだ言っていないことがあります。それは本当は、真っ先に言わなければならないことだったかもしれませんが、あえて後回しにしました。それは、わたしたちは、いろんな信仰や宗教や思想を持って生きている人が複雑怪奇に入り乱れた世界の中にいながら、それでも真の神を信じる信仰を貫いていくことが必要であるし、そうすることが可能であるということです。

それは可能なのです。できます。それは不可能だと言っているのではありません。わたしたちに、それはできることです。ただし、そのときわたしたちのとるべき態度は、パウロが言っているとおりです。「食べてもよいが、しかし、食べてはいけない」。こういう話になっていきます。

どういうことでしょうか。これから申し上げることは、誤解を生むような言葉かもしれませんが、事柄をはっきりさせるために、あえて言います。それは、わたしたちが自分一人でいるときと、あるいは同じ信仰を共有している信仰の仲間たちだけで集まっているときと、そうではない、異なる信仰や宗教や価値観や思想の持ち主たちと一緒にいるときとで、わたしたちの言葉や態度を変えることは許されるということです。はっきりいえば、わたしたちは、教会の中にいるときと、教会の外なる社会にいるときとで、言葉や態度において完璧な首尾一貫性をもっていないことがありうるし、そのような使い分けをすることが許されているのです。

もっとはっきり言っておきましょうか。わたしたちには、表の顔と裏の顔があってもよいし、二つの顔を使い分けてもよいということです。わたしたちが自分の生き方の首尾一貫性を追求することは、わたしたち自身の利益です。しかし、それを追求しすぎることによって、他人の利益を損なうことがありうるのです。わたしたちの信仰的確信やキリスト者としての生き方の首尾一貫性という点を重んじすぎて、教会の外側にいる人たちを傷つけるようなことがあるならば、伝道にとってはマイナスでしかないのです。

「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばせようとしているのですから」(33節)とパウロが書いているときの「すべての人」の中には、キリスト者である人だけでなく、キリスト者でない人も含まれています。そしてわたしたちの伝道はわたしたち自身の自己満足のために行うのではありません。信仰をもって生きることはこれほどまでに自由で喜びに満ちた人生であるということを、そのことをまだ体験していない人々に、何とかして分かっていただき、その人々と共に喜びの人生を始めること、それが伝道なのです。

(2011年10月23日、松戸小金原教会主日礼拝)

2011年7月24日日曜日

いろいろ抱えながら楽しんで生きる


コリントの信徒への手紙一7・32~35

「思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」

今日の個所にも引き続き扱われているのは結婚の問題です。ここに書かれているのは結婚に関するパウロの意見です。はっきり申し上げますと、この手紙の中でパウロが結婚について否定的な意見を述べていることは否定することができません。

しかし、私は皆さんを必要以上に不安な気持ちにさせたくありません。なるほどたしかにパウロは結婚について否定的な意見を述べています。しかし、彼自身の中にも、聖書全体の中にも、キリスト教信仰の中にも、結婚すること自体が罪であるという考え方は全くありません。結婚は、してもよいのです。それは神が許しておられることです。結婚は神御自身がお定めになった制度です。そして、パウロも結婚することを許しています。結婚してはいけないと禁止したことはないのです。

パウロが結婚について否定的なことを述べているのは、禁止しているのではなく、心配しているのです。それは先週の個所に書かれていたとおりです。「しかし、あなたが結婚しても罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです」(7・28)。

パウロが言おうとしていることは、ある意味で単純です。また、実際に結婚した人たちにとっては、言わずと知れたことだとでも言いたくなるくらいの当たり前のことです。それは要するに、結婚には楽しい面ばかりではなく苦しい面もあるということです。結婚する人たちは、そのことをすべて承知したうえでなければならないということです。

ですから、私は先週の説教の最後に、パウロが書いていることは逆説であると申し上げたのです。

先週の個所には「定められた時は迫っています」(7・29)とか「この世の有様は過ぎ去るからです」(7・31)という言葉がありました。これはパウロの終末論であると言いました。終末の時が近づいている、その日はまもなく訪れるとパウロは信じていました。わたしたちにとって終末は、神のみもとに召されることであり、天国に受け入れられることであり、永遠の祝福と喜びのうちに置かれることを意味するのですから、悪い意味での破滅や破局を思い描く必要はありません。しかしたとえそうだとしても、終末は、地上に生きる者にとっては、やはり別れを意味するのです。そこに死別の悲しみが伴うのです。

結婚した者たちが味わう最大の苦しみは、心から愛した人と死別しなければならないときが来ることです。死別の苦しみは、愛が深ければ深いほど耐えがたいものとなるでしょう。その苦しみにあなたは耐えられますかという問いかけが、パウロの言葉の裏側にある。私はそのような意味で、パウロの言葉を逆説だと申し上げたのです。

ですから今日の個所に書かれていることも、逆説なのです。しかし、パウロが書いていること自体は全く反論の余地もない事実です。これを否定できる人がいるでしょうか。私は自信がありません。パウロは次のように書いています。「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます」(7・33~34)。

私は自信がないと言っておきながら、すぐに別のことを言わなければなりませんが、いま申し上げたことは、私が「どうすれば妻に喜ばれるか」といつも考えているという意味ではありません。もしそうであれば妻はもっと喜んでいるはずですが、そちらの自信もありません。しかし、あまり私の顔ばかり見ないでください。いま申し上げていることは、私の話としてではなく、一般論として聴いていただきたいことです。

パウロが言おうとしていることを別の言葉で言い換えれば、「結婚は独りで成り立つものではない」ということになるかもしれません。これも考えてみれば全く当たり前の話です。しかし、あまりにも当たり前すぎて忘れられてしまう可能性がある、実は非常に重要なことなのかもしれません。

独りで成り立つ結婚というものなどはありえません。しかし、結婚生活の中でしばしば問題になり、トラブルにもなるのは、どちらか一方が他方に対して横暴な態度をとるとか、あるいは自分の考えや要求を一方的に押しつけるときだったりするではありませんか。

そういうことと比べれば、パウロが言っていることは、はるかにましなことです。「どうすれば妻に喜ばれるか」と、一生懸命考える夫は、良い夫でしょう。そういう人がなぜ責められなければならないのでしょうか。多くの男性はこういう人に見習わなければならないはずです。もしそうであるならば、パウロが「どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣う」人のことを責めているのかといえば、必ずしもそうとは限らないと考えることもできるはずです。あるいは、ここでパウロが「心が二つに分かれてしまう」ことは悪いことだと責めているのかといえば、必ずしもそうとは限らないと読むことができるはずなのです。

あるいはパウロは男性の側の話だけではなく女性の側に対しても、ほとんど同じことを繰り返しています。「独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います」(7・34)。パウロがほとんど同じことを繰り返していますので、私も同じような言葉を繰り返しておきます。「どうすれば夫に喜ばれるか」と心を遣う妻は、良い妻でしょう。そういう人がなぜ責められなければならないのでしょうか。なぜそれが悪いことなのでしょうか。そんなはずがないのです。

しかし、それでも、パウロが言っていることは紛れもない事実であるということは全く否定できません。なるほどたしかに、わたしたちがいったん結婚生活ということを始めたら、何か一つのことに脇目もふらず、ひたすら集中するということができにくくなるでしょう。心も意識もありとあらゆる方面へと拡散していき、分散していくでしょう。学者肌の人や芸術家肌の人にとっては、何か一つのことに対する集中力を奪われることは、本当に困ったことだと認識してしまう可能性があるかもしれません。

ですから、パウロが書いていることも、いま申し上げたとおりのことかもしれません。「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです」(7・35)と書かれています。

ここで気になるのは、最後の「ひたすら主に仕えさせるため」という文章です。パウロにとって要するに大事なのは「ひたすら主に仕えること」だけであって、そのための邪魔になるようなことについては、いっさい切り捨てるべきであると言っているのでしょうか。大事なのは、神だけであり、宗教だけであり、教会だけである。その大事なことを守るために邪魔になるようなものはすべて切り捨てるべきであり、全く捨て去るべきであると、そのようなことをパウロは言いたいのでしょうか。

そのようなことをパウロは書いていないということを、これまでわたしたちは学んできたはずです。少なくとも私は、そのような意味にパウロの言葉を読みません。

もしいま申し上げたような読み方をしなければならないのだとしたら、たとえば、すでに学んだ個所に書かれていた「ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない」(7・12)というパウロの言葉をどのように理解すればよいのでしょうか。あるいは、「ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない」(7・13)という言葉はどうでしょうか。だって、結婚すると「心が二つに分かれてしまう」のでしょう?それはその通りだと思いますが、しかしもし「心が二つに分かれてしまうこと」が、悪いことであり、駄目なことであり、許されないことであり、「ひたすら主に仕えること」の妨害や障害でしかないということであるならば、未信者の配偶者とは離縁すべきでないと書いているパウロの言葉は、全く矛盾以外の何ものでもないではありませんか。

ですから、私は、パウロが書いている「心が二つに分かれること」を、彼がただひたすら悪い意味だけで書いているとは思えないのです。そうなってはいけないのだ、心や意識が分散するようなことに近づいてはいけないのだ、ただひたすら神さまのことだけ考えるべきであって、他のことは何一つ考えてはいけないのだと、そのような意味のことをパウロが書くはずがないと、私は信じています。そういう考え方は大げさすぎるし、極端すぎるし、あまりにも現実離れしすぎていて、非常に危険な考え方でさえあると思われてなりません。

そういうことではないのです。パウロはただ、ありのままの事実を書いているだけです。「結婚とは、そういうものです」と、淡々と事実を述べているだけです。結婚には楽しい面だけではなく苦しい面もある。集中力が必要なときも、あっちに走り、こっちに飛び回りしなければならないこともある。あのことも、このこともしながら、わたしたちは生きていく。その覚悟があなたがたにありますかと、パウロはこの手紙の読者に問いかけているのです。

結婚というどう考えてもデリケートすぎる問題について、あまり具体的な話をしすぎると必ず語弊が出てくるし、だれかが傷つくということが起こるので、なるべくなら避けたい面もあるのですが、一つだけお許しいただきたい話があります。それは牧師の話です。独身の牧師がいないわけではありません。しかし、神学校を卒業したばかりの若い独身の(現在の日本キリスト改革派教会の場合は、すべて男性の)牧師たちに対して、ほとんどの教会が、他の何をさておいてもまず最初に願うことは「早く結婚してほしい」ということだったりします。これも事実でしょう。

皆さんにぜひ考えてみていただきたいことは、その理由は何なのだろうかということです。パウロが書いていることを尊重するならば、「心が二つに分かれてしまう」ようなことを牧師たちが率先して行うのは間違っているということになるではありませんか。しかし、多くの教会は独身の牧師たちに「早く結婚してください」と言う。その意味は何なのでしょうか。

その答えを詳しく解説する時間は無くなりました。一つのヒントだけ申し上げておきます。教会に通っている皆さんは「あれもこれも抱えながら」生きているということです。そのことを理解できるようになるために、牧師たちも「あれもこれも抱えながら楽しんで」生きていく必要があるのです。

(2011年7月24日、松戸小金原教会主日礼拝)

2011年6月5日日曜日

人間の存在はこの上なく価値がある


コリントの信徒への手紙一6・12~14

「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。」

いま短めに読みました。この個所にはキリスト教信仰の核心部分が端的に表現されています。ここで問題になっていることを少し丁寧にいえば、神がわたしたちに与えてくださる自由(キリスト者の自由!)と、その自由を間違った目的のために用いてしまう人間の罪との関係はどうなっているのかということです。しかし、こういうことをさっと言うだけでは何のことかお分かりいただけるはずはありませんので、これから説明いたします。

「わたしには、すべてのことが許されている」という一文にかぎかっこが付けられている理由は、分かりません。このような言葉が旧約聖書かあるいは新約聖書のどこかに書かれているのかと思って調べてみましたが、見当たりません。どこかから引用したことを示すためのかぎかっこではなさそうです。しかし、書かれているとおりの言葉が聖書に出て来ないとしても、この「わたしには、すべてのことが許されている」という一言こそが、神がわたしたちに与えてくださる自由を端的に表現していると語ることができます。わたしたち、キリスト者は、全く自由なのです。

まさに書いているとおり「わたしたちには、すべてのことが許されている」のです。わたしたちには「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」というタブーがないのです。あの日はいけない、この日はいけない。あの方向はいけない、この場所はいけない。そういうのが全く無い。あるいは、あれを食べてはいけない、これを飲んではいけない。そういうのも全く無い。他の宗教にはよくあるその種の拘束や束縛が、わたしたちキリスト者には全く無いのです。

そんなことはないだろうと、反発を受けるかもしれません。キリスト者こそが、あれもいけない、これもだめだと、そんなことばかり言ってきたではないかと。また、聖書の中には、あるいは、教会の教えの中には「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」というような言葉がたくさんあるではないかと言われてしまうかもしれません。

なるほど、たしかにそうです。たとえば聖書には、有名なモーセの十戒が書かれています。皆さんがもっておられる今週の週報の最後の面にも十戒の全文を印刷してあります。「あなたは、殺してはならない。あなたは、姦淫してはならない。あなたは、ぬすんではならない。あなたは、隣人について、偽証してはならない。あなたは、隣人の家をむさぼってはならない。」

たしかに、わたしたちには、すべてのことが許されています。しかし、殺してもよいわけではありませんし、姦淫してもよいわけではありませんし、ぬすんでもよいわけではありません。まさかそんなことまで許されているわけではありません。

しかし、もしそうだとしたら、わたしたちは少しも自由ではないと考えなければならないでしょうか。教会はいろんなことを禁止しているではないかと、反発されなくてはならないでしょうか。いやいや、ちょっと待ってくれ。いくらなんでもそういう理屈はないだろうということくらいは、聖書を毎週学んでいる人でなくても、常識で考えても理解していただけることではないかと思います。

詳しい事情を話しはじめますと長くなってしまいますので、途中の説明を省いた結論だけ申します。わたしたちが人を殺すということは、わたしたちが殺すその相手の自由を奪ってしまうことを意味します。また、それだけではなく、人を殺した人自身の自由が奪われることをも意味します。姦淫も、あるいは盗みも、偽証することも、むさぼることも、みな同じです。わたしたちは自由だ。しかし、その自由を間違ったことのために用いてしまうならば、その結果として、自分の自由も他人の自由も奪ってしまうことになるのです。

パウロが今日の個所に書いているのは、そのことです。わたしには、すべてのことが許されている。「しかし、すべてのことが益になるわけではない」のです。神がわたしたちに与えてくださる自由を間違ったことのために用いるならば、それは自分自身と他人に対して被害をもたらす結果を生むことは間違いないわけですから、その意味では、わたしたちは何をしてもよいわけではないのです。神がわたしたちに与えてくださる自由は、罪を犯してもよい自由ではないのです。

いまわたしは「罪」と言いました。パウロが書いていることは、結局のところ、神がわたしたちに与えてくださる自由と、わたしたち人間が犯す罪との関係である、と説明することができます。そうしますと、今度は「罪とは何か」についての説明をしなくてはならなくなりますが、それも長くなりますので、途中の説明を省いて結論だけ言います。

私の結論は、罪とは自由の正反対であるということです。このことは前に一度、お話ししたことがあります。わたしたちにとって自由が遊びの本質だとしたら、罪は仕事です。いま私は「仕事が罪だ」と言ったわけではありません。それは主語と述語が逆さまです。「罪は仕事だ」と言ったのです。昔のテレビドラマに「必殺仕事人」というのがあったではありませんか。人殺しのことを「仕事」と呼んでいるのです。国際的なテロを働くような人たちは、綿密な計画を立てて、ありとあらゆる可能性を想定して行動します。そうでなければ彼らの犯行は決して成立しませんし、失敗に終わるでしょう。

あるいは、姦淫を犯すこと、不倫を働くこと。こういうのも、最初は遊びなのかもしれませんが、そのうち必ず仕事になります。こちらにもあちらにも嘘をつき、こちらにもあちらにも隠しごとをし、結局どちらも重くなる。どちらかを捨てざるをえなくなるし、どちらからも捨てられる。多くの人を傷つけ、家族を傷つけ、自分自身を傷つけて、何もかも破壊する。

盗みも、偽証も、むさぼりもみな同じです。自分の犯した罪を隠すために嘘をつき、その嘘を隠すために、また嘘をつく。ピノキオの鼻はどんどん伸びていくばかりです。

仕事は罪ではありません。そんなことを言ったら怒られてしまいます。しかし、罪は仕事なのです。人間は汗水たらし、苦労して罪を犯すのです。しかしその結果は常に悪いものです。罪の結果が良いことはありえません。自分自身を不幸にし、多くの人を不幸にするだけです。そんなことのためにも、人間は汗水たらすのです。まるで馬鹿みたいな話ですが、いったん罪の電車の中に乗ってしまうと、途中で降りられなくなってしまうのです。

今日の個所でパウロが書いているもう一つのことは、そのことです。わたしには、すべてのことが許されている。「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」。ここでパウロが「支配」という言葉で表現しているのが罪のことです。罪はわたしたちを自由にせず、むしろがんじがらめに支配します。電車の扉は、次の駅まで開かないのです。無理やり開けて、走っている電車から飛び降れば、死んでしまう。それほどに罪はわたしたちを支配するのです。乗ったら最後なのです。だから、わたしたちは、よくよく気をつけなければならないのです。

「食物は腹のため、腹は食物のためにある」と続いています。パウロが「腹」という字を書くときの意味は、たいていの場合、狭い意味ではなく、広い意味です。「腹」は人間の欲求や欲望の象徴です。と言いますと、私はこの場から逃げたくなってしまいますので、このことをあまり強調したくはありません。しかし、ここでパウロが言いたいことは「食べすぎたらお腹が出っ張る」というような単純な話ではないと申し上げたいのです。

パウロがしているのは食べ物の話だけではありません。だからこそ、このあとすぐ、間髪いれずに「みだらな行い」の話が続いています。いわゆる三大欲求とは食欲、性欲、睡眠欲だと言われますが、睡眠の話をパウロはしていません。パウロがしているのは残りの二つの話です。人間が欲求や欲望を持つこと自体が悪いと言っているのではありません。わたしたちが人間であるかぎり、地上に生きているかぎり、そういうものと全く無関係に生きることは不可能です。その意味での避けがたさ、「欲求の不可避性」を指して、パウロは「食物は腹のため、腹は食物のためにある」と言っているのです。

いま申し上げていることは日本では強調しておく必要があるかもしれません。クリスチャンというのは何も食べない人(?)であるかのように誤解している人がいないともかぎらない国の中では。

しかし問題は、そこから先のことです。ごく当たり前の話ですが、「過ぎたるは及ばざるがごとし」です。自分自身を傷つけ、家族を傷つけ、多くの人を傷つけるほどの過度の欲求、過剰な欲望をもつことが悪いと言っているのです。そこまで行くと罪だと言っているのです。だからその次にパウロは「神はそのいずれをも滅ぼされます」と書いています。行きすぎた欲望追求は、神の厳しい裁きの座に耐えることができないのです。

だから、次の言葉が大事です。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」とパウロは書いています。「体」という字をパウロが書くときの意味も、たいていの場合、狭い意味ではなくて、広い意味です。わたしたちがよく言う「心と体」という区別を置いた上での「体だけ」の話をしているのではありません。そのような区別がパウロの考えの中に全く無いと言いたいのではありませんが、少なくとも今日の個所に「体」と書かれているのはもっと広い意味です。それはほとんど「人間の存在そのもの」を指していると言ってよいでしょう。

ですから、いま申し上げたことを踏まえていただいたうえで、パウロの言葉の中の「体」という字を「人間の存在」と言い換えていただけば、パウロの意図をよく分かっていただけるでしょう。実際に言い換えてみます。「人間の存在はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は人間の存在のためにおられるのです」。

いかがでしょうか。まだ日本語として分かりにくさが残っているようです。もう少し噛み砕く必要がある。それなら、これでどうでしょうか。

「わたしたちは、みだらな行いをするために生まれてきたのではない!

罪を犯すことが人生の目的ではない!

罪は人間の運命でも定めでもない!

人生の目的は、神の栄光を表わし、永遠に神を喜ぶことなのだ!(ウェストミンスター小教理問答1)

わたしたちは、神を喜ぶために生まれてきたのだ!

神は、わたしたちの存在を喜んでくださるためにわたしたちを造ってくださったのだ!」

わたしたちの存在は、神の目から見てこの上なく価値があります。だから、みだらな行いはただちにやめなければならないのです。

(2011年6月5日、松戸小金原教会主日礼拝)

2011年4月17日日曜日

使徒の気持ち


コリントの信徒への手紙一4・7~13

「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になってくれていたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」

いま行なっている説教の方法は「連続講解説教」と呼ばれるものですが、このやり方で聖書を前から順々に学んでいくことには、良い面と、困ったなあと思う面とがあります。良い面は、聖書を隈なく学べることです。困ったなあと思う面は、読むのがつらいと感じる、読んでいてなんとなく胸騒ぎがするような個所でも避けて通ることができないことです。先週の説教の最後あたりで少しだけ予告しましたが、この手紙を書いているパウロとこの手紙の宛て先であるコリント教会の人々とのあいだになんらかのトラブルが発生していた、ということが、今日の個所を読みますと分かります。そういう個所であっても避けて通ることができないことが、この学び方の、困ったなあと思う面です。

以前、使徒言行録の学びをしましたときに私が申し上げたことを繰り返しますと、パウロという人はどうもかなり怒りっぽい人だったということは否定できません。ですから、もしかしたらパウロは、本当にただ自分の怒りにまかせて、乱暴な言葉を書きつけてしまっているだけなのかもしれません。しかし、そういうことが仮にあるとしても、それでもなおわたしたちが考えなければならないことは、本当にただパウロが怒りっぽかっただけなのか、それとも、パウロの側の堪忍袋の緒が切れてしまうほどにコリント教会の側に問題があったのか、果たしてそのどちらなのか、というあたりでしょう。

しかし、あらかじめ申し上げておきますが、今日の個所にパウロが書いている内容をわたしたちが正確に理解することは難しいです。はっきり言って、よく分からないことだらけです。分からないと言って済ませるわけには行かないかもしれませんが、とにかく伝わってくることは、コリント教会に対するパウロの怒りと悲しみの気持ちです。そうであるということだけは、はっきりと分かります。しかし、彼が書いている言葉の一字一句の意味はよく分かりません。そのように言わざるをえません。

「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」(7節)と記されています。ここで「あなた」とはコリント教会を指していると思われます。しかし、「ほかの者たち」が誰のことかは、よく分かりません。私の読み方では、コリント教会以外の別の教会のことではないように思います。なぜそう思うのかといえば、「あなたをほかの者たちよりも、優れた者とした」と書かれているのは、コリント教会を別の教会よりも優れた教会にした、という意味ではないと思われるからです。

それではどういう意味なのでしょうか。これも私の読み方ですが、ここでパウロが「優れた者」と呼んでいるのは、要するに、キリスト教の信仰を受け入れ、教会に通っている人たちのことだと思われます。つまり、信者のことです。少し後に「あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています」(10節)とも書かれています。「信者は優れている」とか「信者は賢い」とか言いますと、信者でない人たちに怒られてしまうかもしれませんが、そのあたりはお許しください。そのように言っているのは私ではなくてパウロです。

それにまた、信者である人と信者でない人とが全く同じであるということも事実に反することですし、そんなふうに言う必要はないでしょう。わたしたちが教会に通っているのは教会に通っていない人を「わたしたちより劣っている」と見くだすためではありません。そういうことは、あってはならないことです。しかしまた、だからと言って、教会に通っている人と教会に通っていない人とは全く同じであるというようなことも、わざわざ言う必要もないことです。もし全く違いがないのならば、我々が今していることには何の意味があるのかと問わざるをえなくなります。

パウロが言っていることの意味もおそらくその程度のことです。自分よりも下の人を見くだすとか蹴落とすとか、パウロの考え方の中にあったとは思えません。しかし、パウロはその一方で、自分はコリント教会の人々を教えた教師であるということについての強い自覚と自負と責任とを感じているようにも思われます。パウロは彼らの先生なのです。先生が生徒の前で、少し上の立場に立って物を言うことはあるでしょう。「お前たちに聖書の御言葉を教えたのは、この私だよ。お前たちが今いろんなことが分かるようになっているのは、この私が教えたからだよ」と。

しかし、パウロはこんなふうに書いているからといって、コリント教会の人々に恩を売りたいわけではないのだと思います。そういうことではなく、事実を述べているだけです。しかし、その事実をすっかり忘れて、まるで先生から教えられる前から何もかも全部分かっていたかのように振舞ったり、先生をないがしろにしたり、挙句の果てに先生を攻撃したり恨んだりするというような態度を教え子たちが取りはじめるときは、先生としては「おいおい、ちょっと待ってくれよ」と言いたくなる場面も出てくるというような事情は、理解できなくもない話です。

ですから今日の個所は、どうやらそのような話なのです。しかし、まだ分からないことがたくさんあります。「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になってくれていたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」(8節)と書かれています。正確には分からないのは「既に大金持ちになっており」とか「王様になっています」という言葉です。キリスト教を信じれば、大金持ちになったり王様になったりできるのでしょうか。ないとは言えないかもしれませんが、因果関係は必ずしも明白ではありません。

そうだとしたら、これは比喩やたとえ話でしょうか。そうかもしれません。しかし、そうでないかもしれない。分からないです。はっきり比喩だと言えそうなのは「勝手に王様になっている」のほうです。しかし、比喩ではなく事実だったと思われるのは「既に大金持ちになっている」のほうです。なぜそう言えるかといえば、その後に書かれている「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます」(11節)とあることは、パウロにとっては紛れもない事実だったと思われるからです。その前に「わたしたち使徒は」(9節)とありますので、この文脈で「わたしたち」とは明らかに使徒のことです。今でいえば、狭い意味での教師、牧師、伝道者のことです。つまりパウロが言いたいことは、わたしたち使徒は貧しい生活をしてきたし、今も貧しい生活をしているが、あなたたち信者は大金持ちであると言っているのです。これはおそらく事実です。この事実をパウロは比喩で言い換えて、「あなたがたは…わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています」と書いているのです。

もし私がいま申し上げたようにこの個所を読むことができるとしたら、これはどうやら献金の問題なのです。これは私が言っていることではなくて、パウロが言っていることですので、どうかお許しください。パウロの言葉だと思って聴いていただかなければ、わたしたちの間柄まで、おかしなことになってしまいます。しかし、これだけははっきりしていると言えそうなことは、狭い意味での教師、牧師、伝道者たちの生活は、もっぱら献金で支えられているということです。しかしパウロは、その点について教会に対して不満を持っているのです。「苦労して自分の手で(伝道以外の別の仕事をして)稼いでいます」と言わなければならないような生活を強いられていることに対して、お前たちの先生が苦労している姿を見てもなんとも思わないのかと苦言を述べているのです。

しかし、それにしても「最後に引き出される死刑囚」(9節)だとか「世界中の見せ物」(同上節)とか「愚か者」(10節)とか「世の屑」(13節)とか「すべてのものの滓」(同上節)だとかは、いくらなんでも言いすぎの感があります。たとえ自分自身のことだとしても「バカ」だの「クズ」だの「カス」だのと言わなくてもいいでしょう。しかし、このような一つ一つの言葉は、パウロが実際に置かれた厳しい立場や彼が味わった過酷な現実を考えてみますと、おそらく比喩ではないと思われるのです。比喩ではなく現実であると思うのです。少なくともパウロの側の実感はそうだったに違いないのです。

しかし、私はもちろん、まさか、今日の話をこんなところで終わらせるわけには行かないと思っています。ここで終わってしまいますと、今日は一体何の話だったのかという気持ちになるでしょう。まるで私が、パウロの言葉を借りて教会の皆さんに何かを言おうとしているかのようです。しかし、そう思われると困ります。何度も言いますが、今しているのは私の話ではなく、パウロの話なのです。

そして私は、実をいえばパウロも、このような一見かなり辛辣なことを書いていながらも、彼の心の中にあったのは喜びであり感謝であったに違いないと思っています。パウロは教師なのです。教え子たちが成長していくことを心から喜ばない教師がいるでしょうか。「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています」(10節)と言われているのは皮肉ではなくて喜びです。教師ならだれでも、自分自身よりも生徒のほうが上になってくれることを喜ぶはずでしょう。手塩にかけて育て上げた教え子たちが、いつまで経っても自分よりもでたらめなままの、自分よりも弱い、自分よりも軽んじられる存在のままであることを喜ぶ教師がいるのでしょうか。いるかもしれませんが、それは良い教師ではなくて悪い教師です。

このパウロの教師としての姿に、イエス・キリストの苦難の姿を重ねることができるように思えてなりません。わたしたちを救うために、わたしたちを幸せにするために、イエス・キリストはこの世のすべての苦難を背負ってくださり、十字架の上で死んでくださったのです。ぼろぼろのイエスさまが、人を助け、人を幸せにし、人を変えたのです。そのことは、パウロにもよく分かっていたのです。

(2011年4月17日、松戸小金原教会主日礼拝)

2011年3月20日日曜日

神のために共に働く


コリントの信徒への手紙一3・1~9

兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」

今日の個所にパウロが書いていることはずいぶん厳しいことだ、と言わざるをえません。「わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができなかった」(1節a)と書いています。「できなかった」とありますのは、しようとしたが不可能だったという意味になるでしょう。「肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」(1節b)。「キリストとの関係では乳飲み子」とは、言い方を換えれば「まるで赤ちゃんのようなキリスト者」ということです。

このこと自体は批判的な意味であるとは限りません。わたしたちがキリスト教信仰を学び、体得し、自分のものにするために時間がかかります。そのこと自体は責められるべきことではないからです。もしそのこと自体が責められねばならないことであるならば、教会に通い始めたばかり、聖書を学び始めたばかりの人たちは、年がら年中、先輩たちから責められ続けなければならないことになりますが、そのような教会に通いたいと思う人はいないでしょう。

パウロ自身も、責めるつもりで、こういうことを書いているとは限りません。「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです」(2節a)とあります。これは明らかに、パウロがかつてコリントの町で初めて伝道したときの様子を描いています。早い話、まだキリスト教信仰について初心者であったあなたがたに初心者向けの話をしたと言っているだけです。赤ちゃんには赤ちゃん向けの食べ物をたべさせたと言っているだけです。それはいわば当然のことです。逆に、もしそうしなかったとしたら、初心者に対して難しい話をするだけだったとしたら、パウロは伝道者として失格です。難しいことを難しく語るのは簡単なことです。難しいことを噛み砕いて易しく語ることが難しいのです。

しかし、ここから先にパウロが書いていることの中には批判的な内容が含まれていると言わざるをえません。「いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです」(2節b~3節)。なぜこれが批判的な内容なのか。あなたがたはちっとも成長していないではないかと言っているのと同じだからです。あなたがたは相変わらず赤ちゃんのままである。年齢や体格の話ではありません。あなたがたの信仰が成長していない。キリスト教信仰を体得するために時間がかかるということなら分かる。しかし、時間はずいぶん経っているではないか。それなのに、なぜあなたがたの信仰は成長していないのか。ここから先は責めているのです。

しかし、たしかにパウロはコリントの教会の人たちを責めてはいますけれども、嫌っているわけでも憎んでいるわけでもありません。むしろ心から愛しています。彼らを心から愛しているからこそ、彼らの信仰がちっとも成長しないことが歯がゆいのです。今まで、あなたがたは何年教会に通ったのですか。あなたがたは教会で何を聞いてきたのですか。何を学んできたのですか。

「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(3節)とパウロは書いています。「肉の人」とは、パウロ自身の言葉で言い換えれば「自然の人」(2・14)です。つまり、それは「世の知恵」(1・20)や「自分の知恵」(1・21)や「人の知恵」(2・13)、あるいは「人の内にある霊」(2・11)で神を知ろうとする人のことです。しかし、そうすることはできないとパウロは考えています。神を知るために必要なのは「神の知恵」(1・21)であり、「宣教という愚かな手段」(1・21)であり、「神からの霊」(2・12)であり、「神の霊」(2・14)です。つまりそれは聖霊のことです。ここで先週私が申し上げたことを思い起こしていただけば、わたしたち人間、しかも信仰をもって生きている信仰者としての人間存在の中には「神の霊」と「人の霊」とが共存しているとパウロは考えています。しかし、共存してはいても、一方の力が他方の力よりも勝っているという状態があると言えます。いわば両者が天秤にかけられた状態です。これでお分かりいただけることは、パウロの言う「肉の人」とは、その人の中に共存している「神の霊」と「人の霊」のうちの後者としての「人の霊」のほうが「神の霊」よりも勝っている状態の人を指しているということです。

それはどういうことでしょうか。理屈っぽく説明すればいま申し上げたようなことになりますが、わたしたち自身の体験に基づいていえば、さほど難しいことではありません。わたしたちは、今日もそうであるように、とにかく毎週日曜日に教会に集まって聖書を学び、キリスト教を学んでいます。しかしこのあと、わたしたちは自分の家に帰っていきます。そして、日曜日の午後から土曜日までは、それぞれの家や職場や地域社会の中で生活します。もちろんわたしたちは教会にいないときも聖書や信仰を学ぶかもしれません。しかし、ある意味でそれ以上に「世の知恵」や「自分の知恵」や「人の知恵」を学んだり、身につけたりします。そのこと自体もわたしたちにとっては当然のことであり、誰かから責められなければならないことではありません。しかし問題は、そのようにしてわたしたちの心の中に、ある意味で共存してはいますが、別の言い方をすればごちゃ混ぜになっている、二つの知恵の関係はどうなっているのかということです。

たとえば、わたしたちの多くは毎日、新聞を読み、テレビを見るでしょう。とくに先週あたりは、夜遅くまでテレビを見ていたという人は少なくないでしょう。とくにテレビの場合は、何度も何度も同じ場面を映し、何度も何度も同じことを語ります。いつの間にかわたしたちは、テレビに映される場面やテレビの人が言っていることが真実そのもの、事実そのもののように教え込まれていくものがあります。しかし、これはあえて言わなくてもいいことかもしれませんが、テレビの人がわたしたちに聖書の教えとは何か、キリスト教信仰とは何かを教えてくれるわけではありません。しかし、そのようなことをわたしたちはほとんど気にすることもなく、特にそういうことを期待もせず、テレビを見続け、新聞を読み続けるでしょう。

それで、わたしたちは日曜日を迎え、このように教会に集まってきます。そして、はっと思い出すように聖書を開き、その中に書いてあることを読む。しかし、いま聖書を読んでいるわたしたちの心の中には、先週見たテレビの場面や人の声、新聞記事や読んだ本の内容がはっきりと残っています。おそらくこのような状態を、パウロならば「神の霊」と「人の霊」がわたしたちの中に共存している状態だと呼ぶでしょう。しかしそれは、ごちゃ混ぜの状態でもあるのです。

ですから問題は、わたしたち自身の、このごちゃ混ぜ状態の心の中で、「神の霊」が勝っているか、それとも「人の霊」が勝っているか、どちらなのだ、ということになるのです。ここで皆さんにぜひ安心していただきたいことは、ごちゃ混ぜ状態であること自体は問題ではないということです。もし今、皆さんが私の話を聞いてくださりながら別のことを考えておられるとしても、それは当然のことであり、仕方がないことです。わたしたちは絶えず、気が散った状態なのです。

昨日もこの説教を準備している最中に地震が起こりました。ぐらぐらっと揺れるたびに、気が散ります。あるいはまた、聖書をじっくり読まなければと机の前に座っている間に、何通メールが届き、何度携帯電話が鳴ったことでしょう。数えきれないほどでした。こういうときは開き直るしかないのです。わたしたちの心の中は、聖書のみことばと信仰の教えだけで埋め尽くされているわけではありません。ありとあらゆることが、ごちゃ混ぜになっています。そのことをわたしたちは、自分自身で受け入れ、認めるしかないのです。

しかし、そのことを受け入れ、認めたうえで、なおかつわたしたちが目指さなければならないことがあるとしたら、パウロから「キリストとの関係では乳飲み子」と言われなければならない状態から一歩でも二歩でも前進することです。キリスト者として成熟することです。「神の霊」と「神の知恵」が、わたしたちの心の中で、百パーセントにはならなくても大きな位置を占めるようになることです。

コリントの教会は「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」と言っては、内部で分裂していました。パウロはコリント教会の初代牧師、アポロは二代目の牧師でした。松戸小金原教会の澤谷牧師と私との関係だと言えば、もっとはっきり分かるでしょう。幸いなことに、「わたしは澤谷先生に」「わたしは関口に」という話を私は一度も聞いたことがありません。どちらもつくべき人間ではないからですが、それは、この教会が信仰的に成熟している証拠でもあるのです。そのようなことを言う教会は、パウロから「あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」(4節)と責められなければなりません。そのような人が一人もおられないことを、私は主に感謝しています。

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(6~7節)とパウロは書いています。これはもう、ほとんど説明の必要がないほど分かりやすい言葉でしょう。それでもあえて付け加えるとしたら、教師たちにも得意分野と不得意分野があるということです。植えるのが得意な人と、水を注ぐのが得意な人がいます。これは特に宣教師たちからよく聞く話です。宣教師の中には、人集めは得意だが、教会の組織や制度を整えていくのは苦手だと言う人がいます。そちらは日本人の牧師に任せます、と。それぞれの得意分野を生かして役割分担するしかないでしょう。そうすることこそが、「神のために力を合わせて働くこと」(9節)です。

しかし、教会では、誰が集めたとか、誰が育てたとか、誰が組織や制度を整えたかは問題ではないのです。だれの手柄だとか、そういう話はうんざりなのです。すべては神御自身のみわざなのです。そのことがはっきり分かるようになるために、信仰の成熟が必要なのです。

(2011年3月20日、松戸小金原教会主日礼拝)

2011年3月13日日曜日

神の恵みを知る


コリントの信徒への手紙一2・10~16

「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかにしてくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」

わたしたちはいま、大きな悲しみと不安を抱いています。大きな地震で多くの犠牲者が出ました。事態はまだ流動的です。今日は予定していた小会・執事会をとりやめることにしました。それぞれの家庭に帰り、ご家族と共に今の事態を見守り、互いに励まし合っていただきたく願っています。

こういう日、こういうときに、私は何を語ればよいのでしょうか。今日開いていただいている個所にパウロが書いていることは、こうです。「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかにしてくださいました」(10節)。ここで「そのこと」とは、「隠されていた、神秘としての神の知恵」であり、「神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもの」(7節)のことです。それは何なのかといえば、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」(2節)のことです。つまりそれは、救い主イエス・キリストがわたしたち罪人の身代わりに十字架につけられて死んでくださることによって、わたしたちの罪が赦され、救われたこと、つまり、世界の始まる前から神御自身がわたしたちを罪の中から救い出すために計画してくださっていた、救いのみわざのことです。そのようなことを、神はわたしたちに「“霊”によって」、つまり、聖霊をわたしたちの心の中に豊かに注いでくださることによって明らかにしてくださったのだと、パウロは書いています。

ここでパウロが教えていることは、やや否定的な言い方をお許しいただけば、神の御心というものは、神御自身がわたしたちの心を開いてくださるまではわたしたちには隠されているということです。もっとはっきり言えば、そもそも神の御心というものはわたしたちには分からないものだということです。神が何を考えておられるかは人間には分からないものだということです。もっと分かればよいのに、と思わなくはありません。神はなぜわたしたちにさまざまな試練を与えられるのでしょうか。わたしたちはなぜ、これほどまでに辛い思いを味わわなければならないのでしょうか。神がおられるはずなのに。そうであるということをわたしたちは信じているのに。それなのにどうしてと問わない日は無いと思うほど、わたしたちの現実は厳しく険しいものです。

わたしたちにとって、神の御心というものがもっと分かりやすいものであり、だれでも受け入れることができるようなものであるならもっとよいはずなのに、現実はそうではない。そのことをパウロも知っています。パウロは単なる楽観主義者ではありません。この世の現実の厳しさや険しさを熟知している人でもあります。しかしパウロは単なる悲観主義者でもありません。なぜそのことが分かるのか。先ほどは否定的な言い方をしましたが、同じことを肯定的に言いなおせばお分かりいただけることです。そもそも神の御心というものはわたしたちには分からないものだ。神の御心とは、わたしたちに隠されている神の神秘である。それはそのとおりです。神の御子イエス・キリストが十字架の上で死んでくださることがわたしたちの救いであるとか言われても、そういうことは誰にでもすぐに納得できる話であるわけではない。百歩譲ってそのようなこと(イエス・キリストの十字架がわたしたちの救いであること)が事実であるとしても、そのようなことがわたしたちの直面している現実とどういう関係にあるのだろうか。そのように問うたことがない人など一人もいないのだと思います。

しかし、パウロが言おうとしていることは、否定的なことではなく、肯定的なことです。そのようなさっぱり分からないことを、神という方はわたしたちの心の中に聖霊を豊かに注いでくださることによって、なんとかして分からせてくださろうとする方でもあるということです。「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」(10~12節)と書かれているとおりです。

しかしそれでは、わたしたちの心の中に聖霊が豊かに注がれるとはもっと具体的に言えばどういうことでしょうか。今お読みした個所に書かれている言葉でいいなおせば、聖霊とは「神の霊」であり、「神からの霊」です。そのような霊を、わたしたちは「人の内にある霊」、あるいは「世の霊」とは別のものとして神から与えられているのだとパウロは書いています。それは、神を信じる者たちの心の中には「神の霊」ないし「神からの霊」と「人の霊」ないし「世の霊」とが共存しているということです。わたしたちの心の中には、神が豊かに注いでくださった「神の霊」としての聖霊があるのです。しかし、それと同時に、神を信じる前から持っていたさまざまな考えや感情や判断としての「人の霊」ないし「世の霊」もあるのです。

それでどうなるのかというと、要するにわたしたちは悩むということです。わたしたちの心の中で「神の霊」と「人の霊」がけんかするのです。両者はたえず葛藤するのです。どれほど厳しく険しい現実を前にしても、わたしたちはその現実を単純な見方や単純な言葉でとらえることでは納得も満足もできない。悩みながら。苦しみながら。しかしそれでもわたしたちは、その現実へときちんと向き合い、とことんまで悩みぬき、苦しみぬくのです。

厳しく険しい出来事が起こったとき、それについて悩むことも葛藤することもなく、単純な見方や単純な言葉でとらえるとは、どういうことか。それはたとえば、乱暴で一方的で一面的な結論を出すことです。「神がおられるのに、なぜこのようなことが起こったのか」と問うことは無い。単純な結論の出し方の一つは「神はいない。この世界に神の救いなどありえない。だからこのような悲惨なことが起こった」というものです。このような貫き方で満足できる人がいるのかどうかは分かりません。しかし、実際には多くの人が神に救いを求めています。それがどのような神なのかは、多くの人々にとっては問題ではないのかもしれません。しかし、それでも、多くの人は祈るはずです。思わず手をあわせ、思わず目をつぶり、「助けてください、お願いします」と祈るのです。神も救いも、そのようなものはどこにも見当たらないではないかと思わず叫びたくなるような悲惨な現実を前にしても、そのときなお人は祈るのです。「神はいない」という単純で乱暴な結論では、人は満足できないのです。

しかしまた、ここで私は考え込んでしまいます。「神はいない」という結論で満足できる人はいないと、いま言ったばかりです。しかしその一方でわたしたちがよく知っているもう一つの事実があるということについても申し上げざるをえません。それは、悲惨な出来事を前にして祈る多くの人たちが、だからといって、その祈りをどなたにささげているのか、どのような方に向かって祈っているのかということまで知りたいということまでは、必ずしも願っているわけではないということです。「助けてください、お願いします」と多くの人は祈ります。その意味で祈りとは普遍的なものです。しかし、その多くの人が、必ずしも「神」の存在そのものに関心があるわけではないのです。今の苦しみから逃れたい、絶望の淵から遠ざかりたいと願う気持ちは真実です。しかし、だれがこのわたしを助けてくださるのか、その「だれ」が神なのか人なのか、あるいは神である場合はどういう神なのかということについてまでは、それほど深く知りたいと願っているわけではないのです。

今申し上げていることを、私はだれかを責めたり批判したりするつもりで言っているのではありません。私自身の心の中にもパウロが書いている意味での「人の内にある霊」ないし「世の霊」があるからです。そういう思いは私にもある。ですから深く共感することができます。よいたとえではないことを知りつつ申せば、お腹がすいている人に必要なものは食事なのだと思います。あるいは、お金に困っている人に必要なものはお金。いまお腹がすいている人を前にして、ごはんをたべていただくことを後回しにして、ただ聖書の教えだけをこんこんと説教することで良い結果を生みだすことは、ほとんどないでしょう。「助けてください、お願いします」と祈っている人を前にして、その人を具体的に助けることをほとんどしないでおいて、「助けてくださるのは神なのだから、まずはその神を勉強してください。まずは聖書とキリスト教を勉強してください。そうすれば、その中で教えられている神があなたを助けてくださるでしょう」と言い出す牧師がいたら、その牧師はおそらく失格者です。助けを求めているその人は「もう結構です。別のところで助けてもらいます」と、必ず言うでしょう。どう考えてもそういうのは順序が逆なのです。

しかし、今日の話も、ここで終わってはならないと思っています。今すぐに具体的な助けを必要としている人を前にして、その人の必要をただちに満たすことが重要であるということに深く共感することが間違いであるとは思いません。しかし、そこでなお、もう一歩先に進んでほしいと願うこと、あなたが思わず手を合わせ、目をつぶって祈りはじめるその方は「神」という方であり、「神」というその方は憐み深い方であり、かつ愛する御子イエス・キリストをわたしたちの救いのために十字架につけてくださったほどにわたしたちとこの世界を心から愛してくださっている方であるということを知っていただきたいと願うことを、躊躇したり遠慮したりすることも、わたしたちには不可能な話であるということを、申し上げなければなりません。

それが信仰なのだと思います。わたしたちはイエスさまが十字架のうえで叫ばれた言葉を知っています。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか」。神の御子が、父なる神の前で、ほとんど絶望に近い言葉を叫ぶ。しかしこれは不信仰ではありません。イエスさまは不信仰の極みに立たれたわけではありません。むしろこれこそ最大の信頼の表現です。イエス・キリストは御自身の体と心に、世界のすべての人々が究極的に悩み問いを引き受けてくださいました。神を信じる者だからこそ問う問いを自ら問うてくださったのです(神を信じない人は「なぜ神は?」とは問いません)。イエスさまがこのように問うてくださったからこそ、わたしたちにはなお生きていく希望があります。このイエスさまがわたしたちと共にいてくださるからです。

(2011年3月13日、松戸小金原教会主日礼拝)

2008年5月11日日曜日

地上の教会の存在理由


コリントの信徒への手紙一6・19~20

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

今日はペンテコステ礼拝です。今から約二千年前、この地上にキリスト教会が誕生したことを記念する日です。今日確認しておきたいことは、この地上に教会が存在する理由は何かということです。教会とは端的に言って何でしょうか。わたしたちが毎週教会に通う理由は何でしょうか。

今日開いていただきました聖書の個所に書かれていますことは、ある一つの文脈の中で語られたものです。その文脈は、問題としてはかなり深刻なことです。事柄の核心は教会に属する人々の中で起こった人間関係上の道徳的な問題です。夫婦や家族の正しい関係を破壊する不貞や不倫の関係が、教会に属する人々の中で起こった。そのことが、教会全体に混乱や不信感をもたらしている。そのことを使徒パウロが、ある面では腹を立てながら、別の面では何とかしてその問題を解決し、教会全体の良好な関係を回復しようと願いつつ、問題の核心部分に踏み込んで厳しい意見を述べているところです。

15節あたりから読んでみますと、そのことがはっきり分かるように書いています。

「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体になる、ということを知らないのですか。『二人は一体となる』と言われています。」

これは二千年前に実在した一つの教会の中で、実際に起こった出来事について書かれていることです。キリスト者の中に娼婦と呼ばれる人々と関係を結んでいる人がいる。それは本当に恥ずかしいことであり、神の前で犯された罪です。その罪がどれくらい重いものであるのかを説明するためにパウロが語っていることは、あなたがたの体は「キリストの体の一部」である、ということです。その体を「娼婦の体の一部」にしてもよいのか、と問うています。あなたがたが娼婦の体の一部になるということは、キリストの体を娼婦の体に結びつけることを意味しているではないか、ということです。

パウロが語っていることは、もちろん、言うまでもなく、あなたがたはそういうことをしてはならない、ということです。それは、あなたがた自身の体を汚すことであり、またキリストの体を汚すことである、ということです。

「しかし、主に結び付く者は主と一つの霊になるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」。

「あなたがたがキリストの体の一部である」と言われていることは、ただ単に体の一体性ということだけではなく、霊の一体性という点を必ず含みます。また「一部」という点を強調しすぎないほうがよいでしょう。「あなたがたはキリストの体である」と言い切っても構いません。あなたがたは、体も霊もキリストと一つになっている。そのような者なのだから、あなたがたはみだらな行いを避けねばならない、とパウロは語っています。

なぜ今、私はこのような聖書の個所を引き合いに出しているのでしょうか。今日お話ししていますことは、地上の教会が存在する理由は何かということです。

地上の教会は、救い主イエス・キリストを信じる信仰をもって生きている人々の集まりです。しかし、今日の個所でパウロが明らかにしていることは、救い主イエス・キリストを信じる信仰をもって生きるとは、ただ単に、聖書というこの書物を勉強してわたしたちの教養の一部とするとか、キリスト教という歴史的宗教についての知識をもって生きるというようなこととは明らかに次元が異なる事柄であるということです。

私は今申し上げたようなことは無意味だとか無価値だと考えているわけではありません。聖書を勉強することも、キリスト教について知識を得ることも重要なことです。しかし、わたしたちが教会に通う理由、あるいはこの教会のメンバーになる理由、そしてそもそもこの地上に教会が存在する理由は、それだけなのかというと、決してそれだけではないと言わざるをえないのです。

勉強すること、知識を得ることも重要です。しかし、わたしたちの場合は、それだけで終わるわけではなく、強いて言えば、少なくとももう一歩先に進んでいかなければなりません。教会で学んだこと、教会で得た知識を、そのとおり実践するということを、少なくとも始めなければなりません。しかしまた、それだけでもありません。キリスト教の理論を実践するというだけでは、まだ主導権は自分の側に握られています。わたしが勉強したことを、わたしが実践に移す、というだけです。その場合の関心は、どこまで行っても、わたしの生き方という点に限定されています。厳しく言えば、自己中心的です。

しかし今日の個所でパウロが語っていることは、そのようなこととは明らかに違います。あなたがたの体は、キリストの体の一部である。主に結びつく者は、主と一つの霊になる。これはどういうことかというと、誤解を恐れずに言えば、わたしたちは今や、いわば地上を歩くキリスト自身になっているということです。今はわたしたち自身が、地上の教会が、いわばキリストであるということです。

もちろんこのように言うだけでは、非常に大きな誤解を生むでしょう。もう少し事柄を正確にお伝えする必要があるでしょう。わたしたち自身が三位一体の神に属する神の御子キリストであるわけではありません。あるいは、わたしたち自身が十字架の上で全人類の贖いのみわざを行なったわけではありません。その意味では、わたしたち自身はキリストではありません。正確に言えば、わたしたちはキリストの代理者にすぎません。

しかし、たしかに言えることは、わたしたちは今や、地上におけるキリストの代理者であるということです。法律的な書類を書くときに弁護士にお世話になったことがある方にはピンと来る話だと思いますが、本人の代理者である弁護士は、まさに全権を委任されています。代理者の押す印鑑は、本人の押す印鑑と同じ意味や重さを持っています。

わたしたちの存在、地上の教会の存在が、今やいわば地上を歩くキリストであると私が申し上げていることも、ある意味で、そのようなことです。

すぐに理解していただけそうな例から言いますと、たとえば、田舎の教会で牧師などをしていますと、その町の中にもその市の中にも教会が一つしかない、というところが実際にあります。改革派教会ということになりますと、一つの県の中に一つしかないところはたくさんあります。そういうところにおりますと、その教会が、その教会員が、その牧師が、その町の中ではキリストです。その町の人々は、その教会、その教会員、その牧師を見て、「ああ、キリストはこういうものか」と見るのです。あんなのがキリストなら、私はとてもついていけないと見る人もいます。もちろん反対もあります。あのようなキリストなら、わたしは信じる。ついていける。すべてをささげて一生お従いできる。

なぜわたしたちは、みだらな行いをしてはならないのでしょうか。わたしたちの体は、もはや自分自身のものではなく、キリストの体の一部になっているからです。「の一部」という点をことさらに強調する必要はありません。わたしたちは「キリストの体」です。「体」を強調する必要さえありません。「わたしたち自身がキリスト」なのです。わたしたち自身が地上を歩くキリストそのものになっているのです。「どうかわたしたちのことは見ないでください。キリストだけを見てください」という言い訳は通用しないのです。わたしたち自身の立ち居振る舞いのすべてが、キリストの存在を地上に映し出しているのです。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。

ここに、今日お話ししたい最も重要な事柄が語られています。わたしたちの存在、地上の教会の存在が、いわば地上を歩くキリストであると語ることのできる根拠がここに語られています。注目していただきたいのは「あなたがたの体」、すなわち、わたしたちの体は「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」であるという点です。

教会は、救い主イエス・キリストを信じる信仰をもって生きている人々の集まりであると申しました。その教会に集まるわたしたちの体には、聖霊が宿っています。聖霊とは、神御自身です。聖霊がわたしたちの体に宿っているとは、神御自身がわたしたちの体の中に住んでおられるということです。神が住んでおられる場所が神殿です。神殿は遠い外国に立っている歴史的な建物ではありません。今わたしたちが礼拝を行っているこの建物でもありません。わたしたち自身のこの肉体、この存在そのものが聖霊なる神が宿っておられる神殿であると、パウロは語っているのです。

そのような清く貴くあるべきもの(聖霊の神殿としての人間の体)を、わたしたち自身の行いで汚してよいはずがないのです。もちろん実際には、わたしたちは何度も繰り返し罪を犯します。信仰をもって生きている人々も罪を犯します。パウロが今日の聖書の個所で強く批判している相手も、教会に属し、信仰をもって生きている人々です。キリスト者は罪を犯すことはないし、うそをつくことはないし、失敗も落ち度も無い、完璧な人間であるということは、事実ではないし、そのように語ること自体がうそになります。

しかし、だから駄目だと諦めるべきではありません。また、わたしたちは、地上の教会がキリストの代理者であるということを、あまり重苦しく考えすぎる必要もありません。パウロがわたしたちの体を「神殿」にたとえてくれていることは、わたしたちにとっての慰めでもあります。

神殿とは、なんと言ってもやはり、第一義的には、建物のことです。わたしたちが毎日住んでいる自分の家も建物です。建物は、放っておくと、すぐにほこりがたまり、ごみが出てきます。放っておくと、です。きれいにするためには掃除をすればよいのです。

忙しいときには、掃除するひまなどないかもしれません。そういうときは「四角い部屋を丸く掃く」というやり方も許されるかもしれません。しかし、全く放っておくことだけは避ける。そうすることを心がけるだけで、状況は少しずつでも改善していくでしょう。

今お話ししていることは、建物の掃除の話だけではありません。わたしたちの心と体の問題です。わたしたちが犯す罪の問題です。罪のない人間は一人もいない、というのが、聖書の教えです。わたしたちは、ちり一つ無い真空の中に生きているわけではありません。罪も悪も絶えず横行している複雑な社会の中に生きていますので、その影響を全く受けずに生きていくことは難しい面もあります。

しかし、だからこそ掃除をするのです。わたしたちの教会は「改革派教会」と言います。繰り返し聞かれることは「何を改革するのですか」ということです。その答えははっきりしています。わたしたち自身を改革するのです。教会を改革するのです。わたしたち自身、そして教会自身もまた、放っておくと汚れてくるのです。ほこりもごみも溜まってきます。だからこそわたしたちは「常に改革し続ける教会」でなければならないのです。16世紀の宗教改革の目的は、新しい教会を作ることではなく、「教会の大掃除」をすることであったと評する人がいます。そのとおりだと思います。

救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、わたしたちが罪の中から救い出され、喜びと感謝をもって生きるようになること。

そのために自分の罪を告白し、赦しの恵みに与ること。

そのようにして自分の心と体の中身の掃除を定期的に行うこと。

それこそが地上の教会の存在理由であり、わたしたちが毎週教会に通う理由なのです。

(2008年5月11日、松戸小金原教会主日礼拝)

2007年12月24日月曜日

苦しみを乗り越える力、それは愛


コリントの信徒への手紙一13・13

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
 
クリスマスイブの礼拝において「愛」について共に考えることは、わたしたちにとってふさわしいことであると思います。

神は、独り子イエス・キリストを世にお遣わしになりました。「ここに愛があります!」(ヨハネの手紙一4・9、10)。

御子イエス・キリストのご降誕は、神の愛の証しです。イエス・キリストのご存在は、神の愛そのものなのです。

今読みましたコリントの信徒への手紙一13・13は、使徒パウロが書いた言葉です。信仰と希望と愛はいつまでも残るとパウロは言いました。いつまでも残るとは、永続的であるということです。

またパウロは、この三つの中で最も大いなるものは愛であると言いました。大いなるとは偉大である、ということです。そしてそれは、いつまでも残るという点にかかるのだと思います。最も大いなるものとは、この文脈では、最も長く残り続けるもののことです。最も長く残り続けるもの、最後の最後に残っているものは、愛である、とパウロは書いているのです。

イメージできるとしたら、マラソンレースです。信仰と希望と愛がレースをしているのです。いろんなものと一緒に走ってきました。しかし、最後まであきらめずに走り続けてきたのが、信仰と希望と愛です。トップスリーというよりも、他のものはみんな脱落していった、あるいは失われてしまった、という感じです。

しかし、ともかく三つは残った。信仰と希望と愛。三者とも表彰台の上に立っています。金メダルと銀メダルと銅メダル。真ん中で金メダルをかけてもらって笑っている、ガッツポーズをとっているチャンピオンが愛である。そういう話であると考えることができます。

しかし、どうでしょうか。ここで、ちょっと立ち止まって考えてみたいと思います。

はたして、このパウロの言葉は、わたしたちにとって本当に納得行くものでしょうか。わたしたちの現実に照らし合わせてみて、どうでしょうか。信仰と希望と愛は、いつまでも残っているでしょうか。心もとないものは、ないでしょうか。

信仰はどうでしょうか。「信仰なんか、とっくの昔に忘れてしまいました」。そういう話を、わたしたちは、何度となく聞くではありませんか。

希望はどうでしょうか。「夢も希望もありません」という言葉をしょっちゅう聞きます。年齢は関係ないかもしれません。中学生、いや小学生でも、人生に絶望してしまう子供たちがいるではありませんか。

愛はどうでしょうか。これも微妙です。もしかしたら、「愛されたい」という思いだけは、最後まで残っているかもしれません。しかしそれは「愛している」という思いでしょうか。わたしたちは、ほんとうに最後の最後まで神と人を愛しているでしょうか。ここに大きな問いがあります。

しかし、今日私は、皆さんにはぜひ、良い意味で安心していただきたいと願っています。今夜はぜひ、安心してお休みいただきたいところです。でも、どうしたら安心できるのでしょうか。

一つの本を見つけました。今から50年も前に書かれたものです。その中に書かれていることが、わたしに深い慰めを与えてくれました。次のように書かれていました。

「使徒パウロがコリントの信徒への手紙一13章に“愛”という文字を記しているところは、“イエス・キリスト”という名前に置き換えることができます。イエス・キリストこそが、この世界に実現した歴史的現実としての愛そのものなのです。」(A. A. ファン・ルーラー『最も大いなるものは愛である』、原著De meeste van deze is de liefde、168~169ページ。)

「愛」をイエス・キリストという名前に置き換えることができるとは、どういうことであるかということは、実際にやってみればすぐにお分かりいただけることです。

「イエス・キリストは忍耐強い。イエス・キリストは情け深い。ねたまない。イエス・キリストは自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。

このように読むことが許されるのなら、本当に素晴らしいことです。イエス・キリストはまさにこのとおりのお方だからです。忍耐強く情け深いのは、イエス・キリスト御自身です。イエス・キリストがそのような愛を示されたのです。そして、イエス・キリストのご存在そのものが愛そのものなのです。

わたしたちが注意しなければならないことは、聖書における愛の教えを、ただ単に道徳的な意味だけで理解してはならないということです。

「わたしたちはいかに愛すべきか」という問いは、道徳的な問いです。たとえば、昨日の説教で取り上げましたヨハネの手紙一4章のテーマは、わたしたちはイエス・キリストに示された神の愛を一つの模範にしながら、人間同士どのようにして互いに愛し合うべきであるかという問いかけがなされていたわけですから、これのほうは道徳的な問いです。このこと自体は重要なことです。軽んじられてはなりません。

しかし、わたしたちは、キリスト教的な愛の意味を人間の行為という面だけに限定してしまうことはできません。キリスト教信仰は、宗教です。宗教は道徳を超えるものです。わたしたちにとって重要なことは、人間がいかに愛し合うべきかという道徳の問いだけではありません。神がわたしたちをどのように愛してくださっているかという、宗教の問題こそが重要なのです。

信仰も希望も、そして愛までも、すっかりどこかに行ってしまった。まさに不信と絶望の中にいる。そのような心や生活の状態に、わたしたちは、じつは、しょっちゅう陥っているのではないでしょうか。

わたしたちが苦しい状況にあるとき、つらいことがあるとき、わたしたちは、神に祈ることができません。苦しい時には祈ればよいと簡単に言うことはできません。苦しい時には祈るべき言葉すら見つからない。それがわたしたちの現実の姿です。

しかし、そのときに、です。

「“愛”という文字は“イエス・キリスト”というお名前と置き換えることができます。」

いつまでも残る、最も大いなる愛は、イエス・キリストです!

このイエス・キリストにおいて、神が、あなたを愛しておられます!

そして、その愛は「いつまでも残る」ものです。

あなたが信仰も希望も愛も見失っているときにも、神はあなたを愛しておられます!

あなたは、そのように信じてよいのです。

そのように信じるとき、あなたの心の中に、深い平安と慰めが訪れるでしょう。

クリスマスおめでとうございます!

(2007年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイブ礼拝)
 

2006年12月31日日曜日

信仰と希望と愛は永遠に輝く


コリントの信徒への手紙一13・1~13

今年最後の礼拝を行っています。開いていただきましたのはコリントの信徒への手紙一13章です。「愛の賛歌」と呼ばれる個所です。全体をお読みしましたが、お話しするのは13節です。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

コリントの信徒への手紙一も使徒パウロが書いたものです。パウロは、この手紙だけでなく、他のいくつかの手紙の中でも「信仰」と「希望」と「愛」という三つの事柄を強く結びつけて語っています。

「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました」(コロサイの信徒への手紙1・5)。

「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望をもって忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(テサロニケの信徒への手紙一1・3)。

これらの個所から明らかなのは、次のことです。

第一は、「信仰」と「希望」はイエス・キリストの御名と結びつけられているということです。つまり、パウロが信仰と希望と愛という三つを結びつけて語っている場合の、信仰と希望の意味は、「キリスト・イエスにおいて持っている信仰」であり、「わたしたちの主イエス・キリストに対する希望」である、ということです。

しかし、です。第二に明らかなことは、「愛」は必ずしもそうではない、ということです。先ほどの二つの引用には「キリスト・イエスにおいて持っている愛」とも、「わたしたちの主イエス・キリストに対する愛」とも書かれていません。

書かれているのは「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」です。神に対する愛でもキリストに対する愛でもなく、人間に対する愛です。そして「すべての聖なる者たち」とは教会です。キリスト者です。人間に対する愛、教会に対する愛、キリスト者に対する愛です。

もちろん、聖書全体の中には、またパウロの手紙の中にも、神に対する愛、キリストに対する愛を教えている個所が、たくさんあります。ですから、わたしは、「パウロは神への愛やキリストへの愛を知らなかった」とか「教えなかった」と言いたいわけでありません。

しかし、です。私が申し上げたいことは、パウロが「信仰」と「希望」と「愛」の三つをワンセットで扱っている個所に限って言えば、「信仰」と「愛」の役割が区別されているというような印象を受けるということです。このことを否定することができません。

「信仰」に関しては、キリストに対する信仰と言われている。「愛」に関しては、「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」と言われている。人間に対する愛、教会に対する愛、キリスト者に対する愛が教えられているのです。

そして、第三に明らかなことは、パウロが書いているとおりのことですが、考えてみるといくらか衝撃を感じるかもしれないことです。それは何か。注目していただきたいのは、コリント一13・2です。

「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」。

ここにはっきりと、「信仰(ピスティス)と、希望(エルピス)と、愛(アガペー)」とまとめて言うときと同じ「信仰」(ピスティス)という字が出てきます。しかし、パウロは「愛」(アガペー)がなければ「信仰」(ピスティス)は「無に等しい」と書いています。

愛がないような信仰には価値がないし、それが存在する意味もない、むなしいだけだ、ということです。あるいは、そもそもそれが「ホンモノの信仰」なのかどうかが疑わしいということです。「ニセモノの信仰ではないか」と疑ってみる必要があるということです。

そして、ここで、先ほど第二に申し上げた点を思い起こしていただきたいと思います。信仰と希望と愛の三つがワンセットで語られている場合に限って言えば、信仰と愛の役割が分けられているように見えるという点です。おそらくこの役割分担が「愛がなければ、信仰はむなしい」という話に結びつくのです。

はっきり言っておきます。「わたしは神さまを愛しています。信仰もあります。しかし人間を愛することはできません。神さまは好きですが、人間は大嫌いです」と語ることは許されていないということです。人間嫌いの告白は許されていないのです。事柄は逆の方向でなければなりません。人間に対する愛がないような信仰には、意味がないのです。

ただし、です。誤解がないように付け加えておきます。それは、わたしは今「信仰などなくても愛さえあればすべてよし」というようなことを申し上げているわけでもないということです。そのように語ることは、わたしたちには無理です。信仰が無くてもよいなら、教会も牧師も要りません。それはわたしたちにとっては、論外の事柄です。

信仰が必要です。これがわたしたちの大前提です。信仰も「いつまでも残る」と、パウロははっきり述べています。

しかし、です。パウロがここで述べていることは、どのように読んでも神さまに対する信仰への強調ではないということも、衝撃を受けることではありますが、事実です。

「キリストに対する信仰」と「すべての聖なる者たちに対する愛」を天秤にかけることは、わたしたちにはできないことです。恐れ多いことのように感じます。しかし、パウロはそれをしているように見えます。天秤にかけた上で「信仰」よりも「愛」のほうが重いと語っています。天秤はつりあっていません。「愛」のほうに傾いています!「信仰と、希望と、愛・・・その中で、最も大いなるものは、愛」なのですから!

このことを、わたしたちはどのように考えたらよいのでしょうか。「希望」はコロサイ1・5を読むかぎり「信仰」と「愛」を支える土台のようなものと考えてよいでしょう。問題は(キリストに対する)「信仰」と(人間、教会、キリスト者に対する)「愛」の関係です。

どちらか一方だけが必要で、もう一方は不必要であるという話には決してなりません。「あれか・これか」ではなく、「あれも・これも」です。両方が必要であり、両方が大切です。両方が「いつまでも残る」ものであり、その意味での“永遠性”をもっています。「信仰」と「愛」は、永遠に輝き続けるのです。

信仰と愛は、時間の中で消え去るとか、だれか・何かの力によって滅ぼされるものではありません。いつか・だれかに取り去られてむなしく終わるというふうには決してならない。それが「希望」です。永遠の希望です。

しかし、本当にそうなのかと、わたしたちの心の中には、いつでも疑問が沸き起こってきます。信仰も愛も、あっという間になくなるではないかと。「信じています」、「愛しています」と言っていた人が、今日は全く正反対のことを言っているというのが現実ではないかと。

そのような疑問が、わたしたちの心にはあります。あってもよいと、私は思います。真剣に疑ったらよいと思います。中途半端にではなく、徹底的に疑うほうがよい。人間の信仰の力も、人間の愛の力も、全くでたらめなものであり、一寸先は闇、行く先は袋小路です。

しかし、だからこそ、というべきです。徹底的に疑ってみること、そして実際に信仰の破れを体験し、愛の挫折と深い心の傷を負ってしまった先にこそ、見えてくるものもあるのです。それは、こうです。パウロが書いている「いつまでも残る」永遠の信仰、永遠の愛、永遠の希望は、わたしたち人間の力によるものではないということです。それは人間の可能性ではない。神御自身の可能性であり、神の恵みの可能性であるということです。

破れて傷つくべきであるとは申しません。申しませんが、じつは大切です。非常に大切です。破れて傷つかなければ分からないことが、わたしたちにはあるからです。

破れて傷ついて、その上でパウロが書いている、信仰も愛も「いつまでも残る」という言葉を読む。そこでわたしたちが気づかなければならないことは、そのような信仰も、そのような愛も、そして希望も、人間の可能性ではなく、神の可能性であるということです。人間にできないことを、神がしてくださるのです!

ここまで申し上げました。しかし、その上で、わたしは、もう一つのことを、付け加えなければならないと感じています。それは何か。

「信仰よりも愛のほうが重い」という言葉を聞きますと、わたしたちの耳にはどうしても、神さまよりも人間のほうが大事であると言われているかのように聞こえてしまう、という問題です。しかし、聖書と教会が教えていることは、人間よりも神さまを大事にしなさい、ということのようでもある。二つのことは、何となく矛盾していることかのように感じられるかもしれないのです。

しかし、あまり複雑に考えないでください。二つのことは単純に両立すると信じてください。二つの関係の仕組みはどうなっているかを説明することはものすごく難しいことですが、とにかく両者は両立するということを、単純に受け入れていただきたいと願っています。

神と人間、信仰と愛、教会と社会、日曜日とウィークデー。これらのことがわたしたちにとって「あれか・これか」であるはずがない。「あれも・これも」両方を同時に大切に持つことが重要なのです。

それでも、納得できない方もおられるでしょうから、一つの点だけ解決の道筋を申し上げておきます。それは、私がこれまでも何度となく繰り返し強調してきた点です。

考えていただきたいことは、神さまの目線は、どちらの方向を向いているのか、です。神さまは自己愛がとても強い方である。「鏡よ、鏡よ、鏡さん。世界でいちばん美しいのはだあれ」と言いながら、いつも自分の美しい姿を鏡に映して、うっとりしているような方である、ということなのか。

それとも、神さまは、御自身の姿などには、じつは全く関心がないお方ではないのか。御自身が創造されたこの世界とわたしたち人間の姿ばかりのほうに関心をお持ちになっている方ではないのか。

神さまは、わたしたち人間とこの世界のほうにばかり関心をもっておられ、いつも心配しておられる。わたしたちの身に何か起これば、すぐに飛んできてくださり、助けてくださり、(御子の)命をかけて救ってくださり、愛してくださるお方ではないのか。そのような方こそが神さまではないのか。

このあたりのことを考えていただくと、解決の道が見えるのではないかと思います。

わたしたちは神さまに関心を持ち、神さまを見上げ、神さまを信じなくてはなりません。しかしそのわたしたちの神さま御自身は、わたしたち人間とこの世界とに関心を持ってくださり、わたしたちをいつも見守ってくださり、わたしたちを信頼してくださっているのです。

そうすると、事柄がぐるっと戻ってくるではありませんか。わたしたちは、わたしたちに関心をもってくださっている神さまに関心をもたなければなりません。しかし、このわたしが神さまに関心をもつということが同時に意味していることは、神さまがもっておられる関心事(人間と世界!)に、このわたし自身が関心を持つ、ということでもあるのです!

わたし自身、牧師として多くの反省があります。

仕事で忙しいと感じるとき、家族の顔が見えていないことがある。

子どもの姿が見えていないことがある。

共に生きている人々に対する愛を見失うような信仰、家族を見殺しにするような信仰になってはいないか。

どこかに間違いがあるのではないか。

一年の終わりの日、新しい年を迎える直前に、わたし自身の強い反省を込めてそのように問うておきたいと思います。

(2006年12月31日、松戸小金原教会主日礼拝)

2005年3月27日日曜日

死に打ち勝つ真の力


コリントの信徒への手紙一15・50~58

イースターおめでとうございます。

今日は、わたしたちの救い主、イエス・キリストのご復活をお祝いする日曜日です。

また今日は、「召天者記念礼拝」としてこの礼拝をささげています。生前教会員だった方々、教会でまたは牧師が葬儀を行った方々、そして教会墓地に埋葬された方々の、それぞれご遺族に、今日の礼拝にお誘いするご案内状をお送りしました。

その方々には、これから毎年ご案内状を差し上げることにしました。今日ご出席くださいましたご遺族の方々は、後ほどご紹介させていただきます。

大切な方を失うこと、その方と地上ではもう二度と会うことができないということは、本当に寂しいことです。つらいことです。心にも、体にも、痛みや苦しみを感じます。

しかし、だからこそ、わたしたちは、その痛みや苦しみのなかから、助け出される必要があります。十分にいやされる必要があります。

亡くなった方々のことなどは早く忘れたほうがよい、という意味ではありません。そんな冷たい話ではありません。忘れる必要はありませんし、忘れるべきでもありません。

ただ、恐れるべきことがあります。大切な人の死は、わたしたちを容易に絶望においやってしまうのです。死の恐怖とは、絶望の恐怖です。希望を失うとき、わたしたちは、生きていく気力を失うのです。

今日は最初に、ある一人の方をご紹介いたします。

その方は、約9年前に、当時まだ二十歳に満たないご家族を病気で失い、その数日後、牧師であるご主人をも失いました。

短い間に、その家族のうちの男性二人を失いました。遺されたのは、二人の娘さんたちだけでした。それは本当につらい体験だったと、ご本人から伺いました。何日間も全く何も手につかず、寝込んでしまった、とも言われました。当然のことだと思います。

しかし、ある朝のことです。「あ、洗濯物がたまっている」ということに気づかれたそうです。それで我に帰られました。わたしには、まだしなければならないことがある、ということに気づかれたのです。

今どき、家事は主婦の仕事であると呼ぶのは、完全に時代遅れです。しかし、その方にとって、家事は、一つの救いになりました。

そうです。わたしたちは、どんなに辛いことがあったとしても、また、どんなに大切な人を失ったとしても、毎日の生活を、淡々と生きていかなければなりません。そのことに気づかなければならないのです。

その方は、牧師のおくさんだったときは、もっぱら家庭内におられました。しかし数年前、国際協力機構(JICA)の試験に合格され、現在ブラジルで、スタッフとして働いておられます。わたしのところにも、この方の活躍の様子を伝えるメールが届きます。本当に素晴らしい働きを続けておられます。

この方を立ち直らせた力は何なのかを、お話ししなければなりません。

わたしたち人間が持っている底力のようなものでしょうか。そういうものが全く無いとは申しません。

しかし、おそらく、ご本人は、そうではありません、とお答えになるでしょう。

そこでこそ、わたしはクリスチャンです、とお答えになるでしょう。

わたしには信仰がある。信仰が、神さまが、わたしを立ち直らせてくれた、とお答えになるでしょう。

キリスト教とは、復活を信じる信仰です。イエス・キリストを信じて生きる者たちには、永遠の命が与えられ、永遠の神の国を受け継ぐ者とされるという信仰です。

大切な人々、ご主人と最愛のご長男は、今も神のみもとで永遠に生きている、という信仰が、この方を立ち直らせました。

事実、キリスト教信仰には、わたしたち人間を、死の恐怖から、絶望の恐怖から、救い出し、立ち直らせてくれる力があります。

先ほど、聖書から、使徒パウロの言葉をお読みしました。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」

ここでパウロが書いている「肉と血」の意味は、一つの解説を参考にして申し上げますと、「今この地上に存在している人間」のことであると言われます。

今この地上に存在している人間は「神の国を受け継ぐことはできない」とは、どういうことでしょうか。わたしたちは、だれひとり、天国に行くことができないのでしょうか。

もちろん、そういう意味ではありません。

ただ、しかし、ここでパウロが言おうとしていることは、今この地上に存在している人間であるところの「肉と血」は、このままで、今のままで、何の変化もなく、自動的に、機械的に、神の国を受け継ぐことができるわけではない、という意味です。

「朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」は、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできません」の言い換えです。朽ちるものは、肉と血です。朽ちないものは、神の国です。

「朽ちない」とは、永遠性を意味します。永遠の神の国です。わたしたちの人生の目標としての天国です。そこに受け入れられ、そこを受け継ぐ者になるためには、わたしたち自身が「朽ちないもの」へとつくり変えられる必要があるのです。

「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今と異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」

パウロは、「神秘」について語っています。「奥義」とも「秘儀」とも訳すことができるミステリーという言葉です。それは、科学的に実証された事実というようなものではありません。むしろ、宗教的真実というべきものです。端的に「信仰」と呼ぶことができる何かです。

「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません」と言われているのは、わたしたちは、いつまでも眠り続けるわけではない、ということです。わたしたちは、「永眠者」にはならないのです。

しかし、それは、すべての人間は死なない、という意味ではありません。いやむしろ、すべての人間は、一度は必ず、たしかに死ぬのです。そして、眠りにつくのです。

ところが、パウロの信仰は、パウロの語る神秘は、それで終わりではない、と語ります。一度はたしかに死に、眠りについた者たちが、しかし、今とは異なる状態へと、すなわち、永遠に朽ちない姿へとつくりかえられるべく、よみがえるのだ、と語るのです。

そして、そのようにして、わたしたちは、永遠に朽ちない神の国を受け継ぐ者になる、というのです。

ここで大切なことは、わたしたちが「今とは異なる状態に変えられる」とは、どのような意味であるか、ということです。

先ほどわたしは、「肉と血」は、このままで、今のままで、何の変化もなく、自動的に、機械的に、神の国を受け継ぐことができるわけではない、と申しました。

その意味は、そこに救いが必要である、ということです。「救われた肉と血」が、神の国を受け継ぐのです。

いまだに救われていないもの、救われていないところを持つものが、完全に救われているものになる、完全な救いを獲得することこそが、真の変化です。「今と異なる状態に変えられること」です。

そして、その救いとは、パウロによると、救い主イエス・キリストに結ばれることです。ただひたすら、そのことです。

そのために、わたしたちは、何をなすべきでしょうか。パウロは、次のように記しています。

「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

ここでパウロが教えている、わたしたちがなすべきことの第一は、「神への感謝」です。

わたしたちの神は、わたしたちの救い主、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせることのできる全能の御力をもって、わたしたちを罪の中から救い出してくださいます。

罪の中からの救い、それこそが、神がわたしたちに与えてくださる尊い賜物であり、また宝物です。

プレゼントを贈ってくださった神への感謝の生活を送ることが、大切です。

パウロがここで教えている、わたしたちがなすべきことの第二は、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励むこと」です。

神からわたしたちに与えていただける尊い賜物であり、宝物であるところの「罪からの救い」は、しかし、このわたし個人の確信として維持し続けることは、難しいものです。

この世の中に生きるとき、じつにさまざまな罪の誘惑が、わたしたち一人一人をめがけて襲いかかって来ます。

だからこそ、わたしたちは、その誘惑に負けることなく、「動かされないようにしっかり立つ」必要があるのです。

しかし、そのためには、どうしたらよいのでしょうか。わたしたちは、ひとりで信仰を維持することは、困難ですし、ほとんど不可能とさえ言えます。

パウロは、この手紙をコリントという町にある「教会」に宛てて書きました。そのため、この手紙の中に出てくる「あなたがた」とか「わたしの愛する兄弟たち」とは常に、第一義的に「教会」のことです。

この点から言うならば、「教会」の人々に対して、ここでパウロが、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」と書いているとき、その場合の「主の業」とは、第一義的に「教会のわざ」のことなのです。

ですから、ここでパウロが勧めていることは、主の業としての教会のわざに励みなさい、という意味であると理解できます。

わたしたちには、「教会」が必要です。

わたしたちの救い、すなわち、永遠に朽ちない神の国を受け継ぐことができる者へと、わたしたち自身がつくり変えていただけるのだ、という確信をもって生きること、としての信仰を、この地上で保ち続けるために、

そして、そのわたしたちが、その信仰に裏打ちされて、死の恐怖、絶望の恐怖から立ち直り、元気に、明るく、力強く、そして自由に生きていくために、

「教会」が必要なのです。

クリスチャンなら、だれでも、死を恐れることはないのか、絶望の恐怖を味わうことはないのか、と言いますと、決してそんなことはありません。そんなはずがありません。

しかし、だからこそ、わたしたちは、毎週日曜日には教会に集まり、恵みの神を賛美し、聖書の御言葉を通して、救い主イエス・キリストにおける神の救いについて繰り返し学び、熱心に祈るのです。

その賛美は、その御言葉の学びは、その祈りは、「無駄にならない」のです。

「こんなことやっていて何になるのか」と、思いたくなることもあるかもしれません。しかし、どうか、教会のわざに、主の業に、失望しないでいただきたいのです。

わたしたちは、死に打ち勝つ真の力を、教会から得るのです。

(2005年3月27日、松戸小金原教会イースター礼拝)

2004年2月15日日曜日

伝道者という仕事(山梨栄光教会)

コリントの信徒への手紙一4・6~13

コリントの信徒への第一の手紙を学んできました。なかなか手ごわい手紙です。

パウロは、コリント教会の内部に起こっている、その教会にとってはまさに死活問題となりうる騒動を知り、その問題に介入することを決意しつつ、この手紙を書いております。

教会が分裂しかかっている。そんなことがあってはならない。そのようにパウロは確信しております。

教会は仲良くすべきです。まさか喧嘩をするために集まっているわけではないでしょう。パウロはコリント教会の人々に、喧嘩をやめて和解することを期待しています。そうでなければならないと考えています。

しかし、その一方で、パウロは、この手紙の宛先であるコリント教会の中にある一つの問題を、はっきりと見抜いていました。彼らの問題は一つだけではありません。非常にたくさん問題がありました。そのことはこの手紙の続きをずっと読んでいけば分かることです。

しかし、そのたくさんある問題の中でも最も根本的で最も大きな問題である、とパウロが考えていたに違いない、一つの問題がありました。それは何か、ということを、今日はお話ししたいと願いながら、準備してまいりました。

パウロは、そのことを、どうしても、コリント教会の人々に伝えなければなりませんでした。何とかして。何としてでも。

ところが、それを伝えることは、実際問題としては、とても難しいことでした。

狭い意味での伝道者、牧師とか宣教師とか呼ばれている人々にとって最も難しいと感じることがあるとすれば、そもそも自分が所属している教会に対して何かを物申すということ自体が、たいへん難しいことです。自分の存在を支えている教会の問題を率直な言葉で指摘する、ということ自体が、たいへん難しいことなのです。

わたしが心から愛してやまない人々である、と確信していないような相手に対してならば、何か厳しいことを、そっけなく言い放つことは、割合簡単なことです。もっと単純に言えば、嫌いだと思っている相手に対してなら、平気で何でも言えるわけです。

しかし、伝道者たちが、教会の人々のことを、心から嫌うことなど、ありえないではありませんか。そんなことは、本当にありえないことです。教会が嫌いな人は、伝道者にはなれません。牧師も宣教師も、本来、教会の仕事なのです。

ところが、その彼らが時々突き当たる壁があります。

それは、要するに、教会の中に、「これは教会の死活問題となりうる事柄である」と感じる問題を見つけてしまったときです。

そのことを、どうしても、厳しい言葉で、教会の中のある人々に向かって、指摘しなければならない問題を見つけてしまったときです。

言いたくないことを言わなければならない状況に追い込まれてしまったときです。

そんなことは、何も伝道者とか言わなくても、どんな仕事をしている人たちでも、家庭にいるときも、みんな経験していることだよと言われるなら、そのとおりかもしれません。伝道者だけを特別扱いするつもりはありません。

しかし、その上でなお思うことは、教会の中に大きな問題を見つけ、それを厳しい言葉で指摘しなければならない状況に立たされ、そうしなければその教会はもはや教会でなくなってしまう、と確信させられてしまうような窮地に追い込まれたとき、しかし、そこで口を開いて、そのことを語ったとたん、かえって教会が大騒ぎになり、彼ら自身が教会の混乱の原因になってしまうことがありうるのだ、ということです。

そして、そのことよりも、ある意味でもっと問題なことは、たとえそのような仕方で、彼らが語った言葉自体によって、かえってますます教会が混乱しはじめ、大騒ぎになってしまったときにも、彼らはキリスト者であることを辞めることができない、ということです。キリストを信じる者であることを辞めることができません。

また、それが真理である、と確信している言葉を、黙って飲み込むことも、おそらくできません。黙って飲み込むことができる人は、たぶん伝道者になろうとは思いません。それを語らざるをえないと感じている言葉を全く語らずに済ませる人は、たぶん伝道者には向いていません。

しかしまた、彼が語った言葉が、かえって教会の混乱の原因になることは、ありえます。彼らが本当に心の底から、困ったなあ、と頭を抱えて悩むのは、そういう時なのです。

今日開いていただいた個所の最初に、パウロが書いていることは、じつは、そのようなことなのです。

「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、『書かれているもの以上に出ない』ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです」。

この最初の一文には、非常に翻訳しにくい言葉が使われていると一つの注解書に書いてありました。なるほど、たしかに、この新共同訳聖書の訳も、かなりの意訳です。もっと直訳しますと、すごい訳になります。

問題は「当てはめて」と訳されている言葉です。これを直訳しますと、「作り変える」となります。要するにパウロは、この手紙のこれまで書いてきた言葉は、あなたがたのために、つまり、コリント教会の人々を傷つけたくないという理由で、論点をぼやかした別の話に作り変えたものでした、と言っているのです。

これが意味することは、パウロが本当に書きたかったことは、自分とアポロの関係の話などではありませんでした、ということです。もっとはっきり言わなければならないことは、別のところにあるのです。しかし、そのことをズバリ指摘することは、これまでついに、できずに来たのです、と告白しているのです。

こういうふうに言われると、何とも言えず、嫌な感じがしてきます。最初からはっきり言ってくれたほうがよかったのに、と感じる人も、きっといたことでしょう。

しかし、先ほど少し紹介しました、わたしが読んだ注解書が、なぜ、この文章は非常に訳しにくい、と書いているか、その理由もよく分かるのです。

その注解者自身はその理由をほとんど何も書いていませんが、わたしが感じる一つの理由は、「作り変える」と訳してしまいますと、要するに、非常に意地悪っぽいというか、あまりにも意図的すぎるというか、パウロの人格を疑わせてしまうような悪いニュアンスを含ませてしまう危険性がある、ということです。

そうではないのです。そうではないということを、どのように説明すべきか、その言葉にまた悩みますが、とにかく、そうではないのです。最初は意図的に論点をずらして別の話をしながら、少しずつ少しずつ、核心に触れるところへと近づいていく、というような戦略的な語り方で、次第に相手を攻め落としていく、というようなことではないのです。

もっと単純なことです。言いにくいことを言えないできただけです。もっとシャイで、ある意味非常に臆病で、こんなことを言ったら教会のみんなはどう反応するだろうか、と深く悩み、毎日そのことばかり考えながら、書こうか書くまいか迷っているパウロの姿を思い浮かべるほうが、はるかに近いものがあるのです。

しかし、パウロはついに書き始めました。今まで書けずに来たことを、堰を切ったように、勢いよく。

「あなたをほかの者たちよりも、優れたものとしたのはだれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」。

ここでパウロが言おうとしていることは何でしょうか。とんでもなく重大なことを書いているらしいということは、すぐに分かります。しかし、何を言わんとしているかは必ずしも明らかではないように思います。

ただ、この文章の真意を理解するための一つのキーワードがある、と感じます。それは8節にある「あなたがたは、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっている」という言葉です。

「わたしたち」とは誰のことでしょうか。その答えは9節にあります。9節にはっきりと「わたしたち使徒」と書かれているではありませんか。「使徒」と呼ばれるイエス・キリストの弟子たちのことです。当時の全世界の教会においてキリストの死と復活を証しするために特別に立てられた、教会の指導者たちのことです。また彼らは、伝道者でもありました。教会の牧師であり、御言葉の教師でもあり、福音の宣教師でもありました。

その意味での使徒たちを、あなたがたは、抜きにしているではないか、とパウロは指摘しています。使徒の存在を無視している。あるいは、使徒の存在を不要だと思っている。より端的に言い換えるなら、使徒不要論、伝道者不要論が、あなたがたのうちにあるではないか、とパウロは指摘しているのです。

しかし、本当にそうでしょうか、とパウロは問うているのだと思います。「あなたをほかの者たちよりも優れた者にしたのはだれです」と問うています。パウロはこの問いの答えを述べていません。「それはわたしです」とも、「それはわたしたち使徒です」とも答えていません。そんな恥ずかしいことを、パウロは、おそらく口が裂けても言わないでしょう。

しかし、だからと言って、パウロは、コリント教会の一部に存在したと思われる使徒不要論、伝道者不要論に対しては、どうしても、ひとこと言わなければならないことがある、と感じていたに違いないのです。

じつは、このことは、わたしたちがこの手紙の1・10以下を学んだときに、すでに確認していたことです。

当時、コリント教会の中には、「わたしはパウロにつく」とか「わたしはアポロにつく」とか「わたしはケファにつく」と主張していた人々と共に、「わたしはキリストにつく」と主張していた人々がいました。

この最後の「わたしはキリストにつく」と主張していた人々のことを、わたしは次のように説明しました。おそらく、この人々は、コリント教会の内部で起こっている論争に対して心の底から幻滅を感じていた人々に違いない、と。

パウロにつくか、アポロにつくか、ペトロにつくかなどという、結局人間の世話になることばかり考えているから、教会の問題は片付かない。

わたしたちを救うのは人間ではなく、神であり、キリストではないか。

わたしたちは人間を見るのではなく、神を見、キリストを見るべきである。

そのような理屈の中で、この人々は一種の人間不信に陥り、人間としての使徒、人間としての伝道者の存在を、事実上否定する立場に立っていた人々である、と思われるのです。

そのときわたしは同時に、このような考え方は、ある面で非常に魅力的なものでありうるとも申しました。

わたしたちを救うのは人間ではなく神であり、キリストであるという言葉は紛れも無い真実でもあります。人間としての使徒、人間としての伝道者は、多くの場面で、躓きの石になる、ということも否定できない事実でもあります。

また、もう一点付け加えることができるであろうことは、教会の中で「キリストにつく」と語る人々の言葉は、ある面で非常に正しい、また非常に美しい言葉に聞こえるはずです。彼らの言うことは全くの正論である、と聞いた人々が、当時のコリント教会の中にもいたのではないでしょうか。

なるほど、たしかにそのとおりです。しかし、だからといって、使徒たち、伝道者たちは、教会にとって本当に不要な存在なのでしょうか。単なる重荷にすぎず、できれば存在しないほうがよく、迷惑な存在にすぎないのでしょうか。

「あなたがたは・・・わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になってくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」とパウロは書いています。この意味は、よく分かりません。やや興奮しながら書かれた文章ではないでしょうか。

ただ、「既に大金持ちになっており」ともあります。教会の人々が王様のように裕福になれば、伝道者たちも裕福になれる、という意味でしょうか。使徒たち、伝道者たちさえいなければ、教会の人々は裕福になれるのに、ということでしょうか。そんなふうに後ろ指を指されながら、伝道者たちは、なお教会の人々の前に立たなければならないのでしょうか。

「考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せるところもなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています」。

ここでパウロは、コリント教会の一部に存在していた使徒不要論、伝道者不要論を全面的に肯定し、受け入れています。なるほど、わたしたちは、存在する価値の無い者たちである、と。「わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされている」と、ここまで言い切っています。

これは、口から出任せ、筆の勢いで書きなぐっている言葉ではないと、わたしは思います。本当に、心底から、わたしもそう思うと、パウロは言っているのです。

12節の後半には、「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています」とあります。

パウロを侮辱し、迫害し、ののしっていたのは、いったい誰なのでしょうか。教会の外側にいる人々だけでしょうか。それだけではなく、使徒不要論、伝道者不要論を主張する人々も又、教会の外側にいる人々と一緒になって、パウロを侮辱し、迫害し、ののしっていたのではないでしょうか。

しかし、パウロは、それらの言葉を甘んじて受けてきたのです。なぜでしょうか。

「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」。

パウロは、教会を、そして教会の人々を、心から愛していたのです。何を言われても、言われっ放しでよい。世の屑と呼ばれ、すべてのものの滓と呼ばれても構わない。使徒たち、伝道者たちの側に非が無い、とは言い切れないし、何を言われても仕方が無い面があることを認める。

しかし、人間としての使徒、人間としての伝道者そのものが教会には不要であるという主張を黙って見過ごすことは、パウロにはできませんでした。「キリストにつく」という主張は、最も正しく、最も美しい言葉であると同時に、教会にとって最も危険な言葉にもなりうるのです。

今日の個所の初めに、パウロは、コリント教会の人々に、「書かれているもの以上に出ない」ことを学んでほしかった、という趣旨のことを述べています。「書かれているもの」とは、1・18に引用されている「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」というイザヤ書29・14のことを指しています。

そして、パウロは、使徒たち、伝道者たちが語る説教という愚かな手段を通して、神は人を救う、と語ってきました。

世の屑であり、すべてのものの滓である者たち、教会ではお荷物、厄介者と思われている者たちを、神が用いてくださる。

そのことを、今日の個所で、パウロは、いかにも言いにくそうに述べているのです。

(2004年2月15日、山梨栄光教会主日礼拝)