2008年1月23日水曜日

若き教義学者へ

私の頭と心を支配している一つの事柄は、今が日本における改革派神学の「再興期」なのか、それとも「衰退期」なのかの判断は甚だ微妙であるということです。だれか一個人の責任であると言っているわけではありません。国際的にも似たような現象があると感じられます。一言でいえば、現在の改革派神学は「世俗化」(Secularization/ ontkerkelijking)の問題に対して余りにも無策すぎるのではないかと思われてならないのです。バルトやモルトマンのように(「WCCやWARCのように」と言い換えてもよいかもしれません)なっていけばよいとは思っていません。「世における教会」・「世と共にある教会」・「世のための教会」を語ることによって事実上の教会解体論を訴える人々を、私は痛いほど見てきました。しかし他方、だからといって我々が「教会への引きこもり」を是としてよいわけでもない。教会や神学校を「マサダの要塞」にしてしまってはならない。むしろ我々はキリスト者と自分自身に向かって、ファン・ルーラーのように「世を前にして立つ勇気を持て!」(Heb moed voor de wereld!)と呼びかけねばならない。「世の問題から目を背ける罪」について語らなければならない。しかも、私が「世の問題」という場合には、言うまでもなく政治や社会の問題を含めて述べようとしているのですが、「世における教会」・「世と共にある教会」・「世のための教会」というものが常に「世に抵抗する教会」・「世を罵倒する教会」・「世を憎む教会」という様相を呈するだけのものであってはならないと思っているのです。極度の世俗化受容に基づく「教会解体論」は暴力です。しかしまた、かたや「教会の(一方的な)世俗主義批判」のほうも、私に言わせていただけば、れっきとした暴力の一種なのです。具体的に言えば、世と教会との板挟みの位置で苦しんでいるキリスト者たちの精神と肉体を、我々の語る「説教」が不断に・継続的に・連続的に攻撃し続けた結果、最悪の場合は破滅の道に人を追いやることがありうるのです。現在最も気になっていることは、今の多くの改革派神学者が取り組んでいる「(改革派的)霊性の神学」の行方です。二点、率直に申し上げます。私が気になっている第一の点は、それを探究していく手法として「源泉複初」(ad fontes)の道を進むことは妥当かという問題です。ある人々は「カルヴァン」へと複初する。他の人々は「第二次宗教改革」に。あるいは「カルヴァン」と「第二次宗教改革」の両方に、といった具合に。歴史的源流に遡ることが学問において不可欠であることは、当然です。しかし、私はここで急にバルト主義者になります。教会史ないし歴史神学の研究は、教義学にとっての「補助学」(Hilfswissenschaft)です!「教義学」と「歴史神学」はもはや別の分野であるとみなされるべきです。「教義学」は、むしろ「実践神学」のほうにより近く立つべきです。しかしまた、「(改革派的)霊性の神学」の教義学的・実践神学的取り組みにおいて私が期待していることは、内面性の問題にとどまらないこと。(あえていえば)外面性の問題を考え抜くこと。さらに、内面性と外面性との相互関係や交換運動を把握することです。すなわち、“内から外へと出ていく運動”、あるいは“内と外との間で不断に繰り返される往復運動”、さらに“「内から外を見る視点」と「外から内を見る視点」との交換運動”などを、精密かつ広範にとらえつくすことです。それは、概念的にはファン・ルーラーの主張する「アポストラートの神学」や「聖霊論」の中にすべて含まれてしまうものかもしれません。しかし、私が期待していることは、(日本語に訳されるところの)「伝道」とか「教会形成」というような次元をもう少し超えたところです。「伝道」にせよ「教会形成」にせよ、それらの概念において支配的な視点は「教会の視点」であり「牧師の視点」です。悪く言えば「教会経営者の視点」です。この視点を逆転させてみる。ごく卑近な例で言えば、「教会に行ってみたいが何となく敷居が高いと感じている人々の視点」とか、「教会に通い始めてみたが古参の人々が教会のまんなかにどっかり座っていて新入りには冷たいと感じたので通うのを止めた人々の視点」とか、「チラシをもらって恐る恐る礼拝に行ってみたが、説教が専門用語の羅列でチンプンカンプンだったので馬鹿にされていると感じられて腹が立った。あんなところに二度と行くものかと心に誓った人々の視点」など(他にもたくさんあると思います)。これらの視点から見えるものを「教義学的・実践神学的に」評価していく。そして、もちろん大いに反省材料とする。一方のキリスト者と教会の存在を「外から」見ている人々が持っている真理と他方の純粋神学的ないし教義学的真理との両者は、カントの言葉を借りれば「アンチノミー」(二律背反)であると私には思われます。私が気になっている第二の点は、「(改革派的)霊性の神学」は社会倫理を生み出すことができるでしょうかという点です。ある意味で熊野義孝的な問いかもしれません。これは私が以前から申し上げてきた「現代の改革派神学には一種独特のセンチメンタリズムがある」という意見の裏側にある問いでもあります。改革派センチメンタリズムは、「内面性への引きこもり」をますます助長する道ではないでしょうか。「慰め」も「喜び」も、まことに結構なことではあります。ファン・ルーラーに「喜びの神学」があるという点は、私も声を大にして語りたいことです。しかし、その面ばかりを極度に押し進めるだけならば「自慰的である」との非難を必ず受けるでしょう。純粋神学の砦に立てこもり、自分自身と自説の理解者たちのみを慰め、励まし、喜びを分かち合う。その種の(悪い意味での)「ゲットー化」とはちょうど正反対の道を進んでいくことが我々の課題ではないかと私は考えています。しかも、それを私はあくまでも「改革派教義学」の枠組みの中で考えていくべきであると信じています。