カントを「敬虔なキリスト者」や「教義学者」に仕立て上げたいわけではない、と書いたことを少し後悔しています。結論めいたことを書くのはまだ早すぎますし、そうである可能性がゼロでないとしたら、その可能性をチェックリストからあらかじめ除いておくこと自体が「独断論的」態度であろうと思いなおしました。カントは「敬虔なキリスト者」だったかもしれないし、「教義学者」だったかもしれない。そのように考えることにします。
ところで、実を言うと、今日は二つほど私にとって興味深い《発見》があったのです。
第一の《発見》は、熊野純彦氏の『カント 世界の限界を経験することは可能か』(NHK出版、2002年)の69ページ、「神は世界のそとにある。このことは、カントにとって『超越論的感性論』で確立された、空間と時間の超越論的観念性からみちびかれる、ひとつの決定的な帰結であった」という言葉がヒントになって気づかされたことです。
この熊野氏の言葉はお世辞でなく本当に素晴らしい。これほどの明晰なカント解説を熊野氏の本以前に読んだことがありません。熊野氏はあとがきで「かならずしもカント哲学を専門に勉強してきたわけではない」とおそらく謙遜で書いておられますが、カント哲学を自家薬籠中の物にしている人にしか書けないような見事な要約であると思いました。
さて、この言葉から気づかされたこととは何か。カントにおける「世界の外なる神」(熊野氏)とは、あの西暦四世紀のラテン教父にして教義学者であるアウグスティヌスの『三位一体論』の命題、「三位一体の神の外なるみわざは区別されない」(opera Dei trinitatis ad extra sunt indivisa)をちょうど裏側から言っているものではないかということです。
「三位一体の神の外なるみわざ」は経綸的三位一体(economische triniteit)のことであり、神の経綸的みわざとしての「創造」(Creatio)、「贖い」(Redemptio)、「聖化と完成」(Sanctificatio et perfectio)のことを指します。三位一体論の神秘においては、神の「創造」のみわざによって造られた「世界」(mundum)は「神の外」(extra Dei)にある。
この真理は西暦四世紀の神学者が語っていたことです。熊野氏によるとカントの結論は、「神」は「世界の外」にある。「神の外にある世界」(アウグスティヌス)と「世界の外にある神」(カント)という二つの命題は、内容的には全く同じことであり、ちょうど裏側から言い直されているだけのものではないでしょうか。
第二の《発見》は、熊野氏ではなく、20世紀のオランダ改革派教会の「三大」教義学者の一人であるエプケ・ノールドマンスの次の言葉です。
「カントは自然神学、すなわち一般啓示論を批判した」(Kant kritiseerde de natuurlijke theologie, de leer van de algemene openbaring. In: Oepke Noordmans, Verzamelde Werken, deel 3, Uitgeversmaatschappij J. H. Kok- Kampen, 1981, p. 439)。
核心的な事柄を短く一言で言い表せる人が真の学者であると私は思います。熊野氏とノールドマンスは真の学者です。それはともかく。カントがその不可能性を暴いてみせた「神の存在証明」とはすなわち「自然神学」(theologia naturalis)のことである。これは理解していました。しかし、「自然神学」とはすなわち「一般啓示論」(doctrina revelatio generalis)のことである。この点は今日ノールドマンス(の本)に指摘されるまではぼんやりしていたところでした。そう、カントはなるほどたしかに「一般啓示論」を批判したのです。
一般啓示論は歴史上の「改革派教義学」の十八番でした。改革派教義学は16世紀のカルヴァンから19世紀末のアブラハム・カイパーやヘルマン・バーフィンクあたりに至るまで一貫して「一般啓示論」を肯定的に語り続けました。
しかし、20世紀最大の教義学者カール・バルトが「一般啓示論」を事実上否定しました。あらゆる「下からの神学」(theology from below)をバルトは否定したのです。このバルトにカントの強い影響があったことが知られています。面白くなってきました。