2007年12月30日日曜日

地上の人生には価値がある!


コリントの信徒への手紙二4・8~11

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」

今日開いていただきましたのは、使徒パウロの手紙の一節です。ここに記されています内容は、大きく分けると二つのことです。

第一は、わたしたちキリスト者は、年がら年中、苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒されている存在であるということです。

第二は、しかし、わたしたちキリスト者は、どんな苦しみの中にあっても行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされない存在であるということです。

なぜそのように語ることができるのかについて、今日は共に学びたいと願っています。

第一の点から考えてみます。わたしたちは、なぜ年がら年中、「苦しめられている」存在なのでしょうか。パウロが記しているのは、「苦しんでいる」ということではありません。「苦しめられている」ということです。「被害を受けている」という意味で理解できる言葉です。しかし、キリスト者は被害者なのでしょうか。だれからどのような仕打ちを受けているというのでしょうか。パウロは何が言いたいのでしょうか。三つの可能性を私は考えます。

第一の可能性は、キリスト教信仰に対する迫害者から受ける被害です。キリスト教信仰は、残念ながら、すべての人に受け入れられているものではありません。信じる人も信じない人もいます。信じない人のすべてが必ず、信じる人を迫害するわけではありません。しかし、信じない人の中には、非常に強烈な仕方で信じる人を迫害する人々がいることは事実です。パウロも多くの迫害を受けました。ここでパウロが語っている「苦しめられた」体験は、迫害者から受けた被害のことであると考えることには、何の無理もありません。

しかし、それだけでしょうか。それだけであると考えることには無理があると思います。私が考える第二の可能性は、わたしたち自身が持っている罪と弱さから受ける被害です。別の言い方をしますと、わたしたちの人生そのものが持っている苦しみです。わたしたちの罪や弱さには明らかに、それを持つことをわたしたち自身が願って持っているわけでは決してないという面があるからです。おそらくわたしたちの多くは、罪のない人間でありたい、強い人間でありたいと願っているはずです。しかし、その願いに現実が伴わない。願っていない罪を犯す。願っていない弱さに負けてしまうのです。それもある意味で被害です。聖書的に考えるならば、そのように語ることが可能です。

そして、今申し上げた第二の可能性のちょうど裏側に第三の可能性が隠されていると、私は考えます。第三の可能性とは、そのような、わたしたちが願っているわけではない罪や弱さを、わたしたちが持っている理由は何なのかという問いに関することです。

しかし、罪のほうは、ちょっと横に置いておきたいと思います。今考えたいのは弱さのほうです。わたしたちはなぜこれほどまでに弱い存在なのでしょうか。この問いの答えは聖書に基づいて考えるならば、はっきりしています。わたしたちをこのような弱い存在にしたのは、神御自身である、ということです。

パウロは、わたしたちの肉体を指して「土の器」と呼んでいます(7節)。おそらく意味されていることは、二つあります。すなわち、一つの完成した作品になるまではそれ自体では価値のないものからできているということと、たとえそれが完成した作品になったとしても大事にしないかぎり壊れやすいものであるということです。しかし、いずれにせよ、この土の器は神御自身の作品です。わたしたちの存在は、神の創造作品なのです。

もしそうであるとするならば、第三の可能性の内容は、明らかです。わたしたちを弱く壊れやすい「土の器」としてお造りになった神御自身によって、わたしたちは「苦しめられている」という面が、必ずある、ということです。つまり、私が考える第三の可能性は、わたしたちがそのようなものに造られた神御自身の定めから受ける苦しみです。それも、一種の被害と言えるものです。

病気のことを考えれば、すぐにご理解いただけると思います。病気になりたい人など、一人もいません!しかし、現実のわたしたちは、何度でも繰り返し病気になります。このわたしを、神さまは、なぜもっと強いものに造ってくださらなかったのか、と恨んだことがある方は、多いでしょう。ところが、神はわたしたちを弱いものにされました。「わたしたちは神の被害者である」とまで語ることは、やめておきます。しかし、もし一度でも、自分の体や心の弱さを嘆き悲しんだことがある人は、結局、神御自身の定めを恨んでいるのだ、ということを知るべきです。

しかし、このように考えてみたときに、気になることがあります。それは、第一に申し上げました、迫害者から受ける被害という点に関わることです。あまり考えたくないことなのですが、どうしても考えてしまうことがあります。それは、この被害は、ある意味で、簡単に逃れることができる被害でもある、ということです。

どうすればよいのでしょうか。あまり口にしたくない言葉ですが、申し上げます。迫害者から受ける被害を逃れるためのいわば唯一の方法は、キリスト教信仰を捨てることです。信仰を捨てた人に対しては、迫害する理由もなくなるのです。

しかし、わたしたちは、信仰を捨てることができません。パウロは信仰を捨てることができません。救い主イエス・キリストへの信仰とは何でしょうか。それは、救い主イエス・キリストにおいて神がこのわたしを愛してくださっているということを信じることです。このわたしを愛してくださっている方がおられる、とせっかく信じることができたのに、その信仰を捨てるのは、無駄なことであり、もったいないことです。そのようなもったいないことは、わたしたちにはできません。わたしたちが信仰を捨てることができない理由は、このあたりにあるのです。

ところが、この信仰を捨てることができないために、わたしたちは迫害にあう。これは、ある意味でジレンマです。迫害にあいたい人など一人もいません。それは病気になりたい人は一人もいないのと同じです。わたしたちは信仰を捨てることはできませんが、迫害にあいたくはないのです。両方が同時に成り立つ道を探したいと願っています。しかしそれが、なかなか見つからない。そこにまた苦しみが生じるのです。

ただし、です。私自身は、今申し上げている点に限っては、悪意味での被害者意識などは持つべきではないだろうとも考えております。たとえば、次のようなことを考えてみていただきたいのです。差しさわりが生じないように、私の話をします。

私は自分で望んで、あるいは自分で願って牧師という仕事に就きました。牧師の仕事は、おそらくお察しいただけるとおり、けっこうきついものですし、厳しいものです。しかし私はべつに被害者ではありません。もし私が皆さんの前で「牧師の仕事はきつい、厳しい」と言い出しますならば、そんなに言うならお辞めになったらよいのにと思われるでしょう。実際にそういう面があるのです。泣き言ばかり語る牧師は教会にとって迷惑な存在であるはずです。私はこの仕事をやりたいからやっているのです。やらされている、というような意識は少しもありません。

信仰生活にも、この点では同じことが当てはまります。信仰者たちは、なにもべつに、いつでも必ず被害者であるわけではありません。わたしたちは、信じたくて信じているのです。教会に通いたくて通っているのです。信じさせられているのでも、通わされているのでもありません。きついだの厳しいだの言っていると、お辞めになったらよろしかろうと、周りの人々が言い始めるでしょう。信仰と教会に関する一切の重荷を降ろしてしまえば、あなたは今よりずっと楽になることができますよ、と誘ってくるでしょう。

その声のすべてが悪魔の声であると、私は言いません。もしかしたら天使の声かもしれない。ただし、もちろん、私が皆さんに「お辞めになったらよろしかろう」などとはまさか言いません。信仰生活を続けることが、もし皆さんにとっての何らかの被害者意識の原因になっているというならば、その信仰生活のどこかに、あるいは、通っておられる教会に問題があるのではないかと疑ってみる必要があるだろうと申し上げたいだけです。

しかし、です。ここで考えてみなければならないことは、苦しみのないような仕事は、どこにも存在しない、ということです。あるいは、苦しみのないような奉仕も、存在しません。いや、もっとはっきり言っておきます。苦しみのないような人生は、存在しません。遊びにおいてさえ、わたしたちは苦しむのです。苦しみから逃げようとすることは、そのまま死を意味する、と言わなければならない。それほどにわたしたちは、どこにいても、何をしても、苦しみ続けなければならない存在なのです。その意味では、わたしたちの人生そのものが「苦しめられている」ものです。生きていること自体が、いわば被害です。実際にそういう面もあるからです。

パウロがここに「苦しめられている」と書いていることには、思わず書いてしまったという面があるかもしれません。そんなに苦しいなら辞めればよいと言われてしまう、一つの口実を与えます。ある意味では、迂闊な言葉であると言われても仕方がないものでさえあるでしょう。

しかし、です。わたしたち自身は、もちろん、パウロの言葉を迂闊な言葉であるとだけ言って済ますことはできません。明らかな意図をこめて書いている面もある、とも考えるべきです。それは何でしょうか。

前後を読めばはっきり分かることがあります。それは、パウロが「苦しめられている」姿には、イエス・キリストの苦しむ姿が映し出されているということです!

「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」。この意味は、わたしたち(キリスト者!)が、この信仰のために、この教会のために、あるいはこの社会のために、そしてこの人生そのもののために苦しんでいる姿には、あの十字架にかけられた救い主イエス・キリストの姿が、生々しく映し出されている、ということです!

このことに、パウロは大いに励まされていたのだと思います。わたしたちの姿の中に、イエス・キリストのお姿が映し出されることに、です。あんなに嫌な目にあっているなら逃げたらいいのに、辞めたらいいのに、と周りの人が言いたくなるほどに苦しんでいるのに、いつものように起き上がり、立ち上がり、身支度をして出かける、このわたしたちの姿に、十字架上でお苦しみになっておられるイエス・キリストのお姿が映し出されることに、です!

イエス・キリストを信じる者たちは、イエス・キリストの十字架上の苦しむ姿に、胸を打たれ、心砕かれて、信じるようになったのです。人を愛し、世界を愛し、助けるために命をささげてくださった、その姿に胸を打たれ、心砕かれて、信じるようになったのです。

そうであるならば、わたしたちの結論は、はっきりしています。わたしたちの苦しむ姿に救い主の姿が映し出されるとするならば、そのわたしたちの姿を見てもらうことこそが伝道なのです。わたしたちが苦しむ姿には、人を救う力がある。苦しむこと自体が、価値ある人生なのです。

そのことを信じるゆえに、わたしたちは、行き詰まらないし、失望しないのです。打ち倒されても“どっこい生きて”いるのです。

(2007年12月30日、松戸小金原教会主日礼拝)