「カントを読もうと考えた理由」の中身を自分なりに分析してみることが、哲学書を読むことを志す人間にふさわしい態度ではないかと考えました。斬新ないし奇抜な分析ができず、月並みなことしか言えなくても、そういうことを気に病む必要はない(たぶん)。
重要なことは、自分の言葉や行為の意味をできるだけ正確あるいは精密に把握しておくことです。そのようにして、自分の言葉や行為に対して、いつでも責任をとれるように(答弁可能な状態に)しておくことです。
間違いなく言える第一の点は、その本を買う前に「カント」という名前を私が知っていたということです。中学だったか高校だったかは忘れましたが、社会科の授業で習ったのが最初です。大学時代にはカントの本(すべて日本語版です)を買い集めた時期もあります。「カント」の名前を学校で習って知っていた。かつては真剣に読んでみようと思ったこともあった。これが、熊野氏の本を買う気になった理由の第一点です。逆に考えれば、学校教育の現場で「教師が告げ、生徒が聞く」言葉はやはり重い、ということでもある。日本でキリスト教の書物がちっとも売れないと言われる原因に「学校で教えられたことがない名前の人の本だから」という点も少なからずあるのではないかと、これから疑ってみようと思います。
第二点は、装丁の美しさでした。つまり「見た目」ないし「外見」です。カント的にいえば「直観(Anschauung)によって直接認識される対象」です。一昨年くらいに出版された竹内一郎氏の『人は見た目が九割』(新潮新書)という本を私も読みました。「本」も「見た目が九割」ではないかと言いたくなります。熊野氏の本は、見た目が美しかった。
第三点は、値段です。定価1,000円(税別)は、カント入門書としては手頃と感じられました。あとは、著者が「東京大学」の先生であるとか出版社が「NHK出版」であるとかいうある面の権威を感じられる要素があることも加えたいところですが、「東大+NHKの最強タッグチームの作品であるゆえに買いたくなった」というわけでは全くなく、「おっ、面白そうだ」と思えた本を買ってみると、書いた人が東大の先生で、出版に携わったのがNHKさんだったという順序でした。「さすがだなあ」とは思いました。