2008年1月1日火曜日

主を喜び祝え!


ネヘミヤ記8・9~10

「『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。』民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。『行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である』」。

あけましておめでとうございます。今日は新年礼拝です。日曜学校との合同礼拝として行っています。今、子どもたちがたくさん集まっています。楽しく過ごしたいと思います。

日曜学校の皆さん、皆さんは泣いたことがありますか。もちろんあると思います。どんなときですか。兄弟や友達とけんかしたときですか。悲しいときですか。そういうときも、たぶん泣くと思います。

今日読んだ聖書の個所に出てくる人々も泣いていました。なぜ泣いているのでしょうか。うれしいことがあったからです。うれしいときにも人は泣くのです。この人々に、とてもうれしい出来事が起こったのです。それは何でしょうか。ちょっとだけ説明しておきます。

昔々の話、今から2500年ほど前のことです。わたしたちと同じ神さまを信じていたユダという国に住んでいたユダヤ人が、隣のバビロンという国との戦争に負けてしまいました。神さまを礼拝するための神殿も、王さまが住んでいたお城も、バビロンの軍隊に壊されてしまいました。そしてユダヤ人の多くが捕虜としてバビロンの国に連れて行かれてしまいました。それは、とても辛くて悲しい出来事でした。

しかし、それから70年の後、バビロンに連れて行かれたユダヤ人たちが元々住んでいた町に帰れることになりました。そして、壊れたままだった神殿、またお城の壁をみんなで力を合わせて建て直すことができたのです。

今日の聖書の個所の泣いている人々は、神殿とお城の壁を建て直した人々です。それがやっとできたということがうれしくて泣いているのです。この場面は、神殿とお城の壁が元通りになったことを、神さまに感謝するために行っている礼拝の場面です。

しかし、その涙には、別の意味もありました。ただうれしかっただけではなかったようです。考えてもみてください。70年もの間、神殿とお城が壊れたままだったのです。また、その間、人々は自分たちが元々住んでいた町に戻ることができなかったのです。皆さんも、もし同じような目にあうことがあったら、どのように感じるかを想像してみてください。

今日の個所に出てくるユダヤ人たちは、今やっと自分たちの町に戻ることができ、また神殿とお城の壁を建て直すことができたわけですが、そのときに心の中に思い出されたことは、70年の間に嫌な目にあったこと、辛かったこと、寂しかったこと、悔しかったことなど、いろいろあったと思うのです。

また、ちょっと恨みもあったかもしれません。70年前に戦争に負けた人たちは、神さまの言いつけを守らなかった人々であるということが聖書に書いています。そのような昔の人たちが犯した罪のせいで、そのあとの人たちが苦労させられた、そのことに腹を立てて泣いていた人もいたのではないかと思います。

しかし、そのようないろいろなことがあったけれども、とにかく今わたしたちはやっと自分たちの国に帰ることができた。すべては神が導いてくださった結果であると信じて、その神に感謝するための礼拝をささげている。それが今日読んだ聖書の個所の場面です。

「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と言っているのはエズラさんとネヘミヤさんという二人の人です。泣いているみんなに「泣いてはいけません」と言っています。笑いなさい、楽しみなさいと言いたいのです。

「良い肉を食べて、甘い飲み物を飲みなさい」とも言っています。今日はうれしい日、楽しい日なのだから、おいしいごちそうを食べて、笑いなさい、楽しみなさいと言いたいのです。

また「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ」と言い、だから「泣いてはいけません」と言っています。「聖なる日」と聞くとわたしたちは、もしかしたら、ちょっと怖いような気持ちを持つかもしれません。「聖」とは清いということです。清いとは「きたない」とか「けがれている」の反対です。そうしますと、わたしたちが思い描くイメージは悪いことをしないようにとか、真面目にするように、という意味ではないかということになる。「シー静かにしなさい。真面目にしなさい。うるさい人はこの部屋から出て行きなさい」と怒られてしまうのではないかと、感じる人がいるかもしれません。

しかし、ここに言われている「聖なる日」の意味は、どう考えても、そういうことではありません。「聖なる日」なのだから、おいしい肉を食べなさい、甘い飲み物を飲みなさい。笑いなさい、楽しみなさいと言われているのですから、「シー静かにしなさい」の反対です。そうです、「聖なる日」とは、笑ってもよい日であり、楽しんでもよい日であるという意味なのです!

実を言いますと、わたしたちにとっての「聖なる日」は、日曜日です。みんなで教会に集まって、神さまに礼拝をささげる日です。「聖なる日」である日曜日は、笑ってもよい日であり、楽しんでもよい日です。おいしい肉を食べ、甘い飲み物を飲んでもよい日です。

そんなものは、毎日、食べたり飲んだりしているよ、という人もいるかもしれません。私が言っているのは、そういうものは、日曜日以外は食べてはいけません、という意味ではありません。むしろ逆です。わたしたちは、毎日、笑ってもよいし、楽しんでもよいのです。

私のお父さんの話をします。今でも岡山県に住んでいます。私が生まれる前から今まで、ずっと教会に通っています。長い間、“クリスチャンしている”人です。

この私のお父さんは、とてもはっきりしていました。日曜日に教会で楽しいことがあると、月曜日から土曜日まで、ずっと楽しそうでしたし、うれしそうでしたし、元気そうでした。日曜日に教会で何か嫌なことがあったり、牧師さんの説教がつまらなかったりしたときは、月曜日から土曜日まで、ずっと不機嫌でした。

みんなが私のお父さんと同じかどうかは分かりません。でも、どうやらみんな、多かれ少なかれ、同じような気持ちを持っているのではないかと思うのです。

日曜日は、一週間の初めの日です。今日は一年の初めの日です。初めの日が悪ければ、この先どうなるのだろうかと不安になったり、嫌な気持ちになったりするものです。逆のこともいえます。初めの日がよければ、この先もよいことがあるだろうと希望を持つことができます。今週も、今年もがんばるぞという気持ちになり、ファイトがあふれてきます。そこには相乗効果、または相関関係があるのです。

わたしたちにとっての「聖なる日」は、日曜日です。日曜日は、笑ってもよい日であり、楽しんでもよい日です。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と言われているとおりです!

もちろん、日曜日に笑うとか、楽しむと言っても、教会の礼拝は、テレビや漫画ほどは面白くないかもしれません。教会の牧師さんや長老さんや日曜学校の先生たちは、お笑いの芸人のようにゲラゲラ笑える話をしてくれるわけではありません。

しかし、お笑いの芸人さんたちに対しては、ちょっと言いたいこともあるのです。それは、あの人々なりに頑張っているとは思いますが、あの人々の笑いは、すぐに飽きられてしまうものである、ということです。

対して、教会のお話は、けっこう長生きです。教会の歴史は、二千年も続いてきました。聖書のお話、神さまのお話には、飽きるということがありません。たとえて言うならば、教会のお話は、おかあさんやお父さん(!)が作ってくれる、毎日のごはんです。毎日のご飯に「飽きた」という人はいません。毎日のご飯を「飽きたから食べない」としたら、死んでしまいます。聖書を通して神さまが与えてくださる日々の糧に飽きる人は、いないのです。

ぜひ、毎週日曜日、教会に遊びに来てください。礼拝を楽しんでください。教会は喜び楽しむ場所なのです。今年もよろしくお願いいたします。

(2008年1月1日、松戸小金原教会新年礼拝)