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使徒言行録17・1~15(連続講解第43回)
日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康
「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟たちを町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。『世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、「イエスという別の王がいる」と言っています。』これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取った上で彼らを釈放した。」今日の個所に紹介されていますのは、使徒パウロの第二回伝道旅行の途中に立ち寄ったテサロニケとベレアという二つの町で行われた宣教活動の様子です。パウロと共にシラスとテモテが同行しています。この個所を読んですぐに分かることが一つあります。彼らの伝道旅行には、喜びの面もあった。しかし、苦しみの面もあった、ということです。
最初に紹介されているのはテサロニケの町での出来事です。ここで分かることはパウロが採用した宣教活動の方法はいくらか過激なものであったということです。どこが過激なのでしょうか。パウロがしたことは、ユダヤ人の会堂の中で毎安息日に行われている礼拝に出席し、そこに集まっている人々と聖書の内容をめぐって論争することでした。
言い方を換えれば、このやり方がいかに過激であるかをもう少し理解していただけるかもしれません。パウロはユダヤ人であり、元ユダヤ教徒でした。ユダヤ教の会堂に入り、礼拝に出席することに妨げられる理由はないし、彼にはそうする権利もあったと言えます。しかし、明らかに言いうることは、この時点でパウロはすでにユダヤ教の信仰を持っていなかったということです。キリスト教の信仰を持っていました。つまりパウロは、明確なキリスト教信仰をもってユダヤ教の礼拝に出かけ、そこに集まっている人々にキリスト教信仰を宣べ伝えるという方法を用いたのです。ですから、パウロがしたことは、いわゆる「道場破り」のようなことだったのだと説明することができます。
しかし、その方法は「そんなのひどいじゃないか」と責められなければならないようなことではないと思われます。陰に隠れてこそこそと行ったことではなく、みんなの前で正々堂々と行ったことだからです。いずれにせよ、そのとき行われた論争のテーマは、聖書に記されていることは何なのかということでした。あるいはまた、聖書に記されている言葉はどのように解釈されるべきかということでした。そのような議論が公の場で正々堂々と行われたのです。
その場合重要なことは、とにかくそこに聖書があったことです。ユダヤ人たちとパウロたちとの目の前に置かれていたのは聖書でした。今のように各自が一冊ずつ聖書を持っている時代とは異なります。ユダヤ教の会堂には聖書の巻物が置かれていました。しかし、ユダヤ人の聖書とパウロの聖書は、言うまでもなく同じ聖書でした。別々の聖書ではありません。共通の聖書、その意味での“一冊の聖書”をめぐって、論争が行われたのです。
この観点で私は、現在わたしたちが使用している新共同訳聖書には価値があると考えています。翻訳の内容についての不満は、たくさん聞いています。しかし、プロテスタント教会とカトリック教会が同じ聖書を持つことそれ自体が重要なのです。両教会の違いは、もちろんあります。いまだに非常に違います。しかし新共同訳聖書の誕生によって両教会は共通の一冊の聖書をめぐって論争することができるようになりました。それは、共通の土俵の上で論争できるようになったということです。それは感謝すべきことなのです。
パウロのやり方は「道場破り」にも似て過激なものでした。しかし、それは責められるようなことではありません。考えてよいことは、そこにいたユダヤ人たちも愚かではないということです。もしパウロの言っていることが間違っていると感じたとしたら、人々がパウロたちに従うこともなかったでしょう。しかし、実際には、パウロたちに従って来る人々がたくさん現れました。パウロたちの聖書の解釈を正しいと認めることができたから、その内容に納得することができたから、従ったのです。
しかしまた、パウロたちに従ったのはそこにいた全員ではなかったという点も明らかにされています。これを私は残念なことだったとか、がっかりすべきことだったというふうには思いません。むしろ偲ばれることは、パウロが実際に行った論争の語り口はどのようなものであったかという点です。「反対すれば地獄に落ちるぞ」的な脅迫を交えて押しつけがましく語るというようなことは、パウロに限ってはありえなかっただろうと思われるのです。
重要なことは、とにかくそこに聖書があったということです。聖書に書いてあるのは、文字であり、言葉です。言葉の解釈をめぐっての論争は、冷静な論理を用いて行うことができます。大きな声で騒ぐ必要がない。パウロたちの語る冷静な論理を受け入れることができた人が、パウロたちに従ったのです。しかし、それに納得できなかった人々もいた。それは、ある意味で人間に与えられている自由の要素に属することです。わたしたち人間は、ロボットや操り人形ではないのです。わたしたちには信じる自由も与えられていますが、同時に信じない自由も与えられているのです。この点が十分に了解されているところにこそ、伝道や論争も成り立つのです。
しかし、それはともかく、聖書の解釈をめぐってパウロたちとユダヤ人たちが論争し、その結果としてキリスト教信仰を受け入れることができた人々が多く起こされたことは、宣教活動にとっての喜びの要素です。わたしたち教会の者たちにとって何がうれしいかと言うと、そこに一人でも新しく信仰を受け入れてくださる人が与えられることがうれしいのです。人の数が増えるということももちろんうれしいことですが、もっと重要なことは、この信仰によって救われる人が起こされるということです。この信仰をもって生きる人が増えることがうれしいのです。ところが、パウロたちの宣教活動には苦しみの要素もありました。そのことが続く個所から分かります。
パウロたちを苦しめたものは、何でしょうか。それを一言でいいますと、パウロたちについての全く出鱈目な宣伝と中傷誹謗です。つまり、人間の言葉です。事実に反する言葉であり、悪意に満ちた言葉です。これが、パウロたちを傷つけ、苦しめたのです。
よく考えてみますと、パウロたちが宣べ伝えているのも言葉です。論争に用いられるのも言葉です。それを口で伝えるか、字に書いて伝えるのか。その字を自分の手で書くか、活字にするのか。手紙にするのか、論文にするのか。書物にするのか、チラシにするのか。人に言葉を伝える方法には、いろんなやり方があると思います。
パウロたちに敵対した人々が用いているのも、言葉です。しかし、この人々にとってはパウロたちが問題にしている聖書の解釈などどうでもよかったのです。どうしたらパウロたちがこの町から居なくなるか、この町にキリスト教の影響が及ばないで済むかということだけが、彼らにとって問題でした。そのために、陰に隠れてこそこそと動き回り、政治的な権力までも利用して、パウロたちの口を封じようとしました。
言葉を用いる人間であるという意味では牧師も同じです。そのため、私が心していることは、言葉を用いる人間であるかぎり、正々堂々と公明正大に語りたいということです。それは言うまでもないことです。
しかし、今申し上げた点と同時に考えさせられたことがある。それは、かの有名な諺が言っているとおり、「人の口には戸が立てられない」ということです。この諺の意味は良い噂より悪い噂のほうが伝わるスピードがはるかに速いということです。噂の内容が事実であるかどうかは問題にならない。とにかく面白ければ、それでよい。人の興味を引くことだけが目的の話のほうこそ持てはやされる社会があるのだ、ということです。
しかしまた、明らかなことは、そのような社会の中に、わたしたち自身も生きているのだということです。社会のすべてがこういう人々たちばかりであると言っているわけではありませんが、社会の中には必ずこういう人々がいるということは、わたしたちの体験的事実です。そうであることをわたしたちはよく知っています。
しかし、です。たとえそのことが事実であっても、この社会がたとえどのようなものであろうとも、わたしたちは、この社会の中から逃げ出すことはできないのです。そして、わたしたちはどんなことがあっても「この社会に向かって」福音を告げ知らせ、神の言葉を語り続けなければなりません。その理由ははっきりしています。神の言葉を受け入れず反発する人々も「社会の中に」必ずいますが、神の言葉に飢え渇き、救いを求めている人々もまた「社会の中に」いるからです。そのような単純な事実の前にわたしたちはしっかり立たねばなりません。そこで怯んではならないのです。
ですから、このことを考えるとき、パウロたちの宣教活動には苦しみの要素があったというこの点は、今のわたしたちにとっても何ら変わることがない、言うなれば教会の歴史と共にある、あるいは人類の歴史と共にある、まさに避けがたい現実であったということをご理解いただけると思います。教会と伝道者たちには、福音を受け入れる人も・福音を受け入れない人も共存しているこの社会の前に、勇気をもって立つことが求められているのです。だからこそ、パウロたちの宣教活動にも苦しみの要素があった。その苦しみから逃れる道はなかったのです。
来年(2009年)は、日本にプロテスタント信仰が宣べ伝えられてから150周年に当たります。来年は私ども日本キリスト改革派教会もかかわるいくつかの記念会が行われる予定になっています。最初に来たのは「アメリカ・オランダ改革派教会」(Dutch Reformed Church in America)、今は「アメリカ改革派教会」(Reformed Church in America)と名称を変更している教派から派遣された宣教師でした。
考えてみたいことは、150年前の日本に来た宣教師たちはパウロたちと同じ気持ちだったのではないでしょうかということです。日本に来た彼らの目の前に(隠れキリシタンたちはともかく)キリスト者は一人もいなかったのです!
宣教師たちの側にも、日本で最初に信仰を受け入れた人たちの側にも、さまざま闘いや苦労、悩みや葛藤や失望があったことが知らされています。その苦しみは今のわたしたちに至るまで続いていますし、これからも続いていくでしょう。わたしたちも苦しんでいる。だから彼らの気持ちが分かる。そういう面もあるのです。
しかし、いずれにせよ、はっきりしていることは、もし150年前に宣教師たちが日本に来ていなかったら今のわたしたちはなかったということです。日本のプロテスタント教会は存在しなかったのです。苦しみを味わった人々のおかげで、わたしたちは今、救われているのです。伝道に伴う苦労は、神の恵みなのです。
(2008年1月27日、松戸小金原教会主日礼拝)