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2024年11月10日日曜日

アブラハムの模範

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「アブラハムの模範」

ガラテヤの信徒への手紙3章7~14節

関口 康

「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」(7節)

今日の聖書の箇所は、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙3章7節から14節までです。

この手紙のパウロは、最初から最後までけんか腰です。聖書に慰めを求めて読むとがっかりする可能性がある文書であるということを、あらかじめご承知置きいただきたく願います。

1章1節からけんか腰です。

「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」

これで言いたいのは、この手紙を書いているわたしパウロは、人間によって使徒にされたのではなく主イエスと父なる神によって使徒とされた者なのだから、これからわたしが言うことを黙って聞きなさいと言っているのと同じです。

1章6節から事件の概要です。

「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」。

私が手塩にかけて育てたあなたがたに伝えたこととはまるで違う教えに、よくも早々と乗り換えようとしているのは一体何ごとか、と言っているのと同じです。「呪われよ」とまで言い出すと辛辣さがピークです。激辛です。

この手紙のすべてを一気に読むわけに行きませんので、かいつまんだところをピックアップしていきます。1章12節から始められるのは、パウロの証しです。

わたしパウロは先祖代々ユダヤ教徒の家庭に生まれ育ち、「神の教会」(キリスト教会)を迫害し、滅ぼそうとしていたほど熱心なユダヤ教徒でした。しかし、そのわたしを神が「母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって(使徒として)召し出してくださった」と言っています。

これで言おうとしているのは、自分の意志によらず、あるいは自分の意志に反して、このわたしパウロはキリスト教徒になり、キリストの使徒になったということです。

彼が目指していたのは、ユダヤ教の律法学者です。当時のユダヤはローマ帝国の属国でしたが、そのユダヤを統治する最高権力者会議たる最高法院(サンヘドリン)の議員になることが究極の夢でした。

最高法院の議員数は70名。議長・副議長を合わせれば71名か72名。そのメンバーはエリート中のエリートでした。

パウロはそれを目指してがんばっていましたが、その自分がなりたかった、なろうとした者にはなれず、就きたかった職業には就けず、最も忌み嫌っていたキリスト教徒になりました。自分の意志ではなく、神が決めた進路に進ませられることになったというニュアンスです。

パウロがキリスト者になったばかりの最初の頃にお世話になった人がいました。それが生前の主イエスの一番弟子、使徒ペトロです。1章18節以下の「ケファ」は使徒ペトロです。「ケファ」(アラム語)も「ペトロ」(ギリシア語)も「岩」という意味です。

「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しました」(1章18節)。

「それから三年後」(1章18節)はオリエントの数え方だそうで、その意味は「足掛け3年」ということで、「満」でいえば「2年」であると解説されている註解書があります。もしその解説が正しければ、「2年後」です。「アラビアに退いた」とか「再びダマスコに戻った」とか書かれています。その年数は書かれていませんが、年数よりも大事なのは、短期間だったことです。

5年も前ではなさそうです。「つい最近」と言える頃にはまだ熱心なキリスト教の迫害者、言い換えれば「教会の敵」であったこのわたしパウロにペトロは会ってくれた、ということはペトロがパウロを信用して受け入れたことを意味するわけですから、それだけでパウロにとってペトロは十分に恩人でしょう。

ところが、大事件発生。「その後14年経ってから」(2章1節)パウロは再びペトロに会っています。その場所はエルサレムでした(同上節)。この2人の3回目の会談が、今度はパウロがそのときいたアンティオキアのほうで行われました(2章11節)。

そのときです。パウロがペトロを面罵したというのです。パウロは、恩人ペトロを公衆の面前で怒鳴りつけました。そのときパウロが何を言ったかが、2章14節に記されています。

「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」。

パウロの言い分は、ペトロを筆頭者とするエルサレムの教会の人たちが、洗礼を受けただけでは真のキリスト者ではなく、割礼を受けることによってこそ初めて真のキリスト者になることができる、というようなことを教える人たちにそそのかされて、その流れに飲み込まれ、異邦人教会に不当な圧力と過剰な負担を強いている、ということです。

生まれながらのユダヤ人たちは嬰児の頃に割礼を受けているので、儀式の最中はその痛みにきっと泣き叫んだでしょうが、恐怖の記憶が残っているわけではありません。しかし、異邦人の割礼の場合は、成人になってから受けるわけですから、とんでもない恐怖と痛みです。

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」(3章1節)

パウロは強い落胆を隠しません。パウロが言いたいのは、聖書を読んでごらんなさいということです。

「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」(創世記15章6節)と書かれているでしょう。「律法を行ったから義と認められた」とも「割礼を受けたから義と認められた」とも書かれていないでしょう。

モーセの出現はアブラハムのはるか後です。モーセの律法が生まれるまで誰も救われなかったのですか。そんなはずはないでしょうと言っているのです。キリスト者はアブラハムの模範に従うべきであるとパウロは言っているのです。

その意味は、神を信じるだけでいい、それ以外の何も求められていない、割礼を受けなければならないだなんてありえない、ということです。

こうしなければ、ああしなければ真のキリスト者ではないと、キリスト教信仰にあれやこれやと追加される要求に一切惑わされてはならないと、今日の箇所が、そしてガラテヤの信徒への手紙全体が、強く激しく訴えています。

「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(2章6節)というのがガラテヤの信徒への手紙の中心テーマです。

教会も同じです。信仰だけでいいです。他になんにも要りません。手ぶらで大丈夫です。

(2024年11月10日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2016年11月27日日曜日

聖霊の結ぶ実(千葉若葉教会)

ガラテヤの信徒への手紙5章22~26節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」

今日も使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙を開いていただきました。先ほど朗読していただいた箇所のひとつ前の段落から読んでいきます。

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲を満足させるようなことはありません」(16節)と記されています。ここで言われていることの主旨は、「肉の欲を満足させること」と「霊の導きに従って生きること」とは矛盾し、対立する関係にあるということです。

そのとおりのことが次の節に記されています。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(17節)。

そしてその続きに「肉の業」とはどのようなものであるかが記されています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」(19~21節)。

これは悪徳表と呼ばれるものです。並べられている悪徳は、どちらかといえば個人的な要素が強いものばかりです。社会全体で取り組まなければならない構造的な悪の問題、たとえば戦争、人種差別、搾取、経済格差といったことについては述べられていません。

しかし、個人的なことと社会的なことが無関係であることはありえません。両者がどのような関係にあるかを説明するのは難しいことです。謎めいた関係にあります。しかし、間違いなく言えるのは、個人が集まって社会が形成されるということです。小さな悪や罪の根や種を放置したままでいれば、それらはやがて必ず大きく成長していくでしょう。

いま学校の授業で扱っているのはそのことです。罪の問題を扱っています。一般的な意味での「罪」はほとんどもっぱら行為を指します。それに対し、聖書の意味での「罪」は、行為を含まないわけではありませんが、それ以上に行為の根や種となる心の性質を指します。行為と性質を合わせた全体を、聖書は「罪」と呼びます。そのように説明しています。

いま申し上げたこととの関係でいえば、パウロが記しているこの悪徳表は、「肉の業」とあるとおり、その内容は「業」すなわち「行為」です。しかし「肉の業」と言われていることが大事です。「肉」に罪が潜むのです。そして、その罪が悪を生み出すのです。

しかしそれは、「肉」そのものが罪だとか悪だとかいう意味ではありません。「肉」そのものはただの物質です。物質そのものを悪とするのは、聖書的な価値判断ではありません。別の宗教の思想です。

しかしまた、「肉」とは弱いものです。罪に負けやすく、悪に染まりやすい弱さという性質を持っています。その「肉」に罪が潜みます。悪の行為の根や種を容易に抱え込みます。それを放置すると世界を脅かす巨悪が育ちます。厳密に言おうとするなら、今申し上げたようなことをじっくり丁寧に考えていかなくてはなりません。

ここまでお話ししたうえで、ほんの少しだけ聖書から離れて考えてみたいことがあります。それは肉の弱さについてです。難しい話ではなく、分かりやすい話です。疲れるとか眠いとかという話です。それは昨日の私自身の状態です。

学校の仕事はとても楽しいです。本当に楽しいです。しかし、教会の仕事とは性質が違う疲れ方をするものだということが分かるようになりました。それを説明するのは難しいことですが、土曜日になるとぐったりしています。それでも土曜の朝もいつもと同じ時刻に目が覚めるようになりました。完全な昼夜逆転人間でしたので今の自分に自分で驚いています。しかし「今日は土曜日だ」と気づくとまた布団に潜って昼まで眠ってしまうことがよくあります。

昨日の私もそうでした。これも「罪」でしょうか。そうかもしれません。今日の礼拝で説教させていただくための準備を怠ってぐっすり眠りこんでいる説教者はだめでしょうか。そうかもしれないなと反省して、目が覚めた後は、説教の準備に集中しました。

しかしふと考えました。話が飛躍しているかもしれませんが、パウロが記している悪徳表の内容は、昨日の私の状態と同じような意味での「疲れること」と多くの点で結びつくことばかりではないかと考えさせられました。

お酒やわいせつなことにのめり込む人がいます。すぐに腹を立てる人がいます。その人々の言い訳は多くの場合、ストレスの発散です。そのようなことは全く言い訳にならないし、言い訳にすることが断じて許されないのは、そのとおりです。しかし、ストレス発散の方法を他に知らない人たちは、ストレスをたくさん溜め込み、そのうち心身に不調をきたし、壊れてしまいます。

だからこういうことにのめり込むのはやむをえないのだ、だから許してあげましょうという話にはなりません。そのようなことでは、問題は全く解決しないどころか、家族の関係も友人関係も会社や社会での信頼関係も全く破壊されてしまい、もっと多くのストレスを抱え込むことになるでしょう。全く別のストレス発散の方法が真剣に考えられなくてはなりません。

とにかくよく眠ることが大事です。暇さえあれば眠る。ところかまわず眠る。そのほうがいいです。歳をとると眠りが浅くなると言われます。しかし、じっとしているだけで体も心も休まります。動き回って余計なストレスを抱え込んで、そのストレスを発散するためにいかがわしいことにのめり込むよりは、はるかにましです。

じっとしていても構わないし、引きこもっていても構いません。引きこもって、内弁慶になって、家の中でいばり散らされると、家族は迷惑するかもしれません。でも、そんなことはあまり言わないであげてください。お願いします。

高齢者を揶揄する意図は全くありません。パウロが記している悪徳表に並べられている「肉の業」は厳しい社会で戦っている人々が抱え込むストレスの問題と結びつくところがありそうだと気づいたので、申し上げました。そして、ストレスの問題を解決するためには、全く別の、いわばもうひとつのストレス発散方法を真剣に考える必要があることを訴えたかっただけです。

「これに対して」と、パウロは続けます。今日の箇所にたどり着きました。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(22節)。

この「霊」に新共同訳はダブルクオーテーションを付けていませんが(凡例三(2)参照)、だからといってこの「霊」が「聖霊」であることを否定しなくてはならないわけではありません。この手紙の中に記された「霊」という字の多くにダブルクオーテーションが付けられていることを確認することができます(3章2節、3章5節、3章14節、4章29節、5章5節、6章1節)。

また、「聖霊」以外の意味でありえない「霊」にダブルクオーテーションを付けていない箇所があります。そのひとつは4章6節です。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(4章6節)。

この箇所は、気をつけて読まなくてはなりません。「わたしたちの心」に「神」が送ってくださった「御子の霊」について記されています。しかしその意味は、「御子の霊」を送ってくださった御子の父なる「神」の「霊」でもあるということです。御子だけの霊であって父なる神の霊ではないわけではありません。「わたしたちの心」へと送られ、注ぎ込まれるのは「御父と御子の霊」としての「聖霊」です。

しかも、その「霊」(ダブルクオーテーション付き!)は「福音を聞いて信じる」(3章2節)こと、つまり「信仰によって受ける」(3章14節)ものであると記されています。これで分かるのは「聖霊」と「福音」と「信仰」はワンセットであるということです。ばらばらに受け取るわけではありません。

「聖霊」が先か「福音」が先か、それとも「信仰」が先かについて順序や時間差があるかどうかには議論があります。申し訳ないことに、私はバプテスト教会の教えを存じませんので、もしかすると皆さまのお考えに反することを申し上げるかもしれません。それを避けるために詳細に立ち入ることは控えます。

ただ、これだけははっきり言えると思いますのは、先ほど申し上げたとおり、「聖霊」と「福音」と「信仰」はワンセットであるということです。そして、この場合の「福音」は「説教」と呼びかえることができます。

その意味は、「説教」は聞かないが「聖霊」も「信仰」もある、ということはない、ということです。あるいはまた、「説教」を聞いても「信仰」に至らないが(それはよくあることです)「聖霊」はある、ということもない、ということです。

そして「聖霊」を理解するためにもうひとつ大事な点、そして私がそれこそが最も大事だと考えている点は、「聖霊」はすべての人が生まれつき持っているものではないということです。すべて後から追加されるものです。

もし生まれつき「聖霊」を持っている人がいるなら、「福音」も「信仰」も不要です。「教会」も不要です。「聖霊」を生まれつき持っている人がいるなら、それを生まれつき与えられていない人に後から与えられることを期待するのはおかしいことだからです。

しかし、そういう事情でないからこそ、わたしたちは「教会」を続けているのではないでしょうか。「福音」も「信仰」も必要だからこそ、それを宣べ伝える「教会」が必要だと信じているのではないでしょうか。「聖霊」も「信仰」も親や先祖から遺伝するものではありません。だからこそわたしたちに「教会」が必要であり、福音の説教による「伝道」が必要なのです。

これは私の心の底からの問いかけです。そしてこの思いは、パウロ自身も持っていたのではないかと、私が信じたいと願っているところです。

「霊の結ぶ実」とは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。すべてを暗記する必要はありません。ばらばらのことではありえないからです。先ほど申したこととの関係でいえば、ストレス発散のもうひとつの方法がこれです。それは「教会」で「福音の説教」を聞き、「聖霊の結ぶ実」を実らせていくことです。これは確かに効き目があります。効き目があるということを教会の歴史が証明しています。

そしてまた、わたしたちは、教会でストレスを抱え込むことがないように、「聖霊の結ぶ実」が実るような教会をかたちづくっていくのを目指すことが大切です。そのことを最後に一言だけ申し上げておきます。

(2016年11月27日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会 主日礼拝)

2016年10月9日日曜日

キリスト者の自由(千葉若葉教会)

ガラテヤの信徒への手紙5章2~6節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を負う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」

今日の箇所にパウロが書いていることを一言でまとめていえば、イエス・キリストを信じる信仰をもって生きている人々は、律法に定められた割礼を受ける必要はないし、受けるべきではないということです。律法のもとへと逆戻りすることはキリストの恵みを否定するのと同じです。恵みは贈り物ですので、お断りするのはもったいない。そのようなことはやめなさいということです。

パウロがこのように書いていることにはもちろん理由があります。当時の教会の中で指導的な立場にあった人々が、イエス・キリストを信じる信仰をもって生きている人々に「人が救われるためには信仰だけでは足りません。割礼を受けなければ救われません」と呼びかけるようになったからです。

なかでも、当時の教会の最高指導者であった使徒ペトロがその呼びかけをする側に加わり、事態が深刻化しました。平たくいえばペトロが先輩で、パウロは後輩です。当時の教会の人々にとっては、両者の意見が矛盾し、対立している場合に、どちらが正しいかを選びなさいと言われれば、パウロの意見よりもペトロの意見のほうを尊重し、選ぼうとしたはずです。

しかもパウロは、もともと熱心なキリスト教迫害者であったという黒歴史(ブラックヒストリー)を持つ人でもありました。そのことは当時の教会の中でよく知られていた事実です。この人は本当に信頼できる人なのかどうかを疑う人は少なからずいました。パウロについての人物評価は当時の教会の中で二分し続けていました。

そのことはパウロ自身も十分自覚していました。それでパウロは、イエス・キリストの福音の根幹を揺るがすとんでもないことを言い出した人々の中で中心的な人物になってきたペトロと直接会って説得しなければならないと考えました。そして、実際にパウロとペトロの直接対決の場面があったことを、パウロはこの手紙の2章11~14節に記しています。

「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。『あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のほうに生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか』」。

この中に出てくる「ケファ」が使徒ペトロです。「ケファ」も「ペトロ」も「岩」という意味です。「面と向かって反対した」は「面罵した」という意味です。先輩ペトロを後輩パウロが面と向かって怒鳴りつけた格好です。理由は何であれそのこと自体がとんでもないという評価もありうるでしょう。後輩のくせに生意気だと。

パウロから抗議を受けたペトロがその後どうなったかは分かりません。ペトロの考えが変わったかどうかは、聖書のどこを探しても調べがつきません。変わったかもしれないし、変わらなかったかもしれません。

そして、そのパウロとペトロの直接対決の場面があった前なのか後なのかは分からないのですが、内容的に明らかに直接関係ある出来事が使徒言行録15章に記されています。そこに描かれているのはキリスト教会史上初めて行われた教会会議である「エルサレム会議」です。

その会議の議題は、割礼の問題でした。「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」(使徒言行録15章1節)とキリスト者たちに向かって教える人々が登場したので、その問題に決着をつける必要が生じたために開かれたのが、エルサレム会議でした。

私が個人的に興味深く思うのは、エルサレム会議の様子を描く使徒言行録15章の中にペトロの名前が出てこないことです。ペトロがいなかったはずはないのです。むしろ中心人物であったはずです。しかし、そのペトロの名前が出てこないのは、隠されているとしか言いようがないです。使徒言行録の著者がペトロの名前をなぜ隠しているのか、その理由は分かりません。

ただ一つ言えることは「割礼を受けなければ救われない」というイエス・キリストの福音に反する教えを広めようとしたのは、使徒ペトロ個人ではないとしても、ペトロを中心に置くほどの最古層の人々であったことは間違いないということです。

その人々は、教会について語るときには使いたくない表現ではありますが、教会の中で「権力」をもつ人々です。その人々に逆らえば教会の中にとどまることができなくなるような存在。そういう人々と闘うことをパウロは余儀なくされたわけです。つまり、パウロの論敵は教会の外だけでなく、教会の中にもいました。しかも教会のど真ん中にいたのです。

それに、教会の教えに関してどちらか正しいかを争うのは本当に大変なことです。まさに神学論争です。「神学論争」という言葉を「答えが出ない堂々巡りの屁理屈」という意味で使う人々がいます。今私が申し上げたことも、その意味を含んでいます。

しかし、パウロはどうしても引くことができませんでした。なぜなら、この論争に負けるならば、パウロがその後半生において死力を注ぐことになった「異邦人伝道」にとって著しい障害になることが目に見えていたからです。

「人が救われるためには信仰だけでは足りません。割礼を受けなければ救われません」という教えを異邦人に向かって語るや否や、異邦人の教会に集まる人々は、たちまちのうちに蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまうでしょう。なぜなら、割礼は自分の体に傷をつけることだからです。割礼を受けるという高いハードルを超えてまで救いを求めようとする異邦人はほとんどいないでしょう。

そのことがパウロの目にはっきり見えていたのです。パウロは、異邦人にとってのハードルや障害をできるかぎり取り除いてあげたいと願っていたのです。だからパウロはこの論争からおりることができなかったのです。

そのパウロの気持ちを最もよく表わしているのは、使徒ペトロを面罵したときに言った言葉です。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」。これです。

私が今日みなさんにお話ししたいと願ってきたことも同じです。説教題に「キリスト者の自由」と書かせていただきました。私が最近しばしば考え込んでいるのは「キリスト者とは何か」という問いです。パウロが証言しているのは、使徒ペトロが「異邦人のように生活していた」ということです。イエス・キリストの一番弟子であり、教会の最高指導者になった、あの使徒ペトロが、です。

「異邦人のように生活する」とは、第一義的には旧約聖書の律法から全く自由にされた生活を営むことです。それはユダヤ人たちが最も軽蔑し、差別していた生き方です。そのような生き方を当時の教会の最高指導者たる使徒ペトロがしていたということは、まさに「異邦人のような生活」のあり方が「キリスト者の生活」のあり方になったことを意味しています。ということは「キリスト者の自由」とは「異邦人のように生きる自由」であると言ってはいけないでしょうか。

そして、もしそのように言ってよいなら、パウロの言葉は、次のようにも言い換えることができるはずです。「あなたはキリスト者でありながら、キリスト者らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にキリスト者のように生活することを強要するのですか」。

いま申し上げた言い換えには、強烈な皮肉と、激しい批判の思いを込めています。しかし私は50歳で50年教会に通ってきた人間です。まるで他人事であるかのように教会を批判する思いはなく、強い自戒を込めて申し上げているつもりです。

先ほど申し上げたとおり、私が最近しばしば考えさせられているのは、「キリスト者とは何か」という問いです。「キリスト者らしい生き方」とは何を意味するのでしょうか。「キリスト者として」とか「キリスト者らしく」とかそのような言い方をよく耳にしますが、それは何のことでしょうか。

パウロが見たペトロの姿は「異邦人のような生活をしている人」でした。それは「信仰を持たない人々と変わらぬ生活をしている人」と言っているのと同じです。それが当時の教会の最高指導者の姿でした。それ以上のことが「キリスト者」に求められるのでしょうか。

それとも「キリスト者」には、「異邦人のような生活」とは異なる、プラスアルファの要素があると考えるべきでしょうか。具体的に何をすることが「キリスト者らしい生活」なのでしょうか。これをすればあれをすれば「キリスト者らしい」ということを言えば言うほど、新たな律法、もっと過酷な負担を負わせるだけの結果になっていないでしょうか。

新約聖書の複数の福音書の中で紹介されている、主イエスが語られた「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10章15節)という言葉の「子どものように」が具体的に何を意味するかは不明であるとされています。「子どものように」は「静寂な集会の邪魔をする騒がしい存在」という意味でしょうか。そうかもしれません。しかし「罪がない存在」という意味ではないと思われます。聖書の価値観に従えば、子どももまた「罪ある存在」です。

私が思いつく答えは「子どものように」の「子ども」の意味は「喜び楽しみ遊ぶ存在」です。キリスト者の信仰生活や教会活動が悪い意味の「仕事」になっていないかどうかをよく考える必要があります。義務だから責任だからノルマだからと追い回される状態になっていないかどうかを。「キリスト者」はもっと自由に遊んでよいのです。義務だの責任だのという意味で教会が存在するのではないのです。

(2016年10月9日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会主日礼拝)

2016年6月6日月曜日

互いに重荷を担いなさい(千葉英和高等学校)


ガラテヤの信徒への手紙6・1~5

関口 康

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」

初めて礼拝で説教させていただきます。4月から聖書の先生になりました関口康です。1年生の4クラス、2年生の4クラスの聖書の授業を担当させていただいています。今年は礼拝で6回説教する予定です。1回15分話すようにとのことですので、1年90分です。よろしくお願いいたします。

宗教委員の生徒の方々に朗読していただきました聖書の箇所についてお話ししたいと思います。今日皆さんに考えていただきたいのは、「互いに重荷を担いなさい」(2節)という御言葉についてです。またすぐ後に出てくる「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」(5節)にも注目していただきたいと思いました。

二つのことは似ていますが、違うことでもあります。一つは「互いに重荷を担いなさい」です。もう一つは「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」です。後者は、言い方を換えれば「自分の重荷は自分で担いなさい」ということになります。

「重荷」は読んで字のごとく重い荷物です。毎日学校に持ってくるカバンは重いでしょうか。もし重いとしたら、皆さんのカバンが「重荷」です。「自分のカバンは自分で持ちなさい」ということです。当たり前です。自分のカバンくらい自分で持て。他人に持たせるな。

大人になっても社長さんとかになっても同じです。自分のカバンくらい自分で持て。でも、ひとりで持てないほど中身が増えてしまった場合は、遠慮なく助けてもらいなさい。それは恥ずかしいことではないし、間違ったことでもありません。

これが「互いに重荷を担いなさい」の意味です。他の人に助けてもらっているとき、自分の手を完全に放してしまえば「互いに重荷を担うこと」にならないかもしれません。怪我をしているときや、体調不良などで、自分のカバンに手をかけることが自分で不可能な場合はあります。その場合はあとでお返しすればいい。

「今日は私のカバンを持ってくれてありがとう。今度は私が持つ番だね」と約束して選手交代すればいい。それで「互いに重荷を担うこと」ができます。助け合いの精神は、相手のためにもなりますし、自分のためにもなります。助けてもらった恩は忘れないほうがいい。 

しかし、今日の箇所の「重荷」は、カバンでたとえるだけでは不十分です。もっと深刻な内容です。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」が「互いに重荷を担いなさい」の内容です。

そして「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」が「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」の内容です。つまり、この箇所で「重荷」の意味は「罪」です。「罪を互いに担う」とつなげると、なんだかまるで一緒に悪いことをするというような意味になってしまい、話がおかしくなりますが、ここに書かれていることの趣旨は「罪を犯した人を正しい道に立ち帰らせなさい」ということです。

罪を犯した人は、はっきり言えば悪い人です。しかし、だからといって、死んじゃえばいいとか、目の前から消えてほしいとか言い、その人を見捨て、切り捨て、すっきり軽くなることの反対です。罪を犯した悪い人が正しい道に立ち帰るまで見捨てず、見限らず、見殺しにせず、切り捨てず、背負い続けなくてはならないことが求められています。

それがなぜ「互いに」なのかといえば、罪の問題は「お互いさま」だからです。罪を犯さない人は一人もいないからです。お互いに我慢しあっているという面が必ずあるからです。自分はいつも必ずだれかの重荷を背負うだけ、ということはありえないからです。

もっとも、今日の箇所では、「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」とありますとおり、「不注意」の罪、つまり過失が問題になっています。しかし罪は「わざと」、つまり故意に犯されるものも決して少なくありません。だとしたら、故意の罪を犯した人は見捨てても構いませんという意味でしょうか。そうではありません。

なぜなら、その罪が「故意」なのか「過失」なのかを判断することは、もしかしたらその罪を犯した本人ですら、とても難しいことだからです。人の心の中は第三者には見えません。自分自身ですら制御しきれないのが人間の心です。その心が、罪を犯すのです。故意に罪を犯した人は見捨てるべきだという単純な話にはなりません。

しかし、要求の内容が大変なことであるのは間違いありません。自分の重荷は自分で担いながら、他人の重荷も同時に担うとなると負担が大きすぎることになるのは避けられません。実際にそのようなことは不可能だと感じるかもしれません。それは分かります。

しかし、だからこそ、ここでカバンのたとえが役に立ちます。罪の問題は「お互いさま」ですから。今は他人のカバンを持てるほど余裕がない。それどころか自分のカバンを持ってもらいたいくらいだというときはあります。そのときは、遠慮なく助けを求めてください。そして、助けてもらった人は、いつの日か、誰かのカバンをもってあげてください。

授業では話していることですが、私は大学卒業後25年、教会の牧師の仕事だけをしてきました。学校で教えるのは初めてです。慣れなくてもたもたしているところは、どうかお許しください。

しかし、みなさんからどう見えているかは分かりませんが、私の自覚としては教会と学校は全く違うものだという感覚はほとんどなく、むしろ共通点が多いと感じています。教会で私は聖書を教えてきました。いま学校でも聖書を教える立場です。お話しする相手が人間であるという点では、学校も教会も同じです。そして人間が相手である以上、罪の問題を抱えている存在であるという点で同じです。

聖書を教えるということと同時に、さまざまな個人的な悩みや相談にのり、解決していくためのお助けをしてきました。個人情報の要素が多く、守秘義務の観点からすべてをお話しすることはできません。

ただ、どちらかといえば人間のネガティヴな面の問題に取り組んできました。人間の光の側面よりも、影の側面、闇の側面のほうにどちらかといえばかかわってきました。経済的に行き詰った。家庭が崩壊した。夫婦関係や親子関係が険悪だ。してはいけないことをした。

病院に行った。役所にも相談した。関係諸機関のすべてに相談した。ありとあらゆる手を尽くした。だけどどうにもならなかった、とおっしゃる方が、最後の最後のところで教会に来る。宗教に頼る。神を求める。そういう方々とかかわってきました。

もうちょっと早く教会に来てくださればよかったのに、と言いたくなることも、しばしばでした。でも、私も他人事だとは思えません。自分だっていつ同じ立場に立つことになるか分かりません。一寸先は闇です。

皆さんにお願いしたいことがあります。「教会の牧師になってください」とは言いません。止めもしませんが、お勧めはしません。けっこう大変な仕事ですので。そういうことよりも、最後の最後まで「自分以外の人の重荷を担う」人になってほしいです。簡単に見捨てないで、切り捨てないで。

私も人のことは言えません。しかし、私には私の重荷を担ってもらえる「方々」が、また「方」がいます。最後の最後まで私のことを見捨てないでくれる仲間がいます。そして最後の最後まで私のことを見捨てない神がいてくださいます。皆さんにも必ずそのような仲間が与えられます。神はあなたを見捨てない。それが最後の最後の望みです。

(2016年6月6日、千葉英和高等学校 学校礼拝)

2004年11月21日日曜日

十字架のほかに誇るものなし

ガラテヤの信徒への手紙6・11~18

「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」

ここで必ず問題になることが二つあります。第一は、なぜパウロはこの部分を「大きな字で」書いたと言っているのか。第二は、なぜパウロはこの部分を「自分の手で」書いたと言っているのか、ということです。

第一の問題は「大きな字」の理由です。考えられる答えの一つは、内容を強調するために大きな字で書いた、ということです。もう一つは、パウロは大きな字しか書けなかった、ということです。

結論から言いますと、前者の説明のほうがよいと思われます。内容を強調するために、大きな字で書いたのです。しかし、後者の説明のほうがよいと考える人々もいます。その理由として挙げられるのが4・12以下に記されていることです。

パウロは、とても重い病気にかかりました。その病気の姿を見たガラテヤ教会の人々はさげすんだり忌み嫌ったりしませんでした。それどころか、自分の目をえぐり出してでもパウロに与えようとしたのです。

ですから、パウロは目の病気にかかったのではないか。パウロの目は、その後も十分に癒されることは無かったのだ。それでパウロは大きな字しか書けなくなってしまったのだ、というわけです。

しかし、パウロの病気が何であったのかは特定できません。その点がはっきりしないかぎり、この問題は解決しません。仮説の上に仮説を重ねて行くことは危険です。それよりも前者の説明のほうがよいでしょう。

第二の問題は「自筆」の理由です。ここに書いてあることを素直に受けとるとしたら、今この個所から、パウロ自身が筆をとって書きはじめた、という意味にとれます。しかし、それなら、これまでの文章は、誰が書いていたのでしょうか。

この問題については、ローマの信徒への手紙16・22の記事がおそらく参考になります。「この手紙を筆記したわたしテルティオ」という名前が出てきます。パウロには、秘書がいたのです。この点は明言されていますので確実に言いうることです。ただし、ガラテヤの信徒への手紙を筆記したのがテルティオだったかどうか、までは分かりません。

しかし、わたしたちにとって大切なことは、この手紙を筆記した人物が誰か、というようなことよりも、むしろ、パウロの伝道活動は、多くのスタッフによる助けとサポートによって成り立っていた、という事実そのものです。

パウロは、自分ひとりで何もかもしていたのではありません。それどころか、彼ひとりでは何もできなかったであろう、というべきです。

誰にも迷惑をかけたくない。わたしひとりで何でもできる。誰の助けも必要ないという思いは、まことに尊いものですが、限界もあるでしょう。

パウロでさえ、自分の手で長い文章を書いたりはしませんでした。伝道旅行にも、必ずパートナーを連れて行きました。旅行先でも、いろんな人々に助けてもらっていました。

「わたしは、誰にも迷惑をかけないで、ポックリ死にたい」と仰る方々がおられます。そのような方々には、どうか、もっとたくさん、周囲の人々に迷惑をかけてください、と申しあげたいのです。教会に大勢の人々が集まっていることの理由を考えてみていただきたいのです。

「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」

今日の個所、この手紙の最後には、この手紙全体の要点が書かれている、と考えることができます。内容的には、繰り返しです。もう一度全体の内容を思い返してみてください。長々と書いてきましたが、わたしの言いたかったことは要するにこの点です、ということを最後に整理し、まとめる意図があると言えます。

ガラテヤ教会の人々に、割礼を受けさせようとした人々がいました。とくに「異邦人」と呼ばれる人々は、ユダヤ人のように、幼いときに割礼を受けてはいませんでした。その異邦人たちにも割礼を受けさせるべきだ、と主張した人々がいたのです。

しかし、パウロは、そのような主張に強く反対し、また、そのようなことを語る人々に向かって激しく抗議しました。そのようなことを語る人々の中には、当時のキリスト教会の最高権威者であった使徒ペトロさえ混ざっていたのです。

そういう人に逆らって何かを語ること自体、とてもたいへんなことであると思います。とくに、当時のパウロは、キリスト教会にとっての"新入り"でしたから。

また、彼にはかつてキリスト教会に対する熱心な迫害者であった、という"前歴"がありましたから。そのような彼が、教会の中で信頼されるようになるためには、かなりの時間や努力が必要だったに違いありません。

しかし、この個所を読みながら、わたしは、もう一つの見方ができるのではないか、と思わされました。

ここでパウロは「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに」と書いています。

これはおそらくパウロの言うとおりなのだとは思いますが、少し微妙な問題が含まれているのでは、とも感じました。とにかく一度、逆の立場から考え直してみる必要があるのではないか。パウロが激しく抗議した人々、とくに使徒ペトロの側にも、いくらか同情の余地があるのではないか、と感じたのです。

どういうことかと申しますと、たとえば、わたしたち自身のこととして考えてみたときに、同じ教会の仲間たちが、誰かから激しい迫害を受けているような姿を黙って見ていることができるでしょうか。死んでも殺されても構わないという決意や自覚は、尊いものかもしれません。しかし、実際に殺されて死んでいく人々を、冷静に直視できる人がいるでしょうか。難しいと思うのです。

たとえば、もし、このときのペトロの行動が「教会のだれ一人、もう二度と傷つけたくないし、失いたくない」という思いに根ざしたものであったとしたら、同情の余地があるはずです。全く理解できない、とまでは言い切れないものが、あるのです。

しかし、パウロの言葉のほうが、全く理解できない、と言いたいわけではありません。そういう意味ではありません。そして、パウロが語っていることこそが、どちらかといえば"弱い人々"の立場に立っていると感じます。パウロは、イエス・キリストへの信仰を告白し、洗礼を受けたばかりの、生まれたての赤ちゃんの信仰者たちの信仰を守ろうとしているのです。

迫害の手を恐れるがゆえに、迫害を受けないように、こちら側の態度を改める、というのは、結局のところ、迫害者の側に身を置くことを意味します。事実上、迫害の正当性を認めることを意味し、当時新しく誕生したばかりのキリスト教会の信仰の自由を否定することを意味します。

しかし、本当にそれでよいのか、というのがパウロの言い分である、と言えるでしょう。迫害に屈してはならないし、認めてもならない。イエス・キリストを信じて生きる自由によって生きはじめた人々の信仰を守り抜くことこそが、教会の牧者の責任ではないのか、ということを、パウロは語っているのです。

「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていません」と書かれています。律法主義者は、少しも律法を守っていない、つまり、神の御心を行っていない、という意味です。律法主義は端的に罪なのです。

迫害を恐れて行動することには、同情の余地があります。しかし、だからといって、罪を是認することはできないのです。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがありますように。」

先ほどわたしは、パウロの道だけではなく、ペトロの道もある、少なくとも同情の余地はありうる、というような話をしました。パウロのように前に進むか、ペトロのように後ろに下がるか、です。

しかし、さらによく考えてみると、そもそも、この点で、行くべきか・戻るべきかということを判断すること自体、わたしたちキリスト者には、もはや許されていないのではないか、という問題も残るのです。

それはなぜか、と言いますと、わたしたちは、まさにパウロが言うように、今はもう、イエス・キリストと共に十字架にはりつけにされてしまっているからです。

キリストへと結び合わされ、キリストと共に生きるようになった者は、十字架にはりつけにされているのです。そこから降りることは、もはやできません。イエス・キリストと共に生きる人生を、途中でやめることはできないのです。

しかし、このことを、わたしは、何か悲壮感のようなものから、申し上げているのではありません。どんなに苦しくてもつらくても、煮え湯を飲まされても、キリスト者であることをやめることができない、というような悲壮感ではありません。

そうではないはずです。わたしたちは、救われたとき、何よりもまず、この人生を喜ぶ道を教えられたはずです。

ある先生は言いました。

「騙されたと思って、信じてください。わたし自身は、キリスト者になったこと、この信仰に生きるようになったことを、ただの一度も後悔したことはありません。」

わたしも、本当にそうだと思います。しかし、わたしは少し違った言葉でお勧めします。

「決して騙したりはしません。騙されたとは思わないで、信じてください。わたし自身は、キリスト者になったこと、この信仰に生きるようになったことを、ただの一度も後悔したことはありません。」

なぜなら、信仰によって生きるとき、わたしたちには人生の喜びが与えられるからです。罪の泥沼の中で、這いずり回り続ける苦しみから解放されるからです。

だからこそ、パウロは、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものがあってはならない」と書いています。「大きな字で、自分の手で」書いています。

わたしには、他に誇るものは何もない。何の取り柄もないし、善いところもない、と感じる。人に見せびらかすことができるようなものは、何一つ持っていない。

しかし、わたしの誇りは、十字架である。十字架につけられて死んでくださった救い主イエス・キリスト、そして、イエス・キリストと共にこのわたしがはりつけにされているこの十字架を、わたしは誇る。

あの十字架、あの救い主イエス・キリストの贖いの死ということなしには、わたしたちは、罪の中から決して救われることはなかったのです。

十字架を誇る、とは、わたしが(キリストの十字架によって)罪から救われていることを誇る、ということでもあります。

「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」

最後の最後に、パウロは、またなんだか、ぶっきらぼうで、嫌味っぽい感じのことを書いています。

「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい」。

こんな手紙を二度と書きたくない、という意味かもしれません。この手紙の中には、ケンカ腰で書いたとしか思えない、非常に乱暴に書きなぐった感じの部分もありました。こんな手紙は二度と読みたくない、と思われてしまうかもしれません。

しかし、彼はただ、分かってほしかっただけなのです。パウロの願いは、信仰によって生きる人生の幸福をみんなに味わってほしいという、ただそれだけです。

割礼を受けるかどうかなど、そんなことは、どうだってよいことだ。そんなことは問題にならない。

あなたには信仰があるか。生きる喜びがあるか。それだけが問題だ。

そのことを、それだけを、彼らに分かってほしかった。ただそれだけなのです!

このパウロの願いが、わたしたちみんなの願いとなり、この手紙を読む、すべての時代の、すべての教会の、すべての信徒たちのものとなりますように、祈りましょう。

(2004年11月21日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年11月14日日曜日

互いに重荷を担いなさい

ガラテヤの信徒への手紙6・1~10

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」

ここでパウロがガラテヤ教会の人々に勧めていることは、すべての時代のすべての教会の信徒たちが、お互いに行うべき「魂の配慮」の必要性です。

教会内で行われる、この意味での「魂の配慮」を、わたしたちは「牧会」という名で呼んできました。「牧会」という言葉そのものは、牧師の「牧」の字、教会の「会」の字が使われますので、つい牧師だけの仕事であるかのように思われがちです。しかし、この意味での牧会は、牧師だけの仕事ではありません。教会員全員の仕事です。

この「牧会」というものを信徒相互で行うことを「相互牧会」と言います。ですから、パウロが書いているのは「相互牧会のすすめ」と呼ぶことができる事柄です。

「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」とあります。「万一・・・不注意にも」という言葉で強調されていることは、「故意や悪意からではない罪」ということでしょう。故意や悪意は少しも無かった。しかし、たとえそうであっても、「万一・・・不注意にも」、わたしたちは罪を犯してしまうことがある、ということを、パウロは認めています。

そのような場合には、「霊に導かれて生きているあなたがた」、すなわち、聖霊のみわざにおいて救い主イエス・キリストへの信仰を与えられて生きているあなたがたは、「そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」とパウロは勧めているのです。

怖い目でにらみつけて、毛嫌いするのではありません。正反対です。「柔和な心で正しい道に立ち帰らせる」とは、罪を犯した人が真に悔い改めて、正しい信仰に基づく教会生活を再開することです。キリストの兄弟姉妹として、神の家族として、赦し合い、受け入れ合うことができるようにするために、聖書の教えに従って生きる道へと戻っていただくように、働きかけることです。そのことを、わたしたちは「牧会」において最も大切なことと考えます。

しかも、パウロは、この意味での「牧会」を「霊に導かれて生きているあなたがた」がしなさい、と言っています。わたしがします、というのではありません。牧会は伝道者・牧師だけの仕事ではありません。伝道者・牧師の仕事でもあります。しかし、それは聖霊に導かれて生きている、すべてのキリスト者の務めです。教会員全員の務めなのです。

続けて、パウロは、「あなたがた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」と書いています。この言葉には、二つの意味を考えることができます。

考えられる第一の意味は、この言葉どおり、自分自身が罪のわざへと誘惑されないようにする、自分自身への注意と反省です。

「人のふり見てわがふり直せ」と言います。「他山の石」という言葉もあります。イエスさまは、語られました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイによる福音書7・1〜2)。他人の罪を裁く人は、その裁きのまなざしの中から自分自身を見失ったり、見落としたりしてはならない、ということです。

考えられる第二の意味は、当時の律法学者たちに対する厳しい批判です。

イエスさまやパウロの目から見ると、律法学者たちは、自分のことを棚に上げて、他人を批判することに熱心な人々でした。他人の問題や欠点を見つけ出しては、その人の重荷を増し加えることが得意な人々でした。彼らは「あなたのここが問題だ。ここが悪い」と、ただ指摘するだけです。イエスさまが、そしてパウロが厳しく批判した人々は、どうやら、そのあたりに、大きな問題があったのです。

他人の批判をするだけなら、簡単です。イエスさまは、次のようにも語られました。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイによる福音書7・3〜5)。そのとおりです。他人の問題を指摘したいと思う人は、その前に自分の問題を、まず解決することが求められているのです。

しかし、パウロの言葉は、いわばもう一歩、先に踏み込んでいます。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。ここに「互いに重荷を担う」とありますのは、以前の日本聖書協会訳の新約聖書(1954年)では「互に重荷を負い合いなさい」と訳されていました。前の訳のほうが、わたしの心には、ぴったりはまりますし、パウロの意図を明確に言い当てることができます。

「重荷を互いに負い合う」とは、わたしの重荷をあなたが負い、あなたの重荷をわたしが負う、という相互の助け合いの関係です。この関係は「相互依存関係」(インターディペンデンス)の一種であると理解できます。「完全に自立した両者の対等関係」(サイド・バイ・サイド)を、必ずしも意味しません。言うならば、わたしの目の中の丸太をあなたに取り除いてもらいながら、あなたの目の中のおが屑をわたしに取らせていただくことです。

そのような関係が、わたしたち教会の中では許されることであるし、必要なことでもあるのです。

「完全に自立した両者の対等関係」(サイド・バイ・サイド)の関係は、ある意味で理想的であると言えます。しかし、ただそれだけが、教会の中での信徒同士の協力関係のあり方である、となると、ある人々にとっては、辛いと感じるだけです。

しかし、ある人が他の人に依存しているだけの状態が、いつまでも続く、というのも、考えものです。

一方だけが重荷を負う役目、他方は重荷を負わせる役目、というような関係が固定し、ずっと続いてしまうようであれば、やっぱりちょっと困るし、できればその関係は変えていかなければならない、と感じるでしょう。一方は、毎日泣いている。他方は、毎日笑っている。それでは困ります。

つらいときは、みんな一緒。喜ぶときも、みんな一緒。このような関係は、どのようにしたら、作っていけるのでしょうか。

「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」

ここには、ずいぶんと厳しい言葉が語られているようにも感じます。しかし、ポイントは明確です。先ほど申し上げたことに付随する、もう一つの側面であると思われます。

パウロは、まず「互いに重荷を担いなさい」と書きました。先ほどわたしは、このことを「相互依存関係」(インターディペンデンス)という表現を用いて説明しました。しかし、パウロとしては、それだけで問題が解決するわけではないと思ったのでしょう。さらなる問題がある。「お互いに」というこの一点が教会の中で真剣に考え抜かれなければならないときには、どうしても避けられない問題がある、ということです。

第一の問題は、一言で言ってしまえば、そのような協力関係の中にさえ、思わず知らず、傲慢の罪というものが忍びこんでくる危険性がある、ということになるでしょう。

「互いに重荷を担う」とはいえ、現実はもう少しシビアである、という場合があります。一方には、常に「みんなの重荷を負わなければならない」と必死で踏ん張っている人々がいる。他方には、常に「わたしの重荷は全部だれかに負ってもらいたい」と感じている人々がいる。このような構造的な関係が、たとえ教会の中であっても、避けがたく起こってきてしまう、という問題です。

そういうときに、教会の中に忍び込んでくるのが、傲慢の罪であると、パウロは考えているようです。もっとも、ここでパウロが「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人」と、非常に辛らつな言葉で指摘しているのは誰のことかについては、はっきり特定することができません。

「みんなの重荷を負わなければならない」という言い方そのものが傲慢だ、という意味でしょうか。「わたしの重荷は全部だれかに負ってもらいたい」という言い方のほうが傲慢でしょうか。この判断は難しいものです。

しかし、だからこそ、第二の問題が生じます。「互いに重荷を負い合う」という目標を真に達成し、実現するためには、「めいめいが自分の重荷を担う」ということが、どうしても必要であるということです。一方は全責任を負わされる、他方は全責任を丸投げする、というわけには行かないのです。

ただ、そう言いながら、わたし自身の中には、少し、どちらかと言うと弱いほうの立場を、弁護ないし応援したくなる気持ちがわいてきます。これは、教会に限った話ではありません。どこの社会にも、自分で自分の重荷を負うことが、もはや全くできない状態にある人がいるからです。自分で負える部分は、いわばゼロ。他の人に百パーセント担ってもらわなければ、生きていくことさえできない人がいるのです。

しかし、その人の重荷を担う人の側も、一苦労です。少しくらい、不平や不満を口にしたくなるときがあるでしょう。その言い分も、十分に分かるつもりです。

しかし、そういうときにこそ、わたしたちは、教会だからこそ、考えなければならないことがあるのではないでしょうか。それは、互いに重荷を担うこの場所が他ならぬ「教会」である、というこの点です。

「教会」とは、ただ単なる個人の集まりであるという以上に、組織化され、制度化された「団体」であるという性格を持っているのです。「教会」が「団体」であるかぎり、同じ負担であっても、特定の個人に偏った負担という方法ではなく、できるかぎりこの団体の総力を結集したところで「互いに担い合う」という方法がふさわしいのです。

教会の信徒同士の"魂の配慮"という意味での「牧会」ないし「相互牧会」とは何かということについて、わたしたちは、10月17日に行いました特別伝道集会の午後の第二部で、関口津矢子さんの発題から、いろいろなことを学ぶことができました。わたしも勉強させていただきました。発題の要旨が『まきば』の10月号に掲載されています。

その中で、とくに、ぜひ読み返していただきたい言葉は、以下の部分です。

「カルヴァンは、教会の組織化・制度化によって、ルターよりもいっそう教会の牧会的機能を推し進め、キリスト者がどのように生きるべきかという牧会的配慮に強調点を置きました。これが現代に受け継がれ、『教会訓練』を重んじることが改革派教会の特長になりました」(松戸小金原教会『まきば』第293号、2004年10月24日発行、5ページ)。

このことに関して、わたし自身、いつも考えさせられておりますことは、教会の組織化・制度化の目的は何か、ということです。わたしたち日本キリスト改革派教会は、おそらく日本の他のどの教派・どの教団よりも、教会の組織化・制度化ということに熱心であると思います。これは、大いに自慢してよいところです。

しかし、問題は、その目的は何か、ということです。わたしたちが重んじる教会の組織化・制度化の目的は、ただひたすら「牧会的配慮」ということが、きちんとなされていくためである、ということです。

教会には、いろんな人が集まります。しかも、多くの人々が、自分の人生に重大な危機が訪れ、大きな問題を抱えて駆け込んできます。その意味で、教会は「問題だらけ」です。「そんな言い方、しないでくださいよ」と言われるかもしれませんけれども、わたし自身は、教会とはそういうものであってよいし、そうあるべきだと考えています。

しかし、そこで、わたしたちの話が終わるわけではありません。関口津矢子さんが書いています。「わたしたちは危機的状況を乗り越えたときにこそ、信仰的な成長が与えられることを知っています。そして十分ないやしと慰めが与えられると、今度は他者を理解する者・支える者へと変えられていくのです」(同上頁)。

教会生活の「長さ」のことを言われると、立つ瀬がない、とお感じになる方がおられるようです。おそらく謙遜の表現として「教会生活の年数が長いばかりで、中身はちっとも成長していません」と言われる方がおられます。

しかし、それは禁句にしましょう。他の人々よりも少し先に救われた者たちは、やはり、今度こそは、他の人を助ける働きに就くことが求められているのです。

ただし、その場合、自分自身の重荷も、まだ少し、あるいは、たくさん、他の人々に負うてもらわなければならない状態のままであることには、変わりない。完全な意味での「自立」は、できていない。しかし、たとえそうであったとしても、他のひとの重荷を負い合おうと思う気持ちや心があるかどうかが、問われているのです。

そういう心を持っている人々が増えてくるときに、教会がぐんぐん成長しはじめます。先週、この教会のある方から伺いました。

「最近、教会に来るのが、楽しくなりました。前はそうではなかった、という意味ではありません。でも、教会の門をくぐったばかりの最初の頃は、緊張していましたし、理解できないところもありました。教会に通うのがおっくうだ、と感じたこともあります。しかし、今は、教会の中に友達もできたし、聖書の御言葉もだんだんと理解できるようになったので、教会が楽しくなりました。朝起きたときに、これから教会に行こう、という気持ちがわいてくるのです」。

この気持ちが大切ではありませんか。一つのポイントは、教会の中に友達ができた、ということです。教会の中でこそ、互いに重荷を負い合える仲間が与えられるのです。信仰によって互いに結び合わされた神の家族が与えられるのです。

そして、いわばその次に来る大事なポイントとして、この「互いに重荷を負い合おう」という一人一人の小さな心を集めて、より大きな力とするために、教会の組織化・制度化ということを、きちんとして行かなければならないのです。

この続きのところで、パウロは、いわゆる教会のお金の問題、とくに説教者への謝礼とか、牧師給与といった事柄に直接的に関わってきてしまう非常に具体的な問題を、取り上げています。わたしは牧師という立場にありますので、正直に言って、ちょっと触れにくい問題です。しかし、非常に大事なことだと思っています。

教会の組織化・制度化の目的の大きな一つに、教会財産の管理があります。しかし、そのことが直接的に、「牧会的な」問題でもあります。

なぜかといえば、わたしたちの多くが、教会の中で、信仰的なつまずきを覚え、もはや信仰生活を続けていけないのではないか、と思うほどの深い傷を受けてしまうことさえある、その最も大きな原因は、かなりの部分で、お金の問題なのです。

このことをきちんとしていくことが、教会形成において、「魂の配慮」として、最も重要なことでもあるのです。

(2004年11月14日、松戸小金原教会主日礼拝)


2004年11月7日日曜日

喜びを禁じる掟はない


ガラテヤの信徒への手紙5・22~26

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑みあったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」

今日の個所に書かれていることを一言でまとめて言うならば、わたしたちキリスト者に与えられる霊的な賜物とは、どのようなものか、ということです。

「霊の結ぶ実」とあります。「実」の意味はフルーツ(くだもの)です。結果という意味もあります。「霊の結ぶ実」とは、救い主イエス・キリストを信じる人の内に聖霊なる神が住み込んでくださった結果として、その人に与えられる霊的な賜物のことです。賜物とは、贈り物(プレゼント)です。

このことを理解していただくために開いていただきたい関連の個所は、マタイによる福音書7・17~18です。ここでイエス・キリストは、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともできない」と語っておられます。実を見て木を知りなさい、という意味です。

しかし、これは、原因と結果の関係を機械的・法則的に結び合わせる、あの単なるいわゆる「因果論」とは異なるものである、と言わなければなりません。

マタイによる福音書をご覧いただきますと、「実を見て木を知る」という御言が記されている段落は、「偽預言者を警戒しなさい」という警告から始まっています。そして、次のように言われます。「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」。

ここでイエスさまが問題にしておられることは、明らかに、ひとりの人間の「内と外」、つまり、心の中にあるものと外側に見えるものとの関係です。単純に、原因と結果の関係についての話ではない、ということが分かるのです。

むしろ、ある意味で、もっと厳しいかもしれません。あの人は、あのものは、外側から見ると善いものに見えるかもしれないが、内側がひどいということがありうるから、気をつけなさい、というわけですから。

パウロの場合も、じつは、同じことが言えると思われます。

「霊の結ぶ実」、すなわち、聖霊なる神がわたしのうちに住み込んでくださった結果としてわたしに与えられる霊的賜物の意味は、このわたしの「内と外」、すなわち一人の人間の内面性と外面性は決して無関係ではありえない、ということを語っているのである、と理解することができるのです。

少し分かりにくい言い方になってしまったかもしれません。もっと平易に言い直せると思います。ごく単純に言えば、たとえば、わたしたちは、とても腹が立っているときニコニコ笑っていられることは、ほとんどありえないだろう、というようなことです。

もちろん、なかには、「顔で笑って・心で泣いて」ということが上手な方がおられるかもしれません。そのほうがオトナらしい態度であり、中身が丸見えというのはコドモっぽい、と思われるかもしれません。しかし、顔のどこかが歪んでいる。目の奥が笑っていない、ということがありえます。見抜く人は、見抜くのです。

あるいは、逆に考えてみて、その人が今このとき考えていること、心の中で思っていることが、全く外から見えないし、分からない、というのは、恐ろしいことでもあります。

児童心理学者たちが口を揃えて言うことは、「グズグズ言ったりわがままを言ったりするくらいの子どものほうが健全である」ということでしょう。

思ったことを口にできないし、表情にも表さない。質問しても答えない。固い殻に閉じこもり、無表情のマスクをかぶり、自分の中身、真の姿、あからさまな正体を寸部漏らさず隠し通してしまえる子どもがいるとしたら、周囲の人は心配になります。

いや、心配になるくらいなら、まだマシなのかもしれません。何かを隠している様子が、ほんの少しでも伺えるなら、まだ良いほうです。全く分からない。いや、じつは、自分自身でも自覚がない。自覚がない、というのが、最も恐ろしいことかもしれません。

先ほどのマタイ7章の「偽預言者を警戒しなさい」という御言にこだわるようですが、ここでイエスさまが「偽預言者」と呼んでおられるのは、明らかに、当時の宗教家たちである、ということが、ここで注目されるべき点です。

彼らは当時、最も尊敬されていたのです。誇り高い仕事でした。しかし、その宗教家たちが偽物だと。「偽預言者だ」と、イエスさまは告発されました。彼ら自身に、そうであることの自覚が無かった可能性があります。

偽預言者は本物の預言者にそっくりである、と言われます。偽キリストは本物のキリストにそっくりである、と言われるのと同じです。悪い意味でのイミテーションは、本物と見分けがつかないくらい酷似しているからこそ、商売が成り立つのです。

しかし、です。たとえ、その人々が、どんなに固い殻に閉じこもり、無表情のマスクをかぶり、また、いかなる行いにおいても善意をもって振舞うことができ、人々の尊敬を集めることができたとしても、どうしても、最後まで隠し通すことができない部分がある。本物か偽物かが、バレてしまう。

そういうところが必ずある。この点こそがまさに、イエスさまの言われる「実を見て木を知ること」であり、パウロの語る「御霊の結ぶ実」という言葉の真意です。明らかに、ひとりの人間の内側と外側との関係の問題が語られているのです。

しかし、わたしは今日ここでユダヤ教の批判をしたいわけではありません。イエスさまの時代の宗教家たちの批判をしたいわけでもありません。

あるいはまた、わたしたちの時代の、あの人・この人の批判をしたいわけでもありません。わたしたち自身の日常生活の反省や自己批判をしたいわけでもありません。そうすることは大切なことではありますが、今日の話の目的ではありません。

そうではなくて、わたしが今日申し上げたいことは、わたしたち人間は、言ってみれば、じつは「薄皮一枚」のような存在であるということです。

「神さまの目から見たら」と付け加える必要があるかもしれません。

わたしたちの内側と外側との関係、内面性と外面性との関係は、少なくとも神さまの目からご覧になったときには、まさに薄皮一枚にすぎない。透けて見える。全部見える。何もかも顕わである。神はすべてをお見通しである、ということです。神の御前で何かを隠そうだなんてことを考えること自体が愚かである、ということです。

しかし、まだ、この点だけなら、わたしたちは、どこかで責められているような気持ちが残ると思います。牧師は、何かを言いたがっている。奥歯に物が挟まったような口ぶりがある、と思われるかもしれません。

しかし、今日のポイントは、誰かへの批判でもなければ、自分への批判でもありません。むしろ、神さまの目から見るとまさに「薄皮一枚」であるこのわたしの存在は、入れ物であり、器(うつわ)であり、容器である、ということです。

そして、その入れ物の中に、もし救い主イエス・キリストを信じる信仰があり、また、その信仰を持っている人々の内側に聖霊というお方が住み込んでくださるならば、その人の存在はまさに光り輝くものになるのだ、ということです。そして、その光は、外側から見ても、よく見えるものなのだ、ということです。

まだダメでしょうか。

まだ責められているような気がする。あるいは、どこか貶(けな)されているような気がする。人間は入れ物だ。その中に宿ってくださる神が輝いている、と牧師は語る。入れ物である人間、このわたし自身は、ガラスのような存在であり、道具にすぎない、ということだ。それならば、神さまが輝くんでしょ。人間自身が輝くわけではないんでしょ、と思われるでしょうか。

しかし、そうではありません。たしかに、わたしたちは、ある意味で、わたしたちの内なる御霊の働きの輝きを外側に照らし出すことが許されている存在です。自分自身は薄皮一枚のような存在であり、透明ガラスのような存在です。けれども、わたしたちは単なる道具なのか、自分自身には存在する目的も意味もない物体にすぎないのか、というと、決してそういうことではないのです。

パウロは語ります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。ここでまず認めたいことは、これらの“善きもの”が、わたしたちの中には確かにある、という事実です。

そして、その上で、その次に、先週学んだガラテヤ5・16以下の御言葉、とくに19節の「肉の業は明らかです」以下に書かれていた、いわゆる「悪徳表」の内容を思い起こさなければなりません。あれらの“悪しきもの”も、わたしたちの内側には、たくさん潜んでいます。そのことを完全に否定できる人は一人もいないのです。

しかしまた、このように考えてくると分かるのは、このわたしという一人の人間の中には“善きもの”と“悪しきもの”との両方が共存している、ということです。

そして、もしそうであるならば、わたしたちの中身がすべて透けて見える、ということのすべてが悪いわけではない、と考えることもできるでしょう。わたしたちの内側にあるものすべてが悪いわけではないからです。「ほらほら、見て見て」と多くの人々に見せびらかしたいものも、わたしたちの内側には確かにあると信じることができるからです。

それこそがわたしの愛、わたしの喜びです。

わたしの内に神御自身が与えてくださった喜びは、たとえば、わたしの中で、わたしを抜きにして、神さまだけが勝手に喜んでおられるというようなものではありえません。

それは全くおかしな話です。プレゼントなのですから。神の喜びがわたしの喜びになるのです。

また、わたしの平和、わたしの寛容、わたしの親切、わたしの善意です。わたしの誠実、わたしの柔和、わたしの節制です。

そういうものを、わたしたちは、いわば先天的に生まれ持っている、と語ることについては、慎重でなければならないと思います。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。わたしたちの心の中に、生まれたときから良いものがある、ということは、絶対的に否定されるべきことではありません。

しかし、問題が起こるのは、むしろ、“生まれた後”でしょう。

「ほらほら、見て見て」と見せびらかしたいような、このわたしの内なる善きものを、見て見ぬふりをされる。全く評価してもらえない。「それがどうしたの?」と冷たくあしらわれる。「うるさいな!」と突き飛ばされる。

そのような積み重ねの中で、わたしたちは、次第に、わたしの内なる“善きもの”には意味も価値もない、と思い込み、わたしの外に追い出してしまおうとするのです。

けれども、また、ここに挙げられている“善きもの”を、パウロが「霊の結ぶ実」と呼んでいることが救いです。

なぜなら、それが人間の内に生まれる前から備わっていたもの、と言われているのではなくて、聖霊なる神の賜物である、と言われているかぎり、それは、まさに、あとから、外から、このわたしの中に入れ込まれ、混ぜ込まれた何かである、ということを意味する以外にないからです。

そうだとすれば、一度くらい失われても、いや、何度失われても、何度でも、詰め込み直すことができるものである、と信じることができます。

そうであるならば、わたしたちは、自分の中には“善きもの”がない、ということで、絶望すべきではありません。わたしの中の“善きもの”は、言うならば、「これから身につけていくことができるもの」であり、「いつでも詰め込むことができるもの」なのです。

だからこそ、わたしは、このわたしたちの小さな入れ物の中に、大いに、どんどん、大量の神の恵みを詰め込んでいきましょう、と先週申し上げたのです。

キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿る「ようにしましょう」。讃美歌をうたい、祈りましょう、と。

豊かに宿る「ようにする」のは、自分自身です。このわたしが、キリストの言葉を、自分の中に、たくさん詰め込むのです。それは自分の努力目標です。わたしのなすべき仕事です。これこそが、先週ご紹介しましたコロサイの信徒への手紙3・16~17の真意なのです。

御言葉と讃美と祈りは、わたしたちの存在を支える生命そのものです。これらのものが失われると、わたしたちの存在は倒れてしまうのです。

豊かな神の恵みによって、このわたしが喜びに満ちあふれる存在になること。このことを禁じる掟は、どこにもない。

喜んで、楽しんで、礼拝して、讃美して、祈って、何が悪いのか、ということです。

このわたしが喜びの人生を送ることを、誰にも、何にも、邪魔させない!

これがパウロのメッセージです。

(2004年11月7日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年10月31日日曜日

聖霊なる神の導き


ガラテヤの信徒への手紙5・16~21

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」

パウロは、ここまでのところで、救い主イエス・キリストを信じて生きる者たちには、神が「自由」を与えてくださる、ということを、語ってきました。5・1に「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」と書かれています。

そして、今日の個所でパウロが書いていることは、そのさらなる説明です。「ひとが自由になる」とは、「何から」自由になるということなのか。それは要するに「罪を犯したい」という欲望や誘惑の束縛からの自由である、ということです。「罪からの自由」こそが救いです。救いとは、束縛からの解放、という意味を持っているのです。

救われる、ということは、しかし、そういう欲望や誘惑を全く感じないようになる、という意味ではありません。おそらく感じると思います。

イエス・キリストへの信仰を与えられ、洗礼を受け、キリスト者になり、教会のメンバーになり、何十年も教会に通い続けるとしても、感じ続けると思います。じつは、わたしたち自身が、毎日、そのような欲望を感じ、誘惑され続けているのだと思います。その種の試練や葛藤は、生涯続くのだと思います。そうではないでしょうか。

欲望や誘惑、試練や葛藤は、死ぬまで続く。だからこそ、わたしたちは、その戦いから降りることができない。気を抜くことができない。卒業することができないのです。

パウロは「霊の導きに従って歩みなさい」と書いています。ここで「霊」とは何のことでしょうか。続きに「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」と書かれているのですから、ここで分かることは、「霊の導き」と「肉の欲望」は明らかに対立的な関係にあるということです。

そのことを、パウロは次にはっきり書いています。 「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」

「自分のしたいと思うことができない」。パウロは、これと同じようなことを、別の手紙の中にも書いています。今日の個所の言葉によく似ている表現が出てくるのは、ローマの信徒への手紙7・18~20です。

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もしわたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。

「自分のしたいと思うことができない」とか、「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」とは、どのような状態なのでしょうか。何となく「壊れている」感じがしてきます。正常ではない感じです。

善いことをしたいという願いは、ある。その意志もある。しかし、それを実行することができない。

悪いことをしてはならないという教育を、受けた。その自覚があり、意志もある。それなのに、してはならないことを、ついつい、してしまう。

わたしたちの中に起こる試練や葛藤の様子は、まさにパウロが描き出しているとおりである、とわたしは感じます。パウロは二千年前の人なのです。そのパウロがわたしたちのことをよく知っている。なんでこんなに、この人は、このわたしの今の気持ちを見抜いているのだろうか、と思うほどです。

悪いことを、ついつい、してしまう。続けているうちに、やめられなくなる。ここで、どうやら考えられることは、やはり、わたしたちを悪事へと誘惑するものは、甘くて美味しい味がする、ということではないでしょうか。

しかし、その先は地獄です。底なし沼です。そのことを思い起こさなければなりません。

最近、本当にしつこいのが、電子メールによるいろんな種類の勧誘です。ご存じない方かもおられると思いますので少し説明しますと、わたしのメールアドレスのように、教会のホームページで公開してしまっているようなものは、確実に標的にされます。そのようなメールアドレスを自動的に探し出して集めるソフトがあるのです。

とにかく、いろんな種類の「勧誘」のメールが、毎日・毎日、数十通単位で送りつけられてきます。何を買えだの、何があるだの。女性のふりをして「わたしと付き合ってください」というようなのもあります。

真っ赤なウソです。ありえない。穴に落ちたら、その先は騙しと脅迫の世界です。

しかし、わたしたちには、時として、そのような言葉に甘く美味しい味を感じとってしまう瞬間があるのかもしれない、ということを疑ってみる必要があります。地獄の一歩手前で目が覚める。しかし、そのときは手遅れであった、ということが、ありうるのです。

「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。」

ここでパウロが書いている「律法の下にはいません」の意味は、おそらく、「律法主義の束縛の下にはいません」ということです。律法主義は、端的に「罪」なのです。律法主義は、なんら律法そのものに忠実な生き方ではないのです。

むしろ、パウロは、「律法主義」を「肉の欲望を満足させること」へと結びつけています。とくにこの手紙の中でパウロが、「律法主義」の典型であるとして告発しているのは、「ひとが救われるためには、割礼を受けなければならない」とする教えでした。それは、自分の満足のために、自分の正しさを主張するために、しるしや証拠を欲しがっているだけなのだ、と言いたいです。

「しかし、霊に導かれているなら」と、パウロは書いています。「霊の導きに従って歩みなさい」と。この言葉と響きあうのが5・6の御言です。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」

外から見えるしるしや証拠がある、ということで満足する生き方が、律法主義であり、割礼を受けることです。しかし、そのようなことは、問題ではない。信仰が問題である。愛が問題である。あなたの心の中にあるものは何か、ということが問題である。

ここで「霊」とは、神の霊、霊なる神、すなわち、聖霊なる神のことです。それ以外のことを考えることはできません。

聖霊なる神の導きが問題である。聖霊があなたがたのうちに注がれ、宿っているとき、あなたの中に信仰があり、愛があり、希望があり、そして喜びがある。そのことが問題である。割礼は問題ではない。これがパウロのメッセージです。

「望む善は行わず、望まない悪を行っている」。この何となく「壊れている」感じ、正常ではない状態にあるとき、わたしたちの心の中に失われているものがある、と思います。それが、じつは信仰であり、愛であり、希望であり、喜びである。

心の中がケバケバしている。霊的に飢え乾いている。イライラしている。すぐ怒る。腹が立つ。破壊衝動が起こる。攻撃的になる。イヤミの一つも口にしたくなる。投げやりになる。すべてを投げ出し、投げ棄てたくなる。生きていくのが嫌になる。まさにそのようなとき、わたしたちは、聖霊なる神の導きに従っていないのです。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」

これは、言うならば、わたしたちを地獄に連れて行く誘惑の一覧表だと思っていただくとよいかと思います。「悪徳表」という呼び名もあります。

ですから、ちょっと試しに味わってみよう、などと思わないほうがよいです。すぐに中毒になります。怖いもの見たさというのも、危険です。怪しげな格好で近づいてきたことに気づいたときには、一目散に逃げるのが、正解です。後ろから追いかけてくるかもしれません。逃げましょう。そのときは逃げてよいし、逃げなければならないのです。

しかし、おそらく、逃げきれないときもあります。この種の欲望が、誰のせいでもなく、自分自身の心の中に起こってきたときです。

わたしたちは、この種の欲望を、心の中に、打ち消しがたく、抱え持ってしまうことがあります。毒の味に魅せられてしまうことがあります。さじ加減とは言いませんが、ある程度までは、お付き合いしなければならないときもあるでしょう。

そういうときには、どうしたらよいのでしょうか。わたしは、いつも思い起こす聖書の御言があります。コロサイの信徒への手紙3・16~17です。このことは、以前にも皆さんにお話ししたことがあります。

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」

キリストの言葉が「豊かに宿るようにしなさい」と言われている、この「しなさい」と言われていることを誰がするのかと言いますと、もちろん、「あなたがた」がするのです。このわたしが、するのです。

肉の欲望、罪への誘惑、毒の味、悪事への絶えざる関心と興味。このようなものが心の中を完全に満たしてしまわないように、別のものを、たくさん、大量に、心の中に入れていくことが必要です。そして、人生には、世の中には、もっと面白いことがある、ということを知る必要があります。

キリストの言葉が面白い。讃美歌が面白い。祈りが面白い!

“聖霊なる神の導き”に従って生きるとは、まさにそのようなことに他なりません。聖書を学び、讃美歌をうたい、祈りをささげる。この三つのことは、わたしたちが教会や家庭で、いつも、いつも、していることです。今日もしています。今もしています。明日もするでしょう。これからずっと、していくのです。

わたしたちの心は、小さい入れ物です。悪いことだけ考えていると、すぐに、それだけで一杯になってしまいます。良いことを考えましょう。

しかし、これは、いわゆる単なる「プラス思考」というようなこととは、違います。内容も次元も全く違います。自分の言葉で、人間の言葉で、自分自身に言い聞かせるのではありません。神の言葉で、キリストの言葉で、このわたしの心を満たすのです。「豊かに宿るようにする」のです。

また、自分ひとりだけだと思うと、誰も知らないうちに、悪いことに手を染めてしまうかもしれません。みんなで聖書を読み、讃美歌をうたい、祈りをささげましょう。教会に通いましょう。わたしのことを心配している仲間がいる。祈ってくれている友達がいる、ということに気づきましょう。

わたしたちが悪事を働いているときには想像力の欠如があるのだと、しばしば言われます。一般的には産んでくれた親や兄弟や親戚のことを忘れていると言うのでしょう。わたしたちの場合は、神さまのことを忘れていると言います。教会の仲間たちのことを忘れていると言うのです。

事実、そのときわたしたちは、聖書の御言を忘れ、讃美の楽しみを忘れ、祈りを忘れているのです。神の国の宴(うたげ)の喜びを、忘れているのです。

毒の味に魅せられてしまわないために、神の恵みを豊かに味わいつくすことが、必要なのです。

(2004年10月31日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年10月24日日曜日

愛によって互いに仕えよ


ガラテヤの信徒への手紙5・13~15

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」

今日の個所で、パウロは、イエス・キリストによって救われた者たちに与えられている自由とはどのようなものであるのか、ということについて書いています。一言すれば、「キリスト者の自由とは何か」ということです。

『キリスト者の自由』というタイトルの有名な書物があります。16世紀ドイツの宗教改革者であり、プロテスタント教会の歴史的創始者ともなりましたマルティン・ルターの書物です。この書物のテーマも、まさに「キリスト者の自由」、つまり、わたしたちキリスト者に与えられている自由とはどのようなものであるのか、ということです。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」とあります。「自由を得るために」と訳されている言葉は、原文では「自由のために」と書いてあるだけです。「を得る」は翻訳上補われた言葉です。

「召し出された」の意味は「呼び出された」です。ちょうど、わたしたちに誰かから電話がかかってくるように、呼び出されること、コールされることです。パウロの言葉を最も単純に直訳しますと、「あなたがたは自由のために呼び出されたのです」となります。

神がわたしたちを呼び出してくださるのは、どのような仕方でか、ということについても、一言だけ申し上げておきます。

神は、わたしたちに声をかけ、わたしたちの名を呼び、わたしたちに使命を与えてくださいます。そのために神がお用いになる手段は、聖霊なる神のみわざ、とくに、神の恵みの手段としての教会の宣教(説教)です。神は、ご自身の御言葉を、イエス・キリストを通して、聖霊において、宣教(説教)という手段を用いて、わたしたちに語りかけてくださるのです。

それならば、わたしたちは、どこから呼び出されるのでしょうか。もちろん、わたしたちがかつて属していたところからです。「ところ」とは、場所・地域・団体・家族・組織・制度・体制などの一切を含む、非常に広い意味です。

そこは、どのようなところだったのでしょうか。もちろん、彼らを、そしてわたしたちを奴隷の軛につないでいたところです。パウロ自身とガラテヤ教会の場合の「奴隷の軛」とは、ユダヤ教的律法主義であった、ということを、これまで学んできました。

パウロ自身は、突然彼の目の前に、幻のうちに現れてくださった、イエス・キリストご自身の呼びかけに応えて、ユダヤ教的律法主義によって彼の心も体もがんじがらめに拘束していたユダヤ教団を捨てて、その束縛としがらみから脱出しました。

ガラテヤ教会の人々も、今度はパウロの熱心な呼びかけに応えて、パウロと同じように、ユダヤ教的律法主義の拘束の中から脱出しました。

イエス・キリストへの信仰が、彼らの人生を根本から変えていきました。そして、それによって、彼らは、全く自由になりました。それは完全なる自由です。ルターも『キリスト者の自由』の冒頭で、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」と述べています(石原謙訳、岩波文庫、1955年、11ページ)。

「ただ」と、パウロは続けています。「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。

ここに出てくる「ただ」(モノン)の意味は、「ただし」とか「しかし」ではありません。「ただひたすら」の「ただ」です。「ただそれだけ」の「ただ」です。「あなたの選ぶべき選択肢、あなたの進むべき道は、ただひたすら、それだけです。ただ一つです」の「ただ」です。オンリーワンという意味です。

ですから、パウロが語っていることは非常に明確です。「自由を得るために召し出されたあなたがたの進むべきただ一つの道は、その自由を"愛によって互いに仕える"という、ただ一つの目的のために用いることだけです」と、パウロは書いているのです。この「ただ」は、あまりぼんやりと読まないほうが良いと思います。パウロは、ふらふらしていません。この「ただ」によって、事柄の白黒を、はっきり付けているのです。

キリスト者に与えられたこの「自由」は、ただひたすら、「愛によって仕えること」のために用いられなければならないのです。自由の目的は、はっきりしているのです。ぼんやりさせてはならないし、ごまかしてはならないのです。

「自由の濫用」などは、もってのほかです。そのようなことのために、イエス・キリストにおいて神が、あなたに自由を与えたのでは決してありません。この点は間違ってはなりません。

これこそがパウロのメッセージです。

言葉を変えて言いますと、父なる神がイエス・キリストにおいて、わたしたちに与えてくださったのは、「罪を犯してもよい自由」などではありえない、ということでもあります。わたしたちに与えられている自由は、そのような自由ではないのです。そのような自由なら、最初から「要りません」と、きっぱりと断らなければならないのです。

全く反対です。神が与えてくださる真の自由とは「罪からの自由」です。「罪を犯さないでも済む自由」です。「罪を犯したい」という思いからの解放です。

まだ明確な犯罪とは言いきれないが実際の犯罪につながる可能性が高い行為のことを、「虞犯(ぐはん)行為」と呼びます。まさにそのような、犯罪行為に至る虞犯行為そのものや、それへの誘惑からの解放です。

あるいはまた、すでに犯した罪そのもの、犯罪行為、再犯行為、罪意識、罪責の念からの解放です。誰かに罪を犯したことへの後悔や、誰かから罪によって傷を受けた悲しみや苦しみからの解放です。

神がわたしたちに与えてくださるのは、そのような意味での「自由」です。「罪を犯すために用いてよい自由」などではありえないのです。

続けて「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」とあります。これは、少し慎重に読みたい言葉です。と言いますのは、パウロはこのように書いていますが、イエスさまは、あれれ、たしか、これとは少し違ったことを言っておられたような気がするからです。

見ていただきたいのは、マタイによる福音書22・34以下の記事です。

ここでイエスさまは、「律法の専門家」と称する人から、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と質問され、「二つの掟」であるとお答えになっています。

イエスさまにとってこの「二つの掟」とは、よく知られていますように、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という第一の掟と、「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟との二つです。「隣人を自分のように愛しなさい」という掟は、イエスさまによると「第二の掟」です。つまり、律法全体を要約する掟は、一つではなくて二つである、というのが、イエスさまの教えです。

ところが、パウロのほうは、一つであると言っています。少し大げさにいえば、師弟関係の中に見解の相違がある、という感じです。ですから、この点は、やはり、かなり慎重に考えなければならないところでしょう。

それで、実際に調べてみましたところ、この件に言及している注解書が見つかりました。と言いますか、わたしがいつも参考にしている座右の書が、短い言葉ながら、きちんと説明しておりました(Vgl. P. A. Van Stempvoort, De brief van Paulus aan de Galaten. De Prediking van het nieuwe testament (PNT), G. F. Callenbach N. V. Nijkerk, 1961, p. 174〜175)。

それによると、「律法に教えられているのは、イエス・キリストにおける神による、全世界に対する愛である」と言われています。その意味は、おそらく次のようなことです。

わたしたちに求められているのは、「神に対する愛」である・・・もちろん、そのとおりです。


しかし、わたしたちが愛すべき神とイエス・キリスト御自身が愛しておられるのは、わたしたちが生きているこの世界全体と、その中で生きているわたしたち自身である、ということです。イエス・キリストは、御自身よりも、そして父なる神よりも、この世界とわたしたち人間を愛しておられるのです。

わたしたちが向けるべき視線は、「神に対して」である・・・もちろん、そのとおりです。

しかし、わたしたちが見つめるべき神とイエス・キリスト御自身のまなざしは、「この世界と人類に対して」向けられている、ということです。イエス・キリストは、御自身よりも、そして父なる神よりも、この世界とわたしたち人間を見つめておられるのです。

神がわたしたちを愛してくださいます。そして、わたしたちは、その神を愛さなければなりません。しかし、「神を愛する」とは「神に従うこと」でもあります。そして、神に従うということは、神が熱いまなざしをもって見つめ、愛してくださっているこの世界と人類を、(神と共に)愛することでもあるのです。

「律法の全体は・・・隣人愛の戒めというこの一句において成就され、遂行され、全うされるのです。ローマの信徒への手紙13・8に『人を愛する者は、律法を全うしているのです』と書かれているとおりです。ここで考えられることは、いずれにせよ、隣人への愛は、神への愛から生み出されるものである、ということです」(ibid. p. 175)。

ですから、わたしたちは、次のようにも語ることができます。

わたしたちは、神の栄光を現わし、永遠に神を喜ばなければなりません。しかし、神は、わたしたちを神御自身の栄光によって輝かせてくださり、わたしたちの存在を永遠に喜んでくださるのです。神の栄光の輝きがわたしたち自身の輝きとなり、わたしたちの輝きが隣人と世界を輝かせる光となるのです。

わたしたちのうちに時々起こるのは、「わたしは、神を愛することはできる。しかし、人間を愛することはできない」という思いです。

イエスさまの言われる「第一の掟」のほうは守ることができる。しかし、「第二の掟」は守ることができない、という思いです。

宗教的熱心はある。しかし、この世の事柄には関心を持つことができない、という思いです。

神との純粋で霊的な交わりは愛する。しかし、教会や社会の中での人間同士の“人間的な”お付き合いは、面倒くさいし、わずらわしいので、まっぴらごめんです、という思いです。

これは、わたしたちにとっては大きく強い誘惑になりうるのです。

このような思いは、とくに、教会の中で争いやいざこざが起こるときに起こりやすいものです。しかし、これは少し厳しい言い方ですが、悪い意味での律法主義の一種です。たとえば、パウロがかつて属していたユダヤ教的律法主義、とくにファリサイ派のグループの中にはこのような傾向があった、ということができます。

「神を愛すること」は大切です。しかし、一方的な宗教的熱心が「人間嫌い」の傾向をもたらすことがありうるのです。律法主義(りっぽうしゅぎ)とは、言ってみれば、一方主義(いっぽうしゅぎ)なのです。

このように考えてきますと、ここでパウロが「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟だけを強調して取り上げている意図は、このような過ちに陥ることを防ぎたいということではないか、と思われてなりません。

「だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」とあります。教会の中で、互いに愛し合い、仕え合うことをせずに、それどころか、互いにかみ合い、共食いし合うことがありえます。教会も人間の集まりですから、争いが起こるのを避けることはできません。悲しいことですが、これが現実です。

そのことを、パウロはよく知っています。よく知りながら、あえて、「隣人を愛しなさい」という人間関係の掟を強調しているのです。

この文脈で持ち出すと、「何があったのか?」と思われるかもしれませんが、先週の火曜日から金曜日までの四日間、日本キリスト改革派教会の第59回定期大会が行われました。本教会を代表して、佐藤長老とわたしが出席しました。

今年の定期大会は、比較的穏やかで、落ち着いた会議となりました。しかし、当然のことながら、異なる意見が激しくぶつかり合う場面もありました。毎度のことながら、本当に疲れる会議でした。

しかし、まさか、けんかするために、教会が存在するわけではありません。わたしたちが教会に集まっている目的は、互いに愛し合うためです。互いに祈り合い、仕え合うためです。お互いを傷つけあうためではありません。

パウロの心の中に、あなたがたは、イエス・キリストへの信仰によって、せっかく律法主義という「奴隷の軛」から自由にされ、喜びに満ちた新しい人生を始めることができたのだから、もうけんかはやめにしましょう、仲良くしましょう、という思いがあったに違いありません。

「互いに滅ぼされないように注意しなさい」。このパウロの忠告に、わたしたちは、素直に耳を傾けるべきです。

(2004年10月24日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年10月10日日曜日

十字架のつまずき


ガラテヤの信徒への手紙5・7~12

「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。」

「あなたがたは、よく走っていました。それなのに」と、パウロは言います。「いったいだれが邪魔をして真理に従わせないようにさせたのですか。」

このパウロの言葉の裏側には、ガラテヤ教会の人々をかばう思いがある、と言えます。あなたがたは惑わされているだけだ、と言ってあげている、という面があります。

しかし、本当のところを言えば、ガラテヤ教会の人々には全く責任が無い、というようなことは、ありえない話です。彼ら自身が、もう少し忠実にパウロの教えにとどまっていさえすれば、そのような問題は起こらなかったのです。

「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです」とあります。「パン種」の意味は、ご存じでしょう。それ自体は小さくても全体に影響を及ぼす大きな力を持っているものについての例えです。しかし、ここでは悪い意味で使われています。

パウロは、これと同じ言葉をコリントの信徒への手紙一5・6にも書いています。この場合も「パン種」は悪い意味です。

イエスさまも「パン種」という言葉を悪い意味でお用いになりました。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に、よく注意しなさい」(マタイによる福音書16・6)。

ふと気づかされたことがあります。「パン種」とは、一度練り粉の中に入ってしまったら、二度と取り除くことのできないもの、という意味があるのではないか、ということです。

たとえば、イエスさまは、「パン種を取り除け」とは言われませんでした。「注意しなさい」と言われただけです。"取り除くことのできないもの"だからではないでしょうか。

別の個所で、イエスさまは、似たようなことを、別の言葉で例えておられます。いわゆる「毒麦の例え」です(マタイによる福音書13・24~30)。良い種の蒔かれた麦畑に、敵が来て毒麦の種を蒔いていった。実ってみると毒麦も現れた。毒麦を抜きましょう、という僕の言葉を主人が打ち消して「そのままにしておきなさい」と答える、あの例えです。

この場合も問題になっているのは、良いものの中に悪いもののが混ざっている、ということです。ただし、毒麦の場合はある程度見分けがつきますが、パン種の場合は全く見分けがつきません。放っておくしかありません。「気をつけること」のほかには、なすすべがないのです。

しかし、いずれにせよ問題となっているのは、良いものの中に悪いものが混ざっている、ということです。そして、わたしには、このことが、今日の個所でパウロがストレートに表現している怒り、ないし苛立ちの原因になっているのではないかと思われるのです。

それはどういうことか、もう少し説明が必要でしょう。なぜパウロは、怒っているのでしょうか。苛立っているのでしょうか。その理由は次のように説明できると思います。

それは、今やガラテヤ教会を惑わしているユダヤ教的律法主義というものは、じつは、そもそもパウロ自身が持っていたものであり、今も、そしておそらくこれからも、その中から完全には抜け切ることはできず、彼の中に混ざり続けていくであろうものである、ということです。

そして、そこにこそ、パウロの弱点があった、ということです。そして、その弱点は、パウロに敵対する人々にも知られていました。敵というのは、いつでも必ず、こちらの弱点を攻めてくるのです。それは、戦術的にも・戦略的にも正しい当然のやり方かもしれませんが、攻められる側としては、たまったものではありません。

そして、パウロは実際に、そこで追い詰められる。そこで苦しむ。そして、そこで腹を立てるのです。図星を当てられたときに、人は腹をたてるのです。そうでない場合には、痛くも痒くもないのです。


実際、たとえば、パウロ自身は、幼い頃に割礼を受けています。彼は、生まれながらのユダヤ人です。熱心なユダヤ教徒になり、熱心なキリスト教迫害者にもなりました。ファリサイ派の律法学者でもありました。これは否定しようもない厳然たる事実です。

また、もう一つ、もっと重大と言いうる事件がありました。それが、使徒言行録16・3に紹介されています。

「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを皆が知っていたからである」。

これは明らかに、パウロがキリスト者になり、伝道者になった後の出来事です。パウロ自身が弟子のテモテに割礼を授けた、というのです。「その地方に住むユダヤ人の手前」と書かれています。パウロは「ユダヤ人の手前」、つまり、ユダヤ人の目、人間の目を気にするがゆえに、自分の弟子に手ずから割礼を授けた、というのです。

そして、実際、どうやらこの事件をきっかけとして、ガラテヤ教会の中に「パウロは今なお割礼を宣べ伝えている」という噂が広がった、と考えられるのです。

11節にパウロが書いていることは、そのような背景を持っていると考えられます。“火の無いところに煙は立たない”のです。パウロ自身の側に全く責められるところが無かった、とは言い切れないのです。

ここでわたしに思い出されることがあります。

日本では一般的にも有名な内村鑑三氏は、ご承知のとおり、いわゆる「無教会主義」という立場を取りました。教会を否定する、というのですから、わたしたち教会の者たちとしては、立場が違うといわざるをえません。しかし、たいへん立派な方であり、わたしたちとしても尊敬すべきところの多い方であることは事実です。

その内村氏について、現在の無教会の指導者の一人から直接伺った話なのですが、内村氏は、じつを言うと、一度ならず、自分の弟子たちに洗礼を授けたことがある、というのです。

無教会主義と洗礼を授けることが原理的に矛盾していることは、明らかです。彼ら自身が洗礼を授けることも・受けることも拒否してきた歴史があるのです。しかし、実際の内村氏は、自分の弟子の数名に洗礼を授けた、というのです。

とくに興味深かったのが、内村氏が洗礼を授けた中の一人に、内村氏自身の実の娘さんがいた、というのです。その理由も聞きました。その娘さんが海外に留学することになったとき、海外でキリスト者として認められるためには洗礼を受けていなければ困る、という話になり、やむをえず洗礼を授けた、というのです。

こういう話を聞いてわたしたちが、「さもありなん」と言い放つとか、「やっぱり無教会主義には限界がある」というふうに断じたりすることは、事柄の取り上げ方としては、たいへん失礼な態度であると思います。内村氏としては、苦渋の選択という面もあったかもしれません。

しかし、それでもなお言わざるを得ないと感じることがあります。もし、その人が熱心に語ってきた主義・主張というものと、実際にその人が実践したこととが違っている、と見られてしまったときには、やはり、そのことについて、周りの人々に理解できる言葉で、きちんと説明することが必要である、ということです。それは誤解であるというなら、その誤解を解くために、公の場所で、きちんと語る説明責任がある、ということです。しかし、わたしは、内村氏によるそのような説明があったことを、寡聞にして知りません。

いわば(いわば、ですが)パウロも、内村氏と同じようなところに立たされた、と言えるかもしれません。内容的には異なりますが、状況は似ていると言えなくもありません。パウロの場合、他の人には「割礼を受けるべきではない」と語っておきながら、自分の弟子には割礼を授けた。あの人は信用できない、と言いだす人々が出てきたのではないでしょうか。

「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。」

ここでパウロが書いていることは、明確です。このわたしが今なお割礼を宣べ伝えている、というのは全くの誤解である。もしそうであるなら、このわたしが今なお迫害を受けている理由が分からなくなるではないか、ということです。

ここで「迫害」とは、もちろんユダヤ教徒によるキリスト教徒に対する迫害です。これをわたしは、今なお受けているではないか。迫害を受けなくなるということは、ユダヤ人たちがパウロの存在を味方であると認めることを意味する。つまり、パウロがキリスト教の教えを捨てて、再びユダヤ教に戻ったと認めることを意味します。

わたしはそうなのか、と言いたいわけです。わたしはユダヤ教に戻ったのか。キリスト教を捨てたのか。そんなことはありえないことだ、と言いたいわけです。

わたしたちも、この日本の国の中で、とくに宗教という観点から、ものすごく悩む場面が今でもある、と思います。たとえば、葬式の場面しかり、お盆や正月の行事しかりです。しかし、今ここで、具体的な例を挙げていくことは控えます。

たとえば、そのような場面において、です。そこに集まっているのがみんなキリスト者ばかりである、というなら、なんと気楽なことでしょうか!しかし、実際にはそういうわけには行かないではありませんか!

実際には、いろんな宗教、いろんな立場や考えの人々がいます。そのような場面において、わたしたちが、それこそ「ユダヤ人の手前」というのと同じように、その人々の手前、周囲の人々の目を気にして、心にも無い宗教儀式に参加し、信じてもいない存在に向かって手を合せてみたり、拝んだふりをしてみたりしなければならないような場面が、全く無い、と言い切れるでしょうか。

しかし、そういうときに、手を合わせたから、お辞儀をしたから、だから、わたしはキリスト教を捨てたのか。仏教や神道の信者になったのか。このあたりのことは、時として、ものすごく難しい問題として、わたしたちの心を悩ませ、痛めつける問題として、襲いかかってくることがあるのではないでしょうか。

わたしは、この種の問題に明確で一義的な答えは無い、と考えています。パウロのように状況に応じて判断するという選択肢がありうる、と考えています。しかし、このようなことを、あまり開き直って言うつもりも、ありません。

パウロ自身は、自分自身がかつて確かに受けた割礼そのものを否定できたわけではありませんし、否定しようがありません。また、キリスト者になった後も、自分の弟子に割礼を授けました。

しかし、そのパウロが、断固として否定したことがある。すなわち、「割礼は救いのために必要かつ不可欠な条件である」というこのような考えを、パウロは断固として否定したのです。

ひとは、割礼を受けなくても救われる。割礼は、救いに至るための義務でも、責任でも、条件でもない。このようにパウロは語ったのです。

しかし、こういう考え方は、律法主義者たちには理解されないものです。パウロの立場を執拗に攻撃していた人々は、パウロが「割礼を受けるべきではない」と言ったとなると、彼は割礼そのものを否定しているのだ。ひいては、ユダヤ教の信仰そのものを否定し、結局はユダヤ人の存在そのものを否定しているのだ。だから、パウロはわれわれの敵なのだ、というふうに受け取るのです。このような三段論法こそが原理主義の特色である、と言えるでしょう。

しかし、実際のパウロは、もっともっと自由な人でした。イエス・キリストの十字架の福音によって自由なものにされていました。ひとが救われるために求められるのは、信仰だけである。問われるのは、これだけだ、と。

わたしが今なお割礼を宣べ伝えているなら、「十字架のつまずき」もなくなっていたことでしょう、とパウロは書いています。「つまずき」(スカンダロン)とは、スキャンダルの語源です。憤慨ないし激怒の対象、という意味です。

イエスさまの十字架に憤慨し、激怒するのは、もちろん、ユダヤ人たちです。しかし、なぜ彼らが憤慨し、激怒しなければならないのか。イエスさまを十字架につけて殺したのは、彼ら自身です。その彼らにとって、イエスさまこそが救い主であると語るキリスト教徒の言葉は、許しがたいものであり、憤慨と激怒の対象であった、というわけです。

このようことを、十字架の福音を、みんなの前ではっきりと語っている、このわたしパウロを差し置いて、「あいつはユダヤ教に戻った」などという噂を流すのは誰なのか。お願いですから、そのような中傷誹謗はやめてくださいと、言いたいのです。

「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」

ここでパウロは、この手紙の中ではおそらく最も過激な言葉を書いています。

わたしが実際に聞いた、この個所を説教された日本の有名な牧師が語った言葉を、今でも忘れることができません。「パウロが言っていることは、要するに、“根こそぎ切り取ってしまえ”、ということです」。

言ってみれば、それだけです。しかし、さらに調べていきますと、これは非常に痛烈で激しい皮肉であることが分かってきます。

旧約聖書の申命記23・2には、「去勢した者は主の会衆に加わることができない」ということが書かれています。そうだとすると、パウロの意図は、彼らは、自分の律法によって、自分自身が裁かれている、という意味になります。

また、別の解説によると、ここでパウロは、小アジア地方にあったとされる、キュベレという女神を祀っている大神殿に仕える宦官たちのことを考えているのかもしれない、と言われます。そうだとすると、彼らは、自分のユダヤ教信仰によって異教化している、という意味になります。

とはいえ、わたしたちまで、パウロのように、皮肉とか嫌味のようなことを、人に対して書き送る手紙のようなものの中に、勢いに任せて書き殴る、というようなやり方は如何なものかとも感じます。わたしたちは、こんなことまでパウロの真似をする必要はないでしょう。ただ、パウロの強い思いを読み取ることができれば、と思います。

(2004年10月10日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年10月3日日曜日

愛の実践を伴う信仰


ガラテヤの信徒への手紙5・2~6

「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」

ガラテヤの信徒への手紙は全部で6章ありますので、残すところ2章分となりました。全体の3分の2をやっと読み終えたところです。5ヶ月間、ただひたすらこの手紙だけを読んできましたので、少しお疲れになったかもしれません。

わたしの予定では、今日を含めてあと7回、11月21日の日曜日まで、この手紙を読んでいきたい、と考えております。そして、11月28日が今年のアドベント(待降節)第一主日ですから、その日から、クリスマスの準備として、イエス・キリストのご降誕についての話を始めたいと願っております。ご理解とご協力をお願いいたします。

さて、使徒パウロは、この手紙の中で、わたしたちキリスト者は、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、そしてまた、キリストご自身へと結ばれる(結合される)ことによって、全く自由にされた者である、ということを、一貫して語ってきました。

そのことが、先週はあまり十分な仕方ではお話しできなかった、5・1にも繰り返されていました。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」

そしてまた、先週は「分からない、分からない」の一点張りで押し通して読み流してしまいました4・21~31にも、最後に「要するに」と、パウロ自身が自分の語ってきたことを要約している個所がありました。「要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」

ここから読み取ることができる、一つのことがあります。それは、パウロが「自由な身の女」と呼んでいるのは、じつは、イエス・キリストのことである、ということです。

もちろん、聖書を読むかぎり、イエスさまは女性ではなく、男性としてお生まれになりました。しかし、これは例え話です。男性であるイエスさまを「母親」として例えることには、いくらか違和感があるかもしれませんが、このあたりはあまり気にしないことです。

むしろ、ここで大切なことは、自由な母から生まれた者が、自由な子どもと呼ばれるのである、ということです。

自由な母が、自分の子どもを自由な人間に育てるのです。

自由な母は、自分自身が自由になったことを心から喜んでいるゆえに、自分の子どもがかつて自分が経験した不自由な人生に戻っていくことを、黙って見ていられないのです。

そして、もちろん、そのようなことを黙って見ていられないのは、キリスト者の産みの親であるイエス・キリストご自身だけではありません。いわば育ての親であるパウロも、黙って見ていられません。だから、パウロも言います。「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」

そして、もちろん、それはパウロだけの話でもありません。この点については、わたしたち自身も、同じです。最近ちまたで「ビフォー・アフター」という言葉を聞くことがあります。わたしたちにも、「ビフォー・アフター」があると思います。キリスト者になる「前」と「後」です。

ほとんど何も変わっていないようだ、とお感じになる方も、おられるかもしれません。もちろん、「違い」ばかりを無理に強調する必要はありません。

しかし、もし思い出していただけるものならば、ぜひ思い出していただきたいのです。おそらく、わたしたちのうちの多くは、「キリスト者になること」のために、激しい戦いや葛藤、あるいはまた、悶絶するような苦しみを味わい、しかし、それをたしかに勝ち取ってきた、という体験をしてきたのです。

わたしは、この松戸小金原教会に4月に転任させていただいて間もなくして、教会員の皆さんのお宅に訪問させていただきました。この秋には、客員や求道者の方々のお宅にも参りたいと願っておりますが、思うように事が運ばず、申し訳ない思いで一杯です。どうか、もう少しお待ちいただきたいと願っております。

しかし、まずは、教会員の皆さんのお宅に訪問させていただけましたことを、今は本当に良かった、と感じております。それは、やはり、皆さんの「生(なま)の声」を直接聞くことができたからです。いろいろな証しや、教会に対する思い、そして、率直なご意見を聞くことができました。

もちろん、皆さんからお話しいただいたことの多くは、わたしの胸の内にしまっておかなければならないことばかりです。しかし、本当にどなたも、率直に語ってくださいました。

そして、やはり、その中でとくに、皆さん自身が「キリスト者になること」のために、じつにさまざまな戦いや葛藤、痛みや苦しみを体験してこられた、しかし、それをたしかに勝ち取ってこられたことを、伺うことができたのです。

そして、まさにどなたからも伺うことができたことは、(神さまの前で証言いたしますが)、キリスト者になったこと、教会の交わりに加えられたことは本当に良かった、という喜びと感謝のお言葉でした。これは素晴らしいことです。

自分の人生そのもの、そして教会生活、信仰生活というものを、心から喜び、感謝することができる、というのは、素晴らしいことです。そうではないでしょうか。

そして、残念ながら、というべきでしょうか。わたしたちの人生には、少なくとも過去において、この人生そのものを、喜ぶことがも受け入れることもできなかった頃、というのが、たしかにあったのです。「ビフォー・アフター」の「ビフォー」です。

そんな昔のことは忘れた、と言われるかもしれません。しかし、おそらく、わたしたちは、このわたしの人生を十分な意味で喜ぶことができなかったのです。感謝をもって受け入れることができなかったのです。

ところが、まさにある日あるとき、たしかに何かが変わった。それ以前の生活との訣別といいますか、踏ん切りといいますか、新しい出発というべきものを、体験されたのです。

もちろん、わたし自身にも、そのような体験がありました。ただし、わたしの場合は、クリスチャンホーム育ちですので、キリスト者になる「前」(ビフォー)ということを、十分な意味で認識することができません。

しかし、ある日あるとき、救い主イエス・キリストというお方を、それ以前とは違った仕方で確信をもって受け入れることができたときのことを覚えています。そしてまた、「イエス・キリストを信じる信仰によって、自分の罪が赦された」ということを、真実として深く受け入れることができたときのことを覚えています。

そのような者として、わたしにも、パウロと同じ言葉を語る資格があると思っています。「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。

元の木阿弥になってはならない。後ろを振り向いて、後ずさりしてはならないのです。

自動車で、今来たその道を戻っていくことを「逆走」といいます。逆走は、道路交通法違反の現行犯で逮捕されなければなりません。逆走は、いけません。後ろではなく、前に進んでいかなければなりません。

わたしたちに今すでに与えられている、救い主イエス・キリストを信じて生きる人生を、心から受け入れて、喜びと希望をもって、前に進んでいきたい。そのように願うものです。

パウロは、今日開いていただいた5・2以下にも繰り返し、キリスト者になった者たちは、もはや、割礼というものを受ける必要はない、ということを強調して語っております。

最初の2節に、「わたしパウロはあなたがたに断言します」とあります。3節にも「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います」とあります。

もっとも、ここで「断言します」とか「はっきり言います」というのは日本語としての翻訳上の強調であって、実際はそれほどのことが書かれているわけではない、と言えなくもないのですが、パウロの気持ちは、このとおりである、と言ってよいでしょう。

パウロは何を「断言し」、何を「もう一度はっきり言う」のか、といいますと、キリスト者になった者たちは割礼を受けるべきではない、ということです。

そして、パウロは「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」とまで言っています。口語訳聖書では「キリストはあなたがたに用のないものになろう」と訳されていました。さらに原意に即して訳すなら、「その場合は、あなたがたにとってキリストは、価値を失うことになるだろう」ということです。

キリストが「役に立たない」とか「用のない」とか「価値を失う」とは、どういうことでしょうか。

理解できない話ではないと思います。新共同訳聖書にも「あなたがたにとって」という言葉が正しく訳し出されています。あなたがたにとって、ということが強調されなければなりません。

なぜ強調されなければならないかと言いますと、キリストが「役に立たない」し、「用がない」し、「価値がない」と感じるのは、あくまでも、わたしたち側の「感じ方」の問題だからです。たとえわたしたちがキリストからどのような感じを受けようと、キリストご自身の価値が失われるわけではない、ということも申し上げておく必要があります。

宝石でも、豪勢な家屋敷でも、立派な自動車でも、それ自体が持っている価値と、それをわたしたちが「これは価値あるものだ」と感じるかどうかは別の問題です。

これから申し上げる言葉は、突然聞くとドッキリする言葉ですが、イエスさまがお語りになり、聖書に記されている言葉ですので申し上げます。「真珠を豚に投げてはならない」(マタイによる福音書7・6)。

価値あるものを、その価値が分からない者に与えてはなりません、というイエスさまご自身の教えです。その続きにイエスさまが言われたことは、こうです。「それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」(マタイ7・6)。

しかし、問題は、なぜそうなのか、です。なぜ、すでにキリスト者であるものが割礼を受けると、その人自身にとってキリストは、「役に立たない」・「用のない」・「価値のない」ものになってしまうのでしょうか。

この問題は、わたしたちにとって、すぐに理解できるというほど簡単なものではないかもしれません。

といいますのは、ほとんど確実に言いうることは、わたしたち21世紀の日本でキリスト者である者たちが、「割礼を受けるべきかどうか」という問題で悩むことは、ほとんど無い、ということです。

ユダヤ教それ自体の影響が、日本の中にはあまり無い、と言いうる状況にあることも関係しています。たとえば、もし日本国内の至るところにユダヤ教のシナゴーグが立ち並んでいる、というような状況でもあるなら、「割礼を受けるべきかどうか」ということが、わたしたち自身の問題になるかもしれませんが、実際にそういうことはありません。

ですから、つい、このような個所を、わたしたちとはあまり関係ない他人事のように読み流してしまう可能性があるのです。

しかし、この点は考え置くとして、わたし自身、今日のこの説教の準備のために、パウロの言葉を繰り返し読みながら、ふと気づいたことがあります。それは6節の御言の中に書かれている一つの点です。

「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」

ここに、パウロは、はっきりと、「割礼の有無は問題ではなく」と書いています。これは別の読み方ができると思います。「問題は割礼の有無ではなく」、と。

つまり、今ここでパウロ自身が問題にしていることの中心にある事柄、核心的な事柄は「割礼を受けるべきかどうか」という問題そのものではないのだ、というふうにも読めるのです。

そうではなく、真の問題、本当の問題は、「愛の実践を伴う信仰があるかどうか」ということである、と。これが問題の核心である、と。

たしかに、「割礼を受けるべきかどうか」という問題は、今の日本では問題になりません。しかし、そのこと自体が問題ではない、と言われるなら、どうでしょうか。

「信仰があるかどうか」が問題である。「そこに愛の実践が伴っているかどうか」が問題である。こう言われるなら、わたしたちにも、他人事ではないでしょう。

「信仰がありますか。そして、愛がありますか」。

加えてパウロは「希望がありますか」と聞くかもしれません。さらに加えて「自由がありますか。そして、喜びがありますか」とも聞くかもしれません。

問われるのは、これらのことです。割礼は「問題にならない」のです。

(2004年10月3日、松戸小金原教会主日礼拝)



2004年9月26日日曜日

自由なる生の喜び


ガラテヤの信徒への手紙4・21~5・1

パウロが今日の個所に書いている内容は、もちろん、一つのたとえ話です。少し難しい言葉を使わせていただくなら、「寓喩」(アレゴリー)と言います。

寓喩とは、聖書の中に書かれてある言葉について、「じつは、これは、こういう裏の意味が隠されているのです」というような仕方で、全く予想もつかない意味を説明してみせるとか、あるいは、論理的には必ずしもつながりがあるとは思えないところに真意を見出す比喩の方法、というふうに説明できるかもしれません。

ところで、通常の場合、たとえ話というのは、一般的には分かりにくいことを、できるだけ分かりやすく説明するために用いられます。しかし、どうでしょうか。今日の個所のたとえ話についてのわたし自身の率直な印象は、これは非常に難しい、ということです。はっきり言えば、今日の個所に書いていることが、わたしには、さっぱり分かりません。

胸を張って言うようなことではないかもしれません。しかし、いくつかの聖書注解書に当たってみましたが、どの本を読みましても、十分に納得できるように解説してくれるものは見当たりませんでした。聖書には時々、このような個所が出てきます。

しかし、この期に及んで、そのようなことを言っている場合ではないのかもしれません。分からないなりに読んでいくうちに、少しくらいは分かる部分が見つかるかもしれません。今日の個所の最初にパウロが書いていることは、これです。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは律法の言うことに耳を貸さないのですか。」

これは、とりあえず何とか理解できるところでしょう。パウロは、「律法の下にいたいと思っている人たち」に向かって語りかけている、ということが分かります。

ここで「律法」は、特別な意味であると思われます。わたしたちは、聖書全体を指して「律法」と呼ぶことがあるからです。

しかし、ここで、パウロは、明らかに「律法の下にいたいと思っている人たち」を厳しく批判しています。もしここで言われている「律法」の意味が、わたしたちの持っているこの「聖書」のことだけであるならば、パウロもまた聖書の御言を宣べ伝える伝道者の一人であるわけですから、なんだか奇妙な話になってしまいます。「聖書の下にいたいと思っている人たち」が悪いのでしょうか。そんなことを、パウロが言うでしょうか。それはちょっと、ありえないことです。

むしろ、ここで「律法」とは、今日の個所の最後に出てくる「奴隷の軛」という意味で語られていると思われます。

「軛」というのは牛や馬の頸(くび)にかける横木のことです。「くび」にかける「木」だから「くびき」です。これを人間にもかけると「奴隷の軛」となります。総じて、自由を束縛する道具や手段を指します。しかし、今のわたしたちの国では奴隷制度というものは禁じられておりますので、「奴隷の軛」を実際に見たことがある人は少ないと思います。

それはともかく、ここでパウロが「律法」という言葉を「奴隷の軛」と全く同じ意味で使っていることは明らかです。しかし、そうであるならば、やはり、これは、わたしたちにとって非常に驚くべき言葉である、と言わなければなりません。聖書全体という意味でもありうる「律法」が、人の自由を奪う道具ともなりうる、とパウロは考えているのです。

しかし、わたしたちは、このことを、今開いておりますガラテヤの信徒への手紙の全体の文脈から全く切り離して考えることはできません。今日は、少しこれまでのおさらいをしておきたいと思います。

パウロは、この手紙をガラテヤ教会の人々に書き送りました。パウロは、ガラテヤ地方にしばらく滞在して福音を宣べ伝えたのち、別の地に移動し、新たな伝道を始めました。そのパウロが立ち去った後のガラテヤ教会の中に、「異なる福音」を宣べ伝える別の教師が現れ、その教師を支持するグループができてしまった、というわけです。

この教師が宣べ伝えた「異なる福音」の内容とは、一言で言って、「ユダヤ教的律法主義への回帰」というべきものでした。その人々は、ユダヤ人以外の異邦人たちが信仰を告白してキリスト者になることのために、洗礼を受けるだけでは足りない、と主張しました。旧約聖書に基づくユダヤ教の伝統である割礼をも受けなければならない、と言いはじめました。異邦人たちは、まずユダヤ人になりなさい。ユダヤ人になってから、キリスト者になりなさい、と言うのと同じことを、彼らは異邦人たちに強要したのです。

そして、そのような「ユダヤ教的律法主義」を強要する教師たちの主張に対して、事もあろうに、当時のキリスト教会の最高指導者であった使徒ペトロまでもが同調しはじめました。そこに至って、これは全くとんでもないことだ、とパウロは怒りをあらわにしたのです。

洗礼を受けるだけでは足りない、という主張は、今のわたしたちの時代にも、いろいろと形を変えて、装いを新たにして、登場いたします。

わたしたち松戸小金原教会の歴史を考えていく中で決して忘れることができない出来事として、いわゆる「異言問題」というのがありました。具体的なことを申し上げるのは控えます。わたしは当時のことを正確に知っているわけではありません。いろいろと差し出がましいことを語るのは、慎まなければなりません。

しかし、一般論として「異言問題」というのは、基本的・本質的なところで、ガラテヤ教会の問題に通じるところがあるのです。

まず最初に、その人々は「水の洗礼」を受けるだけでは足りないと語りはじめるのです。「聖霊の洗礼」を受けなければならない。「聖霊の洗礼」を受けた者たちは「異言」というものを語りはじめるのだ。異言を語ることができないのは「聖霊の洗礼」を受けていない証拠なのだ、というふうな話に、必ずなっていくのです。

そこで起こる大きな問題は、わたしたちがキリスト者であるためには、信仰を告白し、洗礼を受ける、ということだけでは足りないという理由から、それ以外のいろんな条件がたくさん加えられていく、ということです。洗礼を受けただけの「偽物のキリスト者」とそれ以上の何かを持った「本物のキリスト者」という二種類のキリスト者という考えが出てくるのです。そのようにして、「教会の敷居」が、どんどん高くなっていく、ということが起こるのです。

しかし、それは違うのではないか、というのが、パウロの立場であり、信仰そのものでした。人がキリスト者となるために、洗礼だけでは足りず、割礼も受けなければならない、と言われることは、異邦人のための伝道者であるパウロの立場からすれば、「伝道の障害」以外の何ものでもありませんでした。

パウロにとっては、わたしたちがキリスト者であるために求められる唯一の事柄は、わたしたちの救い主イエス・キリストを信じることだけである。「なんだかんだ」という条件は、一切排除されるべきである、ということであったわけです。

そのことを、しかし、パウロは、ただ単に自分の信念であるとか、主義・主張である、ということだけで語ることは許されませんでした。牧師・説教者・伝道者の仕事は、自分の主義・主張を語ることではありません。聖書の御言に基づいて、真理を語ることです。おそらく、そのために、パウロは、今日の個所のたとえ話を書いているのです。

「あなたがたは律法の言うことに耳を貸さないのですか」とあります。もちろんここでパウロが言いたいことは明らかです。律法の下にいたいと思っているあなたがた。あなたがたが頼りにしている律法そのものが、聖書そのものが、あなたがたの主義・主張の根拠そのものが、あなたがたの主義・主張を否定していますよ、ということを言いたいのです。

このようなパウロのやり方は、間違いなく、論争的なかたちを必然的にとらざるをえません。ピリピリ張り詰めた雰囲気の中での厳しい言葉の応酬になります。こういうのは、本当に嫌なことであり、できれば避けたいことです。

しかし、大いに学びうることもあります。それは、教会の中にいろんな問題が起こったときに、わたしたちにできることは、とにかく徹底的に「聖書そのものを読んでいくこと」以外には無いだろう、ということです。聖書にどう書いてあるか。聖書が教えていることは何か。このことに、わたしたちは、常に立ち返らなければなりません。

とはいえ、もちろん、パウロにとっても、わたしたち自身にとっても、論争相手として登場する人々自身も、「わたしたちも聖書に基づいている」というふうに、必ず言います。解釈の違いである、というところで終わってしまうことが、しばしばです。

しかし、わたしは、「それでもよい」と思うのです。それでもよいから、とにかく聖書を読みましょう。聖書には何が書かれているのかということを、みんなで一緒に学んでいきましょう。ここに問題解決の糸口がある、と信じることが、わたしたちに許されている道なのです。

そして、その上でさらに申し上げておきたいことは、このような「聖書」の用い方こそが、わたしたちにとって最もふさわしい、ということです。わたしたちは、聖書の内容について自由に論じあってよいし、分からないことは「分からない」と言ってよいのです。

反対に、最も正しくない聖書の用い方がある、と思います。それがまさに「律法主義」です。聖書の御言を「奴隷の軛」とすることです。聖書の御言に基づいていると称して、わたしたちがキリスト者であるためにイエス・キリストを信じる信仰を告白すること以外のいくつもの条件を加えていくことです。「ああしろ、こうしろ」と無理難題を次々に積み上げて行くことです。しかし、わたしたちは、もっと自由であってよいのです!

今日の個所について、わたしに語りうるのは、この程度のことです。パウロが語っているたとえ話そのものは、正しく理解することが本当に難しいと感じます。

「アブラハムの二人の息子」とは、女奴隷の子イシュマエルと正妻サラの子イサクとの二人のことです。しかし、この二人の息子のどちらがわたしたちであり、もう一方が誰である、というようなことが書かれているのですが、それはなぜなのか、とか、それをどのように説明すればよいのかなど、考えれば考えるほど、さっぱり分かりません。

しかし、幸いなことに、パウロはこのたとえ話をしめくくるに当たり、「要するに」と、一言で要約してくれています。こういうのが有難いと思います。

「要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」

キリスト者の人生は、全く自由な人生です。わたしたちの救い主イエス・キリストが、わたしたちを自由な身にしてくださったのです。

律法主義の罠に陥らないよう、お互いに気をつけたいと思います。

(2004年9月26日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年9月19日日曜日

キリストのかたち


ガラテヤの信徒への手紙4・19~20

「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。」

パウロは、今日の個所に、たいへん印象的な言葉を記しております。

「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」以前広く用いられていた口語訳聖書では、次のように訳されていました。「あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」

ほとんど変わっていない感じですが、細かく見ればいくらか違いもあり、どちらの訳にもそれなりの魅力があります。しかし、今日は細かい話をするつもりはありません。

ここでパウロが語っていることは、要するに何なのか。このような、ごく大づかみな話をしたいと願っています。

ここには、「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」、口語訳では「あなたがたの内にキリストの形ができるまで」、わたしは苦しんでいます、と書かれています。しかも、その苦しみは「産みの苦しみ」であると言われます。そして、その産みの苦しみを感じている「わたし」とは、もちろんパウロ自身のことです。

ここまでのところで明らかなことを、以下、三点にまとめておきます。

第一点は、パウロによると、イエス・キリストには「かたち」がある、ということです。

その「かたち」は、まさに「キリストのかたち」と呼ぶことができるほどの何かである。もちろん、それは目に見える「かたち」です。目に見えないものではありません。わたしたちの救い主は、目に見える「かたち」を持つ存在であられる、ということです。

第二点は、パウロによると、「キリストのかたち」ができる場所があるとしたら、それは「あなたがたの内」である、ということです。

ここで「あなたがた」とは、第一義的にはもちろん、ガラテヤ教会の人々です。しかし、彼らだけに限定される話ではありません。すべてのキリスト者の内に、「キリストのかたち」ができるのです。「心の内側に」というだけでは、おそらく足りないと思います。体の内側にも、わたしたち人間の存在そのものの内側にも、「キリストのかたち」ができるのです。

第三点は、パウロによると、「キリストのかたち」を「あなたがた」ガラテヤ教会の人々の「内」に形づくるのは、パウロ自身であるということです。

わたしが「産みの苦しみ」をする、と言っているのですから、そのように考えざるをえません。産みの苦しみというものを感じることができるのは、産む人だけです。産んだことがない人、産まない人が、産みの苦しみを感じることはありません。パウロが、ガラテヤ教会の人々の存在の内側に「キリストのかたち」を産むのです。それ以外のことを考えることはできません。

第一の、わたしたちの救い主イエス・キリストには、目に見えるかたちがある、という点から考えて行きたいと思います。まず、ここでパウロが言っている「かたち」の意味を考えます。

英語には「かたち」という意味の表現がいくつかあります。わたしたちが日常的によく使う言葉としてフォームとかスタイルとかタイプとかパターンなどがあります。「キリストのかたち」の場合はどれに当たるのか、と考えてみることもできるかもしれません。

しかし、わたしの答えは、どれか一つではなく、どれでもある、というものです。「キリストのフォーム」という意味もあるし、「キリストのスタイル」でもあるし、「キリストのタイプ」でもあるし、「キリストのパターン」でもあると申し上げておきます。

フォームとスタイルとタイプとパターンという四つの「かたち」を挙げました。これら四つに共通する点は、いずれも目に見えるものであるということです。その意味は、外面的ないし表面的な要素がある、ということです。自分だけが認識でき、他の人々には認識できないような、その意味で心の内側だけで表現しうるような「かたち」というよりも、むしろ、他の人々にこそ、第三者にこそ認識することができる外面的・表面的な「かたち」が、フォームであり、スタイルであり、タイプであり、パターンです。

もっと分かりやすく言い直す必要があるかもしれません。ここでわたしたちがぜひとも思い起こしたいことは、イエス・キリストというお方は、わたしたちと同じ人間の肉体を持っておられる神の御子である、という点です。この意味で、キリストは、わたしたちと全く同じ人間であられる、という点です。

わたしたちは、人間として、この地上の人生の中で、必ず、常に、ある種の「かたち」を持つ生活を送っています。砂を噛むような、とでも言うのでしょうか、大して面白くもない、ワンパターンな生活かもしれません。しかし、そうであっても、いえ、そうであるからこそ、わたしたちは、「パターン」という意味での「かたち」のある生活を送っていると語ることができるでしょう。

また、わたしたちは、人と付き合うときに、その相手をいろいろと分析しようとします。「あの人は、こういうタイプである。ああいう人に対しては、こういう付き合い方をしたほうがよい」というようなことを、必ず考えます。わたしたちは人から見ると、たいていの場合、どれかのタイプに属するようです。

そしてまた、わたしたちは、必ずや、何らかのスタイル、何らかのフォームを持つ生活をしています。この場合のスタイルとかフォームは、形式とか姿勢などの意味です。日本の中でわたしたちがキリスト者であるというとき、わたしたちは、明らかに、他の人とは少し違うスタイルやフォームを持つ生活を送っているはずです。日曜日には、朝早くから家を出て教会に行く。他の人々はそんなことをしていないようなことをしている。これは間違いなく、異なるスタイルないし異なるフォームを持つ生活です。

ここでパウロが「キリストのかたち」と呼んでいる場合の「かたち」の意味は、まさに今わたしが申し上げました外面的・表面的な意味でのフォームであり、スタイルであり、タイプであり、パターンであると説明することができます。

それは、別の言い方をするなら、新約聖書の最初に出てくる四つの福音書が描き出しているイエス・キリストの地上のご生涯には、まさに外面的・表面的な意味でのフォームがあり、スタイルがあり、タイプがあり、パターンがあった、ということでもあります。

ユダヤ教の安息日は土曜日ですから、みんなが会堂に集まるのは、土曜日です。そこでイエスさま御自身が、聖書の御言に基づいて説教をされる。また、イエスさまは説教だけをなさった方ではなく、もっと多くのことをされました。多くの人々と共に喜びを分かち合う、恵みに満たされた生活を送られました。

たとえば、そのようなイエスさまの人生そのもの、生き方そのものです。まさしくそのようなことを指して、今日の個所でパウロは「キリストのかたち」と呼んでいるのです。

ここで、第二の点に移ります。そのような「キリストのかたち」は、パウロによると、あなたがたの内に形づくられるものである、と言われます。これは、どういう意味でしょうか。

この文脈にあって、おそらく最も理解しやすいであろうと思われる表現は、「キリストの生活スタイル」という意味での「キリストのかたち」が、あなたがたの内にも形づくられる、という言い方です。

つまり、こういうことです。キリストの生活スタイルが、このわたしの生活スタイルになる。逆の言い方をするなら、このわたしの生活スタイルが、キリスト的な生活スタイルとなる。要するに、キリストに似たものになること、キリストの真似をすること、です。

十四世紀後半から十五世紀前半のドイツで活躍したローマ・カトリック教会の修道士であり、司祭にもなったトーマス・ア・ケンピスの名前は、日本でも多くの人々に知られています。この人の主著『キリストにならいて』(イミタチオ・クリスチ)の意味はキリストに似たものになることであり、キリストの真似をすることです。

イミタチオは、イミテーションの語源です。イミテーションというと、わたしたちは、すぐに「偽物」という言葉を思い浮かべてしまいます。しかし、トーマス・ア・ケンピスの場合のイミタチオは、決して悪い意味ではありません。良い意味で「真似すること」です。「まねび」とも言われます。しかも単なる真似でもありません。「信頼して服従すること」です。キリストの弟子になって、キリストの後ろからついて行くことです。

まさにこの「イミタチオ・クリスチ」、キリストの真似をし、キリストに似たものになること、そして、キリストの生活スタイルが、このわたしのものとなっていくこと、まさにこのことを、今日の個所でパウロが「キリストがあなたがたのうちに形づくられる」という言葉で、表現しているのです。

もちろん、ここに至って、改めて問うておきたいことは、はたして、わたしたち自身の生活スタイルは、本当に、キリストに似たものになっているだろうか、ということです。

それはかなり疑わしいと、きっと誰もが感じることでしょう。おそらくそれは感じてよいことですし、感じなければならないことであるとさえ言えるように思います。

その反対を考えてみるとよいのです。「わたしの生活は、キリストそっくりです」というようなことを、堂々と、胸を張って言い出す人がいるとしたら、どうでしょうか。「はたしてそれは本当のことだろうか」と疑う気持ちを、おそらく誰もが持つのではないでしょうか。

これは、ヒガミやヤッカミというような次元のことだけではありません。わたしの最も尊敬する一人の改革派神学者(A. ファン・ルーラー)が言っていることは、「キリストのかたち」の意味は、「謙遜であること」に他ならない、ということです。まことに神御自身の御子であられる方が、人となられた。ここに、キリストが示された謙遜、へりくだりの道があります。キリストに似ている、ということは、キリストと同じように謙遜であること、控えめであることに他ならないのです。

わたしはこの神学者の考えに、心から賛成します。そして、この意味で「わたしの生活は、キリストとそっくりです」と胸を張って言うことは、必ずしも「謙遜な態度」とはいえない場合がある、と申し上げておきたいのです。「キリストとそっくりです」と語るまさにそのことにおいて、キリストから最も遠ざかっている場合があるということを、覚えておかなければなりません。

そして、第三の点に移ります。パウロによると、あなたがたガラテヤ教会の人々の内にキリストのかたちを産み出すのは、他ならぬパウロ自身である。産みの苦しみを感じるのは、他ならぬパウロである、と言われている点です。

最初に触れましたように、新共同訳聖書では「わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」とありますが、以前の口語訳聖書では「わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」と訳されていました。「あなたがたを産む」というのと、「あなたがたの内なるキリストのかたちを産む」とでは意味の違いを感じます。

しかし、内容的には同じことです。パウロがそれを産み出すために苦しんでいるのは「あなたがたの内なるキリストのかたち」であることは、全く明白なことです。

しかし、ここで立ち止まって考えておきたいことがあります。それは、今さら、なぜ、それをパウロが産み出さなければならないのか、という点です。パウロはガラテヤ教会を離れた人間です。言ってみれば、その直接的な関係は終わっています。しかし、いまだに、なぜパウロが苦しまなければならないのか、という点です。

この問いに対して、分かりやすい答えは無いかもしれません。差し当たり、この場合の「キリストのかたち」の意味は、先ほどから申し上げているとおり、ガラテヤ教会の人々の生活スタイルがキリストに似ているものであるかどうかにかかっています。彼らの生活スタイルの中に以前にはあった「キリストのかたち」が今では見えなくなってしまった。このことに、パウロは責任を感じ、苦しんでいるのです。牧会者なら当然の悩みである、と言うべきでしょう。

「かたち」ということで、わたしの頭に思い浮かぶのは、プリンとかゼリーのようなものです。プリンやゼリーが「かたちあるもの」になるまでには、少しの間、じっとさせておく時間が必要です。しっかり固まらないうちに、ジャカジャカと、せっかちに動かしてはならないのです。みんな崩れてしまいます。すべてが台無しです。

わたしたちの内なる「キリストのかたち」ができる過程においては、牧師の果たすべき責任も大きいところです。一例だけ挙げておきますと、頻繁に牧師が交代しているような教会は、この「じっとしていること」が難しいと言えます。

パウロの場合も、同じでした。パウロが去った後のガラテヤ教会が乱れました。「異なる福音」を宣べ伝える教師とそのグループによって、かき乱されました。ガラテヤ教会は、できてまもない群れでした。産まれたばかりの赤ちゃんでした。しかし、せっかくパウロが宣べ伝えた福音と、ガラテヤ教会の人々の内に産まれてきた「キリストのかたち」が、ジャカジャカと動かす人々によって、崩れてしまったのです。

もう一度、あなたがたを産みたい。

あなたがたの内なる「キリストのかたち」を元通りに復元したい。

これが、パウロの切なる願いでした。

(2004年9月19日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年9月12日日曜日

人の弱さを担う善意


ガラテヤの信徒への手紙4・12~18

「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします」。

「あなたがたもわたしのようになってください」。これは、パウロの他のいくつかの手紙(一コリント4・16、11・1、フィリピ3・17、二テサロニケ3・7)にも出てくる「わたしのようになりなさい」とか「わたしに倣うものになりなさい」と全く同じ意味で書かれています。なんとなく自信過剰な人の言いそうなことだ、とお感じになるかもしれません。しかし、決してそういうことではありません、と申し上げておきます。

「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(4・7)と書かれていました。しかし、そのあなた、すなわち「神の子」とされたあなたが「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」(4・9)と、パウロは問いました。その続きに「わたしのようになりなさい」と書かれているのです。

わたしは今や「神でない神々」の奴隷ではない。そのようなものの奴隷にはならないし、なりたくない。奴隷なんて、まっぴらだ。今、わたしは、全く自由の身である。あなたもわたしと同じように自由になったではないか。それなのに、なぜもう一度、逆戻りするのか。なぜ、不自由な人生に戻ろうとするのか。ぜひ、このわたしと一緒にこの自由を守り抜いて行きましょう。全く自由で喜びに満ちたこの人生を楽しみ続けましょう。どうか、わたしのように自由な者になってください。これがパウロの言葉の真意です。

ただし、これは、やはり、自分の生き方に自信や確信をもつことができる人だけが語りうる言葉である、ということは、おそらく事実です。今の時代、「自信たっぷり」というのは、あまり流行らないかもしれません。「人生いろいろ」と口を濁しておいたほうが無難かもしれません。しかし、真の神さまだけが与えてくださる自由なる人生は、わたしたちの大切な宝物です。それこそが、価値ある人生です。そのことを、できるだけ多くの人々に知っていただくことが、教会の伝道の目的です。

「あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました」。

ここでパウロは、自分自身とガラテヤ教会の人々との間で過去に起こった一つの出来事を回想しています。パウロがガラテヤ教会の人々と知り合った、そもそものきっかけは何であったか、という話です。

そのことをパウロは、「この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」と表現しています。弱くなったのは、パウロ自身の体です。彼の体が何かの病気に冒されたのです。そのことが「きっかけ」であると書いています。

おそらくパウロは伝道旅行の最中に病気にかかったのです。そして、休むためにガラテヤの町に立ち寄り、教会の人々に看病してもらったのです。そして、おそらく彼が看病してもらっている最中か、癒された後に、福音を宣べ伝えたのです。あなたがたガラテヤ教会の人々は、わたしパウロに対してとても親切にしてくださいました、と言っているのです。パウロは、彼らに心から感謝しているのです。

「わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあった」とあります。これはどういう意味でしょうか。

ここで「試練」とは、誘惑されるという意味です。何に誘惑されるのでしょうか。ここでも考えられることは、真の神の子になる前の生活、「神ではない神々」の奴隷として仕えていた頃の生き方に逆戻りしてしまうことへの誘惑ということです。しかし、そういうことが、実際にあるのでしょうか。

その方は、まだ元気に生きておられますので、名前は伏せておきます。わたしの親しい人(年配の方)が、あるとき言いました。「わたしの牧師が病気で死ぬことは、ありえない」。まるで、牧師が病気にかかってはならないかのようでした。

しかし、そういう信仰というのが実際にはありうるのだと思います。この世の中には、あまり堂々と病気にかかってはいけない人というのがいるように思います。「人を助けなければならない人が、人に助けられてはならない」と言われてしまう人々がいるでしょう。その人が病気で苦しんでいる姿を他の人に見られることは「証しにならない」とか「つまずきになる」と言われることが実際にはあるのだと思います。そういうのは間違っている、と言っても仕方がないのです。パウロは、ガラテヤの人々に看病してもらっていたとき、そのあたりのことを、とても気にしていた様子が伺えます。

しかし、彼らは、パウロのことを、さげすんだり、忌み嫌ったりしませんでした。それどころか、パウロのことを神の使いであるかのように、イエス・キリストであるかのように、受け入れることができました。パウロは、その日そのときの、ガラテヤ教会の人々の優しさ、温かさを忘れていません。

「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。」

パウロの病気は何だったのかということが、しばしば問題になります。その答えの根拠として引き合いに出される個所の一つが、ここです。

ガラテヤ教会の人々は、自分の目をえぐり出してもパウロに与えようとした。それくらいに、彼らは、パウロのことを大切な存在として扱った、ということです。しかし、ここに「目」ということが書かれていますので、パウロの病気は、おそらく目の病気であったに違いない、と言われるのです。

ただし、これは決定的な答えではありません。いくつかの説のうちの一つにすぎません。

もう一つ、しばしば引き合いに出されるのはコリントの信徒への手紙二12・7の「わたしの身に一つのとげが与えられました」という言葉です。「目にとげがささった」と、無理に関連づける必要はないでしょう。「とげのごとく刺すような痛み」であると説明されます。神経痛のようなものではないかとか、精神的な原因から来るものではないかと説明する人もいます。

しかし、わたしは、とくに最近になって、だんだん分かってきたことがあります。それは、人の病気というものは、どこが悪いと一言で言えないほどに、複雑に絡み合っているというか、互いに関係しあっているらしい、ということです。

少し仕事をしすぎた。すると、目が疲れて、肩がこって、頭が痛くなって、背中も腰も痛くなって、足も痛くなって、そのうちお腹も痛くなって、熱も出てきて、ついに倒れてしまう。どこが悪いと、一言では言えないのです。

この機会に、いちおう、お話ししておきたいことがあります。

わたしの体の中には健康のバロメーターがあります。疲れてくると最初に痛くなるのが、3年前にヘルニアを発症した椎間板です。もちろん、目も肩などは、しょっちゅう痛んでいます。もう少し疲れてくると、13年前に発症した尿管結石が、ゴロゴロと活動を再開します。最後に親知らずが痛みはじめると、終わりです。抵抗力がだんだん無くなっていく様子がよく分かります。段階を踏んで、力尽きていきます。

16世紀スイスの宗教改革者カルヴァンも、病気で苦しんだ一人です。

カルヴァンは55才で亡くなりました。ものの本によりますと、カルヴァンは主著『キリスト教綱要』の初版を書いていた頃、「一睡もせずに夜を徹し、昼も食事をしないくらいに勉強に精出して」いたそうです(ベノア著『ジァン・カルヴァン』森井真訳、日本基督教団出版部、1955年、32ページ)。そして、晩年のカルヴァンは「偏頭痛と胃痛と肺結核、尿路結石、神経痛」を患っていたと言われます(久米あつみ著『カルヴァン』講談社、192ページ)。

先ほど、パウロが「わたしのようになりなさい」と言っていました。しかし、それは、わたしのように病気になりなさい、という意味ではありません。また、わたしたち改革派教会の者たちはカルヴァンを尊敬しますが、病気の数や種類まで、カルヴァンをみならうべきではありません。そういうことではないのです。

しかし、実際には、悲しいかな、牧師とか伝道者とか神学者などと呼ばれる人々の中に、考えられないほどの数や種類の病気を患ってしまう人々がいることも事実です。

とはいえ、わたしは、自分の不摂生の言い訳のようなことは言いたくありませんし、同僚の牧師たちをかばうようなこともしたくありませんし、そんなことはすべきではない、と思っております。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございませんと、謝罪したい気持ちがあるだけです。本当に、ただ申し訳ございません。

しかし、実際には、そういうときには本当に、教会だけが頼りです。わたしの話をしているわけではありません。パウロの話です。パウロが重い病気にかかったとき、心を尽くして優しく看病し、祈りをもって支えた教会の人々がいたのです。「人の弱さを担う善意」を持っていた人々がいたのです!

「すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵になったのですか。あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。」

ガラテヤ教会の人々の心は、パウロが去った後、パウロから離れて行きました。本当に悲しいことです。しかし、パウロの悲しみは、単なる感傷ではありません。

パウロが宣べ伝えた「福音の真理」から彼らが離れていくことを、パウロは悲しんだのです。

(2004年9月12日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年9月5日日曜日

なぜ逆戻りするのか


ガラテヤの信徒への手紙4・8~11

「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている。いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」。

ここでパウロが書いていることは、何でしょうか。最初に少し丁寧に、ゆっくりと分析してみたいと思います。

初めの文章に「あなたがたはかつて」とあり、次の文章に「しかし、今は」とあります。「あなたがた」とは、もちろんガラテヤ教会の人々のことです。「かつてのあなたがた」と「今のあなたがた」。まるで二種類のあなたがたがいるかのようです。

そして、明らかに言いうることは、二種類のあなたがたを区別するものは、彼らの人生の中で起こる時間の流れである、ということです。「過去のあなた」と「現在のあなた」とが区別されているのです。

どれくらいの時間が流れていたのでしょうか。5年くらいか、10年以上か。パウロは何も書いていません。時間の長さは、問題ではないのかもしれません。ここでパウロが問題にしていることは、「過去のあなた」と「現在のあなた」とでは、明らかに違いがある、ということです。

「過去のあなた」は、神を知らずに生きていた。しかし、「現在のあなた」は神を知っている。ここに大きな違いがある。パウロの言葉をさっと読むと、とりあえずこんな感じになると思います。しかし、続けて「いや、むしろ神に知られている」とも書かれています。これは何でしょうか。この問題は、少しあとで取り扱います。

それより前に扱っておきたい第一の問題は、「神を知らなかった過去のあなた」と「神を知っている現在のあなた」とでは、たしかに大きな違いがある、ということです。

「神を知っている」ということで思い浮かぶのは、神についての知識とか、その知識を身につけるための勉強、というようなことでしょう。「教会でも勉強しなければならないのか。勉強するのは学校である。教会は学校なのか」と思われるかもしれませんし、実際にそのように問われることがあります。

しかし、事実はそのとおりです。おそらくわれわれの多くが洗礼を受ける前に参加したでありましょう「受洗準備会」とか「求道者会」などと呼ばれる時間に行われることは、ひたすら勉強です。教会には学校的な面があります。わたしたちは、教会で、神について勉強しなければならないのです。

しかし、です。ここで、ちょっとだけ、ケンカ腰っぽい言い方をさせていただきます。

はたして、わたしたちは、教会で、どのくらい神について勉強したことがあるでしょうか。「毎週の礼拝も、聖書の勉強の時間である」と言えば、そのとおりです。しかし、時間は短いと思います。受験生と同じくらい、長い時間をかけて、まさに徹夜で、猛勉強をしたことがあるでしょうか。「しました」という方がおられるかもしれません。しかし、どれくらい分かったでしょうか。わたしたちは、神について、何を、どれくらい知っているのでしょうか。「全部分かりました」という方がおられるかもしれません。しかし、それは本当でしょうか。

こういうところに引き合いに出されると、ご本人は嫌がると思いますが、わたしが今、心から尊敬している先輩教師の一人は、神戸改革派神学校の校長をしておられる牧田吉和先生です。つい先々週、同じ研究会でご一緒しました。

この先生は本当によく勉強される方です。若い頃、ドイツとオランダに5年間留学してこられたご経験をお持ちです。今は60才を越えておられます。にもかかわらず、今でも毎日のように朝早くから夜遅くまで、辞書と首っ引きで猛勉強を続けておられます。

しかし、そのような先生が、先々週お会いした折にも頻りにおっしゃっていたことが「分からん、分からん」ということでした。「先生が分からないのに、なぜわたしたちに分かるのですか」と言いたくなるほどでした。牧田先生に限って、「わたしはすべてを知っている」というような顔や態度を見たことがないのです。

もちろん、牧田先生はたいへん謙遜な方である、ということも事実です。だからこそ、多くの尊敬を集めておられます。しかし、これは牧田先生お一人の話ではないでしょう。おそらくわたしたちのすべて、まさにすべての人間は、完全な意味で「神を知っている」と語ることができないのです。

そこで注目していただきたいのは9節です。「しかし、今は神を知っている。いや、むしろ神から知られている」。先ほど「少しあとで扱います」とお断りしました「神から知られている」とはどういう意味であるか、という今日の第二の問題を考えたいのです。


ご覧いただけばお分かりのとおり、ここでパウロは、最初に「あなたがたは神を知っている」と書き、「いや、むしろ」と続け、その後すぐに「あなたがたは神から知られている」と言い換えています。原文でも、このとおりになっています。「いや、むしろ」(マーロン)という言葉がはっきりと書かれています。英語のratherです。敷衍しながら意訳するとしたら、「よりよく語るとしたら」とか「もっとふさわしい言い方をするとしたら」というふうに訳すことができます。

パウロによるこの言い換えの意図は、明らかです。

思い浮かべていただきたいのです。パウロは、この手紙の、この個所の文章を書いています。「かつてのあなたがたは神を知らずに生きていた。しかし、今のあなたがたは、神を知っている」と、ここまで書きました。しかし、そこで筆が止まってしまった。「いや、むしろ」(マーロン)と続けたくなった。そのときパウロは、「神を知らなかった過去のあなた」と「神を知っている現在のあなた」との対比を描くだけでは、満足できないものを感じてしまったのです。

「いや、むしろ」、よりよく語るとしたら、もっとふさわしい言い方をするとしたら、「あなたがたは神から知られている」と書かなければならないのだ。このように、パウロは感じてしまったのです。

なるほど、確かなことは、「神を知っている」ということと、「神から知られている」ということとでは、全く正反対の方向を向いている、ということです。

わたしたちは、もちろん、神を知らなければなりません。神を知るために、神について勉強しなければなりません。このことも確かな真実です。

しかし、ここで付け加えなければならないことがあります。それはパウロの言葉どおり、「いや、むしろ」(マーロン)です。「もっとふさわしい言葉で語るならば」です。ありのままのわたしたちは「神から知られている」と語ることができるだけである、ということです。

そして、このことは、「神から知られている」ということは、だれにでも、はっきりと、遠慮なく、躊躇なく、大胆に、自信をもって語ることができます。

ただし、「だれにでも」という意味は「洗礼を受けている者ならば、だれにでも」ということです。洗礼を受けていないならば、このようなことを自信をもって語ることは難しいと思います。

すでに学んだとおり、このガラテヤの信徒への手紙の3・26以下に、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と書かれていました。「洗礼を受けること」と「キリストに結ばれること」とが、まさに一つのこととして語られていました。

洗礼は、結婚にたとえられるものです。「洗礼とは、キリストと結婚することである」と言い切っても構わないほどです。

しかも、神が(キリストを通して)わたしたちを知りたもう、と語られるときの「知る」の意味は、単なる「知識」ではありえません。神は何でもご存じの方ですから、「わたしたちを知る知識」という言い方は、変です。むしろ、ここでこそ、創世記4・1に出てくる「アダムは妻エバを知った」という場合の「知る」を思い浮かべるべきです。それは結婚関係、あるいは結婚的な関係において「愛しあう」という意味です。

洗礼を受けるとは、まさにそういうことです。「神がこのわたしを愛してくださっている」ということを知ることです。神とこのわたしが結婚関係、ないし結婚的な関係を結ぶことです。まさしくそのとおり、「神を知る」とは「わたしが神を愛すること」です。「神から知られる」とは「神がわたしを愛してくださること」です。

ですから、今日の個所のパウロの言葉は、次のように言い換えることができるでしょう。「あなたがたはかつて、神を愛していませんでした。もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を愛している。いや、むしろ、神から愛されている」。

はっと気づかされることがありました。ああそうか、と深く納得するものを感じました。それは、「神を愛する」という意味の「神を知る」という言葉は、「もともと神でない神々に奴隷として仕えること」ということの反対の意味で使われているに違いない、ということです。

もっと短く言い直します。「愛すること」の反対が「奴隷として仕えること」である、ということです。

「奴隷として仕えること」は「隷属する」とも言い直せるでしょう。しかし、実際的に考えると、「隷属」の実態は「させられること」でしょう。強制的に引きずり回されることでしょう。

むりやり引きずり回されることを自ら好む人もいるのでしょうか。人それぞれである、と言われたら、それまでです。しかし、それはまさか「愛」ではないでしょう。

愛のかたちはいろいろある、と言われたら、それまでです。しかし、奴隷として引きずりまわされる関係と、愛の関係は、全く異なるものです。

このことを、ガラテヤ教会の人々は、よく知っていました。そのことを彼らがよく知っている、ということを、パウロはよく知っていました。だからこそ、パウロは、彼らに、そのことを何とかして思い出させようとして、この手紙を書いているのです。

あなたがたは「神から知られている」、すなわち「神から愛されている」者になったではないか。神を愛し、神から愛される関係、神との結婚関係、すなわち洗礼を受けて、教会のメンバーに加わる、という神との契約関係に入ったではないか。もはや、すでに結婚の関係は、成立しているではないか。

それなのに、です。

あなたがたは「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」とパウロは続けています。

そして、こうも言っています。「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」。

ここでパウロが告白している「心配」を、わたしたちは、文字どおり受けとるべきです。

パウロも牧師の一人です。おそらく牧師ならばだれでも、教会から離れようとしている人がいるとか、信仰を捨てようとしている人がいるとか、そしてもちろん神から離れようととしている人がいたら、間違いなく、まさにここでパウロが書いている意味での「心配」をするでしょう。「うるさい」とか「わたしの勝手でしょ」とか「お節介を焼かないでもらいたい」と思われることを覚悟しながら、「心配」いたします。この意味での「心配」をしないような牧師は、如何なものか、と思います。もちろん、牧師だけではなく、教会全体が「心配」します。

しかし、その「心配」の中心にあるものを、ぜひ理解していただきたいのです。

あなたの非を責めているのではありません。「神の愛」から離れて生きようとするあなたの人生の行く末を「心配」しているのです。「無力で頼りないもの」へと逆戻りすることは、あなたにとって何の益にもならない、ということを「心配」しているのです。礼拝の出席者が減ると困る、というような次元の話をしているのではないのです。

まことの神だけが、あなたを自由にし、まことの喜びで満たしてくださるのです。

(2004年9月5日、松戸小金原教会主日礼拝)



2004年6月27日日曜日

わがうちに生くるキリスト


ガラテヤの信徒への手紙2・17~21

「もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。」

ここでパウロが書いている第一のことは、「キリストによって義とされた人」は、しかし依然として罪人のままである、ということです。「義とされる」と訳されています。「義と認められる」とか「義とみなされる」という訳もあります。いずれにしても微妙な言葉づかいであることには、変わりありません。

なぜ微妙でしょうか。どの訳を採用するとしても、結局のところ義とされた人々はただ単に「義とされた」だけであり、「義と認められた」だけであり、「義とみなされた」だけである、というように、常に何となく奥歯にものが挟まったような言い方になるからです。これらの言葉づかいの裏側に「実際にはそうではない」という、非常に強い否定の言葉が隠されているのです。

しかし、まさにこの"奥歯にものが挟まったような言い方"こそが、キリスト教信仰の特徴です。あなたは、ただ「義とされた」だけである。実際に「義人」になったわけではない。このような、聞く人によっては「詭弁でも聞かされているのではないか」と感じてしまうに違いないような、きわめて微妙な言葉で、わたしたちは、キリスト教信仰の核心部分を説明しようとします。

実際、たしかに、キリストを信じる信仰によって義とされた人は、しかし、その時点でもう二度と絶対に罪を犯すことがない、という意味で完全な義人になることができるわけではありません。

ちょ、ちょっと待ってください。そこのところで、「完全な義人になることができます」と言ってほしいです、と思われる方がおられるかもしれません。

しかし、それは無理な話です。すべてを捨てて新しく生まれ変わりたいという願いをもって洗礼を受けた人に、「いいえ、あなたはこれからも罪人のままなのです」と言わなければならないのが牧師の仕事です。夢も希望も無いかもしれません。しかし、それが現実です、と言うしかありません。

ここでパウロが語っていることは、そういうことです。パウロはきわめて現実主義者なのです。

しかし、もしそうであるならば、どうなるか。そのような、あいかわらず罪人のままであるような人間を、まるでそうではない者であるかのように義なる者とみなしてくださるキリストというお方は、結局のところ、罪を犯し続ける人間を、ただかばうだけの存在であるということになるのでしょうか、という問いが、当然のように出てくるでしょう。

それが「キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか」というパウロの問いの意味です。それが、ここでパウロが言おうとしている第二の事柄です。

「罪に仕える者」を原文から直訳すると「罪の奉仕者」となります。ここでパウロは、キリストは罪の奉仕者なのか、と問うています。あいかわらず罪人のままである者たちを、まるで罪人ではないかのようにみなすキリストは、黒いものを「白い」と言い張るだけの詭弁をあやつる悪徳弁護士なのか、という問いであると理解することができるでしょう。

「決してそうではない」とパウロは書いています。そんなことはありえません、と断言しています。そのような言葉でキリストを侮辱する人々を許すことができない、パウロの怒りの表明が、ここにあると言えます。

「もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。」

少し理解が難しい言葉が続いています。「自分で打ち壊したものを再び建てる」とは、何のことでしょうか。

ここでパウロは、おそらく律法について語ろうとしています。パウロは、律法を打ち壊したのです。しかし、それは、自分が持っている聖書を破り捨てた、というような意味ではないでしょう。そんなことをしても、意味がありません。そうではなく、律法の行いによって救われるという、パウロがキリストへの信仰に入る前に信じていた、ユダヤ教の律法主義的な生き方そのものを捨てたのだ、という意味であると思われます。

そのような生き方を、パウロは、全く捨てました。同じように、ペトロも捨てたはずでした。しかし、ペトロは、自分が一度捨てたものを、再び拾おうとしたわけです。ここが、ペトロとパウロとの決定的な違いとなりました。

何事においても、できるだけ、腹は立てないほうがよいと思います。しかし、少し長く生きてきますと、腹が立つ場面は、たくさんあります。何に腹が立つかといって、自分が捨てた者を拾おうとする人がいるときに、腹が立ちます。

大した価値の無いものであればともかく、少なくともかつての自分自身にとっては大いに価値があると信じてきたものに裏切られ、いわば泣きながら捨てたものを、易々と拾おうとする人がいる。しかも、その人自身も、一度は同じものを捨てたはずである。きっとあの人も、わたしと同じ思いで、必死の思いで捨てたのだろう、と思っていたら、そうではなかった。

なんだ、あの人の決意は、それほどのことでしかなかったのか。パウロがペトロに対してあからさまに示した怒りは、このあたりに真相があると思われます。心の底から、がっかりしたのです。

一度捨てたなら、もう二度と拾ってはなりません。最初に捨てたことの意味が無くなります。

なぜ捨てたのでしょうか。ユダヤ教的律法主義は、渋滞続きの旧国道です。何時間たっても前が見えず、目的地に到達することができません。だからこそ、父なる神は、イエス・キリストによる救いという別の道、パイパスを通してくださったのです。

せっかく便利な道が開通し、そこを通ってどんどん前に進んでいるのに、なぜまた渋滞している旧国道に戻ろうとするのか。それは愚かな人のすることです。二度と戻らない。戻りたくない。一度捨てたものをわたしは二度と拾わない。わたしはもはや「律法に対しては律法によって死んだ」のだから、とパウロは語っているのです。

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」

わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 ここでパウロが明らかにしていることは、パウロがもはや過去の道、渋滞の道、ユダヤ教の律法主義の道に戻りたくないし、戻ることができない理由は、単なる彼の熱情とか、決心とか、決意によるものだけではないということの、いわば根拠です。


「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」。わたしは、今や十字架につけられ"ちゃっている"。「ちゃっている」というのは、もちろん変な言い方です。しかし、パウロの心境を考えると、おそらくこんな感じになると思います。


「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。パウロは、十字架に張り付けられているのです。自分で動くことは、もはやできない。ぷらぷらすることができない。なんだか都合よく、「今日はユダヤ教で行きます。明日はキリスト教で行きます」というふうに、思いのままに行ったり来たり。そんなことは、わたしにはできない、と言っているのです。

わたしの中には、もうすでに、キリストがおられるのだから!

ここはもう少し丁寧に、聖霊の働きによってキリストがわたしの中におられる、というべきところかもしれません。しかし、ここでパウロは、あまり神学的ではないように感じます。激しい愛の力をもってキリストに捕らえられている、自分自身のありのままの状態を、まったく率直に告白しているのです。

「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。ここでパウロは、「わたし」という言葉を繰り返しています。「わたしたち」ではありません。このわたしを、神の子イエス・キリストは愛してくださり、このわたしのために身を献げてくださった。この神の子を信じる信仰によって、このわたしは、今ここで、生きているのです。

この愛、キリストの愛によって、パウロは捕らえられました。わたしの中にキリストがおられる。この告白へと導かれました。それが、彼に与えられた救いそのものなのです。

「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそキリストの死は無意味になってしまいます。」

もうあまりしつこく言葉を重ねる必要はないかもしれません。キリストに対するパウロの思いは、十分に理解していただけたのではないでしょうか。

パウロとキリストを結ぶ絆(きずな)は、愛です。このわたしを愛してくださるキリストを、わたしは愛している。プロポーズはキリストのほうが先です。だからこそ、その愛は「神の恵み」なのです。

どちらが先にプロポーズしたかということが、結婚してからも、いつまでも問題になることがあります。先に惚れた者の負け、という面もあります。

キリストは、愛されるよりも先に、愛してくださいました。だからこそ、その愛は真実です。まだ罪人であるときに、愛してくださいました。これからも罪人であり続けることが分かっていても、愛してくださいました。

そのようなお方を裏切ることはできない。キリストの死を無駄にしてはならない!

この思いが、パウロの信仰を支えました。

(2004年6月27日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年6月13日日曜日

ただ信仰によって


ガラテヤの信徒への手紙2・15~16

「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」

わたしたちがこの御言を正しく理解するために必要なことであるとわたしが考えている、少なくとも一つのことは、この御言を、前後の文脈から切り離さないで読むことです。

使徒パウロは、これまでご一緒に学んできましたように、この手紙の冒頭に、自分自身の身に起こった出来事、身の上話を、詳細に、縷々(るる)、述べてきました。

ちょっと皆さん、聞いてください!わたしの身にこんなことがあったのです、という感じに、全くあからさまに、あっけらんと、自分自身のこと、とくに過去に起こった出来事を、さらけだしてきました。

また、その中には当時のキリスト教会の最高指導者であった使徒ペトロに対する、これまたあからさまな批判も書かれていました。わたしはペトロに言いたいことがあったので、面と向かって罵倒しました、と。

読む人によっては"なんという言いたい放題か"とさえ感じるに違いないほどに、遠慮も反省もなく、ズケズケと書いてきました。

これまでの個所を読んできて、まず最初に分かることは、この人は、要するに、最後は黙っていられない人である、ということです。

それは、もちろん、正義感と責任感が強い人である、という意味です。悪い意味ではありません。どうしても今、語らなければならないことがある。そう感じたときには、たとえ相手が目上の人であれ、お構いなしに語る。自分の立場が危険にさらされようとも語る。ここまで来ると、だんだん悪い意味が含まれてくるかもしれません。

一般的に言って、こういうタイプの人が、はたして、牧師の仕事に向いているかどうかは、微妙です。牧師の仕事は、最も大きく分けるなら、説教と牧会の二つです。もし牧師の仕事が説教だけであるならば、黙っていられない人は、牧師に向いています。

しかし、牧師は牧会もしなければなりません。牧会の仕事の本質は、ひとの語る言葉に黙って耳を傾けることです。黙っていられない人は牧会には向いていません。説教と牧会は、互いに矛盾しあうところがあります。ここに難しさがあります。

しかし、わたしは、ここで、パウロは牧師に向いていない、と断定するつもりは、全くありませんし、そんなことをわたしに言えるはずがありません。

パウロは、だれでもかれでもお構いなしに、言いたい放題を言い放ったわけではありません。相手を選びました。相手がペトロだから、言ったのです。ペトロが教会の最高指導者にふさわしくない行動をとったことが、どうしても我慢できなかったのです。

ペトロが何をしたのかについては、先週学んだとおりです。ペトロは、ある人々が来るまでは、割礼を受けていない異邦人と一緒に食事をしていた。しかし、その人々が来て、何かを言った。その言葉を聞いたペトロは、異邦人たちと一緒に食事をすることをやめてしまった、というのです。

割礼を受けていない人とは、食事をしない。ということは、逆に言えば、このわたしと一緒に食事をしたければ割礼を受けなさい、ということを、教会の最高指導者たるペトロが異邦人キリスト者たちに対して暗に要求した、ということを意味するわけです。

だからこそ、パウロは、ペトロに向かって言いました。「どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」。今日の個所は、この文脈の中で理解されなければなりません。「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」とある中の「わたしたち」とは、だれのことでしょうか。このことをパウロは、文脈から言えば明らかに、ペトロに向かって言っています。

"なあ、ペトロさん、あなたとわたしは、なるほど、たしかに生まれながらのユダヤ人ではありますよ"、という感じです。

もちろん、パウロがここで語りかけている相手を、ペトロ一人に限定することはできないかもしれません。しかし、少なくともペトロのことが、他のだれよりも念頭に置かれている。ペトロに同意を求めている言葉であると、理解できます。

「異邦人のような罪人ではありません」とは何でしょうか。ここでパウロは、異邦人はすべて生まれたときから邪悪で罪深いが、ユダヤ人は生まれたときからすべて清く正しい人々である、というようなことを言いたいわけではありません。パウロは、ユダヤ人たちの犯した罪を、よく知っているわけですから、そんなことを言うはずがありません。

もう少し意味深長な言い方です。「異邦人という意味での罪人ではない」というくらいの意味です。異邦人たちは、ユダヤ人たちのように、生まれたときから教会に通っているとか、幼い頃から聖書を学んでいるとか、宗教的な道徳教育やしつけも行き届いている、というような人々ではないという意味で罪人であるということです。ユダヤ人たちがすべて善人であるとか、罪を犯したことがない、という意味ではありえません。

そして、パウロは言います。「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」。

なあ、ペトロさん、あなたもわたしも、イエス・キリストを信じるこの信仰によって義とされる、ということが分かったから、イエスさまを信じた者たちではないですか!そのことを、あなたは覚えているはずです!

それとも、あなたは、律法の実行によって義とされたと言いたいのですか。そうではなかったはずです!

こんなふうに、ここでパウロは語っています。

このように、わたしたちは、ここでパウロが語っている言葉の向けられている相手は誰なのか、ということを、理解することができます。

第一義的にはペトロです。しかも、それは、異邦人キリスト者たちを、事実上、教会の交わりから締め出そうとした教会の代表者ペトロです。割礼を受けていない人々と一緒に食事をしない。一緒に食事をしたければ、割礼を受けて、ユダヤ人のようになりなさい。しかし、このようなことは、教会の交わりに加えられるための条件ではありえないはずだとパウロは言いたいのです。

教会の交わりに加えられるために必要なことは、ただイエス・キリストを信じる信仰、それだけではないですか。それ以上の何が必要だと言うのですか。ペトロさん、あなたは、なぜ、異邦人たちに、これ以上、余計な負担を負わせようとするのですか、と非難しているのです。

そして、このパウロのペトロに対する言葉は、いわば、そのまま、教会全体に向かっても語りかけられていると、読むことができます。今日の個所を前後の文脈から切り離さずに読むと、パウロの意図が、明らかな教会批判であることが分かります。伝道という観点からの、教会の敷居はもっと低くあるべきだ、という要求であることが分かるのです。

そして、これは本当に厳しい言葉です。ひとが教会の交わりに加えられるために必要なものは、イエス・キリストを信じる信仰だけである。それ以外のことが条件とされるようなことは、それがたとえどんなことであれ、決して認められるものではありません。

ところが、実際の教会の中には、実にさまざまな条件が持ち込まれてきたし、今も持ち込まれ続けているのかもしれません。敷居がいつの間にか高くなっている。具体的な例を挙げることは控えます。

しかし、どうでしょう。あの人はああだから、この教会の交わりにはふさわしくない。この人はこうだから、この教会にはふさわしくない。こういうことを、わたしたちは、つい考えたり口にしたりしていないかどうか、よくよく反省してみることが大切です。

わたしたちは、教会には、できるだけたくさんの人々に集まってもらいたいと、心から願っています。だからこそ、いろいろな機会に、いろいろな方法で、何とかして、初めての人々にも、遠慮なく、教会の門をくぐっていただけるように、全力を尽くします。あの人はダメ、この人はダメと最初から人を選んだりしませんし、そんなことをしている教会は、決して成長しないでしょう。そんなやり方は、少しも面白くありません。

いろんな人がいるからこそ、教会です。そもそも、わたしたちは教会に、救いを求めてきたのです。自分には問題があり、神の助けが必要であるということを痛いほど身にしみている人々が、教会の門をくぐってきたのです。わたしたちがさまざまな問題を抱えていること自体が、人間の尊厳でもあります。

何の問題もない人間など、一人もいないのです。だからこそ、イエス・キリストは、わたしたちの身代わりに十字架にかかって、死んでくださいました。わたしたちの問題を全部引き受けてくださったのです。

この方がわたしの救い主であると信じる信仰。

これだけが、これだけが、わたしたちを義とするのです。

(2004年6月13日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年6月6日日曜日

牧者の責任


ガラテヤの信徒への手紙2・11〜14

「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。」

ガラテヤの信徒への手紙の中にパウロが描いているペトロとの会見の場面は、これで第三回目です。

しかし、この第三回目の会見は、前二回と比べてみますと、いくつかの点で非常に違ったものになってきていることは、明らかです。

違いの第一は、会見が行われた場所です。第一回目と第二回目の会見場所は、いずれもエルサレムでした。当時の全世界のキリスト教会の"総本山"と言うべき教会が置かれていたエルサレムです。そのエルサレムに、当時の教会の最高指導者であった使徒ペトロがいました。そのペトロのもとに、パウロが出かけて行って、二人の会見が行われました。

ところが、第三回目の会見場所は、アンティオキアでした。そこにも、教会がありました。アンティオキア教会はパウロをはじめとする異邦人伝道に従事する伝道者たちが"ベースキャンプ"にしていた教会です。

その教会に、今度はペトロのほうが訪ねて来たのです。そして、そこで、パウロはペトロに会いました。これは大きな違いです。

会見がどこで行われたかという点は、じつは非常に大きな事柄であると言えます。エルサレムにいるときのペトロは、自他共に認める教会の最高権威者としての外見を持っていたはずです。会社の社長が社長室にいるようなものです。近づくのも恐れ多いと感じさせるような場所です。

ところが、パウロとペトロの第三回目の会見は、言うならば、少し低い場所で行われました。もちろん、どこにいようともペトロはペトロです。しかし、自由に語り合える場所というのは、たしかにあると言えるでしょう。

違いの第二は、パウロ側に見られる顕著な変化です。これは、読んでいただくと、すぐにお分かりいただける点です。前二回の会見は、パウロもペトロもお互いに非常に穏やかな態度でなされました。

第一回目のときは、パウロがまだ、洗礼を受けて教会のメンバーになってまもない頃でした。迫害者だった頃の反省や悔い改めの思いが強く残っていたに違いない頃です。どちらかというと控えめで、謙遜で、少し頭を下げているようなパウロの姿が目に浮かびます。

第二回目のときは、パウロが伝道者としての活動を活発に展開しはじめて、まもない頃です。その頃のパウロは、なお控えめで、謙遜なものではありましたが、神の御言を宣べ伝える伝道者としての誇りと自信、福音の真理の確信に満たされていました。自分の歩むべき道を自覚しつつ、しっかりとした足取りで歩んでいるパウロの姿が目に浮かびます。

しかし、と言うべきでしょう、第三回目の会見のときのパウロの様子は、これまでとは明らかに違います。

「ペトロに非難すべきところがあったので、面と向かって反対した」。口語訳聖書では「面と向かってなじった」と訳されていました。新改訳聖書では「面と向かって抗議しました」と訳されています。面罵という言葉がありますが、まさにこれです。広辞苑での意味は「相手の面前で罵ること」です。

罵倒することです。いずれにせよ、そこには、いささかの穏やかさもありません。非常に攻撃的で、乱暴で、破壊的でさえあります。まるで喧嘩腰。怒りに任せて、相手かまわず、大声を張り上げて、怒鳴りつけている感じがしてならないのです。

こういうのは、できればやめてほしいという感じがしなくもありません。大の大人同士が、直接向き合って、口から唾を飛ばしながら対決している姿というのは、周囲の人々に恐怖や躓きを与えかねません。少なくともパウロ側は、完全に激怒しています。ほとんど許せない思いを持っています。

そのことを、パウロは、この手紙に書きながら、また腹を立てている感じです。あのときは腹を立てて申し訳なかったというような反省の言葉は、全くありません。むしろ、今でも怒っている。ペトロのしたことは許せない、という思いが消えていないのです。一体、何があったのでしょうか。


「なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。」

書き残されている事実は、これだけです。これ以上のことは、分かりません。いつ、どこで、こういう事件が起こったのか、ということについては、全く触れられていません。また、だれが、ということについても、「ある人々が」とか「彼らが」とあるだけで、まるで伏字だらけのイニシャルトークでも聞いているようです。当時の人々には手に取るように分かったのかもしれませんが、時代の違う人々には、全く分かりません。

しかし、逆に言うならば、パウロがここで問題にしている相手は、名前を伏せられている"だれそれさん"のことではなく、ひたすらペトロ一人であった、ということの証拠である、と考えることもできるわけです。つまり、問題はペトロにある、ということです。ペトロが問題なのです。ただし、一個人としてのペトロではなく、一公人としてのペトロが問題です。彼のしたことは一体何だ、とパウロは怒っているのです。

ペトロは、異邦人たちと一緒に食事をしていた。しかし、あるときを境に、そのことをやめてしまった。きっかけは、ある人々が来たこと、その人々がおそらく何かを言ったこと。そのことでペトロは、ユダヤ人たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしはじめた。他のユダヤ人たちも、異邦人たちと一緒に食事をしなくなってしまった。

そのようなことを、パウロと一緒に伝道旅行をした伝道者バルナバさえしはじめた。これは一体何なのだと、開いた口がふさがらないほど、あきれ果てているパウロの姿が、目に浮かびます。

一緒に食事をする、というのは、象徴的な行為です。ユダヤ人と異邦人とがキリストの福音に基づいて、罪の赦しと和解のテーブルに着くことです。しかも、この文脈における「異邦人」の意味は、いわゆる"異邦人キリスト者"のことであると思われます。つまり洗礼を受けている異邦人です。すでに教会の正式なメンバーに加わっている異邦人です。

わたしたち日本キリスト改革派教会の場合、洗礼式のときに読まれる式文の中に、次のような感銘深い言葉が記されています。

「あなたは、今ここに信仰を告白し洗礼を受けました。それゆえ、あなたは、神の教会のすべての特権を与えられ、聖餐の礼典にあずかることができます」。

他教会からの転入式や他教派からの加入式の式文には、次のように書かれています。

「あなたは、今この教会に転入し、私たちの交わりに入れられました。それゆえ、あなたは、この教会の会員としてすべての特権を与えられたことを宣言します」。

そのとき厳かな宣言をもって約束されることは、神の御前で一人の信仰者に与えられる「神の教会のすべての特権」であり、「この教会の会員としてのすべての特権」です。そこに差別は無いのです。あってはならないのです。

いろんな意味での自分自身の出所(でどころ)のことを"出自(しゅつじ)"と言います。多くの場合、教会は、出自が違う人々の集まりです。出身地、出身学校、出身教会など、それぞれみんな違います。生まれも育ちも違う。言葉も性格も違う。年令も体験も違う。なにもかも違います。すべてが全く同じ人間は、一人もいません。

そしてわたしたちは、多くの場合、良い意味でも悪い意味でも、それぞれの過去を引きずっています。過去を引きずることのすべてが、悪いわけでもありません。過去の記憶や体験、過去の宗教が、現在のわたし、このわたしを決定しているのです。わたしがわたしであり、わたし以外の何ものでもないというこのことは、わたしがこれまで体験してきたすべてのことを引きずり続けるときに、初めて自覚できるのです。

そして、しかし、そのように過去を引きずりながら生きているわたしたちが、キリストの福音によって救われ、キリストの体なる教会に集められたとき、そこで起こることは、わたしたち一人ひとりが根本的に全く自由なものにしていただける、というこのことも、忘れてはなりません。悪い意味で過去を引きずってきた人々が教会の中に加えられるとき、もはやそれを引きずらなくても良い、ということを深く知らされるのです。

だからこそ、です。ユダヤ人がキリストに救われるとき、ユダヤ的律法主義というものから全く解放され、まるで異邦人のように生きることが許されるのだ、というのがパウロの信仰であり、またペトロ自身もその信仰を持っていたはずなのです。

ところが、一体何なのか。ある人々が現われて、ちょっと言われただけで、自分の立場を変えてしまう。そして、その結果として、異邦人キリスト者たちに対しても約束されているはずの「教会のすべての特権」を奪い去ってしまう。教会の中でさえ、異邦人とユダヤ人を差別してしまう。パウロが激怒した理由は、このあたりにあると言えるでしょう。

しかも、ペトロ自身は、異邦人のような、かなり自由な生活を続けていました。ユダヤ的律法主義に戻ることは、もはやできませんでした。一度味わった自由の味を忘れることができませんでした。それなのに、異邦人たちに対しては、ユダヤ的律法主義を強要する。

人に厳しく、自分に甘い。そのような最も模範的でないペトロの生き方を、わたしたちは、とくに教会における伝道・牧会の責任を負う牧師や長老たちは、他山の石とすべきです。

(2004年6月6日、松戸小金原教会主日礼拝)


2004年5月23日日曜日

神与えし任務


ガラテヤの信徒への手紙2・1~10

「その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。」

パウロは、再びエルサレムに上って行きました。「その後十四年たってから」とあります。おそらくパウロが使徒ペトロとの第一回目の会見を許された日から14年後の意味であると思われます。

そのときパウロは、彼一人ではなく、バルナバとテトスという二人の伝道者と一緒に行きました。この三人がエルサレムに上った目的は、はっきりしていました。それはもちろん、エルサレムにいた当時のキリスト教会の最高指導者であった使徒ペトロに、再び会いに行くためでした。つまり、使徒ペトロとの第二回目の会見を果たすためであったと考えることができます。

ただし、第二回目の目的は、ペトロ一人だけに会いに行くことではなかったようです。2節に「おもだった人たち」とあります。この人たちの名前は、9節に書かれています。ヤコブとケファとヨハネです。ケファは使徒ペトロのことです。ヤコブとペトロとヨハネです。9節には「柱と目されるおもだった人たち」とあります。この三人が当時の教会の中で「柱」と呼ばれていたことが分かります。

教会の三本柱です。柱が倒れると、家全体が倒れます。「柱」と呼ばれたこの三人は、当時の教会において、まさに彼らが立つか倒れるかによって、教会全体が立つか倒れるかが決まるというほどに重要な存在であったということです。

「エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。」

「エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした」という一文の中で、パウロ自身が最も強調を置いているのは、「啓示」という言葉です。原文では「啓示」という言葉に、定冠詞がつけられています。「the啓示」です。「まさに啓示によって」です。この定冠詞つきの「啓示」には、神御自身がパウロに「エルサレムに行け」という命令を、何らかの仕方で啓示された、という意味が込められていると思われます。

どういう仕方かについては書かれていません。そのような夢を見た、ということかもしれません。聖霊の働きというべきかもしれません。書かれていないので分かりません。

しかし、パウロが言わんとしていることは明らかです。この手紙の冒頭から繰り返し強調されてきた、あのことです。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」というこのことです。人間によるのではなく、神による。神の啓示によって、わたしは使徒とされ、伝道者とされた。エルサレムに行くことも、人間によるのではなく、神の啓示による、というこのことを、パウロは、とにかく強調しているのです。

ここで二つの問題が残っています。

第一に、パウロはなぜ、エルサレムに行く際にバルナバとテトスという二人の伝道者を連れて行ったのか。第二に、パウロはエルサレムの使徒たちに、具体的に何を言いたかったのか、です。

第一の問題を考える際に重要であると思われるポイントは、バルナバとテトスとの間にあったと考えられる国籍の違い、という点です。

バルナバの国籍についての明確な記録は見当たりませんが、テトスについてはギリシア人であったと、3節にはっきりと書かれています。テトスはギリシア生まれのギリシア人、生粋のギリシア人でした。

これに対して、バルナバは、おそらくユダヤ人であったと思われます。「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていた」と使徒言行録11・24に書かれています。彼は有能な伝道者でした。パウロがバルナバを伝道のパートナーとして選び、また、エルサレムに行く際にもパートナーとして選んだ理由は、この点にあると思われます。

しかし、テトスについては、いくらか別のことを考える必要がありそうです。テトスはギリシア人であった、というこの点が、パウロが彼を、エルサレム行きのもう一人のパートナーとして選ぼうと決心する際に決定的に重要な意味を持っていたと思われるのです。

第二の問題は、パウロはエルサレムの使徒たちのところに行って、具体的に何を言いたかったのか、ということです。

2節には「自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました」とあります。これだけでは何のことか、ほとんど分かりません。日本語がおかしい感じもします。

それでもいくらか分かることは、要するにパウロは、イエス・キリストの福音というものを、異邦人と呼ばれていた人々に宣べ伝えていたということです。

異邦人とは、ユダヤ人たちから見た外国人という意味以上に、異教徒という意味を持ちます。異邦人伝道とは、すなわち異教徒伝道です。別の宗教を信じている人々、そして、そこには現代的な意味の無神論者も含まれてよいと思いますが、聖書の神を信じていない人々を信仰へと導くこと、です。少し耳障りの悪い言葉を用いて言えば、その人々に改宗をしていただくことです。

パウロの仕事は、これでした。しかし、そのパウロが自分の仕事としていることとしての異邦人伝道ということ自体が、無駄なことであり、全く意味の無いことをしている、というふうに、教会の人々から見られているのではないか、ということが、少し不安になったのではないでしょうか。

ただし、今わたしが「不安になったのではないか」と言いましたのは、パウロが自分のしていることに自信を持てなくなった、という意味では全くありません。パウロはむしろ、非常に自信を持っていました。彼が不安になったのは、自分のしていることに対する自分自身の確信に揺らぎが生じたからでは全くなく、むしろ教会の人々に対する彼自身の不安、ないし不満があったからです。

わたしのしていることを無駄なことだと見る人々がいないかどうか。いるとしたら、そういう人々にはぜひとも考え方を変えてほしいと訴えるために、パウロは、エルサレムの使徒たちのもとに、乗り込んで行ったのです。これが第二の問題、パウロはエルサレムに具体的に何を言いたかったのか、という問題の答えです。

このとき、パウロは、ユダヤ教団から離脱してキリスト教会のメンバーになってから、17、8年たっていたと思われます。その頃になりますと、最初の遠慮は、そろそろ無用になるでしょう。なんでもかんでもズケズケと言うというのは、礼儀や常識という観点から言えばどうかと思うところがあります。しかし、教会に対してでさえ、はっきりと言わなければならないことがあるならば、遠慮なく言わなければならない。少なくとも伝道者たちには、教会の内部の問題に対して、率直な言葉を語らなければならない、その責任があるのです。

そして、まさにそのことを訴えるために、パウロは、テトスを、エルサレムまで連れて行ったのだ、と考えることができます。

ここで第一の問題に帰ります。先ほど申しましたとおり、テトスはギリシア生まれのギリシア人、生粋のギリシア人であるという意味で、ユダヤ人たちにとっての異邦人、そしてユダヤ教徒にとっての異教徒でした。そういう人が、しかし、イエス・キリストを信じて生きるキリスト者になり、キリストを宣べ伝える伝道者になりました。そしてその際、テトスは、ユダヤ教徒の男子が受けることになっていた割礼という儀式を、受けないままで、キリスト者になりました。

ここで間違いなく言えることは、テトスに洗礼を授けた人がそのように判断したということです。テトスが割礼を受けていないことの全責任は、彼に洗礼を授けた教師にあります。テトス自身が割礼を受けることを拒否した、という事実はありませんし、拒否する理由がテトス側にあったとは思えません。

そして、その場合、割礼を受ける意味は、そのとき、そのひとはユダヤ教徒になる、ということです。反対に、割礼を受けないということは、ユダヤ教徒にはならない、ということです。つまり、テトスに洗礼を授けた教師が判断したことは、異教徒であるギリシア人テトスは、キリスト者になるために、ユダヤ教徒になる必要は無い、ということでした。それは要するに、ユダヤ教徒になることとキリスト教徒になることとは別のことである、ということでした。

このようなことは、今のわたしたちにとっては、当たり前のことです。しかし、そのことは、当時のキリスト教会全体の中では、必ずしも、十分な意味で一致した考えや立場にはなっていませんでした。

と言いますのは、当時においてはまだ新しく生まれたばかりのキリスト教会のメンバーの大半は、生まれてすぐに割礼を受けることを習慣づけられていた(ただし、男子のみ)ユダヤ人たちだったからです。

そういう中で、当時のキリスト教会を構成していたメンバーの大半がユダヤ人であり、常識的に割礼を受けていた人々である、その中で、割礼を受けないままでキリスト教会のメンバーでありうると主張する人々が現われてきたときに、それは正しい判断かどうかということが、新しい問題として起こってきたのです。

そもそも、イエス・キリストを信じて救われるとは、罪の中から救い出されて、全く自由になること、心の重荷が取り去られて、軽くなることです。しかし、もしキリスト者になる前にユダヤ人にならなければならないということになれば、軽くなるどころか、負担がもっと増えます。たいへんだなあ、ということになるのです。

負担が減り、軽くなることが救いです。そのことを、パウロは、まさに全教会の全信徒に、受け入れてもらいたかったのです。だからこそ、パウロは、割礼を受けていないキリスト者の代表としてテトスを選び、エルサレムに連れて行ったのです。

「しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。」

当時の教会のおもだった人々、つまりエルサレムの使徒たちは、テトスに洗礼を授けた教師の判断を是としました。彼らはテトスの存在を認めました。それが意味することは、異邦人・異教徒がキリスト教会のメンバーに加わる前に、まず割礼を受けてユダヤ教徒にならなければならないというようなことは、必要ないことであり、全く意味のないことである、という判断を、使徒たちが正式に下したのだ、ということです。

このことは、逆に考えてみることも大切です。もし、そうではなく、エルサレムの使徒たちが、異邦人・異教徒が割礼を受けないままで、洗礼だけを受けて、キリスト教会の仲間とみなされているテトスの存在を認めなかったとしたら、このテトスのような人々をたくさん生み出している教師の授けている洗礼は、意味が無いものである、と教会が認めることを意味することにもなったのです。

そのような洗礼を授けていた教師の、少なくとも一人は、間違いなくパウロです。テトスの洗礼が全教会の全信徒に受け入れられるかどうかという問題は、パウロの伝道方法や洗礼方法には意味があるかどうか、という問題に、直接関係していたということです。

自分が喜びと確信と誇りをもって携わっている仕事に対して、あなたのしていることは無駄であるとか、意味が無いと言われて気持ちが良い人はいないでしょう。

しかし、誤解がありませんように。パウロがエルサレムで主張したかったことは、パウロが自分の仕事に対して持っていたプライドとか自信が傷つけられることが許せなかった、というような次元に留まるものではありませんでした。

そのために、教会の教師が一人の人に洗礼を授けることの持つ意味の大きさということが、正しく理解される必要があります。それは、まさか、その教師の手柄だとか勲章だというようなことではありえません。冗談でも、そんなことを言ってはなりません。

「割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。」

洗礼の意味は、一人の人がイエス・キリストのものとされるということです。神がその人を、イエス・キリストのものにするということです。洗礼は神御自身の行為です。とりわけ聖霊なる神のみわざです。洗礼はそれを受けた人の人生にかかわり、生命にかかわります。そのために、教師が用いられるのです。

割礼を受けないままで受けた洗礼は有効である、ということは、エルサレムの使徒たちが認めた真理です。こうしてパウロは、異邦人たちに授けてきた洗礼は有効であると公に認められました。

それは神が認めたことです。その洗礼が無駄であるとか、意味が無いというようなことを言われるなら、その教師は、生命をかけて戦わなければならないのです。

(2004年5月23日、松戸小金原教会主日礼拝)