2008年1月17日木曜日

ある書簡

このたびの会堂移転(というよりも新会堂建築)は、はっきり言えば50年に一度のチャンスであると思われます。50年後の教会を見通しながら、会堂を建てねばなりません。そのために必要であると確信する会堂の大きさは、余裕で150人、詰めて200人は入ることができる大きさです。建材はハリボテでもいいので、できるだけ大きなもの。願わくば天井が高いもの。そういう会堂がよいと私は考えています。

今の人数に見合った規模のものを建てると、どうなるか。伝道者が替わり、ぐんぐん成長し始めたときに、「人間が入るところがない」ということで困り果ててしまうのです。実際、ある先生は「あまりの会堂の小ささ」に絶望的な苦しみを味わっておられます。伝道者は必ず替わるのです。今は伸びていなくても伝道者が替われば飛躍的に伸びる教会もあるのです。そのことを私はいつも自分に言い聞かせています。

私が願っているのは○○地区です。できれば病院の窓から見える高い十字架の塔が欲しいところです。「病院伝道」などと銘打つ必要は全くありませんが、「あの地域に行くとなんだか救われた気がする」と感じてもらえるような建て方が、新しい町の雰囲気作りに永続的に貢献できるように思います。

ただし教会が「葬儀会場」の機能ばかり果たしているような印象を、とくに病院に入院しておられる方々に対して与えるようでは困ります(象徴的な意味で申しております)。説教においては、人生の喜び、生きる希望、そして感謝の生活(ハイデルベルク信仰問答の第三部!)を熱心に語り、また(付近が静かな時間帯には)入院している方や家族の方々の心に届くような賛美の声を鳴り響かせたいところです(機械的な鐘の音ではなく、人間の心から発せられた賛美の歌声をです)。

ある先生が危惧されていた「農村的特徴を持つ地域住民との関係」という点は、私にとってはあまり問題ではないと感じられます。あのような大きな病院があると、教会の姿を目にする人々の範囲が非常に広くなります。悪い意味で「ごく限られた近隣地域の人々とのお付き合い」だけに縛られないで済むのではないかと思います。また今は何と言ってもインターネットの時代です。農村の人々もネットをふんだんに活用し、あらゆる情報を入手しています。「農村的うんぬん」という判断は、いつまでも変わりえない要素ではありません。

病院との関係はもちろん間接的な事柄です。シンボリカルな要素であり、雰囲気や印象のたぐいです。しかし、そういう空気のような要素が教会の伝道にとっては非常に重要です。「聖霊」はロジカルなもの(「屁理屈」と翻訳しておきます)だけでは捉えきれません。風のような、空気のような要素が必ず伴うものです。駅前などの人通りが多いところがよいというだけならば、典型的な商業主義の発想です。しかし、教会はコンビニエンスストアではありません。商業主義は、流行ると栄えるかもしれませんが、廃れるときもあるものです。

「信仰」とは流行り廃れを超えたところで成り立つものであると、私は信じています。また、狭い道の脇に立てられた、普通の住宅と見間違えるような建物にも賛成できません。階を増やして人がたくさん入れるようにしても駄目です。そのような建物を、それこそ地方都市の人々は「教会」として認識しません。外には高い塔があり、内側は天井が高い開放的なスペースがある。それが「教会」です。

私は岡山県岡山市の出身者ですが、そちらの雰囲気や状況(東京からの距離感など含む)が岡山市に酷似しているので、だいたい分かります。ちなみに、岡山市は今年中に「政令指定都市」になることを目指しているようです。

また、ある先生がおっしゃったとおり、教会には「サナトリウム」の要素があります。サナトリウムが、人ごみのど真ん中にあるでしょうか。せっかく治りかけの病気がますます悪化しそうです。少し人目を避けて入ることができる、静かで落ち着いた場所に教会は建てられるべきです。

以上の考えを、私は、よほどのことがないかぎり変更しないことにします。「よほどのこと」とは先生御自身が明確に反対なさる場合です。それ以外の場合は変更しませんので、そのようにカウントしていただけますとうれしいです。