2008年1月24日木曜日

若き教義学者へ 追伸

「補助学」(Hilfswissenschaft)としての教会史研究という点について。私の体験から見た問題点は、とっくの昔に語り尽くされていることかもしれません。ちなみに私は、教会史ないし歴史神学の中に「狭義の聖書学」を含めるべきではないかと考えています。聖書学と教会史とに共通する方法論的基盤としての歴史学は、組織神学や実践神学に比べると、学術的体裁を取りやすいものです(事実、現在の日本の神学大学や神学部や神学校の「紀要」に掲載されている論文の多くが歴史学的体裁をとっています)。しかし、まさに学術的体裁を取りやすい分、研究者自身の「実存」がストレートには問われない面があります。「学問の衣」をまとって、シレッとしていられるところがある。語学が達者である。高度で難解な論理を自在に操ることができる。しかし人格的・倫理的には全く破綻している。教会には通わない。そのような「教会史研究者」にも、実際に出会ったことがあります。教義学と実践神学、あるいは両者を合体させた「実践的教義学」は、間違いなく「実存的学問」であると表現できます。「あなた自身は何を信じ、どのように伝えようとしているのか」がはっきり分かるものです。常に闘いの矢面に立ち、あるいは常に十字架の上に張りつけにされているような「学」です。私が出会ってきた典型的な歴史的相対主義者の何人かは、「あの人はこう言っている、この人はこう言っている」と紹介するだけでした。「分かりました。それでは、先生御自身はどのように信じておられるのですか」と質問しても、愚問をあしらうような目でにらまれるばかりで、答えてもらえない方々でした。しかし、歴史研究を「補助学」と呼ぶのは、それを「不要」とみなすことではなく、むしろ「必要不可欠」であり、「助けになるもの」とみなすことでもありましょう。ただ、気持ちとしては、歴史研究の部分を(バルトと同じように)小さなポイントの字で書き、教義学の部分を大きな字で書いてほしい。私が考えているのはその程度のことであり、ある意味で技術的なことにすぎません。